橋本裕の日記
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2006年11月30日(木) |
ニュースにならない死者たち |
今わが家の居間には、ユリと菊の花が活けてある。これは妻と娘がリリオの命日の27日に買ってきて活けたものだ。ユリの香りがほんのりと匂う。なぜユリの花かというと、リリオという愛犬の名前がユリを連想させるからだという。じっさいリリオのことを娘たちはリリーと読んでいた。もともと名前がユリの花からきているわけだ。
花の活けられた花瓶のかたわらには、生前リリオが使っていた二枚の皿が空のまま置かれている。一枚にはドッグフードを入れ、もう一枚には水が入っていた。一緒に飼っていたウズラのハルちゃんも、ここで一緒に食事をしていた。リリオの餌のドックフードが好きだったようだ。ハルちゃんが餌を食べても、リリオは怒ったりしない。仲のいい犬と鳥のこんびだった。
11月27日にリリオが死んで、ほぼ一ヶ月後に今度はハルちゃんが死んだ。クリスマスイヴの12月25日がハルちゃんの命日である。2匹ともいなくなって、わがやは急にさびしくなった。しかし生き物には寿命がある。リリオもハルちゃんもずいぶん長生きし、天寿を全うした部類である。家族の愛情につつまれて、恵まれた一生だった。そう、考えて自らを慰めるしかない。
愛犬の命日くればユリの花 ありしをしのび居間にかをれり
ところで、世の中には天寿を全うできない人たちが大勢いる。イラクでは毎日100人もの市民が殺されている。そして世界では現在、数千万人が飢餓に瀕しているという。日本でも昨年度は1354人の人が殺されている。そして3万人を越える自殺者の数だ。いきなり身内や友人を奪われた人の嘆きはいかばかりだろう。
最近いじめによる子どもの自殺がメディアに取り上げているが、おなじ日本で毎日100人近くもある自殺者は、ニュースにならない。ありふれたことなので、報道する価値がないのだろう。しかし、報道されないからといって、無視されていいわけではない。
日本人は議論が苦手だという。それはそうした教育を受けていないことも多いのだろう。つまり、ルールを知らないので、平気でルール破りをする。これからは学校でもディベートのルールをしっかり教える必要があるように思う。もし私のクラスでディベートするとしたら、まず、簡単な禁句集をつくるだろう。そしてなぜそれが「禁句」であるかを説明するわけだ。その禁句の代表的なものを2つあげておこう。
(1)「あなたは馬鹿だ」(誹謗と中傷)
これは相手の人格攻撃になるので駄目。これが禁句であることは説明を要しないと思うが、なかなか守られないのが現状である。これを口にした人は、即座に退場処分にするのがよい。そうしないとディベートの場が荒らされるからである。
(2)「あなたは間違っている」(独善)
残念ながらこれが「禁句」であることについて、ほとんどの日本人は無自覚なのではないだろうか。英語では普通に、「I don't agree with you.」を使う。これは勿論禁句ではない。しかし、これと同じような感覚で、「あなたは間違っている」(you are wrong.)を使う人がいる。しかも、その間違いに気付かない。
私が「〜は○だ」と主張したとする。これについて異論を唱えるとにのAさんのマナーは、ルールに従えば次のようになる。
「私はそうは考えません。〜は×だと考えます。その理由は△△だからです。この点で、私はあなたの主張に同意できません」
これならOKである。今後二人の間で建設的で気持のよいディベートが展開されるだろう。デベートの場合、競技者は審判者になってはいけない。「あなたは間違っている」と神の立場で審判を下す権利は競技者にはない。これはディベートのイロハであるが、この肝心なことが守れないので、ディベートが論争でなく、誹謗中傷の場になることが多い。
ところで、「安倍首相は馬鹿だ」という表現はどうだろう。これは禁句というより、ディベートにはありえない表現だ。「馬鹿」というのは主観的な判断であり、こうした言辞がディベートに現れることはないはずだからだ。もし使われたとしたら、これはあきらかにディベート本来の領域からの逸脱である。つまり、「安倍首相は馬鹿かそうでないか」というような問題は、そもそもディベートのテーマにはなりえないわけだ。あくまで客観的に○×の判断がつくものでなければならない。たとえば、明治時代にはこのような題でしきりにディベートが行われたという。
「普通選挙ト制限選挙ノ可否」 「女子ニ選挙権ノミヲ與フルノ可否」 「死刑ヲ廃スルノ可否」 「自由貿易ノ保護貿易ノ可否」
これに対して、「〜について、安倍首相はまちがっている」という表現は問題はない。もちろんその論拠を示す必要はある。これも「独善」ではないかという人がいるかも知れないが、そもそもディベートというのは「○○について、正しいか否かを争う競技」であり、こういう決めつけがなければ論争にならない。
セブの英語学校で、先生と「お金は人を幸福にするかどうか」をテーマにディベートをしたことがあった。私は「お金があれば人間は幸福になれる」という立場で論じた。自分はそう思っていないのだが、あえてこの立場に立って、相手を論破するためにない知恵を振り絞った。しかし、残念ながら私の負け(降参)だった。つぎに立場を変えて同じテーマで論争したが、今度も私が立ち往生した。英語ができなかったことも敗因の一だった。
私はディベートで大切なのは、あくまで論争の過程を通して「思考力」や「情報収集力」を磨き、なおかつフェア・プレイの精神を養うことだと思っている。勝ち負けだけに拘っていては、こうした能力は身につかず、論争上手にもなれない。なおこうしたディベートの負の側面については「ウィキペディア(Wikipedia)」に次のように書かれている。
<ディベートの起源が古代ギリシアの修辞学にあるとされる通り、まさにディベートの生みの親は、古代ギリシアのソピステースたちだとも言える。しかしソピステースの議論は、いかに相手を言い負かすか、あるいは聴衆を納得させるかという形式的な技術の開発に主眼点が置かれ、ここより詭弁論法の発生を見、そこからの反省として、「論理的とは何か」という問題が、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどを通じて、大きな課題として考えられ、古典的な「論理学」もここから生まれた。
政治的な場でのディベート、教育目的としてのディベート、あるいはゲームとしてのディベート、いずれを取って見ても、論理的な妥当性を確保するという面と、他方で、議論に勝てば良いという面の二つが拮抗し、誰が「判定」するのかという面も相俟って、とりわけアメリカのディベートは、詭弁論法への熟達や、その場で言い負かせば良いのだというような実利性を重視し、「論理性」と反対のモメントへと向かう傾向がある。このような詭弁的なディベートの興隆は、訴訟社会としての米国というような、社会学的に異常な事態と表裏の関係を成しているとも考えられる>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88
日本でも同様の傾向がうかがえる。私も自分のHPの掲示板で「対話」や「ディベート」を呼びかけてみたが、結局、誹謗・中傷と独善の傾向があらわれ、中止するのやむなきにいたった。参加者に「ディベート」の心得がなかったこともあるが、掲示板を運営・管理する私自身の力量不足を痛感した。
ちょうど1年前の昨日、愛犬リリオが死んだ。昨日、日記を書いてからこのことに気付いた。昨日がリリオの命日である。享年16歳だった。小型犬マルチーズとしては長生きした分だろう。
リリオが生後まもなく家に来たとき、長女は小学校の2年生で、次女はまだ幼稚園児だった。その後16年間も家族の一員だったリリオには色々な思い出が寄り添っている。走馬燈のようにいろいろな情景が思い出される。
散歩が大好きな犬だった。私もリリオと散歩した。今も、リリオと歩いた道をひとりで毎日歩いている。そうすると、ときどき彼のことを思い出す。
数年前に、長女が飼っていたウズラを家にひきとった。ウズラのハルコはリリオが好きで、卵を生むときリリオに寄り添って、その柔らかい毛の中に産み落としたりした。リリオは少し迷惑顔だったが、ハルコをいじめることもなく、犬とウズラが仲良く寄り添っているのを眺めていると、心がなごんだものだ。
そんな写真が残っている。うずらのハル子にお菓子をやっていると、リリオが近づいてきて、そのようすをじっとみている。その様子を娘が携帯のカメラで撮したものだ。
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/ruruo.htm
ちょうど、一年前の今日、リリオを妻と二人で近くの斎場に持っていった。リリオが愛用していた毛布と一緒に彼が生前寝床として使っていたダンポールの箱に入れた。そこに彼が生前愛した形見の品やお菓子や花を入れた。斎場の事務所の入り口にその箱をおいたときの、何とも言えない淋しい気持をいまでも覚えている。別れというのは辛いものだ。
2006年11月27日(月) |
イラクの民主化は可能か |
イラクの国情が泥沼化してきた。スンニ派とシーアー派の抗争が激しくなり、もはや内戦状態である。国連の発表によると、10月中の犠牲者は約3800人で、一日平均120人だという。米兵の死者も3000人をこえた。
アメリカ中間選挙で上下両院の過半数を制した民主党は、イラクからの段階的撤退を主張し、ブッシュ政権も撤退を模索始めた。しかし、こうした内戦状態を放置して撤退するのは、無責任だという国際世論がおこっている。現在のイラクはアメリカ軍のプレゼンスでどうにかぎりぎりの秩序を維持しているとみられるからだ。
いうまでもなく、イラクはシーアー派が多数派で、スンニ派やクルドは小数派である。フセイン時代は小数派のスンニ派が強権を用いてイラクを支配していた。そしてフセインは多数派のシーアー派や抵抗するクルド人を迫害した。
アメリカはこのフセインを後押した。それはフセインがイランのイスラム原理主義の盾になっていたからである。アメリカの戦略はイラクとイランを戦わせることで、中東におけるイスラム勢力、とくにイランの力を殺ぐつもりだった。
ところが、とんでもない誤算が起こった。アメリカの傀儡政権であったフセインが突然、クエートを襲ったのである。その理由はイランとの戦争によって国庫が貧弱になり、身動きがとれなくなったためだ。結局この戦争で潤ったのは、アメリカの兵器産業で、イラクは武器購入のために国費を使い果たしたのである。
そこでおいつめられたフセインはクエートの石油に狙いを付け、侵攻した。フセインの誤算はこれをアメリカが容認すると考えたことである。こうした無茶をしても、イラン問題が存在する限り、アメリカがまさか武力介入してくるとは思わなかった。ところが案に反して、アメリカは武力介入を断行した。
もっともアメリカはフセイン政権を打倒はしなかった。もしフセインを打倒したら、多数派のシーアー派が政権を握ることになる。イランに加えてイラクにまでシアー派のイスラム教政権が誕生することはなんとしてでも避けなければならない。だから、フセイン政権を徹底的には叩かなかった。まだ利用価値があると見たわけだ。
ところが、ブッシュ・ジュニア政権になって、イラクに戦争を仕掛けた。その理由はいろいろある。一つにはイラクのフセイン大統領がEUとの連帯を模索し始めたことがある。石油の決算をドルからユーロに換えたのがその象徴だ。このままだとイラクはフランスやドイツの主導するEUの経済圏に入ってしまう。これを阻止したいが、有効な手段がなかった。
もう一つは、イランが宗教色を薄め、アメリカを敵視する傾向から脱却しはじめたことである。イランがもはやそれほどの脅威ではなくなってきた。イラクに多数派のシーアー派主導の政権ができても、どうにかなりそうだという楽観論が出てきた。
これにもう一つ、アメリカ国内の軍事産業や石油産業の要請があった。実際にブッシュ政権は何千億ドルという厖大な戦費を費やしたが、その多くがロッキードマーチン、ボーイング、そしてハリバートン、ベクテル、カーライルグループといったブッシュ政権と強いつながりを持つ兵器企業へ流れている。戦争でアメリカは大きな借金を抱えたが、企業はおおいに潤った。
さらに、ブッシュ大統領には個人的な動機があった。それは父ブッシュに逆らったフセインを許せないのいう心情である。こうした本音をブッシュをもらしたことがあるが、しかし、怨恨から戦争を始めるとはさすが言えない。
そこで「大量殺戮兵器を隠匿している」という証拠をでっちあげ、この嘘がばれると、ついには「独裁制を倒し、イラクを民主化する」というネオコンの主張を全面に立てて、「正義」の戦争を続行した。
こうしたいくつかの要因によって、アメリカはイラク戦争を始めたが、この戦争ははじめから難しい問題を内包していた。つまり、フセインを打倒した後、多数派のシーアー派とスンニ派、クルド人のあいだで、どうやってまとまりのある統一国家が可能かという問題である。これは単にイラクを民主化すればすむというものではない、
アメリカのネオコンがいうように、イラクで「公正な選挙」をおこなえば、多数派のシーアー派が権力を握ることは目に見えている。そうなると、小数派のスンニ派はどうやって生きていけばよいのか。民主化と言えば聞こえはよいが、その内実は多数派のシーアー派の独裁でしかない。
勿論、シーアー派が少数派のスンニ派に妥協し、これを優遇するような度量があれば、この事態は避けられる。民主主義の根本は「少数意見の尊重」だが、問題はこれまで迫害されてきた多数派のシーアー派にこれができるかということである。
しかし、これができなければ、イラクはいつまでも内乱状態を克服できないだろう。何とかこのハードルを乗り越え、「多数決の論理」ではなく、「小数意見の尊重」というより進んだ民主化に向けて努力してほしいものだ。国際世論もまた、こうした方向にイラクが進むように助言や援助をすべきだろう。
アメリカは世界を民主化すると主張していたが、アメリカのいう民主主義がどのようなものか、この10年間のアメリカの様子を眺めれば実態がよくわかる。96年、上下院で過半数を獲得した共和党は通信法を改正した。そしてしばらくすると、全米の6割以上のラジオ局がクリア・チャンネルという会社に買い占められた。
この会社はテキサスに本社があって、ブッシュに莫大な献金をしているそうだ。やがて暴力的で口汚い言葉がラジオから流れ出し、アメリカ社会にあふれるようになった。
「フェミニズムのせいでブス女がのさばっていいる」 「人口の12パーセントしかいない黒人のことなんか無視しろ」 「マスコミは左翼で人権派に迎合している」 「戦争に反対する売国奴はカナダに追放しろ」 「移民はマシンガンで撃ち殺せ」
これまでもこうした差別的で暴力的な考えを持っていた人はかなりいた。しかしそうした人々も、その本音をかくしていた。なぜなら、それはほんらい恥じるべきもので、こうした罵詈雑言は社会的に容認されるものではないと思っていたからだ。
ところがこういう言葉がラジオから流れ、政治家や大学教授までが公然と口にするようになると、もはやだれも遠慮しなくなった。それどころかこういう「本音」を口にする方が、クールでかっこいいように思われ出したのだ。そしてこうした差別的な発言をする勇ましいキャスターが人気を独占し始めた。
ほぼ時をおなじくして、テレビでも同様の動きがはじまった。「リベラルに偏向したテレビの是正」をモットーとするFOXニューズ・チャンネルが立ち上がったのだ。社長はレーガン大統領のメディア参謀だったロジャー・アイルズ、会長は世界のメディア王・マードックである。
FOXは9.11以降、その勇ましい好戦的主張で視聴率をのばし、CNNをも蹴散らして、たちまちニュース局の王座についた。女性蔑視、人種差別、反福祉、反エコロジーのアジテーションがアメリカ社会に氾濫し始め、そして人々はアフガン戦争、イラク戦争を賛美する方向へと誘導されていった。
しかし、その結果は惨憺たるものだった。イラクではこの3年間で9.11の犠牲者を上回る3000人もの米軍兵士が戦死した。そして厖大な戦費が費やされ、国庫の赤字が膨らんだ。しかも、気がついてみると愛国法までできて、市民は監視カメラや盗聴によってプライバシーを守ることもできなくなっている。
何よりも個人の自由を尊ぶ伝統を持っていたアメリカ社会が、いまや大きく変質してしまった。最近、アメリカ市民はようやくこの愚かさに気付いた。そして80パーセントを越えたブッシュへの支持は30パーセントに落ち込み、11/7の中間選挙では共和党は大敗した。アメリカは今ようやく正気をとりもどしかけている。
これにひきかえ、日本はどうか。靖国参拝にこだわった小泉首相のあとを、教育基本法を改正し、憲法をかえようという安倍首相が引き継ぎ、世論の高い支持を集めている。
そしていまや日本でも、さまざまな差別的な言語がマスメディアを通して平然と流されている。あたかも皆で渡れば怖くないといわんばかりだ。社会が荒廃し、ますます暴力的で息苦しいものになっていきそうだ。この先日本が正気を取りもどすことができるのか、いささか心配だ。
(参考文献)「週刊現代12/2号」
「歴代首相の言語力を診断する」などの著書のあるユタ大学教授の東照二さんによると、小泉首相の国会での答弁は、これまで歴代首相と大きく違っているそうだ。それは明快で直線的な「します」という表現が多用されたことだという。これまでこうした言葉を使った首相はほとんどいなかった。ところが小泉首相は所信表明演説でこれを頻発した。
彼の場合「します」の使用頻度は20パーセントをこえていた。ちなみにその前任者の森首相は2パーセントにも満たない。他の首相もほとんどこのレベルである。東照二さんは小泉首相のこうした言語の明快さが国民に斬新に感じられ、人気が急上昇する背景になったと、23日に放送されたNHK「論点」で分析している。
<「します」は、何を実行するかを単刀直入、明快にそして力強く示す言葉です。とかく政治家の言葉はまわりくどい、あいまいであると言われるわけですが、このしますはストレートにわかりやすく自分の意志を表明する言葉だといえるでしょう>
それでは戦時中の東条首相をはじめ歴代の首相が愛用してきた文末表現はなにかというと、それは「であります」だという。ところが小泉首相の場合、これをほとんど使わない。
就任直後の国会答弁で、小泉首相と安倍首相がどのような文末表現を使っているかを比較してみると、安倍首相のトップが「あります」で、21パーセント、「ございます」が15パーセントもあったのに対し、小泉首相はの語尾表現のトップは「だと思います」でダントツの28パーセントだという。
語尾を「だと思います」でしめくくった首相も前代未聞である。さらに小泉首相は「ではないでしょうか」という疑問形を15パーセントも使っている。これはきわめて稀なことだ。東さんは番組でこう述べていた。
<小泉政権はどうして5年半も続いたのでしょう。その理由の一つは、これまでのあまりにも情報中心の、それも言語明瞭意味不明といった、わかりにくい情報中心の話し方から、情報だけでなく情緒もともに交えたダイナミックで魅力的な話し方にあったと言えるでしょう>
<官僚や側近が用意した情報中心の言葉だけではなく、話してと聞き手の心理的距離感を縮めるような話し方、つまり話しての顔を見えるような情緒中心の言葉も織り交ぜて、スイッチしながら、交互につかう。このことによって国民を強く惹きつけリーダーシップを発揮する、このことがこれからの政治家に必要なのではないでしょうか>
小泉首相の衣鉢を継ぎ、所信表明演説では師匠をこえる異常な頻度で「します」を多用し、さっそうと威勢の良いところを見せた安倍首相だが、その後の国会答弁では「あります」「ございます」を多用している。政治家が自分の言葉で語るのはなかなか難しいことのようだ。
2006年11月24日(金) |
民主政治はいかに可能か |
ギリシャ人は真理はひとつに決まると考えていたようです。そしてこの考え方は現代のわれわれも受けついでいます。それではその真理は誰が、どのようにして決めるのでしょうか。ギリシャ人が発見したのは「論証」ということでした。つまり私たちが正しい思考の規則(論理)にしたがえば、私たちは正しい結論(真理)にたどりつくと考えたのです。
たとえば、エジプト人は「辺の比が3:4:5の三角形」は直角三角形になることを経験的に知識として知っていました。しかし、なぜそうなるのか、「証明」されるとは思っていませんでした。ところがピタゴラスは「斜辺を一辺とする正方形の面積が、他の2辺をそれぞれ一辺とする2つの正方形の面積の和に等しいとき、その三角形は直角三角形になる」という「三平方の定理」を発見し、これを「論理」によって証明しました。そして「辺の比が3:4:5の三角形」はたしかに三平方の定理を満たしているので直角三角形になります。
こうして「真理」が論理的に到達可能であることがわかると、この論理的思考力を鍛えることが重要になります。そしてこの「ものごとを論理的に考える」という事は、とうぜん共同体の意思決定にかかわる為政者にも要求されます。なぜなら、為政者が真理のなんであるかを知らず、あやまった判断をすれば、共同体は危機に瀕することになるからです。
昔アテネに、テミストクレスという男がいました。前483年、ラウリオン銀山で大鉱脈が発見されたとき、彼は余剰金を市民に配ることに反対し、これで100隻の軍船を建造することを提案しました。しぶる市民たちを説得して、彼はついにこれを実現させましたが、実際にその10年後にペルシャの大艦隊が押し寄せてきて、アテネは海軍力でこれをうち破ることができました。
アテネ市民がテミストクレスの言葉に耳を傾けず、慣例に従って富の分配を受けていたら、ペルシャ戦争に勝利することはなかったでしょう。ポリスの自由と平等は失われ、パルテノン神殿やプラトンの哲学をはじめ、数々の芸術作品、つまり今日我々が目にするギリシャ古典文化が花開くことはなく、今日の世界の様子は全く別のものになっていたに違いありません。
このように、アテネの民主政治は輝かしい歴史を持っているのですが、その後、スパルタと覇権をかけた戦争をするようになっておかしくなりました。こうしたアテネに生まれたプラトンは、民主政治に批判的になりました。真理は小数者の徳であり、大衆の多くは無知であると考え、政治に参加させるべきではないと考えました。無知で教養のない大衆の多数意見に従うことは、真理をないがしろにすることであり、国の将来をあやまることだと考えたわけです。
彼がこうした結論に達したのは、彼の師ソクラテスが民衆裁判で死刑を宣告された理不尽を見ていることも大きいといわれています。彼は多数決による民主主義は衆愚政治を招き、その先にあるのは独裁政治だと主張しました。こうしたプラトンの貴族的な哲人政治にたいする批判は当時からありました。
その代表は、プラトンの弟子のアリストテレスです。彼は王制や貴族制、寡頭制を排して、あるべき政治体制は市民すべてが政治に参加できる民主制でなければならないと主張しています。アリストテレスは市民であることの資格を、血筋や富の所有ではなく、「審議と裁判に参与しうる能力の所有」においています。そしてすべての人間が基本的に理性を持っているかぎり、だれしも政治を行う能力も権利も持っていると考えました。
彼は真理は「論理」だけではなく「経験」も大切だと考えました。論理は一つだが、人々の経験は多彩です。だから、たとえ哲学者でも、真理をひとつに定めることは容易ではありません。さまざまな視点から、さまざまな考え方が提起されます。こうした真理の持つ他面性を否定することはできないからです。彼は政治的決定をする場合は、とくにこの点に留意すべきだと考え、政治を少数者の独占にまかせることには反対しました。そして師プラトンとは違い、市民が平等な立場で政治に参加するアテネ民主主義を擁護しています。
それではどうしたら、プラトンのいう衆愚政治から免れることができるのでしょうか。それは、結局のところ、各人が私欲をさって、公正な判断をすることです。アリストテレスはそのために、市民全体の教育レベルを高めることが必要だと考えました。「審議と裁判に参与しうる能力」を持ち、さまざまな経験をもつ市民によって慎重に審議すれば、その衆知によって真理が達成されると考えたわけです。
この考えは、のちにロックやミルに受けつがれました。ミルは民主主義が衆愚政治に陥らない歯止めは「少数意見の尊重」だと言っています。少数意見をいかに尊重できるか、これが民主政治の健康度をはかるバロメーターだと言ってもよいでしょう。
(参考文献) 「市民政府論」 (ジョン・ロック、岩波文庫) 「ヨーロッパ思想入門」(岩田康夫著、岩波ジュニア新書441) 「社会思想小史」 (水田洋 ミネルヴァ書房) 「デモクラシーの論じ方−論争の政治」 (杉田敦、ちくま新書)
2006年11月23日(木) |
異常が正常となる世界 |
大岡昇平の「野火」が読みたくなって、久しぶりに新潮文庫を取りだして読みました。この小説は何度読んでも大きな感銘を受けます。「野火」はこのようにはじまっています。
<私は頬を打たれた。分隊長は早口に、ほぼ次のようにいった。 「馬鹿やろう。帰れっていわれて、黙って帰ってくる奴があるか。帰るところがありませんって、がんばるんだよ。そうすりゃ病院だってなんとかしてくれるんだ。中隊にゃお前みてえな肺病病みを、飼っとく余裕はねえ。見ろ、兵隊はあらかた、食料収集に出勤している。味方は苦戦だ。役に立たねえ兵隊を、飼っとく余裕はねえ。病院へ帰れ。入れてくんなかったら、幾日でも坐りこむんだよ。まさかほっときもしねえさろう。そうでも入れてくんなかったら、死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領しているんじゃねえぞ。それが今じゃお前のたった一つのご奉公だぞ> 主人公の<私>はこうして異国の原野に投げ出されます。あちこちに<野火>が戦いののろしのように上がり、主人公は敵兵や地元民のゲリラ、そして友軍日本軍兵士にまで命をねらわれます。
そこで交わされる兵隊達の会話を少しだけ抜き出してみます。病気になり部隊を追い出されたものの、病院でも受け入れてもらえず、行き場を失った兵隊たちの会話です。
「また、帰ってきたのか」 「そうさ、やっぱり中隊じゃ入れてくれなかった」 「でも、ここへ来たってしょうがあるめえに」 「行くところがないからさ」
「おい、糧秣いくら持っている」 「ははは、6本ありゃ豪勢だ。お前の中隊は気前がいい。俺んところは2本しか寄越さねえ。それが今じゃ一本よ」
「あーあ、俺達はどうなるのかなあ」 「いっそ米さんが来てくれた方がいいかも知れねえな。俺達はどうせ中隊からおっぽり出されたんだから、無理に戦争することあないわけだ。一括げに俘虜にしてくれるといいな」 「殺されるだろう」 「殺すもんか。あっちじゃ俘虜になるは名誉だっていうぜ。よくもそこまで奮闘したってね。コーン・ビーフが腹一杯食えらあ」 「よせ。貴様それでも日本人か」
「ニューギニアで人間を食ったって、ほんとですか」 「人間か。・・・まさか、ってことにしておこう」
「要するに下士官なんて、心で何を思っているのか、わかんねえものさ。俺は部下だから、離れるわけにはいかねえが、お前は勝手な体だ。補充兵一人じゃ、さぞ心細かろうが、とにかく一人で行ったがいいじゃないか。それが一番だ」
「燃える、燃える。早い、実に早く沈むなあ。地球が廻っているんだよ。だから太陽が沈むんだ」
「おい、いこうか」 「暗いな、まだ夜は明けていなかな」 「もう開けたよ。鳥が鳴いている」 「鳥じゃないよ。あれは蟻だよ。蟻が唸っているんだよ。馬鹿だな。お前は」
「帰りたい。帰らしてくれ。戦争をよしてくれ。俺は仏だ。南無阿弥陀仏。なんまいだぶ。合掌」
「何だ、お前まだいたのかい。可哀そうに。俺が死んだら、ここを食べていいよ」
主人公は逃亡中にフィリピンの若い女を射殺してしまいます。そして、友軍の兵士にまで銃を向けます。それは自分が人肉にされないためのぎりぎりの選択でした。こうして彼は殺人をおかしました。そして、「人肉を食べたい」という欲求にうち負かされそうになりました。しかし、彼の行動は「異常」とは言えないと思います。ヴィクトル・フランクルも「夜と霧」にこう書いています。
<異常な状況における正常な反応は異常な行動をとることである>
まさに、戦場においては「異常な行動」が「正常な行動」になってしまいます。ここが戦争の恐ろしいところです。彼はついに捕虜になり、日本に帰還しますが、この過酷な体験のために精神病を発病し、精神病院に入れられます。「正常な行動」を「異常」として自己嫌悪した主人公の<私>が、「狂人」として精神病院に収容されてしまう。これもまた恐ろしいことです。「野火」は精神病院で医療の一環として書かれたことになっています。
<私が復員後取りつくろわねばならなぬ生活が、どうしてこう私の欲しないことばかりさせたがるのか、不思議でならない。この田舎にも朝夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼らに欺されたいらしい人たちを私は理解できない。おそらく彼らは私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼らは思い知るであろう。戦争を知らない人間は半分は子供である>(「野火 37 狂人日記」)
大岡昇平がこの小説を書いていた頃、朝鮮戦争が勃発しています。主人公の口を借りて、作者のやむにやまれぬ本音が露呈しているように思いました。
<一般大衆はテレビの前にじっと座り、人生で大切なのはたくさん物を買って、テレビドラマにあるような裕福な中流階級のように暮らし、調和や親米主義といった価値観を持つことだ、というメッセージを頭の中にたたき込まれていればよいのである>
これはチョムスキーの「メディア・コントロール」の中の言葉だそうです。民主主義は主体的に考えることのできる一人一人の市民の手で支えられています。マスメディアに支配され、無力な消費者になった大衆にとって、「民主主義」は荷が勝ちすぎるのです。そこで、民主主義は容易に衆愚主義に転落します。そしてそのなれの果てに出現するのが、「野火」という恐ろしい修羅世界なわけです。
先日衆議院で、教育基本法改正案が与党単独で可決された。タウンミーティングでの政府主導のやらせ質問や、高校での必修漏れなどの問題があきらかになり、その対応に追われる中での強行採決である。安倍首相は「深い議論を尽くした」と胸を張ったが、とてもそうは思えない。
国会はたんなる議決機関ではない。戦時中、国会は軍国主義にそまり、軍部翼賛体制のもとで、たんなる議決機関と化した時代があった。憲政の神様といわれた尾崎行雄はこの惨状をみて、「国会議事堂ではなく、国会議決堂だ」と嘆いた。彼の言うとおり、国会はあくまで審議をする場である。そして国政上の問題を国民の前にあきらかにする義務がある。
ましてや教育の憲法といわれた基本法の60年ぶりの改正である。その必要性が国会審議をとおして充分国民に理解されたとは思えない。この問題について世論の盛り上がりがなかったのは、マスコミの責任もある。与野党の全面対決と与党単独採決の異常事態で、ようやく国民の目が基本法に向いてきた。
審議の場は参議院に移された。ここで充分「審議」をしてもらいたい。衆を頼んでの決着は「民主主義」ではない。多くの人は「多数決」を「民主主義」と勘違いしているが、これはとんでもない誤解である。ジョン・スチュアート・ミル(1806〜1873)は「自由論」で、「少数意見の尊重」こそが民主主義の原点であり、社会に多大な利益をもたらすものだと主張している。
<対立する二つの意見のうち、いずれか一方が他方よりも寛大に待遇されるだけではなく、特に鼓舞され激励されるべきだとすれば、それは少数意見の方である。少数意見こそ、多くは無視されている利益を代表し、またその正当な分け前にあずかることができないという恐れのある人類の福祉の一面を代表している意見なのである>
<意見の発表を沈黙させるということは、それが人類の利益を奪い取るということなのである。それは現代の人々の利益を奪うとともに、後代の人々の利益をも奪う。それはその意見をもっている人の利益を奪うだけではなく、その意見に反対の人々の利益さえ奪う。
もしその意見が正しいものならば、人類は誤謬を捨てて真理をとる機会を奪われる。また、たとえその意見が誤っていても、これによって真理は一層明白に認識され、一層明らかな印象を与えてくれる。反対意見を沈黙させるということは、真理にとって少しも利益にならない>
<人間は間違いをおかすものだ。そして真理と考えられているものも、その多くは不十分な真理でしかない。意見の一致が得られたにせよ、それが対立する意見を十二分に比較した自由な討論の結果でない限り、それは望ましいことではない>
<反対者の意見をありのまま受け止める冷静さをもち、反対者に不利になるようないかなる事実をも誇張せず、また反対者に有利となる事実を隠そうとしない人々に対しては、彼らがどのような意見をもっていても、敬意を払わねばならない>
民主主義が「多数の意見に従うこと」だけだったら、議会はいらない。ヒットラーが連発したように、国民投票をすればよい。そしてこれが実はファシズム(全体主義)の正体である。
ファシズムといえば、ヒトラーや日本の軍部独裁を思い出す人も多いだろう。そのイメージは一部の独裁者が大勢の民衆を権力で押さえつける姿だ。ところがこれはファシズムのすべてではない。ファシズムの本質はむしろ大多数の民衆が少数者の人権を蹂躙する全体主義にある。つまり多数決の論理は、民主主義の論理よりもファシズムの論理として働く。
これに対して、「民衆の一人一人の意見を大切にすること」が民主主義の精神である。まず第一に議会は「少数者の意見を聞く場所」であり、そしてそのうえで、少数意見を吟味し、多数意見のあやうさを克服することが大切だ。こうしたプロセスをとおして、民主主義がまがりなりに実現されるのだということを、私たちは歴史の教訓として肝に銘じておくべきだろう。こうした良識を、参議院の審議に期待したい。
掲示板を改め、「独り言」を開設して、もう一ヶ月にもなるだろうか。この「独り言」というスタイルが気に入っている。「日記」も独り言には違いないが、記録して残そうという気持があるので、どこか格式ばってしまう。本音を押さえて、つい建前をかいている。
その点「独り言」は時間がたてば消えていくので、気楽である。あとに残そうという気持はなく、ただ言いたいことを思いのままかく。もちろん掲示板として公開しているので、それなりのセーブをしているが「日記」ほど自己抑制はしない。誤字脱字が多少あっても気にしない。このほどよい自由さがいい。
適当に書き流している「独り言」だが、これを書くようになってから、起床時間が遅くなった。以前は4時には起きてパソコンの前に坐り、2時間ほどかけてじっくり日記を書いていた。ところが最近は、目を覚ますと5時である。しかも床の中にいる時間が長くなった。6時ちかくまでぐずぐずしていて、6時になったら飛び起きて、20分ほどで日記を書いてしまう。もちろん、それはほとんど「独り言」からの拝借である。
6時半頃になると、「ごはんですよ」と妻が呼ぶ。朝食の後、新聞を読んだり、テレビを見たり、読書をしたあと、朝の散歩に出かける。散歩から帰り、パソコンの前に坐る。そして、ぼちぼち「独り言」を書き始める。そのあと入浴、昼食である。毎日、これの繰り返しだ。ところで、哲学者の池田晶子さんが、「暮らしの哲学」(サンデー毎日10/29号)にこんなことを書いていた。
<ダイアローグとディベートは全く違うものですが、どうも人は、そのことをよくわかっていない。ソクラテスは、すでにこれを「真実を知るために行われる議論」と、「相手を言い負かすために行われる議論」と、はっきり区別しています。そしてそんな不毛はやめてしまえ、もし僕と議論したいなら、僕と同じ種類の人間になってから来いと、見栄を切る場面があります。
じっさい、相手を言い負かすために議論をしかけてくる人と議論をするほどうんざりすることは滅多にないですね。その人の目的は相手を言い負かし、自分の意見を主張することであって、真実を知るためにものを考えるなんて、そんな行為が人間にあり得ることすら知らないような蒙昧な状態なわけです。
よって、相手の話を聞く気が最初からないのだから、まあ話にはなりませんわ。そんな人々が集まって、開かれた対話の場と称して、ああだこうだとやっているのを見ると、独善家同士がお前は独善だと我を張り合っているとしか見えない。内なるダイアローグを知らない人に、外なるダイアローグは不可能です>
<話せる他者とは言うまでもなく、例の欲求(真理への愛)を共有する人のことですが、この部分で信頼しあっている者同士の対話というのは、興が乗ってくると、自分が言ったのだか相手が言ったのか、どっちでもよくなるものですね。ただお互いに真実に向かって思考を巡らせているというこの躍動感が心地よく、なるほどソクラテスと友人たちもこれにハマッタなとわかります。考えるということは、人を自由にしてくれます>
ソクラテスは「思考とは自分自身との対話」だという。そして自己自身と対話ができる者のみが、他者とも実りある対話ができる。対話とは相手を言い負かすディベートではなく、ともに真実を追究するプロセスでもあるわけだ。これが楽しくないわけはない。
モノローグをダイアローグにまで昇華させるためは、自己のなかに「他者」を持ち、自己をも「他者」として眺めるゆとりが必要である。そのためには狭隘な「自我」にとらわれていてはいけない。解脱してもっと大きな自由を手に入れなければならない。さて、私の「独り言」は「内なる対話」になっているだろうか。大いに修練して、いつかそうした「自由」を手に入れたいものだと思っている。
2006年11月20日(月) |
ありがとう、google先生 |
私が購読しているメルマガの一つに、「毎日かかさず英語でブログ」というのがある。11/9号の題は「英語のことはgoogle先生に聞け」だった。少し引用しよう。
<ご存じの通り、Googleはインターネットの検索サービスなわけですが、見方を少し変えると、人類史上最大の「コーパス」と言うことができます。
コーパスというのは言葉のデータベースのことで、従来は言語学者が地道にコツコツと自然言語を拾い集めて作成し、言葉についての研究や辞書を編纂するときの基礎にしていたものです。
でも、コツコツした作業は人間よりもコンピュータの得意分野。Googleはその誕生とともに、あっという間に史上最大のコーパスになってしまいました。しかも、今こうしている間にも、Googleのコーパスは、アップトゥーデートに更新され、どんどん成長しています。
あり得ないくらい幸せなことに、私たちはこのコーパスを好きなだけ自由に使うことができます。うまく使えば、そこいらの英語教師よりもよっぽど頼りになる存在。それがGoogle先生です。こんなに素晴らしい先生を活用しないなんて、もったいなさすぎ!>
<たとえば、「インターネットでほにゃらら」というときに、あなたは、"in the Internet"と"on the Internet"のどちらを使いますか? 判断に迷ったら、次のように2通りの方法でググって、ヒット件数を比べます。
>> "in the Internet" 704万件 >> "on the Internet" 2億200万件
※ダブルクォーテーションでフレーズをくくると、そのフレーズに完全に一致する検索結果のみが表示されます。
ここでは圧倒的に"on the Internet"が優勢であることがわかったので、特に理由がなければ"on the Internet"を使った方が無難なようです>
この方法をつかって、私も早速googleで、次の英語の語句を検索してみた。
> "one of my friends" 2,250,000件 > "a friend of mine" 4,160,000件
これでみると、「one of my friend」よりも 「a friend of mine」のほうが、よりポピュラーなようだ。ところでこの両者の意味はどう違うのか。
それはその語句が使われている文章を検討すれば、どういうシチュエーションで用いるのが正しいか類推することができだろう。これはとてもありがたい。さらにgoogle先生は英作文にも役立つ。
<「パンケーキを焼くときに表面がぶつぶつしてきたら裏返す」というのを英語で何と言うか調べるには、パンケーキのレシピのページにそのような表現があるに違いないと想定して、
>> cook pancake
などのキーワードをならべて検索してみます。すると、パンケーキの焼き方に関する英語のページが200万件以上ヒットするので、その中から気に入った表現を拝借してくればいいわけです。
パンケーキの焼き方に関連する表現が生きた文脈の中でまとめて目に入ってくるので、いちいち和英辞典で逐語訳するよりもはるかに効率的だし、より自然な表現が身につくはずです。
こんな感じで仕入れた生の表現を、がしがし自分の英語ブログに取り込んで、自分自信の言葉にしていけば、そりゃあもう、言うことなしでしょう♪>
私の夢は英語でブログを書き、世界に向けて発信することだが、google先生がいればこれも夢ではないだろう。
さて、私が他に重宝して使っているのが、自分がHPに書いた文章を探し出すときである。たとえば、「パレート法則」について昔書いたはずだが、もう一度読んでみたいとき、
>橋本裕、パレート法則
この二つのキーワードを並べて検索すればよい。結果はたちまち得られる。それは2000年5月14日の日記に書いてあった。その日記で私は野口悠紀雄の「戦略的超勉強法」を紹介している。野口さんは「勉強のための基本3原則」を次のように書いている。
(1)勉強のやり方を工夫して、勉強を面白いものにしよう。 (2)部分から積み上げるのでなく、全体から理解しよう。 (3)8割できたら先に進もう。
(3)についてさらに、「2割を制するものは、8割を制する」というパレート法則が適用できる。そうすると、結局、勉強で大切なのは2割で、それをマスターすれば次ぎに進めばよいということになる。
読書の場合でもたとえば100ページの本の中で、重要なことは20ページに書かれてある。すべて読む必要はなく、その2割をマスターすればよい。それではどうしたらその2割を選別できるか。それには「全体を俯瞰すること」が大切で、細部にこだわっていては大切なことが見えない。全体を俯瞰した上での重点に的を絞った「パラシュート学習法」が有効だという。
ちなみに、私の「何でも研究室」の多くの成果は、この野口悠紀雄さんの「勉強のための基本3原則」に忠実に従った結果であることを告白しておこう。ありがとう、野口先生、パレートの法則、そしてgoogle先生。
2006年11月19日(日) |
子どもに大切なのは愛情 |
首相官邸のHPに「教育改革国民会議」(座長:江崎玲於奈)での委員たちの発言の要旨が掲載されていたので読んでみた。それによると、小学生に対して、「教育の責任は当人50%、親25%、教師12.5%、一般社会12.5%であることを自覚させる」必要があるそうだ。
小・中学生に対しては「簡素な宿舎で約2週間共同生活を行い肉体労働をする」こと、高校生には「満18歳で全ての国民に1年ないし2年間の奉仕活動を義務づける」ことも書かれていて、平成12年の「提言」もこの方向でまとめられている。
またこの資料には、「教壇を復活させることなどにより、教師の人格的権威の確立させること」「名刺に信念を書くなど、大人一人一人が座右の銘、信念を明示する」などという発言も載せられている。
行政が取り組むべきことは、「子どもを厳しく<飼い馴らす>必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう」ことだそうだが、こうした発言をした人は、本当に現在子供たちが置かれている現状を見ているのだろうか。私も子供たちがこのままでよいとは思っていない。しかしその処方箋はいささか違っている。思いつくままにいくつかあげてみよう。
○通学路に風俗のチラシを貼るな。 ○企業は金儲けのために若者を食い物にするな。 ○若者を無力な消費者にするテレビコマーシャルを規制せよ。 ○小学生に安心して遊べる場所をつくれ。 ○親は家庭でかならず子どもと食事をするべし。 ○少人数学級を実現し、教師に子どもと向き合えるゆとりを与えよ。 ○受験競争を煽り立てて、小学生から塾にかよわせるな。
大人がこうした努力をすることが先決である。それをしないで、「愛国心をもて」「親に孝行せよ」などと子どもに強要しても逆効果でしかない。子どもを甘やかすのではなく、厳しくしつけをすることは必要だ。しかし、そのためには、子どもにたいする「愛情」がなければならない。残念ながら委員の発言にはこのあたたかい親心が感じられない。
大切なのは子どもを家畜のように「飼い馴らす」ことではなく、愛情を注いで「慈しみ育てる」ことだ。大人の愛情があれば子どもは自然に育つ。安倍首相のもとで開催される「教育再生会議」(座長:野依良治)では、こうした原点を踏まえながら、もっと子どもの人間性を尊重して、現実に即した発言や提言をしてもらいたい。
http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/1bunkakai/dai4/1-4siryou1.html
2006年11月18日(土) |
携帯電話が結ぶ心の絆 |
23人で出発した1年生の私のクラスだったが、10月を前に5人が退学して、現在は18名である。瞳の数が10個少なくなり、現在の私のクラスは「36の瞳」である。しかも今月中にもう一人、B子が退学しそうだ。
B子は中学2年生から登校拒否だった。離婚で好きだった父親が家からいなくなってから引きこもりがちになり、学校にいかなくなったらしい。しかし、高校生になってからはほとんど休まなかった。6月の保護者懇談会で母親が、「まだ学校に行ってくれているなんて、奇跡のようです」と顔をほころばせていた。
しかし、夏休みがあけて、次第に欠席が目立つようになった。もっとも電話だけは毎日かけてきた。「ワン切り」というやつで、毎回こちらからかけ直すことになる。
「今日の一限目の授業は何?」 「今、学校に向かっているからね」 「給食のメニュー、教えてよ」 「遅れるかもしれない」 「やっぱり今日は休む」 「明日は行くからね」
と、こんな調子で、時には一日に4回も5回も「ワン切り」する。B子が休みがちになったのは、先に退学したA子と遊ぶようになったことも一因のようだ。私がB子に電話をすると、B子の携帯から「先生、元気、私、毎日働いているよ」と、A子の明るい声が聞こえてきたりした。
A子も在学中は「ワン切り」の達人で、ときには真夜中でもかかってきた。これがところ構わずの長電話になった。11時近くに帰宅して、やれやれと床に就いたとき鳴り出したときもある。近所に高層マンションが屏風のように建っているせいか、家の中では電話が聞き取れないので、携帯を片手に玄関の鍵をあけ、パジャマのまま路上に出た。A子からの電話は私を不安にさせた。
「もう、がっこうやめる」 「あいつ、むかつく」 「おまえも、むかつく」 「おまえ、きもい」 「いまどこにいると思う、ホテルだよ。男に連れ込まれたんだ」 「先生、たすけてくれる?」 「私のことなんて、どうでもいいんでしょう」 「もう、施設に帰らないから」 「死ぬかも知れない」
こうした冗談とも本気ともつかない内容の電話で、私は不眠から体調を崩したこともあった。もちろん、彼女が入居している施設にも足を運んだ。A子とはいろいろとあり、酔っぱらって学校にやってきた彼女を我を忘れて叱ったしたこともある。そのとき彼女は2階の教室の窓から飛び降りようとして、私をあわてさせた。A子やB子に限らず、退学していく子には色々な問題や事情がある。
1年生の他のクラスの生徒のことで、その担任と二人で地図を片手に夜遅く家庭訪問し、家の前で母親と1時間以上押し問答したこともあった。学校の指導に不満な母親は、「校長先生に抗議しますからね」と喧嘩腰だったが、別れ際に少しだけ表情がなごみ、翌日には「先生方にも迷惑をおかけしました」と電話があった。そのことを聞いて、すこしほっとしたものだ。
こうして、この半年の間にいろいろなことがあり、1年生だけでも20人以上の生徒が学校を去った。毎日のようにかけてきた常連のA子もB子からも、もう電話は届かなくなった。そして入学当初は学校でも自宅でも、ところかまわず鳴り響いていた私の携帯電話が、最近はずいぶん静かになった。私の心は平和になったが、ときには妙に淋しく感じられる。
最近、英語の勉強に力を入れている。私が英語を勉強するのは、半分は海外脱出の準備だ。定年後は1年の1/3くらいは日本にいて、残りを海外で暮らしたいと思っている。
海外に行くと心がリラックスする。それだけ日本が息苦しいということだろう。色々なニュースに接していると、今後益々息苦しくなりそうだ。忍耐の限界を超えたら、海外永住ということになるかもしれない。
選択肢のひとつとして、フィリピンのセブを考えている。温暖な気候で、自然も美しい。それに一応社会的インフラがととのっている。犯罪も少ないし、英語が通じる。そして何と言っても魅力的なのは、物価が安いことだ。
フィリピン平均年収 20万 日本の平均年収 600万(フィリピンの30倍)
今年の夏、セブでお世話になった現地在住のIさん夫婦は年間72万円で生活しているという。これでも現地の人よりはよほどよい家に住んで、おいしいものが食べられる。
今年セブの語学学校で知り合った今さんが今、セブに行っているが、今回はホテルに滞在し、現地で英語の家庭教師をやとって勉強しているようだ。一昨日のブログにこんなことを書いていた。
<とても親切なティチャー、一発で気に入りました。一日付き合ってくれて英語の勉強を教えてくれて観光案内までしてくれて一日300ペソス(700円)ポッキリですよ!皆さん信じれますかぁ〜!>
おなじお金が、フィリピンへ行くと何倍もの威力を発揮する。日本で稼ぎ、フィイリピンで使うのが、一番賢いお金の使い方かも知れない。私の場合は定年後は収入がなくなるわけで、わずかな年金しかあてにできない。しかしフィリピンで暮らせば、それでも夢のような生活ができる。
フィリピンもこれから変わっていくだろう。先日の朝日新聞の記事によると、アメリカの企業がフィイリピンに熱い目を向け始めたようだ。フィイリピンの強みは、小学校から学校の授業は英語が原則で、小学生でも英語が話せるということだろう。向学心も結構あるので、これから国として伸びるに違いない。私は応援してやりたい気持でいっぱいだ。
2006年11月16日(木) |
恐るべし、タウン・ミーティング |
14日の衆議院教育基本法特別委員会で、社民党の保坂展人議員が、政府主催のタウン・ミーティング(TM)で、内閣府が事前に用意していたサクラの質問者に5千円の謝礼金を払っていたのではないか政府を追及した。(15日の朝日新聞)
保坂議員によると、内閣府が広告会社と結んだTMの請負契約書には、02年度から05年度までの契約書に「民間人有識者謝礼金3万円」「依頼登壇者謝礼金2万円」「その他の協力者謝礼金5千円」との記載があるという。保坂議員は「その他の協力者」というのがサクラではないかと質した。
これについて、塩崎恭久官房長官は15日午前の記者会見で、政府主催のタウンミーティング(TM)で、質問依頼の謝礼を、2002年度から04年度の3年間で計65人に支払っていたことを明らかにした。
塩崎氏は「あらかじめ代表発言(する人)を選んでいる時がある。司会者が明確に紹介するなど、オープンな役割を担っていただいている人に対する謝礼金であり、やらせ質問に謝礼金を払ったわけではない」と強調、問題はないとの認識を示したという。(11/15の東京新聞)
しかしTMで「やらせ質問」があったことは事実のようだ。11/11の沖縄タイムズの社説「これで教育改革なんて」から、一部を引用しよう。
<タウンミーティングは国民の率直な意見を聞く場なのに、内閣府が教育基本法の改正に賛成する質問をするよう出席者に依頼していたという。「やらせ」が明らかになったのは、今年九月の青森県八戸市を含む八回のうち五回。最初に実施された二〇〇三年十二月の岐阜県岐阜市、〇四年五月の愛媛県松山市、同十月の和歌山県和歌山市、同十一月の大分県別府市でのミーティングである。
世論を誘導する意図があったかどうか明白ではない。が、少なくとも改正に全力を挙げている政府・与党の姿勢を考えれば、誘導を試みたと受け取られても仕方がない。
内閣府の担当官は、府内で準備した質問案を発言者が自分の意見として述べるよう依頼し、丁寧にも棒読みを避けるよう念押ししたという。当日は、無作為に質問者を選んだかのように装って発言を求めている。実に狡猾で、恥ずべき行為と言っていいのではないか>
大分県では政府の質問案にそって、県教育委員会の4名の職員が「公務員」と名乗って発言している。青森県八戸市では、県や市教委があつめた教師らが参加者の半分以上を占めていたという。あらかじめ文科省や内閣府と教育委員会が質問事項や質問する際の注意事項まで作成し、これに沿って発言することをサクラの発言者に要請し、その上謝礼金まで払っていたとしたらとんでもないことだ。
tenseiさんが「塵語」に書いていたが、TM1回の開催費用が1100万円というのも解せない話だ。会場費だけで100万円かかったにしても、後の1千万円は何だということになる。広告会社を通してサクラたちに多額の謝礼金が「口止め料」としてばらまかれていたのではないかと疑いたくもなる。
いずれにせよ、この5年間で174カ所、1年間に約35カ所、昨年度だけで、この猿芝居のような会に3億を注ぎ込み、たくみに世論を「偽装」したり「誘導」したりしたわけだ。おまけに買収までしていたとすると、これはれっきとした犯罪である。
政府はこんな犯罪行為を犯し、なりふりかまわず教育基本法法案を強行採決するという。改正の狙いははっきりしている。「平和を愛する心」を削って、国に服従する「愛国心」を吹き込み、日本を権力者のいうがままに戦争のできる国にしたいのである。国の統制を強めて、教育をとおして国民をコントロールしたいのだ。
さらに、NHKの放送内容に対して、総務大臣変更要請命令を発令した。NHKは私たちの聴取料金でまかなわれている公共放送である。これをかってに政府が私物化して貰っては困る。私たちは北朝鮮を外側から眺めていてずいぶんおかしい国だと感じるが、しかし、最近の日本も充分におかしい。
反戦のビラを配っただけで逮捕されたり、卒業式に教員や生徒に国歌斉唱を強要し、起立しなかったということで処分をしたり、こうした強権と理不尽がまかりとおる日本社会の現状にあきれるしかない。もっとあきれるのは、これを異常だと感じない人たちが増えていることだ。これが恐ろしい。
蟻といえば働き者の代表だが、じつは実際にまじめに働いているのは意外に少なく、2割ほどの蟻が全体の8割ほどの食料をあつめてくるのだという。そこである学者が面白い実験をした。その優秀な2割の蟻だけあつめてきて、怠け者を排除したところ、やはり働き者ばかりの蟻の集団でも、たちまち2割しかまじめに働かなくなってしまった。
反対に怠け者ばかりの集団で実験しても、そのなかの2割が働き蟻に変身して、じっさい「2割で8割」という構造はかわらなかったという。これは「べき分布」の特徴である。つまり、「2割が8割を支配する」というパレートの法則が全体について成り立つとき、不思議なことにそれは部分をとって成り立っている。
このことに関して、国際大学GLOCOM所長の公文俊平さんが、「べき法則と民主主義」のなかでこんな例を引いている。
<私が入学した地方の私立中学校は中・高一貫教育で、その地方のよくできる子供たちを選りすぐってさらに鍛え上げる教育方針をとっていることで有名でした。受験の季節が近づくと校長先生は、毎年県内の各地に出かけていって、在校生の父兄と面談しながら有望な小学生はいないかと探してまわり、これはと思う生徒がいると聞くと直接面接したり、父兄に受験を勧誘したりしていました。
入学試験自体もかなりの競争率で、入学してきた子供たちは、出身小学校ではそれぞれがなかなかの秀才と目されていたはずでした。しかし、その粒選りの秀才たちの集まりが、いっしょに勉強を始めてみると、学力のばらつきの大きさには驚かされました。
どうしてこんなことを知っているのか、こんなに飲み込みが早いのかと驚かされる生徒がいるかと思うと、何かの間違いでこの学校に入ってきたのかと思うような生徒もいました。(もちろん同じことは、スポーツの能力や絵や音楽の能力についても言えたし、ひとつの尺度でみるとすぐれた生徒が別の尺度でみると箸にも棒にもかからない劣等生ということはいくらでもありましたが、それはまた別の話です。
その中で、トップクラスの連中は東大を目指しました。私も合格者の一人に入り、上京して東京で学生生活を送ることになりました。ところが、全国の秀才が集まっているはずの駒場のクラスでも、やはり同じような現象が見られました。
大学院でもそうでした。当時大学院に入るためには、優が四分の三以上なくてはならないと言われていたのですが、そこでも各人の学問的能力の懸隔にはそれこそ天地の差がありました。私はその中で、なんとか卒業してたまたま母校に就職したのですが、教授会の同僚をみると、そこにもたいへんな差があることがわかりました。“上には上がいる”という関係は、どこまでいってもはてしがないのです。(おなじことは、スポーツや芸術の世界でもいえるでしょう。>
これは上位者のグループの話だが、たとえば下位のグループでも同じような「べき構造化」が進むのではないかと思う。私が進学した私立高校のクラスは全員が県立高校の落第組だったが、3年間で「べき構造化」がかなり進んだ。つまりさらに学力が落ち込んで行ったグループが大勢いる一方で、学力が飛躍的に伸びて現役で国立一期校や早稲田大学など有名私立校に合格した者たちも出た。
同じようなことは、私は教師をしていて色々な学校で経験している。定時制の私のクラスでもおよそ2割ほどの生徒(わずか数名)が、積極的に働いていろいろな行事でイニシャティブを発揮してくれる。反面、残りの生徒はあまり積極的に動かない。パレートの法則は教師にとっては痛し痒しである。
パレートの法則から考えると、社会が成立するためには、全員が優秀である必要はない。2割がしっかりしていればよいわけだ。たとえどんなに悪がはびこっても、その流れに流されず、他人がどうであれ、不平不満をいわない本当の意味でエリートとよべる気骨のある人材が、どこの社会でも2割ほど存在する。
この核となる2割のエリート集団が崩壊したとき、その社会はもはや持ちこたえることができない。さて、日本社会はこの先大丈夫だろうか。
国内最大のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)であるMIXIの会員が700万人を越えたようだ。じつは、私も1ヶ月ほど前から会員である。ここにブログを書いたり、いくつかのコミュニティにも参加して、会員たちとの交流を楽しんでいる。
MIXIのことを知ったのは今年の夏、セブに留学しているときで、なんとセブの英語学校「CPILS」のコミュニティまであった。しかも会員数が201人もいる。MIXIの会員になって、真っ先に入会したのがここだった。その後、英語学習や英語留学、世界旅行に関したコミュニティにいくつか入会し、貴重な情報を得ている。
この夏にCPILSで知り合った今さんやタローさんも会員なので、MIXIを通してコミュニケーションをしている。今さんは一週間ほど前からまたセブで英語を勉強し始めたようだ。その様子を毎日ブログに書いているので、読むのが楽しみである。日本にいながらセブに行ったような気分にしたることができる。
さて昨日、「ヨーロッパ軒」で検索したら、このコミュニティ(なんと会員数714名)がしっかり存在していた。迷わずこれに参加し、こんな入会の言葉を書き込んだ。
<高校まで福井で育ちました。金沢の大学を卒業して、今は愛知県で高校教師をしていますが、福井市の片町にある本店は青春の思い出がいっぱいです。実家に帰省するときには必ず食べに行きます。
しかし、愛知県から福井までは遠いので、ちょくちょく食べに行くのは敦賀の本店の方ですね。それから敦賀の駅前店にも行きます。
若狭に遊びに行くときには、敦賀で途中下車をしてでも食べます。駅前店は近いのでたすかります。もちろん家族への持ち帰りもここで買います。明くる朝、カツサンドにして食べても最高においしい。
ヨーロッパ軒のソースカツ丼は最高です。つらいことがあっても、ヨーロッパ軒のソースカツ丼を食べに行くぞと思えば、たいていのことは辛抱できます。ほんとうに故郷の味はありがたいですね>
「ヨーロッパ軒」の創業者、高畠増太郎はドイツ・ベルリンの日本人倶楽部で6年間の料理研究の留学を終え、明治45年帰国した。そして、ドイツ仕込みのウスターソースを日本人の味覚に普及さすべく苦心を重ね創案致し、翌大正2年東京で開かれた料理発表会にて日本で初めて披露したのが、この「ソースカツ丼」だという。
「薄くスライスした上等のロース肉を、目の細かな特製パン粉にまぶし、ラード・ヘッドでカラリと揚げたカツを、熱々のうちにウスターソースをベースに各種の香辛料を加えた秘伝のタレにつけ、熱いご飯にタレをまぶした上にのせたカツ丼。油臭さがなくサラリとした歯触りはもちろん、ツーンとした甘み&酸味が醸すまろやかな口当たりは、どなたにもおいしくお召し上がりいただけます」(ヨーロッパ軒のHPより)
http://homepage2.nifty.com/yo-roppaken/
大正2年11月2日、東京都早稲田鶴巻町(新宿区)にヨーロッパ軒誕生。屋号はヨーロッパで修行したことに由来し、当時としてはハイカラな屋号だった。ところが、大正12年9月の関東大震災により灰燼と化した。翌13年1月に郷里福井の片町通りに福井ヨーロッパ軒誕生。現在にいたっている。私の両親も、祖父母も、曾祖父母までが、このヨーロッパ軒で同じカツ丼を食べていたわけだ。
MIXIの会員になるにはすでに会員になっている友人の紹介があればよい。そうするとブログを書いたり、何万とあるコミュニティに参加して、同好の士たちと交流をたのしむことができる。友人の友人ということで、人の輪が広がっていく。友人関係を主体にしているので、雰囲気もおおむね良好である。これはありがたい。
「強い人間になりたいか、弱い人間になりたいか」と尋ねられたら、多くの人は、「強い人間になりたい」と答えるのではないだろうか。映画のヒーローも強い人間である。強い人間はクールで、格好が良い。
それでは、「幸運に恵まれた安楽な人生を生きたいか、つらいことばかりの不運な人生を生きたいか」と訊かれたらどう答えるだろう。これも多くの人は「幸運な人生」を求めるだろう。
このふたつをあわせるとどうなるか。「幸運に恵まれた人生を、強い人間として生きたい」ということになる。しかし、これはちょっとむつかしい。
強い人間になるためには、様々な困難に遭遇し、これを乗り越えて行かねばならない。つまり、強い人間は逆境のなかから生まれるわけだ。まさに「艱難辛苦」が「汝を玉」にするわけだ。英語で言えばこうだろうか。
Misfortune makes us strong.
強い人間になりたい人は、逆境をも愛さなければならない。艱難辛苦よ、我に来いと、むしろ不運や不遇であることを求めるくらいでなければならない。
だから強い人間になりたいと思う人は、逆境の時こそ「今こそ自分があこがれていた強い人間になるチャンスだ」と思わなければならない。
安楽な運命をもとめ、しかも強い人間になりたいというのは、虫のいい話である。安楽な運命を求める人は、クラゲのように背骨をもたず、意志の力もなく、確固たる自己をも持てない弱い人間になるしかない。したがって、私たちが受け入れる望ましい人生の選択はおよそ、つぎのようなものである。
(1)不幸な出来事が次々と襲いかかる。しかしそれにもかかわらず、それにうちかって、独立自尊の強い人間になる。
(2)しっかりとした自己はないが、幸運にめぐまれたおかげで、平穏無事に安楽な人生を過ごすことができる。
さて、「幸福の門」と「不幸の門」のどちらを選ぼうか。「不幸の門」を選び取るだけの勇気があるだろうか。たとえ惰弱な自己に甘んじても、幸運な人生を生きたいと願うのが人情ではないだろうか。しかし聖書にはこう書かれている。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ伝第7章第13節)
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ伝第14章6節)
キリストは「命に通じる門」は狭いという。そしてその先の道も狭く、けわしそうだ。たしかに「さとり」に至る道は険しく、自己解脱もまた容易ではないのだろう。しかし、それでもこの険しさを好んで通っていく人はいる。そうした人たちが偉人と呼ばれるのかも知れない。
昨日から一泊二日で大阪や湯の山温泉へ家族旅行をした。長女や次女もいれて一家4人がそろうことは少なくなった。ましてや一泊旅行などなかなかできない。振り返ってみると、去年3月にタイに行って以来のことだった。
昨日は大阪のユニバーサル・スタジオへ行った。ここが3度目だという長女の案内で、まず一番のおすすめだという「スパダーマン」のアトラクション会場に向かった。たしかに、これは面白かった。臨場感あふれるセットをスペースマシーンにのって移動するのだが、そうすると3D映像で色々な怪物が襲いかかってくる。迫力満点だった。
このあと見た「ウオーターアイランド」も面白かった。私は映画は見ていなかったが妻たちは映画もみていたようだ。水上スクーターを使った戦闘シーンの実演は迫力があったし、実際に飛行機が観客席のすぐ前まで飛び込んできたのには驚いた。この他、「ジェラシックパーク」や「E・T」など、主なところを見て回った。これらは私も映画で見ていたので、馴染みがあった。
土曜日なので人出が多いと思ったが、雨のせいかそれほどでもなかった。それでも長い列ができている。さいわい長女がエクスプレス・パスを買ってくれたので、私たちは列に並ぶ必要もなく、効率的に見て回ることができた。まさにお金が物を世界である。特権階級になったようで気分が良かったが、長蛇に列に並ぶ立場になったら腹が立つのではないかと思った。
湯の山温泉には7時半すぎについた。旅館は渓流沿いの静かなところにあった。予定より30分以上も遅れての到着で、さっそく夕食になった。目玉は松阪牛の鉄板焼きだったが、これが口の中でとろけるようにおいしかった。その他、カニや刺身の盛り合わせ、エビの塩焼きなど、とても食べきれないほどである。料理の豪華さがこの旅館の売りだときいていたが、大いに満足した。
食事の後、風呂に入ると、体重が2.5キロも増えている。この一年間、つねに60キロ未満だった私の体重が、一気に61キロを越えていた。「わあ、これは大変だ。明日は絶食だ」と思わず叫んでいた。露天風呂は40分の時間制で家族貸し切りになっていたので、前半の20分を私ひとりでゆったりと使った。
翌日は、絶食する誓いはすっかり忘れて、朝食をしっかりたべた。それから、ロープウエイで御在所岳の頂上をめざした。生憎の天気だったが、それでも中腹の見事な紅葉をそれなりにたのしめた。頂上では、雪の舞う中で記念撮影をした。娘たちは雪を楽しんでいたが、氷点下1度という低温に私や妻は耐えられず、早々と下山した。
途中、ファミリーレストランで昼食をすまし、長女の運転する車で一路わが家をめざした。思ったより早く、4時過ぎには家についた。旅の企画や費用の多くを長女が負担してくれた。今年は私たち夫婦が結婚して25周年の年である。おかげで今回の旅はそのよい記念になった。
2006年11月11日(土) |
豊かさは家族の団欒から |
二人の娘が幼い頃、私は夜間高校の教師をしていて、午後おそくまで家にいた。朝、一緒に食卓を囲み、昼食も一緒である。近所の公園へ子供を連れて遊びに行ったり、娘二人を風呂に入れるのも私の役割だった。
その頃、バブルが加熱し始めたころで、多くの父親は朝早く出かけて、夜遅く帰っていた。その情況は今も改善していないのかもしれない。単身赴任で、家族と別居している父親もいるだろう。
このことを私は残念に思う。それは父親から子どもとふれあう機会を奪い、子育ての楽しみを奪うからだ。子どもたちと一緒にいる時間が長いと、いろいろなことが分かる。子育ての喜びばかりでなく、つらさもわかる。
近くに公務員宿舎があった。その敷地の公園に遊びに行くと、いじわるな女の子がいて、娘にブランコを使わせないようにする。その子は娘の顔を見ると、駈けてきて空いているブランコに飛び乗り、他の子にも「早く、とられるわよ」とけしかける。そのくせ、私たちが離れると、これみよがしに彼女たちもブランコを離れる。
ほんとうに感じの悪い女の子だった。私は仕方なく、娘の手を引いて、少し遠くの公園まで歩いた。口惜しくてつらい思いを、幼い娘とわかちあいながら・・・。
上の娘が小学2年生になり、下の子も幼稚園の年長組になったころ、私は再び全日制の高校に戻った。これによって朝食と夕食を子供たちと一緒にすることができた。もし、この時期、私が夜間高校に在職していたら、子供たちとはすれ違いになっていただろう。
去年長女は就職し、次女も20歳をこえた。そして、私もまた定時制の夜間高校に転職した。昔と違い、家の中はいつも静かである。毎日散歩に行くが、私のかたわらに娘たちの笑顔はない。お風呂に入るのもひとり。これはこれでいい。ようやく私にも自分の時間が戻ってきたのだから。
しかし、子供たちが幼い頃、あるいは思春期のむつかしい時期に、毎朝、毎晩、顔を合わせて食事をし、あれこれと何気ない会話を交わすことは、子育てには大切なことだ。少子化社会の日本に必要なのは、この心のゆとりではないか。
家庭から父親や母親を奪うことはしてはならない。そうしたコンセンサスを、日本の社会が持てるのはいつの日だろう。もし、そうした家族と人にやさしい社会が到来したら、そのときこそ私たちは日本が豊かになったと実感できるのではないだろうか。
(今日は朝6時頃から家族4人、長女の車で大阪に遊びに行きます。それから御在所の湯の山温泉に泊まります。お天気が心配ですが、明日は御在所岳に登りたい。明日の日記の更新は夜中になりそうです)
フィリピンからの帰り、乗り換えのマニラ空港で、不機嫌な家族の一団に出会った。父親が「ほんとうにフィリピンはつまらないところだな」と家族にいい、近くで乗り継ぎを待っている私たちにも語りかけてくる。
私は黙っていたが、近くの若い女性たちの一団が、「私たちは研修でやってきたので、あんまりわかりませんが・・・」と戸惑い気味に返していた。
私はフィリピンでもセブしか知らないが、人に訊かれれば「いいところですよ」と答えるだろう。しかし、それは英語を勉強するという目標があるからかもしれない。観光地としてセブがそれほど魅力的かと訊かれたら、「さあ、それは人によるでしょうね」と答えるしかない。
セブ市には貧しい人たちがひしめいている。夜の街を歩くのは怖い。街の大半はスラム街だ。家の軒先のベンチに、老いも若いも、日長ひまそうに、裸同然の姿で坐っている。失業しているというわけでもなさそうだ。どうも「働く」という観念がないのではなかと疑われる。
田舎へ行っても同じことだ。家の前の木陰で、男も女も何もするでもなく裸同然で坐っている。働くのは1日のうち、ほんの数時間ではなかろうか。いや、ほとんどの人はただぼんやりして一日を過ごし、一生を終えていくようにさえ見える。
こんな人生は耐えきれないと、多くの日本人は考えるだろう。そしてこうした怠惰な人々を軽蔑するかもしれない。私も「こんな風だからフィリピンは発展しないのだ」と考える。
なぜ、彼等は本を読まないのだろう。なぜ、彼等はもっと勉強しないのだろう。向学心も、向上心もないから、粗末な板葺きの家に住み、いつまでも犬や猫のようなきりぎりの生活をよぎなくされている。
しかし、一方で「こんな楽な人生もあるのだ」と感心もする。とくに田舎に行くと、人間がこんなふうに無為自然に生きられるということに、羨望すら憶える。いや、尊敬さえ覚える。私などとてもこうした無為徒食の生活に耐えられそうもない。
テレビも映画も、図書館もインターネットもない生活。食べるものと言えば、バナナや椰子の実の汁、近くの海で採れた魚など、自然に存在するものばかり。一年中パンツ一枚で、寝ころんでごろごろしていても良いと言われても、退屈で死にそうになるのではないか。ところが彼等はそれを少しも苦にしない。そうした人生をまのあたりにみせつけられると、もう「脱帽」したくなる。
セブには犬が多かった。都会でも田舎でもまったくの放し飼いである。そして犬も人間同様、じつにのんびりしている。私は犬が吠えたり喧嘩をしているのをみたことがない。彼等は人間にも友好的だし、目の前をニワトリのヒナが歩いていても、猫が歩いていても襲いかかろうとはしない。日本の犬のようなとげとげしい表情がまったくない。人や犬やニワトリをながめていても、随分日本と違う。
こうした世界から日本に帰ってくると、さすが日本は清潔で、管理の行き届いたすばらしい文明国だと思う。しかし、一方で、なにやらむしょうにセブのあの田舎の生ぬるいのどかさがなつかしくなる。そしてまたぜひに訪れてみたいと思うのだ。
ところで、昨日紹介した「2割が8割を制する」というパレートの法則は、ものごとは10割やる必要はない。基本を押さえて、そこに集中すれば充分だということだ。本を読む場合でも、全部読まなくても、大切なことは2割だけ読めば大方わかる。このコツを身につければ、ずぼらというか、手抜きができる。
この要領を身につけるために、一番大切なのは、何が人生で大切か、「ものごとの本質を見定めること」だろう。人生で何が大切かがわかれば、余計なことに振り回されず、あくせくしなくて、「シンプルに生きる」ことがでる。フィリピンの人たちを見ていると、人生で大切なのはお金でもなく、知識でもなく、名誉や権力でもなく、ただ「家族や友人とともに楽しく生きる」ということではないかと思われてくる。
経済学で有名な法則に「パレートの法則」がある。簡単に言えば、「2割が8割を制する」ということだ。たとえば、社会の富の8割が2割の人に集中する傾向がある。自由競争のアメリカはそうなっているし、日本もやがて社会的規制がなくなれば、こうした格差社会に突入することになる。
パレートの法則は、いたるところにあらわれている。たとえば、コンピューターソフトの厚いマニュアル本があるとする。これを隅々まで読むのは大変である。しかし、2割読めば、その機能の8割がわかる。だから、効果的な学習は全てを読むことではなく、重要な2割に的を絞って学習することである。
これは英語の勉強にも言える。1万語を収納した英語辞書があるとする。これをすべて憶えるのはたいへんなことだ。しかし、パレートの法則を知っている人は、基本的な2千語を憶えるだけで、英語表現の8割がカバーできることを知っている。これで労力が1/5になる。
これは「80点主義」である。100点とるには1万語憶えなければならないが、「80点」で満足すれば2千語ですむ。これで労力が8割カットできる。そしてこれをもっと他の有用な学習に当てることができる。
例をあげよう。Aさんは10年間で英語を完璧(100点)にした。しかし、80点主義のBさんは、10年間で英語だけではなく、フランス語、ロシア語、中国語、韓国語をほぼマスター(80点)した。さて100点主義のAさんと80点主義のBさんのどちらの選択が賢いかということである。
パレートの法則は物理学や数学では「べきの法則」と呼ばれて、いろいろな分野につかわれている。たとえば資産の分布曲線を見てみると、真ん中が膨らんだ「正規分布」ではなく、y=1/xのような双曲線もしくはこれに似た形をしている。つまり、わずかな人数(x)が大きな資産(y)を所有し、多くの人間(おおきなxの値)において資産値(y)が極端に小さくなっている。
数学や物理学ではこうした分布曲線 y=(1/xのn乗) を「べき分布」と呼んでいる。そして数学的にいうと、この「べき分布」の場合に、「2割が8割を制する」というパレートの法則が成立するわけだ。
こうした学問的なことは知らなくても、世の中には「正規分布」で理解できないことが多くあり、とくに学習面においては「80点主義」が能率の良いことを知っておくと便利である。
じつは、世の中の多くの現象が「べき分布」に従っており、したがって「パレートの法則」が有効であるのに対して、ちょっと特殊なのが日本の「学校教育」だ。ここでは「100点主義」の発想が支配している。
まず、教科書が100点主義の立場で書かれている。「2割が8割を制する」という自然な構成になっていない。つまり、100点取るために100時間勉強しなければならないとすると、80点取るには80時間勉強しなければならないような「人工的」な構成になっている。教師もそのような試験問題を作る。大学の入試問題もおなじ発想でつくられる。
だから、私たちは学校教育によって「100点主義」の洗礼をうけ、努力と成果が単純に比例するものと錯覚してしまう。そしてどうでもよい枝葉の些末なことまで平等に知ろうとして、たんなる「知識量」を競うことになる。
しかし、世の中に流通している情報はどれもおなじ価値があるわけではない。重要な情報と、些末な情報がある。そして学校で教えられる知識とちがい有益な社会的情報は「べき法則」に従っている。だから重要なものとそうでないものを見抜く力が要求されるのだが、「100点主義」の学校教育は、こうした知力を鈍磨させる。
私たちはこの陥穽を抜け出さなければならない。成果は努力に比例するわけではない。したがって、まずは基本の2割を重視し、これを重点的に学習すること。こうすれば、私たちの人生はたまゆらでも、驚くほど実り豊かなものになるだろう。
(参考サイト) 「べき法則と民主主義」 http://www.can.or.jp/archives/articles/20030315-01/
来年の3月に次女が大学を卒業し、4月に就職する。教育学部で英語を専攻したものの、本人の希望で教師にはならなかった。私や長女と同じく、愛知県の公務員である。倍率が10倍以上あったが、よくがんばって合格してくれた。
そのごほうびに、卒業を前に、1ケ月ほどイギリスに語学留学することになった。これは私がすすめた。私自身いずれ、イギリスで英語を勉強したいので、先発隊を送って様子を見るのである。私も2,3年後、イギリスに語学留学したいと思っている。
次女が大学を卒業すれば、扶養家族は妻だけになる。わが家の家計もようやく楽になる。とにかく、今の日本では子ども二人を育てて大学まで卒業させることは容易ではない。おまけにわが家の場合は、家の25年ローンが重くのしかかっている。
ローン地獄はまだしばらく続くが、とにかく来年から子どもが独立してくれるのはありがたい。現在私は3つの保険に入っているが、これももし私に何かあったとき、妻や子どもたちが経済的に困らないためである。私が65歳までに死ねば、家族は3千万円ほどもらえることになっている。
この保険を解約すれば毎月2万円以上の保険料が浮くことになり、私のお小遣いのアップになる。「死んでから金を貰っても仕方がないな」と言うと、妻が「病気になったら困るでしょう」という。ガンにでもなればとんでもない治療費がかかる。保険にはいっていれば、それを担保に借金ができる。
しかし、ガンを宣告され、あと余命幾ばくもないと医者からいわれたら、どこかに旅に出て、旅先で死にたいというのが私の希望である。死に方としては、食を断ち、栄養失調で死ぬのがよいと思っている。
死に場所としては、モンゴル草原がいいと思っていた。パオに水だけ持ち込んで、毎日朝日や夕日を眺めて、自分の体がやせ細り、そして次第に生気を失っていくのを眺める。
絶食で死ぬのは容易ではない。たっぷり時間がかかるだろう。その間、いつも死に向かい合い、自分の生に向かい合う。考えてみればこれはとても貴重な体験ではないだろうか。実は私がこうした死を選ぶわけは、経済的な理由ばかりではない。是非こうした体験をしてみたいのである。
古来より宗教者や文人の多くはこうした死に方をしていた。インドのジャイナ教は絶食死が掟だったし、釈尊も最後は食を断って死んでいる。中国の詩人達や日本の高僧もそうだし、西行なども食を断ち、如月の頃、満開の桜の下で死んだ。しかし私はなにも、こうした宗教者や高雅な文人達にあやかりたいわけではない。
実のところ、絶食死は動物にとって自然な死に方である。インデアンも昔は死を悟ったら、ひとりテントに残り、食を断って死んでいたらしい。楢山節考のおりん婆さんもそうだが、そうした自然な死に方をしてみたいのである。
死ぬ間際まで、日記は書きたいと思っている。中国の文人は弟子を侍らせ、死ぬ間際まで詩を書き、弟子達と詩論を闘わせたりしているが、私にそんな弟子はいないし、もとより孤独死を願うので、あえていえばこの日記だけが友ということになる。
ところで、寒がりの私はモンゴルの草原はちょっとつらいかも知れない。もっとあたたかい南国で死ぬのもいい。たとえば、セブ島などもいいなと最近思い始めている。
死んだ後のことは、現地の人に頼んでおくつもりだ。遺体はモンゴルなら島葬だろうが、セブなら埋葬ということになるのだろうか。家族には日記を遺書代わりに届けてもらうつもりだ。家族はそれで私の死を確認することができる。
ところで、チベットの鳥葬について、椎名誠さんが「カイラス巡礼とっておきの話」でこんなことを書いている。
<チベットでは人は死ぬと鳥葬にされる。鳥葬とは服を全て脱がせた遺体を大きな岩の上に乗せ、体を切り分けて石などでつぶし、鳥に食べやすいようにする。しかしその鳥(禿鷹)が今は少なくなっていて、野犬やカラスなども加わって始末することが多いらしい>
これを読むと、ますます南国の静かな海辺で、月の光を眺めながら死んで、できれば死後は野犬に食べられる前に近所の人に土の中にでも埋めて貰いたいものだと思う。
そのためには勿論、日頃からそれだけの功徳をつんでおかねばならない。来年の夏、セブへ行ったら、そうしたおあつらえむきの土地がないかどうか、さがしてみようかしら。
とこんな話をしていたら、妻に笑われた。そんなことは、実際にガンになってから考えてくださいという。そのときあわてなくてもすむように、やはり保険は続けておいてくださいという。学校の同僚に相談しても同じ意見である。なるほど、そうかなと思う。それに、家族にプレゼントを残して死ぬというのも悪くはない。保険はもうしばらく続けることにした。
2006年11月07日(火) |
美しくない日本の教育 |
「きくこの日記」で有名な「きくこ」さんは、高卒らしい。しかし、この人は頭がよさそうだ。文章が抜群にうまい。11月5日の日記にこんなことをズバリ書いている。
<平均で150時間、最大で300時間以上もの未履修時間があったって言うのに、たった70時間の補習でいいとか、それでも厳しすぎるから50時間にしろとか、挙句の果てには、時代錯誤で厚顔無恥な東京都知事が、「くだらない先生の講義をダラダラ聴くより、気の利いた歴史の本を3、4冊読ませて、リポートを出せと言ったほうがいい」なんて言う、無責任極まりない大バカ発言を炸裂させた。サスガ、海外まで売春しに行き、その様子を自慢げに本に書いて出版しちゃうほどの異常者は、言うことがシビレちゃう>
灘高校といえば東大合格者を輩出する私立の名門である。この高校でも、少なくとも4年前から履修漏れがあったという。これについても、「きくこ」さんはこう書いている。
<灘高の今の3年生のうち、217人が、日本史などが未履修で、このままだと卒業できないそうだ‥‥ってことは、仮に、今までも今年とおんなじように不正を続けて来たんだとしたら、最低でも、過去3年間で、約600人もの生徒が、高校卒業の資格を持ってないのに、大学へ入学したってことになる。もちろん、この「4年前から」ってのは、灘高サイドの発表なんだし、こんなインチキをする高校のことだから、ホントはもっと前からだって疑われても文句は言えないだろう。どっちにしても、灘高自体が「4年前から」って発表したんだから、少なくとも4年前にさかのぼって、灘高から大学へ進学した子たちを全員きちんと調べて、未履修がある子は、今からその科目を履修させなきゃおかしいよね>
たしかに正論である。また、11月5日朝日新聞「若い世代」には、高校生の山下友里江(16)さんが、「履修漏れ問題、感じる不公平」と題して、次のように書いている。
<連日、必修漏れの学校が、次々と明るみに出ている。新聞などの報道では、受講しなければならない生徒の怒りや戸惑いばかりに焦点が置かれている。まじめに授業を受けてきて、同じスタートラインで受験しなければならない生徒の声が反映されていない気がする。
必修科目の教科書がないとか、受けていない授業の単位が通知表に出ているとかで、当事者も気付いていたと思う。自分たちさえよければいい、受験科目だけ頑張ればよいという気持で、事実を黙認していたのではないか。
実際に進学率がアップしたという数字も出ているらしい。いくら進学率が上がっても、本当にそれだけでいいのだろうか。高校は、進学のためにだけ通っているのではないはずだ。
どんな授業にも意味があり、無駄なものは何一つなにのではないか。好きな授業ばかりでないのに、きちんと受けている私たちは、未履修のみなさんに「不公平」だと言いたい>
11月5日の東京新聞の社説は、「根っこから考え直そう、高校必修漏れ」と題して、この問題の根っこに迫っている。これも引用しておこう。
<より根本的には、大学予備校と化した感のある高校の実態をどう改めていけばいいかだ。そういう本質的な問いこそ、突きつけられている。
公立高校の中には教育委員会から数値目標を求められ、国公立大や有名私大の合格者数によって評価され、その実績で学校長の異動まで左右される地域もあるという。私立高校は少子化に対応して生徒を集めるための方策だろう、大学合格実績を売りものにしている。
このような受験偏重の競争主義と評価の仕組みは、教育の本筋から大きくはずれている>
「教育に競争原理を」を合い言葉に「教育改革」を押し進めた英国では、学校間の格差が拡大し、底辺校を中心に新学期がはじまる1週間前になっても、1300校で校長が決まらぬ事態に見舞われているという。
英国では全国一律の学力テストを実施していたが、とうとうウエールズ地方政府は学力テストそのものの廃止を決めた。全英校長会も今年5月に、学力テストの結果公表を取りやめるように決議している。
そしてついには88年のサッチャー時代にこうした教育改革を導入した保守党までが、ことし9月には、学力テストによる目標管理や学校名の公表を見直す方針を明らかにした。
安倍首相は英国の教育改革を誉めあげ、著作「美しい国」の中でも米国のバウチャー制度にふれているが、全米でバウチャー制度があるのはわずか6地域のみで、対象は低所得者層に限られている。
しかも米国でも統一テストでカンニングや学校ぐるみの成績改竄など、不正行為が蔓延し、校長のなり手がないという。こうした英国や米国の惨状を、安倍首相や与党の政治家がどれほど把握しているのか心配である。
一昨日の土曜日、妻と二人で犬山市の近くにある山に登ってきた。頂上に「猿啄(さるばみ)城」がある。とても急な石段の多い山で、3年前に登ったときには、夫婦とも挫折してしまった。
「今日上れなかったら、もう一生上れないね」 「今日はぜひ登りたいな」
私は3年前より10kgも体重を落として、再挑戦。妻も毎朝、散歩の途中石段を登ったりして鍛えた。少し前には金華山も登っている。その成果が実って、みごと夫婦で登頂に成功。二人でお城を前に記念撮影をした。
晴れてはいたが、もやっていてすっきりとは見えない。しかし眼下に木曽川が流れている。よく晴れていれば南アルプスや御岳がみえるはずだ。また、こんど登ってみたいと思った。
来週の土、日は娘二人も誘って、御在所岳に登る予定だ。湯河原温泉で一泊する。一家四人の旅は昨年3月にタイへ行って以来である。
「思ったほどつらくはなかったね」 「これなら御在所にも上れそうだ」 「富士山だってのぼれそう」
9時に家を出て、登り始めたのが9時40分頃。頂上に着いたのが11時少し過ぎだった。12時にはもう麓まで降りていた。そのあと、レストランで1000円のランチを食べた。帰宅が2時頃。妻のむいてくれた柿を食べながら、俳句をひねった。
柿食えば 足の疲れも 甘味かな 裕
2006年11月05日(日) |
自殺予備軍の子供たちへ |
福岡県筑前町で中学二年の男子生徒が首を吊って自殺したが、担任の教師が「出荷の出来ないイチゴ」などといじめとも受け取れる発言を繰り返していたという。教師がこうだから、この福岡県の学校では生徒間のいじめも頻発していたらしい。しかしこの学校はこの数年間、いじめはなかったと教育委員会に報告していた。
昨年、571人もの未成年者(5歳〜19歳)が自殺している。しかし、文部科学省の統計では99年から7年間、いじめを主たる原因とする自殺件数は0だという。こうした臭いものに蓋をする事なかれ主義がいじめを蔓延させたのだろう。学校や教育委員会の社会的責任は重い。
しかし、マスコミが学校や加害者を一方的に批判し、その反動で自殺した子供にあまりに同情しすぎるのも問題である。たしかに自殺した子供たちは最大の被害者だが、報道をするにあたって、自殺予備軍といわれる大勢の子供たちに与える心理的影響も配慮すべきだろう。
この点で、今日の朝日新聞の「声」に、犬山市の関谷美津江(58)さんの、「自殺は罪です。報道も考えて」と題した投稿が掲載されていたが、一読して、たいへん共感した。一部を引用しよう。
<やはり、心配していたことが起こった。過剰な自殺報道による連鎖反応だ。いじめによる自殺がマスコミで連日取り上げられた時、自殺予備軍といわれる若者たちが、どんな気持でそれを視聴していたか>
<自分が死ねば、こんなにも世間が同情してくれるし、いじめたやつにも制裁が加えられる、と単純に考えるのも無理はない>
<苦しみから逃げるためにした自殺によって、一体、何人の人がそれ以上の苦しみをあじわうか。自分の命のみならず、他人の人生までどん底に陥れて、天国へなど行けるわけはない>
<くやしかったら生き延びてほしい。いじめのない社会をつくるために命をかけてほしい。救いを求めている人はたくさんいる>
たしかに、私たちはときには心を鬼にして、自殺するのは本人がまちがっている、自殺しては駄目だと大声で叫ぶ必要がある。死ぬなよ、コラ、人生から逃げるな、と叱りつけてやりたい。
あるいは、こんなふうに励ましてやりたい。人生は君が考えているよりもっと広大だし、いろいろな可能性があるんだよ。その可能性を自分で断ち切るなよ。死んだら終わりだ。だから絶対死ぬな!
大切なのは、「君たちのことは、私たちが命を賭けて守ってやる。だから君たちもがんばるんだ」という大人の側からの熱いメッセージだろう。このメッセージを彼等の孤独な心に是非とも届けてやりたいものだ。
2006年11月04日(土) |
だっこちゃんの思い出 |
小学校の頃、クラスに少し色の黒い可愛い少女がいた。私はちょっと好きだったのだが、このころ「だっこちゃん」が流行し、まもなくこの少女が「だっこちゃん」と言われていじめの標的になった。
いじめの中心にいるM君にはだれもさからえない。腕力が強いわけではないが、私たちのだれよりも頭がいいのだ。この明敏な頭脳をつかって、彼はクラスを巧妙に支配していた。
正直に告白すると、私はこの少女が好きだった。にもかかわらず、彼女がいたぶられ、泣いているのを見ても、助けようとはしなかった。もう少し正直に告白すると、それを観客の一人としてたのしんでさえいた。彼女がいじめられているところを見るのが、ある種の快感だった。そして私自身があるとき、彼女を「だっこちゃん」と呼んだ。
彼女はそれから学校を休むようになった。私は彼女が坐っていない机をみて、さびしかった。このとき、いじめに荷担したことを反省する気持がはじめて芽生えた。
ある日、担任の先生が私の家に来た。当時、私は学級委員だった。先生は彼女が学校に来なくなった理由を私に聞き、「先生も考えるが、君たちもなんとかしなさい」と言った。
このころから、私とMとの間にすきま風が吹き始めた。そしてやがていじめの矛先が私の方に向いてきた。学校からかえってきても、Mはいじめの手をゆるめようとはしなかった。私が家にいると、家の周りを彼の親衛隊が私の悪口をはやしながらまわる。耳を押さえてもだめだった。
こうしたいじめを、私は両親に告白しなかった。親や先生に助けを求めるのは「卑怯」だと思った。この問題は自分たちの問題だから、自分たちで解決しなければならないという思いがつよかった。M君の支配をどう切り崩したらいいのか。それには仲間をあつめ、クーデターをおこすしかない。
しかし、勝算があるわけではなく、その勇気がわかなかった。それで家出のまねごとをしたのだが、ある日、がまんができなくなって、級友たちに呼びかけて立ち上がった。そしてこのクーデターは一応成功した。
その後、M君にたくみに巻き返されはしたが、一時的にしろ私たちがクラスを民主化し、M君の専制支配を打倒した影響は大きかった。M君はその後再び支配者になっても、以前のような暴君にはならなかった。このことは、私に自信をあたえてくれた。
小浜に行くと、当時私たちがM君の専制支配打倒を誓ってあつまった小浜神社に足が向かう。この傍らに小浜城趾があり、その市街が一望できる石垣の高台で、私たちは反逆ののろしを上げた。少年時代のささやかな、それでいて大切な思い出だ。
この小浜神社の近くに、一緒にM君打倒に立ち上がったA君の家がある。2年ほど前に私はそこを訪れた。そして奥さんの出してくれたコーヒーを飲みながら、A君と当時の思い出話に花を咲かせた。
A君によると、M君の消息はわからないという。しかし、だっこちゃんはその後、中学校の先生になって、元気に自転車で走り回っているという。「もうすっかりおばさんだけどね」というA君の言葉に、私は思わず笑ってしまった。
いま、この世界に「いじめ」が蔓延しています。学校で、家庭で、そして職場で、多くの子供たちや大人達がつらい思いをしています。日本は今や「いじめ社会」と言ってもよいのではないでしょうか。
私たちはどうしたらこのいじめ地獄から脱出できるのでしょうか。この問題は「いかにしたら戦争をなくせるのか」という問題とも根底で繋がっているように思えます。
いじめや暴力の被害をうけたとき、まず考えることは「逃げよう」ということです。しかし、家庭や学校、職場といった狭い世界から、なかなか逃げることが出来ません。
私も小学生のとき「いじめ」を受けて、家出というかたちで逃亡を試みましたが、みごとに失敗しました。そこで、まあ、腹をきめて、「いじめ」に立ち向かうことにしました。
強者に立ち向かうには、弱者が連帯すればいいわけです。ひとりひとりは力が弱くても、団結すれば強いのです。このことを訴え、腹を割って話せば、みんなかならず力を貸してくれます。
こうして私たちは多数派を組織してクーデターを起こしました。これは私にとってとても貴重な体験になりました。逃げ出してばかりいないで、悪には勇気を持って立ち向かうことが必要です。そうした人間が増えれば、社会もよくなると思います。
チンパンジーは2匹が喧嘩をしたとき、3匹目が弱い方に味方するそうです。そうすると強者も2匹には勝てない。こうした方法で集団の平和を守っているわけです。だから、チンパンジーの世界にはいじめが存在しないという話を新聞で読んだことがあります。
悪に立ち向かうには「団結」が一番だと思います。次女の高校でも横暴な教師がいたので、「先生はそんなくだらないことしか言えないのですか」とその教師につめより、クラス全員でその教師の授業をボイコットしたそうです。それからその先生はとてもおとなしくなったそうです。
私の高校時代にも、横暴な体育教師がいました。風邪が流行していた真冬に雪の上で上半身裸で腕立てふせなどやらされました。あるとき、級友の一人が授業中に抗議して座り込みをしました。それをみた数人が、彼の傍らに坐りました。私も何番目かに座りました。
そのとき座り込んだのは6,7人でしたが、「業後、教官室に来い」と呼びつけられました。受験を控えた3年生ですから、教師に逆らうのはいろいろと不利益があるわけですが、そのときは抗議しないではいられなかったのです。
教官室で私たちはお小言をいただきましたが、最後は先生も「おれも配慮がたらなかったところはある」と言ってくれました。そしてそれからその先生の授業の様子が変わりました。
いじめの問題も、連帯して自分たちで解決していくという姿勢が一番大切だと思います。またそのような勇気のある人間を育てることが教育の目標であってほしいと思います。長いものにまかれて、弱者いじめを傍観したり、これに荷担する人間ばかりでは、世の中はよくなりません。理不尽な権力の横暴に負けてはいけないのだと思います。
2006年11月02日(木) |
いじめを生む競争社会の歪み |
新聞を開くと、いじめられて自殺した子供の記事が目につく。そして学校の対応が適切でないとして批判を受けている。教師をしていて、もっともつらいのがいじめだ。
私の長女も、次女もいじめを受けたことがある。特に次女は中学時代にとてもつらい体験をした。ストレスで髪の毛がちりじりになったことがある。
私も小学生のとき、いじめを受けた。クラスでいじめが絶えなかった。私は当時クラス委員をしていたが、いじめに荷担させられた。それを拒んだところ、いじめが始まった。
学校に行くのがいやで、ある日、家出をした。夜中に駅にいるところを警察に補導されて連れ戻されたが、両親に打ち明けることができなかった。その後、いじめられた級友たちと話し合って、親玉の少年を孤立させた。これは、ちょっとした民主革命のようなもので、今思い出しても小気味がよい。そのいきさつを「幼年時代」に書いておいた。
私の経験では、いじめられる方ばかりではなく、いじめる方も弱者の場合が多いようだ。そして、いじめた方にも心の傷が残る。だから単純にいじめる側を罰すればよいというものでもない。
いじめをなくすには、いじめを許さない雰囲気を作り出さなければならない。そのためにも、競争に勝つことよりも、お互いが助け合って生きることを優先させる社会を、みんなで協力して作り上げたいものだ。
2006年11月01日(水) |
履修漏れで校長が自殺 |
30日午後4時5分ごろ、茨木県大子町の山林で、茨木県立佐竹高校の高久一郎校長(58)が、ロープで首を吊って死んでいるのが見つかった。校長は29日午後に家をでたきり行方が分からなかった。付近の車から見つかった遺書には「許して下さい」「頑張ってください」などという文字が並んでいたという。
佐竹高校は26日に必修の2教科で履修漏れが見つかり、27日に生徒に経緯を話して謝罪した。自殺した30日には保護者説明会が予定されていたが、かわりに教頭が説明したという。校長が自殺したのは履修漏れを苦にしたのだろう。
文部科学省の発表では、単位不足が見込まれる公立高校3年生の総数は4万7千人を越えているという。学校数は4千校をこえている。この数は今後さらに増えるだろう。
履修漏れや裏カリキュラムのようなことは、大学受験で実績のあるいわゆる進学校ならほとんどやっている。そしてその実態は教育委員会も知っていたはずだ。しかし、これが不正であるという意識が乏しかった。「他がやっている以上、うちもやらないわけにはいかない」という対抗意識もあったことだろう。
私が20年ほど前に勤務していた県立高校では、必修クラブの時間に教科を教えていた。私はテニス部の顧問だったが、進路部長からテニスはいいので、物理の入試問題を解説してくれといわれ、理系の生徒をあつめて補習のようなことをしていた。
その成果もあってか、東大に2名ほど合格した。京大や名大、早稲田や慶応にも合格し、国公立大学だけで140名ほども合格し、校長も私たち教員も鼻高々だった。その年、校長は教育委員会の課長職、のちに部長職に栄転している。もっとも私自身はこうした教育に絶望して定時制に転勤した。
ほんらい学校は大学入試のための予備校ではないはずである。「よき市民を育てること」こそが公教育の本来の目標であろう。もちろん生徒の進路選択を考えた受験指導も必要だが、それがすべてではない。人間として円満に成長するためには、幅広い教養も必要である。受験に必要ないから、切り捨てるというのはどうだろう。
しかし、こうした理想は受験競争という現実の前でいかにも無力である。今回の履修漏れも、おそらく何らかの救済策がとられ、今後は必修科目の削減か柔軟な運用という方向に変わって行くに違いない。「受験」という壁があるかぎり、学校や教師はこの現実に妥協するしかない。人間教育という美しい理想を捨てずに教師を続けることは、今の日本ではなかなかむつかしい。
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