Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2005年02月22日(火) セシルマクビー

きのうの続き。
スティーブ・ティベッツが欧州の音楽評論においてjazz-improvならぬ、folk-improvという分類にて名指されていたのにのけぞってしまったのは、あれは6年前の有栖川公園にある渋谷区中央図書館の書架であった。

この世のものとは思えない音。

冒険気味に書いてしまうと、おざけんの「天使たちのシーン」の冒頭で感じられる透明であたたかい風。
ジョー・モリスのブルーズと欧州即興のないまぜになったギターのリフによって宙吊りになったジョー・マネリのうた(『Three Men Walking』)。
三善晃のオーケストラ作品がコンサートホールの空気を無重力状態にしてしまう様子。

この世にいられるから聴くことのできる音。

イタリアの即興演奏家にジャン・ジェッビア(Gianni Gebbia)という孤高の存在がある。イタリアアヴァンギャルドの肌触り、トルネードのごとき旋律の奔出ぶり、彼にとって狂気は外側にはない、ケイト・ブッシュは彼に恋をすべきなのだ・・・

・・・ケイト・ブッシュとジョージ・ブッシュは同じ苗字なんだな・・・だからなんだ・・・

だめだ。文章がばらばらだ。

このところリスナーズハイ状態になっている。となりのトトロ「歩こう、歩こう、わたしは元気、歩くの大好き、どんどん行こう〜」とか、バレンボイムのバッハ平均律とか、フォーザベネフィットオブミスターカイトとか、岡村靖幸、Coccoの絵本シングル、高橋悠治のゴルトベルク、レスターヤング、サンボマスター、じゃがたら、などが耳に同時再生されて、すでにiPodを超えてしまっているし、ブランドのセシルマクビーを身につけたなおちゃん(22)に「セシルマクビーのCD聴く?」とジョー・マネリの『Dabenzapple』をみせて「ほらほらこのベーシストがセシルマクビー」・・・

才能のある黒人たちはバスケットかラップに流れているんであって、ジャズにはわずかしか流れてないのでしょう。
『The Documentary / The Game』
Dr.Dre傘下よりの強力な刺客、これまで5度撃たれても(まじで拳銃で)ふてぶてしく生き延びる鋼のワル。子供を抱く笑顔はかわいい。ケミカルの変貌は意外とこの黒人とイスラムの融合しうるサウンドと共通性があるんじゃないか、などと、戦慄を持って聴き、衝動買い。

そだ、書くの忘れてたけど、YOSHII LOVINSONと鬼束ちひろのシングル、たのむわね。
「Call Me」の主体は、やはり“神”なのか・・・。吉井和哉なら許す。
「育つ雑草」なんてカレシにぺろぺろされて濡れて伸びるようなタイトルだわ。


2005年02月21日(月) ピアノの余韻を含めての音楽である・「恋のはじまり/スピッツ」

20年くらい前、ピアニストのソロ公演で、そのピアニストが誰だったか、ジャズかクラシックかも忘れたけど、前の列のひとりの観客がピアノの最後の一音を置いて2秒もしないうちに我先にバチバチと拍手をするのに立腹して、休憩時間の開始とともにその観客の前に仁王立ちして「ピアノの余韻を含めての音楽なんだから、あんたの拍手は迷惑なんだ。あんたは音楽を聴いていない。帰れ。」と苦情を述べたことがあった。

10年ほど前には、拍手が静まるのをみてから「拍手がはえーんだよ!」とコンサートホール全体につぶやいたこともあった。

拍手をいつしようがその観客の自由であろうか。わたしはそうは思わない。

でも。ふたつのコンサートの雰囲気を台無しにしてしまったような気がする。
わたしは我慢すべきだったのだろうか。我慢したら、その演奏が可哀想だ。



アマチュアというのはその原義どおりの「愛するひと」という意味である。
この情熱こそが前世代の専門家たちの狭窄や偏狭や窒息や充血を更新する。音楽は聴くひとのものだ。
エスビヨルンスベンソンもはまあゆもフジ子ヘミングもゆずも湯浅譲二も阿部和重も彼らのものなのだ。



すでに彼が歌うべき大切な歌たちを作ってしまった感のある草野マサムネくんだけど。
「恋は夕暮れ」で鮮烈にかつ決定的に詩的な恋の定義を繰り出したマサムネくんは、最新作『スーベニア』の「恋のはじまり」でこのように歌って隠した牙を見せていた。

「恋のはじまり」
思い出せないのは君だけ 君の声 目の感じ
思い出したいのは君だけ ぼやけた優しい光

この歌い出しは、恋はすでに始まりから懐古であること、出遅れていることの焦燥であることを指している。
恋をする相手はゼロから目の前に現れるのではなく、すでにわたしが出生から記憶する母親のみならず近所のおばちゃんとか友だちの姉ちゃんとか、怖い親戚のおばあちゃんとか、うんこを取ってくれたおっかない保育園の先生とか、いじめていたおおきなお目めのきょうこちゃんとか、場合によってはひどい目にあったいじめっこの憎っくきわたるくんの笑顔なんてのが、正負ないまぜに彼女に向かって投影されて出会っているのである。

よく話してもいないのに相手の性格が正確にわかってしまうという恋特有の様相というのは、互いに相手の「かくかくしかじかな性格であってほしい」という欲望を瞬時に読みあったりしているからである。

手をにぎったり、ほっぺたにキスしたり、大人のキスをしたり、いろいろ接近遭遇する過程というのは、妊娠の相性をタンパク質やDNAレベルで探り合っているという、という科学的な説で納得すると、うまくゆかない恋というのはまったく本人たちの責任なしにうまくゆかなかったりしているのである。

それにしても「君の声、目の感じ」というのはいい指摘なのですね。
文明が発達してメディアが効率的であるのと同時に画一的に欲望を喚起するようになると、近所のおばちゃんとの付き合いとか、親戚とか、個人と地域に根差したコミュニケーションが希薄になるせいで、ばらけた趣味趣向の「君の声、目の感じ」を得がたくなってしまい、それがひいては、先進国における出生率の低下という現象になっているのでしょうか。
隣人を愛せよという警句のグローバリゼーション下における役割りはそこか。うまくできてるな。
生身の人間よりアニメのキャラのほうがリアルだ、と、そういうのはちょっとこまるかも。よ。

さて、次回は、なぜ最初の男の子はお母さん似であり、女の子はお父さん似であることが多いのか、という議論にすすもうと思います。

うそです。



さて、ここまで辛抱強く読んでくれたみなさんにロヴァ耳裏ベストアワード2004ECM奥義部門グランプリに輝いたこの作品をこっそり。

『SELWA / Choying Dolma & Steve Tibbetts』

Like fishermen slowly freezing to death.「釣り人が緩やかに死にゆくかのような音楽」とまでフライング気味に評されたティベッツ。
音楽に麻薬があるとすれば、これもそのひとつ。ティベッツのギター音に導かれる精神的共同体をぼくは23年前から想定している。
この音楽はデヴィッドシルヴィアンや坂本龍一、ラルクアンシエル、クリスチャンフェネスへとダイレクトにつながるものでもある。


2005年02月20日(日) a day in the life

ビートルズの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」、を、日曜の早朝、車がまばらな川越街道を池袋から練馬に向かってハンドルを握って、
しっかりと聴くのは何年ぶりだろう、などと、
歌詞、まだ憶えているなあ・・・、43になってくちずさむ「I read the news today, oh boy」は、少年の映像が息子に代わっていた。

ギターのストロークが眩暈のように耳元で鳴った瞬間に、川越街道のアスファルトがゆがんだ。
晴れた路面の前方も、バックミラーで確認した後方にも車が一台も走っていない。

オーケストラの不協和音、目覚まし時計はミュージックコンクレート、執拗な反復ビート感、リンゴスターの合気道の技のような挿入。


2005年02月19日(土) ケミストリーのどーちんくん

文藝春秋で芥川賞になった阿部和重「グランド・フィナーレ」を読む。
石原慎太郎と村上龍の選評にほぼ賛成。古井由吉ひとりが選考委員になればいいのにね。
文中に無意味に登場するアーチー・シェップのCD『アッティカ・ブルース』、帯付けて売ればいいぞ。

文藝春秋で皇室をめぐってのテキストの中で、長谷川三千子教授の“祈り”についての書き方が素晴らしかった。
よわいをかさねるにしたがってひとは祈ることを知ってゆくのかもしれない、と、ふと思うの。

石原俊主筆のクラシックジャーナル12号を読む。
2004クラシックディスクベストテンの座談会が面白すぎ。庄司紗矢香、バレンボイムのその作品は聴いてないけどおれも予感はしてたし。

鼎談音盤レビュー、やろか。
わたしのスタイルは放浪しては恋して破れてまた性懲りもなく恋をするドイツロマン主義イタリアマカロニ派音楽寅さんでいく。

ケミストリーの完全限定生産盤『hot chemistry』においてどーちんくん(かっこいいほう)が「step to far」(スパイラルライフ渾身の名曲だー)を歌ってるのを知る。
甘すぎるチーズケーキみたいな出来なのだけど、素材(曲)がいいので、すっかり好きになる。


2005年02月18日(金) フジファブリック

別々の3方向から「フジファブリック、いいですよん」主旨が届く。
たしかにね。

トニーオクスレーのこのCD、0てん。
これが94年のベルリンジャズフェスのライブだというのだから。


2005年02月16日(水) 「虹と雪のバラード」

友だちから「虹と雪のバラード」を含む編集CDR『日本のソフトロックの始祖・村井邦彦の世界』(曲目は後日)をいただける予定に。

トワエモアが歌った「虹と雪のバラード」は言うまでもなく北海道人にとって、この大地が、有史以来はじめて世界のスポットを浴びる、変貌する街並みにそそぐ太陽は祝福のまばゆさにあふれた、あの札幌オリンピックのテーマソングとなった歌である。(わはは、すげー表現だし)
日本国における日露戦争の勝利、オグリキャップ引退の有馬記念の勝利、マイルスデイヴィスのベルリンジャズフェスの出演、わたしにとっての長女生誕、ゆうべの南4局リーチ一発ツモ七対子混一色ドラ6トップ逆転、みたいなものである。
胸をしめつけずにおかない記憶を喚起する。

トワエモアの女のくちへのむかつきと男ののどぼとけの突出にのけぞっていた小学5年生だったな、わたしは。
どうして笠谷幸生とジャネットリンが歌っていないのだ!と学級新聞に朱書きして主張した小学5年生だったな、わたしは。

この素晴らしい歌声も。
北海道開拓史における強制労働の実態、朝鮮半島出身の労働者に対する扱い、橋を架ける急所には生きたまま埋め込み人柱としたシーンなどを思い浮かべるに至るに、その声は呻くような呪うような禍々しい通奏低音に蔽われるものだ。
彼らは。

あなたにとって「聴く」という行為は、そんな平たいものなのか。


2005年02月15日(火) ルックスもキャラもサンボマスターな次男

つまり、日記はわたしが記述しているのに、それはやはりわたしではない、という暗闇のような違和感の証左。
暗闇から手をのばせby小沢健二。

中国には、年収1000万円以上の人口が1000万人いる、という。

あ、きよちゃん、というのは、きのう7さいになったわたしのむすめである。父と娘、獅子文六。
きよちゃんは、アヴリル・ラビーンとカレン・カーペンターと周防玲子と田中麗奈をたして3で割った路線を歩む小学1年生である。
あ、4で割らないといけないのか。
6で割ることにして安部なつみとソニンを足そう。よし、そうしよう。

長女はスピッツ好きで、ルックスとキャラはずばりのっこ(Nokko)だな。かわいいんだぞ。で、オタクなんだぞ。
長男はミスチル好きで、ルックスとキャラはおざけん(小沢健二)だな。かわいかったんだぞ。で、文武両道なんだぞ。

次男はサンボマスター好きで、
ルックスもキャラもサンボマスターなんだぞ。父親に似て、情熱に歯止めがきかない性格をしているんだぞ。

ううむ、次男の将来が気にかかる。


2005年02月14日(月) バレンタイン

辻バードさんのご神託にも似た発言群を衛星ラジオで聞いたのが去年の今日だったのね。
バレンタインか。そうか、だからみんな若いやつらは休日申請をしてきたのか、と、当日の深夜に気付くわたしだった。
あの博多弁でキレまくっていたクレームやーさんはおネエちゃん連れているものだから、余計にハードな対応になった。完全なる言いがかりで、「おきゃくさん、警察呼んでいいですか」のフレーズを1年半ぶりに実地で使用することとなった。

気付いたら深夜2時をまわっており、バレンタイン生まれのきよちゃんにお祝いメッセージを伝える機会を失ってしまっていたのである。

じゃがたらのDVDを友だちに頼む。今月はCD屋に出かけているいる暇がない。
ぼくはCD『君と踊りあかそう日の出を見るまで』をサイトに掲げた。
わかるひとにわかればいい、という神経はいただけないと思っている日頃なのだけども、こと音楽になると、これわかんないやつはなにもわかってない、と、とたんに不寛容の精神になる。
それじゃあ永遠に自分にしか出会わないよ、という批判を受けたことがある。その言葉に感謝している。
西尾幹二せんせいの孤独の概念をお守りにぼくはしている。

早朝の第三京浜を横浜から平和台に戻ってくる。
ラジオ深夜便を聴いたり、環八の谷原交差点をKANの「永遠」をかけてくぐったり、T字路を左折してバス停の手前で気功の訓練をしたり。

正月に旅行した風景の中にいまだ漂っている。
荒れる冬の日本海。出雲大社の夕刻の暗闇。温泉宿の駐車した場所。
布団に入って寝入りばなにその場所まで行ってみる。横になってたばこに火をつけて一服してみる。そこの音に耳をすましてみる。

17日にはきよちゃんのバースディディナーに出かける予定。3日遅れでごめんね。


内田樹さんのブログから「同期・時間・コミュニケーション」>


2005年02月11日(金) アルネ・ノルドハイムArne Nordheimのボックスセット33CD

ノルウェーの作曲家アルネ・ノルドハイムArne Nordheimのボックスセット33CD。$166.98なり。17533えん。1まい532えん。29枚目だけ聴く。
なんだかなー。『Listen』つうタイトル。命令形か。バービーボーイズか。あかぬけないノルウェー人、としとってそのタイトルか。しかも顔ジャケ。



新譜は新譜の音がし、旧譜は旧譜の音がするということは、ある。時間をみくびってはならない。

また、CDは手に入れないと聴くことができない。
レンタルにはレンタルの音がし、友だちのCDは友だちのCDの音がし、トースト盤にはトースト盤の音がする。

大嫌いなヤツが大のミスチルマニアだったりして、そいつの聴いているミスチルは、ぜったいにミスチルではない。
ゆずとミスチルが大好きです、と語る20代女性彼氏なしが聴いているミスチルも、ぜったいにミスチルではない。



昨年のベスト5あたりにジャレットの『ジ・アウト・オブ・タウナーズ』を挙げてるとすれば失格扱いとします。いわんや1位おや。
耳がわるいとあきらめて認識するしかないでしょう。ジャズを神とするゴッドチャイルドの立場を憑依すればそうなります。

アイラーの10CDボックス『Holy Ghost』は、英WIRE誌の昨年の年間ジャズベストとして挙げられていました。アイラー存命時の評価のされかたをぼくは知らない。死後の、三島由紀夫の死と重ねられて論じられるアイラー像というのがあった。その残像もあって、やや神格化されすぎているかもしれない。アイラーは根源的にはファンキーだったと思う。音の磁場といったものは、林栄一『音の粒』や高木元輝『モスラフライト』くらいにしか、その後、世に現れたCDでは聴くことができていない水準のものだと思う。

ロスコーミッチェルのソロ3CDは評価4点なれど、これがなんともいい作品なのだ。ロスコーじいさんの仕事場にいて、耳をそばだてている感じ。AECの諸作品やら、Note Factoryやら、を、聴いているひとたちへの老境かくあるべしを伝授してさえいる安堵感あふれる美しさである。“Percussion Cage”というからにはジョン・ケージなのかと思ったら、なんと、単なるパーカッションの鳥かご、なのでした。ロスコーミッチェルが鳴り物に囲まれた鳥かご状のセットに入ってこちらを向いている写真が一葉、ほとんどあちら側に行ったじじいの風情である。そのサウンドは、朋友たちが鬼籍に入ってゆくなか、ロスコーはあの世と交信しながら叩いているかのようだ。こういうものを採点評価するという神経が知れない。おれか。あえて書いた。


2005年02月10日(木) 『日本の弦楽四重奏曲』・『ドアウエイズ』

『日本の弦楽四重奏曲』2CDを聴いて、山田耕筰の作品が、目にしみる。こんな美しさもあるか。専門家はその未熟さをほほえましく思う程度なのかな。

エンリコ・ピエラヌンツィの『ドアウエイズ』
モチアンがからむと、どうしてこうピアニストをいい意味で裸にする演奏となってしまうのだろう。ピエラヌンツィにはわりと折衷的な個性しか感じさせないピアニストのように思っていたけど、イタリアの旋律の豊饒性といった背景を意識してあげると、なかなかに尽きぬ密度を感じさせる指捌きなのに気付く。一部(3曲)にクリス・ポッターが入ってトリオになっている。表題曲は、誰もがモチアンの作曲だと断じてしまうピエラヌンツィの作曲。病膏肓に入り、である。モチアン・ファミリーの逸品と考えていいだろう。

モチアン・ファミリーといえば、筆頭がビル・フリーゼル。
そのビル・フリーゼルの新作がすごいことになっている。みんな、タワーへ急げ!

今日聴いた2枚は採点にはなじまないですー。


2005年02月09日(水) ミスチルの新曲のCF



サンボマスターは11点だぞー。<おいおい。


2005年02月08日(火) 沈黙交易とか・・・

星はかがやく。
今夜もこの寒空の中で夜間現金輸送の仕事をしている若い音楽好きの友人のことを想う。
現金輸送トラックを運転しながら筑波へ向かう高速道路の路面をすべるように。300メートル先の未来を見つめながら、ビートルズとか中村一義や小沢健二のことを話したのだっけ。
あの道、夏には、あちこちの自治体が花火大会をしているのを眺めながら窓をひらいてたばこを吸ったのだっけ。

未来を見つめながら、という行為は、今、行われていて、
過去に聴いたそれらの音楽たちは語られながら、今、聴かれようとしているかのように。

師匠、「ノア・クレシェフスキー/テープ音楽集1971〜1972」、わたしもここ数日聴いておりました。奇遇です。

マークターナーとクンヴーが参加した『Transition Sonic / Matthias Lupri Group』はいいところがなかったな。0点。
高橋悠治のプレイズジョンケージも、私的に堕してて0点。
クリスチャンフェネスの『ヴェニス』は営業戦略上の工夫しかなかった。でも美しいので、5点。
サースティーイヤーでのクレイグテイボーンはうなづける。見よ、これだけの表現能力のある強者たちが抑制を効かせて睨みあうだけで高水準のジャズ盤になってしまっているではないか、さすが、と唸るべし。7点。
工藤静香の「抱いてくれたらいいのに」が有線でかかる。うおおお。懐かしいが、この旋律の過激さ、音階の絶妙、さすが後藤次利!で8点。
デビッドチュードアが音を鳴らしててジョンケージが朗読している2CD、9点。
おざけん『LIFE』、10点。高橋悠治のバッハ、ゴルトベルクも、10点。

10点が最高点。加点的に考察。採点するといいこともあるけど失うものもおおきいのは当然。
高柳昌行の66年録音のタンゴ演奏『THE SMILE I LOVE』(高柳昌行g、三戸部彰vib、荻原栄次郎b、日野元彦ds、佐藤敏夫gというメンバー)は、ほらね、6点。
やっぱライブで接してみたいサンボマスター、『サンボマスターは君に語りかける』は7点。
うーん、それぞれ、やはりジャンルとしての採点が基準となるみたいです。ところがジャンル未定義とか定義不能な音盤があって、そこがおもしろいと個人的には。ジャズとして、即興として、とは測定できない名盤が多数あるのは経験的にはわかってるのだけど、なんとも。

去年謎めいた編集CDR交易をしたあやちゃんと師匠には、って、まだふたりかよ、これからこれから、には、最大級の友情のエールを!



内田樹さんの著書『先生はえらい』の中に、コミュニケーション、沈黙交易についての秀逸な考察があります。

わたしがひとりで音楽を聴くことができないのは、ひとりでは出会えない音楽がそこに存在するからかも、です。相手の審美や言いたいことが予想できてしまうと、その交易は魅力を失ってゆきます。わたしたちの耳が神さまになる必要なんてなくて、多様性に開かれた“界”に舞う、あなたと舞いあう、謎に向かう快楽を最初の傷口にして。そういうもんじゃないでしょうか。音楽とおなじように。

名盤の定義は、内田樹さんが定義する古典への言及
“古典といわれるほどの書物は、小説であれ哲学書であれ、読者に「すみからすみまで理解できた」と決して言わせないような謎めいたパッセージを含んでいます。これはもう必ずそうです。構造的にそうなんです。“
を参照したいけど・・・、音楽はまた違うかな。どうなんだろ。しかし、これほどの炯眼を示す内田樹さん、読んでよかった。

謎を含んでいる傑作と言えばですね、ここ数年わたしが折りに触れ耳をそばだててしまっているブノワデルベックのピアノソロ『Nu-Turn』はかなりの名盤。ケージとヨーロッパが痙攣を通じて交感しているのだ。

ボヤンズルフィカルパシチの『トランスパシフィック』ようやく入手して聴いたです。これも9点は堅い。すごいよ、ボヤンのピアノは。謎めいてはないけど。



うそうそ、みんなうそ。よろこびもかなしみも、みんなゆめのなか。
はしるはしるとおしば、うたううたうとおしば、ひかるひかるとおしば、みんなみんなとおしば、とおしばのまーく。


2005年02月07日(月) サンボマスターに罹患

ふたりの息子からそれぞれ編集CDRをもらう。
長男からは、さらにおどろく選曲によるミスチルコレクション。ミスチルの味わい度においても父を軽く抜き去っているようでまいる。こいつにビートルズコンプリートを渡したらどんな選曲するだろう。ECMコンプリートを渡したらどんな選曲するだろう。
次男からはサンボマスター、バンプ、アジカン、ラルク、ポルノグラフティなどの選曲コンピ。

いや。遅ればせながら。サンボマスターに罹患いたしました。ライブが瞬時に売り切れるわけだ。
ゴーイングアンダーグラウンドの「同じ月を見ていた」とともに、いずれもオザケンの遺伝子が明白に。

柿沼敏江著『アメリカ実験音楽は民族音楽だった〜9人の魂の音楽家たち』(フィルムアート社)
岡崎京子著『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』(平凡社)
内田樹『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)


2005年02月03日(木) 湯浅譲二のオーケストラ作品を集めた日フィルのコンサート

サントリーホールへ湯浅譲二のオーケストラ作品を集めた日フィルのコンサートに出かける。

湯浅譲二は日フィルの「湯浅さんが影響を受けた19Cから20C初頭あたりまでのクラシック作品を1曲演りたいのです」と依頼を受け、バッハの「パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582.」をリクエストした。この曲は、わたし的な感覚で言えばフルート、オーボエ、クラリネットの立ち現れようが聴きどころ、である。そしてそのことが湯浅譲二オーケストラ作品の聴取への補助線になる気がした。

湯浅譲二の作曲のワザ、トレードマークは、ヴァイオリン群の開放弦弓引き奏法、なのであろうか。表現の輪郭をおおう布地の役割を与えられているようである。この布地の表面を耳でなでる快楽が、ヴァイオリン群の生々しいざわめきをライブで聴けることが、価値である。そして、オーケストラ作品のフルート、オーボエ、クラリネットのパートに彼が意識的にもしくは無意識的に表現してしまう欲望もしくはドラマトゥルギーに、ぼくの耳は釘付けになる。このパートの出現はさして多くはない。そしてほぼ作品の後半に位置づけられている。また、ときにそれらは隠蔽されているのではないか。湯浅譲二がフルート、オーボエ、クラリネットのパートのスコアに取りかかる作曲の意識を想像する。

「ヴァイオリン群の開放弦弓引き奏法」は、わたしたちが幼少の頃から映画館やブラウン管で、恐怖映画や怪奇映画のシーンで耳になじんでいる。だから、ぶっちゃけ、映画のサントラを複雑に構成して演奏している、と、つい聴いてしまう。刷り込みというのはおそろしい。現代音楽の世俗化ここに極まれリ、モダンジャズを聴いて「大人っぽーい」としか反応しない女子高生みたいでごめんね。

2002年に作曲したという「内触覚的宇宙V―オーケストラのための」。フルート、オーボエ、クラリネットがさほど顕現しなかった、隠された、ことが、作曲家の苦悩を示すように思えた。焦燥といった肌触りを覚えた。

フルート、オーボエ、クラリネットという補助線、などとは門外漢が思っただけでありますゆえ、読み飛ばし推奨。
いやー、日本の現代音楽、これからマイブームかも。廉価盤でCDがぞくぞく出てるし。


2005年02月02日(水) 胎盤エキス注射

このところ。背骨がいてー、肺がいてー、腰がいてー、風邪ひいたー、ハウスダストに起因する鼻炎ー、花粉症になったー、と、平和台内科整形外科にいくら抗議しても。過労ですねー、煙草の吸い過ぎですねー、筋肉痛ですねー、運動不足ですねー、ストレッチ不足ですねー、はい風邪薬、はい抗生物質、はい胎盤エキス注射、はい電気マッサージ、はい若いおねえちゃんの腰もみー、と、手ごたえがない。

胎盤エキス注射(保険きかない)を背骨の痛みがある箇所に打つと告げられる。こことここの2箇所に打つという。
「せんせ、な、なんで背骨にじかに打つんですか〜?」と、ロスコーミッチェルのNY最強凶悪メンバーによる新録がアイヒャープロデュースでECMからリリースされたときのような聴きたいんだか聴きたくないんだか、打たれたいんだか打たれたくないんだか、よくわからぬ声で。
「あ、直接負傷している細胞の再生を促すんですよん〜。ちょっとチクっとしますよ、痛くないですからね〜。」
(そのチクっとするのが、痛いということではないんですかー!)というひきつった突っ込みと同時に、忍耐体勢へ。
これは細胞再生プログラムソフトのインストールだ、インストールなんだ、綿谷りさちゃんの胎盤なんだ、と、わけのわからん妄想をもって、注射嫌いのわたしは忍耐する。

ディスクユニオン新宿店へ行き、本日発売された大野松雄『電子音響の世界』全3集をゲットしなければならない。先着何十名かには、非売品の大野松雄自身がリミックスアナロクLPが特典として付いてくるのだ。わたしは初回限定とかオリジナル特典とか非売品グッズとかに弱い。


2005年02月01日(火) おやじぎゃぐ

学生が臭せー。惑星は臭せー。木星も臭せー。

学生学生。惑星惑星。木星木星。


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