橋本裕の日記
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昨日は10時頃家を出て、妻の運転する車で名古屋にある妻の実家に行った。そこに長女がいた。「おかげで大学が卒業できました」と言うので、「よくがんばったね」と答えた。長女は看護師と保健婦の国家試験に両方とも合格して、ほっとしていた。今年は試験がむつかしく、大学の同級生がかなり落ちたという。私たちもほっとした。
広島大生の長女の彼氏が会社の面接試験を受けに名古屋に来ているということで、長女は私たちとお茶を飲んでから帰っていった。そのあと、妻と義父、義母、私の4人で近所の喫茶店に昼飯を食べに行った。
昼食の後、妻に車で瑞穂区にあるZ高校まで送ってもらった。私の新しい職場である。二階の職員室に入るとき緊張した。指折り数えてみると、14年ぶりの里帰りである。二人を除いて、あとは初対面の人ばかりだ。
2時から職員会議がはじまり、一人づつ自己紹介された。私も「I高校からきました。よろしくおねがいします」とだけ簡単に自己紹介して頭を下げた。周囲で拍手がおこり、和気藹々とした雰囲気で会議が始まった。
私は1年生の副担で分掌は教務である。さっそく時間割りの編制などを手伝った。女性は養護教諭を除くとひとりだけだった。I高校の職場では私は両隣も後ろ3人も女性ばかりで、すっかり囲まれていた。ずいぶんと様変わりである。
今度の転勤でまたI高校は女性の先生が増えた。「女性上位になるわね」という声が聞こえたので、「今でも充分女性上位だよ」と答えたことがあった。「そうね。かしましい女性ばかりに囲まれて、橋本先生はとくに大変でしたでしょう」と言うので、「いや、楽しいかったよ」と答えておいた。数日前にI高校の職員室で交わされたそんなやりとりをなつかしく思い出した。
5時になっても、だれも帰ろうとはしない。みんな忙しく働いている。私が腕時計に目をやっていると、「先生はもうお帰りになって下さい」と複数の人から声を掛けられた。「勤務時間は過ぎていますよ」「家が遠いのでしょう」といろいろと気を使ってくれる。言葉に甘えて、私一人が退出することにした。
地下鉄に乗る前に、実家の妻に電話をした。「今池」で降りると、妻が迎えに来ていた。車でそのまま一宮へ走った。途中、夕食にラーメンを食べた。そのあと長女のアパートに寄って、長女に貸していた車を妻が運転し、私は自分の車を運転して別々に帰った。
私が通勤に車を使わなくなるので、その車を妻に譲り、妻の車を次女に譲ることになっている。そして長女には新しい車を買うことになった。今日、妻の実家に行ったのは、その資金の一部を義父から借りるためである。義父から借りた金と私名義の定期預金を崩した金で長女の車を買う。そして、長女は毎月そのお金を私たちに返済することになっている。
妻が「これで扶養家族が一人減ったわね」と言うので、「まだ二人もいる。僕も扶養家族になりたいな。君が働きに出て、現場で旗振りをすればいいんだ」「おとうさん、がんばれって、旗をふってあげるわよ」と、そんな夫婦の会話が続いた。まだしばらく、現役を降りられそうになさそうだ。
2005年03月30日(水) |
子どもが育つ魔法の言葉 |
昨日のNHK「クローズアップ現代」は「親の心をつかんだ詩〜子育てを映し出す19行〜」と題して、ドロシー・ロー・ノルトさん著書の『子どもが育つ魔法の言葉』(ドロシー・ロー・ノルト著 PHP研究所 1999)とその中に収められた「子どもは親の鏡」という詩を紹介していた。以前、ここにも引用したが、これこそ子育て(教育)の神髄だと思われるので、原文とともにもう一度引用しておこう。
"Children Learn What They Live" by Dorothy Law Nolte 「子どもは親の鏡」 ドロシー・ロー・ノルト
If children live with criticism, they learn to condemn.
けなされて育つと、 子どもは、人をけなすようになる
If children live with hostility, they learn to fight.
とげとげした家庭で育つと、 子どもは、乱暴になる
If children live with fear, they learn to be apprehensive.
不安な気持で育てると、 子どもも不安になる
If children live with pity, they learn to feel sorry for themselves.
「かわいそうな子だ」と言って育てると、 子どもは、みじめな気持になる
If children live with ridicule, they learn to feel shy.
子どもをばかにすると、 引っ込み思案な子どもになる
If children live with jealousy, they learn to feel envy.
親が他人を羨んでばかりいると、 子どもも人を羨むようになる。
If children live with shame, they learn to feel guilty.
叱りつけてばかりいると、 子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう
If children live with encouragement, they learn confidence.
励ましてあげれば、 子どもは、自信を持つようになる
If children live with tolerance, they learn patience.
広い心で接すれば、 キレる子にはならない
If children live with praise, they learn appreciation.
誉めてあげれば、 子どもは、明るい子に育つ
If children live with acceptance, they learn to love.
愛してあげれば、 子どもは、人を愛することを学ぶ
If children live with approval, they learn to like themselves.
認めてあげれば、 子どもは、自分が好きになる
If children live with recognition, they learn it is good to have a goal.
見つめてあげれば、 子どもは、がんばり屋になる
If chilren live with sharing, they learn generosity.
分かち合うことを教えれば、 子どもは、思いやりを学ぶ
If children live with honesty, they learn truthfulness.
親が正直であれば、 子どもは、正直であることの大切さを知る
If children live with fairness, they learn justice.
子どもに公平であれば、 子どもは、正義感のある子に育つ
If children live with kindness and consideration, they learn respect.
やさしく思いやりをもって育てれば、 子どもは、やさしい子に育つ
If children live with security, they learn to have faith in themselves and in those about them.
安心できる家庭で育った子は、 自らを信じ、人をも信じられるようになる。
If children live with friendliness, they learn the world is a nice place in which to live.
和気あいあいとした家庭で育てば、 子どもは、この世はいいところだと思えるようになる
この詩が生まれたのは50年前、カリフォルニアに住む主婦、ドロシー・ロー・ノルトさんが地方紙のコラムに書いたものだという。日本では15年前に紹介されて以来、子育てに悩む若い母親たちを中心に、90年、2000年、そして今回と、3度のブームが起きている。
彼女の書いた「子どもが育つ魔法の言葉」は日本でも140万部をこえるベストセラーになり、先月末、皇太子さまも「批判ばかりされた子どもは非難することをおぼえる。激励を受けた子どもは自信をおぼえる。」の部分を引用された。
なぜこの詩は親たちの心をこれほどまでに掴むのか。番組では、作者ドロシー・ロー・ノルトさんのインタビューを交え、時代背景とともに、人気の秘密を解き明かしていた。現代という時代は、子育てに困難を極める時代だと言える。そうしたなかで、この詩に出会って、子育てを見直し、自信を得た母親達の実践が紹介されていた。
スタジオゲストの汐見稔幸(東京大学大学院教育学研究科・教授)さんが、「言葉の背後にある気持が大切なのではないでしょうか」と言っていたが、まさに「子は親の背中を見て育つ」ということだろう。なぜなら、そこに親の生きる姿勢が現れるからだ。子育てで奮戦している親や教師に読んでもらいたい詩である。
(参考サイト) http://www.geocities.jp/milkheart2004/milkheart4.htm
万葉集は私にとって「かけ算の出合い」だと書いたが、そのような出合いをもうひとつ上げるならば、それはこの「日記」だ。日記を書く習慣がなければ、私の人生は違うものになっていたに違いない。
書くことは人生を何倍も深く味わって体験することだ。書かなければ残らないものが形になり、私の中に根を張り、そして新しい人生を育てていく。旅から帰り、道中を追体験しながら書いていると、その感を深くする。
大伴家持は15歳の頃から歌を詠み始めた。彼が残した470首の歌もまた彼の人生を形作る栄養素だった。歌とともに彼の人生がゆたかになり、彼はまさに家持その人になった。とくに越中での5年間は彼にとって決定的だった。彼はこの時期に生涯の半数以上の歌を詠んでいる。
万葉集の最後の歌は、759年元旦、42歳の家持が詠んだものだ。それは彼が因幡の国司として、国郡司らを饗応した席での新年を言祝ぐ歌である。
新しき年の始めの初春の 今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと) (巻20−4516)
高岡市万葉歴史館の展示パネルのひとつに、万葉歌人たちの生存期間を一覧にしたものがあった。それを見ると、柿本人麻呂は大伴旅人や山上憶良よりも後に生まれて、早く死んでいる。もっとも旅人や憶良の歌はいずれも人麻呂の死後のものである。
また、家持の青年時代には、山辺赤人や高橋虫麻呂が活躍していた。盛んに宮中で和歌が詠まれ、和歌は詩文の中心にあった。しかし、家持が「初春の歌」を詠んだ759年になると、これらの歌人たちはもうこの世の人ではなかった。越中で友情を深めた大伴池主でさえ、謀反人として処刑されていた。
家持は68歳まで生きた。しかし晩年の26年間、彼の歌は一首も残っていない。なぜ歌を残さなかったのだろう。彼は「歌わぬ歌人」になったという説があるが、それでは何故彼ほど才能や実績のある歌人が歌を捨てたのだろう。
私はその理由が何となくわかる。和歌が輝きを持っていた時代が終焉を迎えていたのだ。もはや家持がどんなによい歌を詠んでも、だれもそれを評価できなかった。そうした孤独と逆境の中にあって、家持は万葉集を編纂し、これを後世に託したのだろう。
家持は死後、謀反の罪を着せられて官位や財産を剥奪されている。やがてその名誉は回復されたが、彼の歌が復権することはなかった。大正から昭和になって、彼の歌の文芸的な味わいや境地が人々に理解されるようになった。千数百年をへて、私たちの感性が、ようやく家持の後ろ髪をとらえたということだろう。
今日の起床は5時過ぎだった。いつもより2時間も遅い。しかし、充分寝たりたせいで、気分は爽快だった。一泊4000円のビジネスホテルだが、やわらかい羽布団だった。宿泊客も少ないようで、とても静かだ。フロントの女将さんも愛想がよい。
7時前に宿をでて、金沢駅のレストランでモーニングを食べた。コーヒーとバタートースト、サラダ、ゆで卵で480円。少し高いが、しかたがない。7:52に金沢発。高岡で氷見線に乗り換えた。途中海岸線の景色がよい。そのあたりが大伴家持が歌に詠んだ渋谷(雨晴し)海岸だった。
馬並めて いざうち行かな 渋谷の 清き磯みに よする波見に (巻19−3954)
磯の上の つままを見れば 根をはえて 年深からし 神さびにけり (巻19−4159)
渋谷を 指して我が行く この浜に 月夜飽きてむ 馬しばし停め (巻19−4206)
家持が眺めたであろう小島が沖に見える。そして遠く立山連峰の影。残念ながら雨の中にその輪郭はほとんど隠れている。能登半島の島影もどうようである。列車は海岸間際を走るので、晴れていれば絶景だろう。いつかふたたび来てみたい。
9:04に氷見着。すぐに折り返して、9:32伏木着。駅の観光案内所でパンフレットをもらった。大伴家持が29歳から34歳まで5年間を過ごした国司館跡まで歩いて10分で、伏木駅の正面の道が国府跡に建てられた勝興寺の参道になっている。途中左側の高台に家持の歌碑が建っていた。私の好きな「射水川」の歌が石碑に刻まれてあった。
朝床に 聞けば遙けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唱ふ舟人 (巻19−4150)
いまそこに伏木観測所が建っている。案内板の説明によれば、この高台に大伴家持の住居があったとのことだ。しばしそこに佇んで耳を澄ませてみたが、聞こえるのは傘にかかる春雨の音と、巷の低い物音だけだった。
射水川は今の小矢部川だという。しかし、家持の頃の川はその高台のすぐ下を流れていたという。これなら朝床に川音を聞き、舟人の唱う声も聞けたことだろう。現在はそこから川まで1キロメートルはあるだろう。背伸びをしても川面を視界に捉えることはできなかった。
勝興寺は国府の跡に作られた浄土真宗系の寺院である。家持に興味があったので、このお寺は素通りした。寺の隣が「かたかご幼稚園」である。家持の「かたかごの歌」からとった名前だろう。
万葉学者の犬養孝さんが特定した「寺井」の井戸が近くにあった。そこに犬養さんの書で家持の歌を刻んだ歌碑が建っていた。
物部の 八十乙女らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花 (19巻−4143)
「かたくりの花」という標識があったので、目を凝らした。それらしい葉が見えたが、花らしいものはどこにもなかった。通りがかりの人に聞くと、「早春の花といわれていますが、咲くのは遅くて、桜と同じ頃です」とのこと。
かたくりの花は見られなかったが、井戸の跡を眺め、犬養さんの歌碑を眺めていると感慨が迫ってきた。ようやくこの地に来たという思いがあふれてきた。雨の音まで、あたたかく心を潤してくれるようだ。
犬養さんは万葉集のなかでも「かたかごの歌」が一番好きだという。万葉集には約4500首の歌があり、家持の歌も470首ほどある。そうしたなかで、私もまた、ときとしてこの歌がいちばんよいと思うときがある。
私が万葉集が好きなったのは、大学生の頃NHKラジオで、犬養孝さんの連続講演「万葉の人々」を聞いてからだ。あれから30年がたったが、年輪を重ねるにつれ私はますます万葉の歌が好きになった。そして朝夕に万葉の歌を朗唱し、旅をし、文章を書いている。
万葉集との出会いは「かけ算の出会い」である。100が101になり、102になるのが「足し算の出会い」なら、100が200、300になるのが「かけ算の出会い」である。万葉集と出会うことで、人生観は変わり、私の人生は2倍も3倍も豊かになった。
犬養さんの「かたがごの碑」をあとにして、私は案内所でもらった地図をたよりに二上山のほうに歩いた。二上山は家持が何度も訪れ、歌にも詠んだ山だ。その山のふもとに、高岡市万葉歴史館があった。
入場料210円と安かったが、広い敷地に立派な施設が立っていて、大伴家持を中心にした万葉集の解説や展示が充実していた。犬養孝さんは亡くなるまでここの名誉館長だったという。碑の原本になった「かたかご」の直筆の色紙も展示してあった。
歴史館の屋上や内庭には、さまざまな万葉集ゆかりの植物が植えられていた。梅や椿の花が咲いている。そして、その一画に、かたくりの花が植えらていた。胸騒ぎを覚えて近づいてみた。
そこに紫だったピンクの花びらが二輪ほど雨に濡れそぼっていた。とうとう、私はかたかごの花にであったのだ。その可憐な姿を心に焼き付けて、私は快い感動にひたりながら、この北国の万葉の故地をあとにした。
昨日は11:39に福井着。ヨーロッパ軒で昼食をすました後、しばらく実家の近くの公園で時間を潰してから実家に寄った。食事中だと悪いからね。玄関をあけて「こんにちは」というと、「まあ、あなた、よくきたわね」と母が相好を崩して私を迎えてくれた。
あいにく弟は外出中だったが、弟の嫁さんもいて、母と一緒に次女の成人式の写真やタイ旅行の写真を見てもらった。そうして2時間ほどよもやま話をしたあと、福井駅に向かった。
予定どうり、15:40福井発。17:03金沢着。金沢駅ビルの中にある「サンライズ」という店に入って、ミックス丼を食べた。カツとエビが両方はいって800円だった。うまかった。そのあとホテルまで10分ほど歩いた。チェックインして身軽になったところで、夜の金沢の街を散歩した。
武蔵が辻を通り、香林坊まで30分ほどだった。犀川大橋まで行って、引き返した。週末ということで、夜の街角にはカップルの姿が目立った。ファッショナブルな若い女性の幸福そうな姿をみていると、何だか生きているのが楽しくなる。見ているだけで満足できるのは、年輪と修練のせいだろう。お金がなくても、人生はいくらでも楽しめる。9時近くにホテルに戻り、そのままぐっすり眠った。
今日は4時過ぎに起床。朝の読書をしたあと、朝7時にホテルを出て、金沢駅まで歩いた。駅前のホテルで朝食バイキングをしていたので、そこにはいることにした。千円は少し高いと思ったが、今日は一日歩くことになるので、朝をしっかり食べておこうと思った。昼の分も食べるつもりで、あるだけたらふく食べた。
駅前から浅野川まで約4キロメートルを1時間ほどかけて歩いた。途中武蔵が辻を通り、近江市場の前を通る。大学時代、私はその辺りを朝刊と夕刊を配っていた。30年ほど前に名古屋に引っ越すときに大量に蔵書を持ち込んだ古本屋も残っていてなつかしかった。浅野川のほとりを歩き、かって大学のあった城跡に行った。
うらうらと照れる春日に金沢を ひとり歩けり思い出の道
金沢の清きながれよ浅野川 せせらぎ聴きて若き日想ふ
城跡の丘にのぼれば白き山 青き山見ゆふるさとの街
そのあと、犀川まで歩いた。かって私がしたように河原に寝ころんで瀬音を聞いた。空はよく晴れていて、雲ひとつない。春の陽射しはやはらかく、ややひんやりした川風も、歩いて汗ばんだ私の頬や首筋には気持がよい。
ふと、こんなことを思った。なぜ、旅をしたくなるのか。それは一人旅が私を詩人にしてくれるからだ。日常の生活の中で枯渇していた詩心を甦らせ、私の胸を清らかな流れで潤してくれるからだ。そうすると新しい命が甦り、世の中が違って見える。小鳥の鳴く声や、風の音まで違って聞こえてくる。
スーパーでパンと牛乳を買って、桜橋を渡り、街が一望できる対岸の高台のベンチで食べた。民家の瓦屋根やビルの向こうに城跡や兼六園の森が見え、さらに卯辰山、そしてそのむこうに雪山がみえた。大学生の私はこの景色を毎朝眺めなら通学していたわけだ。
その通学路を何十年振りかに歩いた。やがて神社が見てきた。その前に、私が金沢に来て2年間下宿していた家がある。外装は変わっていたが家はそのまま残っていた。表札もそのままだった。てぶらでやってきたので挨拶はしないでそのまま引き返した。
そのあとバスで金沢駅まできて、北鉄電鉄に乗り換えて、内灘へ行った。アカシア林だったところが住宅街になり、むかしの風情はない。海にはヨットが浮かび、海岸は若いサーファーたちで溢れていた。金沢で一番変わったのは、この海かも知れない。夕日が海に落ちるのをのんびり眺めるつもりだったが、予定をかなり早めて、内灘を後にした。
タイ旅行をして懐が寂しかったが、11500円の青春切符を買った。そして今日から、2泊3日で福井・金沢・高岡へ行くことにした。
7:49に木曽川発。米原、敦賀で乗り換えて、11:39に福井着。ヨーロッパ軒で昼食をすました後、実家に寄る。正月に帰れなかったので、母や弟一家の無事な顔を見ておきたい。タイ旅行の写真を見て貰おうと思う。
15:40福井発。17:03金沢着。香林坊で夕飯を食べる。そして金沢の夜も街を徘徊する。もっとも懐が寂しいので、ただひたすら徘徊するだけ。疲れたところでホテルへ。ホテルは金沢駅から歩いて10分のところ。一泊4000円のビジネスホテルである。インターネットですでに2泊分予約がしてある。
2日目は終日金沢で自由行動。3日目は7:52に金沢発。高岡で乗り換えて、9:04に氷見着。ついたら直ぐに折り返し9:16氷見発。9:32伏木着。伏木駅から歩いて直ぐのところに、大伴家持がいた越中の国府跡がある。
もののふの やそ乙女らが 汲みまがふ 寺井の上の かたかごの花 (万葉集4143)
(大勢の乙女らが寺の井戸に水を汲みにきて、忙しく働きながら、快活におしゃべりをしている。その井戸のまわりに咲いているかたくりの花の何と清楚で美しいことよ)
かたくりの花は咲いているだろうか。咲いていてくれるとありがたいのだが・・・。実は、ここを訪れることが、今回の旅のメインテーマである。いよいよ4月から、「小説・大伴家持」をHPに連載しようかと思っている。そのための取材である。
12:26伏木発。高岡、金沢、福井、敦賀、米原、岐阜で乗り換えて、18:47木曽川着の予定である。気儘な一人旅なので、予定変更があるかもしれない。帰ってきてから、2日分の日記を掲載しようと思う。
青春切符でもう一つ気儘な日帰りの旅をして、残りの2枚は、長女にやろうと思っている。長女は昨日無事大学を卒業した。2年も留年した父親とくらべると優秀である。そして4月からはいよいよ社会人だ。28歳で社会人になった父と比べると、これもなかなかよろしい。
10年ほど前まで、花粉症で苦しんでいた。くしゃみ鼻水がとまらず、朝起きると、枕元がティシュのやまになっていた。そして、目やにで睫毛がくっついて、目があけられなかった。病院で薬を貰い、何とかこの陰鬱な季節をしのいでいたものだ。
それがプールに通うようになって、劇的におさまった。花粉症は一度発症したら治らないといわれているが、私の場合はほぼ完璧になおってしまった。だから、花粉症で苦しんでいる人がいると、「プールへ行きなさい」とアドバイスしていた。
もっとも、私の場合、クロールを練習中に何度もプールでおぼれかけ、塩素で消毒された汚い温水をそのたびに鼻から喉に流し込み、むせかえったものだ。こうした荒療治によって、鼻や喉の粘膜が鍛えられたのだろう。
花粉症の症状がすっかり影をひそめただけではなく、風邪もひかなくなった。毎月のように扁桃腺を腫らし、口内炎を患っていたのに、この10年間はそれもなくなった。風邪をひいて発熱したり、病院に行くことは皆無になった。これは水泳によって皮膚や粘膜が鍛えられたためだろう。すっかり体質がかわってしまったわけだ。同時に体がひきしまり、ズボンの腰にゆとりができた。
しかし、よいことばかりではなかった。プールに通いだしてから皮膚が痒くなり、炎症を起こしやすくなった。足に水痘ができて治らないので、皮膚科に通ったがだめだった。ところが泳ぐのを止めたところ、こうした症状ははすぐにおさまった。
プールには3年間ほど通っただけだが、花粉症はその後も抑えられていた。ところが今年はくしゃみ、鼻水、目のかゆみがある。あきらかに花粉症が再発したようだ。二人の娘も妻もそうだというから、これでわが家は全滅である。
現在は娘が病院で貰ってきた目薬で何とかしのいでいる。再発したといっても以前のレベルからいえば大したことではない。やはりプールで粘膜を鍛えた遺産はまだ残っているのだろう。それとも年をとって、免疫反応が鈍くなっただけなのだろうか。
今年は花粉の量が桁違いに多いようだ。花粉症の原因は大気汚染と花粉だろうが、体質的なこともかかわっている。4月に夜間高校に転勤したら、午前中は奥方と一緒に、近所の温水プールに通うことにしよう。これで再び花粉症を押さえ、肥満と高血圧も退治したい。
政治評論家の森田実氏がHPに連載している「時代を斬る」を愛読している。彼は「歴史は繰り返すのか ――永井荷風『断腸亭日乗』に学ぶ 」と題した文章でこう書いている。
<戦前は、日本の国民と政治家は軍部に従順に従いました。いまは小泉首相を先頭にしてブッシュ政権に従順に追随しています。戦前は軍部が天皇の名で国民を引っ張りました。現代はブッシュ政権が小泉首相の名で日本国民を引っ張っています。国民が従順すぎると戦前と同じことが繰り返されることを荷風の日記は教えています>
引用されてている永井荷風の戦前・戦中の日記は読んでいて参考になった。たしかに昭和の初めの雰囲気は、現代の日本を彷彿とさせるものがある。森田さんの文章から孫引きさせていただこう。
「昭和4(1929)年10月18日。昭和現代の世はさながら天保新政の江戸を見るが如く官権万能にして人民の從順なること驚くに堪えたり。時勢の如何を論ぜず節約勤倹の令は固より可なり。然れども婦女服飾の如きはけだし末端の甚だしきものにして国家富強の直に基因する所はその他にあり。何ぞや、国民の気概と政治家の良心とにあり」
「昭和7(1932)年2月11日。早朝より花火の響きこえ、ラジオの唱歌騒然たるは紀元節なればなるべし。去秋満洲事変起りてより世間の風潮再び軍国主義の臭味を帯びること益々甚だしくなれるが如し」
「昭和7(1932)年5月15日。五時半頃陸海軍の士官五、六名首相官邸に乱入し犬養を射殺せしといふ。……如何なるわけあるにや。近頃頻に暗殺の行はるること維新前後の時に劣らず。然れども凶漢は大抵政党の壮士または血気の書生らにして、今回の如く軍人の共謀によりしものは、明治12年竹橋騒動以后かつて見ざりし珍事なり。或人曰く今回軍人の兇行は伊太利阿国に行はるるファシズムの模倣なり。我国現代の社会的事件は大小となく西洋模倣に因らざるはなし」
「昭和11(1936)年2月14日。日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり。政党の腐敗も軍人の暴走もこれを要するに一般国民の自覺の乏しきに起するなり。個人の覺醒せざるがために起ることなり。然りしかうして個人の覺醒は将来においてもこれを到底望むべからざる事なるべし」
「昭和11(1936)年4月10日。新聞の雑報には連日血腥きことばかりなり。(中略)現代の日本人は自分の気に入らぬ事あり、また自分の思うやうにならぬ事あれば、直に凶器を振って人を殺しおのれも死する事を名誉となせるが如し」
「昭和12(1937)年8月24日。余この頃東京住民の生活を見るに、彼らはその生活について相応に満足と喜悦を覺ゆるものの如く、軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず、むしろこれを喜べるが如き状況なり」
「昭和15(1940)年9月20日。午後文士中江与一来りて雑誌の原稿を請ふ。時勢の変遷を何とも感ぜざる人間世にはなほ多しと見ゆ。鈍感むしろ羨むべきなり」
「昭和15(1940)年10月15日。この頃は夕餉の折にも夕刊新聞を手にする心なくなりたり。時局迎合の記事論説読むに堪えず」
「昭和17(1942)年正月元日。郵便受付箱に新年の賀状一枚もなきは法令のためなるべし。人民の從順驚くべく悲しむべし。野間五造翁ひとり賀正と印刷せし葉書を寄せられる。翁今なほ健在にて旧習を改めず。喜ぶべきなり」
「昭和18(1943)年6月25日。近年軍人政府の為す所見るに事の大小に関せず愚劣野卑にして国家的品位を保つもの殆なし。歴史ありて以来時として種々野蛮なる国家の存在せしことありしかど、現代日本の如き低劣滑稽なる政治の行はれしことはいまだかつて一たびもその例なかりけり。かくの如き国家と政府の行末はいかになるべきにや」
「昭和18(1943)年12月31日。今秋国民兵召集以来軍人専制政治の害毒いよいよ社会の各方面に波及するに至れり。親は四十四、五才にて祖先伝来の家業を失ひて職工となり、その子は十六、七才より学業をすて職工より兵卒となりて戦地に死し、母は食物もなく幼児の養育に苦しむ。国を挙げて各人皆重税の負担に堪えざらむとす。今は勝敗を問わず唯一日も早く戦争の終結をまつのみなり」
「昭和21(1946)年4月28日。現代の日本人は戦敗を口実となし事に勤むるを好まず。改善進歩の何たるかを忘るに至れるなり。日本の社会は根柢より堕落腐敗しはじめしなり。(中略)その原因は何ぞ。日本の文教は古今を通じて皆他国より借来たりしものなるがためなるべし。支那の儒学も両洋の文化も日本人は唯その皮相を学びしに過ぎず。遂にこれを咀嚼すること能はざりしなり」
森田さんの「時代を斬る」とならんで、私が目を通すのが、ビル・トッテンさんの「温故知新」である。3/17の「発言の自由奪う米の詭弁」を読むと、ブッシュ二世政権のもとで、アメリカ言論界もまた危機的な状況にあることがわかる。
たとえば、アメリカ先住民の血をひくコロラド大学教授のワード・チャーチル氏が、最近の論文で、「九月十一日の攻撃は米国の外交政策によって引き起こされた」というテーマで書いところ、彼の講演会はキャンセルされ、コロラド大学は教授の懲戒免職の可能性について審議しはじめたという。これについて、ビル・トッテンさんは「私も論文を読んだがなぜそれほど批判されるのか理解できなかった」と書いている。
<二期目の就任演説でブッシュ大統領がもっとも強調したことは「自由の拡大」であり、演説では「自由」(フリーダム、リバティ)という言葉を四十二回も繰り返した。自由という言葉はたしかに魅力的だ。しかし今の米国をみると、支配者たちだけが自由にふるまえるような世界を作ることが目的のように思える。
世界に自由を広げようというブッシュの言葉とは裏腹に、米国内では言論の自由が危うくなっている。多くの米国人は、言論の自由が守られることには賛成だが、その内容が自分の考えと異なって不快な場合は別だと思っているらしい。このために政府の見解やメディアが喧伝(けんでん)している内容と異なる意見をおおやけに発表するとたちまち検閲にひっかかるというのが今の米国で、言論の自由は政府に逆らわないということが前提条件のようだ>
こうしたアメリカの状況もまた日本同様に、永井荷風が日記の中で書いた昭和初年から10年代に非常に似ているのではないかと思った。ビル・トッテンさんの「温故知新」は次のサイトで全文を読むことができる。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/column/tisin/tisin0503.html#17
3月は転勤の季節である。私も7年間務めたI高校を離れることになった。転勤先は名古屋市内にあるZ高校の夜間定時制である。実は、20年ほど前に私はZ高校の夜間定時制に8年間勤務していた。古巣に戻るわけだ。
以前勤務していたときは、私も30代の若さで、長女がまだ赤ん坊の頃だった。やがて、次女が生まれた。夜間定時制だから昼間たっぷり時間があった。二人をつれて公園に行ったり、風呂に入れるのも私の役目だった。
長女が小学校に通うようになって、全日制の高校に転勤した。そうしないと、子供たちとすれ違いになってしまう。今度、夜間高校に転勤を希望したのは、二人の娘が成人したからだ。父親の役目はこれでほとんど終わりである。あとは、自分自身のために生きようと思った。
最後の教員生活を夜間定時制でというのが私の人生設計だった。そしてできたら、なつかしい思い出のいっぱいつまったZ高校の夜間定時制にもどりたいというのが私の願いだった。今回の転勤はそうした意味で、たいへんありがたかった。
昨日はそのZ高校に行って来た。少し早く着いたので、学校の前の「スリム」という喫茶店にはいった。20年以上前からある店で、ママの顔にも見覚えがあった。少し前まで、Z高校定時制で給食の手伝いをしていたというので、 「最近の生徒はどう?」ときいてみると、 「見かけはひどいけどね、みんなやさしくていい子だよ」 という返事だった。少し安心した。
定刻10分前に学校の会議室に入っていくと、 「橋本先生、おひさしぶり」 と立ちあがって挨拶する人がいた。前任校のS高校で一緒だった社会科のK先生だった。聞くと、県教委に3年間いて、今度定時制へ教頭で来るのだという。私の直接の上司になるわけだ。「ご栄転、おめでとう」と若い彼の出世を祝福しておいた。
20年前は1、2年は3クラス、3、4年は2クラスずつ、全部で10クラスあったが、現在は、1,2年が2クラス、3,4年が1クラスで全6クラスと、かなりスリムになっている。しかし、県下の定時制としては充実している方かも知れない。正規の教員も15名ほどいるようだ。定時制職員室も、隣の休憩室も昔のままだった。
現在の教頭から、「1年間、副担任で、様子をみてください」といわれた。現任校でもそうだが、20年前にZ高校定時制に来たときもいきなりの担任で、学年主任もふくめて8年間担任ばかりだった。副担でよいということは、職場に人材がないわけでもなさそうだ。これもありがたかった。
2005年03月22日(火) |
ドロシー・ロー・ホルトの詩 |
昨日は部活の練習日だったが、あまりによいお天気だったので、部活の方はコーチのS先生にまかせて、私は妻と各務原市にある蔭平山に遊びに行った。途中、カモやアヒルのいる池に寄って、食パンをやったあと、ハイキングがてら山頂を目差した。
駐車場から山頂まで、ゆっくり歩いて40分ほどである。頂上の展望台に上がると、雪の残る御嶽山や伊吹山がきれいに見えた。そして眼下には木曽川や犬山城も見える。名古屋駅前にあるツインタワーもはるかに霞んで見えた。
小学生の子どもが展望台に上がってきて、あとからやってくる家族ほうに声を掛けている。「おとうさん、3等賞。おばあちゃんがんばれ、このままだと6等賞だよ。びりになったちゃうよ」 はじめは微笑みながら聞いていたが、あまりやかましいので鬱陶しくなった。
せっかくよい景色があるのだから、周囲を眺めてごらんと言いたくなった。むかし、「あそこまで、どっちが早いか競争しよう」と、何でも競争しないと気が済まない友人がいたが、彼と遊んでいても少しも楽しくなかったものだ。 何でも競争して、相手に勝ちたいと思うのは、学校や家庭でそのような「条件付け教育」がなされているからだろう。そうした「悪しき条件付け」の呪縛から自由になることはむつかしい。幼い頃に植え付けられた強迫観念はなかなか抜けないからだ。教育の恐ろしいところである。
皇太子浩宮さんが、2月23日の誕生日にスエーデンの教科書に引用されている「こども」という詩を紹介していた。北さんの雑記帳にその詩の全文が引用されている。大変いい詩だと思うので、ここに孫引きさせてもらうことにする。
こども ドロシー・ロー・ホルト
批判ばかりされた 子どもは 非難することを おぼえる
殴られて大きくなった 子どもは 力にたよることを おぼえる
笑いものにされた 子どもは ものを言わずにいることを おぼえる
皮肉にさらされた 子どもは 鈍い良心の もちぬしとなる
しかし
激励をうけた 子どもは 自信を おぼえる
寛容にであった 子どもは 忍耐を おぼえる
賞賛をうけた 子どもは 評価することを おぼえる
フェアプレーを経験した 子どもは 公正を おぼえる
友情を知る 子どもは 親切を おぼえる
安心を経験した 子どもは 信頼を おぼえる
可愛がられ 抱きしめられた 子どもは 世界中の愛情を 感じとることを おぼえる
昨日は妻と湖北をドライブした。青春切符の旅も考えたが、今回は車にした。高速道路はつかわず、2時間半ほどかけて湖北の今津まで行った。そこでレンタサイクルに乗りかえ、湖岸のサイクリングロードを湖面に浮かぶ水鳥を眺めながら二人で走った。
途中で自転車を降りて、持参した食パンをちぎって鳥達にやったが、湖面に浮かんでいる水鳥たちは私たちを見て一斉に逃げ出した。琵琶湖の水鳥は警戒心がつよいのだろうか、それとも餌が足りているのだろうか。
しかたがないので、食パンをちぎるのをやめて、自転車に戻り掛けたとき、ユリカモメがどこからか現れて、浜辺に落ちたパンくずを食べ始めた。その数が、二羽、三羽と多くなってきた。私たちは残った食パンを彼等にやることにした。
ふたたび食パンをちぎって投げると、その数は一気に30羽ほどに増えて、空を覆うほどになり、鳴き声が私たちの周りでこだました。驚いたのは途中から、この乱舞に鳶が加わり始めたことだった。
鳶の数も二羽、三羽と増え始め、しかもユリカモメと争うようにしてパンを奪っていく。これまでもユリカモメにパンをやっていて鳶が現れたことはあったが、パンを奪っていくことはなかった。餌がパンだと知ると去っていくのが常だったが、この日の鳶は違っていた。
やがて手持ちの食パンがなくなり、私たちは自転車に戻った。鳶がまだ5,6羽、私たちの上空を舞っていた。 「ユリカモメからパンを奪うなんて、鳶もよほど餌に餓えているのかな」 近くに食料品店がないか探したが、それらしい店が見当たらない。
今津駅まで引き返し、ひとまず自転車を返してから、車で平和堂へ行った。そこで、食パンの他、鳶の好きそうな皮付きの鶏肉やちくわ買い込んだ。そして再び、さきほどの湖岸に来た。
まず食パンをやりはじめると、ふたたびユリカゴメが寄ってきた。そして10分ほどもすると鳶が二羽、三羽とやってきた。そこで、ちくわと鶏肉を与え始めると、鳶の数は一気に増え始めた。毎年正月には庄内川でユリカモメに餌をやっているので、ユリカモメの乱舞は珍しくはないが、こんなに多くの鳶があつまるのを見るのははじめてである。
ユリカモメが鳶に怯えて沖合に退散し、鳶ばかりが20羽ほどけたたましく乱舞している。その光景は壮観で、私も妻も興奮しながら餌を与え続けた。空の上に餌を放り投げるので腕が痛くなった。とうとう餌もなくなり、「あぶらあげも買えばよかった」などと言いながら、私たちは鳶の群れに別れを告げて車にもどった。
そのあと、車で新旭町針江地区へ行った。私は今年に入って1月6日にここをレンタサイクルで訪れている。私たちは町外れに車を置いて、少し歩いてみた。家々の前を水がながれ、その清流に鯉や小魚たちの姿があった。いのちのあふれる様子が、かって私たちのまわりにもあったゆたかな暮らしを思い出させてくれた。
妻と二人で歩いていると、自転車に乗った地元の少年が「こんにちは」と元気な声を掛けて通り過ぎた。私たちも「こんにちは」と答えた。見知らぬ旅の者に気軽に声をかけてくれた少年の後ろ姿がとてもさわやかだった。
付近の山肌にはまだ雪が残っていた。町や村の辻にも雪の固まりがあった。しかし、あと一ヶ月もすると、湖北にも春がやってきて、桜も満開になるという。そこのろ、再びこの地を訪れたいと思った。
毎年、大学入試センター受験者の受験生の自己採点結果をもとに、ベネッセコーポレーションと駿河台予備校が都道府県ごとの平均点を計算している。この順位が低いと、県議会で追求される。たとえば、3月3日の島根県議会では自由民主党の山根議員が次のように質問している。
「この成績はこれまで本県の教育がいかに行われてきたか、検証、評価する大きな指標とすべきであると考えるものであります。このことを放置すれば、安心な学校への県民の信頼を損ねるだけであります。この残念な結果を知事並びに教育長はどのように受け止められているのか、お考えをお聞かせいただきたいと思います」
知事や教育長は、各県によって資料の提出状況に違いが見られ、必ずしもこの統計が教育水準を正確に表しているといえないとしながらも、「結果は結果としてそれは素直に受け止める、それは必要なことだと思います」と答えている。島根県に限らず、他の都道府県でもこの数字をめぐって様々な動きがあったようだ。
福井県教委はこの順位を上げるため、「推薦合格が決まった生徒は極力受験させない」「推薦が決まった生徒の受験結果は極力出さない」ことを決めて、各高校に通達していたという。この結果、福井県の全国順位は昨年度の25位から20位に向上した。
私の学校の場合、50名近くが受験したが、その大半は推薦入試で合格した生徒だった。入試のためではなく、大学入学後を考えて、学力を向上させる動機付けとして受験を奨励している。私のクラスからも4人受験したが、3人は推薦入試合格者たちだった。そうした生徒達の得点は低かったが、資料提供には応じている。愛知県の場合、福井県のような通達はなかったのだろう。
県別の平均点を上げるため、推薦入試合格者の受験を制限したり、また、その結果を報告しないというのは、県単位ばかりではなく、学校単位でも自主的に行われているのではないかと思う。今後、学校評価制度が整って来るにしたがい、こうした動きが加速されるかも知れない。
アメリカの場合、全国統一テストが実施されている。これによって、各州、各学校での平均点が公表され、それぞれの教育機関の評価付けが行われているようだ。これは一見合理的なシステムのようだが、これもどこまで正確な統計か疑問視されている。
というのも、各教育機関は成績を上げるのに熱心なあまり、校長自らカンニングを奨励したり、数値の改竄をしているケースが多いからだ。この結果、生徒の間ではカンニングが常態化していると、かって朝日新聞が報じていた。
私が以前勤務していた進学校の場合も、進学塾の統一模試を行う場合、教科によっては事前にその問題を見て、生徒にその内容を教える場合があった。これをやりすぎて、その教科の平均点が異常に高くなり、他校から問い合わせがきたこともある。
また、私が新任の頃は、ベテランの教師が私のクラスの平均点を見て、もう一度自分のクラスの答案を回収し、採点をしなおして、何が何でも自分のクラスの平均点を上げようと操作したのを目撃したこともある。評価にこだわると、こうしたおかしなことがどうしても生じてくる。
こうした教育環境の中に置かれた教師も気の毒だが、生徒達もまた気の毒である。平均点を競い合い、順位を付けることにどんな意味があるのだろうか。教育とは「善く生きる力をつけること」でなければならないが、今の教育には、この「善く」という観点がすっかり抜け落ちている。
バンコクの市場を歩いていて気付いたことがある。それはタイの人々はみんなスリムだということだ。若い女性などほれぼれするほどプロポーションがよい。これは都会だけではなく、田舎でもそうだ。男も女も見事に贅肉がない。
日本に帰ってきて写真を眺め、自分の体躯の醜さに呆然とした。なんというお腹のふくらみだろう。こんな恥かしい姿をして、私はバンコクの街を歩き、神殿や寺院を訪れていたのかと思うとかなしくなる。
私がこんな情けない姿になったのは、日本という恵まれた環境で暖衣飽食していたからだろう。体躯のたるみは精神のゆるみであり、その醜さはおそらく私の日記の文体にも現れていることだろう。
タイ旅行で得た認識の一つが、この苦い自己認識であった。今後数年間かけて、私は自分の肉体を改造したいと思う。といって三島由紀夫のようにボディ・ビルをはじめようと言うのではない。労働と粗食によって、タイの田舎でであった農夫のような、もっと自然な精悍さを得たいと思う。
さて、三島由紀夫の「暁の寺」は後半、戦後の日本が舞台だ。月光姫ジン・ジャンと出会った本多は、軽井沢の自分の別荘に彼女を招待する。別荘にはプールが作られてある。そこに水着姿のジン・ジャンが現れる。
<ジン・ジャンの体は本多のすぐかたわらに息づいていた。息づいているばかりか、夏を迎えて、或る病気の感染に格別応じやすい体のように、指の爪先まですでに夏に染まっていた。その肉の輝きは、合歓の影深い市で売られているタイの奇異な果物の輝きであり、それは熟れ、時を迎えた、一つの成就、一つの約束としての裸身であった。
思えば本多はこの裸を、七つのときから十二年ぶりに見るのである。今も目に残るあの稚ないやや大きすぎる子供らしい腹は小さくすぼみ、あの平たかった小さな胸は反対にふくよかにひろがった。
丁度ジン・ジャンはプールの喧噪に気をとられて卓へ背を向けていたので、その水着の背中の紐が、項で結ばれてから左右へ落ちて腰につながる間の、あらわな背中の正しい流麗な溝が、尻の割れ目へとひたすら落ちて、割れ目のすぐ上の尾てい骨のところでその落下がつかのま憩らう、小さなひそやかな滝壺のような部分さえ、窺い見ることができた。・・・
実に肌理のこまかい肌を、パラソルが、影と日向に仕切っている。影のなかの片腕はブロンズのようであるが、日にあらわれた片腕から肩は、磨き上げられた花櫚(かりん)の肌のようである。その肌理のこまかさは、徒に外気や水をはじくのではなくて、琥珀色の蘭の花弁のように潤うている。遠目に繊細に見える骨格も、近くでは実に小ぶりに整っていた>
本多は書斎の隣りの寝室にジン・ジャンと慶子を泊める。そして書斎の書棚に仕組まれた隠し穴から、二人の女のむつみあう様子を盗み見る。
<しかと声はきこえぬが、歓びとも悲しみともつかない歔欷が全身にゆきわたり、今は共々相手から見捨てられている乳房が、光りの方へあどけなく乳首を向けていながら、ときどき稲妻に触れたように慄へた。
その乳暈にこもる夜の深さ、その乳房をおののかせている逸楽の遠さは、肉体の各部各部がなお狂おしいほどの孤独に置かれていることを示していた。もっと近く、もっと蜜に、もっとお互いに融け入りたいとあせりながら果たさず、ずっと彼方で、赤く染めた慶子の足の指が、一本一本の指の股をひらいたり閉じたりして、まるで熱い鉄板を踏んだように指は踊っているのに、それが結局、空しい薄明の空間を踏みしだくことにしかならないでいた。・・・
ジン・ジャンの腋はあらわになった。左の乳首よりさらに左方、今まで腕に隠されていたところに、夕映えの残光を含んで暮れかかる空のような褐色の肌に、昴を思わせる三つのきわめて小さな黒子が歴々とあらわれていた>
タイの街角で、何人かの月光姫ジン・ジャンに出会った。彼女たちは街角に咲いている蘭の花のように美しかった。私は旅のみちすがら、彼女たちの清楚なブラウスの胸をさりげなく眺め、彼女たちがその肉体に刻んでいる出生の秘密について、いささか他愛のない空想をたのしんだ。
バンパイン宮殿は1632年に、アユタヤ王朝26代プラサート・トン王がチャオプラヤ川の中州に離宮を建てたのが始まりだという。1767年に王朝は滅びるが、バンコク王朝のラマ4世が再建し、ラマ5世にいたって多くの建物が完成した。
西洋風の迎賓館やタイ様式の宮殿、さらに中国様式の宮殿など、東西の文化の粋を集めた建築物が水辺に配置されて美を競っている。敷地の中央にそびえるポルトガル様式の塔は天文台で、王はここで星を観測し、国の運勢を占った。
なかでも美しいのが、池の中に浮かぶタイ様式の宮殿である。もっともこれは宮殿と言うより、小閣といったほうがいいのだろう。その繊細なたたずまいが何か可憐な少女の水浴する姿を連想させる。三島由紀夫の「暁の寺」から引用しよう。
<なかんずく美しいのは、ひろい人工的な形の池の中央にある浮御堂で、あたかも精巧な工芸品を水上に置いたかのようである。水に臨む石階が、水嵩の増すにつれて犯されて、その階の末は澱みの底に隠れて見えず、水中に見える段は白い大理石が水苔の緑に染まり、藻さえまつわって、こまかい銀の水泡に覆われている。・・・
それは実は浮御堂ではなくて、単に、舟あそびの小憩に使われたものらしい。四方から透かし見られるこの小閣は、やや褪せた樺いろの帷を風にふくらませているが、その帷の内にのぞかれるのは、何もない小間だけだからである。・・・
その小閣を見ていたときにそう思ったのか、あるいはあとで思い出しらとき、月光姫の姿とその小閣がいつともしれずまざり合っていたのかは知れないが、本多の脳裏にいつまでも残っている池中の閣は、ごく細身の黒地の柱が黒檀の肉体になり、煩瑣な黄金の細工物をおびただしく身につけ、尖った金冠を戴いて、今し爪先立った痩身の踊り子のように思われた>
この宮殿を浮かべた池で、まだ幼い月光姫ジン・ジャンが女官たちにかしずかれて水浴する姿を本多は目撃する。
<姫はなかなか静かではなかった。沙羅を透かす日光の縞斑のなかで、たえず本多のほうへ笑いかけながら、そのやや大きすぎる子供らしいお腹を庇いもせず、女官に水をかけて叱られては、水をはね返して逃げた。・・・
姫が手をあげるときがあった。平たい小さな胸の左の脇、ふだんは腕にかくされているところへ、思わず本多は目をやった。その左の脇腹に、あるべき筈の三つの黒子はなかった>
私は三島のこの小説をもう30年も前に読んだ記憶がある。バンパイン宮殿を訪れたとき、私はそのおぼろげな記憶を携えていた。そして、池の中に浮かぶ小閣に目を細め、月光姫が水浴をしたとおぼしき岸辺をさがしていた。
小説はこのあと意外な展開を見せる。戦争が終わり、日本の大都市は廃墟になった。やがて、その廃墟に建物が建ち、世の中が少し落ち着いた頃、本多は月光姫ジン・ジャンと再会する。彼女は日本の大学に学生として留学していた。本多の美に対する執念がふたたび燃え上がる。その顛末について、明日の日記に少しだけ書いてみよう。
三島由紀夫の晩年の4部作「豊饒の海」の第三部「暁の寺」の題名は、タイの寺院ワット・アルンからきている。チャオプラヤ川西岸にあるこの寺はアユタヤ時代からあったが、ラマ3世時代に完成したという。
この寺院には高さ67メートル、基壇の周囲が238メートルにもなるタイ最大のプラーン(クメール様式の仏塔)がある。4層からなる塔は彩色を施した中国式の美しい陶器片で装飾されていて、これが朝日や夕日を受けて輝く。
塔には途中まで石段で登ることもできる。石段を登ったテラスから眼前にチャオプラヤ川とその対岸を眺めることができる。これもなかなかの眺めである。4つの小仏塔がこの大仏塔をとりまき、それらも陶器片や彫像で美しく装飾されている。三島由紀夫の文章を引用しておこう。
<塔の重層感、重複感は息苦しいほどであった。色彩と光輝に充ちた高さが、幾重にも刻まれて、頂きに向かって細まるさまは、幾重の夢が頭上からのしかかって来るかのようである。すこぶる急な階段の蹴込も隙間なく花紋で埋められ、それぞれの層を浮彫の人面鳥が支えている。一層一層が幾重の夢、幾重の期待、幾重の祈りで押し潰されながら、なお累積し累積して、空へ躙り寄って成した極彩色の塔。
メナムの対岸から射し初めた暁の光りを、その百千の皿は百千の小さな鏡面になってすばやくとらえ、巨大な螺鈿細工はかしましく輝きだした。この塔は永きに亘って、色彩を以てする暁鐘の役割を果たしてきたのだった>
三島はチャオプラヤ川をメナムと記している。私も学校でそう習った記憶があるが、メナムというのはタイ語で「川」という意味だそうである。だからメナム川と書くのは「川川」と同じに意味になってしまう。正しくは「メナム・チャオプラヤ」と書くべきだろう。
さて、私たち一家が最初に訪れた寺院がこの暁の寺だったこともあり、たしかにこの仏塔の印象は圧倒的だった。巨大な塔でありながら、その精緻な細部が見事だった。陶器片はそこに描かれた花や植物の絵とともに、一つ一つ手作りだという。そして無数の彫像のひとつひとつがまた細かくできている。
同じ寺院でも、素朴で簡明な日本の神社とは著しく違っている。日本の風土によって培われたわび・さびの感性を以てすれば、これは豪奢を通り越して、煩瑣とさえ写るかも知れない。三島も小説の中でこう書いている。
<タイのような国へ来てみると、祖国の文物の清らかさ、簡潔、単純、川底の小石さえ数まえられる川水の澄みやかさ、神道の儀式の清明などは、いよいよ本多の目に明らかになった。・・・本多はこの炎暑の中では、それを思い泛べるだけで額に清水を滴らすような感じのする、日本の神社のたたずまいを心に泛べた>
本多はビジネスで訪れたバンコクで、姫君ジン・ジャンが自ら日本人の生まれ変わりだと信じているという噂をきく。そしてこの幼い姫君を、本多もまた清顕や勲の輪廻転生した姿ではないかと疑う。
本多は期待を抱いて、アユタヤのバンパイン宮殿に行く。そこで、この幼い姫君と親しく接して、彼女がほんとうに、彼の愛した青年たちの生まれ変わりかどうか、たしかめようとするわけだ。続きを明日の日記に書こう。
タイ旅行中いろいろなことを考えた。バンコクの絢爛たる宮殿を眺め、高層ビルを眺めて、すごいなあと思った。ホテルの84階の展望から眺めたバンコクの夜は不夜城のように輝いていた。
しかし、この豊かさの蔭にスラムがあった。バンコクの人口は公称では600万人あまりだが、実際は800万ともそれ以上だともいわれる。私たちのガイドさんは1000万だと言っていた。つまり、正規の市民でない人がそれでけ存在するということだ。
タイは自給自足が可能な豊かな農業国である。スラムや貧困とはもっとも遠いところにある南国の楽園である。ところが貨幣経済がもちこまれ、都会に近代的なビルが林立するにしたがって、スラムも広がった。
東洋一の高さを誇る私たちのホテルの近くにもスラム街があった。そこにあるのはとても人間の暮らしとは思えないような悲惨な現実である。しかし人々はそうしたところにすみ、安い賃金で雇われて、近代的なビルで働いている。
ホテルの近くのプラトゥーナム市場の人混みを歩いていたとき、いきなり人が倒れているのに出会って驚いた。舗道にうつむきになり、片手に皿を持って、苦しそうに身をくねらせていた。見ると、その皿の中に紙幣やコインが入っていた。
倒れていたのではなく、そうして地面を蛇のように這いながら物乞いをしていたのである。30歳くらいのその男は足が異常に痩せていた。そうやって身をくねらせて這い回っているのは、身体に障害があることをアピールするためだろう。
市場から近い路傍には、垢じみた少女が申し訳程度のぼろ衣を痩せた身にまとって座っていた。手に持った小皿にはわずかな硬貨が置かれていた。私は行きずりにそうした少女を眺め、目をあわせそうになってあわてて視線を逸らした。
あるときは行きすぎてから、雑踏のなかで立ち止まり思案した。私は硬貨をもっていなかった。財布にあるのは最低でも20バーツ札(60円)である。私にとっては何でもない金額だが、おそらく少女にとっては大金だろう。それを小皿に投じるべきか迷ったのである。
もし多くの観光客が彼等に施しを与えたら、スラムすむ人々はますますこれにたより、市場には物乞いが氾濫するだろう。そして子供や母親を道具のように使って、もの乞いで生計を立てる怠惰な父親が増えないとも限らない。
彼等にお金を与えることは、結局彼等を不幸にするだけではないか。私はそう思案して、少女の前を行きすぎた。乳飲み子を抱えて物乞いをする若い母親の前も同様に行きすぎた。この判断は間違っていないと思うが、こういう理屈が今日の暮らしを思い煩う貧しい人々に理解されはしないだろう。心に苦い後味が残った。
私たち家族は日本ではつつましく暮らしている。しかし、物価の安いタイに来れば、高層ホテルのスイートにとまり、その気になれば高級レストランに入って、多くの給仕にかしずかれて宮廷風の豪華な料理を楽しむこともできる。劇場のVIP席でショーを楽しむこともできる。
私たちにははした金のように思われる小銭をチップとして与えることで、黄金のような笑顔が向けられ、感謝されるのに出会い、まるで王侯貴族になったような気分になれる。専属のガイドと運転手をやとい、彼等を支配することもできる。
観光客の多くはこの貴族気分を味わいたいためにこの国を訪れるのではないだろうか。私たち家族も、同様の体験をし、楽しみを満喫した。しかし、タイ旅行の思い出として残っているのは、ワット・ポーの黄金仏や華麗な宮殿ばかりではない。市場の雑踏で、さびしく物乞いをしていた少女の瞳も、忘れがたい印象を刻んでいる。
タイ旅行を思い立ったのは2月に入ってからだ。新聞のチラシでみて、タイに7万円で行けることを知った。それからいそいでパスポートをとった。ガイドブックも買い込んで、タイや海外旅行について知識を仕入れた。
以前に読んだことがある日本に滞在したインド人ビジネスマンの本に、「日本はチップがいらない不思議な国だ」と書いてあった。私たち日本人はチップを払わないのを当たり前だと思っている。しかし、日本の常識は世界の非常識である。
世界に出たら、この世界の常識に従わなければならない。もし、この常識を知らなかったらどういうことになるか、これについて、私たち一家が味わった不快な思い出について、あえてふれておこう。
私たちが泊まったバイオークスカイホテルは、ガイドブックのランキングでは中級だが、広々としたスイートで、しかも眺めがよかった。84階建てのホテルは東洋一だということだし、77階のレストランでの朝食バイキングも最高だった。
客室係へのチップとして、私たちは毎朝、20バーツ札を枕の下に入れておいた。20バーツという値については、ガイドブックに最低でもそのくらいとあったし、むやみにチップを与えてはいけないと書いてあったので、その忠告に従ったわけだ。
ところが、三日目の朝、いやなことが起こった。娘達の寝室の時計が一時間早めてあったのだ。娘達はこの時計を信じて一時間も早く起きた。そして自分の腕時計を見て、時間が間違っていることに気付いたわけだ。
すでに前日の夜から時計は1時間早くなっていた、しかし、まさか時計が間違っているとは思わなかったので、「まだこんな時間か」と思って寝たのだという。客室係が何かの理由で時計を操作した可能性がある。
「チップは毎日置いたのだろうね」 「枕の下に20バーツずつ置いたわよ」 「20バーツでは足りないのかな」
実は被害はこれだけではなかった。夜中に2度ほど電話があったのだという。電話に出るとすぐに切られた。おまけに1時間も早く起こされて、二人の娘は寝不足で不機嫌な顔をしている。さっそくガイドさんを通してホテルに苦情を申し立てたが、すでに客室係は交代しているとの話だった。
どうしてこんないやがらせを受けたのか。考えられることは20バーツというチップの額が妥当だったかである。タイの物価の国際比較を見ると、アメリカを100としたとき、タイは30とある。アメリカと日本の物価はほとんど同じだから、タイの物価はおよそ日本の1/3と見なしてよいだろう。
そうすると、およそバーツを10倍すれば日本の物価に等しいことになる。つまり、20バーツは200円に相当とするわけだ。日本以外では、サービス業の賃金は安く、従業員はチップをたよりにしているという。そうすると、このホテルの場合、一人20バーツというチップは安すぎたのではないだろうか。
もちろん、客に嫌がらせをした従業員の行為は許せないが、私たちの方にもすこし配慮が足りなかった点があったのかもしれない。倍の40バーツくらい弾んでおけば、こうした不愉快な経験はしなくてすんだのではないかと思う。
そう考えると、他にもうなずけることがあった。たとえば冷蔵庫の中に入っていたサービスの水のボトルが二日目から小さくなったことだ。これは「もっとチップをはずんで下さい」というシグナルだったのかもしれない。
一番心配だったのは貴重品の管理である。私たちはカードを持っていなかったので、支払いはすべて現金だった。この現金とパスポートをどうしたらよいかだが、ガイドさんに訊くと、「ホテルの金庫に入れてください」とのことだった。しかし、ガイドブックには中流以下のホテルでは金庫は安全ではないと書いてある。
迷ったが、ガイドとホテルを信用して、部屋の金庫に入れることにした。封筒に現金とパスポートを入れ、厳重に封をして、毎日帰る度に封に異常がないか確認した。さいわい、この点については問題は起こらなかった。
こうした経験をして思うのは、チップのいらない日本はなんというすばらしい社会かということだ。私たちはチップがなくても手を抜かず、笑顔をたやさない。たとえ世界の非常識と言われようとも、こうした日本社会の美しい伝統を残していきたいものだと思った。
旅行のことを英語でトラベルという。トラベルとトラブルは似ている。おそらく語源は同じなのだろう。つまり、旅にトラブルは付き物だということだ。私たち一家のタイ旅行でも、トラブルらしいことはいろいろとあった。なかでもかなり深刻だったのは、二日目の夜のショッピングと、帰りの空港でのドタバタである。
二日目の夕食の後、ホテルへ帰る途中、娘達は買い物をしたいというので、伊勢丹デパートの前で車から降ろして貰った。そこから私たちの宿泊している84階建てのホテルがライトアップされて大きく目と鼻の先に見えた。これなら迷うこともない。
ガイドさんにも帰って貰うことにして、私たち一家4人で夜のショッピングを楽しむことにした。これはタイに来てはじめての体験である。はじめは4人で歩いていたが、やがて娘二人が遅れがちになった。
私は疲れていたので早くホテルに帰り、お風呂に浸かりたかったが、娘達は夜の屋台が珍しいのか、熱心に買い物をしている。そこで、娘達を残して、私たち夫婦だけ先に帰ることにした。
ホテルは直ぐそこに見えているし、迷うことはないだろうと考えた。ところが、実際歩いてみると、ホテルまでかなりあった。しかも9時を過ぎて、ホテルの近くの屋台が店じまいを始めた。人気が急速になくなりつつある。
「だいじょうぶかしら」 「早く帰ればいいのにな」 「迎えに行きましょうか」 「なに、子供じゃないんだから」
私は妻を促してホテルに戻った。さっそく風呂に入って汗を流した。それからベッドに潜り込んだ。時計を見ると10時を過ぎている。早く寝たかったが、娘達の部屋を覗きに行った妻が、私の枕元に来た。
「帰ってこないけど、どうしょう」 「そのうち帰ってくるさ」 「のんきなことを言って、マフィアに売り飛ばされたらどうするのよ」
妻は何だか悪い予感がするという。妻の不安は私にも伝染してきたが、私は睡魔に襲われていて、ベッドから抜け出す気にはならなかった。妻が「迎えに行ってくるわ」と、一人で出ていった。
それから、5分もしないうちにドアのチャイムが鳴り、欠伸をしながら出てみると娘達だった。「お母さんが迎えに行ったよ」というと、「ほんと、うそでしょう」と二人とも信じようとしない。「お前達が遅いから、心配したんだ」と腹が立ってきた。
今度は娘達が妻を捜しに行くという。私はベッドに戻ったものの、すでに睡魔は撤退していた。そこで、私も着替えて妻を捜しに行くことにした。エレベーターを途中で乗り換え、1階に降りたところで、登りのエレベーターを待っている妻や娘達と鉢合わせをした。
数分ずれていたら、また行き違いになるところだ。こうして無事に事件は落着したが、早々とベッドに入り、娘達をさがしに行こうともしなかった私は、家族の目にはかなり冷淡な父親に写っていたにちがいない。
もう一つトラブルを上げるとすれば、帰りの空港であせったことだ。オカマショーが予想外に長引き、しかも空港までの道が大渋滞していた。ガイドさんも運転手も慣れているのか落ち着いていたが、私たちは飛行機に乗り遅れるのではないかと心配だった。
しかも、空港の中も混雑していた。手続きをしようにも、長い行列が幾重にも蛇行して繋がっているのでどこに並んだらよいのかわからない。日本語が通じないので大変だった。並んでいても、急に列が動かなくなり、クローズの標識が出たりする。荷物審査が追い付かなくなり、ラインがストップしたためらしい。それをみて、荷物を抱えてあわてて移動しなければならない。
ガイドのイイトさんはそうしたドタバタに最後までつき合い、アドバイスをしてくれた。おかげで私たちは時間内に搭乗手続きを済ませることができたが、大勢の人が時間に間に合わなかったようで、飛行機の出発時間がかなり遅れることになった。空港には早めに着いて、ゆとりをもって行動したいものだと思った。
(「何でも研究室」に「タイ家族旅行」 http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/tai.htm を加えました。こちらの方には写真が載せてあります。ぜひ、ご覧下さい)
2005年03月13日(日) |
タイの学生は勉強をしない? |
実質3日間のタイ旅行だったが、専属のガイドと運転手つきの旅だったので、かなり効率よく回れたのではないかと思う。それでも日本に帰ってガイドを読み直していると、ここにも是非行ってみたかったと思うところがある。
そのひとつがラマ一世通りにあるサイアム・スクエアだ。観光ガイドを読むと、ショッピングセンターや映画館、レストランが軒を連ね、高感度なショップができると書いてある。タイの有名大学も近くにあり、若者達にも人気のエリアのようだ。
ラマ一世通りは何度も車で往復しており、サイアム・スクエアの前も通っている。ガイドさんも「このあたりに有名大学や高校、中学があります。ほら、あの制服のお嬢さん、大学生です」などと、街角を指さしていた。
白いブラウスとチェック柄のスカートを穿いた少女は、日本の私立高校の女生徒と見まがうようだったが、スカート丈はそんなに短くはない。背筋をしっかり伸ばして、凛とした表情はいかにもエリートの女子大生という感じだった。
もっともガイドさんの話によると、タイの大学生はほとんど遊んでばかりいるという。学費は親が出してくれるので、アルバイトもあまりしないようだ。親の金で大学に通い、勉強をしないのは日本の大学生も同じだ。
ガイドのイイトさんは高校を出た後、働きながら自分で学費をつくり夜間の日本語専門学校に通った。そこを卒業してからガイドを始めたのだという。ガイド歴5年だというが、押し出しも堂々としていて、もうベテランの域だ。
「結婚されているんでしょう」という妻の質問に、「いいえ、まだ独身です。今は仕事が最優先です」と答えていた。途中、わからない日本語があると、手帖を出して書き留めている。たとえば私が「しおり」という言葉を使ったとき、手帖を差し出して「綴りをお願いします」と言った。彼女の手帖を覗くと、そこにたくさんの日本語が漢字交じりで書いてあった。
イイトさんがタイの大学生は勉強しないと強調するのは、自分を基準にしているからだろう。彼女の日本語はなかなかのものだし、ここまで来るには血のにじむような努力もしたのだろう。それだけに、ぬくぬくと親の金で大学に通い、遊んでばかりいる大学生を快く思っていないようだった。
「タイの人はみんな愚か者です。だから商売もできません。中国人はとても頭がいい。だから、会社の社長さんは中国人です。タイの人は使われているだけです」
イイトさんはもっとタイ人も勉強して、独立独歩で国の経済や政治をになう人材にならなければならないと考えているのだろう。ところがタイ人はあまり勉強しない。それがタイ人が貧しさを逃れられない原因だと考えているようだ。
タイの国際学力検査の結果をみると、読解力も科学リテラシーも40ケ国の中の32位である。TOEFL総合点では151国中で125位である。日本や韓国、シンガポールなどが上位を占める中で、タイの学生の成績はふるわない。そして国際学力検査の結果と一人当たりのGDPの国際順位との間には相関があることがわかっている。
http://dataranking.com/country.cgi?LG=j&CO=206
タイの学制は日本と同じで、6.3.3.4制である。バンコク市内の学校はちょうど日本の夏休みにはいったところだった。これが2ヶ月間ほどあるということだった。しかし、アユタヤの学校ではまだ授業をしているところもあった。そうした学校の傍らを通るたびに、どんな教育が行われているのか興味をそそられた。
今日の目覚めは3時ごろで、私のいつもの時間だった。これで体内時計が日本時間に戻ったわけだ。今頃になっていくらか疲れが出てきたが、それほど不快ではない。旅行記を書きながら、記念の写真を眺め、旅の余韻に浸っている。
ガイドブックは2冊ばかり読んでいたが、あまり頭に入らなかった。旅から帰って読み返してみるとよくわかる。地図の上で旅を再現し、思い出を反芻するのもなかなかいいものだ。
タイ旅行の間、ガイドさんから度々「貴重品に注意して下さい」と言われた。ある寺院では、生きた大蛇を持った青年が近づいてきて、娘の肩にかけたことがある。すかさず別の青年が来て、写真をとろうとした。
ガイドさんが顔色を変えて注意するので、私もあわてて娘に「早く来なさい」と声を掛けた。そうして勝手に写真を撮って高く売りつけようとするわけだ。彼等はタイのマフィアだそうだ。ガイドさんは「あれもそう」と、遠くにいる男の背中を指さした。
ホテルで日本人の旅行者とは一度だけ口を利いたが、その人は最後に「タイ人にだまされてはいけませんよ」という一言を残した。たしかに日本人の観光客はお金があるのでいいカモにされそうだ。その人も苦い経験をしたのだろう。
私たち一家が被害に遭わなかったのは、ガイドさんの的確な指示があったからだ。おなじ物を買う場合でも、ガイドさんは私たちの半分の値段で手に入れていた。タイでは物の値段が交渉できまる。言葉が分からないので、私たちはつい言い値で買うことになるわけだ。
しかし、2日目くらいから、私たちも値切りをする楽しみに目覚めた。たとえば、水上市場では私も「おまけはないの」としつこく言って、余分に果物をもらったし、妻は800バーツだと吹っかけられた香辛料の詰め合わせを、結局1/4の200バーツに負けさせた。言葉が分からなくても、ボディランゲッジでこんな芸当ができる。
私たちが一番気に入ったのは、バンコクの東部にあるスワンルム・ナイトバザールである。手元にある「ポケットガイド・タイ」(JTB)によると、ホテルの近くのプラトゥーナム市場とともに、バンコクの名物マーケットの3本指の一つに入っている。
「2002年、ルンビニ公園の隣りにオープン。昼から開けている店もあるが、賑わうのは夕方過ぎから。観光客を意識しているだけに、ほかのマーケットにくらべ値段はやや高めだが、店が整然と並んでいて歩きやすく、買い物しやすいのが魅力。木彫りやシルク、銀製品、人気の雑貨まで、ずらりと並ぶ。ざっと見て回るなら1〜2時間あれば大丈夫」
雑然としたプラトゥーナム市場と違って、適度な込み具合で、ほぼ同じ区画で仕切られた店のなかで、商品を前にして学生のアルバイトらしい若い店員が読書しながらのんびりと店番をしていたりするので、気楽に品物を手に取りながら声を掛けやすい。ここで妻は民芸品の置物やスカーフを何枚か手に入れたし、娘達もいろいろと買い物をしていた。
若いタイ女性の店員に、「ホワット・イズ・ジス」と質問すると、「フィッシュ」などと笑顔で答えてくれる。私の娘たちも「イフ・アイ・テイク・ツウ、・・・・」などと片言の英語を使ってディスカウントを楽しんだようだ。価格交渉をとおして、売り手と買い手の交流ができるのが旅の市場のよさかもしれない。
今朝の起床は5時だった。いつもより、2時間遅い寝覚めである。昨夜寝たのが11時頃だったから、これも2時間ずれている。そしてこの時のずれは、タイと日本の時差に等しい。つまり、私の体内時計はまだタイ式のままなわけだ。
今日は「私の食べたタイ料理」という題で書いてみよう。タイ料理は唐辛子の使用が韓国以上だと聞いていたので、とても辛いと思っていた。しかし、ホテルや私たちが行った食堂の料理は、それほど辛くはなく、むしろ薄味だった。
ただし料理の傍らに香辛料がついていた。タイの人はこれを使うのだろう。辛さばかりではなく、塩加減も自分の口にあわせて調節できるので、高血圧の私はたすかった。
タイ料理について、最初に旨いと思ったのは、バックプン・ファイデーンという青菜炒めだ。青唐辛子が使われている。私がホテルのバイキングで食べたのはほどよい辛さで、私はこれを毎日食べた。
辛くて甘酸っぱい味のエビのトムヤムクンもタイのスープ料理の定番である。これはまあまあの味だったが、旨いというほどではなかった。焼きめしやラーメンも食べたが、旨いとは思わなかった。タイ米が私の口に合わないのかも知れない。ラーメンはほとんど香辛料をくわえずに食べた。
ゲンチュード・サラーイというスープも定番らしい。豆腐や豚の挽肉、海苔の入った中華風のあっさりしたスープだ。タイ民族は中国南部から降りてきたらしく、酢豚や春巻きなど、基本的には中国料理で、タイ風の味付けがしてある。
屋台の料理は独特の匂いがして、馴染めなかった。これはナンプラーという魚醤のせいではないかと思われる。ニンニクの匂いも強烈だが、これにおとらない臭みがある。
タイ料理にはよくつかわれているので、タイの人々はこれが好きなのだろう。妻や娘達もとくに気にならない様子だったが、日本人の多くはこれが苦手らしく、これを抜くように言えば、屋台でもそのように料理してくれるようだ。
あと、タイ料理の味付けにかかせないのはココナッツだ。ココナッツからミルクをつくり、砂糖や油もつくる。タイ料理は唐辛子とココナッツの甘みが基本のように感じた。ココナッツもあまり使われると鼻につく。
8日の夕食で食べた期待の「タイしゃぶ」は、豚肉や魚を使った水炊き風の料理だった。白菜などの野菜の他に、豆腐やキノコ、春雨などがはいり、これをスープ皿に少しずつとって、自分好みの味付けをして食べる。私はキッコーマン醤油で薄口に味付けした。具がなくなったところで、ごはんと卵をを入れ、おじやにして食べる。あっさりしていてよかった。
タイ料理は宮廷風のものと庶民風のものに分けられるという。私たちが食べたのは庶民風に味付けされたものだったのだろう。一口にタイ料理といっても、ピンからきりまであり、高級料理店では違った味がたのしめるのではないだろうか。
タイでうまかったのは果物だ。ドリアンは水上市場で食べたものが最高だった。強烈な匂いや味の果物は苦手なのだが、これはとてもおいしくいただいた。果物の王様と言われるマンゴスティンも、甘みと酸味が絶妙で、とてもうまい。いくらでも食べることができそうだ。
私にはタイ料理をそれほど旨いとは思わないが、もちろんこれは私の食べたタイ料理について言えることで、別の人は違った感想があるだろう。高級レストランも知らず、屋台も知らない私が、タイ料理についてうんぬんする資格はない。タイ料理をもっと口にしていたら、別の感想が書けただろう。
そもそも私は美食家や食道楽ではない。むしろ粗食家で、トーストにバターか、お茶づけに梅干しがあれば満足するタイプである。酒も飲まない。だから、タイ料理が口にあわなくても、おいしいコーヒーとミルク、そして多少の果物さえあれば不満はない。
タイの国土は日本の1.4倍である。人口は半分の6000万人、そのうちの1割以上がバンコクに集中している。タイで余生を送るにしても、環境の悪いバンコクに棲みたいとは思わない。椰子の茂る田舎の高床式の家で、江戸時代の寺小屋のお師匠さんよろしく、子供たちを相手にして数学や理科、日本語でも教えながら、のんびり暮らしたいものだ。
昨日は夕食のあと、オカマショーをみた。タイにはニューハーフショーが楽しめる大きな劇場が2つあるという。老舗のカリプソはキャバレースタイルの店で、ガイドさんが手配してくれたマンボという店は、私が持参したブルーガイド「わがまま歩きタイ」(実業の日本社)には次のように紹介されていた。
「元映画館だったホールを使った劇場型スペース。前の席を確保したい人は席の指定をしよう。出演者には若手が多く、カリプソンの人気をしのぐ勢いがある。500席。料金は600バーツより」
私たちがガイドさんに払った料金は一人3000円だった。最低料金の600バーツ(1800円)より1200円も高かったが、私の座席番号がA1で最前列中央の座席だった。ガイドさんが2日も前から予約をしておいてくれたからだろう。最前列のVIP席なら3000円でも仕方がないのだろう。前の方に坐っているのは日本人観光客ばかりだった。
最前列なのでチップを弾まなければならないかもしれない。そう思って、私は20バーツ札を5枚用意したが、ガイドさんによるとチップが必要なのはショーが終わった後、一緒にスナップ写真をとるときだけだという。
座席の前に丸テーブルが置かれていて、その上にランプの明かりが点っていた。ドリンクのサービス付きだというので、私は水割りを注文した。8時半にいよいよショーがはじまり、ニューハーフの若いダンサーが次々と登場した。
松田聖子のそっくりさんの歌と踊りがあり、そのほか中国やアメリカの歌や音楽にあわせて、総勢20人近くの「美女」たちが陽気に歌ったり踊ったりする。見事な脚線美と美貌に見とれているうちに、あっという間に1時間あまりが過ぎた。ショーのあと写真を撮りたかったが時間がない。いそいで空港へ走った。
ガイドと運転手にどのくらいチップをあげたらよいのかわからないので、サン・プラーン象園にいるとき、ガイドのイイトさんに訊いた。 「1000バーツでどうかな?」 「ふつうは一日100バーツくらいですけど・・・」 「500バーツで充分かな」 「きっと喜ぶと思います」
ガイドさんの分は聞けなかった。しかし、妻と相談して、運転手に500バーツ、ガイドのイイトさんに1000バーツと決めた。オカマショーの始まる前に、ガイドさんに妻が1000バーツ差し出すと、「こんなにいただいていいのですか」とうれしそうだった。妻と娘がこの他にもう少し個人的に出していた。
ショーが終わって、空港に送ってもらった。空港で運転手に500バーツ渡した。そのあと、いらなくなった20バーツ札を5枚渡した。妻や娘達も財布から20バーツ札や100バーツ札をあるだけ渡していた。あとで計算してみると、その合計は1000バーツをはるかに超えていた。別れ際の大判振る舞いに運転手も驚いたに違いない。
ガイドブックを読むと、秩序を乱す恐れがあるのでチップを与えすぎないようにとある。だから、私たちはホテルでも最低限の20バーツで通してきた。この鉄則が最後に破られたわけだ。それだけお返しをしたいという気持があったからだろう。
こうして無事、4泊5日のタイ旅行は終わった。機内で朝食が出て、セントレア空港に着いたのはの8時ころだった。空港から電車に乗ると、妻の隣の婦人が私たちの会話を聞きつけて、「タイからお帰りですか」となつかしそうに声をかけてきた。
その人は以前、夫の仕事の関係でタイに住んでいたのだという。それ以来、タイが好きになって、毎年3、4回はタイへ旅行するという。日本の冬はタイのいちばん暮らしやすい季節だ。家賃が月1000バース(3千円)くらいだというから、定年退職して半年をタイで過ごせば、生活費用もほとんどかからず、快適に暮らせるわけだ。
ガイドさんの話でも、一年の半分をタイで暮らす日本の年金生活者がふえているらしい。健康が許せば、こうした人生プランもなかなか面白いのではないかと思った。しかし、いつまでもタイの物価が安いという保証はない。タイの物価が高くなるときは、タイが日本並に「ゆたか」になるときでもある。
今日は8時過ぎにホテルを出て、バンコクから南西の方向にある田舎の水郷地帯を目差した。田んぼや塩田の広がる田園を2時間近く走ると、椰子の茂る南国的な風景になる。やがて村の船着き場に到着。ここから車を船に乗り換えて、30分ほど運河のクルージングをたのしみながら、ダムヌン・サドアクの水上マーケットへ。
一家4人とガイドさんを乗せたカヌーのような細長い舟はエンジン音を響かせて、迷路のような水路をかなりの速さで水しぶきを上げながら走る。両側は椰子やバナナの木が茂っていて、いかにも熱帯にきたという気分だ。ほとりに民家が点在しており、その船着き場をかすめるように舟が走る。
この辺りの家はいずれもボートをもち、水路として使っているようだ。犬までゆったりとしている素朴な暮らしぶりが何やらうらやましい。庭先に素焼きの大きな瓶が並んでいるのは、雨水を飲料水として貯えておくためだという。食器洗いや洗濯は水路でするようだ。
汚物なども水路に流すようだが、それでも植物が茂り、魚が棲むことで、人が暮らせる程度に川は浄化されるのだろう。日本ではほとんど姿を消したカバタ(川端)の暮らしが身近に眺められて、牧歌的な様子に興味が尽きなかった。
川沿いには椰子の他にも、バナナやマンゴウなどの果実がたわわに実っていた。食物が豊かで、主食の米も年3回も実る。気候も温暖なので裸で暮らせる。田舎に住んでいれば、衣食住にほとんどお金はかからない。タイの国は基本的に自給自足が可能なわけだ。
田舎に来ると、タイは「椰子の国」だという印象を強く受ける。椰子の実からミルクを作り、さらに砂糖や油を作る。途中の農家で一服し、椰子の油で揚げたバナナを食べたが、素朴な甘みが口の中に広がり、フライドポテトよりもおいしかった。その農家の庭先にある椰子の木に梯子が掛けてあり、娘達がそこに登って写真を撮り合っていた。
ガイドさんの話によると、タイの平均寿命は少しずつ短くなっているのだという。たしかにバンコクではほとんど老人を見かけなかった。しかし、田舎には家々に老人の姿があった。田舎の人は長生きだが、都会の人の平均寿命は短くなる傾向にあるらしい。食生活の変化や都会生活のストレスのせいだろう。
水上市場に着いたのは10半ごろだった。物売りの人たちの舟に観光の舟が入り乱れて賑わっていた。私たちはさっそくドリアンやマンゴスティンなどの新鮮な果物を買い込み、船着き場の近くのテーブルに腰を下ろして食べた。これはとてももおいしかった。
水上マーケットに隣接して土産物屋がならんでいた。娘達が買い物をしている間、私と妻はそこのテーブルに腰を下ろし、水上マーケットの活気ある様子を眼下に眺めた。市場で果物などを売っているのは大半が女性だ。タイの女性は働き者なのかもしれない。舟の上げる水音と人々の声に耳を傾けながら、椰子の茂る風景を眺めていると、はるばると異境の地にきたという実感がした。
11時半ごろ水上市場をあとにして、車でサン・プラーンの象園に向かった。40分ほど到着し、まずは食堂で腹ごしらえをした。ここは中国風のバイキング料理店だった。ゲンチュード・サラーイという豆腐や豚の挽肉、海苔の入った中華風のスープを飲んだ。
それから、タイ風中華そばを食べた。麺は細いものから太めまで3種類あって、味付けはしょうゆ味など選べる。とくに味付けしなくても飲めますと言われたので、そのままのスープで食べたがちょうどよかった。果物は水上市場で食べたので食指がうごかなかった。
腹ごしらえが終わったところで、象のショーを楽しんだ。象が音楽に合わせてダンスを踊り、逆立ちしたり、可愛いしぐさでおすわりをしたりする。昔の戦争を再現した象の武闘ショーも迫力があった。
面白かったのは大小8頭ほどの象が胴体に日本やフランスなどの国旗入りのゼッケンを付けて勢揃いし、サッカーボールをゴール蹴ったりする出し物だった。象のなかにはボールを蹴りそこねてゴールの中に突進し、ゴールキーパーを押し倒したりするのがいた。
キーパー兼審判の男は笛を吹き、怒ってイエローカードをつきつける。ところがフランスのゼッケンをつけた象がこれを繰り返し、とうとう頭に来たキーパーがレッドカード。しかし、象も納得せず、キーパーに足蹴をくらわせ、キーパーが転倒。起きあがったキーパーに、さらなる足払い。こうしたコメディーに場内は笑いの渦に包まれた。
象のショーをみてから隣でワニのショーも見学した。そのあと、象園に行って象たちにバナナをやった。子象にやろうとすると、母象が長い鼻を伸ばして奪っていく。母象のすきをついて、なんとか子象にバナナをやることができた。娘達はそうして象にバナナをやりながら写真を撮り合っていた。
バンコクに引き返し、妻の希望で黄金仏のある寺院をひとつ見学した。そこでタイの仏教についてガイドさんからいろいろ聞いた。その寺院には小・中・高と一貫教育の学校を経営していた、運動場で遊んでいる小学生らしい生徒の姿があった。ちなみにタイでは公立学校は大学まで制服だという。校則はかなり厳しいらしい。たしかに日本のような茶髪や化粧をした学生はひとりも見かけなかった。
寺院を出て、夕食までまだ少し時間があったので、表通りを家族で散策し、マクドナルドに入った。アイスコーヒーが100円ほどで飲めた。ペットボトルの水が10バーツ、30円である。物価は日本の1/4くらいだろう。ものによってはもっと安い。
ちなみに3日目はすべてオプションである。水上市場のクルーズや象園での昼食やショーの代金、そしてこのあとの夕食の「タイしゃぶ」も入れて、一人あたり5000円である。ガイドと運転手が付き添いだから、これもタイならではの安さである。
ところで、この日記をいまマクドナルドで書いている。現在時間、6時ちょうどである。妻と二人の娘は、30分ほど前に店を出て、近くのデパートに買い物に行った。そろそろ私もこの店を出ようと思う。夕食のあと、オカマショーを見る。そしてタイともお別れである。続きは明日、日本で書くことにしよう。
2005年03月08日(火) |
アユタヤ遺跡の白い花 |
昨夜はホテルの84階にあるバーへ行って、夜景を眺めながらサービスのドリンクを飲んだ。バンコクは人口1千万を超える大都会である。高層ビルも多いが、さすが84階を超えるものはない。
ホテルの近くに高島屋のデパートがあった。それからトヨタやソニー、東芝などの会社のビルもある。タイの道路は渋滞で有名だが、そこを走るのはトヨタ車やいすず、ホンダなどの日本車が圧倒的に多い。
テレビやクーラーなどの電化製品もほとんど日本製だ。日本の会社のビルがあり、そこで働くホワイトカラーの日本人も大勢バンコクで暮らしている。ガイドの話によると、そうした人たちはプールのある大きなマンションに会社の費用で優雅に暮らしているのだという。日本のビジネスマンはこのこの国でもっともお金持ちの特権階級に属しているらしい。
そうしたお金持ちの日本人の暮らしているのは、私たちが滞在しているホテルのあたりではない。このあたりには高島屋のような高級デパートもあるが、少し裏通りへ行くとスラム街もある。そうした貧しい人々の暮らしもビルから丸見えだった。
こうした環境に建っているので、バイオークスカイホテルは中級にランクされるのかもしれない。一流ホテルのあるあたりは、日本の商社マンが利用するような高級料理屋さんが並んでいて、もちろん道路に屋台などない。
私たちはホテルを一歩出れば、バンコクの活気溢れる下町気分を手近に味わうことができた。その代表がバンコク名物の屋台である。バンコクでは男女はとも稼ぎで、食事を3食とも外でとる人たちが多いのだという。そうした人々が利用する屋台が、道路を挟んで舗道一杯に広がっている。そこに私たちのような貧乏人の観光客も押し寄せるわけだ。
84階のバーからは地上が遠すぎて、こまかい街の様子はわからない。大都会の立派なビルや由緒ある歴史的建造物がライトアップされて美しく輝いているのが見えるだけだ。私たちはバーのさらに一階上にある展望台をゆっくり一周した。
バンコクは連日35度を越える猛暑だが、湿度が低いのでずいぶんとすごしやすい。とくに夜は涼しかった。展望台でしばらく夜風にふかれてから引きあげた。ゆっくり風呂に入った。寝るときは冷房を切って、ちょうどよいくらいだった。マッサージをしたせいか、心地よく眠ることができた。
朝食のバイキングをすませて、8時半にロビーに降りた。しばらくしてガイドさんがやってきた。二日目の観光の目玉は黄金に輝くバンパイ宮殿と、アユタヤ遺跡である。途中象にも乗れると聞いているので楽しみだった。
バンコク市内を抜け、アユタヤへ向かう道の両側に、ソニーやトヨタの工場が並んでいた。アユタヤまで、ガイドさんから話を聞いた。ガイドのイイトさんは家が貧しく、自分で働いて、夜間の日本語専門学校に通ったのだという。
タイでも1990年代にバブルがはじけた。1997年にはタイバーツ危機を経験している。その爪痕は今も残っていて、全般に不況だという。そうしたなかで日本企業がタイ人に仕事を提供している。イイトさんは必ずしも金持ちの日本人を好きではないようだったが、こうした点は評価しているようだった。
アユタヤ遺跡に行く途中にバン・パイン離宮に寄った。チャオプラヤ川のほとりに広がるこの離宮は、アユタヤ王朝の歴代の王が夏の離宮として使用したものだという。王朝滅亡後荒廃したが、映画「王様と私」で有名なラーマ4世が再建した。現在でもここは王室の所有しているが、普段は使わないので、一般に公開しているのだという。
この離宮の池に大きなスッポンや亀がいた。食パンの固まりを買って、手で差し出すとスッポンは恐れる様子もなく池から身を乗り出して、大きな口を開けてそれを食べた。池の中にパンをちぎって投げると、魚や亀があらそって食べた。
バン・パイン離宮で1時間余りを過ごしたあと、アユタヤ遺跡を訪れた。そこで象やリンタクに乗った。象に乗るのは初めて。高いので怖かった。私と妻が乗った象の御者は日焼して体の赤黒くなった老人だった。サービス精神満点で、私たちが日本人だと知ってか知らずか、ジェスチャー入りでこんな童謡を歌ってくれた。
ゾーさん、ゾーさん、お鼻が長いのね・・・
私と妻も象の背中に揺られながら、この歌を一緒に歌った。10分ほど行くとアユタヤのワット・ブラ・スィー・サンペットの3基の仏塔がよく見える場所にきた。仏塔を背景に娘達と写真を撮り合った。
3基の仏塔には3人の王の遺骨が納められている。その隣りに王宮も建っていたが、1762年にビルマ軍の侵攻にあい、破壊された。現在王宮のあったところにはレンガ造りの円柱が何本か残されているだけだ。
リンタクに乗り、アユタヤの村の中を通って、仰臥仏で有名なワット・リカヤスタまで行った。さらにリンタクから車に乗り換えて、ワット・プラ・マハータートの遺跡へ。菩提樹の木の根の間に仏の顔がある。アルタヤの寺院もビルマ軍に破壊された。頭部を刈り取られた仏像が並んでいるありさまは異様である。
崩れた仏塔の上に乗っている青年をガイドが厳しい口調で注意した。青年は日本人で、悪びれた様子もなく、恋人らしい女性と写真を撮りあっていた。ガイドの女性は不作法を見逃さず、相手が白人であれ誰であり、即在に注意して辞めさせた。しかし、注意されるのは日本人が多いようだ。
「これが何の遺跡か知らない日本人が多いです。とくに若い人は知りません。日本人は宗教心がないのでしょうか」
アユタヤ遺跡のレンガも随分持ち去られたのだという。アユタヤの遺跡にまで足を伸ばすのは日本人が多い。王宮や離宮などには白人観光客があふれているが、アユタヤの廃墟にはあまり興味がないようだ。ギリシャ、ローマというはるかに歴史の古い遺跡を知っているからだろうか。
私たちはアユタヤ料理屋で昼食を食べた。ホテルへ戻り、近辺を歩いた。屋台が出ていて、肉の焼ける匂いがした。買おうか迷ったが、「タイしゃぶ」の夕食を思い出してやめた。かわりに、一個15バーツのココナッツを老婆から買い、ストローで飲んだ。ココナッツジュースは冷えていておいしかった。
バンコクの壮麗な寺院や王宮もいいが、私はアルタヤ遺跡のうら寂れたたたずまいに引かれる。そこにはシャクナゲに似た木が白い花を咲かせていた。イイトさんに確かめると、お墓や寺の境内によく植えられているラントムという木だという。
アルタヤの仏塔の近くラントムの 白き花咲く廃墟のなかに
首なしの仏像あはれ菩提樹の 根に守られて頭ほほえむ
王宮も焼かれ崩れてレンガのみ わずかに残り柱かたむく
老婆より買いしココナツ冷えていて 市場の雑踏わずかに涼し
2005年03月07日(月) |
チャオプラヤ河のほとり |
一家4人が名古屋新国際空港セントレアから飛び立ち、バンコクに着いたのは深夜の1時半だった。もっとも現地時間だとまだ前日の11時半ということになる。現地時間にあわせて、私は自分の時計をちょうど2時間遅らせた。
空港にガイドの女性と男性の運転手が迎えに来てくれていた。二人ともタイ人である。ガイドさんは30歳ほどの独身のタイ人女性だった。「私、イイトといいます。食べるの大好き。だから、イイトです」と冗談を交えた流ちょうな日本語で自己紹介してくれた。
運転手もタイ人である。言葉は交わさなかったが、ごつい体格に似合わず丁寧な物腰で、いつもやさしい微笑をうかべていた。ガイドと運転手の息が合っているので、「ご夫婦ですか」とガイドの女性に質問したら、「私たち、別々の会社です」とすかさず返された。
空港からバンコク市内のホテルまで、40分ほどだった。真夜中だというのに、交通量がかなりあった。バイヨークスカイホテルはバンコクでも1、2位をあらそう84階建ての高層ビルで、私たちの部屋はその34階にあった。ここからでもバンコクの夜景が一望できた。こんな時間だというのに眼下のいくつかのビルには明かりが点り、市街を流れる車の明かりが皎々と繋がっていた。
ホテルのスイートルームに泊まるのははじめてだった。観光案内書のホテルランキングでは中流と紹介されていて、たしかに絨毯は少し古く、部屋飾りも質素だったが、リビングも寝室も広々としていて気分が良かった。大学生の娘達2人が泊まるのも同じタイプのスイートルームである。妻はさっそく浴槽に湯を入れ始めた。夜に弱い私はそのままベッドへ潜り込み、数分で前後不覚に落ちた。
4時間ほど熟睡して、6時頃に起床。やがて妻も起きてきた。7時頃に娘達を誘って77階にあるホテルの食堂へ。窓ぎわのテーブルに坐って、バンコク市内を眺望しながらバイキング形式の朝食を1時間ほどかけてたのしんだ。
焼きそば、スパゲッティ、おでん、そーめんと中華そば、ベーコン、ビーフハンバーグ、サラダ、スイカ、メロンなど日本でも馴染みの料理の他に、国際色ゆたかな様々な料理が並んでいた。そうしたものを少しずつ試食しているうちに、お腹がいっぱいになった。
さすがバンコクの国際ホテルである。まわりを見回すと、白人の家族連れや、民族衣装をまとったインド人たち、彫りの深い顔立ちをしたアラブ系の人たちがいた。日本人かと思うと、中国語や韓国語の会話が聞こえてきた。
白人と黒人、そして東洋系の黄色人種がいた。まさに人種の坩堝である。世界のほとんどの人種と文化がここで出合い、渾然として存在している。こうした国際色豊かな観光地は、世界でもあまり例がないのではないだろうか。
エレベーターのなかで、色の浅黒い大男と目が合い会釈すると、「アー・ユー・ジャポニカ?」と声を掛けられた。「イエス。ホヤ」と妻が答えたが、通じないようなので、「ホヤ・フローム?」と私が重ねて訊くと、「イラン」という答えが返ってきた。「ハバ、グッド、デイ」と言ってお互いに別れたが、こうした片言の会話を3泊4日のホテル滞在中に何回か体験できた。
10時にホテルのロビーに行くと、ガイドのイイトさんが待っていた。ホテルの前に車が待っていた。トヨタのワゴン車である。運転手の笑顔に迎えられて、一家4人はガイドさんと一緒に車に乗り込んだ。いよいよバンコク市内観光のはじまりである。
チャオプラヤー川の中州にあった小さな村に過ぎなかったバンコクが王都になったのは、1782年のことだという。そして川沿いにある王宮とワット・プラケオ(エメラルド寺院)を中心に、大都会へと成長した。今日の目玉は、このチャオプラヤ河を船で遊覧し、これらの寺院や王宮を訪れることである。ガイドさんの解説を聞きながら、胸がわくわくした。
私たち一家4人のために、ガイドさんと運転手がついている。それから、遊覧の船もまるごと一艘チャーターしてあった。これは安いパック旅行にしてはなかなか贅沢な旅だと思った。暁の寺院、王宮、エメラルド寺院の他に、予定に入っていなかったが、黄金の寝釈迦仏で有名なワット・ポーにも寄ってもらった。こうした融通がきくところがいい。
チャオプラヤー川の両岸にはタイ式の寺院や王宮、中国式の寺院、イスラム寺院など華麗な大建造物が次々と展開する。そして、大小の民家も水面に張り出すように並んでいた。テラスにはテーブルがおかれ、洗濯物が陽射しに光っている。
「タイは金持ちと貧乏人だけです。あいだの人は、たくさんいません。金持ちの家と貧乏人の家は見ればわかります」
ガイドさんの言うとおり、広々とした邸宅があるかたわらに、今にも軒が崩れそうな長屋のような家が並んでいたりした。しかし、そうした貧しいたたずまいの家々の軒先にも、赤や白や黄色の花々が美しく咲き乱れて、私たちの心を和ませてくれた。
川を遡った先で、ガイドさんから食パンの固まりを貰った。それをちぎって水の中に投げると、魚の大群があらわれて、水面に水しぶきを上げた。見ると体長30センチもありそうな大ナマズである。
他の船もやってきて、観光客が同じようにパンを投げていた。西洋人やタイ人はわかるが、韓国人や中国人、日本人はみわけがつかない。ガイドさんによると、一艘の船にアベックで乗っている若いカップルの多くは韓国人だという。韓国人は新婚旅行先にタイを選ぶのが一番多いそうだ。
対岸を見ると、人々が岸で体を洗っていた。川は決してきれいではない。むしろ濁っていて、浮遊物もたくさん浮いていた。しかし、こうして人々がそのほとりで暮らし、魚や鳥がたくさん棲んでいるのは、川が生きている証しだろう。
市内観光を終えた後、タイ式のマッサージを体験した。娘二人と妻と私が一つの部屋にならび、2時間ほど体をほぐしてもらった。4人のマッサージ師はいずれも女性だった。マッサージを終えて、お茶を勧められた。私を揉んでくれたのは二十歳そこそこに見えるチャーミングな娘さんだった。
タイでも中学生から学校で英語を勉強しているとガイドさんに聞いていたので、さっそく、 「ドゥー・ユー・スピーク・イングリッシュ」 と訊いたが、首を横にゆらして笑っていた。しばらくして、 「ハウ・オールド・アー・ユー」 と訊くので、隣の長女を指さして、 「シー・イズ・トエンティ・トウ・オールド」 と答えておいた。
バンコクのチャオプラヤのほとりなる まずしき家にハイビスカス咲く
屑が浮く濁れる河に魚が棲み 人が活きたり花を育てて
王宮の栄華を見上げ地を見れば やせたる少女水を売りけり
うらわかきタイの娘が身をよせて わが肩を揉むつよき指して
今日から4泊5日でタイへ家族旅行をすることになった。長女が今年の春大学を卒業し、4月から就職するすることになった。そのお祝いも兼ねての家族旅行である。妻はオーストラリアを希望していたが、アジアを見たいという私の主張が認められた。
タイは今は夏季で37度ほどの暑さだという。それでも湿度は低いようなので何とかしのげそうだ。この時期をのがすと、もう家族で旅行というのはむつかしくなる。大学2年生の次女も春休みだし、私も3年生の担任だったせいで、卒業式の終わった今はまとめて休みをとるチャンスである。
旅行は格安のパックツアーで、交通費、宿泊費、食事代こみで、家族4人あわせて30万円ほど。4泊5日といっても、2日は移動日なので、正味は3日間だけだ。3日間のスケジュールは、パンフレットによれば次のようになっている。
○3/7(月) バンコク市内観光とショッピング。全長900メートルに及ぶ塀に囲まれた王宮ではエメラルド寺院をはじめ、王朝文化を偲ばせる建物群、また三島由紀夫の小説の題材としても有名な暁の寺院やチャオプラヤ河遊覧にご案内します。夕食は海鮮料理をご賞味いただきます。
○3/8(火) 世界遺産「アユタヤ遺跡」の観光。3基の仏塔が往時の栄華を偲ばせるワット・プラシーサンペット、ワット・ロカヤスタ、黄金に輝くバンパイ宮殿にご案内します。昼食はアユタヤ料理をどうぞ。途中、リンタクに乗って遺跡観光を行います。夕食はタイシャブをお召し上がりいただきます。
○3/9(水) 終日、自由行動をお楽しみ下さい。
問題は3日目の自由行動だ。私はあまり観光客の行かないような田舎へ行って、ぶらぶらと怠惰に時を過ごしたいと思っているが、これは現地不案内な私にはリスクが大きい。他にもいろいろと魅力的なオプションがあるようだから、現地に着いてからゆっくり考えたいと思っている。
というわけで、明日から3日間、日記の掲載をお休みにします。無事に帰って来たら、9/10(木)の夜に、4日分の日記を「タイ旅行記」として掲載するつもりなので読んで下さい。それでは、いってきます。
企業は株主の所有物であり、投資家が利益をあげるために存在するというのが米国流の現代的企業観である。投資家はこの目標を達成するために腕のある経営者をやとい、会社の経営を任せる。成績が出なければ、経営者もすぐにリストラされる。
経営者は企業の株価を上げ、投資家にできうるだけ多くの配当金をもたらすべく必死に努力をする。そのためには一時に大量の従業員を解雇したり、また資金力にものを言わせた他社株の敵対的買収にも乗り出す。
ここにあるのは食うか食われるかのホップス的闘争状態である。他社によって買収されないためには、発行済み株価の総額を大きくしておかなければならない。資本金の小さな会社はそれだけ買収されるリスクが大きいからである。
今回のニッポン放送の場合も、資本金が比較的小さい(株の時価総額2099億円)ということが、外資であるリーマン・ブラザーズによる敵対的買収を容易にした。しかも、ここにも比較的小さなニッポン放送が、もっと大きなフジ・サンケイグループ(時価総額5760億円)の親会社だという歪な上下関係があった。
小さな親会社を通して、大きな企業グループを支配するという企業形態が、ここでも裏目に出たわけだ。これは巨大企業を小さな資本金で支配したい専制的なオーナーにとって魅力的な方法である。しかし、敵対的買収にはとてもよわいシステムだということが今回の騒動で明らかになった。
リーマン・ブラザーズは時間外取引という奇手を使ってニッポン放送の株を40パーセント近くも買収することに成功し、これをライブドアの堀江氏にその日のうちに譲り渡した。そのため、見かけ上は堀江氏が買収したように報道されている。ここにも企業買収にてなれた外資の巧妙なカラクリがある。
堀江氏はニッポン放送株を取得するため、800億円ものライブドアの株をMSCB(転換社債型新株予約権付き社債)という形でリーマン・ブラザーズに提供している。リーマン・ブラザーズはこの株を有利な条件で売却して巨大な利益を得ることができるし、また一部保有したまま、ライブドアに株主としての影響力を行使することもできる。
いずれにせよ、外資の援助があったとはいえ、若干32歳の堀江氏が、フジ・サンケイグループの親会社の株を40パーセント近くも買収することに成功し、筆頭株主に躍り出たということは衝撃的なことである。
これに対抗して、ニッポン放送は資本金を一気に2.4倍にするという常識外れのTOP(株式公開買い付け)で対抗しようとしているが、これもまた法律的に微妙な問題で、堀江氏はさっそく裁判所に訴えた。裁判所の判定は来週中にも下されるようだ。
結果がどうなるか今の段階ではわからないが、確実なことは、今後こうしたケースは次々と生じるということだ。その理由は、日本の会社の株式の時価総額が外国の企業に比べて非常に小さいく、これが外資による敵対的買収を誘い込むからだ。
株価総額でみると、日本の超優良企業のソニーでさえ、韓国のサムソン電気の49パーセントしかない。銀行で見ると、三菱東京ファイナンシャル・グループがアメリカのシティグループの24パーセントだ。
新日本石油はエクソンモービルのと3パーセント、アサヒビールはコカコーラーの5パーセント、イトーヨーカ堂はウオルマートの7パーセント、新日鉄でさえアメリカのアルコアの52パーセントである。
日本の資本は欧米の巨大資本に太刀打ちできないわけだが、買収されずにすんできたのは法的な障壁があったからだ。ところが、「年次要望書」でアメリカはこれを廃止するように求め、小泉首相もこれに応じ、「対内投資を促進」するために、次々と商法が改正された。
この春の国会でも新会社法案が提出される予定だ。これが可決されれば、外国企業もライブドアのように自社株式との交換によって日本企業を買収できるようになり、いよいよ本格的に外資による日本企業の買収がはじまるだろう。ニッポン放送買収事件のようなことは日常的に起こるに違いない。
これに対抗するには、こうした「投資に名を借りたマネーゲーム」を規制する法律を制定することだ。どうじに株式市場の公開性や透明性を高め、株主への利益還元率を高めて、国内の多くの資金を日本の株式市場に誘導することも必要である。
英エコノミスト誌によれば、昨年までの20年間のドルベースでの株式投資のリターンは、年平均で、英国株が15パーセント、米国株で13パーセント、日本株で6パーセントのプラスだったという。この間の経済成長率からして、これは日本企業が営業利益を上げていないということではなく、企業が市場を軽視し、投資家への還元を怠っているということだ。
これからは企業も株式市場を重視する経営努力をしなければならない。従業員や顧客重視といった日本型のよいところを活かしながら、国際社会のルールの中でもたくましく生き抜いていくだけの資金力をつけなければならない。そうしないと、日本企業はやがて世界から淘汰されて、日本は外資の支配する経済植民地になるだろう。
日本にはもともと1400兆円という莫大な個人金融資産がある。最大の問題はこれが日本企業ではなく、日本の国債や米国債、おおくの外国企業に投資されていることだ。日本を買収する外資も、じつは日本の資金を使って懐をうるおし、巨大化した面がある。こういう日本にとって不利なシステムを変えていかなければならない。
昨日、堤義明コクド前会長が逮捕された。彼はコクドが保有する西武鉄道株の比率を少なく見せるために有価証券報告書を偽装していた。さらに昨年10月に堤前会長が記者会見でこの事実を公表するまえに、大量の株を売却していた。これは法律で禁止されたインサイダー取引である。
西武グループの総帥として、4年連続世界一の資産家に選ばれ、日本的経営を体現するカリスマ経営者としてマスコミにもてはやされていたのが夢のようだ。そもそも資本金1億円しかないコクドが、5000億円以上もの売り上げを持ち、何兆円という不動産を所有する西武グループを支配するなどという前近代的なシステムがまかりとおっていたのがおかしい。
なぜこんな事をしていたかといえば、堤家の税金対策からだろう。本来なら莫大な税金を納めなければならないのに、これを個人所有ではなくコクドという会社の所有にすることで、堤家とその一族は莫大な税金や相続税を逃れていた。
つまり名義上は西武グループの巨大な株式を、堤氏個人が所有する変わりに、コクドという会社に肩代わりさせていた。そして、コクドも売り上げをことごとく不動産などに投資して、利益率をかぎりなく0に近づけることで税金のがれをしていたわけだ。
コクドはプリンスホテルや西武球団などの株を100パーセント所有しているが、コクドが所有しているということは、つまり堤氏が所有しているということである。こうしたコクド傘下の企業が何と135社もある。
その中でもひときわ巨大な資産を持っているのが西武鉄道である。コクドはこの株式上場巨大企業の株式を64パーセント所有していた。さらにプリンスホテルなどのグループ企業を加えると88パーセントに達し、東京証券取引所の上場基準の8割を超えてしまう。
そこで報告書にはこれを43パーセントと記載していた。ところがIT化にともなうシステムの変更でこれがばれそうだということで、去年9月頃までにコクド所有の西武鉄道株をいそいで売却したわけだ。
売却した株の額は650億円あまりで、200億円あまりを堤氏がじきじきに売却したという。これでコクドの西武株保有率を記載どうりの43パーセントにしたわけだ。しかし、この事実が公表されると株価が半分にまで値下がりし、一般株主に大きな損害を与えた。これは道義的にも大きな問題である。
会社は株主のものというのが欧米型の資本主義だ。会社は株主に利益を与えるために、従業員をやとい、経営者をやとって営利活動をしているわけである。だから株価を上げ、株の配当金を上げることが至上命題ということになる。
これに対して、日本の会社は家族経営の小企業がそのまま大規模になったようなところがある。オーナーがいて、従業員がいる。そして顧客がいて、その総体が会社ということになる。たとえば、先代の堤康二郎は企業集団には縁故者以外は採用せず、それも柔道部とか野球部という体育会系ばかりだった。
堤義明の場合はこれにくわえて、官僚出身者を多く採用した。自殺した西武鉄道前社長の小柳皓正ももとは運輸省(現・国土交通省)のキャリア官僚で、1993年に西武鉄道の常務として天下った人である。さらの政治家との交遊を深め、小泉首相と側近もプリンスホテルを常宿にしていた。
身内とキャリア官僚、政治家でガードされた王国に専制君主として君臨していたのが堤康明だった。彼が鉄道で視察に行くとき、その沿線に従業員が並んで最敬礼しているテレビの映像をみたことがあるが、これはまさに戦前の天皇陛下並ではないのかと目を疑ったものだ。
オーナーがこうした専制君主として会社に君臨するというのは、堤王国ばかりではなく、非近代的な日本企業にありがちのことだ。株式は公開されていても、それはほんの一部で、実態はそのほとんどをオーナー一族と系列企業やメインバンクで持ち合いをしていることが多い。そして彼等はあまり株式市場に関心がない。なぜならたとえ株が上がっても、それを売却して儲けようと思わないからだ。
そして日本の企業の場合は、利益を従業員や株主に還元するのではなく、そのまま会社の資産にしてしまい、設備投資にまわしたりする。欧米の企業であれば、利益が出れば株に還元し、会社はそれをバネにして株式市場でさらに資金を調達して、これを投資に回すというやり方をするはずだ。これだと株価は下落させずに発行高を大きくすることができる。西洋型の企業が巨大な資本金をもっているのはこのためである。
これに対して、日本的経営の場合は、株式市場で資金を調達するのではなく、営業利益をあてたり、銀行から借りたりする。コクドの場合はまず土地を買い占め、これを担保にして銀行から莫大な資金を調達し、そこにホテルやゴルフ場を建設して、どんどん事業を拡大していった。その間、株式の増資はなく、資本金1億円という信じられない数字が維持されたわけである。
土地を担保に銀行から資金を調達するという方法は、その利息の支払いで利益を解消し、法人税を0にするという一石二鳥のメリットがあった。しかし、バブル崩壊とともにこの土地本位制が崩れると堤式経営手法はたちまち行き詰まった。銀行からかりた巨大な借金の返済がむつかしくなったのである。
そして、西武グループのように2万人以上の従業員をかかえ、5000億円の売り上げのある企業がほとんど法人税を納めないのは不合理だということで、外形標準課税の導入も昨年度から一部なされている。こうしたことが逆風となり、さしもの堤義明のカリスマ性も衰えた。今回の東京地検の逮捕は、こうした時代の流れの中で可能になった。
堤義明の異母兄の堤清二氏は辻井喬はというペンネームで小説を書いている。最近出版された自伝風の小説の中で、父親の堤康二郎らしい人物が息子にこう訓戒している。 「世間では東急を近代的だとか大企業らしいなどと言っているが、どの企業も五島家のものではない。そこへいくとわしの事業は全部楠家のものだ。埼京電鉄は上場しているが、それは形だけのこと、絶対の支配権はわし一人が握っている。成り立ちが違う。経営の実態を知らない、近代かぶれの学者や記者ごとき軽薄才子に惑わされてはいかんぞ」
堤義明はこの遺訓を守った。そして西武グループはすべて彼のものだった。しかし、この非近代性のゆえに、彼はいつの間には「裸の王様」になり、彼の王国は時代の波から取り残されていった。しかも、彼はこのことに最後まで気付かなかったのである。彼は記者会見で「株式を上場するということがどういうことか知らなかった」と告白している。 コクドのように一億円以上の資本金があれば日本国では大企業に分類される。日本国の大企業は全法人255万社のうち1.2パーセント、3万3千社で、このうち黒字で法人税を支払っている大企業はこの半分である。この結果、法人税収は9.5兆円にとどまり、消費税4パーセント分と並ぶ程度でしかないのだという。
こういう非近代的な日本企業の体質が、じつは今、グローバル化のすすむなかで大きな問題になっている。その象徴が外資の勢力を背景にしたライブドアの堀江社長によるニッポン放送の買収事件である。これについては明日の日記に書くことにしよう。
(参考サイト) http://www.inose.gr.jp/mg/back/04-11-11.html
2005年03月03日(木) |
人生を楽しむための学習 |
昨日の毎日新聞の「読者の広場」にある70歳代の男性が「生きる力とゆとり教育」について書いていた。知識偏重からその批判としてのゆとり教育へ、そして再び知識尊重へと、この国の教育方針がゆれている。
なぜゆれているのか。それは教育の目標が何であるのか、何のために勉強するのかという根底があやふやなためだろう。だから、国際学力テストの結果に一喜一憂して、世論が迷走し、教育方針が猫の目のように変わることになる。
新聞への投稿はこの点にふれたあと、彼の年代の人たちは戦争や戦後の混乱の中で、教科書には墨まで塗られ、教室での勉強がまともにできていない。しかし、戦後日本の復興に大いに活躍した。それはそうした環境を反面教師として学ぶなかで自ずから「たくましく生きる力」がついていたからではないか、と主張していた。私にはその論旨がしごくまともに感じられた。
先日の朝日新聞は、学習到達度世界一のフィンランドの教育を「比較・競争とは無縁」という題でレポートしていた。日本では教科の授業時間の確保が叫ばれているが、フィンランドははるかに授業時間数は少ない。朝日新聞が引用している年間平均標準授業時間の比較データー(「図表で見る教育」OECDインディケーター2004年版)を孫引きしておこう。
年齢(歳) 日本 フィンランド 7〜8 709時間 530時間 9〜11 761 673 12〜14 875 815
フィンランドでは今年の総合カリキュラムの見直しで、日本でいう「ゆとりの時間」がさらに増やされる予定だという。改革の目標は「生涯に渡って学習する能力を身につけること」だという。日本の教育もこうした長期的に人生を展望した目標を持つべきだろう。
私自身の経験によれば、高校受験で失敗したことが、皮肉なことに「生涯学習を可能にするゆとり環境の実現」へとつながったようだ。私のやむなく進学した二流の私立高校は、受験体制で固められた県立の進学校とはまるで雰囲気が違っていた。
休日は山仕事でとられても、平日は学校が終われば天国で、自分で好きなことができた。高校の頃から哲学や仏教の本に親しみ、毎日厖大な時間を費やして日記を書いていた。物理の試験で赤点をとったり、塾や補習とも無縁のおよそ受験生らしくない3年間だったが、その自由によって育まれたもののおかげで、私の人生は幸せなものになった。
毎日楽しんで日記をつけていられるのも、人生のあらゆる分野に出しゃばって「何でも研究室」を書くことができるのも、ときにはこっそりと何やらあやしい小説を書いたりできるのも、高校受験に失敗して「ゆとりの時間」を与えられたこと、その「幸運」を自分なりに活用して、「文章を書く」という人生を楽しみ味わうのに役に立つ骨太な方法を会得できたこと、これが大きいのではないかと思っている。
祖父が死んで、サラリーマンをしていた父が田舎の家を相続したのは、私が中学生のときだった。それまでは年に数回しかいかなかった田舎に、私たちは毎週行くことになった。何をしに行くかというと、山仕事をしにいくのである。
私の中学時代と高校時代の休日はこうして山仕事のために費やされた。私が父と植えた木は何万本にもなった。ただ植えるだけではなく、下草を刈ったり、木起こしをしたり、枝打ちをしたりと、山仕事はなかなかたいへんである。
もともと町育ちで、山仕事とは無縁だった私が、こうした重労働をするのは容易なことではなかった。そのうえ休日がなくなるわけだから、不満でならなかった。不満なのは母も同様である。木起こしの縄を買ったり、ときには人足を雇ったりした。こうした出費を、父の給料から捻出しなければならなかった。いきおいそのしわよせが家計にきた。
母や私の不満を、父はあたまから押さえつけた。そのため、この不満は内攻して怒りへと成長した。高校生の頃、この怒りが殺意にまで達した。背中に重い苗をかつぎ、両手に鍬と鎌をもって、山道を歩きながら、私はすぐ前をいく父に襲いかかり、鎌で首を掻ききろうかと思ったことがある。
私は県立高校の受験に失敗し、やくざな私立高校に通っていたが、これも中学時代の過酷な山仕事のせいに思えた。幼い頃から山で育ち、山仕事が好きな父と違って、私にとって山仕事は一切の自由を奪う嫌悪すべき強制労働であり、山そのものが嫌悪の対象でしかなかった。
40年を経て、この苦しかった時代がなつかしいものにかわっている。それはこの苦しい労働が、結局現在の私の背骨をつくってるいるからだ。山仕事をするようになって、私の体は見違えるように丈夫になったし、足腰も鍛えられた。それ以上に、多少のことではへこたれない精神の強靱さが養われた。
山仕事を続けながらも、私が第一希望の国立大学に合格したとき、父は涙を流して喜んでくれた。このとき、私は「ああ、父を殺さなくてよかった」と思ったものだ。大学時代も父への怒りと反感は続いたが、現在の私には父への感謝があるばかりである。父から受けたスパルタ教育は、それほど捨てたものではなかったと思っている。
もう十数年前になるが、父が死んで何か形見の品がほしいと思っていたら、母が「これをもっていきなさい」と言って、毛糸のセーターを出してくれた。
実はそれは私が父にプレゼントしたもので、それを父は何回か身につけたらしい。私はそのセーターを貰って帰り、冬になってから身につけた。その頃詠んだ俳句が残っている。
形見なる 父の上着の あたたかさ
私は冬になるとそれを愛用した。数年着ているうちに毛玉ができてきて、今はもうタンスの中で眠っている。
父は若い頃は俳句を作ったりもしたらしいが、私が知っている父は文学とは無縁である。だから、死後、蔵書らしいものといえば、山岡壮八の「徳川家康」くらいだったが、実はこれも入院中の父に私が差し入れたものだった。
父は音楽にもまったく縁がない人だった。演歌もクラシックもまるで興味がなく、軍隊に行ったが軍歌も歌おうとしなかった。私が高校生のころ居間のステレオでベートーベンやモーツアルトを聴いていると、父は迷惑そうな顔をした。
それでは何が父の楽しみかというと、山仕事の合間に見る自然の光景であり、山の中で酒を飲んで一眠りすることだった。「最高の音楽は風や山川の音だ」というのが父の口癖だった。若い私にはとても理解できない世界だったが、最近はわかるような気がする。
父は肝臓癌だった。死ぬ前日に痙攣の発作を起こし、意識が混濁したので、母があわてて救急車を呼んだ。父は母に寄り添われて家を出た。そして玄関口で足を止めると、救急車のサイレンの音に驚いて集まってきた近所の人々を見て礼をした。それが今生の別れだった。
父が死んだ後、父の住んでいた部屋に寝ころんであたりを見回してみたが、そこには父の所有物はほとんど何もなかった。ただ、灰皿とキセルが一本だけ。父のことを「古武士」のようだと言った人がいたが、たしかに潔い人だった。
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