橋本裕の日記
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2007年08月31日(金) 8月の短歌

いよいよ8月も今日でおわりである。セブから帰ってきて暑い日が続いたが、その異常な暑さもようやく収まって、秋の気配が感じられるようになった。うれしいことである。8月分の短歌31首をまとめて紹介しよう。

雨上がりムーン・カフェでビール飲むワサビタコスを皆で食べつつ

はっぴ着て鉢巻をするおとめらのりりしき笑顔なつかしきかな

肌の色言葉もちがう異国人なれどわれらはみんなひとつ

肩並べ夜景を見れば花火見ゆ娘のごとく君をいとしむ

浜辺にて夜空を見ればひさかたに天の川見る椰子の葉陰に

椰子の葉の家に泊まれば星月夜風の音までやさしく届く

あたたかな人の心にいくたびも触れ行く旅はたのしくあるかな

思い出の写真眺めてしみじみと出会いの幸を噛みしめている

異国にて英語を学び今日もまたわれをゆさぶる新たなことば

いつしかや異国になじみ友人と会話たのしむ拙なき英語で

友と飲み語れば楽しセブの夜ナイトクラブのやさしい歌声

セブ島の白き浜辺を見下ろして別れを告げる雲の上より

思い出の白き貝を耳に寄せセブの海鳴りなつかしく聴く

家族そろいひさかたぶりの団欒に旅の写真も彩り添える

異国語を学べばたのし美しき世界が見えるわれらはひとつ

ものくれと痩せたかいなを突き出して挑むまなざしセブの子あはれ

飢えた子の哀しき瞳はいつまでも心に残りさびしかりけり

蒼白き時の流れに身をまかせ息をしている星のかたすみ

朝涼を探して歩む散歩道蝉が路上で仰向けに鳴く

雷鳴に心躍れどわずかなる雨粒おとし雲は過ぎ行く

陽炎の燃える暑さや夏帽の庇は涼し赤とんぼ行く

学びつつ旅する人生いつまでも心うきうきコスモスゆれる

ひさかたに雨の音きく障子戸を開ければ闇にひしめく葉音

競争の悪しき世界に身をさらしこころ曲げるな美しくあれ

蝉時雨ききつつ歩む田舎道草に落ちたるわが影あわし

あかかと沈む夕日を眺めつつ過ぎゆく夏を愛おしみたり

風騒ぐ木立に入りて目を閉じる葉ずれの音に遠き日思ふ

白花の夾竹桃のもとにきて夏の終わりの蝉の声きく

旅すればそこがふるさとしみじみとなつかしきかな異国の町も

なにゆえに争いごとの絶えざるや人のこころに棲みつく鬼たち

(今日の一首)

雨にぬれ風に吹かれてゆく道もこうべあげればたのしき人生


2007年08月30日(木) 戦争が起こるしくみ

 先週の土曜日の同僚の教師だった5人の飲み会で、去年まで体育科の先生だったTさんが、今年の夏にNHKが放送したいくつかの過去の戦争についての番組について、「今年はとくに戦争関連の番組が多かったようだね」と口火を切った。これについてみんなの感想が続いた。

私たちは5人とも戦後世代である。しかし、私たちの父母は戦争を体験している。戦争がどんなに悲惨なものか、その体験談を直接聞いている。しかし、そうした戦争体験者も高齢化し、大方なくなってしまった。政治家を含めて、今の日本は戦争を知らない世代が社会の中枢部を占めている。

これからどんどん昭和の戦争は遠くなり、戦争体験も風化していくのだろう。そして、戦争を知らない世代が憲法改正に賛成し、防衛庁を防衛省に昇格させて、教科書の内容まで変えようとしている。これまで平和路線を守ってきた経済界も、「武器を作らず」という戦後の原則を反故にして、軍需産業に参入したいようだ。

これについて私たち5人の間でさまざまな危惧の声が上がったが、社会科の現役教師のIさんは、「だからといって、過去の戦争体験ばかりにこだわっているのも問題だ」という。なぜなら、「戦争は決して過去のものではない」からだ。

世界中で今も戦争や紛争が続いている。そして現に多くの人間が殺され、難民となっている。62年前に起こった広島や長崎の体験を振り返ることもよいが、もっと大切なのは、現在の世界の悲惨に目を向けることではないのか。こうしたIさんの発言に、みんなが「一理あるね」とうなずいた。

「戦争はなぜ起こるのか」という問いに、「争いが好きなのは人間の本性だ」と答える人もいるだろう。かってアインシュタインとフロイトが往復書簡でこの問題を論じたときに、フロイトはこうしたニュアンスで戦争を廃絶することのむつかしさに言及していた。

しかし、私は「争いや破壊を好む」のが人間の本性や利己的な遺伝子の本能だとは考えない。人間のこころも社会の産物である。戦争が起こる(戦争を起こす)のは、そうした土壌が社会にあるからだ。戦争を抑止する上で、戦争は悲惨だという思いとならんで、戦争が起こるしくみについて理性的に理解することも重要である。

残念ながら、この夏放送された戦争関連のたくさんの番組をみても、こうした観点から掘り下げられたものは少なかった。これが現役の社会科教師のIさんの大いなる不満だったようだ。Iさんが言うように、私たちは「戦争が起こるしくみ」についてもっと深く理解しなければならない。そうすれば平和憲法の価値がよくわかる。

私自身は「戦争はなぜ起こるのか」という問題を考えるとき、とくに忘れてならないのは経済的視点ではないかと考えている。そしてこうした観点から、これまでに多くの文章を書いてきた。それをひとつにまとめたのが「何でも研究室」の「戦争経済学入門」である。

http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/sensokei.htm

(今日の一首)

 なにゆえに争いごとの絶えざるや
 人のこころに棲みつく鬼たち


2007年08月29日(水) 旅すればそこが故郷

 25日の夜の6人衆の飲み会(実際は5人)で、まず話題になったのが各自の健康状態だった。最高齢のTさんは毎日走っている。最近はそれが次第に辛くなってきているが、「最近肌が若返ったようね」と奥さんに言われてうれしかったので、これからも走り続けたいという。

それを隣で聞いていた僧籍にある坊主頭のMさんが、「それは奥さんの目が衰えたせいじゃないの」とまぜかえす。現役の社会科の先生であるIさんが、「そんな無理する必要はないよ。若返るのではなく、老化して早く死んだほうが、社会のためになる」と、これまたきついことを言う。

私も横合いから「70歳をこえて長生きしたくないな」といい、深沢七郎の「姨捨山考」の話をした。「とくにおりん婆さんはいい。僕も死期を悟ったら早めに山の中に入り、絶食して死にたい」というと、これにはみんなうなづいていた。そして、越後にある良寛さんゆかりの「五合庵」に旅したときの思い出に花が咲いた。

 良寛さんのふるさとの出雲崎を6人で旅したのは、もう10年も前のことだろうか。そのときすでに教師を退いて曹洞宗の寺を継いでいたMさんが、熱心な良寛ファンということもあり、彼の案内であちこち良寛のゆかりの場所をまわった。

良寛の終焉の地となった木村家では、特別に当主の方から良寛の書や遺品の数々を見せてもらった。良寛のすばらしい書の数々を間近に見て、私もMさんに負けない良寛ファンになったものだ。

私たち6人はそれぞれ個性が違っていて、他からみればひと癖ありそうなはぐれ者の集団だ。しかしそのせいで、そんな一味違った旅が20年間も続いたのかと思うと、少し愉快になった。

(今日の一首)

 旅すればそこがふるさとしみじみと
 なつかしきかな異国の町も


2007年08月28日(火) 元気な退職者たち

演劇部の合宿を終わった25日の土曜日の夜に、名古屋で昔の仲間たちと一杯飲んだ。場所は地下鉄「久屋大通駅」から歩いて5分のところにある「多つ樹」というおしゃれな和風レストランである。ここで料理に舌鼓を打ち、ビールや日本酒、ワインなどを飲みながら3時間近く昔の仲間と語り合った。

昔の仲間というのは、20年ほど前の職場の同僚たちである。私も含めて6人のメンバーで、すでにその頃から毎年旅行に行っていた。今年も7月末に旅行に行く計画があったが、これがお流れになって、とりあえずこの日の飲み会になったわけだ。この日は家族旅行中のKさんをのぞき、5人が集まった。

この数年間の間に、6人のメンバーは次々に退職した。今年の春にもMさんが定年退職し、とうとう現在現役で教員をしているのは私とIさんの2人だけになった。57歳の私が一番若く、最高齢は66歳のTさんである。まずは、今年退職したMさんの近況報告を聞いた。

Mさんはテニスのコーチを頼まれて、テニススクールで教えているという。現職の頃からテニススクールの会員で、私も彼に連れられて、コートで若い奥さん方を相手に汗を流したことがある。もともと体育の教員だから、教え方がうまい。退職後、自分の好きなことで小遣いがかせげるのだから恵まれている。

彼は数年前から八ヶ岳の清里の近くに別荘を建てはじめた。一昨年の一泊旅行で、私たちは彼の別荘に立ち寄ったが、そのときすでに一部の内装を残してほぼ出来上がっていた。彼は週末になると、たびたびそこを訪れるのだという。日焼けして元気そうなMさんの話を聞いていると、私も退職後の生活がますますたのしみになった。

(今日の一首)

 白花の夾竹桃のもとにきて
 夏の終わりの蝉の声きく


2007年08月27日(月) 「国家の品格」を読む(4)

 犯罪大国のアメリカをはじめとして、先進国はすべて荒廃(on the road to ruin)している。環境破壊(environmental destruction)が進み、テロが横行し、麻薬やエイズも蔓延しようとしている。教育崩壊(collapse of education)による学力の低下(decline in academic achievement)や、犯罪の低年齢化もすべての先進国ですすんでいる。

このままでは世界は破壊され、人類は滅亡するしかない。それではどうしたらよいのか。藤原さんはだれもこの問いにしっかりした解答を与えることができないでいるという。

「世界中の心ある人々が、このような広範にわたる荒廃を「何とかしなければいけない」と思いながら、いっこうに埒があかない。文明病という診断を下し眉をくもらせているだけという状況です。この荒廃の真因はいったいなになのでしょうか。私の考えでは、これは西欧的な論理、近代合理精神の破綻に他なりません」

<Right-thinking people everywhere know that they “have to do something” to deal with widespread decay, but still they make no headway. All we can do is look grave and diagnose it as a “disease of civilization”. What then is the true cause of this societal decay? To me this decay represent the failure of Western logic and the modern spirit.>

産業革命と科学の発達が、現代の物質文明の繁栄をもたらした。そしてその根底にあるのは、西欧的な論理と近代合理精神である。たしかに、それはすばらしい進歩を私たちの文明の上にもたらした。そのため、私たちはこれを過信(put too much faith in then)するようになってしまった。

「論理とか合理というものが、非常に重要なのはいうまでもありません。しかし、人間というのはそれだけでやっていけない、ということが明らかになってきたのが現在ではないでしょうか。近代を彩ってきたさまざまなイデオロギーも、ほとんどが論理や近代的合理精神の産物です。こういうものの破綻が目に見えてきた。これが現在の荒廃である、と私には思えるのです」

<Logic and reason are extremely important. That goes without saying. But the present time makes it clear that they alone are not enough for people to live their lives by. Nealy all the different ideologies that have colored the modern age were the products of logic and modern spirit of reason. The bankruptcy of all such ideologies has now become apparent. And that, I believe, accounts for the ruination of the present.>

 藤原さんは近代的合理精神の産物として、共産主義をあげている。生産手段をすべての人が共有し、生産物も共有する。そうすれば貧富の差のない平等な、公平な、幸せな社会ができる。まさに「美しすぎて眩暈をおこしそうな論理」だ。

「しかし現実には、ソ連が74年間の実験で証明してくれたように、大失敗に帰しました。これを「ソ連の失敗であって共産主義の失敗でない」と強弁するのは誤りです。共産主義という立派な論理それ自身が、人類という種に適していないのです」

<As the Soviet Union proved in the course of its seventy-four-year long experiment, Communism ended up failing epically. One argument doggedly insists that the failure was on the part the Soviet Union, not of Communism itself. This is erroneous. Communism’s beautiful and magnificient logic is simply ill-suited to the human race.>

共産主義は論理としては完璧で、筋が通っている。しかし、現実はどうであったか。それは大失敗であった。論理的に整っているだけでは、実際の役にたたないばかりか、ときとしてとんでもない災難を人類に及ぼしかねない。藤原さんはそのように主張する。

私は共産主義が人類という種に適していないという藤原さんの断定にいささか疑問を持っている。しかし、共産主義者は自分たちが無謬であり、論理的に正しいということを売りにしていた。その意味で共産主義者たちは自己を過信するという誤りを犯していた。

共産主義運動が失敗したのは、それが論理的だったからではなく、論理的にも間違っていたからだ。本来の共産主義についていえば、それは実現することがそれほどたやすくはない、非常に高邁なひとつの理想である。そうした理想的な社会をどのようにして実現していくか、これは私たちに課せられた課題として、今もなお残されている。

(今日の一首)

 風騒ぐ木立に入りて目を閉じる
 葉ずれの音に遠き日思ふ


2007年08月26日(日) 合宿終わる

 昨日まで、2泊3日で演劇部の合宿をした。去年はS先生の別荘をおかりして、S先生と私、それから部員6名で賑やかにやったが、今年は女子部員3名と私だけの淋しい合宿になった。宿泊場所は一宮市にある「尾西グリーンプラザ」を使った。

最初の予定では男子部員2名も参加する予定だったので、部屋を女子用と男子用の二つ借りておいたが、これも1つにした。私は女子と一緒の部屋に宿泊することはできないので、家から通うことにした。家まで車で15分の距離だから、こんな離れ業ができる。

4人部屋の8畳間を女子3人で借りると、一人一泊あたりの宿泊費用は1800円である。2泊したので3600円かかった。このほかにバーベキューをしたり、体育館を4時間ほど借りたので、これらもふくめると、部員一人当たり7000円ほどの出費になった。それでも公共の施設を利用した分だけ安くすませることができた。

演劇部の合宿と言っても、ほとんど演劇の練習はしなかった。バーベキューをしたり、プールで泳いだり、自転車のレンタサイクルをしたり、つまりは遊んでばかりいたわけだ。「こんなことでいいの?」と疑問を投げかけると、部長が「合宿の目標は体力づくりです」という。

「それならどうぞ」ということで、私は彼らが「体力づくり」に励んでいる間、家に昼寝に帰ったり、ロビーでゆっくり読書をさせてもらったりした。おかげでずいぶん楽な合宿になった。しかし、10月にある文化祭での発表が無事成功するか、少し心配になってきた。

(今日の一首)

 あかかと沈む夕日を眺めつつ
過ぎゆく夏を愛おしみたり

明日から、新学期が始まる。生徒たちと、久しぶりの再会である。まだまだ残暑が厳しいので、これからの一、二週間は学校の授業がたいへんだ。もう少し涼しくなってほしい。


2007年08月25日(土) 「国家の品格」を読む(3)

藤原さんは、最近の5世紀を振り返って、「欧米にしてやられた時代」(a period that was hijacked by the West)だという。そして最近は完全に欧米に支配されてしまった。どうして欧米がこれほど強力になったのか。その最大の原因は「産業革命」(industrial revolution)だという。

「とりわけ産業革命は、世界史上最大の事件と言えます。これによって、欧米が世界を支配するようになったのです。産業の力で作り出した強力な武器さえあれば、鉛筆より重いものを持ったことのないような非力な白人でも、槍1本でライオンを倒せるマサイの勇士を簡単に倒せます」

<The industrial revolution in particular has every claim to be regarded as the most important event in world history. It was the industrial revolution that enabled the West to dominate the world. With the powerful weapons created by its manufacturing industry, even a feeble white man, who had never before picked up anything heavier than a pencil, could take down a Masai warrior who was strong enough to kill a lion with a single spear thrust.>

「産業革命の家元イギリスが7つの海を武力によって支配し、その後をアメリカが受け継いだ結果、いま世界中の子供たちが泣きながら英語を勉強している。侵略者の言葉を学ばなければ生きていけないのですから」

<Great Britain, the pioneer of the industrial revolution, controlled the seven seas through force of arms, and then was succeeded by the United State. As a result, children all over the world are forced, weeping and wailing, to study English. One cannot survive, after all, unless one learn the language of conqueror.>

 藤原さんは、もし日本が世界を征服していたら、「今ごろ世界中の子供たちが泣きながら日本語を勉強していたはずです。まことに残念です」という。もちろん、半分は冗談に違いないのだろうが、かって日本の植民地だった朝鮮半島や台湾の人たちが聞いたら、複雑な気持がするだろう。

藤原さんは、産業革命以前の西洋は取るたらない世界だったと書いている。「小さな土地を巡って王侯貴族間の抗争が続いており、無知と貧困と戦い(ignorance, poverty, war)に彩られていました。蛮族(savage tribes)の集まりであったわけです」と、なかなか手厳しい。続いて、日本文化の優秀性について、こう書いている。

「一方、日本は当時すでに、十分に洗練された文化を持っていました。文化的洗練度の指標たる文学を見ても、万葉集、古今集、枕草子、源氏物語、新古今集、方丈記、徒然草・・・と切がありません。この10世紀における文学作品を比べてみると、全ヨーロッパが生んだ文学作品より日本一国が生んだ文学作品の方が質および量の両面で上、と私は思います」

<By contrast, Japan of the same period already had a culture of considerable sophistication. If we focus on literature as one indicator of the degree of cultural refinement, then we come up with the “Manyoshu”, the “Kokinshu”, “the Makura no Soshi”, “the Tale of Genji”, “the Hojoki”, “the Tsurezuregusa”--- the list just goes on and on. A comparison of the works of literature produced over this ten-century-long period shows that Japan, Japan alone, is superior to the whole of Europe in terms of quantity and quality.>

万葉集から芭蕉にいたる1000年間の長きにわたる日本文学の隆盛は、世界の文学史の中でも特筆に値する。日本語を母胎とする日本文化のすばらしさを、私たち日本人がもっと知り、誇りに思うべきではないか。この点で、私は藤原さんに同感である。

(今日の一首)

蝉時雨ききつつ歩む田舎道
 草に落ちたるわが影あわし


2007年08月24日(金) 「国家の品格」を読む(2)

 アメリカに留学して、すっかりアメリカかぶれになった藤原さんだが、日本社会では論理一点張りのアメリカ流は通用しない。そうした中で、藤原さんは次第に論理の力を疑うようになった。40代前半の頃には、アメリカ流の「論理」よりもむしろ日本的な「情緒」を大切に思うようになったようだ。

「数年間はアメリカかぶれだったのですが、次第に論理だけでは事物は片付かない、論理的に正しいということはさほどのことではない、と考えるようになりました。数学者のはしくれである私が、論理の力を疑うようになったのです。そして「情緒」とか「形」というものの意義を考えるようになりました」

<My mania for American way persisted for several years until it gradually dawned on me that logic was not the answer to everything, and that maybe being logically correct was not really such a great thing after all. Here I was, a budding mathematician who had ended up questioning the value of logic! It was then that I began to start thinking about the meaning of Japanese terms like “jocho”(emotion) and “katachi”(forms of behavior).>

やがて藤原さんはイギリスのケンブリッジで1年ほど暮らすことになる。そこで論理よりも習慣や伝統、個人的な誠実さやユーモアを重んじるイギリス社会の懐の深さに触れて、藤原さんはますます日本的な伝統の形や情緒の大切さを痛感するようになった。

「イギリスから帰国後、私の中で論理の地位が大きく低下し、情緒とか形がますます大きくなりました。ここで言う情緒とは、喜怒哀楽のような誰でも生まれつき持っているものではなく、教育によって培われるものです。形とは主に、武士道精神からくる行動の基準です」

<After I came back to Japan from England, logic had become much less important to me, while, conversely, emotions and forms of behavior had become much more important. When I talk about “emotion”, I do not mean emotions like joy, anger, and happiness, which we all experience naturally; I mean emotions that fostered through cultural experience, like “natukasisa”, a sense of yearning for the lost, and “mono no aware”, an awareness of the pathos of things. By “form” I mean the code of conduct that derives chiefly from the “spirit of bushido”, or samurai ethics.>

戦前戦中を通して、アメリカかぶれから一転して「日本の伝統に回帰」した知識人は珍しくはない。藤原さんもその一人なのだろう。彼は自分のこの転進を、「論理重視」から「情緒重視」へというふうにわかりやすく総括している。そして、さらにこう書いている。

「戦後、祖国への誇りや自信を失うように教育され、すっかり足腰の弱っていた日本人は、世界に誇るべき我が国古来の「情緒と形」をあっさり忘れ、市場原理に代表される、欧米の「論理と合理」に身を売ってしまったのです。日本はこうして国柄を失いました。国家の品格をなくしてしまったのです」

<In the postwar period, the Japanese were ruined by an education system that gave them no pride or confidence in their native land. They simply forgot the country’s traditional emotions and forms of behavior---the very things that should make us proud to be Japanese. Instead we have made ourselves to the logic and reason of the West, as symbolized by the free market economy. This is how Japan has lost its national character and its dignity as a nation>

藤原さんは現在進行中のグローバル化(the current process of globalization)は世界を均一(worldwide homogenization)にするものであり、日本人はこの趨勢に敢然と戦いを挑まなければならない(find the courage to resolutely resist this trend)という。

日本はふつうの国(an ordinary country)になるべきではない。欧米支配下の野卑な世界(uncivilized world dominated by the West)にあって、精神的に卓越した「孤高の日本」(Japan the proud, Japan the different)となって、世界に範を垂れる(serving as a model for the rest of the world)ことこそが、人類への世界史的貢献(contribution to the whole human race)だと主張する。

その説にいささか独善(self-righteous)の匂いはするものの、なんとも高邁(high- minded)な意見ではないか。私は日本が範をたれるべきは、非論理的な日本的情緒や武士道精神だとは考えない。私は日本古来の「自然尊重の精神」に加えて、日本国憲法に代表される「平和と人権尊重の精神」もまた大切だと考えている。その意味で、藤原さんとはその理想にずれがあるが、高邁な理想追求の精神は見習いたい。

(今日の一首)

競争の悪しき世界に身をさらし
 こころ曲げるな美しくあれ


2007年08月23日(木) 「国家の品格」を読む(1)

セブで時間を見つけて、藤原正彦さんの「国家の品格」を読んでいた。右側のページに英訳がついているので、英語の勉強のために購入したものである。たしかにこれを読んでいると、「こう言いたい時には、英語でこういえばいいのか」と大変参考になる。

この本のタイトルは、英語では「The Dignity of the Nation」である。「はじめに(Foreword)」の冒頭に、藤原さんはこう書いている。

「30歳前後の頃、アメリカの大学で3年間ほど教えていました。以心伝心、あうんの呼吸、腹芸、長幼、義理、貸し借り、などがものを言う日本に比べ、論理の応酬だけで物事が決まっていくアメリカ社会が、とても爽快に思えました」

<When I was thirty or so, I taught for three years at an American university. In contrast to Japan, where unspoken understanding, instinctively sensing what other people are thinking, personally projection, respect for one’s seniors, and a sense of duty and mutual obligation count for so much, I found American society -----where everything is decided by logic---wonderfully refreshing.>

アメリカ社会ではすべてのことが「論理」で決められる(everything is decided by logic)というのは異論があるかもしれない。しかし、日本に比べて(In contrast to Japan)、アメリカ社会が「論理」を重視(count for)する社会であるというのは、ほんとうだろう。それは以心伝心(unspoken understanding)や情実(favoritism)を優先する日本社会とはずいぶん違っている。その理由を藤原さんは、次のように書いている。

「人種のるつぼと言われるアメリカでは、国家を統一するには、すべての人種に共通のもの、論理に従うしかないのです」

<The only way to keep a “melting pot” like the United States unified, it seemed, was to follow the dictate of logic, something that all people have in common.>

すべての人々が共通に持つ(all people have in common)もの、それが「論理(logic)」である。しかし、「論理」のような抽象物を共通項として国の統一を図るというのは、ほんとうに可能なのか。また、アメリカは実際そうなのか、私はこれに疑問を持っているが、今は深入りしない。

若い頃の藤原さんは、こうした論理重視のありかたに共感した。そしてそんなアメリカ社会がとても爽快に思えた(I found American society wonderfully refreshing)と書いている。

そして帰国後、この論理重視というアメリカ流を押し通して(do things the American way after my return to Japan)、教授会などでは自分の意見を強く主張し(state my opinions forcefully)、反対意見には容赦のない批判を加えた(relentless criticizing the opinions of others)。

しかし、結局(ultimately)、藤原さんは挫折した。自分の意見は通らず(my positions were never adopted)、会議の中で浮いてしまった(ended up being isolated at the meeting)のだという。(続く)

(今日の一首)

ひさかたに雨の音きく障子戸を
 開ければ闇にひしめく葉音


2007年08月22日(水) 学びつつ旅する人生

中野重治という作家が、「何が一番好きか」という問いに、「学問」と力強く答えていた。私がそれを読んだのは学生時代だったが、とても深く共感した。そして現在の私も、何が一番好きかと訊かれれば、中野重治のように、迷わず「学問」と答える。

「学ぶ」ことほど楽しいことはない。自然科学であれ、社会科学であれ、語学でもなんでもよい。とにかく「学ぶ」ということは人生に新しい発見と展望をもたらし、心を活性化してくれる。世の中に「学問」ほどスリリングで面白いものはない。

人生にあたらしい風をもたらすものには、「旅」がある。だから二番目に好きなことは何かと訊かれたら、「旅」だと答える。この夏はセブで3週間勉強し、そのために金欠病で青春18切符の旅ができなかったが、国内、国外を問わず、旅はたのしい。芭蕉のように人生そのものが旅だと感じられれば、人生をもっと楽しむことができるのではないか。

それから、私にはもう一つ、楽しみがある。それは「書くこと」である。とくに「学び」や「旅」のなかで体得したこと、感動したことを書くときは楽しい。人生そのものが学びの場であり、旅であるとすると、日常のあらゆる事柄が面白く感じられ、書くことの対象になる。

「旅をしながら、学び、それを文章として残す」というのは、人生の快楽が三拍子そろっているわけで、私にとってはいわば人生の理想形である。これからもこの「三位一体の幸福」をよりどころにして、人生を大いに楽しみたいと思っている。

(今日の一首)

 学びつつ旅する人生いつまでも
 心うきうきコスモスゆれる


2007年08月21日(火) 8年目のHP日記

HPに日記を書き始めたのが、1999年8月13日のことである。そしてこの8年間、一日も休まずに書き続けた。今日の日記が2928番目のHP日記ということになる。われながらよく続いたものだ。

これだけ書いていると、同じようなテーマのものも多くなる。それを一つにまとめ、日付にしたがって並べたものが「何でも研究室」に収録した文章群である。そのテーマは多岐にわたり、最初の「経済学入門」から、最近の「財政学入門」まで、75のタイトルがそろっている。われながらこれはたいしたものだと、自画自賛している。

最近は、日記を書きながら、「これは以前に書いたことがあるぞ」と、昔の日記を読み返すことがおおい。そういうとき、テーマ別にままとめてあると便利である。重複を避け、過去の考察を発展させる形で論考をすすめることができる。

ときには書いたことをすっかり忘れていることもある。新しい発見だと思って書き始めた日記なのに、過去に同じことを、さらに詳しく分析していたことを知って、書く意欲が萎えてしまうこともある。ときには自分の思考力の衰えを自覚すると同時に、頭が明敏に働いているうちに書き残しておいてよかったという安堵に似たような気分を味わう。

ともかく日記を書くことは私の生活の一部になっているので、これからも様々なテーマで書き続けるだろう。とくに面白い内容でもなく、文章も古色蒼然としているのに、何人かの人が毎日読んでくださり、ときおり感想のメールまでいただくことがある。これはとてもありがたいことだ。

(今日の一首)

 陽炎の燃える暑さや夏帽の
 庇は涼し赤とんぼ行く


2007年08月20日(月) LOSTを見る

セブから帰って1週間、のんびりと暮らしたが、まったく何もしなかったわけではない。毎朝早く起きて日記は書いていたし、散歩にも出かけた。学校にも何度か顔を出して仕事を片付けた。妻の実家にも顔を出して、義父にうなぎを奢ってもらったりもした。

それから、アメリカで人気のテレビドラマ「ロスト」の第一シリーズを14話まで見た。セブに行く前にKeizoさんからDVDを借りていたのを、この機会に一気に見たわけだ。このドラマは2005年エミー賞ドラマ部門最多12部門にノミネート、6部門で受賞し、全世界186ヶ国で大ヒットしたのだという。参考のために、そのあらすじを紹介しておこう。次のサイトからの引用である。

http://rosuto.sinjoho.net/archives/50109088.html

――――海外ドラマ LOST ロスト あらすじーーーー

優秀な医師のジャックが、青々とした木々が生い茂る森の中で目が覚め、身体の節々に感じる痛み、朦朧とする意識の中で騒音と怒号が聞こえてきます。

音を追っていくとジャックは、青空にかかる黒煙と、砂浜に突き立った旅客機の船体、そして怪我の人々が倒れ伏す光景で、自分の乗っていた旅客機が墜落したのだと気付いた彼は、助けを求める人々に走り寄ります。

自分に降りかかった不運を嘆く暇も、自分が生きているという幸運をかみ締める暇も、今の彼には無く医師としての職務に奔走します。

オーシャニック航空815便。それが彼らの乗り合わせた旅客機の名前で、無人島らしき島で生き残ったのは、機体の前方座席に乗っていた計48名。

国籍も年齢も職業も違う見ず知らずの生存者たちは、すぐに救助が来るだろうという楽観と思考放棄に揉まれつつも、生き残るために生存手段の確保を始めます。

島で過ごす初めての夜。同じ苦難に巻き込まれ、疲れ果てた生存者達は、日常からの乖離に不安を抱きながらも穏やかな夜を過ごしていましたが、突然不気味な咆哮が響き渡ります。

いままで聞いた事のない音であり、その音が生存者の不安を掻き立てます。

一体いつ助けはくるのか? 自分達はこの島から生きて出られるのか?

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英語のリスニング力を向上させるために、英語の音声と英語の字幕だけで見たので、細部まで理解できたとは思わないが、全体の話の内容はそれとなくわかった。子供だましのオカルトは嫌いな私だが、これはミステリー仕立てのなかなか面白いドラマである。

(今日の一首)

 雷鳴に心躍れどわずかなる
 雨粒おとし雲は過ぎ行く


2007年08月19日(日) 怠惰な日本の私

セブから帰ってきて、1週間になる。セブにいた3週間は充実していたが、その後の1週間は対照的に怠惰な毎日だった。なんだか急に張り合いがなくなって、何をしても気持がのらない。それに連日の猛暑である。散歩に出かけても、途中で気分が悪くなり、帰ってきたりした。

毎年、夏には青春18切符を買って旅行をしていたが、今年は旅行をする気力も湧かない。とうとうお盆だというのに福井の実家にも帰らなかった。これまで一度も欠かさなかった先祖の墓参りも今年はあっさり中止してしまった。

そして、家の中にごろごろしていると、つい間食をしたくなる。冷蔵庫を開けて、なにかめぼしいものがないか物色するのは、われながら何ともあさましい姿だ。セブから帰ってきて体重を量ったが、ジャスト60キログラムで出発前と同じだった。ところが、帰ってきて1週間で3キロ近くも増えている。

体重が増えたせいか、体を動かすのが大義である。それで余計に運動不足になる。そして体重がさらに増える。こうした悪循環を断ち切らなければいけない。しかし、そう思いながら、妻の顔をみると、「饅頭が食べたい」などと戯言を言っている。

しかし、この怠惰もあとわずかだ。来週からは、部活の練習や、2泊3日の合宿もある。そして、27(月)から、いよいよ2学期が始まる。そうなればもはや怠惰を決め込むことはできない。残された数日間、書斎の万年床に寝そべって、この怠惰をたのしむことにしよう。

(今日の一首)

 朝涼を探して歩む散歩道
 蝉が路上で仰向けに鳴く


2007年08月18日(土) 氾濫する早口言葉

小学生の頃、福井から若狭の片田舎に引越ししたとき、「おまえの言葉は早すぎてわからない」と地元の人に言われた。方言や訛りの問題もあったのだろうが、それ以上に私の早口が問題だった。田舎ではゆったりと時間が流れている。町からやってきた私が、村の人たちにはせっかちにみえたのだろう。

田舎に暮らしているうちに、私の早口は影を潜めた。私もいつか田舎のゆったりとした時間の中にこころよさを覚えるようになっていた。そして小学生の頃培われたこの時間感覚は、現在の私の時間感覚の土台になっている。

私は早口でまくしたてるように話す人が苦手である。だからテレビは敬遠したくなるし、文章でも早口でまくしたてるような騒々しい文体は生理的に受け付けない。なんだか昔の、早口で機関銃のようにしゃべっていた軽薄な自分を見ているようで、いやな気分になる。

それでも日本語ならまだよいのだが、英語となると苦手というより苦痛である。もうまるで何を言っているのかわからなくなる。それでも通常の会話のときは、「Pardon?」と聞き返すことができる。しかし、テレビのニュース番組や映画を見るときは、英語の流れについていけなくなる。そして、「何をそうあせっているのだ。なぜ、もう少しゆっくり話さないのだ」と腹が立ってくる。

英語ができる人からみれば、これが「ナチュラルスピード」だというのだろう。しかし、私にはこの速さはとても「ナチュラル」だとは思えない。大方のネイティブが話しているマシンガンのような気ぜわしい英語を聞いていると、何だかゆとりを失って、病的な精神状態にあるのではないかと心配になる。

やたらと単語をくっつけて、音を省略する。そしてスピードを競いあう。あたかもスピードこそがすべてであるといわんばかりである。しかし、その早口の英語の正体はと言うと、たいした内容を話しているわけではない。文章にしてみると、知性の片鱗も感じられないような、じつに他愛のないことが多い。だから余計に腹が立ってくる。

先月の30日になくなった小田実さんも、 ネイティブと人たちと話す時は、「(英語は)君にとっては母国語だが僕には外国語だ。ゆっくり話しなさい」と堂々と主張していたという。彼のような若い頃にアメリカの大学に留学し、世界を放浪した英語の達人でも、ネイティブの早口にはついていけなかったようだ。

私はネイティブたちの早口についていけるだけの耳を持ちたいとは思うが、彼らのように早口にマシンガンのような口調で話したいとは思わない。できることなら、ゆったりとした口調で悠々と己の思うところとを語りたい。スピードを競うのではなく、その内容で相手の心に何がしかの感動を与えたい。これは日本語の場合も同じである。

(今日の一首)

 蒼白き時の流れに身をまかせ
 息をしている星のかたすみ


2007年08月17日(金) Nothing for you

2年前にはじめて海外に行った。長女が大学を卒業し、看護婦に就職したお祝いをかねた家族旅行で、タイに行った。それまで私を含めて、妻も二人の娘たちも、海外旅行とは無縁だった。とてもそんな経済的な余裕がなかった。

タイのホテルで、私は始めて英語を使う機会を持った。バイキング形式の朝食を終えて部屋に帰る途中、エレベータに別の家族と乗り合わせた。背が高く、色の浅黒い異国の人たちである。

ニコニコしながら、こちらを見ている。何か言葉をかけたかったが、英語苦手人間の私は笑いながら「Hi!」ということくらいしかできない。大学の英語科に在学中の次女も黙っている。そんなとき、怖いもの知らずの妻が家族を代表して口を開いた。

「Where?」

妻は「どちらから?」という気持でこの英語を使ったのだろう。しかし、この気持は相手に伝わらなかった。いきなり「Where?」と聞かれて、相手も戸惑っているようだった。「Where?」(どこ?)と聞かれたら、「タイです」とか、「エレベーターの中です」という答えが返ってきてもおかしくはない。

何か大切な「情報」がたりないのである。そこで私は「from」を加えて、この足りない情報を補うことにした。

「Where from?」

そうすると、相手の表情がみるみる変わった。雰囲気が急に和み、私たちは英語で次のような会話をかわすことができた。

「We are from Iran. Where are you from?」
「We are from Japan」
「Oh! You are Japanese?」

 初めて自分の英語が通じた瞬間であり、これが私の「英会話事始」である。そういう意味で、「Where from?」というシンプルな英語は、私の英会話の原点になった。この短いフレーズを口できたことが、大きな自信になり、その後の私の英語人生を変えた。その年の9月にセブに語学留学したのも、この体験があったからだ。

「Where from?」という英語から、私は大切なことを学んだ。それは英会話の基本は「足りない情報を補うこと」で成り立っているということだ。この呼吸さえわかれば、英語を自然な感じで使えるのではないか。

セブで飢えた子どもたちに取り巻かれ、物をねだられたとき、私は思わず「Nothing」と叫んでいたが、実はこれもあとで考えてみると、十分な表現とはいえない。実際私は買い物袋を提げており、いくら私が「I have nothing」と訴えても、子どもたちは納得しないはずだ。それではどう言えばよかったのか。

「I have nothing for you」(君たちにあげるものはない)

 これが正しい英語である。もちろん、正しい英語を使ったところで、飢えて虐げられた子どもたちが納得したかどうかはわからない。しかし、「Nothing」と叫ぶよりはよほど説得力はあっただろう。

考えてみると、「nothing for you」という言葉はとても冷酷だ。これは「I cannot help you」ということである。セブにいるとこうした無慈悲な英語を使わざるを得ない辛い現実に直面する。そしてこうしたシビアーな現実を通して、生きた英語が心と体にしみこんでくる。

(今日の一首)

 飢えた子の哀しき瞳はいつまでも
 心に残りさびしかりけり


2007年08月16日(木) 飢えた子どもたち

セブの学校で知り合ったハローさんが、フィリピンの孤児や家のない人たちに服等を買ってプレゼントしたようだ。そのようすを、MIXI日記に書いている。

<フィリピンの孤児院や家の無い人たちに 服などを買いプレゼントしました。最初の孤児院の子供たちはとても喜んでくれました。思わず涙が出そうに成っちゃいましたから……>

しかし、次に行った家が無い人の所(日本で言う避難所)では、「また日本人が服持って来たよ、服だね! どこで買ったの? あ〜あの安いところね……」と不評だったという。

<大人は働きたくないからお金が欲しいみたいです。私たち可愛そうでしょ……見たいな顔をしてました。子供をいっぱい作ってその子供に食べさせてもらうのがカルチャーみたいです>

そこは荷物があふれかえって寝るスペースが無い。物よりお金が欲しい、という雰囲気だったそうだ。それから子どもを使ってお金をせしめようとする。一部にはそうしたひどい親たちがいる。こうした大人を親に持った子どもたちはあまりにかわいそうである。

 ホテルからロビンソンデパートに歩いていると、そうした子どもたちにまといつかれることがある。「お金をあげないほうがいい。どうせ親に巻き上げられるだけだから」というハローさんの助言を思い出して、私もお金をわたさないことにしている。

それでもついてくる子どもがいる。あるとき少しかわいそうになって、「あとて、キャンディーをあげるからね」とその小さな子どもに声をかけて、デパートの中に入った。そして買い物をしたり、お茶をしたりして外に出ると、その子がまだ待っている。

実のところ、私はその子のために何も買っていなかった。すっかり自分の言葉を忘れていたわけだ。ところが子どもはその約束を忘れず、辛抱強く1時間あまりも私を待っていたわけだ。しかたなく、私は買い物袋からお菓子を取り出した。それは日本への土産品として買ったものである。

その子はうれしそうにそれを受け取った。その笑顔を見て、私はうれしくなった。フィリピンにきて、やっとほんのちょっぴりだが善行をほどこしたような気分を味わうことができた。ところが、この私の快適な気分は長続きしなかった。

近くで見ていた数人の子どもが近寄ってきて、その中の年長者らしい少女が、「シェアー」といいながら薄汚れた手を伸ばした。仕方なく、私は再び買い物袋から土産品のお菓子を取り出し、「シェアー」といいながら、それを少女に与えた。

そうすると今度は、向かい側からその様子を見ていた子どもたちが、脱兎のように私のほうに押しかけてきた。そして口々に何かわめきながら手を出してくる。私は飢えた狼たちのような子どもたちに取り巻かれ、立ち往生してしまった。

「I have nothing」と言い、ハエのように群がってきた子どもたちを追い払おうとしたが、すぐに子どもたちの手が買い物袋にまで伸びてきた。私は思わず怒りを覚え、「Nothing」と叫びながら、まといつく子どもたちの手をふりほどくようにして歩き出した。しかし、子どもたちもあきらめず執拗についてくる。ホテルが見えてきて、ほっとした。

この騒動から、私は路上では安易に人に物を与えてはいけないという教訓を学んだ。他人を助けるためには、場所と時間を選び、しかるべき手続きを踏む必要がある。セブの場合でいえば、ハローさんのように、教会を通して行うのがより無難な慈善活動の道なのだろう。

(今日の一首)

 ものくれと痩せたかいなを突き出して
挑むまなざしセブの子あはれ


2007年08月15日(水) われらはひとつ

 3年前から英語を積極的に学び始めた。そして念願の海外留学にも挑戦した。英語など口にしたことがなかったが、2回目、3回目ともなると、まず普通の日常会話でそれほど困ることはなくなった。英語がわりあい簡単な言語であることもわかってきた。

私たちはすでに中学、高校で6年間英語を学習している。基礎的な単語や文法は知っているわけで、実のところこれを「活用」すればいいのである。すでに知っている知識を、ただ宝の持ち腐れにしないで、その「しくみ」を理解して、積極的に活用する。これを私は「英語のファイナライズ」と呼んで、以前日記で紹介したことがある。

考えてみれば「英語」に限らず、私たちはたくさんの宝物をすでに手に入れている。ところがその大切な財産の活用法を知らない。どんなに巨大な財産を蓄えていても、それを蔵にしまっておいただけでは何の役にも立たない。人生の現場で積極的に活用することが大切である。

学校ではこの宝物の存在や、それを人生でどう活用するかを教えてくれない。教える立場の人間がそのほんとうの「しくみ」や意義を理解しておらず、したがってその活用法をしらないからだ。そのため、英語を学習していても、これによって人と人とが心を通わせ、人生をまた違った視点でながめ、自己の経験をより広く、深く耕す道具であることに気がつかない。

日本の英語教育はこういう実践的な視点に欠けている。その結果、多くの人は英語はただ受験に必要だから勉強する。英語のみならず、他の教科でも事情は変わらないが、とくに日本の語学教育の貧困さは特筆に価するのではないか。

私たちがすでに持っている宝物の最大のものは「日本語」である。しかし、私の目から見れば、これもまだ十分に活用されているようには思えない。日記でたびたび触れてきたことだが、日本語教育のありかたにも、いろいろ問題点がありそうだ。

団塊世代が大量に引退し、退職後のセカンドライフのありかたが話題になっている。そのなかで、「国際語としての英語を学ぶ」という生き方も魅力的ではないか。中国語でも韓国語でもよいが、英語は国際語として実力がある。しかも私たちはすでに基本的な文法や単語を知っているので、あと少しの努力で、これを「コミュニケーション・ツール」として役立たせることができる。

そしてある程度英語に習熟した段階で、中国語やロシア語、フランス語などにも挑戦してはどうだろう。各国の言葉を学びながら、世界の語学学校を渡り歩くのも楽しいだろう。ただ語学を学習することが目的ではなくて、語学の学習を通して多くの友人をつくり、人生をおおらかに楽しむことできたら、すばらしい余生が送れそうだ。

私たちは「言語能力」というすばらしい宝物を持っている。人間とその他の存在をわける決定的な能力がこれである。このすばらしい宝物を大いに活用しようではないか。そうすれば、私たちの人生はますます深みを増し、毎日がゆたかで、新たな発見に満ちたものになるだろう。

(今日の一首)

 異国語を学べばたのし美しき
 世界が見えるわれらはひとつ


2007年08月14日(火) セブ留学体験記3

 昨日は家族で昼食にうなぎを食べた。「昼食に回転寿司かうなぎを食べたい」と希望を述べたところ、妻は「うなぎが食べたい」といい、次女と夫婦の3人で近所のウナギ屋に食べに行った。それから喫茶店でお茶を飲んだあと、妻にJR木曽川駅まで送ってもらった。

3週間ぶりの学校である。机の上に教育委員会からの重要書類が置いてあって、見てみると「16日までに必着」と書いてある。いそいでこの書類を片付けた。教頭が「セブはどうでしたか」というので、「おかげで楽しめました」と答えておいた。

5時ごろ家に帰った。日盛りを歩いて帰ってきたら汗だくになっていた。「電話をくれれば駅に迎えに行ったのに」と妻がいう。「歩くのが健康にいいんだ」と答えたが、暑さにたまらず部屋にクーラーを入れた。それから「セブ留学体験記3」に大量の写真を入れて編集した。

夕方、長女が帰ってきた。そこでHPに掲載したセブの写真を妻や娘に見せたら、大いに好評だった。「来年は君たちもおいでよ」というと、「お父さんがセブにいる間に遊びに行ってもいいわね」と妻も娘も大いに乗り気だった。そこで6泊5日の「セブの海、満喫プラン」を立ててみた。

○ 1日目……マクタン空港に家族を迎える。アレグレに行く(ホテルの送迎サービスあり)
○ 2日目……高級リゾートのアレグレに1日のんびり滞在。
○ 3日目……朝食後マラカスクァに出発。素朴なバンガローに泊まる。
○ 4日目……昼食後、セブへ。セブのホテルに泊まる。
○ 5日目……朝食後、ボホールへ。ボホールを観光し、アロナビーチのホテルに泊まる。
○ 6日目……昼食後、セブへ帰る。セブのホテルに1泊。
○ 7日目……マクタン空港から家族とともに日本へ帰国。

  これだと、私のセブ滞在3週間のうち1週間は家族同伴旅行になるわけだ。CPILSでの英語の勉強が犠牲になるが、家族のためであれば仕方がない。なお、家族の旅費は私の見積もりでは、一人当たり10万円というところだろうか。

「セブ留学体験記3」
  http://hasimotohp.hp.infoseek.co.jp/cebu3.htm

「写真のみのバージョン」
  http://hasimotohp.hp.infoseek.co.jp/cebu32.htm

(今日の一首)

 家族そろいひさかたぶりの団欒に
 旅の写真も彩り添える


2007年08月13日(月) 暑くて寒い日本

 日本に帰ってきて、いやな暑さを感じる。セブでは夜はクーラーなしで快適だったが、日本に帰ってきて、しかたなくクーラーのお世話になった。私は基本的にクーラーは嫌いなので、寝るときは使わない。そうすると暑苦しくて眼が覚める。

そこでクーラーのスイッッチを入れて、部屋を冷やして、それからスイッチを切って眠るわけだが、すぐに暑くなって、また眼を覚ます。昨夜はこれを3回ほど繰り返した。いうまでもなく寝不足である。頭がはっきり働かないので、ろくな日記が書けない。そこでこんな駄文を書き連ねている。

セブである人に日記を書くことを薦めたら、「とてもかけそうにない」という。第一何を書いていいかわからないという。「書くことはいくらでもあるでしょう」と私がいうと、「それが何もないのです」という。そこでこんな辛らつなことを言った。

「それはあなたの人生がつまらないからでしょう。あなたの生き方がつまらないから、人生に何も面白いものを発見できないのです。だから日記が書けないわけだ。しかし、日記を書き始めると、少し注意深く自分の回りを見つめ始めます。そしていろいろなことを発見します。世の中が見えてくると、生きていることがとても面白く感じられるようになる。そうすると日記を書くのも楽しみになります」

人にこんな偉そうなことを言った手前、もう少し内容のある日記を書きたいのだが、この暑さと、冷房の寒さで、すっかり体調を崩してしまった。今日のところはこれでよしとしよう。さて、日記も書いたことだし、久しぶりに木曾川を散歩することにしよう。

(今日の一首)

 思い出の白き貝を耳に寄せ
セブの海鳴りなつかしく聴く


2007年08月12日(日) セブにお別れ

 昨日は朝7時50分のスクールバスでCPILSに行き、朝食を済ました。CPILSでの今年最後の食事である。そのあと、私達がいつも休み時間にくつろいでいたソファで一休みした。そこでMさんに写真を撮ってもらった。

 それから再びスクールバスでホテルに帰った。お昼は私とMさんHさん(かなさん)で、少し豪華に中国料理のバイキングを食べにいくことにしていた。しかし、急遽、CPILSの先生も呼ぼうと言うことになり、リチャードの「一緒の昼食を食べないか」と電話した。11時すこし前にロビーに下りて行くと、リチャードがすでに到着していた。やがてHさんも到着した。

 私達が昼食を食べたのは、「グランド・コンペンション・センター」(通称、グランド・コム)というところである。去年、ここでバイキングのランチを食べて、大変満足したので、セブでの最後のランチをこの中華レストランでとることにした。

 ビュッフェ方式だから、自分のほしいものを好きなだけ選んで食べることができる。品数も多く、どれも美味しいので、今年も大いに満足した。値段も手ごろで、4人で1500ペソでおつりがきた。一人当たりにすると、1000円ほどだ。

昼食を終えて、リチャードをタクシーで家まで送り、私たちは、ホテルの近くのカフェー(スターバックス)へ行き、そこでコーヒーを飲みながら3人で1時間あまり談笑した。

 Hさんは、明日はアイランドホッピングに行くのだと言う。私たちはもう早朝にはホテルを出て、空港に向かわなければならない。振り返ってみると、3週間があっという間だった。Mさんは来年も絶対来たいという。私も是非来たいと思った。

 カフェの前でHさんと別れて、ホテルに帰り、いよいよ荷造りを始めた。お土産をいろいろと買って、かなり荷物が増えていた。それでもリュックサックをこちらで買ったので、何とかおさまった。

 今日はいよいよセブ最後の日だった。早朝の6:30にはホテルを出て、午後6時30分に無事日本(中部国際空港)についた。8時過ぎに名鉄木曽川駅まで妻に迎えに来てもらった。妻や娘とは3週間ぶりの再会である。夕食の後、久しぶりに浴槽につかり、旅の余韻をしみじみと味わった。

(今日の一首)

 セブ島の白き浜辺を見下ろして
 別れを告げる雲の上より


2007年08月11日(土) CPILSの卒業式

 昨日で授業が終わった。先生や他の生徒達から「I’ll miss you」と言葉をかけられ、私も何度かこの言葉を口にした。ジセールとアートは贈り物とカードをくれた。マンツーマンのウイニーは手作りの鉛筆立てをプレゼントしてくれたし、リチャードもカードをくれた。

 卒業式には100人近くの卒業生が参加した。雛壇で何人かの成績の優秀な生徒が表彰され、最優秀生徒には500ドルの賞金を受け取った。そのあと何人かの生徒のスピーチが続いた。私の隣に座っていた日本人の青年が最初に指名され、冗談を交えながらすばらしいスピーチをした。

そのあともう一人日本人の生徒がスピーチをし、そのあとに韓国人の学生たちのスピーチが続いた。みんな流暢な英語である。スピーチする人はあらかじめ決められているようだが、私は自分が指名されるのではないかと最後までヒヤヒヤした。

そのあと、一人ずつ名前が読み上げられ、雛壇に登って卒業証書を受け取り、責任者の先生と握手をてから正面を向き、先生と並んで写真を撮影する。大変緊張したが、会場からあたたかい拍手が起こり、感激した。

卒業証書は見開き式のブック型で、とても立派なものだった。証書にはグレード3と記入されている。来年も3週間CPILSに来て、今度はぜひグレード4の卒業証書を手にしてみたいものだと思った。そのためには苦手なリスニングを中心にこれから1年間、かなり勉強しなければならない。

卒業式の後、いったんホテルに帰ってから、MさんやHさんとロビンソンデパートに出かけた。そこでお茶を飲んだ。HさんとはTOPへセブの夜景を見に行って以来である。彼女は4ケ月滞在する予定で、日本に帰るのはあと1ケ月ほどあとだという。

MさんにしろHさんにしろ、フィリピンに留学すると言うと、家族がみんな「女性の一人旅は危ないからよしなさい」と反対されたという。本人達も不安でいっぱいだったが、来てみるとこの不安は解消した。二人ともセブでの生活が楽しいという。

このあと3人でZENへマッサージを受けに行った。それからロビンソンの隣にあるセブ・ミッドタウン・ホテルのレストランへ行った。そこで生演奏と女性ボーカル歌手の歌声に耳を傾けながら、ビールを飲み、チキンやベーコンの入った野菜盛りだくさんの料理を食べ、最後はデザートにアイスクリームを食べた。少し豪華な食事になったが、それでも3人で1000ペソ(2700円)だった。

32歳のHさんが加わり、座が若やいで盛り上がった。私達は日曜日にはセブを飛び立つ。Hさんは「親しくなった頃にみんな帰ってしまう」と寂しそうだった。Hさんは時々韓国人と間違えられるという。たしかに顔立ちが韓国系の美人である。もう少し早く知り合っていたら、一緒に楽しい旅ができたのに残念である。

(今日の一首)

 友と飲み語れば楽しセブの夜
 ナイトクラブのやさしい歌声


2007年08月10日(金) リチャードと買い物

 昨日は授業後、私とMさんはリチャードに連れられて、街に買い物に出かけた。リチャードはMさんのマンツーマン・テーチャーで、セブの夜景を見にTOPへ行ったメンバーの一人である。とても大きな体をしていて、声も大きい。

私たちはリチャードの案内でセブで一番古いというデパートに行き、お土産を買った。私は妻や娘達に貝でできたペン立てを買い、Mさんは二人の息子達にTシャツを買った。他に欲しいものがいろいろあったが、荷物が増えると厄介である。それに懐も寂しくなってきた。

買い物のあと、カサベラーデへ行き、夕食を食べた。私は連日のカサベラーデである。今回は定番のリブステーキは食べずに、パスタを食べた。なにやらシャレた長い名前がついていたが、出てきたのはスパゲッティ・ミートソースである。まあまあおいしかった。

 24歳のリチャードは4年前にセブの工科大学を卒業し、2年前までは中学校の先生をしていた。中学校の先生を辞めたのは収入の割りに仕事が忙しすぎたからだという。なにしろ彼のクラスは64人もいたそうだ。「Shinのクラスは何人いるのか」と訊かれたので、「24人だ」と答えると、うらやましがっていた。

 リチャードによるとCPILSには生徒が500人いるが、先生も250人いるそうだ。その比が2:1というのは語学の勉強にはとてもよい環境である。リチャードは中学校を辞めたが、子どもは大好きだし、教えることも大好きだという。とくにCPILSで1人から4人までの少人数クラスで英語を教えるのは楽しいという。

 リチャードは食事をしながら、私の学校の様子をいろいろと聞いてきた。演劇部の顧問をしていて、秋の学校祭で劇を上演する話をしたら、「どんなストーリーか」と訊ねる。「ミステリーだ」と答えたらますます興味を持ったようなので、「There is a girl, and・・・」と、おおよその筋書きを話してやった。「ワーオ」ととても面白がってくれた。

リチャードの恋人は同じ工科大学を卒業した同級生で、中学校の理科の先生をしているらしい。中学教師の給料は薄給だし、リチャードも収入の大半を家に送っている。経済上の理由で、結婚は当分望めないようだ。来年CPILSにきたら、リチャードと彼の恋人を誘って泊りがけの旅をしてもいいなと思った。

(今日の一首)

 いつしかや異国になじみ友人と
 会話たのしむ拙なき英語で


2007年08月09日(木) 4人クラスの夕食会

 昨日はカサベラーデで4人クラスの夕食会をもった。私が日曜日に日本に帰るので、それまでに夕食会をやろうという話になって実現したものだ。先生のシングと私達4人の生徒のほかに、デイビットの奥さんやサイモンの友人も参加して、7名で一つのテーブルを囲むにぎやかな会になった。

 注文したオーダーを待ちながら、私は「10 is afraid of 7. Why?」というお気に入りの英語のクイズを出してみた。これをみんなで考えている間に、注文したリブ・ステーキが来た。食事をしながら先生のシングから、ボーイフレンドのことを訊きだした。

 シングが付き合っているのは日本人の生徒だという。彼の英語のレベルを聞くと、「5H」という答えが返ってきた。これはCPILSでは最高位である。おそらく100人以上いるCPILSの生徒の中で一番英語ができる生徒なのだろう。3Mの私にとっては神様のような存在である。さっそく先生の携帯で彼の写っているビデオを見せてもらった。

 デイビッドからは韓国の話をいろいろと訊きだした。私が驚いたのは、韓国では冬休みが2ヶ月もあるということだ。日本では10日間もないというと、韓国人の学生たちが驚いていた。私にとってはこの競争の激しい時代に2ケ月ものんびり冬休みがあるということの方が驚きだった。私は「I envy you」とうらやむしかなかった。

 フィリピン人の先生や韓国人の学生たちと話しているといろいろな発見があって面白い。そして韓国語もフィリピン語もまったく知らない私が、こうして世界の人々と意志を通じ合い、感情を共有することができている。これも英語という共通の言語があるからである。CPILSにくると国際語としての英語のすばらしさをいつも痛感させられ、学習のモチベーションがいやでも上がる。

(今日の一首)

異国にて英語を学び今日もまた
われをゆさぶる新たなことば


2007年08月08日(水) ロビンソン・デパート

 宿泊しているディプロマットホテルから歩いて10分のところにロビンソンデパートがある。私たちはここで毎日のように買い物をしている。そして、ときどき食事をしたり、コーヒーを飲んだりする。円をペソに両替するのもここだ。ここにくれば何でもそろっているので、とても重宝している。

昨日はデジタルカメラの写真をここでプリントしてもらった。Mさんと二人で100枚をこえる数である。1枚6ペソだから600ペソ(1600円)以上である。これを一緒に食事をしたり旅をした8人クラスの生徒や先生、ジセール、アート、ミミやリチャードたちに配ろうと思う。

プリントアウトまでに1時間ほど必要だと言われたので、その間にデパートの地下のスーパーマーケットに行って、マンゴーなどを買った。それから、ペソへの両替を済ませた後、2階にあるカフェテリアでアイスコーヒーを飲み、パンケーキを食べた。

あと少しで日本へ帰国する。Mさんはまだ帰りたくないという。家に帰れば認知症気味の母親の世話をし、息子の食事も作らなければならない。夏休みといっても、主婦には休みはない。しかしセブにいる間は食事の心配もない。私の場合もセブにいればあらゆる世俗的なできごとから身を避けていられる。しかしそんな楽しい時間も残りわずかになってきた。

Mさんは今年は勉強面でも遊びの面でも去年に比べて格段に充実していて楽しいという。私もこれに同感である。去年から先生を誘って食事をすることをはじめた。それが今年はさらにエスカレートして、先生達と旅までするようになった。

「教室や食事会と違って、1日ずっと一緒にいると、いろいろな日常的な場面で英語を使うでしょう。ああ、こんなときに、こんな風な英語を使うのかとわかって、とても勉強になるわね」
「実地の生活場面で実際に使われる英語がふんだんに聞けるわけだから、これは大変いい勉強法だね。ボクも3年続けてセブに来て、だんだんと要領がよくなってきた」
「それに、あちこち旅行できて、とっても楽しかったわね」

パンケーキを食べながらMさんとこんな会話を交わしているうちに1時間が過ぎていた。私たちはあわててフォトショップへ行き、出来上がった104枚の写真を受け取った。そしてホテルへ持ち帰り、旅の思い出をかみしめながら仕分けをした。

数えてみるとジセールの分が一番多く、彼女だけで30枚近くあった。こんなにジセールばかり撮っていたのかと思うと、Mさんの手前、少しきまりが悪かった。

(今日の一首)

 思い出の写真眺めてしみじみと
 出会いの幸を噛みしめている


2007年08月07日(火) アレグレとジセールの家

 8月6日(月)はセブ島の祝日で、学校もお休みである。三連休最後のこの日は、7時にCPILSに集合し、私とMさん、ジセールとアートの4人でセブ島北部にあるリゾートのアレグレに行った。セブバスターミナルに行くと、あいにくバスが出た後だったので、ミニバスに乗ったが、2時間あまり乗って、料金は一人40ペソ(約110円)である。バスと変わらない安さだった。

 バスを降りて、ホテルの前まで4人乗りのトリシクルを使った。帰りはジムニーを乗り継いでセブに帰ってきたので、今年はタクシー、バス、ミニバス、ジムニー、トリシクルと、セブの地元の乗り物をすべて体験したことになる。タクシーを除けば、どれも驚くべき安さである。

 アレグレはちょっとした高級リゾート地で、宿泊施設はマラパスクアのビラとは天と地ほど違う豪華さである。一泊すると一室6000千ペソは必要になる。私達はデイ・ステイだけだが、それでも一人当たり1千200ペソもした。

 マラパスクアの格安旅行のあとだけに、これは恐ろしく高いように感じたが、必ずしもそうでもない。この中には800ペソ分の豪華なランチ代が含まれているからだ。その上、広大なプールで泳いだり、ハモッグに揺られて昼寝をしたら、宿泊客並みのサービスをすべて味わうことができる。ちなみにアレグレというのは、「喜び」という意味のスペイン語らしい。

ランチのメニューは各自自由に選ぶことができた。私達が選んだのは海老、イカ、豚肉料理を一品ずつと、焼き蕎麦である。これに4人で分け合い、各自にはマンゴーシェイクなどのドリンクをつけてもらった。料理はどれも洗練されていて、とてもおいしかった。

このホテルのシェフが挨拶に来たが、ジセールの幼馴染だという。それから接客にやってきたホステスもジセールの高校のクラスメートだった。少し前まで、ジセールのいとこの女性もここで働いていたという。ジセールのホームタウンはこの近くらしい。

しかし、ジセール自身はこのホテルで食事をしたことはないという。ここは地元の庶民には一生涯手の届かない別天地なわけである。今回、一緒に来たアートも、「もうここで食事をすることはないだろう」と言っていた。そして「とてもよい記念になった」と私達に感謝してくれた。私達にとっても、こんな豪華な体験をするのはセブだからできるわけで、日本では不可能だろう。

私達は食事の後、席を移動して、海の見えるテラスでゆっくりコーヒーを飲み、アイスクリームに舌鼓を打った。近くの席では白人の男性がゆっくり本を読んでいる。プールサイドでは中国人の家族や、アメリカ人とおぼしい家族が遊んでいる。異国の言葉が飛び交う中で、どこにもフィリピン人客の姿はない。

 食事のあと海岸に下りて、一泳ぎした。それからプールでも泳いだ。泳いだあと、私はジセールにプールサイドに立ってもらって写真を撮った。ジセールは来年の4月にはニューヨークの夫の元に行く。来年はもうこうして食事をしたり旅をすることができないのかと思うと、娘を失った父親のような気持ちがして少し寂しい。それだけにこのひとときがいとおしく感じられた。

 3時過ぎにホテルを出て、トリシクルを20分ほど走らせると、ジセールのホームタウンだった。ジセールが小学校まで暮らしていたという家に案内され、そこで私達は少し早い夕食をごちそうになった。ホテルの豪華な料理もよかったが、ジセールの家で出された鳥料理やスイカのデザートもおいしかった。

ジセールにおば達や少し前までアレグレで働いていたというケイといういとこの女性を紹介され、私達は一緒に食卓を囲んで、談笑した。私がジセールが去年わけもわからず口にした危ない日本語「やらせてください」を紹介し、みんなで笑った。なんだかもうすっかりジセールの大家族の一員になったようなくつろいだ気がした。

(今日の一首)

 あたたかな人の心にいくたびも
 触れ行く旅はたのしくあるかな


2007年08月06日(月) マラパスクア(2)

 昨日は10時ごろにベッドに入った。いつものようにすぐに前後不覚の眠りに落ちて、ライアンがいつ帰ってきたのか知らない。朝の5時ごろ、鶏の鳴き声で目を覚ました。すでに外が白んでいた。外に出て、浜辺を散歩した。

 やがてライアンも起きてきた。私が妻や娘達へのお土産のために貝を拾っていると、ライアンも手伝ってくれた。ライアンは高校を卒業しているが、英語はそれほどうまくない。発音も聞き取りにくいのだが、その分、素朴で誠実な感じがして好感が持てた。

ビラに帰ってきて、ベランダに干してあった私の水着やバスタオルがないのに気づいた。ライアンのものはそのまま残っているので、風で吹き飛ばされたにしてはおかしい。やはり誰かに盗まれたのだろうか。

そんなことを考えていると、ライアンが「水着は浴室の方に移しておきました」という。ベランダに干しておくと盗まれることがあると聞いて、ライアンは私の分だけ浴室に移しておいてくれたようだ。こういう細かい気遣いはとてもうれしい。

ギンギンで朝食を食べた。日本だと観光地の食堂はどこま高いが、ギンギンはとても安い。トーストとコーヒーに、卵2個のベーコン入り目玉焼きがついて100ペソ(270円)ほどである。4人で食べて、500ペソ出したら100ペソ余りおつりが来た。

朝食の後、また男がやってきて、「バイクで島を走らないか」という。1時間でバイク1台につき500ペソだと言う。島の先端の浜辺に行き、そこで海水浴もできるという。私達はさっそく水着に着替えて、このモーターサイクル・トリップに挑戦することにした。

私とMさんは運転できないので、男たちに運転を任せ、その後ろに乗った。ラシアンはハンドルを握り、うしろにミミを乗せて、いよいよ出発である。民家の庭先をかすめ、狭い山道を登ったり下ったりして20分ほどで島の岬についた。

岬の先端が高台になっていて、見晴らしがよかった。写真を撮りあい、海の風景を楽しんだ後、両側に広がる裾の白浜で私達は海水浴をした。水が青く透き通っていた。ゴーグルで覗くと、ここにも沢山の魚が泳いでいた。時間を忘れて遊んでいたため、延長料金をとられたが、これも大変愉快な体験だった。

昼食は地元の人が調理した何種類かの貝の料理を食べ、ココナッツを目の前で輪ってもらって、そのジュースを飲んだ。それから帰り支度をした。浜辺を船着場の方に歩き、途中のレストランで4人でマンゴーシャイクを食べた。それから舟に乗ってマヤに行き、そこからまたバスに乗ってセブに帰ってきた。

最後はカサベラーデで食事をした。それからディプロマットホテルの前まで歩き、そこでミミとライアンと別れた。明日もまたジセールたちとアレグレに日帰り旅行する予定があるので、シャワーを浴びると、10時前にベッドに横になった。そしてあっという間に、眠りに落ちた。

(今日の一首)

椰子の葉の家に泊まれば星月夜
風の音までやさしく届く


2007年08月05日(日) マラパスクア(1)

 前日、私の2年越しの夢であるマラパスクア島に行った。8時半ごろ、昨年度のMさんの先生のミミとライアン(ミミの恋人)がディプロマット・ホテルへやってきて、ホテルの前でタクシーを拾い、まずは北部バスターミナルへ。70ペソ(180円)ほどかかった。ここでバスに乗りかえて、一路、セブ島最北端の町、マヤ(Maya)を目差した。

マヤまで3時間半ほどかかったが、途中の景色がよかった。最初は右側に海がみえ、やがて椰子の木の茂る山のなかの道になる。バスは満席で、途中から立っている人もいたが、涼しい風が満開の窓から吹き込んでくるので、暑さは感じなかった。

 モアルボアルのときも驚いたが、3時間半のバスの料金が60ペソ(150円)しかしないことである。さらにマヤからマラパスクアまで30分ほどの船旅をしたが、この舟の料金がなんと40ペソ(100円)である。あわせて、100ペソ(270円)で目的地の島までたどり着いてしまう。この安さには驚いた。

 私達の乗ったバスはエアコンはついていなかったが、エアコンつきのバスは、100ペソ増しの160ペソである。これでも十分安い。ただしエアコンがききすぎて寒い思いをすることがある。これにたいする備えさえあれば、この快適バスで旅行するのもいいだろう。

 さて、マラパスクア島につくと、白い浜辺に、転々と小さなビラが建っている。私達はその一つに落ち着いた。私達のビラは2つの部分に仕切られていて、それぞれの部屋には2つのベッドと浴室やトイレ、ベランダがついている。一部屋600ペソだから一軒まるごと借りても1200ペソ(3200円)である。これだけで4人が宿泊できる。これも夢のような安さだ。

 つまり、セブからマラパスクアまで、往復の交通費と宿泊代金をあわせて一人当たり500ペソ(1300円)である。私達はミミとライアンの分も分担したので、二人分1000ペソ(2700円)を使ったが、これでも驚くべき安さだ。

 ビラの近くの「ギンギン」というレストランで遅いランチを食べたあと、のんびり目の前に椰子の海岸を眺めてベランダでくつろいでいると、また男がやってきて、「舟で一艘用意するので、それで3時間ほどかけて島を一周しないか」いう。値段を聞くと「800ペソ」だという。あと一人あたり100ペソだせば、シュノーケルを用意するから、海で魚や珊瑚を見ることもできるという。これはぜひ体験したかったので1200ペソ払うことにした。

 途中、舟を泊めて、「ここで海に入れ」というので、さっそくシュノーケルをつけて海に入った。色鮮やかな熱帯の魚が無数に泳いでいて面白い。すでに私は2年前にマクタン島の沖でアイランドホッピングを体験していたのでその面白さは知っていた。そこで残りの3人にも勧めたが、案外なことに、Mさんもミミもライアンも泳げないのだと言う。そして海に入ろうとしない。

 そこで沖合いでの海底散歩はあきらめて、舟を小さな入り江につけてもらった。ここなら足が着くので、残りの3人もたのしめそうだ。シュノーケルをつけて海底をのぞいてみると、果たしてきれいな魚達が泳いでいた。Mさんはこれまで顔を海につけたことはないそうだが、おそるおそるシュノーケルをつけて、覗きはじめた。「熱帯魚みたい」と声をあげ、まだしぶっているライアンやミミを促した。ライアンもようやくシュノーケルをつけて、面白そうに海中を覗いていたが、ミミは最後まで水着のまま砂浜で私達が遊ぶのを眺めていた。

 このあと、私達は島の反対側に回り、夕日が沈むのを眺めた。こうして3時間が夢のように過ぎ、私たちは大満足して、ビラに戻ってきた。それから、夕闇の迫る海辺の道を散策し、ギンギンで夕食を食べた。夕食の席で私はライアンとミミにこう話した。

<I know you tow want to shear one room. But we tow are not wife and husband, not lover, just friends. So we can’t shear one room. I and Rain shear one room, OK?>

恋人のミミとライアンはこころよく同意してくれた。それから私達は再び海岸を散歩し、波打ち際に座って時を過ごした。ミミとライアンは高校の同級生で、交際をはじめてもうすぐ7年になるという。ライアンは父親が病気で家が貧しく大学へは進めなかった。今は彼が働いて高校生の弟の学費を家に仕送りしているのだという。

「いつ、2人は結婚するのか」と聞くと、「5年後」という答えが返ってきた。ライアンは弟を大学に通わせてやりたいと思っている。弟が卒業するまでは仕送りを続けなければならないので、結婚は5年後になるそうだ。

二人はこんな状態なので、余分なお金を使うわけにはいかない。ミミもライアンも泳げないのは海で泳いだことがないからだ。こんな保養地に二人で来るなどということも初めてだという。ライアンはこの贅沢な体験を夢のようだといい、「unforgettable time」という言葉を何度も口にした。そして「thank you」を私達に連発した。

私とMさんはそんな熱々の二人をそっと海岸の闇の中に残して、ビラに帰ってきた。Mさんは二人の結婚式には是非出席したいと言う。そして子どもが生まれたときには、名付け親になってやるのだという。ミミとライアンを自分の娘と息子のように考えている。私も彼らの様子を見ていると、なんだか自分の息子と娘のように思えてきた。そして心から応援してやりたくなった。


(今日の一首)

 浜辺にて夜空を見ればひさかたに
 天の川見る椰子の葉陰に


2007年08月04日(土) セブの夜景を見る


 前日はCPILSの生徒4人と教師3人でフィリピン料理を食べた後、セブ市が一望できる高台(TOP)へ登った。2台のタクシーをチャーターし、1台につき往復で700ペソと高くついたが、ここから眺めたセブの夜景はすばらしかった。

 TOPはかなり山を登ったところにあり、空気も新鮮に感じられた。夜のせいもあり、半袖では寒いくらいである。しかし、ここは指折りのデートスポットだという。一緒に来た4人の先生の中には、去年私が教えてもらったジセールがいる。ジセールは私のお気に入りの先生で、去年は4度も外に連れ出して食事をしたくらいだった。SPILSに来てジセールと再会できたことがとてもうれしい。

 ジセールは先月、ニューヨークにいる彼氏と結婚した。その写真をレストランで見せてもらったが、彼氏と並んで微笑んでいる彼女はとても幸せそうだった。「Your dream came true. Congratulations!」と言うと、「Thank you」と嬉しそうだった。

 ジセールは2月にはSPILSを辞めて、ご主人のいうニューヨークに行くのだという。セブの夜景を眺めながら、「ああ、来年の夏はセブに来てももうジセールはいないのだ」と思うと、少し感傷的な気分になった。そして、帰りのタクシーの中で、思わず「I’ll miss you」と言ってしまった。同乗していたリチャードとMさんが、「Shin is brave!」とはやし立てた。

 ジセールとは月曜日に、セブから少し離れた観光地のアレグレ・ビーチ・リゾートへ行く約束がしてある。これは去年行く予定で、台風のために断念したところだ。私とMさん、ジセール、アートの4人で行くが、去年もこの4人のコンビで何回か会食したものだった。

 さて、今日から1泊でセブ島北部にあるマラパスクア島に行く。私とMさん、Mさんの去年の先生のミミ、それからミミの彼氏である。ミミの彼氏とMさんは食事をしたことがあるそうだが、私は初対面である。とてもシャイなフィ入りピン人らしいが、おなじくシャイな私と案外気が合うかもしれない。マラパスクアでは彼と部屋をシェアすることになる。

私達の旅行にミミとその彼氏を招待したのは、旅を経済的にするためである。2人分の旅費を負担するのだから高くつくように思うかもしれないが、じつのところ宿泊代と交通費は2人でも4人でも部屋を2つ借り、タクシーを1台借りるわけだから変わらない。それどころか、フィリピン人の二人と一緒だと、やすい宿を探すことができるし、バスやジプニーに乗れば交通費も安くなる。

彼らを誘うのは、ボホールへの2泊の旅で1万ペソ(約2万7000円)という大金を使い、ふところが寂しくなってきた私達の経済戦略でもあるわけだ。しかし、もちろんそれだけではない。CPILSの先生を誘って旅行をすれば、私達の会話はいやでも英語になる。つまり、これは英語を学習する上での最強の学習戦略でもあるわけだ。そして言うまでもないが、旅は道連れというように、2人よりも4人の方が賑やかで楽しい。

(今日の一首)

 肩並べ夜景を見れば花火見ゆ
 娘のごとく君をいとしむ


2007年08月03日(金) We Are One

 マンツーマン・クラスのWinnie(ウイニー)先生の紹介をしよう。彼女は中国系である。お父さんはビジネスマンでCPILSの校長(中国人)とも知人だという。彼女は私の長女と同じ24歳だ。中国語、英語、フィリピン語ができるが、いちばんあやしいのがフィリピン語だという。

大学では情報工学を専攻し、卒業後2年間ほど企業でコンピューターのプログラムを書いたことがある。だからコンピューターに関しては専門家である。ところが、彼女はまた幼い頃から詩や小説を書くのが好きだったという。とても感受性の豊かな女性だ。だから私とは気があう。

彼女には私の英語日記を見てもらっている。そして私の日記を傍らに置きながら、いろいろとおしゃべりをする。かなりハードな4人クラス、8人クラスのあとの最後の授業なので、彼女とのリラックスした癒しの時間がありがたい。

 昨日は彼女をCPILSの隣のSWICHという喫茶店に誘い出し、そこでコーヒーとケーキを食べながら授業を受けるはずだった。ところが約束の3:10にロビーに現れた彼女は申し訳なさそうに「学校の許可が得られなかった」という。

 以前は先生とランチを食べながら授業を受けたことがあった。しかし、最近は規則が厳しくなっているようだ。先生も許可がもらえると思っていたが、タイムカードの関係もあって、勤務時間内の外出はむつかしいのだという。

そこでいつものように彼女の部屋で授業を受けた。私がコンピューターを持っていることを知ると、彼女は手馴れた手つきで、彼女の好きな「We Are One」(わたしたちはみんな一つ)という歌唱曲を私のコンピューターに入れてくれた。この曲の英語の歌詞がとてもいい。正確な歌詞を写し損ねたので、後日この日記で紹介しよう。

彼女によればこの歌は仏教の思想に近いのではないかという。しかし、私にはむしろ日本の古神道の考え方に近いように思えた。いうまでもなく古神道は「山や川など万物に神々が宿り、植物や動物も含めて、私達はみな兄弟である」という汎神論的な思想である。

彼女はこの考え方に共感してくれた。彼女自身は母親の影響を受けてカソリックだが、父親が仏教徒なので、宗教に関しては自由な考え方をしている。日本の素朴な神道の思想も、すぐに理解してくれた。

以前に彼女と外で夕食をしたいと思って申し込んでみたが、後日「父が是非同席したいと言っています」という返事が返ってきた。彼女の父親は私と同世代で、考え方がよく似ているという。私も一度会って話をしてみたいと思っている。

なお、昨日行われると思っていた4人クラスのプレゼンテーションは来週の火曜日だった。どうも私の勘違いだったようだ。まだ時間があるので、日本の祭りや宗教について、もう少し詳しく調べてみようと思う。そして4人クラスで、ウイニーと私のお気に入りの「We Are One」を紹介しようと思っている。

(今日の一首)

肌の色言葉もちがう異国人
なれどわれらはみんなひとつ


2007年08月02日(木) プレゼンテーション

 昨日の4人クラスで、宿題のレポートを提出した。これをもとに、今日、一人ずつ前に立って、プレゼンテーションをしなければならない。話をする時には手元にレポートはない。メモもいけないといわれている。これはなかなか大変だ。少し緊張している。

プレゼンターションのテーマとして、私は「The Spring Festival in My Town」を選んだ。これは4月に書いた私の日記の題で、内容もほとんどかわらない。日記をつけていたおかげで、レポートを簡単にすませることができた。ともあれ、その内容を紹介しよう。

The Spring Festival in My Town

I have a spring festival in my town. During the festival, some grown-ups and children dress a light blue uniform called “Happi” on their everyday clothes. And they wear a white headband made of cotton cloth called “Hachimaki”. Shortly afterward, I’ll show you a picture of then.

Seeing the children in Happi and Hachimakii makes us feel very happy and think today is the special day for our town. Therefore they are indispensable in our festival.
When our two daughters were a child, they also wore a Happi and a Hachimakii. My wife and I used to take pictures of them. Children in a Happi and a Hachimakii remember me of my daughters. Shortly afterward, I’ll show you a picture of my daughters.

By the way, there is one more important thing indispensable for Japanese style festival. What do you think it is? It is a portable shrine called “Omikoshi”. It is carried around my town on our children’s shoulders with their cheerful voices of “Washoi Wasoi”. I don’t know the meaning of “Washoi Wasoi” A scholar says that it came from old cornea. Anyway, it makes our spirit very uplifted. Shortly afterward, I’ll show you a picture of my daughter shouldering the Omikoshi.

There are also many booths and stands where we can drink, eat and play games. I enjoy then with my wife. We ate “takoyaki” and “yakisoba” as a lunch. Do you know what “takoyaki” and “yakisoba”are like? They were very delicious.

We also enjoy interesting performances. One of then is a Japanese drums show. About twenty of children play drums with cheerful performances. The powerful rhythm of the drums is so impressive. I feel extremely happy for a while.

This is the spring festival in my town. Some towns have a festival in Summer or autumn and sometimes they have another performances. Thank you for listening to me so earnestly.


 今日は学校にノートパソコンを持参して、私の町の春祭りの様子を紹介したいと思っている。はっぴを着て鉢巻をした私の幼い二人の娘や、お神輿を担いだ次女のりりしい写真を見てもらおうと思う。百聞は一見にしかずという。私の舌足らずの英語を、二人の娘達の写真が補ってくれるだろう。

(今日の一首)

 はっぴ着て鉢巻をするおとめらの
 りりしき笑顔なつかしきかな


2007年08月01日(水) ムーン・カフェ

 昨夜は8人クラスの生徒と先生で、ムーン・カフェというレストランにメキシコ料理を食べに行った。私たちはそこではビーフ・タコスやワサビ・タコスを食べ、ビールを飲みながら、お互いの友情を深めた。

 8人クラスのデービット先生はアメリカ人である。大きなおなかをしているので、私はいつも別れ際に「See you again, David」と言いながら彼のおなかに触ることにしている。彼の話によると三十代の前半までは細かったのだという。フィリピンに来て、おおいに食べたり、飲んだりするようになった。それが原因で最近特に巨大化したらしい。

 彼の初恋の女性は日本人だという。その名前も聞いたが忘れた。なんでも彼の高校時代に交換留学生としてアメリカの彼の高校に来たらしい。彼女はとても綺麗で、優しかったという。デートに誘うと、いつも彼の少し後ろを歩く。「日本の女性はみんなそうか?」と訊くので、「それは昔のことだ」と答えておいた。

 デービット先生の長女は17歳で、いま日本で勉強しているのだという。他に2人の娘がいて、7歳の息子もいる。その息子をレストランに連れてきていた。巨漢の先生に似合わず、小柄で色も黒い。ニ番目のフィリピン人の奥さんとの間に生まれた子どもらしい。かわいいのでみんなのペットになっていた。私も彼を抱き上げて、写真を撮ってもらった。

 8人クラスには先生と同じ名前のデービッドという生徒がいる。彼とは4人クラスでも一緒なので、よく話をする。奥さんと一緒にCPILSで学んでいて、とても仲がいい。昨夜も彼女を同伴していた。「どこかいいところはないですか」と訊かれたので、「ボホールはいいですよ」と答えておいた。この週末にボホールに一泊旅行する気になったようだ。彼はいつもおだやかでニコニコしている。この夫婦とはいつか食事をしたいと思っている。

 デービット夫妻のほかに、ストーンコウ、アリス(2人)、ジュリーが参加し、全部で9人である。ケイトとメイが都合が悪くて参加できなかった。お酒がとても好きで、「私、アルコール依存症です」と言っていた日本人女性のメイが参加しなかった。そのせいで、日本人は私だけだった。会計は一人250ペソ(約600円)だった。

(今日の一首)

 雨上がりムーン・カフェでビール飲む
 ワサビタコスを皆で食べつつ


橋本裕 |MAILHomePage

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