橋本裕の日記
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2008年02月29日(金) 犬に鏡を見せる

イソップ物語に、肉をくわえた犬の話がある。肉をくわえた犬が橋を渡りながら下を覗くと、そこにやはり肉を加えた犬が写っていた。そこでこの犬は、その犬の肉も欲しくなり、「ワン」と吠えかかった。そのとき肉が口から離れ、川の中に落ちて流されてしまったという話だ。

一度聞けば印象に残るので、だれしも「ああ、聞いたことがある」と思い、この欲張りで間抜けな犬のことを笑いたくなるのではないだろうか。これは犬を欲張りな人間にたとえた寓話だが、なんだか実際にありそうな話である。

犬を飼っていたころ、犬の習性を観察したが、鏡を見せて、その反応を見るということもした。鏡を近づけると、わが愛犬リリオはちょっと興味深そうに覗き込んだが、それからすぐに眼をそらして興味をなくしてしまった。

インターネットで調べると、鏡にうつった自分を他の犬だと勘違いして、吠え掛かることがあるようだが、わが愛犬は「なんだか変なものがみえるぞ。なんだいこいつは。まあ、どうでもいいや」という、投げやりな反応だった。鏡に写った像を自分だと認識しているようではない。

そこで、玄関口にある大きな鏡の前に行って、リリオを抱いた私の全身像を写してみた。そしてリリオに、「ほら見てごらん。私とお前が写っているよ」と注意を促してみたが、これもほとんど反応しない。

つまり、我が家の愛犬は、鏡に映った自分の像にはほとんど興味を示さなかった。鏡に映った像が自分だという認識もないのだろう。リリオは頭がよく、いろいろな才能を示して私を楽しませてくれたが、鏡の実験だけは拍子抜けだった。


2008年02月28日(木) 心のなかの明鏡

自分の姿を知るために、私たちは鏡を見ればよい。しかし、鏡のない時代、私たちはどうやって自分を認識していたのだろう。ひとつの方法は水溜りを覗き込むことだろう。つまり水面を鏡のかわりとして使えばよい。

その他に、太陽に背を向けて立てば、足元から影が立ち上がる。あるいは壁に自分の等身大の影を写すこともできる。私は毎朝散歩しながら、自分の影を観察している。そして、足の運びや姿勢の点検をしたりする。

しかし、私が自分を認識するのは、鏡や影からだけではない。もっと大切なものがある。それは他人の私を見る眼である。周りの人たちが私を見る表情や態度を読み取ることで、私は自己認識をつくりだす。つまり、他者を鏡として、そこに自分を写しだしている。

私たちは朝起きて、家人と顔をあわせ、元気に「おはよう」と声を掛け合う。職場に出かけて、「こんにちは」と笑顔で挨拶する。声をかけあい、笑顔をかわすことで、私たちはおたがいに気分がよくなる。それはそれぞれが相手の表情の中に自分を映し出し、自分の存在を肯定的に受け止めることができるからだ。

私たちは社会の中に自分を映し出すたくさんの鏡をもっている。その多面鏡に映される断片的な像を立体的に合成することで、一つのまとまった自己像をつくりあげる。こうした社会的自己認識は、人間だけではなく、カラスやチンパンジーなど、社会を作っているあらゆる動物に一般的に見られるものだ。

このように、私たちは自己像を他者という鏡によってつくりだすが、こうして作り出された自己像は、ある意味で実体のない蜃気楼のようなものだ。ときにはこの虚像にふりまわされ、自分を見失い、生きていく希望さえ失ってしまう。サルトルは「他者とは地獄だ」という。これはこうした他者によってしか自分を認知できない人間の運命を呪った言葉である。

ではどうしたら、この過度の他者依存性から脱することができるのだろうか。さらなる多くの他者とまじわり、他者の鏡を多く持つことだろうか。たしかに有徳人物を友人としてもつことは大切である。しかし、その結果私たちはますます「他者という地獄」に幽閉されないとも限らない。

この地獄から抜け出す方法がないわけではない。それは自分のなかに自分を映し出す独自の鏡を持つことだ。これは難しいことのようだが、釈迦やソクラテスをはじめ古今東西の知者たちは、「私たちはだれしもこのような魔法の鏡を自分のなかに持っている」と説いている。

それが「明知」あるいは「良知」もしくは「仏性」という鏡である。大切なことはこの「内面の鏡」を日々の努力によって磨き上げ、美しい明鏡へと仕上げることだ。

そうすれば、私たちはそこに映し出される自己や世界の姿に、これまでにない信頼と愛情を抱くことができるだろう。私たちに備わっているこのすばらしい才能を、宝の持ち腐れにしてはならない。


2008年02月27日(水) 汝自身を知れ

皇室に伝わる三種の神器の筆頭は「カガミ」である。鏡は古代において「カミのごとく」大切で神秘的な存在だった。それはなぜかといえば、鏡は万象をその中に映し出すからだ。

とりわけ鏡は自分自身の姿を映し出すことができる。私たちは鏡を見ることで、偽りのない「自己自身の姿」を知ることができる。古代の人々にとって、このことの持つ意味は大きかったに違いない。

「汝自身を知れ」というのは、ギリシャのデルフォイ神殿の入り口に刻まれていた言葉だが、私は鏡を見つめて、ときどきこの言葉を思い出す。その言葉の本来の意味は、「神ならざる者として、身分をわきまえよ」ということらしい。ところが、ソクラテスはこの言葉にまったく別の息吹を吹き込んだ。

人間は他の動物とちがって、自らが何者であるかを知ることができる。人間は自らが死すべき存在であることを知っている。そればかりか、人間は疑うことを知っており、自分の知識が不十分だということも知っている。いわゆる「無知の知」だが、これはとりわけ素晴らしい。

人間は世界についてのいろいろな知識を蓄えてきたが、「自己となにか」ということについて、必ずしも深く考えたわけではなかった。古代においては「神の僕」としての自己像くらいしかなかった。ところがギリシャ人はその限界を破った。「人間こそが万物の尺度である」と主張する哲学者まで現れた。

そして、この頃から、「世界がどのようにあるか」とともに、「なぜ私たちは世界をそのように眺めるのか」とか、「世界の中でどのように生きるのがよいのか」と言ったことが問題になった。それもこれも人が「自己とは何か」について深く考えるようになったからだ。

毎朝歯を磨き、鏡を見る。このときせっかくだから、人類の歴史に思いをはせ、「汝自身を知れ」という古代ギリシャの箴言を思い出してみてはどうだろう。一日の生き方が変ってくるかも知れない。


2008年02月26日(火) カラスの子はカラス

 散歩をしていると、カラスや鳩が群れている。カラスも鳩も自分の姿は見えないはずだ。ところが彼らは群れを作っている。だから、私の目には彼らは自分が何の仲間であるか了解しているように見える。

カラスは自分がカラスであり、鳩やトンビでないことがどうしてわかのだろうか。鳩やトビは自分がカラスでないことが、なぜわかるのだろうか。

人の場合は鏡に映してみて、自分がどんな姿をしているかわかるが、動物たちは鏡を見ても、そこに写っているのが自分だと認識さえできない。それにも関わらず、ちゃんと自分が何であるかわきまえている。配偶者をまちがえることもない。

 たぶんこれには生い立ちが関係しているのだろう。カラスはカラスの親に育てられることで、自分がカラスであることを自然に認識する。このようにして、カラスの子はカラスになり、トビの子はトビになる。

だから、カラスもトンビの親に育てられたら、自分をトンビだと勘違いするかも知れない。むかしオオカミに育てられた少女がいたが、その少女は自分をオオカミの仲間だと考え、オオカミのようにして野原を走っていたらしい。人間社会に復帰してからも、どうしても自分を人間として認識できなかったようだ。

ペットの犬などでもあまりあまやかして育てると、自分を「人間さま」と勘違いして、とても横柄にふるまうようになるという話を聞いた。動物たちが自分についてどんな自己認識を持っているのか、またその自己認識はどのようにして生まれるのか、実のところまだよくわかっていないようだ。


2008年02月25日(月) 数の発見

 以前、「0の発見」というテーマで日記を書いたことがあるが、よく考えてみれば、「0の発見」の前に「1の発見」や「2の発見」があったはずである。私たちがあたりまえのように使っている「数」も、はじめからこの世に存在したわけではない。

 高校時代に「数とは何か」「なぜ1+1は2になるのか」という疑問をもった。そしてバートランド・ラッセルの「数理哲学序説」を読み、この疑問が荒唐無稽なものではなく、人間の知性にとって本質的な問題だと気づかされた。ラッセルは次のように書いている。

<ひとつがいのキジも、二日という日数も、ともに2という数字の実例であることを発見するまでには、いくつもの時代を経たに違いない>

 いま三人の男と3匹の犬がいたとしよう。この二つの違ったグループに共通する特性の一つに、私たちは「3」という数を与える。これは基本的にものごとを抽象化して捉えるという言語能力の一部である。

 つまり、「数」というものがはじめから宇宙に存在したものではなく、それは私たちの知性による高度な抽象化の産物であり、「言語」とともに人間が作り出したもっとも貴重な文化財のひとつであるということだ。

私たちは当たり前のように「鶏が三羽いる」などと言う。しかし、「数を数える」という能力を獲得するまでには、先史時代からつづく人類の気の遠くなるような歩みがなければならなかった。じつのところ、なんでもなく数を思い浮かべ、これを頭の中で足したり引いたりできることじたい、とてもすばらしいことである。

私たちが学ぶ「数学」もまた、こうした「数」や「図形」を研究することで発達してきた。しかしどんな高度な数学も、人類が何世代もかかってなしとげた「数の発見」という大事業の前には色あせてしまう。なにもフェルマーの定理を証明することだけが数学ではない。私たちは誰もがもっているこのすばらしい能力にもっと感嘆してもよいのではないか。


2008年02月24日(日) 静かならざる日々

第二章 暑さの残り(3)

JR木曽川駅には各駅停車しかとまらない。それでも途中、尾張一宮、稲沢、清洲、琵琶島にしか停車しないので、名古屋駅まで25分でつく。妻を亡くしてからは滅多にJRは使わなかったが、こうしして久しぶりに乗ってみると、こちらの方が便利で早い。

名古屋駅で手土産に伊勢名物の「赤福」を買った。これが神岡の好物だった。信夫はあまり甘いものは口にしない。と言って、アルコールもほとんど飲まない。タバコも吸わないし、女遊びやマージャンもしない。だから、神岡に「おまえは仙人のようなやつだ」とよく冷やかされる。

 信夫はとくにこれという道楽があるわけではない。あえて好きなことといえば、科学や哲学の勉強をすることだろうか。中学生の頃は自分でモーターを作ったり、顕微鏡でプランクトンを観察したりするのが好きな少年だった。高校生の頃には、ラッセルの「数理哲学序説」やカントの本を読んだ。アインシュタインや湯川秀樹のような科学者にあこがれたこともある。

しかし、大学院で信夫は挫折を体験した。コンピュータを使って専門的な計算をしたり、論文を書くために外国語の文献を読むのが苦痛になった。そのうえ、助手、講師、助教授、教授と続く大学の身分制度のなかで生きていくのが息苦しく感じられた。

信夫はそんな牢獄のような世界から逃げ出すようにして、高校の教師になった。大学院の4年間に支給された奨学金の合計は200万円を越えている。教職につけばこの奨学金を返さないですむ。これも大きな魅力だった。

信夫は研究者になりそこねて、生活の必要に迫られて、仕方なく選んだ道が高校の教師だったわけだ。とくに教師になりたかったわけではないし、もともと人嫌いの傾向がある信夫が、子どもの人格形成にかかわる教職にむいているとも思えない。

こうした消極的な姿勢で30年以上も教師をしていたわけだから、生徒たちにもあまりよい影響を与えなかったことだろう。その証拠に、信夫は生徒に人気がなかった。神岡のまわりには生徒たちの笑顔がはじけていたが、信夫のまわりには誰も寄り付かず、いつもひっそりとしていた。

信夫は授業がないときは職員室の机に向かって数学や物理の本を読んでいた。論文を書かなければならないという重圧から解放されて、学問の面白さを味わうゆとりができた。信夫が教師になってよかったと思うのはそんなときだった。

神岡は信夫を「勉強家」だと褒めてくれた。「おれはお前とであって、勉強の楽しさを教えられたよ」とも言った。こういうふうに、岡本はいつも他人の良いところを褒める。だから生徒にも人気があるのだろう。信夫も自分を認めてくれる神岡には心をひらくようになった。

 神岡と信夫は性格が違っていたが、そのせいで友達になれたのかも知れなかった。神岡のそばにいると、信夫は緊張がほどけて安らいだ。神岡は信夫にとって、何かのときに頼りになる兄貴分のようなものだった。今も信夫はマイナスの電気が陽極に吸い寄せられるような心持で、神岡の家に向かっていた。神岡の家に行くのは何年ぶりだろうか。

 信夫は名古屋駅で地下鉄の東山線に乗り換えた。沿線に栄や今池、東山動物園がある。信夫はその先にある「星が丘」というところで電車を降りた。いつもはそこからバスに乗るが、今日は歩いてみることにした。

 なだらかな住宅地の丘を越えて、20分ほど歩いていくと、少し大きな公園に来た。そこに池があり、中央に浮御堂がある。娘の春江が小さいころ、この池によく連れてきた。池には水草が茂っていて、鯉や亀が泳いでいた。それから季節になると渡り鳥もたくさんやってきた。

 その頃と比べて、池の様子が違っている。池の周りに遊歩道ができて、木立や潅木も整理されてずいぶんすっきりしていた。その分、池に生き物の姿が少なくなった。こうさっぱりしては、野鳥も子育てはできないのだろう。そんなことを考えながら、信夫は浮御堂の手すりにもたれて、しばらく池を眺めた。

 その公園から神岡の家まで5分ほどである。信夫はもう何度も歩いたことのある坂道を登った。敷石や回りの木立に見覚えがある。あたりの風景は20年前とほとんど変わっていない。公務員宿舎の建物のある敷地の前に、少し古びた家が長屋のように肩を寄せ合って4軒ほど並んでいるのが見えた。

 みんな同じつくりの木造平屋建てで、その一軒が神岡の家だった。そしてその隣に信夫が新婚時代から10年あまりを過ごした家があった。いまその家はしずまりかえり、人が住んでいる気配はなかった。

神岡の家の門柱を入っていくと、中からピアノの音が響いてきた。何かの童謡である。英子が弾いて、典子に聴かせてやっているのかも知れない。信夫は勝手を知った身内の人間のように玄関の戸をあけて、「こんにちは」と声だけかけて、靴を脱ぐとそのまま上がった。

 座敷でステテコ姿で寝転んで本を読んでいた神岡が、信夫に気づいて、「おお、来たのか」と起き上がってあぐらをかいた。襖が開いて、典子が襖から半分顔を出して信夫を見た。

その後ろから英子が、「あら、いらっしゃい」と襖を大きく開けて顔を出した。ピアノを弾いているのは英子ではなく、春江のようだった。信夫は英子に頭を下げると、「赤福を買ってきた」と神岡の前に大威張りで置いた。「これは何より」と、神岡は大げさに相好を崩した。


2008年02月23日(土) クロサギの話

先日、妻と漫画喫茶へ行った。わたしのお目当ては「ドラゴン桜」である。妻が読んでいたのは、「クロサギ」という漫画だ。いわゆる詐欺師の物語らしい。

 詐欺師にもいろいろある。金銭をまきあげるシロサギ、異性の心と体をもてあそぶアカサギ、そしてこのシロサギとアカサギという詐欺師を食い物にする、詐欺師専門の詐欺師がクロサギだそうだ。

 主人公の黒埼青年は父親がシロサギにあい、一家心中でひとりだけ生き残った。そこで詐欺師たちに復讐を誓って、クロサギになったらしい。「どんな話がかいてあるの?」と妻に訊くと、出張ホストの話しを紹介してくれた。

 求人雑誌や新聞で、「出張ホスト」のアルバイトを募集している。これに募集すると、ときにはとんでもない体験をすることになるそうだ。

たとえば、登録料を3万円とられる。そのあと、客を紹介されるのだが、約束の場所で待っていても客は現れない。そこで事務所に連絡すると、「お客さんは行かれたようですが、どうもあなたを見て、会うのを断念されたようです」と言われる。

こういわれると、本人は自尊心を傷つけられてショックを受ける。そしてたいていは身を引く。つまり、3万円の取られ損なわけだ。おまけにこのトラウマをかかえたまま生きていかなければならない。しかし、実際は客はこなかったのである。これは詐欺である。

もっと手の込んだやりかたもある。客の女性があらわれ、「すっかりあなたが気に入った」とほめあげる。そしてお金をはずんでくれる。しかし、これが甘い罠で、結局その青年は最終的にお金を巻き上げられて捨てられる。

いずれにせよ、ベテラン詐欺師は人の心をつかむのがうまい。私たちは面白いように料理されてしまう。こうした悪徳詐欺師を詐欺にかけるのだから、クロサギの心理術はその上手を行かなければならない。知能の勝負だ。

世の中は偽装や詐欺が横行している。詐欺にかからないために、漫画「クロサギ」を読んで、少し詐欺師の研究をするのもよかろう。


2008年02月22日(金) 脱会社・脱社会のすすめ

昨日は「脱学校のすすめ」を書いたので、今日は「脱会社のすすめ」さらに進んで「脱社会のすすめ」を書こう。以前から日本人は会社人間だといわれてきた。会社は社員の衣食住といった生活の面倒をみるだけではない。冠婚葬祭からレジャーや人生相談まで、会社がお世話をしてくれた。

大企業は社員専用の保養施設をもっていたし、企業独自でさまざまな福利厚生をおこなっていた。その分、日本社会の福祉制度は貧弱で、一流企業の社員になるか、中小企業の社員になるかで、人生の内容がずいぶん違ってきた。

そこで世の親たちは、こぞって子供を一流大学へ進学させようとする。そうすれば一流企業へ就職する道が開けるからだ。少し前まで、日本はこうしたしくみで動いてきた。しかし、アメリカから押し寄せてきたグローバル経済の波が、日本のこのしくみを破壊した。

この新しいスタンダードだと、企業は株主の独占物だ。会社の経営者は株価を上げ、株主をもうけさせなければならない。だから、株価を上げるためには、ときには大胆な解雇をする。社員はこれまでのように安閑としていられなくなった。

年功序列や終身雇用が日本企業の特色だったが、これが崩れて、臨時雇いの非正規社員や派遣社員が増え続けている。企業がドライになった分、人々の会社に対する意識も変わってきた。これまでのように会社に対する帰属意識も希薄化し、忠誠心も薄れてきた。

企業がこういう風に変わってきたのは、産業資本主義から金融資本主義へと、世界の経済のしくみがおおきく変わったためだ。お金があれば会社を買収できる。だからマネーをたくさん集めたものが勝ちになる。そのしくみが「ファンド」と呼ばれるもので、いまこれが世界を支配している。

「マネーが人間を支配する」ということは、ほんとうはとんでもないことである。ところがこの「とんでもないこと」が普通になってしまった。そうすると、「とんでもない」という意識さえなくなってしまう。恐ろしいことだが、こうして現代人は正気を失ってしまった。私たちはいまこうした「狂気の時代」に生きている。

こうした狂気のなかで、正気を保って生きて行くのはむつかしい。しかしなんとか生きていかなければならないし、またどうにか生きていけないわけではない。その指針として考えられるのは、「脱会社」である。もはや会社に忠誠をつくす必要はない。会社のためではなく、自分のためと割り切って生きるしかない。

つまり「会社人間」をきっぱり捨てて、個人に戻るのである。とはいえ、人間は個人では生きることができない。だから、「会社」にかわる世界を見つけなければならないが、それは新たな自分探しの旅になる。

旅の途中で倒れることになるかもしれない。たとえそうであっても、私たちはたくさんの出会いを経験する。そしてより深い生命の実感をもって、人生をさらに自分らしく生きることができるはずだ。ある意味で、面白い時代になってきたとも言える。


2008年02月21日(木) 脱学校のすすめ

一昨日、妻を誘って喫茶店に行った。そこで「週刊現代3/1号」を読むと、大前研一さんの「グーグル時代を生き抜く“脱学校” の教育術」という文章に眼が留まった。こんなことが書いてある。

<授業で先生が教えてくれるような知識は、いまやパソコンや携帯でグーグル検索すれば一発でわかるから、わざわざ学校に行く必要はないのです。さらに、それらを暗記するだけの勉強をやっても、グーグル時代を生き抜くビジネスマンになれません>

なるほどと思う。私もよくグーグル検索をする。そうすると、必要な知識はたいがい得られる。学校へ行って魚(知識)を売ってもらわなくても、検索という釣竿(知識を得る道具)さえあれば、必要な情報をいつでもインターネットの海から吊り上げることができる。便利な時代になったものだ。

知識を暗記する勉強ではなく、その知識をいかに自分で獲得するか、そしてそれをいかに活用できる人間になるかがこれからは大切なのだろう。今日の学校教育がこうした社会の変化に対応できているようには思えない。その意味で、大前研一さんの説く「脱学校の教育術」に賛成である。もう少し引用してみよう。

<いまは「答えのない時代」です。新しい発想で新しいアイデアを生み出せる人間しか生き残れないから、未知の領域に立たされたとき、自分の頭で考えて、問題解決できる人材でないとメシを食っていけない。だから子供には、学校の勉強ができるよりも、将来どうやってメシを食っていくかを常に考えさせるし、親として一緒に考えてあげることが大切なのです>

大前研一さんの二人の息子さんは、二人とも大学を中退したが、一人は会社を経営し、もう一人もゲームソフトの会社で若いながら課長としてたくましく働いているという。将来どうやってメシを食っていくかを常に考えさせる大前さんの教育術が成功したということだろう。

ビジネスの世界では「新しい発想で新しいアイデアを生み出せる人間しか生き残れない」という厳しい現実がある。もちろんすべての人間がビジネスマンになるわけではないので、「問題解決できる人材でないとメシを食っていけない」というわけではない。また、そういう社会であってはならないと思う。

私たちは将来メシを食べるためだけに学校に行くのではない。教養を深め人間性をたかめて、社会性や協調性も身につけなければならない。グーグル検索ができることよりももっと大切なことがある。それは他人を思いやり、社会のことを考える公共心である。ただ金が儲かればよいというのではなく、もう少し次元の高い価値観を持つことは、ビジネスの現場においても大切なことである。

もっともいまの学校が市民社会に生きる人間になるためのゆたかな人格形成の場になっているかというと、大いに疑問である。そこで行われていることは、知識獲得の点取り競争である。文科省の主導する知識重視の学力テストが、こうした傾向を加速させていくに違いない。

これからの時代を生きる子供たちにとって、柔軟な思考力に支えられた問題解決能力はますます重要なものになっていく。自由な思考力や感性を養いたいと思ったら、文科省がおしつける窮屈な既製服のような学校教育などに頼らないで、一人ひとりが「脱学校の教育術」を模索して、「たくましく生きる力」を養成したほうがよいのかも知れない。


2008年02月20日(水) あふれるコピー言葉

 名優と言われる人は、あまりおおげさな身振りはしない。谷崎潤一郎も「ほんとうに芸の上手な俳優は、喜怒哀楽感情を現しますのに、余り大袈裟な所作や表情をしないものであります」(文章読本)と書いている。

文章も上達すると、おおげさな表現を使わなくなる。谷崎は「何事も忍びに忍んで病苦と闘いながらよく耐えてきた母」と書くのではなく、「病苦と闘いながら何事も忍んで来た母」と普通に書けばよいという。

そして自分が書くのであれば、「病苦と闘い、何事も忍んで来た母」と書くだろうと述べている。つまりは「おおげさな修飾語」を避けなさいということだ。ことばで飾り立てても、また難しい言葉を使っても、対象そのものがはっきり浮かび上がるわけではない。

たとえば、「星の王子さま」に「人生を理解している人(Who understand life)」という表現がある。これを訳者の内藤濯さんは、「ものそのもの、ことそのものを大切にする人」と訳している。「理解」とか「愛」「真実」「正義」「美」などいう抽象的な言葉を、私たちはともするとこれみよがしに使う。しかし、こうした言葉に頼ることで、私たちはともすると「ものそのもの、ことそのもの」の持つ豊かさを忘れ去ることになる。

「人類愛」を説く人が、平気で身近な人を傷つけたり、ないがしろにしていることがある。立派な道徳を説く政治家が汚職の常習犯であったりする。あるいは名高い哲学者や宗教家の本を読むことで、私たちは「生と死」といった人生の大事について、なんだかわかったような気になったりする。

作家の池澤夏樹さんは、朝日新聞に掲載された「政治と言葉」という評論を、「ここ何十年かの間に日本語の性格が大きくかわった」と書き出している。たとえばカップ麺のパッケージに「渾身の一杯です」と書いてある。しかし、誰もそれが「渾身の一杯」などと思って買うわけではない。

これはコマーシャルでつかわれる典型的な「コピー」の文体である。ところがいま、コマーシャルばかりでなく、日常生活や政治、ジャーナリズムの分野でも、あるいは経済や文学の分野でさえ、この誇張に満ちたコピー言語があふれている。「美しい国」とか「愛国心」などという流行語にもコピーの匂いがする。池澤さんは「コピーの文体を追い出せ」と主張する。

<これが今われわれの言語生活である。ある程度の嘘を含み、大袈裟で、見た目には派手で魅力的だけれど、しかし信用のならない言葉。だとしたら、政治家の言葉に嘘が混じり、事態が変わるとさっさと撤回されるのも当然ではないか>

<国の責務の第一は国民の生活を保障することである。その場には「コピー」の文体が入り込む余地はないはずだ。幻想ではなく現実としての政治を奪還しなければならない>

 観念の世界を構築することで、私たちは世界や人生への理解を深め、現実の支配者になることができたが、同時に生きた現実から遠ざかり、そのことによってどれほど貴重なものを失うことになったか、失われたものの大きさに気付くことも大切だろう。

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 私も力んでおおげさな身振りの文章を書くことがある。とくに対象に対する理解が行き届いていないときには、余計な修飾語や抽象的な言葉を書き連ねたりする傾向が強い。とくに昔の文章など読み返してみると気恥ずかしくなることが多い。しかし、書いているときはなかなか気がつかないものだ。

 私は朝日新聞の「声」に時折投稿している。紙面に掲載された文章を見ると、投稿した文章といくらか違っている。その違いを比べてみると、「なるほど、こう書くと文章が生きてくるな」と感心させられることが多い。掲載料をいただいた上に、文章の勉強までできるのだからありがたい。


2008年02月19日(火) 散歩を撮る

 さっそく買ったばかりのビデオカメラを持って散歩に出た。天気がよかったのと、あたりがうっすらと雪化粧をしていたので、これは絶好の撮影日和だと思った。

家を出て木曽川の堤防まで、ナレーションを入れながら、田んぼや民家の様子を撮して歩いた。いつものようにベートーベンの「歓喜の歌」を歌い、万葉集の歌も朗読した。

 うらうらと照れる春日にひばりあがり
 こころ悲しもひとりし思へば

 わが宿のいささむら竹ふく風の
 音のかそけきこの夕べかも

 信濃なる千曲の川のさざれ石も
 君し踏みてば玉とひろはむ

 木曽川の堤の上で、いつものように腕ふり体操や腕立て伏せをしてから、また、ビデオカメラを抱えて歩き出した。ふたたび万葉集の歌を高唱し、いろいろと勝手な解説を加える。そうして歩いているうちに、陶然として、すっかり自分の世界に入り込んでしまった。

途中、小さな子どもや若いご婦人とすれ違ったが、おじさんが笑顔でビデオカメラを抱え、大声で歌を歌いながら歩いているのを見て、ちょっと驚いたのではないだろうか。


2008年02月18日(月) ビデオカメラを買う

 昔から欲しかったものの一つが、ビデオカメラである。「ジャパネットたかた」の新聞広告を見ていると、TOSHIBAの「ギガショット」が約6万円で売り出されていたので、これを買うことにした。1280×720pの高画質で、初めての方にも使いやすいハイビジョンエントリーモデルだそうだ。

参考までにインターネットでも調べてみた。楽天市場の「いーぐる」だと同じ商品が8万円ほどしている。「Shop1048」だと10万円もしている。「ジャパネットたかた」の方が2〜4万円ほど安い。

もっとも私はあいかわらず貧乏なので、購入費用の6万円は妻から借金することにした。この2月分の小遣いから毎月2万円ずつ天引きされることになった。これはちょっと痛いが仕方がない。しばらくはまたケチケチ人生が続きそうだ。

私の買ったデジタルビデオは40ギガバイトのHDが内蔵されている。これで約9時間ほど撮影ができるのだという。巻き戻しや早送りすることなく、頭出しが簡単にできる。これからはこれを旅先に持参して、いろいろな風景やイベントを撮りたいと思う。

 今年の7月には長女がハワイで結婚式をあげる。まずは、これを撮ることになる。デジタルビデオを買った一番の理由は実はこれなのだ。それまでにいろいろと撮影のスキルやビデオ編集の仕方、DVDの作り方など勉強したいと思う。これで今年はまた忙しくなった。

 さしあたり、朝の散歩のときにこれを持参して、途中の風景や木曽川堤の様子を撮りたい。ただ風景を撮るだけではなく、私のナレーションを入れて、いろいろと解説したいと思っている。散歩しながら万葉集の歌なども高吟し、将来はHPでこれを紹介してもいいと思っている。

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TOSHIBA GSC-K40H の参考情報

1280×720pの高画質で初めての方にも使いやすいハイビジョンエントリーモデル 40GB HDD内蔵

●外形寸法(幅×高さ×奥行き):86.8mm×80.0mm×135.5mm (突起部を含む、バッテリー未装着)86.8mm×80.0mm×146.8mm (突起部を含む、バッテリー装着時)
●質量:約500g(本体のみ)、約570g (バッテリー、SDカード含む)
●撮像素子:1/3型CMOSセンサー、有効画素数:動画 約92万画素、静止画 約92万画素、総画素数:約135万画素
●レンズ:光学10倍ズームレンズ F3.5 焦点距離:f=6.0-60.0mm(35mmカメラ換算46.2-503.6mm  フィルター径:43mm
●撮影範囲:標準:約0.1m〜∞(Wide側)、約1.0m〜∞(Tele側)
●液晶モニター:3.0型TFTカラー液晶 画素数:23万画素(959×240)
●フォーカス制御方式:TTLコントラスト検出AF
●露出制御方式:プログラムAE
●測光方式:TTL分割測光 測光範囲:中央重点測光/スポット測光
●明るさ:−2EV〜+2EV (1/3EVステップ)
●静止画撮影感度:自動設定:ISO100〜200相当
●シャッター速度:動画:1/15〜1/4800秒 静止画:1〜1/1000秒(電子シャッター、メカニカルシャッター併用)
●手ぶれ補正:電子式
●ホワイトバランス:オート/晴れ/曇/蛍光灯 H/蛍光灯L/白熱灯/プリセット
●デジタルズーム:30倍
●入出力端子:A/V OUT端子、DC IN 10V端子、USB端子、コンポーネントビデオ端子、HDMI出力端子(typeC)
●動画連続撮影時間:約90分
●電源:バッテリーパック(GSC-BT6)/ACアダプター(SQPH20W10P-02)
●記録媒体:HDD:40GB SDメモリーカード:最大8GB SDHC/SDまでサポート
●動画:記録形式:MPEG-4 AVC/H.264(60fps)  記録画素数:1280×720p 音声:AAC、48kHz、16bit、ステレオ、128kbps
●静止画:記録形式:JPEG(Exif 2.21、DCF 2.0 準拠) 記録画素数:92万画素(1280×720)
●使用環境:温度:+5℃〜+40℃(動作時)/-20℃〜+60℃(保存時)湿度:30%〜80%RH (動作時、ただし結露しないこと)

http://item.rakuten.co.jp/dcc/toshiba_gsc-k40h/
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2008年02月17日(日) 静かならざる日々

第二章 暑さの残り(2) 
 
信夫の家から名古屋に出るときは、名鉄の木曽川堤駅を使っているが、以前はJRの木曽川駅を使っていた。そちらの方が距離的に近いし、料金が安い上に便数も多く、しかも名古屋に早く着く。しかし、妻が交通事故で死んでから、信夫はJR木曽川駅を使わなくなった。

その理由は、事故の現場を通りたくなかったからだ。しかし、木曽川の堤防を歩いて名鉄木曽側堤まで歩くようになって、いつのまにか15年が経っている。そしてもはや妻の事件とは関係なしに、いつかこれが習慣になっていた。だから事情を知らない人が見ると、信夫の行動は不合理なものに見えるかもしれない。

信夫はひさしぶりにJR木曽側駅の方に歩いていた。とくに理由があったわけではない。これまでの習慣を続けるのをやめようと思って、意志的にコースを変えたのではなく、気がついたら、そちらの方に歩いていた。

途中で気がついて、少しだけ迷ったが、そのままJRの駅に歩くことにした。午後二時少し前で、まだ残暑が厳しかった。それでも空を見上げると、薄い筋雲が流れている。もう、入道雲が立ち並ぶ夏の空ではなかった。

信夫は歩きながらこんなことを考えた。世の中にはさまざまな不思議な習慣がある。たとえばイスラム教徒は豚を食べないし、ヒンズー教徒は牛をたべないが、こうした民族に固有の習慣も、そのもとをたどれば何かの事情があったのかもしれない。

一説によるとイスラム教徒が豚を食べないのは、豚を飼うとたくさんの穀物が必要になるからだという。アラビア地方は乾燥地帯で穀物の生産量が乏しい。人間はもともと豚と共存できない土地柄だった。そこでコーランは食べるのを禁じたのではないかという。

また、NHKのテレビでアナハヅルという鶴の大群がチベットからヒマラヤ山脈を越えてインドに飛んでいく映像を流していた。ヒマラヤといえば8000メートルを超える山々が連なっている。鶴たちはそのさらに上空の成層圏を飛んでいく。空気が希薄で、人間なら酸素ボンベが必要になる高さを、鶴たちは編隊を組んで飛んでいく。なぜこんな命がけの大冒険をするのだろう。

これについては、こんな説が紹介されていた。アナハヅルが渡りを始めた頃は、ヒマラヤ山脈はもっと低かったのだという。ところが次第に山が隆起して高くなった。それでも、鶴たちはこのコースに固執続けた。もっと楽なコースを通ればよいのだが、昔の習慣を改めることができない。

その一途で不屈な姿には感動するが、なにやら悲壮で哀れでもある。信夫はいつかこの鶴たちの姿に、自分を投影していた。もっと楽な生き方があるのではないだろうか。たとえば神岡のように気楽に生きたらどうだろう。そんなことを考えた。

家を出て10分ほどで、妻が事故にあった交差点に来た。そこで15年前の秋のある日、妻が命を落とした。妻のパンツのポケットには、信夫のJRの定期券が入っていた。信夫がそれを忘れたため、駅まで届ける途中だったからだ。

信夫は駅で妻を待っていた。30分待っても来ないので、あきらめて切符を買い、列車に乗った。そして地下鉄に乗り継ぎ、当時勤務していたY高校にたどりついた。すでに朝の職員会議が始まっていたが、教頭は信夫を見ると、朝礼を中断してやってきた。そして、信夫は彼の口から妻の事故を知らされたのだった。

信夫はふたたび地下鉄とJRを乗り継いで、木曽側駅に帰ってきた。そこからタクシーで妻が収容された病院に直行した。しかし、妻はすでに死んでいた。トラックの車輪に巻き込まれた妻は、ほとんど即死状態だったようだ。

娘の春江は妻の事故を中学校で知らされ、担任の先生の車で送られて病院に来ていた。青い顔をして目を泣き腫らしてソファの片隅で身を固くしていた。信夫が近寄っても何も言わなかった。信夫は担任の先生にお礼を言って、引き取ってもらった。

駅の待合室で待っていたとき、遠くに救急車のサイレンの音を聞いたのを思い出した。あのとき、妻はすでに事故にあって、虫の息だったのだろう。信夫は妻の死に顔を見ながら、そんなことを考え、妻にあわれを覚えた。しかし、それでも涙がこぼれるほどの悲しみがわいてこなかった。

妻が持っていた信夫の定期券を渡されたときには、少し動揺した。信夫はその血のついた定期券を破り、病院のトイレのゴミ箱に捨てた。その様子を、娘の春江が見ていた。よほどこれが心外だったのだろう。後に春江はこのことで何度か信夫を難詰した。

信夫も娘の前で定期券を破って捨てたことをあとで悔やんだ。あのとき信夫は呆然としていた。そして娘の春江の母を失ったかなしみの深さに思い至らなかった。

もっとも信夫はそのとき、極度の心神耗弱状態にあった。父親の内心の動揺を、当時中学生の春江は知らない。そしてただ父親の薄情さを恨んだ。恨みが次第に内攻し、良好でなかった親子関係をさらに修復不可能なものにした。

信夫は妻が命を失った交差点にしばらくたたずみ、まわりの景色を眺めた。十五年前とはかなり様子がかわっている。角にあった民家は取り壊され、そこにあたらしくファミリーレストランが作られている。

妻はこのレストランを知らない。そして今の春江のことも、二人の孫のことも知らない。この15年間に起こったさまざまな出来事も妻は知らない。そしてもう信夫を冷たい眼でにらみ返すこともない。信夫はそう思うと、少しせつなくなった。


2008年02月16日(土) 名医の名は「休息」

 看護婦をしている長女は私どうよう肌が弱い。すぐに荒れてかゆくなる。皮膚科に行っていろいろな薬を試してもだめだった。私も同様のことがあったので、そのとき使った「Kiss Me」という市販のハンドクリームをすすめたが、それも効なかった。

しかも看護婦だから夜勤を含めた三交代の勤務で、生活がどうしても不規則になる上、皮膚にかさぶたまでできて、かゆくて眠れないのだから悲惨だ。しかも1月に新居に引越しをしていろいろあったので、すっかり体調を崩してしまった。このため皮膚の荒れがすごいとになってきた。

この話を妻から聞いて、私も心配になった。昔、長女が幼い頃、同じようなことがあって、大学病院をはじめ、あちこちの医者に診て貰ったがどうしても治らない。そのとき、福井の母が地元に名医がいると知らせてくれた。そこで福井に帰省したついでに長女をその医者に診せた。

その気難しそうな老医師は、「これはひどい」と言って、長女のために特性の薬を調合してくれた。そしておどろいたことに、その薬を塗りだして、数日後にはすっかり発疹はおさまり、肌がきれいになった。わずか一度の診察で、長女はそれまでの長い苦しみから解放され、そしてその後長らく肌のトラブルに悩まされることがなかった。

残念ながら、その名医は十年ほど前に亡くなった。息子があとを継いだらしいが、父親のようなカリスマ性はなくて、技量も平凡で頼りにならないという。どこかに名医はいないかと思ったが、もう、そんな神がかりの名医がいるという情報はなかった。

過労が重なり、長女の肌は最近はますます悲惨な状況になっていた。そしてとうとう、2月に入ってインフルエンザにかかった。予防接種をしていたのにも関わらずかかったのだという。よほど体が衰弱していたのだろう。妻が見舞いに行っても、食欲がなく、ほとんど何も食べずにベッドで休んでいた。

ところが、この月曜日に私が見舞いに行くと、娘はマスクこそしていたが、かなり元気になっていた。そして「明日から、仕事に行く」という。妻が近くの喫茶店に誘い、三人でサンドイッチなどを注文して食べたが、食欲もあった。

そして驚いたことに、「肌がすっかり治ってきれいになった」という。たしかに、もうどこにも荒れがなかった。二十代の白くすべすべしたきれいな肌をしている。どうやら、インフルエンザでまる一週間仕事から解放されたことがよかったようだ。

どんな医者も薬も治せなかった肌の荒れを治したのは、つまりは「休息」だったわけだ。つまり、「休息」こそ最大の名医だということになる。しかもこの名医は何も治療をせず、体の治癒力にまかせるだけだ。したがって一銭の診察代もとらない。私もこれからは医者や薬に頼る前に、このとびきりの「名医」のことを思い出すことにしよう。


2008年02月15日(金) みんな友だち

 一昨日の「マックの会」で、Kさんから、昨年5月に癌でなくなられた奥さんの話を聞いた。奥さんは医者から「癌を敵視するのではなく、友達と思って付き合ってください」といわれたそうだ。そこで寅年生まれの奥さんは、癌に「とらちゃん」という名前をつけて可愛がったのだという。

 奥さんはKさんと結婚してしばらくしたころ、流産したことがある。その後、子宝にめぐまれなかっただけに、それは彼女にとってとても悔いの残る体験だった。そんな思い出が蘇ったのか、奥さんはお腹にできたその癌を、自分の子どものようにいつくしんだという。

 奥さんはスキルス性の胃がんで、余命いくばくもないと宣告されていたが、これという抗がん治療も受けないのに、それから4年近く自宅でクオリティ・オフ・ライフを楽しむことができた。癌を敵視しないということは、気持にもゆとりをあたえる。これがよかったのではないかとKさんはしんみりと語ってくれた。

 この話を聞きながら、私はその前日、同僚のT先生から聞いた話を思い出した。T先生は腰痛がひどくて、いろいろな治療をうけたがよくならなかった。何十万円も投じて、気功術の合宿にも参加したが、それでもだめだった。

 ところがあるとき、「腰痛を敵視していてはだめだ」と気づいたのだという。腰の筋肉も、いや全身の細胞が自分のために一生懸命に働いてくれている。自分は生かされているのだ。そう考えて、「ありがとう」という言葉を口にする習慣をつけた。そうしたところ、2ケ月ほどで、知らないうちに腰痛が治っていたという。

 じつは、これと同じような体験を私もしている。かって私の1年生のクラスで学級崩壊が起こった。素行の悪いクラスの癌のような生徒が数人いて、これが授業妨害、暴力行為、喫煙、器物破損と、ありとあらゆることをする。これをなんとか押さえつけようと悪戦苦闘するうちに、私は不眠症や高血圧、歯痛にくわえて、猛烈な腰痛に襲われた。

 これは私の教師生活にとって最大のピンチだった。教師を辞めたいとも思ったし、いっそ首をつったほうがらくだとさえ思いつめた。しかし、この苦しみの中で、私はやがて、「はたして悪いのは生徒だろうか」と考えるようになった。

 生徒たちもまた辛いのだ。苦しんでいて、自分に絶望しながら、それでも何と救われたいと思って、必死に訴えかけているのだ。そんな生徒たちが実は一番の犠牲者ではないだろうか。私たちは彼らを癌のように忌み嫌い、敵視するのではなく、もっとあたたかく受け止めてやるべきではないだろうか。

こう考えることで、私の気持が軽くなった。彼らの無作法な態度にもあまり腹が立たなくなったし、私を罵る女生徒の前で、「すまんな。先生に力がなくて」と素直に涙が流せるようになった。それから生徒たちの荒れも少しずつ下火になり、私の腰痛も消えた。

以来、私は腰痛に悩まされたことがない。こうして私は自分の人生の最大のピンチから、それこそもっとも美しい宝物のような教訓を学んだ。それは「人生に敵はいない。みんな友だち」ということである。

 ものは考えようである。病気でも人でも敵視するのではなく、自分の分身であり、かけがえのない友だちだと思ってはどうだろう。そして、それもまた自分を自分らしく生かしてくれる大切な因縁だと考えるのである。

人生に敵などいない。敵などというものは自分の狭い利己心が作り出した幻想である。「みんな友だち」だと思えば、こころにゆとりも生まれ、人生が楽しくなるし、逆境におかれてもよき知恵が生まれてくる。こういう気持で世界中の人が仲よくなれば、戦争もなくなるにちがいない。


2008年02月14日(木) 散歩の恵み

 健康の三原則は「運動」「栄養」「睡眠」である。中でも適度な運動はとても大切だ。運動の中で私のおすすめは「散歩」である。この3年間実践してきたが、その効用ははかりしれない。

 一日40分から50分、自分の好きな時間に歩く。急ぎ足で歩く必要はない。ゆったりとした気分で、歌でも唄いながら歩くのがよい。これで血液の循環をよくする。血の巡りがよくなれば、精神も快活になる。

 散歩やジョギングでダイエットしようとしている人がいる、しかし、ダイエットのための散歩はこせこせしている。気持がよくなければ長続きしない。散歩はやはりそぞろ歩きがいい。

ダイエットに関しては、「腹八分目」で、飽食による栄養過多をなくすることが先決だ。私は数年前から朝と夜は0.5食にすることで一日二食を実践している。これで70キロあった体重を60キロまで減らした。おかげでたいへん体調がよい。

「睡眠」は「運動」と「栄養」が足りていれば、おのずから実現する。昔は不眠症に苦しんだ時代もあったが、今は枕に頭をつけると5分以内に眠っている。とくに朝日を浴びながら散歩をするようになって、よく眠れるようになった。これが散歩の一番の恵みかも知れない。


2008年02月13日(水) 野鳥の死

 先日、妻が用水路で動けなくなっている鳥を見つけた。「助けてやりたいので、あなたも手伝って」と言われて、私も自転車で現場に出かけた。

 黄色い嘴と脚をしたかなり大きな鵜のような鳥である。あまり見かけない鳥なので名前はよくわからない。妻が長靴をはいて近づいていくと逃げようとするが、少し歩いただけでよろけて倒れてしまった。妻がその鳥を抱きかかえて、私に手渡した。

 私はその鳥をすかさず用意した箱の中に入れたが、その瞬間、恐怖感に襲われた。先日NHKで放送していた「鳥インフルエンザ」の特別番組を見ていたからだ。もしこの鳥が病気だったら、その病原菌が私に汚染しないとも限らない。そして私から他の人に伝染したら大事になる。

 以前、我が家で鶉を飼っていた。そのとき、世話をしていた妻と長女があいついで原因不明の熱を出して、一週間ちかく病院に入院した。そのとき私は病気の原因はこの鳥ではないかと思った。やはり鳥を飼っていて、同じような症状で入院した人を知っていたからだ。

 妻が病院の先生にこのことを言うと、「その鳥はいま元気ですか」ときかれた。「元気です」と答えると、「それなら大丈夫でしょう」と言われたという。しかし、宿主の鳥には悪さをしなくても、それが人体に入ると害を及ぼすということもあるのではないだろうか。

 我が家の鶉はハルコと呼ばれ、居間で放し飼いになっていた。そんなことがあって、私はハルコに近づかないことにした。おかげで私は原因不明の高熱を出すことはなかったが、今回触れたのは、もっと得体の知れない野鳥である。しかもあきらかに体が弱っていた。

帰り道そのことを妻に言ったが、「しかたがないわよ。助けないわけにはいかないのだから」と軽く受け流されてしまった。そこで、渡り鳥は病原体の巣だと思ってよいし、これに触れることは疫学上かなりのリスクを犯すことになることをNHKの番組を例に引きながら力説した。そのかいがあって、妻は「これからはもう助けないことにするわ」と理解してくれた。

妻はその鳥をさっそく近所の獣医まで運んだが、「野鳥は診ません」ということで、玄関払いになった。これは当然だ。獣医だって、病気の野性の鳥など怖くて触りたくないのではないか。

鳥はやがて死んだ。妻はそれをダンボールごと畑に埋めた。妻によると、その鳥は嘴に異常があったようだという。だからエサが充分食べられなくて、結局のところ餓死したのではないかということだった。

病死でないかもしれないと聞いて、私は少しほっとした。それからそのあわれな鳥のことを思い出して、心の中で両手をあわせた。


2008年02月12日(火) この子といる幸せ

 自分の子が発達障害を持っていると診断されたら、どんな気持になるのだろう。堀田あけみさんは次男の幼稚園入園の面接でそのことを知らされた。そのときの様子を、著書の「発達障害だって大丈夫」(河出書房新社)にこう書いている。

<私は、幼稚園の面接の日に泣きました。それから数日の間は、何をしても涙が出ました。夫も泣いてばかりいました。彼があんなに泣いたのを、私は見たことがありません>

 LD(学習障害)のおおくは言語の発達障害を伴っている。堀田さんは大学院で心理学を専攻し、とくに言語の発達については専門家である。そんな堀田さんでも自分の子どもの発達異常にはなかなか気づかなかった。二歳を過ぎるころから子どもはほとんど発語しなくなった。それも個人差だと考えていたが、やがてさすがにおかしいと思い始めた。

<その年、私は乳幼児の言語発達に関する講義をしていて、自分の言ったことに、はっとしました。

「発達の個人差は、大変大きなものです。遅れている分には、あまり心配は要りません。ただ、順序が正しくないときには、脳の機能の障害という可能性が出てきます。発達障害は、英語で言うとdevelopmental disorder、順序(order)が違う(dis)ということ……」

 カイトは話さなくなりました。けれど、彼は読めているのではないか? カイトは、五十音の積み木を、正しく並べることができます。アルファベットも同じ。あれは、読めているのでは。

 聴覚に基づく、聞く・話すは一次的言語、視覚に基づく、読む・書くは二次的言語と言われます。二次的言語は、一次的言語の確立を待って、発達し始めるものです。脳が、正常に機能している限り。

 二次的言語が一次的言語に先行するということはどういうことか。一次的言語の処理機能が正常に稼動していないので、それを埋め合わせるために、二次的言語の処理が見切り発車的に行われているのでは、と考えられます。カイトは大丈夫じゃないかもしれない。教壇の上で、私は思いました>

 それでも夫婦が自分の子どもを障害児として受け入れるのには、まだまだ葛藤の日々があり、時間がかかったという。発達心理学の専門家であり、幼児の言語発達を大学で教えているのに、「自分の子に限って」という思いがどうしても先行し、真実を見る目を曇らせてしまうのだろう。

 しかし、堀田さんのすばらしいところは、これを受け入れ、夫婦で泣き明かしたあと、現実とがっぷりくんでの子育て奮戦振りだ。その様子は著作に赤裸々に語られているが、とても半端なものではない。いじめや中傷も数知れず受けた。しかし、また優しさもたくさん体験した。

そんな悪戦苦闘の結果、堀田さんはやがて「ふつうじゃなくても幸せになれる」と確信できるようになる。堀田さんは著書の最後のほうで「カイトといることで、人間がどんなにやさしい生き物か知ることができました」と書いている。


2008年02月11日(月) 発達障害だって大丈夫

一昨日の土曜日は、愛知県立大学で催された全国LD実践研究集会に参加した。見晴台学園の生徒達がオープニングで民謡を法被に鉢巻姿で元気に踊り、場を和ませてくれた。そのあと、堀田あけみさんの「発達障害だって大丈夫」という講演を聴いた。堀田さんは高校二年生のときに「アイコ十六歳」を書き、当時最年少で文藝賞を受賞し話題に上がった人だ。

 その後、名古屋大学・同大学院に進み、発達心理学・学習心理学を専攻した。現在は研究者として大学で教えるかたわら、障害児を持つ母親として、さまざまな社会活動にかかわり、全国で講演などもしているようだ。

 堀田さんは3人のお子さんの母親だが、長男はAHHD(注意欠陥多動性障害)の傾向があり、次男は自閉症と診断され養護学級に通っているのだという。その様子は著書「発達障害だって大丈夫」(河出書房新書)にくわしく書かれている。

 堀田さんの話で、とくに残ったのは、最近秋田県で講演会をしたときの話だ。その講演会はある老婦人の寄付で実現したのだが、その老婦人の長男が自閉症だったのだという。長男が最近なくなられ、少しお金に余裕ができたので寄付をされたのだという。

 その婦人が長男を産んだのは戦前の話で、そのころは「自閉症」という言葉もなく、周囲から冷ややかな眼で見られた。とくに姑には「こんな子どもを生んで」と叱られたという。しかし、そうした周囲の冷ややかな視線のなかで、一生懸命その子を育てた。

 そんな超人的な努力を近くで見ていたので、姑も最後には理解を示し、息を引き取る時には、「よく面倒みなさった」と、労をいたわってくれたという。この話を堀田めぐみさんは東北弁をまじえながら紹介してくれた。そして「こうした先人の苦労があって、いまようやくこうしたことが社会的に認知されるようになったのです」と語っていた。

 そしてこの集会を主宰した見晴台学園のことにも触れ、「そこに発達障害児や青年たちが学ぶ場があるということがなによりも大切なのです。そしてそこで学んでいる子どもたちのいきいきと楽しそうな様子こそが、私たち障害者を子どもに持つ親たちに大きな希望と勇気を与えてくれます」とも語っていた。

 講演会の後、私は持参したサンドイッッチを食べて、午後の分科会に参加した。7つある分科会のうち私が参加したのは「語ろう、学ぼう、青年フォーラム」という分科会である。そこに60名あまりの発達障害を持つ児童・青年たちが集っていた。

 まず全員が自己紹介やパフォーマンスをした。とても障害者とは思えない活発で楽しい子どもたちが大半で、冗談が飛び出し、和気藹々の雰囲気だった。私も飛び入りの参加者として、みんなの前でマイクを握り、およそこんな挨拶をした。

「こんにちは。私は名古屋市内の定時制高校で教えている橋本といいます。私の生徒のN子さんが見晴台学園の卒業生なんです。今日の集会のことは彼女から聞きました。見晴台学園はとてもたのしいすばらしい学園だときいています。今日皆さんとお会いできて、とてもうれしいです」

 私が自己紹介を終えた後、司会を担当していた先生が、「私が見晴台学園でNさんの担任でした。よろしくおねがいします」と名刺を持って挨拶に見えた。

 N子さんは中学を卒業した後、見晴台学園で5年間学んで、私たちの定時制高校に入学してきた。今年2年生になって私のクラスになったが、級友とも教師ともほとんど口を利かない生徒だった。

じつはそんな生徒が私のクラスに3人いる。3人とも勉強ができないわけではない。無遅刻無欠席でまじめにがんばっている。ただ発語が困難なので、人間関係が築けない。N子さんもその一人だった。

 ところが去年の暮れ頃、私のところに「お話したいことがあります」というメモを持ってきた。さっそく私は授業後N子さんを残し、教室で1時間ほど話した。といって、このときもN子さん自身はほとんど口をきかなかった。

「今日はどんな話があるのかな」と私が聞いても、じっと表情をこわばらせて、一言も答えない。「学校のこと?」ときいても、軽く顔を横にふるだけだ。「家のこと?」と訊くとかすかにうなずいたが、言葉が返ってくるわけではなかった。

 そんなわけで、教室で1時間ほど面談したものの、私は一体彼女が何を悩んでいるのか、さっぱりわからなかった。しかし、私には彼女が私に何か訴えようとしていることはわかった。それは私の数々の問いかけに言葉を返せなかった彼女が、それでもその場を離れようとしないばかりか、ときに眼に涙を浮かべていたことからわかった。

 最後に私は、「思っていることを文章にして見せてくれないかな。僕に手紙を書いて欲しい。まあ、無理強いはしないけどね」と言って、彼女を帰した。ところが数日後、彼女は便箋3枚にびっしりと細かい文字で手紙を書いてきた。

 とてもよくかけた文章だった。言葉を発せないN子が、これほど繊細な文字で美しい文章が書けるのが意外だった。そして彼女が何を考え、何を悩んでいるのかもよくわかった。それはかなり重い問題なので、私には答えることができなかったが、とにかく私もさっそく手紙を書いた。

 冬休みをはさんで、そんなやりとりがN子と続いた。私がもっと見晴台学園のことを知りたいと訊ねると、見晴台学園が発行した「LD・ADHDが輝く授業づくり」(クリエイツかもがわ)という本も貸してくれた。これを読んで、見晴台学園のすばらしい教育実践について知ることができた。

 私を全国LD実践研究集会へとうながしたのもN子である。彼女と出会わなかったら、この集会に参加し、堀田めぐみさんの講演を聞くことも、発達障害を持つ若者とこんなに近くで触れ合うこともなかっただろう。

分科会の後、5時半から大学の食堂で歓迎レセプションがあり、そこでN子さんも交えてその先生ともゆっくりお話しするつもりだった。しかし、その頃から雪がはげしく降り出した。私はやむなくその分科会を抜け出して吹雪の中を帰路についたが、心はほのぼのとあたかだった。


2008年02月10日(日) 静かならざる日々

第二章 暑さの残り(1) 

 九月になっても残暑がきびしかった。新聞を読むと温暖化の影響だと書いてある。世界の平均気温がこの100年間で1度近く上昇したらしい。そのせいで気候の変動が大きくなり、旱魃や洪水が多くなった。このままだと北極海の氷が解けて、北極クマが激減しそうだという。

信夫はそんな記事を読みながら、紅茶を飲み、バタートーストを食べていた。春江と二人の孫は一週間ほど前に名古屋の神岡家に遊びに行ったきり帰ってこない。おかげでのんびりできる。もうしばらく一人暮らしを満喫していたいと思っていたが、昨夜、神岡から「そろそろ、来ないか」と電話があった。

信夫は「そろそろ潮時なので、迎えに来てくれ」と受けとって、「ああ」と返事を返した。そのあと、いろいろ話をして電話を切った。話題の一つには温暖化の話もあった。神岡によると、北極海の白熊ばかりではなく、動物園のペンギンも困っているようだ。

神岡のいう動物園というのは、東山動物園のことである。どうやらこの暑いのに、神岡は5歳になる典子を連れて動物園に行ったようだ。神岡の家から車で20分足らずでそこに行くことができる。典子はキリンやペンギンを見て、うれしそうだったという。プールに氷が浮かんでいたらしい。

名古屋に住んでいたころは、信夫もよく東山動物園に行った。信夫はペンギンが好きだった。歩き方ひとつとっても、なんとなくユーモラスで憎めない。春江も子どものころ、キリンや象やペンギンを見て喜んだ。

神岡と電話をしながら、そんな昔を思い出した。死んだ妻と最初にデートしたのも、東山動物園だった。そして妻と交際する前に、信夫は何人かの女性たちとお見合いをしていたが、彼女たちとのデートの場所も動物園だった。ほかにデートスポットを知らなかった。

信夫が名古屋に来たのが24歳の春だ。金沢大学を6年かけてどうにか卒業し、名古屋大学の大学院に進学した。大学院に4年間在籍した後、28歳で愛知県の県立高校の教師になった。最初の学校で信夫は神岡と知り合った。

神岡は当時30歳で、すでに英子と結婚していた。英子は神岡の最初の教え子で、高校を卒業すると二年間短大にかよった。そして卒業と同時に神岡と結婚した。英子の親は反対したが、耳をかさなかった。だから結婚式も正式にはしないで、結婚届けを出した後、京都に一泊旅行をしたが、それが新婚旅行だった。

英子の親が結婚に反対した理由は、神岡の出生に関係があるようだ。母親が広島の被爆者で、すでに母親は原爆症が原因と見られる血液の病気で死んでいた。そのことを知って、英子の親が反対しはじめた。しかし、英子はあとにひかなかった。そして現在の貸家を見つけて、一緒に住み始めた。

信夫が新任教師として神岡のいる県立高校に転勤してきたのは、その3年後のことで、23歳の英子はすっかり落ち着いて、主婦としての貫禄がついていた。信夫が遊びに行くたびに、すき焼きで歓待してくれた。

その後、信夫は神岡や聡子の紹介で数人の女性と交際した。そのなかの一人が静子だった。信夫は数ヶ月静子と交際したあと結婚し、神岡の隣の貸家に引っ越してきた。春江が生まれたのはその2年後である。

信夫は子どもをつくらない神岡夫婦が不思議だった。それであるとき水を向けると、「いやね、おれはお前と違って、どうもあっちが弱くてね」などと冗談半分にとぼけていたが、やがて、「母が被爆者だからな」とぽつりと口にした。信夫は神岡が生まれる子どものことが心配で子どもをつくるのをあきらめたのだと考えた。

それからしばらくして、神岡が信夫を家の近くの公園に誘い出した。池の中に突き出した浮御堂で、池に咲く蓮の花を眺めながら、神岡はいつになくまじめな口調で、聡子が子どもを生めない理由が自分の精子が異常だからだと打ち明けた。そして思いがけないことを切り出した。

「英子が子どもをほしがっている。協力してくれないか」
「なんだって?」
「英子に子どもを生ませてやってほしい」
「俺に浮気でもしろと言うのか」

 信夫は戸惑った。神岡はしばらく池の中の蓮の花や、その葉陰を動いている鯉をみつめていた。そうして気持を整理しているようだった。しばらくして神岡は口を開いた。

「浮気ではない。これは慈善事業だ」
「慈善事業……」
「お前は人助けをするんだ。お前と英子の子どもを、おれは自分の子どもだと思って、大切にそだてるよ」
「しかし、英子さんがどう考えるか……」
「あいつはお前の子どもがほしいそうだ」

信夫は言葉をうしなった。信夫は信じることができなかった。といって、このことを英子に直接問いただすこともできなかった。途方に暮れているうちに、この話はいつか立ち消えになった。その後、神岡はもうこの問題を持ち出さなかった。

バタートーストと紅茶の朝食を食べ終えた信夫は、縁側から庭先を眺めながら、そんな昔のことを思い出していた。英子の子どもを生んでいたら、もう24,5歳になっているに違いない。英子に似て、利発な青年に育っているかもしれないなどと、なにやら感傷的な気分になった。

そしてふと、この話を妻の静子は知っていたのだろうかと気になった。神岡はこの計画を静子には秘密のまま進めるつもりだったのだろうか。ひょっとして、神岡の計画が挫折したのは、静子の反対があったからではないのか。

名古屋市の借家からここに移ってきたのは、神岡からそんな話があって数年後のことだった。その頃はすでに二人の気持が微妙にずれはじめていた。信夫が家を買おうと思ったのは、そんな夫婦の関係を立て直したいと思ったからだ。

静子も家を買うことに反対はしなかった。むしろ乗り気でさえあった。しかし、神岡夫婦と離れてみても、その後、二人の関係は悪くなるばかりだった。

信夫は些細なことで苛立ち、静子に当り散らした。それを見て、春江が泣き出すこともあった。どうしてあの頃、どうしょうもなく心が荒れていたのか。信夫は不平不満の塊だった当時の自分を思い出して、何だかいたたまれなくなった。

信夫は立ち上がると、縁側に出て空を眺めた。まだ残暑が厳しかったが、空には秋の気配があった。信夫は縁側の陽だまりの中にいながら、ひんやりとした気配を感じて立ちすくんだ。


2008年02月09日(土) 人生の微分と積分

昨日は人生の大波小波をサーファーの気分でやりすごす話をした。現在の瞬間、瞬間に意識を集中し、現在を中心に、そのさまざまな変化の相を読み取る。そうして人生の変化を楽しんだり、味わったりする。こうした生き方を私は「微分型の人生」と呼んでいる。

「微分」というのは「細かく分ける」ということだ。数学的に言うと、一次的な変化、二次的な変化(変化の変化)、さらにその変化のその奥に潜む変化、という具合にどこまでも深く世界の実相に緻密に迫っていく。だから、微分型の人生で大切なのは、「今を精一杯たのしく生きる」という姿勢である。

 これに対して、毎日こつこつと努力を続けて成果をあげるというのは、「積分型の人生」である。「積分」というのは、「細かく分けたものを積み重ねる」という意味である。個々の時点での経験を積み重ねて、人生を大きく捉える。

微分が分析なら、積分は総合である。物理学でいう速度や加速度は微分して得られる量であり、面積や仕事量は積分して得られる量である。物理学の場合は自然界の法則は微分方程式で与えられることが多い。そしてこれを積分することで、未知の積分量を求める。

私たちの人生も、さまざまな経験が積み重ねられて出来上がっていく。個々の変化を分析することも大切だが、そうして千変万化する現実を前にして、これをどうやって乗り切るかと言うことになると、大局的な判断が大切になる。

 今を生きることも大切だが、過去の思い出や経験も大切である。また未来に対する見通しや夢や希望を持つことも大切なことだ。理想の人生を生きるためには、私たちは人生の微分術と積分術に習熟する必要がある。

 微分術と積分術は個人的な人生を考えるときばかりではなく、国や世界のあり方を捉えるときにも役に立つ。とくに政治や経済の分野では必要不可欠なアイテムだ。政治家はこれに習熟して、国民を幸せへと導く正しい判断ができるようになってほしい。


2008年02月08日(金) 人生のサーフィン

 私はやったことがないし、またやれそうにもないが、サーフィンをしている人を見て、面白そうだなと思うことがある。次々と押し寄せてくる荒波に果敢に向かっていく。しかもベテランになると滅多なことで転倒したりせず、波乗りそのものを楽しんでいる。

私たちの人生も荒波の連続である。一つの波が去ると、また次の波が控えていて、私たちの頭上に襲いかかってくる。これをどうしのいでいくか。そう考えると、なかなか大変である。

「さあ、荒波よ、どんとやってこい。見事に乗り切ってやるぞ」

その意気込みやよし。しかし、人生のサーフィンはむつかしい。私の場合は波乗りを楽しむというより、波にもてあそばれ、転倒につぐ転倒である。泣きたくなり、意気消沈したときもあったが、それでも何とか立ち上がり、悪戦苦闘の揚句、この年になったというのが実感だ。

人生の波乗りがちょっとだけ楽しめるようになったのは、最近のことだ。50歳を過ぎて、体力や気力が落ちて、もうそろそろ人生を引退しなければならない頃になって、ようやく波乗りのコツが少しわかった。

そのコツと言うのは、「無理をせず、子どものように波とたわむれる」ということだ。不恰好に転倒するのもよし、人に笑われるのもまた一興である。

そのくらいの覚悟がなければ、私のような不器用な人間には人生のサーフィンはむつかしい。さて今日はどんな波が寄せてくるか、サーファーになった気持で楽しむことにしよう。


2008年02月07日(木) 破格のたのしみ

去年は毎日一首ずつ短歌を作った。数年前には毎日俳句を作った。私はこういうふうに毎日何かをこつこつするのが好きである。決まった時間に起床して、日記を書き、散歩をする。こうして型にはまった生活をするのが、昔からの私のスタイルになっている。

外から眺めると、こういう生活はいささか窮屈に見えるかもしれない。不自由なつまらない毎日のようだが、じつはこの型にはまった生活の中に意外と大きな自由がある。短歌でも俳句でもそうだが、定型の枠があって、むしろそれが自由を作り出す培地になっている。

不自由の中に自由があるというのは、ちょっと不思議だが、考えてみれば書道でも茶道でも能でも狂言でも、およそ日本の芸事はみんなそうした側面を持っている。そしてこれは芸事の世界だけではなく、学問や遊びもすべてルールがあって、そのルールに従うことでおのおの独自の自由な空間を作り出している。

自由は決して勝手気ままなものではない。自由は何らかの枠や制約があって、はじめて生み出されてくる。したがって、そこには学習や習熟といった経験的な要素も大切になる。毎日こつこつ勤しむという私のスタイルは、学問や芸事には都合のよい生き方ではないかと思う。

そして、型にはまった生活には、もうひとつ楽しみがある。それはこの型を破るという楽しみだ。ときにはハメをはずして冒険をしてみる。そのわくわくする気持が味わえるのも、日頃型にはまった生き方をしているからだ。格を知らなければ、「破格のたのしみ」も味わうことはできない。


2008年02月06日(水) 理想の文学

 今年の抱負は、HPに毎週小説を連載することである。完成すれば毎月1章ずつ、12章からなるかなり長い作品になる。自伝を別にすれば、これほど長い作品を書いたことがない。どんな小説ができあがるか、少し楽しみである。

宮本輝さんがNHK教育テレビの「人生の歩き方」の中で、阪神淡路大震災の体験を語っていた。書斎の窓ガラスが割れて、その断片が後ろの壁に突き刺さっていたそうである。そこに座っていれば、まちがいなく命はなかったそうだ。

大震災があった1995年といえば、私が自伝「幼年時代」を書きはじめた年だ。自伝を書きはじめた動機のひとつに、この大震災があった。何が起こるかわからないという人生に対する危機意識が、私をして自伝を書くことへと向かわせた。

毎朝、4時頃に起きて、原稿用紙にして1枚程度の文章を書いた。これをこつこつと積み重ねて、300枚ほどの作品がその年にできあがった。そして翌年には、「少年時代」を書き、続いて、「青年時代」「就職まで」を次々と書いた。われながらよく書いたものだと思う。阪神淡路大震災という大惨事を目撃して、人生の無常を感じなければ、これだけの自伝はかけなかったに違いない。

宮本さんの場合は、この地獄を直接体験したわけで、その衝撃はさらに大きいものがあったに違いない。NHKの番組で、彼はその体験にふれたあとで、小説家としての抱負を次のようにしみじみと語っていた。

<水と思って飲んだら血だったという、そういう文章を書きたい。何気ない、なんでもないふつうの、さらさらと水が流れるように始まって、さらさらと水が流れ去っていくようにして終わる。そこには何も奇をてらったものはない。人間の営みがあるだけだ。

けれどもそんな水のような小説を、水だと思って飲んで、しばらくするとそこから何かもっと違うものが、読んだ人の心の中で化学反応を起こして、別のものが生まれてくる。こんなすばらしいことが実は秘められてあったのかと思わせる、そんな小説が書けたらすばらしい。そんな小説が書きたい>

 水の流れを思わせる自然な文章、平凡な日常を描きながら、その奥に人生の真実を捉えている静かな文体。水だと思って気楽に飲んでいたら、それが命の水となり、心の血液として、読んだ人を温め、生命力の源泉にもなる。そんな作品が書けたらすばらしいことだと思う。


2008年02月05日(火) 人生の宝物

 NHK教育テレビに「人生の歩き方」という番組がある。作家や学者、俳優、プロレスラー、歌手、実業家など、各界で活躍したさまざまな人の波乱万丈の人生の歩みが紹介されていて、私のように人生経験の浅い人間は、見ていて大変参考になる。

 先日の番組「宮本輝 流転の歳月」(4回シリーズ)では宮本輝さんの作家人生が紹介されていた。古屋和雄アナウンサーのインタビューに答えて、宮本さんが自分の人生を赤裸々に語っていて、なかなか見ごたえがあった。

 最終回の放送で、宮本さんはこんな印象的なことを語っていた。彼は若いときにある人から「50歳を過ぎた人間の情熱しか信じない」といわれ、そのことをずっと考え続けたのだという。

そして47歳のとき阪神淡路大震災で九死に一生を得、それから鳩摩羅什 (くまらじゅう)の業績をしのびながら、過酷なシルクロードを40日ほどかけて歩く中で、自分自身50歳を過ぎて、この言葉がようやくわかってきたという。

<50になるということが、ものすごくありがたいことのように思えた。これまで、ただ生きていたんじゃない。偶然じゃない。これはすごいことなんだ、ということ。

 人生には何ひとつ無駄というものはない。あのとき思い通りに行かなくてよかったなあ、と思うときが必ずくる。自分がこれでもうおしまいだと思ったり、悲観して俺はもう駄目だ、廃人だと思ったこともある。でも、それが本当に、ものすごくありがたい、宝物のように思えてくる>

 人生は思うようにはいかない。若い頃はそれを残念に思い、自分はなんと悪い星のもとに生まれたのかと、世間をうらんだりする。しかし、そうした「思い通りにならない人生」こそが、ほんとうに大切な人生の宝物だということに気づく。

 私も50歳を過ぎて、「因縁」ということを深く考えるようになった。そしてよくもまあ、この年まで無事に生きてきたものだなあ、という感慨を覚えることが多い。「ありがとう」とたくさんの存在にたいして頭を下げたい気持になる。


2008年02月04日(月) 扶養家族がいっぱい

 去年の4月に次女が就職して、私の扶養家族は妻だけになった。これを機会に、家計もいくらかゆとりがうまれた。とくに私の小遣いがアップしたので、私のおごりで妻と二人で喫茶店に行ったり、外食したりする機会も増えた。

一昨日も尾西文化会館へ「KOBUDO」の演奏会を聴きに行った。ピアノ(姉尾武)と尺八(藤原道山)とチェロ(古川展生)の若手3人の生きのよいアンサンブルである。曲目の中に私の好きなカザルスの「鳥の歌」やラフマニノフのピアノ協奏曲第二番、「荒城の月」などがあった。

とくに古川展生のチェロの温かい音色には妻ともども聴きほれたが、藤原道山のシャープな尺八もなかなかいい味を出していたように思う。これからはこうした文化的な体験をふやして行きたい。

さて、昨日は妻と二人で木曽川の河原に行き、妻がトビやアオサギに餌をやるのを眺めた。エサはカシワの皮だ。これが彼らの好物らしい。あいにくの小雨模様で、いつもの半分しか来なかったが、それでもトビが10羽、アオサギが3羽、カラスも数羽来て、妻が川の中に撒くエサをわれがちに奪っていく。

妻はこのほかに、用水路の方にも毎朝小魚を撒きに行く。ここにはシロサギが何羽も妻が来るのを待ち構えている。妻の顔を見ると、「ガア」と鳴いて寄ってくるのだという。妻は以前からこれをやっていて、4年前に妻が入院したときには、私がエサやりを代行させられた。

ところで、心配なのは毎日のエサ代である。昨日妻にこの点を問いただすと、「小魚だけで毎月1万円くらいかな」という。これにカシワの皮代を加えればさらに出費は増えるはずだ。扶養家族は妻一人だと思っていたが、いつの間にか私の扶養家族にシロサギやアオサギやトビたちが何十羽と加わっていた。これには驚いた。

――――――――――――

参考までに、「鳥の歌」についての有名なエピソードを、チェリスト井上頼豊の「回想のカザルス」(新日本新書)より引用しよう。

<95歳直前の1971年10月24日が、カザルス最後の国際舞台になった「国連デー」記念コンサートである。いまだに語り草になっているこの公演は、豪華な出演者への期待もあり、国連総会参加の各国代表とその家族たちで、大会議場は超満員だった。

 この日のためにカザルスが作曲したオーケストラと合唱のための《国際連合への賛歌》が初演され、ウ・タント事務総長がカザルスに国連平和メダルを贈った。つづいてスターンとシュナイダーによるバッハ《二つのヴァイオリンのための協奏曲》や、ホルショフスキー、ゼルキン、イストミン協演のバッハ《三台のピアノのための協奏曲》などのあと、もう一度《国連賛歌》が演奏されて、プログラムは終った。指揮台をおりたカザルスは、しずかに客席に話しかけた。

 「私はもう十四年もチェロの公開演奏をしていませんが、今日は弾きたくなりました」
 運ばれてきた愛用のチェロを手にとって、彼はいう。

「これから短いカタルーニャの民謡《鳥の歌》を弾きます。私の故郷のカタルーニャでは、鳥たちは平和(ピース)、平和(ピース)、平和(ピース)!と鳴きながら飛んでいるのです」
 彼は右手を高く上げて、鳥が飛ぶように動かしながら、ピース、ピース!とくり返した。

「この曲はバッハやべートーヴェンや、すべての偉大な音楽家が愛したであろう音楽です。この曲は、私の故郷カタルーニヤの魂なのです」

 静まり返った会場に流れた《鳥の歌》。その感動をことばで表現するのはむずかしい。強いていえば、巨匠の人生と思想がこの短い曲に凝縮されて、聴くものの心をゆさぶった、ということだろうか。全聴衆と演奏者が、そして世界に放映された録画に接した人たちが、同じように涙を流したのだった>

http://www.pippo-jp.com/peace/index.html


2008年02月03日(日) 静かならざる日々

第一章 暑さのさかり(4) 

 信夫と神岡が額の汗を拭きながら庭に入っていくと、縁側で春江が純也に乳を飲ませている最中だった。典子は縁側から少し離れた畳の上で昼寝をしていた。いつもの習慣で、小熊の縫いぐるみを隣においていた。

春江ははだけたブラウスの胸を片手で隠すようにしながら、神岡に挨拶した。神岡は「やあ、春江ちゃん。ひさしぶり」と、相好を崩して、春江に近づいて腰を下ろした。

「最後に会ったのは、高校生の頃だものね」
「はい」
「きれいになったね」
「それほどでも」

春江の和んだ態度が珍しかった。静子が事故死したあと、娘の春江から笑顔が失われた。十日ほど前に二人の子どもを連れて帰ってきてからも、春江の表情は神経質にとがっていた。それが今はいくらかやわらかく見えた。

「信じられないね。春江ちゃんがお母さんだって」
「それ、どういう意味でしょう」
「だって、おじさんの家に遊びに来て、寝しょんべんしたろう」
「いやなおじさん」

春江はタオルを胸の前にあてて、乳首を隠しながら純也を引き離した。純也がそれを嫌って、タオルの端を掴み強く引いたので、ふくらんだ胸があらわになった。春江はあわてて乳首を純也に含ませた。神岡は手を伸ばして、純也の頭を撫でた。

「純也君、いくつになったの」
「もうすぐ1歳と3ケ月です」
「そうか」
「なかなか乳離れをしなくて」
「しばらく見ないうちに、おっぱいも大きくなった」
「あんまり見ないでください」

そういいながら、春江は微笑んで乳を与えていた。盛り上がった乳房に静脈の葉脈のような青い線が浮いている。信夫も庭先から春江が乳を与える様子を眺めていた。久しぶりにやさしい気分になった。

座敷で寝ていた典子も置きあがって、小熊の縫いぐるみを抱えて縁側にやってきた。春江に「神岡のおじさんよ。ご挨拶をしなさい」と言われて、眠たそうな顔をして頭を下げた。神岡はその頭を撫でながら、信夫に声をかけた。

「いいものだね。小さい子がいると、家の中が明るくなる」
「まあ、そうだな」
「うらやましいね」

 神岡夫婦には子どもがいなかった。そのことで神岡は淋しい思いをしていたようだが、「うらやましい」という言葉は意外だった。神岡が思い出したように春江に言った。

「春江ちゃんも、このくらいのとき、縫いぐるみを抱いていたよ」
「そうですか」
「おぼえていないの」
「ええ」
「やはり小熊のぬいぐるみだったな」

二人の会話に、信夫が割って入った。春江がちょっと意外そうに顔を上げた。神岡がうなずいて、信夫と春江の両方を交互に眺めながら話を続けた。

「春江ちゃんはほかにもパンダとか、いろいろもっていたね」
「パンダは誕生日祝いに、買ったんだ」
「パンダはクリスマスのプレゼントだったわよ」
「ああ、そうだったな」

 信夫が春江とこんな会話をするのは初めてだった。神岡が中に入ることで、親子の気持が少しだけ寄り添ったようだ。それでもまだ春江は信夫をまっすぐ見ていなかった。神岡とは眼を合わせるのに、父親と目が合うのは避けているようだった。

信夫も縁側に腰を下ろした。そうすると春江の乳首を吸っていた純也が、信夫を見てはじめて笑った。信夫が顔を近づけると、乳臭い甘いにおいがした。春江が胸元から純也を離しながら、

「麦茶でももってきましょうか」
「ああ、たのむよ」

春江が純也を差し出したので、信夫が抱きかかえた。それから春江は台所に行った。典子が縫いぐるみを抱いたまま、母親を追った。蝉の声もやんで、あたりがしんとした。神岡は庭を眺めていた。

「ずいぶん荒れているじゃないか」
「うん、放って置いたからな」
「どうだ、また、やりなおすか」
「そうだな」

 信夫は苦笑した。20年前に家を買って庭作りを始めたころ、神岡は信夫の家に泊まりこんで、一緒に手伝ってくれた。石灯篭を買いに行ったのも神岡と一緒だった。そのころは妻の静子も乗り気で、庭に水仙や忘れな草などを楽しそうに植えていた。

「また、やりなおすか」という神岡の言葉が、信夫には今後の自分と春江たちの人生もふくめているように響いた。神岡の気持はありがたかったが、信夫はその気になれなかった。胸の奥に固まっている根雪のような冷たい感情をどうすることもできなかった。

春江の運んできた麦茶をうまそうに飲んだ後、神岡は「ああ、おいしいお茶だった。生き返った」と言って立ち上がった。

「春江ちゃん、一度遊びにおいで。泊りがけでね」
「ありがとうございます」
「家内も顔が見たいと言っていたよ。典子も純也も連れておいで」
「はい、そのうち、おじゃまします」

「ゆっくりしていけよ」と信夫が引きとめたが、神岡は「今日はそうもしていられない。これから会うんだ」と、信夫にウインクしてみせた。やはりここへ立ち寄ったのもアリバイ作りだったのかと、信夫はあきれて笑うしかなかった。

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「静かならざる日々」
http://hasimotohp.hp.infoseek.co.jp/rensai.htm


2008年02月02日(土) 道を譲らない人

 人とすれ違うとき、お互いに少しずつ譲り合う。これが大人のエチケットだと思うが、世の中には絶対に譲らないという頑固な人もいる。たとえば狭い道を車ですれ違うとき、相手が譲らないので、仕方なく路肩に車を寄せて溝の中に車を脱輪させたことがある。

その車は走り去ってしまった。腹が立ったが、こちらが譲らなかったら前面衝突事故になっていただろう。命知らずの無謀運転というしかないが、世の中にはそんな人もいるのだと、あきらめるしかなかった。

あるいはこんなことも経験した。前の車につづいて駐車場に入ろうと路肩に止まっていたら、いきなり前の車がバックしてきた。予想していなかったのであわてた。そして警笛をならそうとしたが、ときすでに遅く、はでな音を立てて衝突した。

前の車の運転席から中年の女性がすぐに降りてきた。こういう場合は、まず「すみません」と謝るものだろう。ところがその女性はこともあろうか、「あなた、私の車がバックするのが見えなかったの」と平然と言う。車がいきなりバックしたときも驚いたが、それ以上にこの女性の無神経さに驚かされた。

世の中にはこうした傍若無人な人がいくらも存在する。たとえば、妻と散歩をしていて、ある男性とすれ違った。妻が言うにはその男は絶対に自分から道を譲らないそうである。私がその男と散歩中すれ違うことは滅多にないので、「ほう、そうかい」と軽く受け流していた。

しかし、ある日、たまたま向こうから歩いてくるのがその男だった。そこでわざと、その男とおなじ路肩を歩いていった。男は腹を突き出して、どうどうと歩いてくる。まったく道を譲る気配はない。しかたなく、寸前に私が身をかわした。妻のいうことは正しかった。

ところでこれには後日談がある。数日前のことだが、妻がその男とであったとき、妻も道を譲らないことに決めてまっすぐ歩いて行ったのだという。その結果どうなったか、さすがに男は寸前で身をかわした。つまり妻がこの時点では勝ったわけだ。

しかし、これには痛い落ちがついている。男は少し身をかわしながら、妻の片足を踏みつけて行った。妻が「痛い」と叫ぶと、「すみません」と涼しい顔で受け流して通り過ぎたという。

これはなかなかのつわものである。この勝負、痛い目を見た妻の分が少し悪いようだが、とりあえず妻の勇気をたたえておこう。


2008年02月01日(金) 三つの幸福

 フィリピンのセブ市の語学学校で学んだ英文の教材のなかに、「三つの幸福」と題されたエッセーがあって、これが今でも心に残っている。

第一の幸福は「欲望を満たすことによって得られる幸福」である。人はうまいものを食べたいとか、美人と交際したいとか、出世したいとか、さまざまな欲望を持っている。こうした欲望を満たすことで得られる幸福である。これを「欲望充足の幸福」と呼ぼう。

 第二の幸福は、「欲望から自由になることによって得られる幸福」である。欲望はきりがない。だから食欲、性欲、所有欲や支配欲と言った欲望にふりまわされていては、私たちはいつまでたっても心の安らぎは得られない。

そこである人々はこの欲望を抑制し、自らのエゴを捨てようとする。そうすることで私たちの魂に平安が訪れると説く。欲望から解脱できれば、何事にも囚われない「色即是空」のさわやかな境地を得ることができる。これを「欲望解脱の幸福」と呼ぼう。

 第三の幸福は「他者を愛することによって得られる幸福」である。人と人とが心を通わせ合い、助け合って生きていくなかで得られる喜びだ。これはエゴを離れている意味で第二の幸福と共通しているが、さらにその上にたって他者を愛するという積極面を持っている。あえていれば、「空即是色」の豊かさと色彩に満ちた幸福である。

算数でよく訊かれるのが、「なぜ、マイナスかけるマイナスはプラスになるか」という質問だ。これにたいする答えのひとつに、「否定の否定は肯定だから」というのがある。私たちは煩悩を否定して「空」の世界に入る。しかし、そこに安住しないで、もう一度「空」そのものを否定することで、再び現実の世界に回帰する。そしてそこで得られるのがすべてのものが光り輝く「愛の世界」である。

私にこれを教えてくれたのはジェニー先生だった。私たちはこのテキストを読みながらが、いろいろと「幸福とは何か」ということについて議論したが、敬虔なキリスト教徒ジェニーは、愛の中でももっとも素晴らしいのは「神に対する愛」だと主張した。若くて溌剌とした彼女に東洋的な「空」の思想を理解してもらうのはむつかしかった。

(参考)
「セブ島留学体験記」
http://hasimotohp.hp.infoseek.co.jp/cebu.htm





橋本裕 |MAILHomePage

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