橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
好きな道みなそれぞれに歩むとき辛きなかにもこの世はたのし
すこしずつ子どもに還るたのしみを日記に書いて今日もしあわせ
足羽川桜並木は芽ぐみでも歩けば浮かぶ爛漫の花
鼻水とくしゃみがつらい花粉症母に会へども心はよそに
ふるさとの小さなブランコ夢の中お下げ少女の面影ゆれる
ひさかたに雨の音きく障子越し小鳥の声もなにやらたのし
純白の辛夷の花を見上げれば心にひろがる清らな思い
週末にコッツウオルズに一人旅絵葉書送ると娘のメール
さびしさに河原歩けば鶯の初音を聞けり白雲の空
さびしいなあくびをしてもさびしいなさかだちしてもまださびしいぞ
たのしみは異国に住みてその土地の言葉あやつり友を得ること
木曽川を眺めてたのし散歩道御岳見ゆる雨上がりの空
争いを好むものありおろかなる人々ありてこれにむらがる
みぞれ降る寒さのなかで身をちぢめ桜のつぼみ眺めていたり
100円のコーヒー飲んで語り合うこのひとときの色即是空
夕食は妻の握りしおむすびをふたつ平らげお茶を一杯
願わくばひとり静かに月ながめ息ひきとりて風となりたし
杉苗を背中にかつぎ山道を父と登りし雨の日ありき
娘より届きしメールそのたびにわれも旅する異国の街角
夜学来てふたとせ過ぎぬこのごろは白髪頭もますます淋し
英国の旅より帰りたのしげに娘は少し太ったという
お彼岸に墓参りしたお土産の草もち食べる田舎の匂い
死してなお人は生きたりさわやかな草原を吹く風のごとくに
大空に希望という文字書いてみる自由の国を旅してみたし
子育てを終えてひといき人生の門出迎える娘がまぶしい
菜の花の蕾を食べてすこやかに今日も散歩す春風のなか
モナリザの謎の微笑み人生はかくも楽しや神秘に満ちて
早起きはたのしきものよ今朝もまた日記を書けば小鳥のさえずり
ちらほらと桜咲いてる昼下がり鶯さえずりひかりあふれる
働けどさらに貧しく忙しい競争社会の弱者はかなし
(今日の一首)
助け合い支えあわねば生きられぬ われらはだれも生かされている
私たちが幼い頃は、もっとみんなが助け合って生きていたように思う。地震が起これば隣のおじさんが心配してパンツ一枚で家に飛び込んできた。銭湯に行けば、おたがいに近所の人が背中を流し合ったものである。日本が経済大国になるにつれて、この温かさが社会から失われたようだ。
私は資本主義経済というのは、必然的に「格差」を生み出すものだと思っている。いわばこれは「必要悪」のようなものだ。しかし、この「格差」が必要以上に拡大し、「勝ち組」と「負け組み」を生み出すようになると、社会が荒廃する。格差を是正し、社会をこの荒廃から守るものが政治である。現在の政治はこの大切な使命を忘れているようで残念だ。
3月16日にライブドアの前社長の堀江貴文が粉飾決算など証券取引法違反の罪で懲役2年6ヶ月の実刑判決を受けた。彼は著書『稼ぐが勝ち』で、「人の心はお金で買える」「人間を動かすのは金」「金を持っているやつが偉い」などと公言していた。
ホリエモンは会社は株主のものだという。だから、株を多く持ったほうが勝ちである。株は金で買えるので、最終的にお金がものをいう。彼に言わせればこれが唯一正しい資本の論理である。
彼はこの論理を武器に、2年前にニッポン放送に敵対的買収を仕掛けた。このとき多くのメディアは彼を新しい企業家として持ち上げた。その年の秋に行われた衆議院解散選挙で自民党は人気のある彼を選挙の目玉として担ぎ出した。
彼は自民党の郵政民営化反対組みを落選させる「刺客」として健闘した。落選はしたが、この選挙で自民党は大勝利を収め、一気に郵政民営化に突き進んだ。郵便事業は民営化され、そのトップには大銀行の元頭取がすえられた。国民の生活を守る砦であった公共財の牙城が、こうしてまたたくうちに崩れ去った。
小泉構造改革について、私はこの5年間つねに反対してきた。その理由は、これが日本の社会構造を大きく変えることになるからである。「競争論理」よりも「共生論理」を大切にすべきたということを一貫して主張してきた。
資本の論理が暴走すればどういうことになるか、アメリカという実例がある。現在、全米富豪ランキングの上位12人のうち5人は米ウオルマート・ストアーズの創業者一族でしめられている。
同社は世界最大のスーパーマーケットだが、社員の人件費を抑えた徹底的な安売りで成長してきた。ブッシュ政権への大口献金をし、権力に影響力を行使して、資本の論理に基づく政策を実現してきた。
資本の論理とは、株主主権ということだ。それでは株主主権ということはどういうことか。それは会社の利益を従業員に還元するのではなく、株主に回せということである。だから、会社が儲かっても従業員は豊かにはなれない。
ウオルマートは今年も配当を3割もふやした。一族の配当収入は15億ドル(1800億円)になる。一方、従業員の年収は2万ドル(240万円)だという。勤続6年でも自給は9ドル台だというからワーキングプアーすれすれのレベルだ。(3/19朝日新聞「分裂日本2」)
ホリエモンは実刑判決を受けたが、彼が広告塔となって先導した小泉改革はすでに制度上実現している。この5年間で会社法は改正され、国際的な企業買収も可能になった。
今日「格差社会」がマスメディアで騒がれているが、私たちはすでにこれを許してしまったのであり、もうあともどりできないところに日本社会が置かれているのだという認識を持たなければならない。
米ウオルマート・ストアーズ従業員たちは、株主たちの笑顔を尻目に、「健康保険に入れないので病気にならないように毎日祈るしかない」と訴えているという。残念なことだが、こうしたことが今、日本社会でも現実のものになろうとしてる。
(今日の一首)
働けどさらに貧しく忙しい 競争社会の弱者はかなし
英語が使えるようになるには、英語で日記を書くのが一番だという。そこで私もこれに挑戦することにした。日本文の日記を英語に翻訳して「Englis Diary」の掲示板に載せることにした。さっそく昨日の日記からこれを始めた。
やってみると、日本語の日記を書くよりも時間がかかる。どうも毎日英文日記を書くことはできそうもない。最初は週に2、3回という割合ではじめようと思う。長く続けるためには、無理は禁物である。
英文日記を書くにあたって参考にしたのは「英語で日記がスラスラ書ける」(多田鏡子、カーティス・パターソン、日本文芸社)である。まだ半分しか読んでいないが、なかなかいい本だと思う。この本を読んで、書こうという気持になった。
私をその気にさせたもうひとつの大きな要因は、大阪に住んでみえる44歳の男性(plow7010さん)の英文ブログだ。私は去年くらいからこれを愛読している。
http://plow7010.blogspot.com/
日常の出来事などが平易な英語で綴られている。これはすばらしいお手本である。これを見習えば私も書けるかも知れないと思った。身近にこういうお手本があるとありがたい。
何しろ初心者の英文なので、間違いも多いだろう。7月にセブの英語学校に行くとき、これをプリントアウトして持参するつもりだ。マンツーマンの授業のとき、先生にこれを見て貰い、添削指導を受けようと思う。その結果も、いずれHPに載せてみようと思っている。
※橋本日記の英語バージョン http://9128.teacup.com/hasimoto/bbs
(今日の一首)
ちらほらと桜咲いてる昼下がり 鶯さえずりひかりあふれる
今日は後期の入学試験である。8:10までに学校に到着しなければならない。ということは6:40には家を出なければならないわけだ。いつもと勝手が違うので、朝の散歩はできそうもない。今日の一首は昨日の散歩のときの情景を思い浮かべて作ったものだ。また陽気が戻ってきて、木曽川の桜も、ちらほらと咲き始めた。
私は子どもの頃から早寝早起きだった。これは4畳半に祖母と一緒に暮らしていたせいではないかと思っている。この祖母の口癖が、「早く寝なさい」だったからだ。
中学生になってSF小説が好きになり少し遅くまで起きていると、「目が悪くなるから、早く寝なさい」という。私のことを心配して言っているようだが、ほんとうはそうではない。自分が寝るのに部屋の明かりが邪魔なのである。私を早く寝かせて、自分もゆっくり寝たいということだ。それが証拠に高校受験のときも、大学受験のときも、祖母は「早く寝なさい」といい続けた。
私が高校受験に失敗したのは、山仕事に駆り立てた父と、私から夜の時間を奪った祖母のせいである。とこう考えて、この二人を恨んだこともあったが、まあ、これは私の逆恨みだろう。実のところ、山仕事と早寝早起きの習慣は、今日の私を作り上げる上で、大いに貢献していると思われるからだ。
早起きにはいろいろな功徳がある。大学受験のときも、朝のすがすがしい時間に集中的に勉強ができた。おかげで、高校受験で失敗した私も、大学には現役で合格している。だから私は祖母に感謝しなければならない。早起きの習慣ができたおかげで、大学時代は朝刊配達も苦労なくできた。これで軍資金を稼いで、私は大学院に進学した。
夜間高校に勤務するようになってからも、早寝早起きの習慣は維持している。11時近くに家に帰ると、そのまま布団に倒れこむ。そうすると10分もしないうちに高鼾である。そして朝は5時前に眼を覚ます。パソコンの前に座り、この日記を書く。夏場は書き上げたあと散歩だが、今は寒いので朝食のあとに散歩である。
毎朝日記を書く習慣は高校時代から続いている。おかげで私は文章を書くことが好きになった。これも早寝早起きのおかげだといえる。現在HPに残っている膨大な文章も、すべて早起きの習慣がもたらした成果である。
ここまで書いてきたら、5時40分になった。障子が白みはじめ、鳥のさえずりも聴こえてきた。こうして朝のすがすがしさを満喫できることが、早起きの何よりの功徳かもしれない。
(今日の一首)
早起きはたのしきものよ今朝もまた 日記を書けば小鳥のさえずり
人生はミステリーにあふれている。身近にも不思議なことがいろいろとある。子どもの頃は回りが謎だらけだった。その謎が解けるたびに、うれしかったものだが、大人になっても同じである。世の中、わからないことばかりだ。この謎解きが楽しい。
私が愛読している星野道夫さんの「長い旅の途上」(文藝春秋)にもいくつかミステリーが紹介されている。たとえば、こんな事件がある。
<七月のある日、最初のイチゴ事件が起きた。やっと熟し始めたイチゴを、もう一日だけ待って摘もうとした朝に、何者かによってすでに摘まれてしまったのである。妻の落胆は想像にあまる。
犯人(?)が残した唯一の状況証拠は、1個のキノコである。まるでイチゴをかすめた罪ほろぼしをするかのように、木箱の横にそっと置かれているのだ。
妻はまだ熟していない他のイチゴの実に望みを託したが、明日には食べようと楽しみに待っていた朝、事件は再び起きた。そして何ということだろう。現場にはまた1個のキノコが置かれていたのだ。
そんなことが四、五回続いただろうか。そのたびに必ず申し訳なさそうにキノコが残されているのである。妻は、明日には摘もうという、自分の気持ちが読まれているようだと言って嘆く>
不思議なことである。一体誰がイチゴを盗んでいくのか。そしてきまってキノコが置いてあるのはどうしてなのだろう。やがてその犯人が明らかになった。
<ある日、妻は、イチゴをくわえて犯人が走り去る現場を目撃した。それは我が家の森に住むアカリスだった。キノコを摘んで巣に戻ろうとするたびに、おいしそうなイチゴに目が眩んで取り換えていっただけなのだろう。私は、妻がそうであるように、イチゴが熟すのをじっと楽しみに待っているアカリスの姿を想像し、何だかおかしくてならなかった>(アラスカの夏)
ほほえみを誘う結末である。私も思わず笑ってしまった。星野さんの本の中には、こんな心が暖められるような人生のミステリーがいくつか描かれている。もう一つ紹介しよう。
星野さんが一人暮らしをしていた頃、取材のためにときには何週間も家を空ける。ところが旅から帰ってきた明くるの朝、きまってインデアンの友人から。「ミチオ、おかえり」と電話が入るのだという。
その友人は遠くに住んでいて、星野さんが前日に家に帰ったことを知らないはずだ。ところが長旅から帰ったあと、きまってその翌朝に電話がかかってくる。どうしてそんなことが可能なのだろう。
ある日、星野さんはその謎に気づく。それは簡単なことだった。その友人は星野さんが旅に出たと知ると、帰る頃を見計らって毎朝電話をしていたのだ。これは星野さんの「長い旅の途上」の中の「カリブーフェンス」に書いてあるお話である。
人生のミステリーは謎が解かれてしまうと、コロンブスの卵のように単純に思われることが多い。もっともモナリザの微笑みのように、私には一生かけても解けないような深遠な、美しい謎も存在する。それゆえに、人生はこよなく楽しいのだろう。
(今日の一首)
モナリザの謎の微笑み人生は かくも楽しや神秘に満ちて
去年再発した花粉症が、今年も私に襲い掛かった。しかし、どういうわけか、1週間ほどで症状が消えた。私の周りでは、まだマスクを離せない人がたくさんいる。
この話を妻にすると、それは「菜花のせいだ」という。妻が「花粉症に菜花がよい」という話を聞いてきた。そこで私の家では毎朝菜花が食卓に出るようになった。とくに花蕾の部分がいいのだという。
菜花は花粉症だけではなく、いろいろなアレルギー症にもよいらしい。妻は何年か前から毎朝鼻水が出て困っていた。これも菜花を食べ始めたら治ってしまったという。
そこで、インターネットで調べてみた。そして、菜花が実際に栄養満点であることを知った。菜花はビタミンAはホウレンソウ並み、カルシウムはほうれん草の3倍、鉄はブロッコリーの約3倍の量を含んでいるのだという。とくに花蕾の部分がいいようだ。
菜花は良質のタンパク質やビタミン、ミネラル類が豊富なだけではない。アブラナ科特有の「イソチオシアネート」という成分を含んでいる。これはガン細胞の発生を抑制する働きがあるだけではなく、ドロドロになった血をサラサラにし、血圧を下げ血栓を予防する働きもあるらしい。
散歩の途中、妻の畑によったら、菜花が咲いていた。まだしばらく、我が家の食卓には新鮮な菜花が食べられそうである。ありがたいことである。
(参考サイト)
「生活習慣病が気になったら菜花」 http://allabout.co.jp/health/healthfood/closeup/CU20030402A/ ーーーーーーーーーーーーーーー
<つぼみも葉も栄養満点>
菜の花はとても栄養価が高く、良質のタンパク質やビタミン、ミネラル類に富んでいます。五訂日本食品標準成分表によると、100g当たりのビタミンAはホウレンソウ並み、カルシウムはほうれん草の3倍、鉄はブロッコリーの約3倍の量を含んでいます。
一般的に花蕾には、植物の持つ栄養がたくさん詰まっています。ですからその部分を食べられる菜の花を利用すれば、効率良く栄養をとることができるのです。また、アルカロイドを含んでいるため、ストレス解消や疲労回復などにも効果があります。
■アブラナ科の健康パワーに注目
菜の花は、アブラナとも呼ばれているように、3〜5月に黄色の十字架状の花が密集して咲くアブラナ科の植物の総称でもあります。
アブラナ科の仲間で野菜として食用されているものには、キャベツ、ブロッコリー、ケール、カリフラワー、芽キャベツ、ダイコン、ハクサイ、カブ、コマツナ、チンゲンサイ、ワサビなどがあります。最近では、アスパラガスの花も出回っていますよね。
これらのアブラナ科の健康パワーが、今アメリカなどから注目を浴びています。というのは、アメリカ国立ガン研究センターは、ガン予防を目的とした食品の計画研究を『デザイナー・フーズ・プログラム』と呼び、ガン予防の可能性のある食品を約40種類ピックアップしています。
それらの食品をデザイナー・フーズと呼び、それを重要度によって並べたのが、デザイナー・フーズのピラミッドです。アブラナ科の野菜は、積極的に食べたい野菜として紹介されています。
■アブラナ科にしか含まれないイソチオシアネート
アブラナ科はなぜ注目されているのでしょう? それは、主としてアブラナ科野菜に含まれている成分「イソチオシアネート」を含んでいるから。これは、野菜の辛味成分のことで、唯一アブラナ科の野菜にだけ含まれているのです。ワサビや大根などの辛い野菜ほど多く含まれています。最近、このイソチオシアネートに、ガン細胞の発生を抑制する働きがあることが分かってきました。
またこの成分は肉食生活でドロドロになった血をサラサラにし、血栓を予防する働きがあります。肉食に偏りコレステロールや血圧が気になる方、生活習慣病が気になる方は、アブラナ科の野菜を意識して多く摂った方がよさそうですね。
イソチオシアネートは、野菜の細胞を壊すことで吸収しやすくなるという特長があります。ですから、アブラナ科野菜を食べる時には、よーく噛むことがポイント。また野菜ジュースとして摂取するのも効率良くとる方法です。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
(今日の一首)
菜の花の蕾を食べてすこやかに 今日も散歩す春風のなか
今日は次女の大学の卒業式である。もっとも卒業式には出席しないで、トーイックの試験を受けに行くという。イギリスで勉強をしてきたばかりだから、いまならいい点数がとれそうだ。そのあとの卒業パーティには参加する。貸衣装で着物や袴も借りてるいるようだ。
長女はすでに看護婦として3年目を迎えようとしている。次女もこの4月から婦人警官である。次女を社会へ送り出すことで、私たち夫婦の子育てはひとまず終わりである。この二十数年間、いろいろなことがあった。「よくやったね」と、妻にまずは感謝をささげたい。ついでに自分もほめてやりたい。
わが家では「おはよう」をいう。近所の人とも挨拶をする。そして朝食と夕食は必ず家族で一緒に食べた。食事の時、娘たちは「いただきます」を言い、食事中はなごやかに駄洒落などを言い合った。こうしたことは外国ではあたりまえだろうが、あんがい日本の家庭ではなおざりにされているのではないだろうか。
単身赴任で長いこと父親が家庭に不在であったり、たとえ家に滞在していても、仕事の付き合いで夜が遅くなり、一家団欒の時間がもてないということが多い。私の場合はさいわいそういうことがなかった。これは私が恵まれていたということではなく、仕事に忙殺される日本のサラリーマンのありかたが間違っているように思われる。
娘たちの教育や進路については私はほとんど口出ししなかった。数学の勉強を教えたこともほとんどない。大学に進学するのなら国公立にしてくれと注文したくらいで、とくに「勉強しろ」とも言わなかった。これは妻も同じである。
勉強が多少できるよりも、社会的知性を身につけた思いやりのあるやさしい女性に育ってほしい。だから妻も私も「しつけ」には気を配った。新幹線で大声を出したときは、娘の頭をポカリと叩いたこともある。他人に迷惑をかけて鈍感なのは、親のしつけができていないからだと思っている。
しかし、この二十数年間を振り返ってみると、子育てをすることで成長したのは、だれよりも私自身だったかもしれない。娘たちと過ごした日々は、人生をもう一度新しくやり直すようなハラハラどきどきでもあった。この感動とときめきをありがとうと、娘たちに感謝したい。
(今日の一首)
子育てを終えてひといき人生の 門出迎える娘がまぶしい
一昨日の22日に79歳で亡くなられた城山三郎さんは、戦時中は軍国少年だったという。陸軍中佐の著「大義」に心酔し、17歳で海軍特別幹部練習生に志願した。彼は昭和20年5月から8月まで、海軍特別幹部練習生だった。しかし、軍隊で彼を待っていたのは制裁といじめだった。終戦になったときにの状況を、城山さんはインタビューでこう述べている。
<下士官たちが狂ったみたいに騒ぎ出して、アメリカが要求しているから、僕らをサイパンに送るとか言い出したり、僕らを精神的にいじめたり、それから犬を探してきて殺したり、自分たちが週末に行くクラブがあるんですが、そこへ基地の倉庫から米とかを夜に全部運び出して、私物にする。だから、最後の最後まで日本海軍もおかしかった>
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/410_2.html
このときの体験を下敷きに、城山さんは戦後、「大義の末」という小説を書いた。城山さんは主人公の若者に、敗戦後、「みんなが幸福にくらせる国をつくれば、黙っていたって愛国心は湧いてくるじゃありませんか」というセリフを吐かせている。
城山さんは昭和32年に経済小説「輸出」で文學界新人賞を受賞して文壇にデビューしている。これは企業戦士が主人公である。城山さんは企業戦士のなかに特攻隊員の生き方に類似した悲劇を見つけていた。インタビューでも「忠君愛国の大義が輸出立国の大義に変わった。組織の末端にいる人たちの人間性がどこかに吹っ飛んでいる」と言っている。経済小説を含め自分の作品の原点は「すべて戦争体験から起こった大義への不信」だそうだ。
城山さんの最後の小説は、去年発表された「指揮官たちの特攻」だ。中津留達雄と関行男という二人の大尉は、海軍兵学校の昭和16年の同期生で、一方は最初の神風特攻隊員になり、一方は天皇の終戦の玉音放送があったあとに宇垣纏長官を乗せて、日本最後の特攻隊員として沖縄に飛び立つ。そして上官の命令にもかかわらず、軍事目標を故意に避けて、海岸の岩場に激突する。城山さんはこう述べている。
<彼は司令官の命令に従うべきなんですが、それに盲従しないで大局を見る力があったんでしょうね。ここへ突っ込んだら日本は大変なことになる。国家に対する忠誠心ですね。だけど、参謀クラスはそういうものが結構欠けていて、自分たちは危ない所には行かない。ほとんど参謀は逃げている感じです>
組織の中で、個人はどう生きたらよいのか。この永遠のテーマをめぐって、城山さんは最後まで格闘した。トップの指導者がお粗末だと、その苦しみはいつも下部の構成員に押し付けられる。大義によって押しつぶされ、悲劇的な人生を余儀なくさせられるのは、いつも時代を必死に生きている庶民たちである。城山さんの作品はこのことを雄弁に語っている。
(今日の一首)
大空に希望という文字書いてみる 自由の国を旅してみたし
2007年03月23日(金) |
至誠にして動かざる者はなし |
良寛さんが好んだ「愛語よく回天の力あるを学すべきなり」(正法眼蔵)という道元の言葉と並んで、私が忘れられないのは、「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」という孟子の言葉だ。これは私が尊敬している吉田松陰が信条として大切にしていた言葉でもある。
松陰は安政6年(1859年)10月26日に江戸小伝馬上町(現東京都中央区十思公園)の牢内で遺書「留魂録」を書き上げた。その翌日、死刑判決を受け、すぐに処刑されている。享年三十歳だった。「留魂録」のなかで、とくに私の好きな一節を引用しよう。原文、現代語訳ともに、「吉田松陰 留魂録」(古川薫、講談社学術文庫)の借用である。
<十歳にして死する者は十歳中自ずから四時あり。二十は自ずから二十の四時あり。三十は自ずから三十の四時あり>
(私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきことかも知れない。だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである。
なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐっていとなまれるようなものではないのだ。しかしながら、人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。(略)
私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるモミガラなのか、成熟した栗の実であるのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい)
松陰は「留魂録」を二部書いた。一部は牢名主沼崎吉五郎に預けられた。松蔭は牢にいる間も、罪人を相手に「孟子」を説き続けた。そして多くの罪人たちがこれを傾聴した。松陰は高杉晋作に与えた手紙のなかでも、「獄中の交わりは、総じて父子兄弟の如し」と書いている。
とくに牢名主の沼崎吉五郎は殺人容疑で獄に繋がれていたが、入牢してきた松蔭を尊敬し、親身になって世話をするようになり、自から懇願して「孟子」の講義も受けた。松蔭もまた彼を同志として信頼した。そして、「自分は別に一本を故郷に送るが無事に着くかどうか危ぶまれる。それでこれを汝に託す。汝、出獄の日、この遺書を長州人に渡してもらいたい」と彼に遺書を託すまでになった。
もう一部は松陰の遺品とともに、ひそかに牢から持ち出され、門下生の手にわたった。これも牢のしきたりに詳しい牢名主沼崎吉五郎のはからいだったと思われる。松陰の処刑後「留魂録」を読んだ高杉晋作は、「この仇を討たずにおかない」と決意したという。古川薫さんは「吉田松陰 留魂録」にこう書いている。
<「留魂録」は門下生のあいだでひっそりと回覧され、写本となって松門の志士たちの聖書ともなった。その諄々と教え諭す語調は、たしかに死の瞬間まで教師であろうとする松陰の遺書といえた。彼は種を植えつけて処刑された。先駆者の役割は、すでに果たされており、死そのものが、最後の教訓として門下生を奮い立たせたのである>
残念なことに、この「留魂録」は門下生たちに回覧されている間に遺失してしまった。ところが、明治9年、神奈川県の権令だった野村靖の前に、一人のみすぼらしい老人が、「私は吉田先生と獄で同じだった沼崎吉五郎です」と名乗り出た。そして、「留魂録」を差し出した。長州の出身の野村靖は筆跡を見て、まぎれもない松陰の書だとわかった。
沼崎吉五郎は松陰の処刑後、三宅島に流された。そのとき松陰から託された「留魂録」を隠し持ち、肌身につけて離さなかった。やがて江戸幕府は倒れ、世の中はすっかり変わった。許されて本土に帰ったときも、「留魂録」は持っていた。彼は松陰との約束を思い出し、神奈川県の権令が長州人だと知って、これを差し出したのだという。
「留魂録」を差し出したあと、沼崎はそのまま飄然と姿を消し、その後の彼の人生について手がかりは残されていない。しかし彼が伝えた「留魂録」は萩に送られ、現在は松陰神社の境内の資料館に展示してある。私も数年前に訪れ、「留魂録」と対面したが、感激ひとしおであった。
松陰が門下生に説いた「孟子」は「革命」の書だと言われている。政治は支配者の贅沢のためではなく、人民の幸せのために行われなければならないという主張が強く出ているからだ。実は「人民」という言葉も、「孟子」の中で初めて使われている。
「諸侯の宝は三。土地・人民・政事なり」 「民を貴しとなす。社稷(しゃしょく)これに次ぎ、君を軽しとなす」 「天下を得るに道あり。その民を得れば、ここに天下を得る」
松陰の薫陶を受けた門下生は30名ほどだが、多くは師のあとを追うように死んだ。古川薫さんの調べでは、8名が割腹自殺、捕らえられて斬首されたもの1名、獄死したもの1名、陣中で討ち死などしたものが5名で、半数の者が明治まで生き残ることはなかった。いずれも松蔭の志を継ぐことに生涯をささげた殉難者たちである。「留魂録」はこうした人々の「鎮魂の書」としても読むことができる。
(今日の一首)
死してなお人は生きたりさわやかな 草原を吹く風のごとくに
2007年03月22日(木) |
ちょっぴり美しい人生 |
人を動かすには、道徳や正義はあまり役に立たない。いくら理路整然と正論を述べても、それで人が動くわけではない。頭でわかっていても、心は別の行動を指示する。「わかっちゃいるけど、やめられない」わけだ。
我々は打算と欲望の支配する「煩悩の世界」で生きている。だから、相手を動かすには、まず相手が何を欲しているかを見なければならない。「説得」とは「得(利益)」を「説く」ことである。株を売りつけようと思えば、いかに株が利益を生むか説けばよい。人間は自分の益になる理屈であれば好んで耳を傾け、容易に納得する。ずさんな理屈でも、欲望の色眼鏡をかけて眺めれば完璧な理論に見える。
私は中学生や高校生の頃、日曜日は父の田舎へ出かけて山仕事をした。これは重労働である。にもかかわらず、父についていったのは、父が怖かったからばかりではない。自分の植えた木が将来何万円かの商品価値を持つ。数万本植えれば、数十億円になる。50歳になったら、私は億万長者である。父からこんな話を聞いていたからだ。自分の利益になると思えばこそ重労働にも耐えた。
もちろん、現実はそうはならなかった。1970年代の末には2万2千円した杉が、外材の輸入によってみるみる値崩れして、バブルの頃は8千円を割った。おまけに人件費が高騰して、林業は商売にならなくなった。現在は中国経済の興隆とともに外材が値上がりしている。しかしそれでも1万2千円ほどだから、まだまだ林業で生計を立てる水準にはない。
結果的に父に騙されたわけだが、父をうらんではいない。父も悪意があって私たちを騙して山仕事に駆り出したわけでないからだ。父もまた甘い夢を追っていたのである。世が世であれば、父も65歳まで命を縮めてまで働かなくてもよかった。私も50歳で隠居できたはずである。
山の財産があてにならなくなったので、私は教師として勤勉に生きることを余儀なくされた。このことによって、私はずいぶん人間的に成長することができた。「子孫のために美田を残さず」と言った西郷さんの言葉は、私の場合はあたっているのではないかと思う。
欲得だけの人生はつまらない。しかし、人間は欲得を離れては生きられない。私たちにできることは、その「煩悩の世界」からほんのわずかだけ浮き上がることくらいだ。そのときちょっぴり自由になった気分を味わう。人生が少しだけ美しく見える。
たとえば道元の「正法眼蔵」の中に、「愛語よく回天の力あることを学すべきなり」という言葉がある。良寛さんがこよなく愛した言葉でもある。
<愛語というは、衆生をみるに、まづ、慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。徳あるはほむべし。徳なきはあはれむべし。愛語よく回天の力あることを学すべきなり>
良寛さんについてはこんな言い伝えがある。良寛さんの甥の馬之助が仕事をせずに遊んでばかりなので、両親は心配して良寛さんに意見をしてもらおうと思って、家に呼び寄せた。
ところが良寛さんは何も言わない。何事もないまま五日が過ぎて、良寛さんは帰り支度を始めた。そのとき、良寛さんは馬之助にわらじを結んでくれるよう頼んだ。
馬之助が良寛さんのわらじを結んでいると、うなじに冷たいものが落ちてきた。驚いて顔を上げると、良寛さんが両目に涙を一杯ためていた。馬之助は良寛さんのこの深い愛情に打たれて、それからは行動を慎むようになったという。
愛語というのは何も言葉とは限らない。良寛のように、一言も語らなくても、愛情が伝われば、相手はそこに「愛の言葉」を読み取る。そしてこの愛情が人を変える。
(今日の一首)
お彼岸に墓参りしたお土産の 草もち食べる田舎の匂い
人を自分の思い通りに動かすにはどうしたらよいか。まず一番有無を言わせないのが、「困ったことになるぞ」という脅迫の方法である。東京都教育委員会が行っている「君が代を歌わない教師は処分する」というのはこのたぐいだ。職を失っては大変だから、教師たちは従うだろうが、これは一種の暴力であり、非文化的な方法である。
私も身に覚えがあるが、母親におもちゃを買わせるために子どもは人前で駄々をこねて母親を困らせる。これも一種の脅迫である。労働者がストライキをしたり、会社が従業員に「もっとしっかり働かないと困ったことになるぞ」と解雇をちらつかせたりするのもこの類だろう。
もう一つは「あなたのためになります」という「利益供与」の方法である。多くの人は「お金」のためなら健康を犠牲にしてでも働く。お金は人を動かすにもってこいの道具である。もっとも、「給料を上げてやるからもっとしっかり君が代を歌ってください」といわれて、「まあ、仕方がないか」と歌いだす教師はあまりいないだろう。利益供与や見かえりを与えるのは、あまり文化的とはいえないが、文明的な方法ではある。
ところで、「あなたのためになります」というのが、セールスの基本である。これは騙しのテクニックにもなる。「お徳ですよ」といわれたら、眉につばをつけなければならない。教師や親もよく「お前のためだ」と口にする。これもほんとうか怪しい。あまり信用しすぎてもいけない。
こうした「アメ」と「ムチ」の他にも、人を動かす方法がないわけではない。たとえば、幼い子どもが駄々をこねたとき、「あとでお父さんに叱られますよ」といえば脅迫で、「おうちに帰ったらおまんじゅうをあげます」というのは「利益供与」だが、「お母さんを困らせないでちょうだい」と涙ぐんで哀願する方法もある。子どもはお母さんがかわいそうになって、駄々をこねるのをやめるかもしれない。
教師をしていて、私がよく使う方法がこれである。「お願いだから、先生を助けくれないか」と持ちかければ、たいていの生徒は「まあ仕方がないか」と協力してくれる。協力してくれたら、「ああ、たすかたよ、ありがとう」と声をかける。「ありがとう」と言われて、悪い気がする人間はいない。
人間は強制されて動く。利益のためにも動く。しかしそれだけではない。人間はもう少し高尚な感情を持っている。それは「人から感謝されたい」という心である。「ありがとう」と言われたとき、人は誰しも、「ああ、自分も何か世のために役立っているんだ」と思い、うれしくなるのではないだろうか。
(今日の一首) 英国の旅より帰りたのしげに 娘は少し太ったという
次女が昨夜、英国の1ケ月の語学留学から無事に帰ってきた。「毎日英語を勉強して、少し聞き取れるようになった」という。学校には日本人は少なく、黒人やイスラム系の人たちも学んでいて、多文化交流ができたという。週末の旅もたのしかったようだ。彼女は4月から愛知県警に就職が決まっている。いよいよ社会人として門出である。
3月になってから雪が降るなど、寒い日が続いている。今年は2月が3月の陽気だった。そして3月が2月の陽気である。いったんふくらみかけた桜のつぼみも、この寒気に戸惑っているようだ。
今日は終業式である。去年の4月に23名いた私のクラスの生徒も、6人脱落して17名になった。1年生全体でみると、31名も脱落して、68名から37名に減っている。ずいぶんと少なくなった。
定時制高校に入ってくる生徒の多くが、いろいろな問題を抱えている。中学校から不登校で、ほとんど学校に行っていない生徒もいる。学校に行っても精神的な問題で教室にいけず、保健室にいたという生徒もいる。あるいは反対に、暴走族の仲間になって、夜の街を走り回っていた元気のよい生徒もいる。
そうした生徒たちは、なかなか学校に適応できない。学校に来るまでの敷居が高いし、教室に来ても落ち着かない。そしてしだいに休みがちになる。とうぜん、授業にもついていけなくなる。ますます学校から足が遠のき、授業の出席日数がたりなくなる。そして進級ができないと知らされて学校をやめていく。
私のクラスにも中学時代不登校だった生徒が6人ほどいた。3人はやはり学校が続かずやめて行った。しかし、3人はがんばって踏みとどまった。入学当初、家裁に呼び出されてあわや鑑別所入りかと思われたT君も、その後、サッカー部で活躍し、全国大会に選手として出場するなど、すっかり学校になじんでいる。
残念なのは演劇部で「青太」の役をやってがんばっていたN君が、1月になって、「もういちど昼間定時制の学校を受験したい」と言い出したことだ。あと少しで1年生の単位が取得できるのだからもったいない。合格しても1年遅れになるし、受験に失敗したら、それこそ大きな損失ではないか。「君がいなくなるとさみしい」と言って、情もからめて慰留したのだが、「僕の人生は自分で決めたい」と言い張る。
お母さんにも学校に来てもらった。担任と一緒に面接すると、「小学校の頃から不登校だった子が、こちらにきて変わりました。演劇部で活躍したり、今回も自分でこうしたいという意思が持てるようになったのには驚きました」という。自己主張できるのは子どもの成長だと捉え、本人の意思を尊重したいという。私もこれに同意し、それからは受験に向けて毎日業後、数学の勉強を手伝ったりした。彼は「受験、がんばります」と言い残して、2月半ばごろにやめて行った。
N君は3月にかなり難関だと思われる昼間定時制高校を受験した。しかし、競争率が2倍近くあり、合格することはできなかった。まだもういちど受験のチャンスはあるが、かなり前途は厳しい。担任が電話をかけても、本人は出てこないという。私も今日くらい電話をして、「青太、へこたれるな」と励ましてやろうかと思っている。
(今日の一首)
夜学来てふたとせ過ぎぬこのごろは 白髪頭もますます淋し
次女が1ヶ月のロンドン英語研修を終えて帰ってくる。ホームステイ先の老夫婦とあまり意志の疎通ができず、食べ物のことでも苦労したらしいが、とにかく無事終えそうで、父親としてはほっとしてる。あとは飛行機に乗り、無事に帰国してくれることを祈るばかりだ。
娘とは何回かeメールのやりとりをした。お互いになれない英文なので、意を尽くせないもどかしさがあったが、そもそも娘たちとメールの交換をする機会がほとんどないので、これは貴重な体験になった。
早朝届いた最後のeメールにはこの週末に Bathへ行ったことが書かれてあった。また、「I really enjoed exchanging English e-mail with you.Thank you father.」と書いてあった。12時間後には飛行機に乗るのだという。さて、どんな土産話が聞けるか楽しみである。
次女が帰ってきたら、一家4人でケーキのバイキングに行くことになっている。バレンタインデーに妻や娘たちからいろいろ貰ったので、そのお返しで私がおごるわけだ。ケーキの食べ過ぎに注意しようと思う。
(今日の一首)
娘より届きしメールそのたびに われも旅する異国の街角
昨日、青春18切符で福井へ帰省した。弟の2人の息子が大学と高校に合格した。そのお祝いもかねての帰省である。3時ごろ実家について、さっそく二人にお祝いを渡した。それから母とつもる話をした。建設事務所で働いている弟が帰ってきたのが7時ごろだった。土曜日だというのに会社が忙しくて休めないという。
休めないどころか、現場に泊り込んで、家に帰れないことが多いらしい。弟も49歳になった。胃潰瘍で検査を受けたばかりだという。血圧も高いが、医者に行く暇もないという。65歳まで働き、翌年肝臓がんで死んだ父の姿と弟が二重写しになった。
「会社のために自分を犠牲にしてはいけないよ。健康が大切だから。」 「しかし、若い人がやめて、人手がなくてね」 「それにしても、4人も子どもがいるんだから、命を縮めることはするなよ」 「わかっている」
長男でありながら家を出て、弟にすべてをゆだねているので、私も大きなことはいえない。父の葬式の喪主をしたのも弟である。弟は面倒な田舎の親戚付き合いも忙しい仕事を休んでこなしている。だから私は弟に説教したりはできない。ただ、片時もタバコを話さない弟を見ていると心配になる。いろいろと言いたくなる。
今日は弟と田舎に行って、久しぶりに山を歩いた。中学性の頃から、父と山仕事をしに通った山である。休日返上の山仕事はほんとうにつらかった。土曜日になると、明日は雨にならないか祈ったものである。
「ふつうは晴れてほしいと祈るのに、僕たちは反対だったものな」 「雨になれば山仕事が休めるからね」 「雨でも出かけることがあったけど」 「ああ、ほんとうにつらかったな」 「おかげで、ずいぶん忍耐力がついた」 「忍耐心がつきすぎるのも問題だ」
弟とそんな会話をしながら山を歩き、父の残した手帳を見ながら、二人で山の境界を確認した。途中から、妻と長女が私たちに合流した。看護婦をしている長女の夜勤があけたのが午前9時で、それから長女は妻を乗せて高速道路を走ってきた。長女はその前日も、正午まで勤務をしていたという。そのうえ、山仕事の手伝いまでたのんでしまった。
私と弟が境界の杉の木に特定し、妻と娘が二人で幹にビニールテープを巻いた。そうして山の境界をはっきりさせた。弟の二人の息子の学費をつくるために、できれば近いうちに山を売ることにしている。そのための作業である。山肌にはところどころ雪が残っている。それを踏み固めながら、作業は4時近くまで続いた。
ふたたび福井市の実家に帰り、母や弟の嫁をまじえて話をした。今年は父の17回忌である。その打ち合わせもあった。そこを辞去したのは夕方近くである。帰りの車は妻が運転した。私が助手席に乗り、長女は後部座席で熟睡である。私も助手席で、ついうつらうつらしてしまった。
(今日の一首)
杉苗を背中にかつぎ山道を 父と登りし雨の日ありき
西行(1118〜1190)の命日は2月16日である。死の4ヶ月ぐらい前に吉野山のふもとの弘川寺に移って、そこでしだいに食を少なくして、お釈迦さんの誕生日である2月15日の翌日に死んだ。
ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃
西行のこの歌は「山家集」に載っているので、50歳前半までに作られたようだ。この歌のとおり、如月の望月(2月15日)の頃に桜の花の下で死ぬのはたいへんである。そもそも如月に桜が満開になるのだろうか。
ところが太陰暦では閏年ならぬ閏月がある。つまり何年か一回は1年が13月になるわけだ。つまり2月15日が、現在の4月中旬の陽気になることがある。こういう機会を見つけて、西行はその数ヶ月前から食事を制限して死んだのだろう。
2月15日ではなく、一日ずれているというのが奥ゆかしい。これも西行らしい配慮といえば言える。なかなかのものである。山折哲雄さんは対談集「日本の心」のなかでこう述べている。
<日本の伝統とか、日本の文芸世界には、死を考える深みのある価値観というものがたくさんあったとおもいますね。例えば、西行法師は自分の思った通りに、思った日時に、「桜の咲いている、満月の夜、桜を見ながら死んで行きたい」と、その通りに大往生しています。多分、死を覚悟した後、最後の十日くらいは絶食したのではないかと思います>
絶食して死ぬというのは当時は珍しくはなかったようだが、ここまで見事な西行の死は、多くの人たちを感嘆させたようだ。俊成も「かの上人、先年に桜の歌多くよみける中に、願はくは・・・かくよみたりしを、をかしく見給へしほどに、つひに如月十六日望月終り遂げけることは、いとあはれにありがたくおぼえて」と書いている。
モンゴル草原で夕日を眺めながら死にたいという私の昔からの願望も、ルーツは西行にある。私の場合、できることなら64歳で死にたいと思っている。65歳になる前にあの世に行けば、保険金が3000万円ほど下りる。これを家族と、恵まれぬ子どもたちに残したいと思うのは、西行とちがって少し俗であろうか。
すがる子どもを足蹴にして出家したお釈迦様や西行のような潔さは私にはない。家族のことを大切に思い、あわせて多くの人々の幸せを祈りながらしずかに死にたいというのが私の願いだ。
夕日かお月さんでもでも眺めながら、「楢山節考」のおりん婆さんのように、自然の懐に抱かれて息を引き取ることができれば幸せである。そしてできれば、「千の風」になって、いつまでも大空を吹き抜けていたい。
(今日の一首)
願わくばひとり静かに月ながめ 息ひきとりて風となりたし
最近、木曽川の堤防を散歩をしながら、「千の風になって」という歌をよく口ずさむ。なんと心持のよい歌だろう。
私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に、千の風になって あのおおきな空を ふきわたっています
2007年03月16日(金) |
フィリピンで日本語教師 |
フィリピンには日本人の父親に認知や養育を拒否され、まずしい生活を余儀なくされている日系二世の人たちが2万人ほどいる。新日系人とよばれる彼らは、戦後フィリピンに渡った日本人とフィリピン女性との間に生まれた子どもや、日本に渡ったフィリピン女性と日本人との間に生まれた子である。
セブにもこうした新日系人の子どもがたくさんいる。彼らを支援するために、セブ日本人会の会長をつとめた岡昭さんはSNN(新日系人ネットワーク・セブ)というNPO(非営利法人)を立ちあげた。彼らの活動は新聞でも報道されたし、去年9月3日にはNHK総合テレビ「海外ネットワーク」でも取り上げられた。私のおぼろげな記憶では、「クローズアップ現代」でも取り上げられていたと思う。
SNNの活動の一つに、「海外日本語教師ボランティアプログラム」がある。週3日間新日系人に日本語を教えながら、2日間はセブの英語学校に通って英語力をマスターするというプログラムである。つまりボランティアで日本語教師をしながら、英語もマスターできるわけで、とても魅力的である。「SNN海外日本語教師ボランティアプログラム」のHPから引用してみよう。
「英語力の向上はもちろん、教師として日本語や日本文化を教えることによって、異文化理解やコミュニケーション能力を高めることができます。また教師として一方的に教えるばかりではなく、生徒達からも多くのことを教えられる機会があります。プログラム終了後、その経験はあなたとあなたの教え子達双方の人生にとって、大きな収穫となることでしょう。必要なのは、学歴や経験よりも、積極性と向上心です。日本語教室の生徒達の熱心さに負けない熱意のある方の参加を期待しています」
HPにはこのプログラムに参加した人たちのメッセージも掲載されている。
<私は日本で小学校教諭の職を辞し、暖かいセブ島の「青い空」「輝く太陽」「珊瑚礁の海」に憧れて退職後の人生を過ごすべく、セブ島に来ました。ここでもう5ケ月が過ぎ、「SNN日本語会話学校」で週3回×2時間の授業を担当していますが、私にとっては「健康な生活にリズムを確立させる」上で貴重な体験となっています。そしてさらなる「生きがい」を感じています>(渋谷春通さん)
<生徒はとても明るく、教室ではジョークや笑い声が絶えません。皆さんほんとうに日本に行きたい人ばかりなので、授業はもちろん、宿題もまじめにやり、やりがいがあります。授業では私が教えるというよりも、教えられることの方がとても多いです。何気なしに使っている日本語をどう生徒に説明するか、私が日本語を客観的に見る勉強にもなっています>(菅原宏美さん)
資格は18歳以上であればとくに問われない。ただし期間は8週間以上なので、会社員や公務員が短期休暇を利用して気軽にというわけにはいかない。このプログラムに参加するためには退職・休職するか、定年を待つしかないわけだ。大学生なら半年か1年間休学して、このプログラムに参加し、ボランティア体験を通して世界を学ぶのもいいかもしれない。私も定年後の選択肢の一つに考えている。
(参考サイト) http://www.ryugaku-webdirect.com/volunteer-japaneseteacher.html
(今日の一首)
夕食は妻の握りしおむすびを ふたつ平らげお茶を一杯
昨日は「100円マックの会」で、鈴木啓造さんといろいろ語り合った。「100円マックの会」というのは、マクドナルドで100円のコーヒーを飲み、これをお代わりしながら、2時間ほどさまざまな人生問題について語り合う会である。こういう会を名古屋駅のマクドナルドで月2回ほど定期的に持つことにしている。
昨日は俳句の話から、万葉集や源氏物語の話になり、これが哲学や宗教の話に発展した。私は哲学や宗教の根底にあるのは「色即是空、空即是色」の創造原理だと思っている。このことを中心に、西田幾多郎の「善の研究」や、私の好きなルソーのことなどにも脱線しながら、いろいろと楽しく語り合った。 そして最後は、鈴木さんが最近読んで感銘を受けたという坂口安吾の「堕落論」の話になった。鈴木さんと「堕落論」との出会いが面白い。彼の主催する掲示板「日々の賀状」にそのいきさつが書いてあるので、ここに引用させていただこう。
ーーー風が届けた「堕落論」 ーーーー
私は、よく家の近所を散歩する。昨日は、家から、2キロほど離れた庄内緑地公園へ出かけた。そこへ行くには庄内川を越してゆかねばならないが、その橋を渡る前、信号待ちをしていると、風に乗って、一枚の新聞の切り抜きが私の足元に舞って来た。
私は、何かと思って、それを拾ってみたら、昨年十二月九日付けの中日新聞に掲載された、坂口安吾の「堕落論−5−」であった。中日新聞は、このところ漱石、鴎外などの昔の文豪の名作を、読みやすい文字に直して連載しているのは知っていたが、まさか、「堕落論」までが連載されているとは知らなかった。
私は長年、この坂口安吾の評論に興味をもっていたが、この歳になるまで何故か読まずに、やり過ごしてきてしまったので、早速、それを公園のベンチに坐って読んでみた。
掲載内容は以下の通り。感想はまた書けたら書こうと思う。ちなみに「堕落論」は「青空文庫」で全文読むことができてあり難い。 http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html
ついでに言うと、12月9日は、私の結婚記念日であり、もっとも大きな影響を受けた小説家の夏目漱石の命日であり、もっとも大きな影響を受けたアーティストのジョンレノンの命日でもあるので、なんだか不思議な気分になった。
ーーーー坂口安吾「堕落論」よりーーーーー
米人達は終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。笑っているのは常に十五六、十六七の娘達であった。彼女達の笑顔は爽(さわ)やかだった。焼跡をほじくりかえして焼けたバケツへ掘りだした瀬戸物を入れていたり、わずかばかりの荷物の張番をして路上に日向ぼっこをしていたり、この年頃の娘達は未来の夢でいっぱいで現実などは苦にならないのであろうか、それとも高い虚栄心のためであろうか。私は焼野原に娘達の笑顔を探すのがたのしみであった。
あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫(ほうまつ)のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。
徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって永遠の義士たらしめようとしたのだが、四十七名の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に義士から凡俗へ又地獄へ転落しつづけていることを防ぎうるよしもない。節婦は二夫に見えず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な跫音(あしおと)、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫の如き虚しい幻像にすぎないことを見出さずにいられない。
特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。そして或は天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかも知れない。
歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるという事は実に唯一の不思議である。六十七十の将軍達が切腹もせず轡(くつわ)を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。私はハラキリを好まない。昔、松永弾正という老獪(ろうかい)陰鬱な陰謀家は信長に追いつめられて仕方なく城を枕に討死したが、死ぬ直前に毎日の習慣通り延命の灸(きゅう)をすえ、それから鉄砲を顔に押し当て顔を打ち砕いて死んだ。そのときは七十をすぎていたが、人前で平気で女と戯れる悪どい男であった。この男の死に方には同感するが、私はハラキリは好きではない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
「堕落論」は私の高校時代の愛読書だった。国語科の渡辺先生のお宅にお邪魔して、「何か面白い本はありませんか?」と訪ねたら、「これが面白いよ」と本棚なら取り出して貸して下さったのが「堕落論」だった。読んでみると、実に痛快だった。あらゆる既成観念を吹き飛ばしてくれる。
そしてそのあとに残るのは、「生きるという事は実に唯一の不思議である」というとてつもなく深い生の認識である。これに驚愕したものだ。そしてこの「存在驚愕」こそ、「空即是色」ということではないかと現在の私は考えている。
(今日の一首)
100円のコーヒー飲んで語り合う このひとときの色即是空
名古屋名物は何か。お菓子では「なごやん」が好きである。白あんのシンプルな焼き菓子で、毎日食べてもあきない。しかも、値段が安い。5個入りで定価300円である。近所のスーパーでもっと安く買える。
私は毎朝起きると、コップに一杯の水をのむ。それから「なごやん」1個食べる。これで満ち足りた気分になり、パソコンの前に座って日記を書くわけだ。
以前は「コーヒー」と「チョコパイ」の組み合わせだった。しかし、3年ほど前から、健康上のことも考えて、これが「水となごやん」の組み合わせに変わった。妻は私のこの習慣を知っているので、「なごやん」をかかさない。必ず朝起きていくと、「なごやん」が食卓の上に置いてある。
ところが先日、どうしたことか、なごやんが置いてなかった。冷蔵庫を開けたり、あちこちさがしまわったが、どこにも見当たらない。しかたなく水だけ飲んで、パソコンの前に座ったが調子が出ない。そのときできたのが、次の短歌だ。
さびしいなああさびしいななごやんよ おまえがなくてほんにさびしい
「なごやん」は義父の好物でもある。彼は「赤福」も好物だというから、私と嗜好が似ている。ところで義父は「なごやん」をよく手土産に持参する。いつか妻が義父と一緒に恵那にいる伯母(義父の姉)の家を訪れたとき、伯母が義父に「はずかしいのでこれからこんな安物は持ってきてくれるな」と言ったそうだ。
義父の実家は素封家で、姉もそれなりのところに嫁入りしている。弟がそんな安物の手土産で毎回現れては面白くないのだろうが、義父は「うまいものはうまい。値段じゃない」ととりあわない。こういう実質本位なところも私と似ていて、好感が持てる。
ちなみに2年前に長女はこの義父からお金を借りて新車を買った。今回の次女のロンドン留学の費用も義父に用立ててもらっている。妻に言わせればウルトラ級の倹約家で、人に金を貸すなどありえないそうだが、やはり孫には甘いようだ。
この義父と去年は知多半島へ潮干狩りに行った。今年もしきりに行きたいと言っているらしい。80歳を過ぎても、家で木彫り教室を開催するほど元気である。「なごやん」のおかげだろうか。この元気に私もあやかりたい。
(今日の一首)
みぞれ降る寒さのなかで身をちぢめ 桜のつぼみ眺めていたり
イラクで戦死した米兵はすでに3350名を上回った。国連の発表では5万人以上の人々がイラク戦争で命を落としている。しかも、これだけの犠牲を出しても、いまだにイラクは内戦状態である。今後どれだけ犠牲者が増え続けるのか、社会に不安が蔓延しているようだ。
03年6月にイラク復興人道支援室の初代室長となったガーナ陸軍中将は、さっそく当時のラズムフェルド国防大臣に「われわれは3つの悲劇的な過ちを犯した」と苦言を呈したという。(「週刊現代」3/12号)
(1) イラン軍を解体したこと。これによって、何十万という武装イラク人を生み出してしまった。
(2) バース党員を政権から排除したこと。これによって3万人以上の有能なバース党員が地下にもぐり、反政府勢力として活動するようになった。
(3) 治安の担い手であった警察官や実務を担当してきた公務員を切り捨てたこと。これによって、治安が乱れ、市民生活の秩序が破壊された。
イラク復興の責任者となったガーナ中将は「こうした点を早急に改めるべきだ」とラズムフェルドに進言したという。しかし、ラズムフェルドの答えは、「あともどりすることはできない」というものだった。こうしてアメリカは占領政策を見直す惜しいチャンスを逃した。
この点、第二次大戦後のアメリカの日本占領政策と対照的である。このとき、トルーマン大統領はマッカーサーの進言をいれて、最高指導者の天皇の戦争責任をあいまいにし、日本の保守的な指導者の大半を温存した。警察官や公務員はそのまま業務を続行し、社会に混乱は生まれなかった。
しかし、ガーナ中将はマッカーサーにはなれなかった。彼の前にラズムフェルドという巨魁がたちふさがったからだ。昨年、共和党は中間選挙で大敗し、ラズムフェルドは失脚したが、ブッシュはすぐに米軍兵士2万人の増派を打ち出すなど、ラズムフェルド路線をあらためようとはしない。
「イラクを民主化する」という大儀の旗の下に行われた戦争が、「石油の利権」をめぐる争いでしかなかったことは世界の常識になりつつある。そして、実際にイラク戦争はブッシュ一家やラズムフェルドが会長を務めていた軍需産業に巨大な利益をもたらし、アメリカ経済をよみがえらせた。
その意味で、この戦争は彼らにとって大成功だったのだろう。しかし、その陰で、多くのアメリカ人とイラク人の命が失われ、現在も悲劇は進行している。この愚かしい現実をもたらしたものが何であるか、私たちはその正体を知らねばならない。
(今日の一首)
争いを好むものありおろかなる 人々ありてこれにむらがる
日本は他の先進国と比べると、労働時間が長い。そればかりかサービス残業までまかりとおっている。しかも、小泉改革以来、この傾向が加速している。
授業が5時過ぎから始まる夜間高校の場合だと、10年ほど前までは教員は午後4時ごろ出勤すればよかった。それまでは自宅での研修が認められていた。それが5年ほど前から、午後2時出勤になった。
私は12時40分ごろ家を出ている。自転車とJRと地下鉄を乗り継いで、学校に着くと2時頃になる。帰りは9時40分頃に学校を出て、帰宅は11時近くになる。昔夜間高校に勤務していたころと比べると、かなりきつい。
ところが近い将来、これが1時出勤に改められる。自宅での研修を一切認めず、職場にしっかり拘束しようというわけだ。そうすると私の場合、11時40分頃家を出なければならない。これまでのように昼食を家でゆっくりというわけにはいかない。生活のリズムが窮屈になる。
こうしたことで、教員の生産性が上がるとは思えない。おそらく生産性は低下するだろう。しかし、現場を知らない人々が杓子定規に、夜間高校の教師にも民間並みな待遇を求めればこうなる。馬鹿なことをするものだと思うが、これも時代の趨勢なのだろう。
私の場合、転勤希望を出して、もう少し近い定時制高校に変えてもらうのが一番良い。自動車で30分以内で通勤できる高校が複数ある。あと1年で今の高校に3年になる。定年までの3年間を近くの定時制高校で勤務できれば、1時間遅く出かけて、1時間早く帰れるのだから勤務時間の変更によるダメージは完全に回避される。
しかし、転勤希望を出してもそううまくことが運ぶか疑問だ。それから、現在担任をしている1年生の学年を4年まで持ち上がり、無事卒業させたいという思いがある。この年になって転勤は面倒だし、今の職場の人間関係もいいので、できることなら通勤に不便でも、現在の高校で定年まで勤め上げたい。
そこで考えたのは、学校の近くにアパートを借りることである。妻とは別居することになるが、これで毎日3時間もの通勤時間が浮く。これだとたとえ1時出勤でもゆっくり昼食をとることができる。夜の帰宅も各段に早くなり、生活にゆとりができそうだ。
もちろん、アパートを借りればそれだけの出費が予想される。これをどう解決するかが問題だ。ひとつの方法は現在住んでいる家を売り払うことだ。幸い次女もこの4月に就職して独立する。妻も名古屋に実家があり、妻の両親が二人で暮らしをしている。そこに一緒に住むことで、親孝行ができる。家族の思い出のつまった家を失うことはさびしいが、私には経済上これがベストな選択ではないかと思われる。
他の案としては、あと1年間だけ勤めて、思いきって教員をやめることである。家を売り払い、まずローンを完済する。それから妻と退職金を折半する。そうすると750万円ほどの現金が手に入る。これで65歳までの8年間を生き延びる。年間90万円で生きることは日本では無理だ。しかし、セブにでも移住すればなんとかなる。
いずれにせよ、家を処分することが前提になるが、「死ぬときは無一物」という私のモットーからして、いずれこれは断行しなければならないことだ。家族は反対するだろう。しかし私としては、こういう方向で、これから1年間かけて、妻や娘を説得しようと思う。
(今日の一首)
木曽川を眺めてたのし散歩道 御岳見ゆる雨上がりの空
散歩道には伊吹山や御岳山が見える。例年に比べて冠雪は少ない。それでもさすがにまだ山肌に白いもの見える。正面に見えるのは妻とたびたび登った金華山だ。木曽川の河原では、いま鶯がしきりにさえずっている。のどかで平和である。
一昨日、ロンドンに留学中の次女から2通目のポストカードが届いた。先週末にCotswoldsに一泊旅行をしたときに書いて投函したようだ。コッツウォルズについてインターネットで調べてみると、「田園地帯の丘の谷間にラインストーンと呼ばれる蜂蜜色のレンガで建てられた家々が並び、美しい絵画のような村々です」とあった。娘から届いたポストカードにも美しい民家の写真が写っていた。
泊まったのはオックスフォードにあるホテルで、そこでアメリカ人のジョンという男性と知り合ったとある。夜遅くまで2時間も話しこんだというから、父親としてはどんな会話をしたのかいささか気になるところだ。若い娘の一人旅だから心配だが、可愛い子には旅をさせろともいう。今度の1ケ月の英国滞在で得るものは多いだろう。ひとまわり人間が大きくなって帰国するのではないかと、楽しみにしている。
私もいずれ英国に語学留学したいと思っている。できればケンブリッジかオックスフォードで学びたい。しかし、まだまだ語学力が不足している。今年もセブに留学し、そのあと、オーストラリアやカナダ留学を考えている。英国に留学するのは、定年後、時間や資金ができてからということになる。そのときまでに十分な英語力をつけておきたいが、なかなか前途多難である。
(今日の一首)
たのしみは異国に住みてその土地の 言葉あやつり友を得ること
この週末、青春18切符の旅に出たいと思っていたが、あまり天候がよろしくないのであきらめた。どうも最近は体調がいまひとつである。おそらく花粉症が再発したことが大きいのだろう。おかげで散歩のときまで、マスクをつけるはめになった。これでは散歩をしても心が晴れ晴れしないわけだ。
本を読んでも、音楽を聴いても、気分が浮き立たない。こういうときは万葉集を読むに限る。こころの栄養素がいっぱいついまっているからだ。さっそく、本棚から犬養孝さんの「万葉の人々」(角川文庫)を取り出してきた。
もののふの八十(やそ)おとめらがくみまがふ 寺井の上のかたかごの花 (巻19−4143)
大好きな大伴家持の歌である。一昨年の今頃だったか、この歌が詠まれた富山県の国庁あとを一人で訪ねたことがあった。寺井の跡というところに、かたかご(かたくり)が生えていたが、花はまだ咲いていなかった。今年は暖冬なので、もうそろそろ咲き出したかもしれない。
もう一度訪れてみたい。その気が少し動いた。富山まで行くとなると、金沢あたりで一泊したほうがよい。そうすると金沢も歩いてみたくなった。浅野川の橋を渡り、むかし下宿していたお寺の界隈をあたりも散歩したくなる。
ひさしぶりに卯辰山にも登ってみたい。それから電車に乗って、内灘にも行ってみたい。いずれも私の青春時代の思い出がいっぱいつまっているところである。当時はどうしようもないほどさびしい思いを抱きながら、内灘の砂丘をさまよい、夜の卯辰山を徘徊したことがある。そんなさみしい過去でも、今振り返ってみてかぎりなく懐かしい。思い出とは不思議なものである。
(今日の一首)
さびしいなあくびをしてもさびしいな さかだちしてもまださびしいぞ
昨日の「ピック症」の日記を読み返しているうちに、近所のAさんのことを思い出した。Aさんは私の町内のスポーツチームの監督だった。私の二人の娘も小学生の頃、彼のチームでお世話になった。また、長女とAさんの娘さんとは小学校の同級生でもある。そんなわけで、とくに親しいわけではないが、道で会えば挨拶をする間柄だった。
そのAさんが10年ほど前に自転車に乗っていて車と衝突し、脳挫傷を負った。生命はとりとめたものの、その後、いろいろな後遺症が現れ、会社をやめた。そうして昼から暇になり、近所を徘徊するようになった。散歩するだけならよいが、若い女性を見ると親しく話しかける。小学生の少女にまで声をかけ、車に乗せようとするので、近所の人が警察に通報し、パトカーがやってくる騒動もあった。
ほんらいは面倒見のよい好人物である。それが事故で脳にダメージを受けて、性格が変わってしまった。本人もいくらか自覚があるのでつらい。そこで家族に当り散らすようになった。今度は暴力沙汰で、パトカーが来るようになった。家族も事故の後遺症だと思って辛抱していたが、世間の目も厳しくなってきて、忍耐ができなくなってきた。
ある日、奥さんが娘さんたちを連れて家を出た。Aさんはそれからしばらく一人暮らしをしていたが、そのうち姿が見えなくなった。しばらくして、家が売りに出され、今そこに新しい住人が住んでいる。Aさんとその一家がどこでどんな暮らしをしているのか分からない。
元気なころのAさんは、会社でもやり手だったのだろう。ボランティア活動にも積極的に参加して、地域でも頼りになる人物だった。よき夫であり、娘さんたちにとっては誇らしい父親だったはずだ。そうした一家の幸せが、事故によって暗転してしまった。
私は隣人として何もしてあげられなかった。それどころか、彼の姿が町内から消えたと聞いて、厄介者がいなくなってほっとした気持さえあった。これは何とさびしいことだろう。
(今日の一首)
さびしさに河原歩けば鶯の 初音を聞けり白雲の空
働き盛りのサラリーマンや教師が、ある日、とつぜん、「万引き」をして現行犯逮捕される。本人たちには犯行時の記憶がない。なぜ、そんなことをしたのかも分からない。
これは脳の病気による可能性があるのだという。脳の前頭葉と側頭葉の血流低下と萎縮がもたらす「若年認知症」の一種に「ピック症」がある。2月26日の朝日新聞の朝刊にこの「ピック症」が紹介してあった。周囲の状況を気遣わない行動や万引きが症状として現れる人もいるらしい。
中村成信(57)さんは神奈川県茅ヶ崎市の文化推進課長だったが、昨年2月、自宅近くのスーパーでチョコレートやカップめんを万引きした疑いで逮捕された。そして職場を懲戒免職になった。
しかし、どうも話のつじつまが合わない。家族がこれを「おかしい」と感じて大学病院で受診したところ、「認知症の疑いがある」と診断されたという。その後、群馬県こころの健康センター所長の宮永和夫医師によって「ピック症」と診断された。
中村さんのようなケースは少なくないようだ。万引は犯罪である。まして公務員や教師ならば、世間の風当たりも強い。本人だけではなく、家族も肩身の狭い思いをする。失業のあげく家庭崩壊の原因にもなる。宮永医師は、「病気でやった行為なのに、社会的な名誉を失い、その後の人生が大きく変わってしまうのは非情に残念だ」という。
若年認知症の患者は96年度の旧厚生省の調査では、2万6千人から3万7千人だという。現在どのくらいか、厚生労働省が調査中だが、かなりの人数になりそうだ。宮永医師は「まじめに仕事をいていた人が、万一万引きをして『なぜ』ということがあれば、ぜひ専門の医療機関を受診してほしい」とも語っている。
(今日の一首)
週末にコッツウオルズに一人旅 絵葉書送ると娘のメール
星野道夫さんの「長い旅の途上で」には、彼がアラスカで知り合った人々の人生が描かれている。魅力的な人ばかりである。星野さんが「ぼくたちのヒーロー」というエッセイで紹介しているショーンもその一人だ。彼はカリフォルニアで育った。学校で彼は何をやってもビリだった。字も書けず、いつもぼーっとしているので、先生に精神科でみてもらったらどうかと言われたこともあった。
ある日、アラスカに暮らしている一家から、ショーンの学校の校長あてに、「だれか、アラスカに来て、一人息子の友達になったくれそうな子はいないか」という手紙が届いた。手紙を出した家族は、アラスカ北ブルックス山脈にあるワイルドレイクという湖のほとりで暮らしていた。
人里から何百キロメートルも離れているので、10歳になる一人息子は家族のほかに人を見たこともないのだという。両親はそんな息子の遊び相手になってくれる子供を捜して、あちこち手紙を出していたわけだ。手紙を読んだ校長は、ショーンを彼らに紹介した。やがてショーンへ、アラスカの原野で暮らす少年から「僕のところへ遊びに来ないか」という一通の手紙が届いた。
こうしてショーンは毎年夏になると、その家族のもとに遊びに行った。ショーンはアラスカが気に入り、そこで1年間まるごと過ごしたこともあった。ところがアラスカの少年は16歳の時、湖で溺れ死んでしまった。ショーンは大変悲しかったことだろう。
ショーンは大人になってから再びその湖を訪れた。そしてそこで若い女性にであった。スージーという名前のその女性はその湖のほとりで一人暮らしをしていた。彼女にとってショーンは半年ぶりに会う人間だった。大人になっても子供のようなショーンと、原野で一人暮らしをしている美しく神秘的な女性は、すぐに仲良しになった。そして二人は結婚した。
ショーンは約7年間かけて、フェアバンクス郊外の森の中に巨大な塔のような丸太の家を作った。夏になるとカリフォルニアからショーンの年老いた両親がやってきて、家作りを手伝った。母親のフローラリイは家の床になりそうな廃材を集めてきては、ひと夏かけて古い釘を一本一本抜いていった。星野さんのエッセイ「ぼくたちのヒーロー」から引用しよう。
<初めて彼女に会ったとき、ショーンはこの母親のもとで育ったのかと、少し理解できたような気がした。この人は何も持っていない。物質的なものに執着していない、別の価値観の中で生きている、と思った。麦ワラ帽子をちょこんとかぶり、もうこれ以上デコボコにはなり得ないおんぼろ車を運転し、素朴で、何とも可愛らしいフローラリイ。ぼくは、彼女がショーンを見つめる視線が好きだった>
ショーンは字が書けない。そこでスージーは彼にアルファベットを教えた。ショーンはやがてスージーの助けを借りながら、彼が長年心の中に暖めてきたオオカミについての長編物語を書きはじめた。カリフォルニアではなにをやってもビリで、ぼーっとしていたショーンだったが、アラスカの自然とそこで知り合った人々が彼を大きく育ててくれた。
1970年代の終わりに、アラスカは「開発か自然保護か」で大きく揺れた。このときショーンは、アラスカからフロリダまで300日余りをかけてひたすら走った。こうした風変わりなやり方で、彼は自然保護を世間に訴えた。こうして彼はフェアバンクスの若者たちの中心になった。ショーンの誕生パーティに200人に近い人たちが集まった。一人の若者が立ち上がり、彼をヒーローだと言った。星野さんはこう書いている。
<ぼくはショーンの存在が、どれほどまわりの人々の心に触れているかを改めて感じていた。そして、その若者の使ったヒーローという言葉が、ショーンにふさわしいと思った。彼を知る人々だけが知るヒーロー……ショーンの存在は社会の尺度からは最も離れたところにある人生の成否を、いつもぼくたちにそっと教えていた>
少年時代に届いた一通の手紙から始まった彼の新しい人生。いま彼は森の中の大きな丸木の家で、スージーと一緒に「クロウドベリイB&B」という民宿を経営している。「アラスカのフェアバンクスに来るようなことがあったら、是非ショーンの家に泊まってほしい」と星野さんは書いている。是非泊まってみたいものだ。そしてショーンに会って、星野さんのことも聞いてみたい。
(今日の一首)
純白の辛夷の花を見上げれば 心にひろがる清らな思い
最近、若い人の敬語が乱れているという。先週、NHKの「クローズアップ現代」でもこの問題を取り上げていた。たとえば、レストランで耳にするのが次のような不思議な表現だ。
「ご注文の品はおそろいになりましたでしょうか」
どこがおかしいのだろう。まず「おそろいになる」というのが「誰に対して」敬意をあらわしているか問題である。これでは「注文の品」を尊敬していることになる。
「なりました」というのもおかしい。「〜になる」というのも「ご注文の品」を持ち上げていることになる。「なりました」という過去形にも違和感がある。
英語の場合は「would you」という具合に過去形にすることで敬意をあらわすことができる。番組でも触れられていたが、外資系の外食産業が英語から直訳してマニュアルとしてこうした表現を定着させた可能性がある。しかし、日本語の場合は、過去にすれば丁寧になるわけではない。
「でしょうか」という疑問形で終わっているところも疑問だ。これも英文の「would you」の影響なのだろうか。敬語表現として使っているつもりかも知れないが、質問形でいわれるとわずらわしい。また、敬語の数が多いのも問題である。たえばこんな例はどうだろう。
「橋本先生はご自分の数学のご授業がご不満で、ご自分をお責めになって、毎晩遅くまでご教材のご研究をしていらっしゃいます」
これはどうみてもくどすぎる。敬語は文末だけでよいのではないか。
「橋本先生は自分の数学の授業が不満で、自分を責めて、毎晩遅くまで教材の研究をしていらっしゃいます」
敬語表現で大切なのは、言葉を飾ることではなく、真心をどう相手に伝えるかである。最初のレストランの店員のセリフも、次のように言えばよい。
「ご注文の品です。どうぞごゆっくり」
NHKの番組で、店員の虚礼に戸惑う留学生のケースが紹介されていた。コンビニに入ると、「今日は。いらっしゃませ」と元気のよい声がかかってくる。そこで、留学生が「はい、今日は」と答えたところ、店員に怪訝な顔をされた。店を出るとき、「ありがとうございました」と声をかけられたので、留学生も「ありがとうございました」と答えた。これにも変な顔をされたという。
店員は客に声をかけるとき、客の方を見ないで声だけ張り上げていたりする。マニュアルに従っているだけで、返事を予想していないことが多い。これでは何のための敬語かわからない。
敬語を現実に使えない人が多い。日本語の敬語の体系が複雑なこともその原因だろう。もっと単純明快にして、たとえば「一つの文章に敬語は一つ」ということでもよい。
http://www3.kcn.ne.jp/~jarry/keig/atop.html
(今日の一首)
ひさかたに雨の音きく障子越し 小鳥の声もなにやらたのし
一昨日、福井へ帰省したとき、「乾(いぬい)公園」によってそこのベンチで一服した。実家の近くの公園で、子ども時代によく遊んだ思い出の場所である。自伝「幼年時代」や「少年時代」の舞台にもなっている。私の二人の娘たちが幼い頃は、福井に帰省する度に、ここに連れてきていた。
一昨年の7月に、ある女性が「少年時代」を読んだ感想を、当時健在だった「橋本裕掲示板」に書き込んでくれた。それは次のような文章である。あわせて、私のお返しの文章も引用しよう。
ーーーーー 懐かしい公園 ーーーーーーー しるく (女性 会社員 46歳 A型 福井県) 2005/07/30 01:37 はじめまして。 ふとみつけた「少年時代」を読んで驚きました。「乾公園」の名があったからです。遠い記憶をたどると、多分、私は2歳から4歳くらいまでを、乾公園の前の2階建てのアパートで両親と共に暮らしていたはずなのです。そしておそらく昭和37年の暮れころに、今住んでいる近隣の町に引っ越したのだと思います。
私の人生の最初の思い出が、乾公園のブランコ、そして、公園で開かれたお祭りのわたがし…。ブランコに座った写真と、アパートの玄関で撮った写真がその記憶を裏付けるだけですが…。そこには、だっこちゃん人形と、隣の部屋のお友達と、そして今は亡き母の若い日の姿があります。
今、公園付近に行ってみても、勿論、そのアパートはありません。どんな名前のアパートだったのかさえ覚えていません。ただ、自分というものの人生の始まりを思うとき、いつも「乾公園」の名がよみがえってくるのです。私の小さな自我の芽生えを乗せてゆれていた公園のブランコは、多分橋本さんの「少年時代」のあのブランコなのでしょう。それはまた、別の人たちの大切な大切な思い出を沢山載せて、今もどこかでゆれ続けているのでしょうね。
ーーーーーー Re:懐かしい公園 ーーーーーーーー 橋本裕 2005/07/30 04:58
しるくさん、投稿ありがとうございます。「少年時代」を読んで下さって、ありがとうございます。
4歳のころまで「乾公園」(いぬいこうえん)の近くに住んで見えたそうでうね。その頃、私は中学生でしたから、ひよっとしたら公園でお会いしていたかも知れませんね。
私はその頃よくブランコに坐って夜空を眺めていましたよ。SF小説に夢中の頃でした。そのブランコにしるくさんも今はないお母さまと遊んでいらしたわけですね。
<私の小さな自我の芽生えを乗せてゆれていた公園のブランコは、多分橋本さんの「少年時代」のあのブランコなのでしょう。それはまた、別の人たちの大切な大切な思い出を沢山載せて、今もどこかでゆれ続けているのでしょうね。>
小さな公園ですが、思い出のいっぱいつまった公園です。今も福井に行くと、必ず訪れます。そして懐かしい追想にふけります。思い出は人生の財産です。多くのひとびとが、この公園に同じ思いをよせているのかと思うと、心が温められます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
しるくさんや私が幼いときに乗ったブランコはもちろんもう跡形もない。いまそこは木製のベンチがひっそりと置いてある。一昨日、私はそこに腰を下ろして、花粉防御マスクの下で水洟をすすり、かゆい目をこすりながら、在りし日のなつかしい追憶の夢に浸った。一緒にブランコに乗った幼馴染の少女は、今どうしているのだろう。
(今日の一首)
ふるさとの小さなブランコ夢の中 お下げ少女の面影ゆれる
昨日は福井に帰省した。ヨーロッパ軒でカツ丼を食べ、足羽川の桜並木をあるいた。いくら暖冬だといえ、まだ花の季節ではない。そこで満開の桜を空想してみた。ところがこの空想も長くは続かなかった。くしゃみや鼻水が出る。それから目がかゆい。花粉症である。
10年前にプールに通って退治したはずだが、去年から再発した。今年は去年に輪をかけてひどい。散歩は早めに切り上げて実家のほうに歩いた。途中で薬局を見つけたので、花粉対策マスクを購入して装着した。
実家で母と2時間ほど話した。その間も鼻水が出た。弟が仕事の関係で、帰宅できないかもしれないという。弟は建築業界で働いているが、技能の資格をとってから出張が多くなり、ほとんど家に帰らなくなったという。
母は元気になっていた。そしていろいろと家のことや孫の将来を考え、悩み始めた。孫が大学に合格しても、授業料が心配だというので、「そんなことは、弟夫婦にまかせればいい。奨学金制度だってあるんだから」と、少し強い口調で言った。
「何も考えずに、自分のためだけに生きたほうがいいよ。好きなことをしたらどう」 「それができないのよ。孫たちが心配で仕方がないの」 「心配しても、仕方がないだろう。なるようにしかならないのだから」 「それは、離れていればそうだろうけど、一緒に住んでいると、そうも言っていられないの」
辛抱し切れなくて、つい余計なことを言ってしまった。これも花粉症でいらいらしていたからかも知れない。そこで少し反省して、母の愚痴を聞くだけきいて、「また、近いうちにくるから」と腰を上げ、夕方の列車で帰ってきた。夕暮れのふるさとの街を車窓から眺めながら、もう少し母にやさしくすべきだったと思った。
(今日の一首)
鼻水とくしゃみがつらい花粉症 母に会えども心はよそに
2007年03月03日(土) |
青春18切符で福井へ |
先日、福井の母から、「3月になったら、一度帰ってきてね」と電話があった。そこでさっそく帰省することにした。この春は特別記念ということで、青春18切符が8000円である。いつもより3500円も安い。これで5日間、JRの普通と快速が乗り放題だ。さっそくこれを使うことにした。
母は弟の一家と暮らしている。弟には4人も息子がいる。夫婦共稼ぎなので、子育ては母が引き受けてきた。上の子は去年高校を卒業して、浪人している。今年も大学を受験し、今日明日にでも発表がありそうだ。合格のお祝いが言えればいいのだが、家計の都合で国公立大学しか受験できないから、なかなかたいへんである。
二番目の子が高校2年生。三番目が中学3年生で、もうすぐ高校の入学試験である。いくら共稼ぎでも、4人の育ち盛りの息子がいてはなかなか容易ではない。いやでも生活を切り詰めなければならない。母が入院するにあたり、私も多少お金を用立てたが、住宅ローンの返済をかかえて四苦八苦しているのはこちらも同じだ。
福井に帰ったら足羽川の堤防を歩いてみたい。今月号のHPの表紙の写真が足羽川である。桜並木が見える。暖冬だといってもまだ桜が咲いているとは思えないが、満開の桜を空想しながら歩いてみよう。それから、私の好物の「ヨーロッパ軒」のカツ丼も食べるつもりだ。
たぶん、福井に一泊することになるだろう。来月には父の17回忌も予定しているので、弟もまじえて、いろいろと打ち合わせもしなければならない。父が死んでもう16年とは、信じられない早さである。私も白髪がふえたわけだ。
(今日の一首) 足羽川桜並木は芽ぐみでも 歩けば浮かぶ爛漫の花
私はもうすぐ57歳になる。あと数年で還暦を迎える。60歳になったら、思い切り子供に還ろうと思っている。世間のしがらみから解放されて、自由に子供のように遊ぶのである。これが私の夢だった。
子供時代がなつかしいのは、子供の頃、だれしも「詩人」だったからではないか。つまり、世の中を利害や打算、欲望からだけではなく、もっと違った角度から眺めることができた。あらゆるものに興味を抱き、大人から見るとなんとも馬鹿げたことにも夢中になることができた。
私は小学校の頃、「雲の上に乗りたい」と思っていた。雲は水蒸気の集まりだということは知っていた。だから、その瞬間、私は地上へ落下し、命を落とすだろう。それでも、そんな体験ができればいいなと思っていた。中学生の頃は、SF小説のせいで、これが月面に立ちたいという願望になった。
月面が真空状態に近いことは知っていた。月面立った瞬間、私の目玉は飛び出し、体内の血液は沸騰し、体が風船のようにふくらんで破裂するに違いない。それでも、一瞬だけ月面の風景を見たいと思った。つまり自分の命と引き換えにしても、未知の世界を体験したいと思っていたわけだ。この不思議な感情を今でもはっきり覚えている。
私たちは成長するについて、この無邪気な子供心を失う。世間的な打算や欲望に支配され、冒険心を失って、生活は保守的で単調になり、私たちの人生は色あせる。そして子供時代の贅沢な体験は、かすかな郷愁として私たちの精神に痕跡を残すだけになる。私たちは月面に立つという空想に取り付かれたり、すがすがしい風を肌に受けて興奮することもなくなる。
もちろん例外はある。大人になっても童心を失わない良寛さんや、星野道夫さんのような人がそうだ。星野さんの文章を読んでいると、私はまだ若かったころのことを思い出す。雲に乗りたいと夢想し、科学空想小説に熱中し、気球による世界一周旅行を夢見ていたころだ。
<あなたの子供は、あなたの子供ではない。彼等は、人生そのものの息子であり、娘である。彼等はあなたを通してくるが、あなたからくるのではない。彼等はあなたとともにいるが、あなたに屈しない。あなたは彼等に愛情を与えてもいいが、あなたの考えを与えてはいけない。何故なら、彼等の心は、あなたが訪ねてみることもできない、夢の中で訪ねてみることもできない、あしたの家にすんでいるからだ>
これはカリール・ギブランという人の言葉である。星野さんの「長い旅の途上」の「はじめての冬」というエッセーに引用されている。星野さんは一歳になったばかりの息子の瞳をみて、この言葉を思い出したという。「あなたの子供は、あなたの子供ではない」という事実を、私たちはともすれば忘れがちになる。
子供は過去からの贈り物であると同時に、未来からの贈り物である。そして「今」という時間に永遠の輝きを持ち込むことができる魔法の存在である。星野さんはこう書いている。
<大人になって、私たちは子どもの時代をとても懐かしく思い出す。それはあの頃夢中になったさまざまな遊び、今は、もう消えてしまった原っぱ、幼馴染……なのだろうか。きっとそれもあるかも知れない。が、おそらく一番懐かしいのは、あの頃無意識にもっていた時間の感覚ではないだろうか。過去も未来もない一瞬一瞬を生きていた、もう取り戻すことのできない時間への郷愁である>
<まだ幼い子どもを見ている時、そしてあらゆる生きものたちを見ている時、どうしょうもなく魅きつけられるのは、今この瞬間を生きているというその不思議さだ>
私たちは、自分のなかに住んでいる「子供」を通して、この悠久な時間のなかに入っていくことができる。「子供」は人生のワンダーランドへのパスポートであり、入り口でもあるわけだ。そしてこの「子ども心」で世界を眺めると、そこには胸をわくわくさせるような不思議が、私たちの身の回りにまだまだ数限りなく残されているのに気づく。
(今日の一首)
すこしずつ子どもに還るたのしみを 日記に書いて今日もしあわせ
星野道夫さんは、33歳のときに、東京都の中学校で講演をした。その講演に美しいアラスカの写真をつけた「未来への地図」という本がのちに出版された。その中で、彼は「なぜ、極寒のアラスカの地に惹かれ、そこにすむことになったのか」について語っている。
星野さんは子供の頃から自然や動物が好きだった。大学一年生のときアラスカの写真集を手に入れ、それを飽かず眺めていたという。その中に北極海の小さな島にあるエスキモー村の空撮写真があった。星野さんの心は、その写真に吸い寄せられた。
<なぜそんなものに魅せられたかというと、何もない地の果てのようなところにも人間が生活していることが不思議だったのです。僕も皆さんと同じように都会育ちですから、そういう場所に人が生きているということが信じられなかった。そう思ううちに、この村に行ってみたいと思うようになった>
星野さんはそのシュマレフという村の名前や住所を調べ、村長さんあてに手紙を書いた。名前はわからないので、「メイヤーさんへ」としたという。半年後に、「世話をしてあげるから今度来なさい」という返事が届いた。星野さんは翌年の夏にアラスカに行った。
<エスキモーの家族とひと夏をともに生活したのですが、とても貴重な経験でした。同じ家に住み、同じものを食べ、猟に行く。そのすべてが自分の学生生活とまったく違っていて、珍しかったし面白かった。セイウチやアザラシ、クジラなど食べたことのないものを食べたりして、とにかく楽しくて楽しくてしかたがなかった。あっという間に三ケ月が過ぎました>
帰国して学生生活に戻っても、アラスカのことが頭からはなれず、ぼおっとして身が入らず、落第しそうになったという。やがて、3、4年生にもなるとまわりの学生は就職活動を始める。そのころ、星野さんの親友が山で遭難して死んだ。これが彼にとって、また一つの転機になった。
<自分の一生はこれからずっと続くと漠然と思っていた意識が崩れ、ある日突然不慮の事故で死んでしまうということもあると気づいたわけです。そこで自暴自棄になるのではなく、だからこそ自分の人生を大切にしなくてはいけない、できるだけ自分の気持ちに正直になろうと思った。そしてそのときの僕にとって思い切り好きなことをやるということは、もう一度アラスカに戻ることだったんです>
星野さんは慶応大学の経済学部を卒業したあと、2年間写真家の助手を勤める。それから、アラスカ大学の野生動物学部に入りなおした。そして以後19年間、アラスカの野生動物や植物の写真を取り続けた。撮影をはじめると、きびしい自然のなかで、一人きりの生活が続くという。
<僕のキャンプから一番近くに人が住んでいる場所は、200キロメートルほど離れたエスキモーの村です。ですからキヤンプにいるときは1,2ケ月人に会うことはありません。かなり寂しいんですね。でも同時に、自分一人で一ケ月間何もかもしなければならないという楽しみと解放感もあって、この世界がすべて自分のものになったような気がして楽しく感じることもあります>
<それで、キャンプをしながらカリブーの春の移動をじっと待つわけですが、カリブーというのは陸上の哺乳動物の中で一番長い旅をする動物なんですね。僕は今、写真のテーマとしてカリブーをずっと追いかけているのですが、北極圏はすごく広いので、実際に自分がカリブーと出合えるかどうかというのはそのときが来るまで分からない。その年の天候状況によってカリブーの移動のしかたはさまざまな変わりますから、自分がどこにベースキャンプを張るかがとても重要になってきます>
テントを張っていて、クマに襲われたこともあるという。物音に目を覚ましてテントを開けたら、クマの顔が目の前にあった。星野さんも驚いたが、クマも驚いた。そのときはクマが一目散で逃げ出したという。「クマも人間なんて襲いたくないんですね」と星野さんは語っている。野生のクマは特別な理由がない限り人を襲わないが、クマが危険な動物であることはまちがいない。実際、星野さんはテントをクマに襲われて死んでいる。
カリブーの季節移動を撮影したくて1ケ月キャンプを張っていても、カリブーに出合えるとは限らない。星野さんは一度もカリブーを見れずに帰ったことが何度もあるという。これは一種の賭けのようなものだ。それだけに、長い間待ち続けて出合えたときの喜びは大きい。
<長い列を作りながら北に向かって行くカリブーの移動を見ていると、動物の本能というのはなんて不思議なのだろうと思います。毎年このような長い旅を繰り返して、春は北のツンドラ地帯まで、秋は南の森林地帯まで移動します。その距離はだいたい1000キロメートルほどになります>
なぜ、カリブーがこんな大移動をするのか。その理由のひとつは、安全な場所で出産をすることだという。あらゆる動物にとって、出産と子育てほど手がかかることはない。とくにその安全性には気を配る。南極の皇帝ペンギンの場合もそうだが、その厄介な仕事のために、ときには信じられないほどの忍耐をしいられる。しかし、その勇気ある行動は感動的だ。
太陽があって、そのエネルギーで植物が生息し、それを食べる草食動物がいて、さらにそれを食べる肉食動物がいる。アラスカは自然が厳しいので、それほど多くの動物が生息できるわけではない。こうした単純な食物連鎖の中で、動物が一種類でも激減すると全体に深刻な影響が出る。単純であるだけに、力強く見えていても、その生態系はとても脆弱なのだという。星野さんの写真には、そうした貴重な自然に対する愛惜の思いもこめられている。
それにしても、1ヶ月以上、まったく人と会わず、厳しい自然の中でテント生活をするというのは並大抵のことではない。はたから見ていると、とてもつらいことのように見える。しかし、それも星野さんにとっては楽しくて仕方がないことだという。彼はこの講演を次のような言葉で締めくくっている。
<皆さんもそうだと思うのですが、自分が本当に好きなことをやっていれば、他人がそれを見て辛そうだと思っても、本人にとってはそれほどでもないですよね。好きなことをやるというのは、そういうことなのだと思います。皆さんもこれからの人生において、自分が本当にやりたいことを、それが勉強であれ、遊びであれ、仕事であれ、そういうものを見つけられればいいなと願っています。(略)僕らの人生というのはやはり限られた時間しかない。本当に好きなことを思いきりするというのは、すごく素晴らしいことだと思います>
星野さんのこの言葉は、若い人だけではなく、定年を前にした私たちの世代の人々の心にも響くのではないだろうか。新しい人生を踏み出そうとしている人々の背中を、「さあ、勇気を出して」と、力強く押してくれる励ましに満ちている。
(今日の一首)
好きな道みなそれぞれに歩むとき 辛きなかにもこの世はたのし
|