Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2005年06月30日(木) |
三上寛・新宿二丁目ライブ『異議ナシ!』 |
自分の名前をひらがなでしか書けなかったころに「のりたま」に偏愛を感じ、 次いで永谷園のふりかけで集めた東海道五十三次から広重へと。そして宗達、光琳へ。 広沢虎造に出会って。義太夫の豊竹山城少掾を聴くばかりになっていた矢先に。世阿弥、を、示唆された。
ジャズはアイラーのボックス以降はアトミック関連とジャレットのソロライヴしか聴いてないかも。
これはまさしくすごいジャズだった。ぼくには。 三上寛・新宿二丁目ライブ『異議ナシ!』■ 車の中で聴く。
深夜。パンツいっちょで、水をあびて、揖保の糸たべる。光ヶ丘のスカイラークガーデンズでパスタとサラダをたべるのはあしたにしよ。 音が出せないので、本を読んで過ごす。
『ためらいの倫理学 戦争・性・物語』内田樹著 『祝祭と狂乱の日々 1920年代パリ』ウイリアム・ワイザー著・岩崎力訳
了解です。スティーブ・ティベッツ。
3ばんめの恋一朗くんの13かいめの誕生日であった。今日は。
メアリーの福島さんと11ヶ月ぶりに会う。世阿弥。水琴窟。高木元輝。
『スマイル』プレミア初日開演前に楽屋を訪ねてきたポールに対して、「今日のコンサートはきみに捧げるよ」と言ったブライアン。 38年。
ほんとうのこと、は、いくらむかしのことでも、ついさっきのように、ぼくのなかに生きていて。
「ランニングハイ」のタイコ。
2005年06月23日(木) |
田中陽子『Invitation』 |
中野のレアRare(中古盤屋)で、田中陽子『Invitation』を3度目の捕獲をする。 同じCDばかり買うのが悪いのかよ。法律で禁じられてんのかよ。
「陽春(はる)のパッセージ」
この歌唱、に、アイドル・ポップの真髄があると、わたし、思うのであります。 いわゆる歌唱力、じゃないわけです。グラビアアイドル(=ルックス)、じゃないわけです。音楽技巧でもなく。 「忘れて 絵の具を借りたこと」 「今 知ってる言葉だけじゃ もう足りない」 この曲が持っていた喚起力といったもの、あえて言えばこの下手な歌いで成立させていたもの、はみでる未熟さ、芯のある性格、とか。
■うええ。動画がこんなところで観れるのかー。
2005年06月22日(水) |
緊急告知、平井庸一クインテット、ライブ!・・・ |
平井庸一クインテット 本日、6月22日(水)池袋・インデペンデンス、にて、ライブ!
こないだは彼らのライブをジャズ評論家の瀬川昌久さん、岡村融さん、佐藤秀樹さんが観に来られていた。 お金にはならないけどがんばってね、と言われたそうで、 リーダーの平井くんは「業界のプロからビジネスにならないとお墨付きをもらえたんですけどねぇ・・・」と、なにお照れておるのか。 その口調からはきみの自信がうかがえるのだよ、わたしには。
ドクタージャズこと内田修せんせい、音楽誌編集者末次安里氏、グッドマン店主、チャーリー・パーカー協会辻バード氏、といった(このラインナップ、すごくないか?)目利きが注目する平井庸一の“Cool Jazz”トリスターノ〜コニッツ〜バウアーの継承。
わたしは彼らが新しいフリーフォームを備えてハットロジーあたりでCDが出てしまうことを心待ちにしていたりする。
・・・などと書いていたら、21日だったのけ?ライブ。
2005年06月21日(火) |
小泉首相は断固靖国神社参拝をするべきである。 |
田中宇(たなかさかい)さんのメール配信ニュース 6月15日配信「行き詰まる覇権のババ抜き」■に、目が洗われる。
2005年06月20日(月) |
兵士に「うるさい」と怒られた男の子を父親が海に放り込んだ |
今朝の東京新聞。「新聞記者が受け継ぐ戦争〜サイパン陥落(中)」という連載コラム。 サイパン島には戦後「バンザイクリフ」「スーサイドクリフ」とそれぞれ命名された崖がある。開戦時、サイパンには約2万人の日本人が住んでいたそう。サイパン祭りの写真が掲載されているが、街並みや祭り行列は日本そのままの風景だ。
軍の玉砕命令が出て、洞窟の中で君が代を合唱する兵士たち。
“兵士に「うるさい」と怒られた男の子を父親が海に放り込んだ。「父ちゃんも後で行く」と叫びながら。”
その男の子に聴こえた「君が代」。
父の日、の、前日である。 父の日のプレゼントは、いいだけ子どもたちにたかられて散財する父親としての歓びを味わうことができる一日、だそうだ。
2005年06月14日(火) |
『NU-TURN / Benoit Delbecq piano solo』 (SONGLINES)2003 |
・・・そいえばマルク・デュクレとジャンゴ・ベイツの新作をレビューしたいんだった。 ・・・並び賞されるべきブノワ・デルベック。2年前のソロCDレビューを発掘したので、いちお。あとでJazz Tokyoに入れてもらお。
『NU-TURN / Benoit Delbecq piano solo』 (SONGLINES)2003
ピアノ・ソロ、とクレジットされているが、プリペアド・ピアノも用いた複数のトラックによる録音で、即興的な演奏でありながら、複数のトラックを重ねることを念頭にした作曲行為が上位概念として意図されている演奏、と言うべきか。音に向かう孤高性において、の、ピアノ・ソロの呼称であろうか。 ここでブノワ・デルベックは、表層的なピアノ奏法の技法を使わない。逸脱さ、破天荒さ、展開のアイディアをまとめる手付き、思いつき、こけおどしの博覧をするようなところはまったく見せていない。“打楽器的なセンス”を静かに、執拗に追い詰めている。ミニマルな痙攣に全身を没入させている。そしておそらく本人も意識しなかったであろう、ラヴェル、ドビュッシー、サティ、プーランクなどのフランス近代作曲家的な響きがサウンドの背後に立ち現れているさまが、この作品の驚異だと思う。ラストの「Into White」(11:12)に至って、デルベックの演奏は意識が遠のくようであり、鬼気迫るようでもあり、その果てにはついに音楽が自律した存在となって演奏者とリスナーを呪縛してどこかへ連れてゆくような事態までに至っている。
フランスの鍵盤奏者ブノワ・デルベックは、93年代にノエル・アクショテ(ギター)、スティーブ・アルグエル(タイコ)とともにリサイクラーズを結成している。このバンドは『Rhymes』『Visit』といった破天荒な傑作をインディー・レーベルdeux Z(ドゥー・ゼット、JAZZの“ふたつのZ”の意)で発表し、当時のフランス・前衛ジャズ・シーンの活況を象徴する存在であった。破天荒さは主にギターのノエル・アクショテにもたらされ、デルベックはセンスと知性といったもの、アルグエルは逸脱を主に担っていたように思うが、98年にアクショテは脱退し自身のレーベルRectangleを運営する一方Winter&Winterレーベルに『Lust Corner』『Rien』といった作品を発表している。アクショテが抜けたあと、マルク・デュクレが加わってリサイクラーズのライブが行われたことがあったが、維持はされなかったようだ。やはりデュクレとは演奏の質量もしくは密度(格とはまた違う)と方向のバランスが取れなかったのだろう。 デルベックのピアノの資質は、ケージ、リゲティ、ナンカロウといった現代音楽にその出自があり、ピアノとプリペアド・ピアノ、そしてサンプラーによる表現を併用する、即興による“打楽器的なセンス”が身上だと言える。その彼が2000年にクインテットで発表した『Pursuit』は、ジャズのフォーマットで問うた傑作(たしかフランスの年間トップの賞を得ていた)であったが、この音楽を“ジャズ”にしていたのはひとりだけ世代が上のベーシスト、ジャン=ジャック・アベネルだった。このクインテットに次なるステージが想定できるものか、わたしは困難を予想している。 彼が安定的に維持できるユニットは、ほぼ感覚的に同じ資質を持つクラリネット奏者フランソワ・ウールとのデュオである。センスの相性がよく、『Nancali』(1997)『Dice Thrown』(2002)の2作を発表しているが、今後も瑞々しさを失わない即興デュオであり続けることは確実なように思う。 デルベックは平行して、サンプラーを用いた表現に比重を置く“Ambitronix”というユニットで若いリスナーにアピールし、また、2001年にはソロで『PianoBook』をリリースした。『PianoBook』は初ソロと言えるもので、彼のセンスがおもちゃ箱をひっくり返すように発揮されている秀作だ。
2005年06月13日(月) |
ミュージックステーションに出演したMr.Childrenが演奏した新曲「未来」 |
この場をお借りして。ううあやBank Bandやジェフベックの公演チケットを提供していただける音楽愛好家の篤志に感謝いたします。
そ。そ。Bank Band、7月に行けるんですよお、わし。篤志のお方に昨夜お会いして、岡村靖幸の「カルアミルク」をお聴かせしました。 オリジナルを聴いてなかったらしく、「おおお。桜井和寿が歌ってもなお、オリジナルを超えられないものなのか・・・。」と感動されていました。 岡村靖幸『家庭教師』に収録されている「カルアミルク」、この楽曲は今なお鮮度を保ったままである。桜井によって再認識させられた、とも。 かのように「カルアミルク」をリレーしてゆくという尊い作用をBank Bandは自覚してもいるのでせう。
さて。先週一年ぶりにミュージックステーションに出演したMr.Childrenが演奏した新曲「未来」。
番組ではトークの背景に映っていた堂本剛の表情・・・。その心境を想う。アイドルとしてではなく、アーティストとしてすさまじい進化を遂げる彼の意識にあったのは目指したミスチル桜井和寿の表現だった。そして現在のJポップシーンでは、堂本の苦悩はまぶしい。
で、新曲「未来」は・・・。 2度集中して聴いたけども、うまく言えないが、ミスチルの過去の楽曲のバリエーションの組み合わせに過ぎないものに聴こえた。 「Any」「Sign」のように、決めのサビが先に出来てから全体を整えた楽曲のように思えた。
(・・・でも、たぶんぼくは歌い慣れて、愛聴曲になってしまうんですー。わはは。)
「口笛」、「Not Found」、アルバム『It’s A Wonderful World』、「蘇生」、「ファスナー」、「Hero」、「くるみ」、「掌」、「タガタメ」、「PADDLE」、「奇妙な夢」、「天頂バス」・・・、この進化・新境地・実験的精神のライン。
なんかの雑誌で桜井くんは、この消費社会にあって「商品を選ぶこと」が地球を左右するんだ、とか。 「タガタメ」が日清カップヌードルのCMタイアップになるのはどーよ、という声もあったが、全体像として観るとき、ミスチルのプレゼンスを果たしつつ、の、戦略であって、単にマクドナルド反対をすればいいというわけでもないのである。ミスチルにとって。 もちろんマクドナルド反対をダイレクトに行動する表現者も現にあるし、それを否定するものではない。むしろ賞賛されるべき。
その意味では。 「世界でひとつだけの花」のジャケに見えるスマップのスポンサー企業の広告群が放つ禍々しさは、むしろ非難されるべきではなく、人々に“禍々しい”と反応させるものとして歓迎されてしかるべきなのである。
愛情ていうカタチのないもの 伝えるのは いつも困難だね だから darling この名もなき詩(うた)を いつまでも きみに 捧ぐ
2005年06月11日(土) |
「ブラックアウト」(『Asian Kanfu Generation presents Nano Mugen Compilation』) |
おれたしか、『リライト』初聴きしたとき、いまいち、とか、書いた過去があるですが、翌日には大ヒット完全体になってましたな。 いや、待った。 アジカンの新曲。 これが『Asian Kanfu Generation presents Nano Mugen Compilation』という、アジカンの新曲1曲だけ収めたコンピレーション! このCDのほかの曲は・・・ほんと要らない。断言する。収録されているバンド、すべて才覚なし。才覚の芽もなし。アジカンに小判鮫して収録される恥というものを知ってほしい。音楽をナメないでほしい。
アジカンの「ブラックアウト」1曲と、ジャケのイラストのために2310円支払ったよ、わたしは。
で、『ブラックアウト』の出来はどうか、というと。晴れた夏の高山で雪を踏みしめながらつんのめりながら走るような、曲だ。歌詞はちと頭でっかちに転びそうなところがあるけど、全然オッケーです。シングルカット水準には、今までのシングルが高水準すぎなのもあるせいか、鼻差足りないかな。アジカンとしての楽曲のワザの引き出しが品薄になってきてるかも。いたしかたなし。
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さて、懸案であった『日本伝統音楽の巨匠シリーズ』25作品のレヴューを粛々と進めたいと思う。
『義太夫 豊竹山城少掾/菅原伝授手習鑑~道明寺の段』豊竹山城少掾
義太夫自体を初めて意識して聴き始めた。古い録音らしいノイズの中から、三味線がすっと気配を立てて音とリズムを放ちはじめる。この導入部を刻む三味線の“溜め”(というのか)を感じる十数秒で、鳥肌がたった。楽器という限定された表現だからこそ、そこに熟達と年輪を、精神のかたちを見ることができることを今更ながらに理解する。そして“声”が始まる。・・・何を言ってるのかわからない以前に、この呻きと唸りと喃語が合わさった“芸術”にたじろぐ。ジョー・マネリが即興で呻いた『Tales of Rohnrief』を想起する。その発音に、モンゴルから伝来したであろうホーメイ唱法の歴史を通過した痕跡さえわたしは視た。日本は文明開化の前にすでに西洋音楽を凌駕する表現を所有していたことを示す国宝ものの名盤だ。このCDはロバジョン(『Robert Johnson Complete Recordings』)のように聴かれるべきだろう。比類なきジャンルの開祖、バッハ、チャーリー・パーカー、レッド・ツェッペリン、広沢虎造、デレク・ベイリー、はっぴいえんど、と、同等に音楽ファンには届けれれるべきである。
おい、まことくん。わたしの日記を読んでオレゴンを買う前に、これを買うべし。
2005年06月10日(金) |
近藤秀秋ライブシリーズ「キャラクテール」全6回 |
来る6月19日から、即興演奏家の近藤秀秋ライブシリーズ「キャラクテール」全6回がスタートする。
#1 6月19日 「音楽と思索:思弁と実践から捉える即興的音楽の可能性」 音楽評論:福島恵一, 北里義之, 大谷能生 他 実演:飯塚知 (sax), 近藤秀秋 (gtr), 神田晋一郎 (pf) 他 open18:30~ start19:00~ charge¥3,000 渋谷公園通りクラシックス:東京都渋谷区宇田川町19-5 山手教会B1 tel 03-3464-2701(hall) 03-3423-6343 (office) http://www.radio-zipangu.com/koendori/index.html
(記述未完につき明日再アップ予定)
ナマコのようにイボイボでヌルヌルな生き物であるわたしたちは食べ物の量に合わせて体が無限に大きくなるもので まわりのナマコとなるべく同じ状態になろうとしてたり食べ物をめぐって競争してたり接合して繁殖してたり互いに食べあったり おおきなナマコ1匹の食べ物で1億匹のちいさなナマコが生きられるのにそうしなかったり ちいさなナマコ同士で食べあったり イボイボを尖らせたり丸めたり ヌルヌル
ヌルヌル
2005年06月08日(水) |
「おっ!ビューだよ、ビューだよ」 |
天才マンガ家・花輪和一の『刑務所の中』を読む。(花輪和一は、なんで刑務所に入っていたんだ?) 受刑者たちの御馳走にありついた時の会話に「おっ!ビューだよ、ビューだよ」とあった。 ビューだよ、というのは、すごい、カッコいい、豪勢である、美人である、といった形容をするときに使われる。 この表現を活字で読むのは初めて。花輪は北海道の刑務所で受刑していたそうである。 先日亡くなった北海道の伯父さんが「おい、まーやん(わたしの幼少からの愛称)、ビューだよ、ビュー。」と、よく言っていたっけ・・・。 ・・・その声と発音のトーンが思い出される。 この“ビューだよ”ということばは、北海道だけの方言かもしれない。
ジャンルやレパートリーという牢獄から脱走してきた演奏家たちは、即興演奏家と呼称される。(おいおい、そんなんでいいのか?)
即興演奏家が放つ自由さといったものは、勝手気まま、奔放、融通無碍に置換されるものではない。 どこか生命の根源に触れるような性質の表現なのである。 ブルーズも淡谷のり子もマタイ受難曲もビリーホリディも高田渡もサイモンとガーファンクルもミスチルもおざけんすらも聴けないくらいに、人生に絶望したり恋人に去られたりカミさんに詰められたり万馬券を取り損ねたりした、そのようなときに。
死なないですむのが即興演奏だ!、という定義を、わたしは1998年にしている。
路頭に迷ったり、工事現場でこごえたり、多少気を病んだり、借金で苦しんだり、家賃を滞納したり、自堕落な放蕩に身をやつしたり、ビートルズの一員になった夢を見たり、ウルトラ万馬券を妄想して5せんえんすったりせずに、なにが人生か。
あれ?・・・。みみっちいか?
2005年06月07日(火) |
GOING UNDER GROUND「同じ月を見ていた」とミスチル「くるみ」の主人公、同一説。 |
手に入れた43型プラズマテレビ画面で見続けるのは・・・GOING UNDER GROUNDの「同じ月を見ていた」のPV。 またです。胸が詰まるです。わし、人間交差点好きだし。連城三紀彦『恋文』で号泣してたし。センチなやろーで悪かったナ。
3月5日の日記にこんなこと書いてた・・・■
ミスチル「くるみ」の主人公はひとりでごはんを食べながら、台所に映ってしまう家族団らんの記憶の風景に泣いてしまう。 一方、ゴーイング「同じ月を見ていた」のカップルが出会ってから結婚まで至る物語り。鉄道や高速道路をラッシュして映すシーンの効果的なこと!駆け抜ける青春、て、もんだ。“出会ってくれてありがとう”、うんうん。そんなレンアイ、人生に何度も起こらんよ。 で、な。 このカップルの行く末が「くるみ」の主人公であったりするところが、人生の深みよ。 「同じ月を見ていた」のPVが「くるみ」のPVに触発されて制作されたことは間違いない。わたしが断ずる。「同じ月を見ていた」がありていなハッピーエンドで閉じている未完成さ(凡庸さ)は、その「くるみ」との接続という先祖返り(痕跡のバトン渡し)をもって補完するしか成り立ちえない(救済されない)、のである。 わかるか。 おい、きいてんのか、かなみけいまこいいちろうきよね。 おとーちゃんとおかーちゃんだってそんな「同じ月を見ていた」頃があったんだべよ。 で、おまいら、生まれたんだべよ。 わかってんのか。
“引き返しちゃいけないよね 進もう 君のいない道の上へ”と「くるみ」では、まさに突如絶叫するかの心境で歌われるのである。 この感情の噴出。
にんげんはわがままのかぎりをつくしてしまうのである。
葬儀屋に勤めていた頃、斎場の煙突から上がる煙のひとつひとつにそういう人生があったことをぼくは想像していた。
2005年06月06日(月) |
音楽劇『幸福の王子』のCD化企画 |
日本を代表するクロマティック・ハーモニカの第一人者・Shima(小林史真)と、『四季・ユートピアノ』をはじめとするNHK佐々木昭一郎演出ドラマでの鮮烈な演技で知られる女優・朗読者、中尾幸世。この二人が、オスカー・ワイルド原作 童話『幸福の王子』をもとに制作した音楽劇『幸福の王子』のCD化企画が立ち上がっています。
今回、この企画を後押しするために、中尾幸世さんのファン・サイト(非公式・未公認)『微音空間』(■)で、緊急アンケートを始めました。下記アドレスがアンケートページです。【アンケート締切は今月6月22日まで】 ぜひご訪問頂き、たくさんのご意見を賜りますよう、よろしくお願いいたします。 (メールアドレス等の個人情報の記載なしでも送信可能な形式です) http://bion.lolipop.jp/cd/ ※ なお、アンケートページ内「アルルカン」のリンク先ではShimaさんの演奏を一部、映像で聴くことが出来ます。
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クロマティがハーモニカを作れるわけではない・・・。
なんか、CD化が署名運動によって叶うの、て、すてきな気がする。よってロヴァ耳日記でもおおいに宣伝したいと思います。 なんか、とっても聴いてみたい気持ちにさせられました。
2005年06月05日(日) |
ECM:70's beauty variations 全10タイトル 2005/6/29発売 |
ECM:70's beauty variations 全10タイトル 2005/6/29発売 UCCE-9048〜UCCE-9057 各\2,345(税込) ★日本独自企画 初回プレス完全限定盤 ECMの初期(70年代)を飾る名盤10タイトルを初の紙ジャケット仕様でリイシュー。 [特長]●オリジナルLPのアートワークを忠実に再現●オリジナルLPのセンター・レーベルをCD盤面に再現 『ソロ Vol. 1 / チック・コリア』UCCE-9048 『ルータ・アンド・ダイチャ / キース・ジャレット&ジャック・ディジョネット』UCCE-9049 『サルト / ヤン・ガルバレク』UCCE-9050 『オープン、トゥ・ラヴ / ポール・ブレイ』UCCE-9051 『クリスタル・サイレンス / チック・コリア&ゲイリー・バートン』UCCE-9052 『トランス / スティーヴ・キューン』UCCE-9053 『ソルスティス / ラルフ・タウナー』UCCE-9054 『ナイス・ガイズ / アート・アンサンブル・オブ・シカゴ』UCCE-9055 『マジコ / チャーリー・ヘイデン/ヤン・ガルバレク/エグベルト・ジスモンチ』UCCE-9056 『ロンリー・ウーマン / オールド・アンド・ニュー・ドリームス』UCCE-9057
ECMレーベルの名刺的な作品『ソルスティス』■を聴いたことのないかたは、この機会にぜったいに買ってください! ヤン・ガルバレク、ラルフ・タウナー、エバーハルト・ウエーバー、ヨン・クリステンセン。この4人による奇跡的な演奏です。
21世紀を迎えた耳で言うならば、“音響”演奏として、すでにECMは70年代に“音響派”のある部分を予見していた、と言いうる。 他のジャンルでは得られないこのサウンドのスペクタクル感。 ECMというのはジャズというジャンルの一地方なのではなく、プログレ(ッシヴ・ロック)の一角であったとも思える。
2005年06月04日(土) |
舘野泉のピアノを聴いた。このひとは楽曲に選ばれたピアニストである。 |
舘野泉のピアノを聴いた。スクリャービンとバッハ。
わたしは即座に理解する。
このひとは楽曲に選ばれたピアニストである。
作曲家が五線譜の上に生み出した音楽という生命体がピアニストを選んでいる、という驚異。
言葉を失う。
2005年06月03日(金) |
Coccoがくるりをバックにシンガーソンガーとして歌う「初花凛々」 |
“ハロー!ハロー!ハロー!” Coccoがくるりをバックにシンガーソンガーとして歌う「初花凛々」は、わたしたちをどのように晴れがましい気持ちにさせるのか。 世界に向かって“ハロー”なんて手を振る小沢健二、さえ連想させはしないか。
わたしは、Coccoの再デビューとして「初花凛々」を聴いたとき、その基調アレンジのギター音に耳が釘付けになった。
「強く儚い者たち」の世界に鳴り響いていたギター音だったのである。
Coccoにとって「強く儚い者たち」という楽曲は、想い続けるレンアイごとにおける、「トビウオのアーチをくぐる」→霊体となった状態もしくは魂だけの状態、つまり死後にまで持ち越すレンアイごと、の世界を歌った、すさまじい曲なのである。彼女の代表曲のひとつと言ってよいと思う。
「初花凛々」における「強く儚い者たち」の痕跡といえるギター音は、ジョン・レノンがほぼ5年ぶりの沈黙を破って80年に発表したシングル「(Jusy Like) Startin Over」のイントロに鉦が3音、これが「マザー」で鳴り響いていた鐘の音の痕跡であったことを連想させる。
Coccoも、レノンも、再生するのである。 この音の痕跡は、アーティストが意識的に、もしくは無意識的に選び取る、音でできた“へその緒”と言えるかもしれない。
2005年06月02日(木) |
『オレゴン/ライブ・アット・ヨシズ』 PJL(MTCJ-6507) 発売日2005.6.22 価格:税込2625円 |
ヤフーミュージック(Yahoo!ミュージック)のCDレヴュー・コーナーというものがあって>■ そこに、こないだ書いたレビューがアップされていた。>■ おおお。なんかいいかんじ、じゃないすか。いいこと書いてんな、おれ。かなみ、きよね、おとうちゃんのこの文章を見てくれ。 Jazz Tokyoに在籍しているとこんないいことがあるのか!うっく、うっく、うっく。
あ。『アート・オブ・インプロヴィゼーション〜キース・ジャレット・ザ・ドキュメンタリー』てゆうDVDが出ているのか。
ジャズや即興のジャンルの新譜はざっくりと言って10枚〜20枚に一枚しか“当たり”がない。そういうジャンルなんである。 いろんなCDに“はずれ”を言いつのることは簡単だし、みんなが読みたいだろうけど、今んとこ、需要がないからやらない。 どのように“当たり”なのか、それをわたしは書きたいと思う。
『オレゴン/ライブ・アット・ヨシズ』 PJL(MTCJ-6507) 発売日2005.6.22 価格:税込2625円
美しい太陽が降りそそぐイタリアのマフィアで有名な島、パレルモ。そこでふたり目の奥さまと住み、創作活動をなされているというラルフ・タウナー(65さい)。彼のソロ・ギター作品『Ana』(1996)『Anthem』(2000)の奥底にある表現の強さは、イタリアの陽光の強さなのだとぼくは思う。そのタウナーが、ポール・ウインター・コンソート在籍時に親分のポール・ウインターから自分のコンポジションとデヴィッド・ダーリングを除いたメンバー3人(ポール・マッキャンドレス、グレン・ムーア、コリン・ウォルコット)を引き連れて70年に結成したのがオレゴンである。で、このオレゴンがヴァンガート・レーベルに残した作品たち・・・を、ちくいち褒めたい、が、ここでは、そのオレゴンの『イン・コンサート』(1975)『イン・パフォーマンス』(1980)に続く彼らの3作目のライブ盤を紹介。84年にツアー中の交通事故でタブラを主体とした比類なきパーカッショニストであるコリン・ウォルコットを失ったオレゴン。後任のトリロク・グルトゥが叩くとオレゴンのスタジオ盤はおおむね歯切れの良いフュージョンに聴こえた(でもいい曲は多いんですぞ)。で、この『ライブ・アット・ヨシズ』。2002年、オークランドでのライブ。このライブの空気の良さ、雰囲気の良さはなんだ。会場はミスター・ヨシが始めた日本食レストランを兼ねたクラブという。パット・メセニーのライブ盤『トラヴェルズ』と同じ空気を感じるぞ。アメリカ大陸の大きな夕暮れを背景にした演奏だ・・・。ライブでのマッキャンドレスの抑制と伸びがすごい、「Distant Hills」の演奏に内在する“回想”の痛みと慈しみ、タウナーとマッキャンドレスがここぞと魅せる「Green and Golden」、・・・聴きながらずっと意識に映り続けている夕暮れの中でこれらの音楽に包まれる。ネイティヴアメリカンのサックス奏者ジム・ペッパーが作曲した「Witchi-Tai-To」がアンコールで奏でられるとき、観客とともに胸が詰まる思いがする。
お。タウナーのこんな記事が>■
2005年06月01日(水) |
アンソニー・ブラクストンが「過去20年に現れた最も刺激的なバンド」と絶賛しているバンド |
あやちゃんのにっきをよんでたら、アーストワイルのにっきがあって、 アンソニー・ブラクストンが「過去20年に現れた最も刺激的なバンド」と絶賛しているバンドがあると! >ウルフ・アイ■
ごおおお。
あわててたまごごはん、たまごごはん、たまごごはん。
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