anxious for Heaven鳥かごなんて、最初からなかった。 |
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2006年10月28日(土) | 遠かった、と気付いてから。(早過ぎる後日談) |
3部作でお送りしました(って軽く言える話でもない) 「まだ、遠かった。」シリーズの後日談です。 シリーズってあなた…連載じゃないんだから…。 こんな事態、連載してたら洒落になりませんから…。 というわけで、いつもの?アホモードに戻ります。 ************************************* 自分の中にエネルギーを向けてしまうと まぁた性懲りもなく、ろくでもないことを考えたり仕出かしたりしそうなため 何かに集中しよう、と思いました。 ちょっと外部から刺激を貰おう、とも思いました。 外に向くことは、身体にとってはとんでもない負担なのですが (薬もあるし、心臓もあるし、何よりこの時期、喘息が辛い) 冬寿とよくよく話してみた結果として出たのが ちょっとここは身体くんには頑張ってもらって 心の方をまず立ち直らせて行こう 身体はどうせ元々悪いんだし、何とかなるから ものすごい理論wwwwwwwwwwwwwww まあ、でも、身体は最悪、入院なり手術なりで治るとして 心が死んじゃった状態じゃ、身体もどうしようもなくなっちゃいますから。 NK(ナチュラルキラー)細胞も動いてくれなくなっちゃうしねv というわけで、積極的に外に出かけています。 電車は無理なので、車で…ですが。 意識をなくしている間に給料日を迎えたこともあり(…お得?) 少しは懐具合にも余裕があったので(既に過去形)。 ************************************* 何をトチ狂ったか、急に「メイクを覚える」と言い出しました、私。 28年間、メイクはおろか、まともなスキンケアさえしていなかった私が、ですよ。 何なんでしょうか、コレは。 まあ、理由はわかるんですけどね。 「手を出したことのないことに手を出すと、集中の度合いが増す」 「そっちに集中していれば、余計なこと(死ぬこと)を考えなくて済む」 何しろ化粧水から揃えなければならないという惨状のため お金は羽根が生えた如くヒラリヒラリと飛んでいきますが (でも節度は保っています、だってどうせ最初は練習だもの) 今のところ、この作戦は成功している模様です。 結 構 楽 し い w なーーーんにもしなかった割に、なのか、だからこそ、なのか 元々肌だけはそれなりに綺麗な状態だったのですが (でもホクロはあるんだよなあ…メラニン怖い怖い) 化粧水、乳液、保湿クリーム、そして伯母から貰っていた プラセンタ配合のクリームなどをパタパタ塗ったり。 「ちょっとほっぺた触ってーぷるぷるしてるー」 などとしょっちゅう言っています。 肉があるからプルプルだとか言わないでねw それはプルプルじゃなくてブルブルだかry リキッドファンデも買いました。 アイシャドウも買いました(茶系グラデの)。 ブラシも数本買いました。 メイクなんぞに縁がなかった割には グロスとマスカラ、下地のクリームやアイホール用の保湿剤を持っていたので (…なんでだろう…まさに宝の持ち腐れって感じだ) 怖々と、そして半分面白がって、顔を弄っています。 化粧水を叩き込むのが趣味みたいになってきました…。 無駄に凝り症。 そして、引越しとともに古い服を処分したりしていたので 普段履けるジーンズがもう1本もないという状態に気付きました(遅いよ)。 たまたま立ち寄ったGAPで目にした G A P 名 物 大 虐 殺 (ありえないセールのこと) が開催中だったため、Myサイズを買い占めてきましたw ヤバいです。何故プロパーの9割引になってるんですかwwwwwwwwwwww 噂は本当だったのね…(大虐殺の噂は知っていた)。 輸入の段階で関税がかかっているため、本当に無駄に高い定価ですが 大虐殺により、11000円ほどのジーンズが1500円以下で手に入るという…。 基本的には、あまり外に出ることのないヒキコモリ専業主婦のため ジーンズにシャツで充分なのですw 服装に全く(誇張ではなく、文字通り)気を遣わないのは変わりないので 無意味に(?)アクセサリー(もちろん自作)にだけは拘りますが。 デートなんてもうする機会がないもん >< 小洒落たお店になんて行かないもん >< ある程度こざっぱりしておけばそれでいいや(・∀・)…と。 でも本格的にメイクにハマってしまったら 服も欲しくなるんだろうか…。 物欲があまりない性格だから、大丈夫だとは思うけど。 お金は貯めたいです(気持ちだけ先行)。 バリに旅行に行きたいので。 そんな感じで、何故か大事件を経てから 急にメイクをし出したという後日談でした。 28歳(…後半年で29だった…)にして1年生。 大丈夫でしょうかwwwwwwwwwwwwwwwww 上達とかそれ以前に 飽 き ま せ ん よ う に 。 とりあえず今は、角栓や睫毛と戦っていれば 生死とかそういったものと戦わずに済みますからwwwwwwwwwww こんな具合なので大丈夫です(・∀・) やっぱり凹んだり泣いたり喚いたりはしますが 大好きなMyオニータマに言われた言葉を胸に。 「ま、どんなに取り繕ってもKyoはKyoなわけだ」 「肩の力抜いてGo!」 |
2006年10月27日(金) | まだ、遠かった。(後編) |
記録として記す日を跨いでしまったら、何が書きたかったのか忘れましたw 単純脳味噌万万歳(∩゚∀゚)∩ ということで以下、シリアスモードに戻って書きます。 そんなわけで、大量服薬をした上、父親と旦那(冬寿)の目の前で コードで首を吊るわ腕は切り裂くわという暴挙に出たのですが 張本人である自分にはほとんど記憶がない、という状態でした。 父親に取り押さえられ、泣き喚いて前述のような言葉を吐いた後 父親はこう言っていたそうです。 「ずっとずっと気に病んどったんやな」 「親と子供の感じ方は違うんやなあ」 「ごめんな」 「冬寿、Kyoのこと、よろしく頼むな」 ************************************* 意識が回復したのは、25日水曜日の午後でした。 火曜日の夕方の記憶は朧にあったので、事態の概要は把握していましたが 何しろ細かいことは、綺麗さっぱり覚えていません。 気がついたら、冬寿は家にいました。 会社は?と尋ねると、こんな答えが返ってきました。 「専務も事情をわかってくれてて、しばらくKyoの傍にいてやれって」 「今の現場が根源になってる部分もあるから、異動になりそう」 「今は会社のことなんか気にせんでええ、奥さんに集中してやれ、って」 「とりあえず、次の現場は、Kyoのパパさんと同じところだよ」 そういうわけで、彼は今月いっぱい「自宅学習期間」という措置を貰い ずっと一緒にいてくれています。 淡々と思い返すことが出来るようになった今ですが (というより、そもそも自分のことはかなり淡々と語れる性質なので) 日が落ちてくると、急激に情緒不安定になったり 日中でも、突然泣き出したりしてしまう状態なので、凄く助かります。 余談ですが、私が泣くのは非常に珍しいことで 15年来の友人すらもが「お前が泣くのを見たことがない」と言います。 ひとりでいても、ほろりともしませんし 映画やテレビや本で泣くなど以ての外…という性格です。 例外中の例外として、冬寿の前では恐ろしくよく泣きますが 恋人だから、夫婦だからという位置付けがそうさせているのではなく 「泣きたかったら泣けばいいんじゃん」 そう軽く言ってくれるからだと思います。 彼がいつも聞き手に回ってくれるのも、一因かもしれません。 ************************************* とりあえず水曜日はたまっていたメールの処理に忙殺されました。 mixiを突然退会したこと、急に連絡がつかなくなったことなどで 何かあったな、と思う友人がかなりいたのです。 それだけ思われるほど、自分が弱いという照明でもありますが…。 そんな中で、ある友人と電話をしていて 「Kyoさん、おかえり」 と言われた瞬間は、不覚にも泣きそうになりました。 生きていて良かったのかな、と思えました。 木曜日の夜、父親に会いに行きました。 謝りたかったのです。 一緒に食事をし、お茶を飲んできましたが その話にはほとんど触れられませんでした。 意図的にスルーされていたように思います。 いつも通りのアホな会話、ボケとツッコミの応酬 そして冬寿の仕事の話などがほとんどでした。 父親と別れ、帰りの車の中で、冬寿にぽろりと本音を漏らしました。 「あんなことする娘じゃないって思いたいのかな」 「嫌われたのかなぁ、避けられたのかなぁ」 「謝りたかったのに、話、させてもらえなかったよ」 「パパは私のこと、やっぱり要らないのかなぁ」 …どつかれました。 「要らなくない。そんなこと絶対思ってない」 「だって仕事で相当疲れてたでしょ?でもお茶まで誘ってくれたんだよ」 「要らない子に、そんな労力使ったりしない」 「きっと、パパさんなりの配慮だったんだよ」 冷静に考えれば当たり前のように理解できる話ですが その時の私は、やっぱりまた錯乱状態になっていて ちょうど荒川を渡る橋を通っていたこともあって 車を停めろ、下ろせ、飛び降りるから停めろと喚いてしまいました。 本当にどこまでも変わらないな、と、今、記していて思いました。 なんて子供なんだろう、と。 結局、火曜に父親の口にした「親と子の感じ方は違う」が正解のようで 私はきちんと話して謝りたいと思っていたし 父親は、まだ不安定な時期に、一部始終を思い出させるのは酷だと思った そんなすれ違いのようでした。 まあ、まだ謝れる、話せる機会はいくらでもありますから。 生きてさえいれば。 ************************************* 全部が終わってみて、ふっと自分の中で浮かんできた想いは 「逝きたい」という積極的な(しかし決して良くはない)想いから 「生きたいとは思えないけれど、逝きたいとも思わない」程度に回復しました。 非常に投げ遣りで、しかも消極的な姿勢だとは思いますが 間違った方向に積極的であるよりは、随分マシではないのかなあ…と。 そんな風に思えます。 なにしろ、喉元過ぎる瞬間は、人より数倍痛覚過多であるかのように もう常人とは思えない発狂具合を示す私ですが 一息吐いてみると、またこうやって淡々と話せる人間なので …言ってしまえば、冒頭の通り、ある部分では単純脳味噌なので そのうちきちんと「生きたい」に回復するのだと思います。 ************************************* 心配してくれた友人や 事情を全て飲み込んで、暖かい配慮をくれた冬寿の会社や そして何より、父親と冬寿がいたから、いるから また、なんとかアホな日々を過ごしていこうかな、と思えそうです。 きっと私、根は明るいのでしょう。 …はいソコ、いつも明るいだろうとか言わないのwwwwwwww 悩む時は凄く悩むんだからwwwwwwwww 「何してたって全力投球するんだもんなあ」 「良い方にも、悪い方にもさ」 という冬寿の言葉が胸にぐっさりと突き刺さります…。 顛末としてはこのような感じです。 死ぬということが安らぎだとは欠片も思っていませんが (ゼロに返ることが、あの世とやらが安息の地だとは思えません ドコにいたって絶対苦しい思いはするんだもの) 今の私にとっては 死ぬということは まだ、遠かったようです。 次は後日談(というほど日が経っているわけではない)になります。 ちょっとした変化が現れたものでv 今日(27日)気付いてショックだったのは 限定モノの吉野屋の丼が2つとも割れていたことでした orz 焼鶏丼の丼は非売品なんだよぅ…。 なんでよりによってそれを叩き割るんだよ自分…。 どうせなら100円均一の皿を割ればよかったのに orz 変わってないですね私w |
2006年10月26日(木) | まだ、遠かった。(中編) |
「まだ、遠かった。(前編)」の続きになります。 火曜日の記憶ももちろんありません。 当たり前です、どれだけ薬飲んでるんだって話ですから。 ただ、この日のこと、所々だけは覚えています。 ベッドの傍ら、見守るように座っていた、父親と冬寿。 食べたであろう、コンビニ弁当のカラが入っていたビニール。 ふらふらと1階への階段へ向かったこと。 ピンク色の剃刀を力いっぱい引いたこと。 予想外の出血に少し戸惑ったこと。 ここからまた伝聞が主になるし、伝聞の「元」が今さっき就寝した為(苦笑) 時系列が曖昧になってしまうのですが。 冬寿の名前を叫んだことで異変を察した2階の2人が駆けつけたときには 左腕から大量に血を流して呆然としていたそうです。 すぐに父親がタオルで傷口を圧迫して止血をし ふゆが「キズパワーパッド」なる優良品を探し出してきて貼って。 (切り傷によく効きます、かなり治りが早くなります) 2階に戻って、散々泣き、喚き、暴れたそうです。 手元にあったコードで思い切り首を吊りもしたそうです。 すぐ取り押さえられたようですが。 以下は冬寿から聞いた言葉と、自分が言った覚えのある言葉と 言いそうである(心にずっと持っていた)言葉を、そのまま記します。 あんたたちのせいで、あんたたちのせいで あたしはずっと大人になれなかった お金のことも、離婚のことも、全部メッセンジャーさせられて 中学生になるかならないかでそんな役割持たされて パパにもママにも、どっちか片方にしか味方することがないように 必死でパイプ役頑張って、言いたいことが言えなかった パパに味方したらママが傷つく ママに味方したらパパが悲しむ だから自分の考えも気持ちも殺して、ただメッセンジャーに徹して でも一緒にいるときはすごい子供のままでいようって思って あたしが子供であり続けたら、パパとママもいつか いつか仲良くなってくれるかもって馬鹿なこと考えて だから過剰に子供でいよう子供でいようって メッセンジャーさせられてるときの大人の自分と 家族を繋ぐ為の「子供」っていう存在でいなきゃいけない自分と いつも悩んでた、いつも苦しんでた、いつも乖離を感じてた 頑張っても頑張っても、もう無理ってくらい頑張っても パパとママは上手く行かなくなって 離婚の時のお金の話も全部メッセンジャー役やって パパから聞いたことをママに、ママから聞いたことをパパに持っていって ボロボロになったのに あたしはパパもママも好きだったからボロボロになったのに 「あんたが頑張らなかったから親が離婚したんだ」って近親者に言われて まだ足りないまだ足りないってずっとずっとずっと認めてもらえなくて あたしの心は12歳のあのときのまま成長を止められてるのに 頭の中身ばっかり、知識ばっかり、理論ばっかり大人になって それでこんな歪んで、ありようがわからなくてこんな病気が再発して あんたたちが、あんたたちが あたしを子供のまま押し込めたくせに あたしを無理に大人にしようとしたくせに ************************************* 書いていて思い出しました。 凄く辛かったこと、何より辛かったことの一番は 私は父親も母親も好きだったということ。 優劣なんてない。 父親のココは好きでココは嫌い、母親のココは好きでココは嫌い そういうものは確かにあるし、割と本人にも口にしますが そこに優劣なんてものは存在しなかったんです。 私が一番大事にしていたのは、弟でした。 「私はママの血を半分、パパの血を半分引いてる。 ママとは半分しか繋がってない。パパとも半分しか繋がってない。 弟はママの血を半分、パパの血を半分引いてる。 私と一番、血の配合が近いのは弟なんだ。 だから(両親の仲が)どんな結果になろうとも 私はどっちの味方もしない、弟のことを一番に考える」 私はたぶん、自分で自覚していた以上に「血」に拘る子供でした。 人間の体のいたるところ、隅々まで毛細血管が走っていて そこには脈々と血が流れ続けている。 生命活動を続けている限り、身体は「血」に縛られているのと同じで。 だからこそ重く、疎ましく、逆にだからこそ、大事で、愛しくて。 私には、半分しか血の繋がっていない父親の、そして母親の どちらかしか選ばないという生き方は出来ませんでした。 どちらかしか選べないと言われれば 弟と話して、彼にとってより良い選択肢を相談し、決めた後 自分は死のうと思っていました。 18のときでした。 ************************************* 自分が「愛らしい、そして少し小憎たらしい子供」であれば 「子供」を中心に、家族は纏まっていられる、そう思っていました。 だから、必要以上に子供であることを、身に纏いました。 必要以上に子供である為には、まず、大人でなければなりませんでした。 演じている「子供」になど、いつか綻びが出来てしまうから。 だから、完全に「子供を演じる」為には、大人にならなければなりませんでした。 同時に、理性あるいは知性と言動と、その根幹となる論拠を確固として持つ そんな大人であれば、両親の間に立って、仲裁なり何なりが出来る そして私よりまだ幼い弟を見守り、あるいは手助けが出来る そう思っていました。 だから年齢不相応に「必要なもの」を磨きました。 でも、それもまた、「演じている大人」でしかありませんでした。 本当の私は 自分勝手な割に妙に物分りがよく 別段子供子供した言動をするわけでもなく 別段年齢不相応の弁舌なり論拠を持っているわけでもなく ただ、「もっと好き勝手に生きたいなあ」なんて思っている 年齢相応の、思春期のはずでした。 「Kyoさんには思春期がなかった」 主治医にそう言われたことも思い出します。 それが私の抱える(精神的な)病気の根本のひとつである、とも。 思春期、あるいは反抗期というものを経ずに 正確にはその時期に 「子供の演技」「大人の演技」を使い分けることしか出来なかった私には 12歳から20歳くらいまでの情操というものが育ちませんでした。 「Kyoさんと話しているときの違和感はきっとそこだね」 …そうだと思います、8年分、すっ飛ばしてますから。 「Kyoさんは時折、30歳近い頭脳を持った、ただの子供に見える」 「おなじくらい、10歳くらいの情操しか持たない、立派な大人に見える」 12歳から20歳までは、そうやって「大人と子供の使い分け」をすることで なんとか自力で物事を捌いてきました。 でも、「足りない足りないまだ足りない」「お前のせいだお前のせいだ」 それを近親者から言われたことによって 私はもう、「使い分け」では対処しきれないことを知りました。 6歳から抱えていたと言われる病気の再発でした。 自分の中に、身代わりを立てました。 立てるというのもまた、正確な表現ではありません。 それは能動的な所作ではないから。 「大人の自分」も「子供の自分」も、自分でした。 はっきりと自分の頭で考え、状況を読み、どっちの行動をするべきか選択する。 それは間違いなく、自分で行ったことでした。 だけど、「身代わり」は違いました。 それについては省きます。 ************************************* その時期、父親とはもう離れていました。 12歳から別居していたので今更ですが、離婚が成立してから後は 数年に1度会えれば上々かな、くらいの頻度でした。 メールなどでのやりとりはしていましたが。 だから、父親は、私の「そのこと」をあまり知りませんでした。 幾度となく自殺未遂を図ったことも ICUで心電図、人工呼吸器、カテーテルと管だらけにされたことも 「身代わり」の存在も 2年半以上もの間、入退院を繰り返していたことも 全くではありませんが、それに近いくらい、知りませんでした。 そして私は、それを父親には見せたくないと思っていました。 メッセンジャー役をやらされていた頃 「お金は?」とそればかり言わされて 母親の目のあるところで「元気にしてる?」なんて些細な近況も尋ねられず 事務的な話ばかり、しかも決して明るくない話ばかりしていたことに ものすごい罪悪感を感じていました。 もっと健康も、生活も、気に掛けてあげたかったのに、と、後悔していました。 電話がかかってきたと思えばそんな話にしかならない… そんな娘が疎ましくなかったんだろうか? 嫌いにはなりきれなくても、疎ましいと思っていたんじゃないだろうか? そう思っていたから これ以上疎まれたくなくて これ以上嫌われたくなくて これ以上距離を置かれたくなくて 病気に纏わる話は出来るだけしなかったし そういう「病状」を見せたくありませんでした。 大量服薬の副作用で錯乱したり 目の前で腕をぶった切ったり コードで首を吊ったり 死んでも、本当に死んでも見せたくありませんでした。 だけど、23日からの3日間で 見せてしまいました、一番近い位置で。 見せてしまいました、その全貌を。 |
2006年10月25日(水) | まだ、遠かった。(前編) |
近況報告としてしか機能していないこの日記ですが またろくでもない近況報告になることをお許しください。 自分と、自分の大事な人(たち)に向けたものになります。 しかも超ロングロング日記ですwwwwwwwwww 最近アフォで通っている私としては、文体も超シリアスですwwwwwwwww 転職した冬寿は勤務がありえないくらいにめちゃくちゃで 毎日8時半には会社に着き、帰りは23時50分の電車に乗るという生活でした。 毎晩、0時半過ぎに最寄ではない駅まで迎えに行くという始末。 一度、自宅のある市内を走る路線の終電に間に合わず 深夜1時の東京駅で足止めを食らうという事態もありました。 (そのときは東京駅まで首都高を飛ばして迎えに行きました) 当たり前のように、1日は24時間ですが 7時半には家を出、翌1時にしか帰宅しない彼とは、すれ違いばかりでした。 すれ違いという表現は正しくないのかもしれません。 ただ、家にいる時間は1日6時間で、毎日4時間半から5時間睡眠をとると 余る時間は1時間から1時間半しかありません。 そしてその間にも食事をしたり、入浴をしたり…という行為は行うので 実質、1日に30分も会話が出来れば上出来、そんな生活が続いていました。 救いだったのは、お互いの気持ちが離れなかったことだけだと思います。 それが一番重要なことだとは思いますが。 (そこには好意だとか愛情だとかと同等か、もしくはそれ以上の 依存なり必要性なりがあったことも認めます) そんな生活が続き、睡眠導入剤を飲まなければ眠れない私は 「深夜1時前の迎え」「その後の食事の支度」 「翌朝の食事とお弁当の支度」「7時半には駅まで送る」 これをこなす為、一切の睡眠導入剤を絶った結果として 1日1時間半睡眠が約1ヵ月半続くという荒れようでした。 きっと他にも積もるものがあったのだと思います。 長年の家族との確執だとか。 (注として記しますが、とても仲は良いのです。 ただ、両親の金銭問題から離婚の調停に至るまで、全てに於いて メッセンジャー的な役割を果たすことへの疑問や不満が積もっていました) 疲れきっていて、「そろそろ死んでもいいかもなあ」などと思ったりもしました。 実行できなかったのは、20日から遊びにくる友人との約束があったから ただそれだけでした。 初上京し、気の張る「仕事」を終えた彼女と、22日、お台場に行きました。 彼女は6つ、歳の離れた「同級生」です。 (2校目の大学=通信に通いつつ、仕事をしつつ通っていた専門学校の同期) 二人で慣れない街をきゃいきゃいと言いながら歩き 完全におのぼりさんと化してフジテレビの展望室に行ったり。 帰りは、どうしても臨海副都心の夜景を見せてあげたくて 水上バスの日没後の便に乗ったりもしました。 彼女とはいろいろな話をしたのですが 「○○ちゃんは妹みたいなものだから」という私の言葉に 「ホント?Kyoちゃんは○○の『おねぇ』って思っていいの?」 という彼女の言葉がとても心に刺さりました。 夜景を見たかったのは、本当は私だったのかもしれません。 夜景が綺麗だな、と思いながら、実はそのとき、私の目と気持ちは、もう 「死ぬ」ということばかりに向けられていました。 彼女を浜松町まで送った後、少しだけ電車内で涙ぐんだりしました。 冬寿は、土日の両方とも休日出勤で もちろん帰りは、終電でした。 月曜日は代休だということで、ゆっくり出来る予定でした。 その日は、睡眠薬を少し多めに飲んで、眠りました。 30錠ほどでした。 記憶では。 ただ、こっそり隠し持っていた、かなり効力の強いものを飲んだこともあり 断薬期間を挟んでいたことも重なって 私には月曜日の記憶がありません。 ここからは冬寿から聞いた話が主になりますが どうやらほぼ一日、寝ていたようです。 夜になって、彼は上司(実は私の実父です)と仕事の話をしに行く、と 家を出ました。 しかし彼は、途中で家に引き返してきました。 「今から薬を飲む」 私が電話で、そう、言ったそうです。 「Kyoと電話が繋がらない、なにかあったのか?」 父が電話で、そう、伝えたそうです。 帰ってきた冬寿が見たのは、何故かダイニングで倒れている私でした。 そう連絡を受け、程なく、父親も電車を乗り継いで駆けつけました。 冬寿と父親がふたりがかりで、動かない私を2階の洋間に運び 客用のベッドに寝かしつけました。 私は何かわけのわからないことを言いながら、しきりに暴れていたようです。 父親が必死に押さえつけていた、と聞きました。 きっと、そのあと、寝たのだと思います。 父親は家に帰り、冬寿も少し安心したそうで、和室の自室で眠りました。 この日、飲んだ薬は、手元にある空ケースが確かなら 50数錠だったと思います。 明けて火曜日。 冬寿は 「薬が効いて眠っているんだろう、目が覚めればもう大丈夫だ」と判断し また、仕事が溜まってもいた為、普通に出勤をしました。 私は寝込んでいるので、当然送り迎えはしていません。 昼近くになり、様子見の為に電話した冬寿が聞いたのは 錯乱していた私の発する、わけのわからない言葉でした。 彼は仕事を午前中で切り上げ、急いで帰宅しました。 冬寿の帰宅が13時。やはり連絡を受けた父親が駆けつけたのが15時。 私はまた、…「また」ばかりですが、三度…薬を飲んでいました。 そして、眠っていました。 この日、飲んだ薬は、正確な数がわかりません。 自分でそうしたのかなんなのか、薬のシートは 綺麗にポーチにまとめられていますが …幸せであろうとなんであろうと、どこかで希死念慮を捨てきれない私は 実はこっそり、シートから出して小瓶に詰めた薬を所持していました。 それがすっかりカラになっていたのです。 ポーチの中には70数錠分の空シートがありました。 小瓶には、少なくとも30錠以上の薬があったはずです。 だから、この日飲んだ薬は、おそらく100錠以上あったのだと思います。 よく考えたら、日曜から火曜までの3日間で、200錠ほどの薬を 「大量服薬(オーバードーズ=OD)」したことになります。 これは、2003年の入院明け以来、到達したことのなかった数字です。 (到達っていうのも変かな…なんか偉業じゃあるまいし) そして、この200という数字は 2001年の入院前、「もうこれは閉鎖に入れるしかない」と判断される直前 ODを何度も何度も…それこそ月に2回ペースでしていたころの その「1度の(大量)服薬数」と同じ、でした。 |
2006年10月16日(月) | |
ただ単に甘やかすことが愛情だとは思っていない ただ単に気遣うことが愛情だとも思っていない 最近 かなり頻繁に、怒声を浴びせたり これでもかというくらい否定をしたり ときには頬を思い切り平手打ちしたりする 気遣って優しく接するだけ、だとか 相手の気持ちを酌んで言葉を選ぶだけ、だとか そんなのが果たして『良い事』なんだろうか そんなのが果たして『尽くしている事』なんだろうか 違うだろどう考えたって 尽くすってのはただ、相手に低姿勢で対することでもなく 尽くすってのはただ、包み込むように存在することでもなく ましてや相手の想いに叶うように接することなんかでは絶対になく もっと強いものだと思う 少なくとも私は、ね だから 甘えてんじゃねーよ!と怒声を浴びせる 馬鹿じゃねーの?と否定をする いい加減にしろ!と平手を見舞う ただ、言いっ放し、やりっ放しには絶対にしない 何に対して甘えているというのか 何を指して馬鹿だと思うのか どうすることがより良い選択なのか それを伝えることだけは絶対に中途半端にしたくない 人前で しかもあまり見られたくないであろう人の前で さっき、思い切り平手をお見舞いしてきた しかもわざわざ引き摺りだして …双方から了承はとった、けど 奮起させるためには 吹っ切らせるためには あえて人前での恥辱が必要だ、と判断した 私と二人の空間で、時間で、いくらブン殴ろうとも それは『二人の間』での出来事でしかないから 見届ける第三者を立てた 悔しい? …うん 恥ずかしい? …うん いじけた? …ううん なら、それでいい、おやすみ …おやすみ 怒声を、否定を、平手を浴びせるたびに 自分が少しずつ損なわれていく気がする だって本当は 褒めたい、肯定したい、頭を撫でたい でもそれは『逃げ道を与える』ことにしかならない 今は逃げちゃダメだろう、そう判断している だから 逃避の手助けはしない リラックスする手助けはする 倒れそうなときに受けとめる手助けは厭わない ただ、ね 抱き留めはしても、そして撫でてあげはしても それより後ろに退がることは許してやらない 倒れて頭打って死ぬことにだけはさせないから クッションくらいにはなるから 回復するまで膝くらいは貸してやるから 前に進むのは辞めるなよ、と 平手を打たれた頬は痛いし、腫れるだろうけど 平手を打った手のひらだって、痛いし、腫れるんだぞ 絶対に、絶対に 『欲しい答え』だけ与えるだなんて そんな存在になんてなってやらないから ツンデレ(ツン:デレ=9:1)でも構うもんか! 口当たりのいい、穏やかな愛だけなんて与えるもんか! |
2006年10月03日(火) | ぐっちり |
状況が辛い。 んー、『らしくない』気もするけど、とても本来の自分らしい気も。 潰れかけているときほど、さらりとしてしまう。 弱音なんか、本当の弱音なんか 冬寿の前で以外、吐いてたまるか。 他人に弱音をぶつけることで、立ち上がろうとしている。 やられた方は、八つ当りと何ら違いがないだろうけど。 でも最近はそれすらしていなかったように思う。 真面目すぎて融通がきかないから、周囲がイライラするんだよ? と、冬寿に言ったけれど、融通がきかないのは自分も同じだ。 自分自身に対してだけ、やたらと意固地になりたがる悪癖。 彼が潰れる前に自分が潰れたいと思うのは 体裁であり、意地であり、経済的な打算でもある。 彼が上手く立ち回れるようにという目論見でもある。 でもそれは死ぬほど、そう死ぬほど自分勝手な思い込みで 私が潰れたら、冬寿、絶対上手くなんか立ち回れない。 私の計算通りになんか立ち回れない。 それほど器用でもなければ図々しくもないということは よくわかっているはずなのに。 むー。 父親から気遣われている、と聞いた。 でも、台所に立って料理なんかしているうちは きっと大丈夫だと思われているんだろう。 父親は私の『底辺の時代』を知らない。 冷静に自分を省みたら その頃よりも悪い気がしてならない。 表に出さない分、鬱屈したものがぐるぐるしている。 行き場をなくしたら、自分にしか向かないって 悪いスパイラルにしかならないって知っているはず。 誰よりも自分が。 車の助手席に座っているときは、妙に冷静だ。 何故か一番、物事を、自分を、客観的に観ることが出来る。 かなり薬を飲んで運転したら、道に迷ってしまった。 どこにいるか、というレベルではなくて どこを曲がったかも忘れていた。 それでも割に正確な方向感覚が、目的地の位置を示していた。 駅まで辿り着いて彼を待ったけれど、寒気が止まらない。 飲み過ぎた所為で、頭が重い。 なのに、全く眠気が来ない。 睡眠薬だぞ睡眠薬、眠くならなくてどうするんだ。 4シート以上も飲んでるのに。役立たず。 まるで自分みたいだ、そう言ったら叱られた。 …しばらく抜け出せそうにない。 それでも笑ってしまうのが目に見えている。 根が楽観的だから笑えるのか、意地になっているだけなのか。 冬寿は、私が無理をしている、という。 思い詰めている、という。 最近は、自分自身よりも、彼の方が私をわかっている気がする。 なんだかなぁ。 逆も同じだけど。 とりあえず体を労りたい。 自宅の階段の昇降だけでブッ倒れそうになる現状は改善したい。 同時に、ぱぁっと気晴らしをもしたい。 散財したいけれど、現実的な面を考えてしまう。 ので、財布の紐は硬い。 彼のシャツやネクタイは必要なので、それで満たしてくるかな。 |
一緒にいられると思ったのは たぶん、間違いじゃない。 |
written by:Kyo Sasaki ☆メール☆ |
かこ : りすと : みらい |
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