橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2003年05月31日(土) ポツダム宣言と新憲法

 日本が受け容れたポツダム宣言は「日本国国民を欺瞞し、世界征服の挙に出ずる過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は、永久に除去せらるべからず」「日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし。言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし」とされている。

 さらに「前記の諸目的が達成せられ、かつ日本国民の自由に表明せる意志に従い、平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立せられれば、連合国の占領軍は、直ちに日本国より撤収せらるべし」とも約束されていた。

 除去すべき旧勢力の一つに旧憲法があった。マッカーサーが1946年1月にワシントンから受け取った電報で、「天皇制を廃止するか、あるいはより民主的な方向にそれを改革するように奨励されなければならない」と指示されていた。

 マッカーサーはすでにこうした方向で憲法を改正するように日本側に公式・非公式に伝えていた。幣原内閣は10月25日に憲法調査委員会を設置し、委員長には吉田茂外相の強く推した商法の専門家の松田丞治が就任し、委員会は10月27日から2月2日のあいだに秘密会を22回ほど持った。

 幣原首相は親英家として知られ、シェークスピアやミルトンを常に読んでいた。吉田茂も駐英大使だったことがあり、「オールドリベラル」として評価がたかかった。松本も英語に堪能で、東京帝国大学の学識ある教授であったばかりではなく、貴族院の議員として内閣の商工大臣の経験もあった。彼は又若い頃は社会主義にも理解を示し、心からのリベラルだと思われていた。このほか、天皇機関説で軍部に迫害されその職を失っていた高名な美濃部達吉博士もこの調査会のメンバーだった。

 これらのメンバーはたしかに日本の知的エリートとしてトップクラスであることは間違いなかった。また、戦後の日本を指導していくのにふさわしい、「どこからみても立派な紳士」のように見えた。しかし、その彼らでさえ、ポツダム宣言やマッカーサーが何を求めているのか完全に見誤った。委員会は「神聖ニシテ犯スベカラズ」という明治憲法の天皇条項を、「至尊ニシテ犯スベカラズ」というたった一語の変更で済ました。美濃部は西洋の憲法でも「神聖な」とか「不可侵の」という言葉を使っているとしてこれを支持した。

<幣原や松本や吉田のような支配層にとって、憲法を改正するなどじつに軽薄な考え方で、アメリカ人のとんでもない思いこみ以外の何者でもなかった。・・・幣原は、近衛にも木戸幸一にも、憲法の改正は必要でもなければ、望ましくもないと語っていた。彼は、明治憲法を民主主義的に解釈するだけで充分対応できると考えていた>(「ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」)

 委員会の修正憲法の草案が、2月1日付きの毎日新聞にスクープされると、国民の多くは失望した。新聞の社説は「あまりに保守的、現状維持に過ぎない」「新国家構成に必要なヴィジョン、政治的識見、理想に欠ける」として、深い失望を表明した。しかし深い失望を覚えたのはマッカーサーとその側近たちも同じだった。

 この草案を読んだマッカーサーと民政局の側近は、ただちに「最高司令官は日本の憲法構造を変革するのに適当と考えられるいかなる措置をもとりうる無制限の権限を有する」という覚え書きを発表した。こうして憲法改正の仕事は日本政府からマッカーサーの手に移されることになった。日本政府は日本国民自らの手で憲法を作るという「歴史的に意義のある仕事」を、みすみす取り逃がしてしまった。


2003年05月30日(金) あかね雲

9.新聞配達

 大学の帰り道に中日新聞の専売所があり、「配達員募集」の張り紙が出ていた。赤旗を配達していても一銭にもならない。営業紙の配達で得られる収入に興味が湧いた。話を聞くと、一部につき百円出すと言われた。朝夕刊あわせて二百部配れば月に二万になる。集金すればさらに手当がでるという。貯金ができそうだった。

 私は専売所を再び訪れ、アルバイトを申し出た。人手不足のおり私は歓迎された。配達用に自転車が貸してもらえるとのことで、私はその自転車に乗って帰って来た。

 新聞配達は単調な作業だったが、集金は思った以上に面倒だった。夕刊を配りながら一通り集めて歩くわけだが、商業地である武蔵ガ辻や近江町市場が私の区域に含まれていて、神経に障ることが度々あった。

 新聞配達のついでに新聞代を請求すると、
「こんな時間に来る奴があるか。出直してこい」
 と怒鳴られた。なかには小銭を床に落として拾わせようとした。長期滞納している家で二ヶ月分ずつ払って下さいと言うと、勝手に新聞を入れて置いて金を請求する奴があるかと叱られた。

 集金帳を渡されると、重苦しい気分になった。その様子を見て、店の奥さんが励ましてくれた。
「男は外に出たら七人の敵がいるというじゃないの。頑張って下さいね。おいしい夕食をご馳走しますからね」
 私はときどき奥さんの手作りの夕食をいただくことになった。

 一家には主人と奥さんと年寄りのおばあさんの他に、東京の大学に行っている一人娘がいた。夏休みには彼女が帰ってくるので、私も休みが取れそうだった。


2003年05月29日(木) 日蓮と一念三千

4.如来使

 日蓮は「立正安国論」で「謗法の人を禁じて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下太平とならん」と主張している。そして彼は正法が消え失せたときには国土に種種の災難が起こることを説いた経文を拾い集めて、このままでいけば経文に説かれた最大の難である自界反逆と他国侵逼の難が起こるだろうと警告した。

 これが日蓮の有名な予言と言われるもので、前者については、1272年(文永9年)の北条時輔の反乱、後者については文永(1274年)、弘安(1281年)の蒙古来襲が上げられている。

 いずれにせよ、日蓮は破邪顕正を叫び、著作を時の権力者で前執権の北条時頼に進呈することで、為政者の自覚を促そうとしたわけだ。日蓮は単に「日本一の智者」になることに甘んじないで、自ら信じるところに従って勇猛果敢に現実と対決し、自ら仏法の実践者(如来使)たる道を選んだのだということができる。

 日蓮は悟り澄ました坊主ではなかった。彼は法華経を土台とする天台本覚思想という当代最高の思想を我がものとした上で、その思想を活用して現実を見たのだった。そしてこの理想に基づいて社会や国家のありかたを批判し、時代と社会を考証するなかで、自己の思想を深化させ、社会の秩序と正義の実現に向けて邁進した。

 日蓮ほど思想を究めながら、現実に深くかかわり、社会変革に情熱をたぎらせた実践的な仏法者は、日本の歴史の中で珍しいのではないだろうか。もちろんそこには時代の制約から一定の限界があったことは否めないが、その真実一路な生き方の中に、人間のスケールの雄大さを感じる。

 ところで、このように日蓮が生涯を傾けてその熱心な行者たらんとした「法華経」には、いったいどのような真理が述べられているのだろうか。とくに日蓮がそれをどのように理解していたのか。次回からこのことについて書いてみよう。


2003年05月28日(水) 憲法を作れ!

 マッカーサーのアイゼンハワーあての電報で、もし天皇を起訴したりしたら、天皇を畏敬してやまない日本人はすっかり絶望し、日本は収拾不可能なおそろしいに混乱に見舞われるということだった。しかし、これはもちろんマッカーサー一流の脅しとはったりである。

 多くの知識人や、天皇の側近でさえ天皇の道義的責任に言及し、退位するのが適当だろうと考えていた。1945年12月にGHQの情報部隊は「連合国は天皇を退位させた場合の日本人への影響を不当に恐れすぎている」という報告を出している。その報告によると、「国民の関心は、天皇の運命よりも自分たちの食料や住居の問題に向けられている」とのことだった。一般国民にとっても、すでに天皇はそれほど畏敬するに足る存在ではなかった。

 実際、アメリカの戦略爆撃調査隊が実施した世論調査の結果によると、「戦争に負けたと聞いたときどのように感じたか」という項目で、「天皇陛下のことが心配、陛下に申し訳ない」という項目にチェックしたのはわずかに4パーセントに過ぎなかったという。それどころか、人々は天皇について冗談を言ったり、軽口を叩いたりしていた。

<元帥と天皇が並ぶ有名な写真が公開された後に、裕仁は、占領期の猥褻この上ない「なぞなぞ」の標的にされた。それは、天皇の自称である朕が、ペニスの俗語と同音(チン)だという、従来ならとても口にできない下品な語呂合わせの上に成り立っていた。「マッカーサー元帥はなぜ日本のへそなのか」「チン(=天皇)の上にあるからだ」>(「ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」)

 こうした実態はマッカーサーもフェラーズ准将も知っていたにちがいない。日本に駐留するアメリカの当局者はだれも知っていたはずである。しかし、「天皇こそは国民の信仰の揺るぎなき中心である」という幻想を必要とするのは、マッカーサーその人だった。目前にせまった東京裁判で、天皇の訴追を行わせないことがいまやマッカーサーの戦略だった。そして、その戦略を成功させるための切り札と考えられたのが、すなわち天皇を国民統合の象徴とする新しい、「民主的な」憲法をつくることであった。

 マッカーサーは早い段階から新たな憲法の起草を日本政府に求めていた。しかしすでに1946年2月の段階で、マッカーサーは日本政府にはポツダム宣言の要求するような憲法を作る能力はないと見極めていた。日本側の政府委員が作成したものはどれも明治憲法の焼き直にすぎなかったからだ。2月4日、民政局のホイットニー准将は部下をあつめて次のように伝えた。

「これからの一週間は、民政局は憲法制定会議の役割をすることになる。マッカーサー元帥は、日本国民のために新しい憲法を起草するという、歴史的な意義をもつ仕事を、民政局に委託された」

 憲法はこうして民政局で作られることになった。その際、マッカーサーからは新たな憲法の柱となるべき三つの原則が明示された。それが「国民主権」と「平和主義」「基本的人権の尊重」ということであった。ホイットニー准将は憲法草案を書き上げる期限を2月12日とした。

 ホイットニーは「日本側の草案は、非常に右翼的傾向の強いものになるだろう。自分としては外務大臣とその仲間に、天皇を護持し、彼らに残されている権力をなお保持したければ、決定的に左に梶を切った憲法を受け容れるしかない、ということを納得させるつもりである」と述べた。期限を2月12日としたのは、この日彼が日本側高官と非公式の会談を予定していたからだった。東京裁判を乗り切るために、時間がもうあまり残されていなかったのである。


2003年05月27日(火) 天皇を守れ!

 敗戦後、だれもが天皇は退位するだろうと思っていた。東大総長の南原繁は道義的観点から天皇は退位すべきであると主張した。保守的な憲法学者の佐々木惣一や著名な哲学者の田辺元も天皇の引退を望んだ。詩人の三好達治は「陛下は速やかに後退位になるがよろしかろう」と題するエッセイを雑誌「新潮」に発表した。

 天皇の側近も、天皇自身さえ、退位はやむを得ないと考えていた。たとえば近衛文麻呂元首相は公然と天皇の退位問題を口にしたし、天皇の叔父に当たる東久邇首相は、天皇に個人的に会い、退位を薦めている。天皇の弟である三笠宮にいたっては枢密院会議で天皇に責任を取るように促した。そのとき天皇の顔色は心配の余りかってないほど青ざめていたという。

 しかし、結局天皇は退位しなかった。なぜなら、それがマッカーサーの望んだことだったからだ。1945年11月26日、米内光政が天皇の退位問題についてマッカーサーに尋ねている。そのときマッカーサーは「その必要はない」と答えた。マッカーサーと一心同体と見られていたフェラーズ准将はもっと直接的なアドバイスをしていた。

<ある時は米内に、天皇は占領軍当局にとって「最善の協力者」であり、「占領が継続するかぎり天皇制も継続するだろう」と語り、ソ連が進める「全世界の共産主義化」を阻止するには、この方針が重要であること、そして「非アメリカ的な思想」がアメリカ合衆国の上層部にも強まり、天皇を戦犯として逮捕する声が依然として力を持っていると言った>(「ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」以下の引用も同書より)

 フェラーズは米内に次のようにも語ったという。
「天皇が何らの罪のないことを日本人側から立証してくれることが、最も好都合である。私は、近々開始される裁判がそのための格好の機会を提供すると考えている。とくに東条は自身の裁判において全責任を負わされるべきである」

 フェラーズのこの意向は米内から東条に伝えられた。こうして東条に割り当てられた役回りはあきらかになった。それは決して「天皇に迷惑をかけない。罪をすべて自分でかぶる」ということである。このことは他の戦犯たちにも告げられた。彼らは進んで「どのような些細な戦争責任をも天皇に負わせない」ことを誓約したという。

<天皇を守るための日米の共同作業がどれほど緊密に維持されたかは、1947年12月31日の法廷で東条が証言したさいに明らかになった。このとき東条は一瞬逸脱して、天皇の権威の絶対性に言及したのである。アメリカ主導の「検察当局」はただちに、東条がこの証言を撤回するよう、秘密裏に指導した>

 戦犯リストを作成する任務についていたエリオット・ソープ准将は、後に次のように述懐している。
「天皇の退位は混乱以外の何者をももたらさない。宗教もなく、政府もない。天皇だけが統制の象徴だったのである。もちろん天皇は悪に手を染めた。彼が無邪気な子供でないことも明らかだ。しかし天皇はわれわれにとって大変役にたつ存在だった。これが私が天皇を支えるようマッカーサーに勧めた理由だ」

 こうした忠告を受けて、マッカーサーはアイゼンハワーに極秘電報を打った。それはもし天皇が告発される事態になれば、国民はばらばらになり、政府機関の機能は停止してゲリラ戦がはじまるだろう。近代的な民主主義を導入する望みはすべて消え、ばらばらになった大衆から、おそらく共産主義に沿った強力な統制が生まれてくるだろう。このような混乱の中で秩序を維持するには、数十万の行政官に加えて、少なくとも100万の軍隊を何年にも渡って配備する必要があるだろう。

 マッカーサーはこの電報によって、天皇の戦争責任を追及することがアメリカの国益をいかに損なうか、アメリカ政府の首脳に骨の髄までわからせた。ジョン・ダワーは、このような「終末論的なレトリックは、マッカーサー意外の人間には真似のできないものであった」と書いている。

<のちに吉田茂は回想記の中で、マッカーサーを日本の「偉大な恩人」と賞賛しているが、それは民主主義の贈り物をしてくれたからではなく、未曾有の危機にあって、最高司令官として天皇制を維持し、畏敬すべき現君主を擁護してくれたからである。吉田茂は正しかった。この問題に関しては、連合国最高司令官の影響力は決定的であった>

 こうしてアメリカの国益と、日本の保守的勢力の利益が一致することで、天皇の戦争責任は見事に回避された。そしてそのために周到に用意された茶番劇の舞台が東京裁判だったわけだ。処刑を前にして、A戦犯たちは広田弘毅元首相の音同で「万歳三唱」をとなえたという。広田は万歳を「まんざい」と発声したと伝えられるが、それはたしかに「漫才」だったのかもしれない。


2003年05月26日(月) あかね雲

8.留年

 二月のある日、大学の帰り道に、後ろから若い女の声で、
「格子戸を潜り抜け、見上げる夕焼けの空に……」
 弘子だった。肩を並べると、
「勉強しているの」
「ちっとも。君は?」
「気持が乗らないの。でも、留年は避けたいわね」

 橋の手前の交差点の角がパチンコ屋で、一軒隣が喫茶店だった。私は彼女を誘うつもりで、
「コーヒーでも奢ろうか」
「学生は無理をしないの。それに風邪気味なの」
 彼女はそう言った後、少し考えて、
「明日のお昼、一緒に生協で飲みましょう」 

 翌日、私は弘子と生協の喫茶店に行き、コーヒーとサンドイッチを注文した。彼女は鼻をかみすぎたらしく、鼻の先が腫れていた。私は赤い鼻の彼女に親しみを覚えた。
「お寺で一緒に勉強しないか」
 進級試験に合格しないと、四年生になれなかった。あと一週間、弘子と二人で寺に籠もって頑張れば、展望が開けそうな気がした。
 弘子も異存はなくて、明日からという段取りになった。

しかし、その晩から弘子の風邪が悪化した。勉強会は中止になって、私は準備不足のまま試験に臨んだ。結果は「量子力学」などの主要三科目が落第だった。三年生をもう一度やりなおすことになった。

 弘子や他の友人達も留年したので、それほど落胆しなかったが、仕送りをしてくれている福井の両親にすまない気持になった。そこで私はこれを機会にアルバイトをして自活することを考えた。


2003年05月25日(日) 大君は神にしあれば

 1946年6月18日に、東京裁判の首席検察官キーナンが、「天皇を裁判にかけない」と発表すると、巣鴨に収容されていた戦犯達はだれもが声を上げて泣いたという。そして重光葵(元外相)はこんな歌を詠んだ。

  大君は神にしあれば勝ち誇る敵の手出しもとどかざるはや

 1948年11月12日の判決では、23名が有罪とされ、東条英機を含む7名に死刑が宣告された。もと首相だった広田弘毅も死刑だった。彼の場合は11人の裁判官のうち6名の賛成で死刑が確定したのだという。

 裁判官のなかで、インドのパル判事は全被告の無罪を主張していた。オランダのレーリンク判事も広田を含む5人の無罪を主張した。中でもパル判事は「本件の被告は、ヒトラーの場合といかなる点でも同一視することはできない」と主張していた。そしてアメリカの原爆投下こそ、唯一これに比肩する残虐行為だとして連合国による裁判そのもののあり方を批判した。

 裁判長を務めたオーストリアのウエッブ判事も「ドイツの被告の犯罪が、日本の被告の犯罪よりもはるかに凶暴で多様で広範なものだった」と述べている。彼は「犯罪の指導者を裁判にかけることができるのに、それが免責されている」として、天皇の戦争責任が棚上げにされたことを非難した。そして死刑判決を再審のうえ減刑することを提案した。

 フランスのベルナール判事もこの裁判にたいする判決を拒否した。その理由は「そこにひとりの重要な戦争仕掛け人がおり、そのものが一切の訴追を免れていること」だった。彼もまたウエッブ同様、天皇不起訴により、この裁判があまりに公正を欠いたものになったことに怒りを覚えていた。

<判決が言い渡されたその日、天皇はマッカーサーに書簡を送り、退位をするつもりはまったくないと宣言した。その八日後、首席検察官キーナンが、天皇を戦犯として裁く根拠はない、とあらためて言明した。

 そして11月25日、新聞が前日に起こった注目すべき三つの出来事を報道した。戦勝国数カ国の代表からの減刑の申し立てにもかかわらず、マッカーサーが多数決判決をそのまま承認した。キーナンが皇居に招かれて天皇とさしむかいで昼食をとるという希有の幸運に浴した。そして、東条英機が、死を前にして、ある新聞が「東条最後のメッセージ」と呼んだものを明らかにした。

 東条は、主君にひけをとらず悔恨の情とは無縁だったが、主君のように膝を屈しはしなかった。「最後のメッセージ」は、日本は挑発されたわけでもなく、国家安全保障上の法にかなった関心からでもなく戦争の道に進んだ、とする判決の基本前提に異議を申し立てていた。東条はこう言ったとされている。「世界諸民族は自衛戦争の開始をみずから決定できる権限を絶対に放棄すべきではない」>(「ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」)

 中国大陸進出や真珠湾攻撃を「自衛戦争」とする東条たちの主張に私は組みすることができない。しかし彼らが最後まで天皇の盾になることを慰めとして死んでいった心情には同情を禁じ得ない。オランダの法律家であったレーリンク判事は、「東京裁判はほとんどがアメリカのパホーマンス」で、それは「大々的な演劇公演かハリウッドの映画のようだった」と述べている。しかしその芝居には最も重要な役者が欠けていた。それは天皇であり、さらに付け加えるならば、本当の正義とか公平であった。


2003年05月24日(土) 敗戦前後の精神病院

 田辺聖子さんの「花衣ぬぐやまつわる」という杉田久女の伝記小説を読んでいて、敗戦後の精神病院の惨状を知った。戦後極端に食糧事情が悪化するなかで、国民の多くは闇市に殺到した。しかし、公立病院の場合は、闇のルートに頼るわけにはいかない。そんななかでも精神病院の食糧事情がとくに悪かったという。

 たとえば杉田久女が入院していた筑紫保護院の場合を見てみよう。副院長だった桜井医師が「敗戦前後の精神病院」という文章のなかで、「昭和20年の後半から21年にかけてが恐るべき飢餓時代になった」と書いている。田辺聖子さんの文章を引用しよう。

<この病院はもともと当時の岩田太郎院長の唱道する作業療法がさかんであった。広い敷地を利用して、患者に菜園を作らせたり、乳牛や豚を飼育させたりしていたという。しかし、敗戦後は、それらも食べつくし、追いつかないようになってしまった。闇ルートで食料を調達するすべもなく、配給だけでまかなっていかねばならない。敗戦後の混乱期は、病院の職員達も食べていくのがやっとであった。

 ・・・患者たちはひもじさを訴え、もっとご飯をください、というが、やがて栄養失調がすすむともう食事のことはいわなくなる。食欲すら失ってしまうのだ。栄養失調には二種類あった。骨と皮ばかりになり、干からびて死んでゆくもの、青白くむくんで腹水のために腹が大きくなり、ある日、火が消えるようにすっと死んでいくものだった。

 死んでいく患者を見るたび、医師たちは苦しんだ。医師たちは生き残っている。それはつまり、禁則に−−物資統制令に違反して闇の米を買い、物資を集めて生き延びているのだ。養うべき家族もいるから、当然、そうせざるを得なかった。

 しかし病院に閉じこめられている患者は与えられる公的配分の食事しか出来ないのだ。医師たちは良心の呵責を感じながら、どうしようもなかった>

 昭和21年2月になると、この病院では1月に20人もの患者が死んだという。棺桶が足らなくて、職員が走り回る毎日だった。そして結局、200人の入院患者のうち、生き残ったのは60人だった。女流俳人の杉田久女もこの病院で餓死している。久女を偲んで、彼女の残した佳句をいくつか紹介しよう。

  紫陽花に秋冷いたる信濃かな
  夕顔やひらきかかりて襞深く
  朝顔や濁り初めたる市の空
  谺して山ほとぎすほしいまま
  花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ

 


2003年05月23日(金) あかね雲

7.赤旗の配達

 理学部の自治会は私の友人が執行委員長をしていた。私がオルグした同級生や下級生も生徒議会の議長に選ばれるなど枢要な地位を占めていた。すでに弘子をはじめ私の友人の多くは共産党に入党していた。
 やがて私も学習会での貢献が認められ党員になった。そして赤旗を配達する任務が与えられた。

 毎朝四時前に、私は寺の山門の石段に腰を下ろして、弘子が自転車で来るのを待った。ジーパン姿の彼女から三十部ほどの赤旗を受け取ると、彼女が次の場所に自転車で向かうのを見送ってから、新聞紙の束を抱えて街を歩いた。
 牛乳配達のおばさんと顔見知りになり、挨拶をするようになった。朝のすがすがしい景色もよかった。運動靴で走るのも悪くはなかった。

 赤旗を無造作に郵便受けに入れたり、ガラス戸に挟んだりしないように注意されていた。大学では共産党が多数派で威張っていたが、世間ではまだ小数派だったから人目をはばからなければならない事情もあった。そうした偏見や差別に抗して戦っている一般の党員に比べれば、学生の活動家の多くは体制順応者に過ぎなかった。

 七十年代のこの時期に共産党は社会党と協力して反戦平和の運動を展開していた。京都や東京、大阪、名古屋といった大都市で革新首長が誕生した。第三十三回衆議院選挙では共産党は三十八議席を獲得して、自民、社会につぐ第三党になった。

 しかしこうした党の躍進も、赤旗の配達のような地味な活動によって支えられている。全国各地で私と同じように機関誌を配っている仲間がいて、待ち望んでいる仲間がいる。そう思うと、私は党に親近感を覚えた.。


2003年05月22日(木) 日蓮と一念三千論

3.鎌倉へ

 日蓮が叡山に留学して学んだことは何だったのか。それは一言で言えば、「天台本覚思想の絶対的一元論」だった。この思想についてはいずれ解説したいが、とにかく、日蓮はこれこそ絶対の真理であると信じて布教活動をはじめた。

 しかし、当時日蓮の周囲で勢力があったのは念仏宗だった。とくに地頭の東条景信というその地方の有力武士が熱心な念仏の信者だったので、念仏宗批判を繰り返す日蓮を排斥した。結局、日蓮は難を逃れて、清澄山を去り、布教の地を求めて鎌倉に行く。彼が日蓮と改名したのは、この翌年、33歳の時だ。

 この頃、日昭、日朗、四条金吾、波木井実長、日興といった有力な弟子や信徒ができた。しかし、日蓮はこうした布教活動の傍ら、大きな疑問に捉えられる。それは当時鎌倉を中心に続出した天変地異や社会不安の高揚についてである。

 仏教がこれほど盛んに信奉されながら、どうしたわけで世の災害がしずまらないのか。これは仏教の信奉のされかたに間違いがあるのではないのか、という問題意識が日蓮の中に生まれてきた。そしてこうした観点に立って、日蓮はもう一度仏典の研究に向かう。

「これ等の災夭に驚きて、ほぼ内典五千、外典三千等を引き見る」(下山御消息、56歳)と後に当時を回顧しているとおりである。この結果、日蓮はさらに一つの確信をつかむに至った。その確信に基づいて書かれたのが「守護国家論」(38歳)であり、「立正安国論」(39歳)である。


2003年05月21日(水) ダイオキシン法は悪法か

 ダイオキシンは青酸ソーダの500〜1000倍の毒性をもつといわれている。毒性の強いことで知られているサリンよりも10倍ほど強いと言われ、化学物質としては最強の毒性である。こうしたダイオキシンの毒性が,世界で注目されたのがベトナム戦争のときだ。ベトナム戦争でアメリカ軍は,森林を枯らしてベトナム兵のかくれる場所をなくしてしまおうと,飛行機から大量の除草剤をまいた。

 この除草剤にふくまれていたのがダイオキシンである。体重50キログラムの人の場合,ダイオキシンの致死量は,およそ0.1ミリグラムだといわれている。つまり,1グラムで1万人、10kgで1億人の人が死んでしまうほどの毒性だ。そんな毒性の強いダイオキシンが,ベトナム戦争のときにはおよそ200キログラムもまかれた。

 作戦が進むうちに,アメリカ兵の多くが体調不良をうったえ,除草剤をまいた地域で生まれた子どもには生まれつきさまざまな障害があらわれ、妊婦が流産する例も多く見られるようになった。こうしてダイオキシンの毒性が広く世界で認識されるようになった。

  しかもダイオキシンの毒性は通常の環境汚染物質とは違っていた。ダイオキシンは摂取されると体内の脂肪に蓄積し、やがて血液で運ばれて人体の奥深く細胞核にまで侵入し、染色体を攻撃して遺伝子の働きを攪乱する。その結果、ある種の酵素が不必要に活性化して、細胞の増殖や分化に異常が起き、免疫異常によって体の恒常性がくずれる。これが癌や奇形や発育異常の原因になる。このようにダイオキシンはホルモンと似たような性質をもつので極めて微量でも影響が大きいわけだ。

 こうした恐ろしい毒性をもつダイオキシンは焼却炉によって簡単に作られる。以前は塩化ビニールがダイオキシン発生の主原因だとされていたが、今ではあらゆる都市ごみからダイオキシンが発生することがわかっている。さらに研究の結果、ダイオキシンの発生は焼却施設の構造や焼却温度、操業条件などに大きく依存し、適切な焼却管理が発生の抑制につながることがわかってきた。

 こうしたことから、わが国でもダイオキシン法が作られ、各地に新しいごみ焼却炉が誕生している。しかし、「ダイオキシン−神話の終焉」(日本評論社)の共著者である渡辺正・東大生産技術研究所教授によると、日本がダイオキシンで汚染されたのは6、70年代、水田に有機塩素系の除草剤「PCP」「CNP」が使われ、その不純物としてダイオキシンが広がったためだという。PCPなどが使用禁止になるまでに約600キロのダイオキシンが環境に出た。これはベトナム戦争で使われた除草剤中のダイオキシンの3倍もの量である。

 ダイオキシンは分解しにくく、6、70年代に田圃に散布されたダイオキシンがまだ環境中に七、八割は残っていて、それが田から川へ、そして海へ行って、魚の体内に摂取され、食物連鎖によって濃縮されている。今日我々の体に体に入るダイオキシンはほぼ95%が食事からで、その7割以上が魚介類に含まれている。だから、焼却炉のダイオキシンをたとえゼロにしても、肝心な摂取量はそれほど減少しない。

 たしかに一年間に日本で生産される焼却灰に含まれているダイオキシンは約3000万人分の致死量であるが、しかしこれは焼却灰の総量について言われることで、焼却灰によって致死量のダイオキシンを摂取しようとすれば、1人あたり約200キログラムの焼却灰を食べなければ死に至らない計算になる。汚染された魚介類に換算しても、致死量のダイオキシンを摂取するには人の一生の10倍分を食べる必要があるという。いずれにせよ非現実的な話である。

 人間は1キログラムの醤油を飲めば確実に死に至るから、日本の醤油の年間生産量は約10億人の致死量に相当するということができる。考えようによってはダイオキシンの含まれた灰より醤油の方がはるかに劇毒だということもできるわけだ。渡辺教授が、「ダイオキシンは恐竜時代からあったし、その毒性も心配ない。日本の現状は誇大妄想だ」と主張するのもわからぬではない。

 渡辺教授によれば「ダイオキシン法」による焼却炉の規制は壮大な無駄だという。ダイオキシンを減らすには、800度以上でゴミを燃やし続けないといけない。そのため、ゴミ収集にも莫大な輸送用エネルギーを使う。古い焼却炉を廃棄したり、新しい焼却炉を生産するのにも莫大なコストがかかる。これらによって消費される資源やエネルギーも馬鹿にはならない。渡辺教授はこうしたことを総合的に考えれば、ゴミは発生源で処理するのがベストで、学校の焼却炉をやめたのも間違いだという。

 こうなると、一体何のために大騒ぎをしてダイオキシン法を作ったのかと、いささかキツネに化かされたような気がする。私たちはパナウエーブ研究所の白装束集団の被害妄想的で過敏な行動を、非科学的だとばかり笑っていられないようだ。大切なことは、性能の良い大型焼却炉をつくることではなく、ゴミの発生そのものをなくすことだろう。環境に優しい省資源型の社会をめざす発想に立った法律の制定こそが求められている。

(参考サイト)
http://www.hokuriku.chunichi.co.jp/00/sci/20030218/ftu_____sci_____001.shtml


2003年05月20日(火) 渓流の楽しみ

 日曜日に妻と二人で恵那の方へ遊びに行ってきた。夕森公園の龍神滝や付知渓谷の不動滝などに足を運び、深緑の渓流を楽しんだ。私の家からだと、車で二時間半ほどの距離である。高速道路は使わずに、国道や県道を走ったが、渋滞もなく快適なドライブだった。

 夕森公園はキャンプ場になっていて、渓流ぞいにバンガローが立っていたが、いまはその季節でないのか人気はなかった。渓流の岩の上で景色を眺めながらお昼にした。途中の茶店で買ったよもぎの草餅がうまかった。そのあと、吊り橋を渡ったりしながら、滝に近づいた。

  木洩れ日の吊り橋ゆれて谷底の
  滝の清水を妻と愛でけり   裕

 夕森公園の渓流はどちらかというと女性的でやさしかったが、付知渓谷の渓谷は男性的で谷も深い。不動滝からさらに先の滝まで歩いたが、途中長い吊り橋があってそこから下を見下ろすと眩暈がしそうになった。深山幽谷の趣が味わえて、厳かな水音に身が引き締まった。

 帰り道、国道ぞいの喫茶店に寄った。バルコニーから渓流が見下ろせた。向かいの山に日があたり、みどりが美しかった。コーヒーを飲みながら、「たまには家庭サービスもしないとね」と声をかけると、「何を言っているのよ。こうしてつきあってあげているのよ」と妻に言われてしまった。

 少し前までは娘達もついてきたが、今は私が声をかけてもついてくるのは妻くらいである。来週の休みにはやはり妻と二人で片知渓谷へでも行こうかと思っている。子供が大きくなって、夫婦の時間がもてるようになったが、そういえば私たちは結婚前もデートといえばよく渓流を歩いたものだった。私は街の喧噪が嫌いで、渓流の自然でいやされることが好きだった。田舎育ちのせいかもしれない。


2003年05月19日(月) あかね雲

6.夏の風

 私は無住の寺で気兼ねなく暮らした。尋ねてくる友人の多くは組織の仲間で、彼らと交流することで、頭の中には社会科学や哲学、文学に関する知識が蓄積していった。

 しかし、数学の知識は蓄積せず、発展もしなかった。いつか簡単な微分方程式でさえ解けなくなっていた。湯川秀樹や朝永振一郎のような立派な物理学者になりたいという高校時代の夢が遠い彼方にかすんでいた。

 三年生の夏、理学部の組織でマルクス・レーニン主義を学ぶ学習会を行うことになった。そのレポーターの役が私と弘子に廻ってきた。私たちに課されたテキストはエンゲルスの「私有財産、家族および国家の起源」で、そのためにレジメを作り、発表に備えなければならない。

 弘子が寺にやってきて、一緒に準備をすることになった。夏の盛りだったが、境内の木陰を抜けてくる風で庫裡は涼しかった。私たちはちゃぶ台に向かい合い、エンゲルスの文章をあれこれ考察した。

 労働の剰余価値が私有財産を生み出し、相続の必要性から家族制度や国家権力が発生する道筋が書いてあった。エンゲルスは、マルクスほど難解ではない。深みに乏しい嫌いはあるが、簡明な文体はありがたかった。

 勉強ははかどり、三日ほどでめどがついた。私は畳に寝ころんで背伸びをした。そして何気なく横を見ると、ちゃぶ台の下に弘子の素足が見えた。前屈みになった弘子の膝が少し崩れて、ほんのりと汗ばんだ内股が見えた。その奥の下着まで見えそうで、私はあわてて体を起こした。

 弘子は私の動揺も知らずに、レジメの原稿を生真面目な顔でチェックしていた。
「先輩とはうまくいっているの」
 気になっていたことを訊いてみた。弘子は首を横に振った。憧れだった演劇部の先輩は春に大学を卒業し、大阪に帰って就職したとのことだった。

「気持を打ち明けたの?」
「ええ」
「それで?」
「ふられちゃったわ」

 私はレジメに目を落とすと、鉛筆で線を引いた。しばらくして目を上げると、弘子が遠い目つきで窓の外を見ていた。境内の菩提樹や杏の木の葉を揺らして吹き込んでくるそよ風が、彼女のショートカットの髪をゆらしていた。


2003年05月18日(日) 天皇への手紙

 1946年の元旦、天皇が「人間を宣言」の詔書を読みあげた。復員兵の渡辺は天皇が退位もせずに居座り、何の反省もなく現御神(あきつみかみ)であったことを否定するくだりに、あらためて激しい憤りを覚えた。

<詔書が「詭激の風」と道徳の衰退に警告を発している点もまた、彼を激怒させた。そのような状態を引き起こしたことにたいして、天皇ではなくて誰が責任を負っているというのだろうか? 天皇自身がいまだに戦争責任を取っていないというのに、国民の道徳衰退について話すことなどできるのだろうか?

 ・・・8月15日の詔書でも、1月1日の詔書でも、「私の責任である。謝罪する」の一言もなかったではないか。天皇が日本の民主化に指導的役割を果たしたことをマッカーサーが賞賛したという記事が新聞に出たとき、渡辺はこれは甘くない砂糖のような矛盾だと批判した。

 民主化は民によってのみ達成されるのだ。だからこそ、デモクラシーは民主主義と訳されたのである。この4つの文字は、字義通りには、「人民−主権−主義」を意味する>(ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」)

 2月22日、サイパンから帰ってきた兵隊と天皇がこんな会話をかわした。
「戦争は激しかったかね」
「ハイ、激しくありました」
「ほんとうにしっかりやってくれて御苦労だったね。今後もしっかりやってくれよ。人間として立派な道に進むのだね」

 この会話を聞いて、渡辺は絶望した。もし天皇がまともな人間なら「私のためにご苦労をかけてすまなかった」と言うべきではなかったのか。天皇の無責任な発言を容認すれば、多くの国民は「天皇さえも責任を取らずにすましてしまったのだから、私たちが何をしようと責任を取る必要がない」と考えるようになるに違いないではないか。

 実際、彼は数日後、中国戦線で従軍していた退役軍人が、現地で犯した残虐行為について、まったく良心の呵責も感じないで話をしているのを聞いた。その男の無責任さは天皇の無責任さを反映しているように思われた。残虐行為さえ「よくやった」で済まされて良いのだろうか。

 彼は又、教え子たちを熱心に戦場に送り出した小学校時代の教師が、「戦争に負けたのは残念だったが、考えようによっては負けてかえって良かった。もし勝っていたら、日本では民主主義どころではなかっただろう」と語るのを聞いて、その教師の口振りに疑問をもった。

 4月20日、彼は村を離れる決心をした。それに先立ち、彼は天皇に手紙を書いた。その手紙の中で渡辺は天皇を「アナタ」と呼び、彼が兵役に服していたあいだに軍人として得ていたすべての給料の明細と支給品のリストを示し、その合計金額の4281円をそこに同封した。そして手紙の最後を「私はこれでアナタにはなんの借りもありません」と結んだ。

 その手紙は渡辺にとって多くの戦友を失った悲しみと怒りを表現するせめてもの行為だった。そして自分が新しく生まれ変わるにあたって、天皇との一切の関係を清算したいと願ったのだった。そのために必要な儀式でもあった。

 戦後、日本を占領したマッカーサーのもとには、たくさんの手紙が届けられたという。そのほとんどは親愛と感謝を綴ったものだそうだ。そうしたなかで、天皇に届けられた手紙もかなりあったことだろう。そこにいったい何が語られていたのだろう。そうした手紙が公開されることはないのだろうか。


2003年05月17日(土) くだかれた神

 学校の図書館から再び「ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」を借りてきた。その中に、復員兵・渡辺清の日記「砕かれた神」が紹介されている。渡辺さんは天皇を神だと信じていた。15歳で海軍に入隊し、戦艦武蔵の搭乗員として、マリアナ海戦にも臨んでいる。その後、戦艦武蔵が沈没して、戦友のほとんどは死んだが、彼は奇跡的に生き残って復員した。

 彼は天皇を無条件で崇拝していた軍国少年だったという。そして「聖戦」で天皇に命を捧げることを臨んでいた。そんな彼は敗戦後も規律を守り、軍からは何もかすめとらずに帰郷した。ところがそのために、彼は隣近所の復員兵と比較されて、家の中で肩身の狭い思いがしたという。敗戦を機に、まわりの雰囲気がまるで変わってしまった。そうした変化に彼はついていけない。

 東条英機のへまな自殺未遂に嫌悪感を抱き、天皇がマッカーサーを訪問したときの写真を見て、吐き気を催した。なぜ天皇は恥ずかしくないのか、渡辺には理解できなかった。「天皇はその元首としての神聖と権威を自らかなぐり捨てて、敵の前にさながら犬のように頭をたれてしまった」と日記に書いた。彼の中で「天皇陛下」がこの日に死んだ。

 新聞やラジオがアメリカ民主主義を称え、政府が「一億総懺悔」を宣伝しはじめた。しかし何故国民が懺悔しなければならないのだろう。むしろ、天皇を含めた戦争責任者が国民に対して懺悔するのがほんとうではないか。もし天皇が本当に戦争がしたくなかったのなら、何故開戦の詔勅に署名をしたのか。なぜ天皇は真珠湾攻撃の責任を東条に押しつけようとしているのか。天皇こそ真っ先に責任をとり、国民に懺悔しなければならないのではないか。

 渡辺の敗戦の無力感はいつか天皇に裏切られたという怒りにかわったいた。彼は皇居に火をつけ、お濠の松の木に天皇を逆さまに吊し上げて、欅の棍棒で打ち据えることを夢想した。また、天皇を海の底に沈めて、そこによこたわる幾千もの死骸を見せてやりたいと思った。

<彼の村では、人々はすでにマッカーサーのことを新しい天皇、あるいは天皇の上に立つ新しい国王と呼びはじめていた。人々の移り気に彼はむかむかした。同胞の日本人たちは、誰であろうとも、その時もっとも権力を持っている者にただ身をすりよせていっただけなのだ。「時代が変わったのだ」と人々はいつも言い続けているが、渡辺はそのようなうすっぺらな実利主義に加わる気はなかった。

 ・・・天皇制の打倒を呼びかける共産党のポスターを目にしたとき、渡辺は思わず苦笑してしまった。戦時中、天皇への忠誠心は「赤心」と一般には言われていた。今、彼は共産党のポスターに同意している自分に気付き、彼は自分がまったく異なった「赤い心」を持つようになったことを認めたのである。12月初旬、彼はあらゆることを自分で判断することに決めた。もう二度と他人の言うことを無批判に受けいれることはすまい>(ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」)

 この後、渡辺がどうなって行ったか、それは明日に日記に書くことにしよう。


2003年05月16日(金) あかね雲

5.卯辰山

 寺に下宿するようになって、卯辰山を歩くようになった。寺を出て、観音院の前の坂道を登っていくと、三十分で展望台に出る。そこから市街が一望できた。晴れた日には河北潟や日本海まで眺められた。

 近くに徳田秋声の文学碑があり、民家の土塀を模して、その前に碑が建っていた。設計は犀川湖畔にある犀星の「あんずよ花着け」の碑と同じく谷口吉朗博士だ。滋味のある落ち着いた感じの文学碑だった。

 初夏の頃、私が物思いに耽りながら卯辰山の山中の小道を歩いていると、若い女の声が聞こえてきた。声の感じが、弘子に似ていた。それは当時流行っていた天地真理の歌の一節だった。

 私の胸は期待でふくらんだ。私は傍らの灌木の中に身を隠そうかと考えたが思いとどまった。淋しい山中で驚かしたりして、人違いだったら大変である。
 梢では小鳥のさえずりがしていた。私はそれに耳を傾けているふりを装うことにした。

 やがてスカートの素足が灌木から見えた。私に気付いたらしく歌声が止んだ。
「こんにちは」
 高校生くらいのお下げ髪をした見知らぬ少女が、そよ風のように去っていった。


2003年05月15日(木) 日蓮と一念三千論

2.日本第一の智者

 日蓮の伝記を繙いてみると、彼は承久の乱(1221年)の翌年、貞応元年に千葉県安房郡小湊で生をうけています。そして弘安の役(1281年)のあった翌年、弘安5年に世を去っています。62年の生涯でした。

 彼は12歳の時、清澄山という彼の生地に近いお寺に登りますが、やがて17歳の頃、仏教についての知識を深めるために、諸宗修行の旅に出ます。後に日蓮はこの頃のことを回想して、こう書いています。

「幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給え。十二の歳よりこの願を立つ」(破良観等御書 55歳)

 日蓮は自分のことを「栴陀羅が子也」(佐渡御勘気鈔)と書いているように、貧しい漁夫の家に生まれたようです。そんな日蓮が清澄山に入り、学問(仏法)で身を立て、「日本第一の智者」になれるようにと願を立てたのは、彼が漁夫の子でありながら大変聡明であったからだと思います。

 しかし清澄山は「遠国なる上、寺とはなづけて候へども修学の人なし」(本尊問答鈔)という状態でした。そこで、当時の政治の中心地であった鎌倉へ登り、さらに見聞を広め、真理を究めるべく、21歳のころに当時の学問の中心地であった比叡山へと旅立ったわけです。

 日蓮はこうして京都で10年間修学・修行をして、自分が絶対の真理を掴んだという確信を得ました。そして32歳のとき叡山を去り、故郷に帰って来ます。ところが、学業を終えて故郷に帰ってきた日蓮の前途は大変険しいものでした。


2003年05月14日(水) みかんの花咲くころ

 朝のテレビで一面に咲いている蜜柑の花が写し出されているのをみて、思わず大好きな小学校唱歌「みかんの花咲く丘」を口ずさんでいた。毎朝堤防で吹いているオカリナでもさっそく吹いた。

  みかんの花が咲いている
  あの山の道丘の道・・・

 昭和21年にNHKラジオで歌わっれた川田正子のヒット曲である。戦後の混乱期にあって、この歌は人々の心にやさしい潤いをあたえた。作曲は海沼実,作詞は加藤省吾だ。

 川田正子は「音羽ゆりかご会」の童謡歌手で、その可憐な澄んだ歌声が国民を魅了した。当時川田正子が歌った中には「里の秋」もある。これも私の大好きな歌で、秋になると毎日オカリナで吹いている。

  しずかなしずかな里の秋
  お背戸に木の実の落ちる夜は
  ああ母さんとただ二人
  栗の実煮てますいろりばた

  明るい明るい星の夜
  鳴き鳴き夜鴨の渡る夜は
  ああ父さんのあの笑顔
  栗の実食べては想いだす

  さよならさよなら椰子の島
  お船に揺られて帰られる
  ああ父さんよご無事でと
  今夜も母さんと祈ります

 この歌がNHKラジオから最初に流れたのは昭和20年12月24日午後1時45分のことだという。戦争が終わって、復員してくる父親を待つ母と子の気持が日本の秋の風物に託されてしみじみと歌われている。

 ところで「里の秋」の作詞者・斉藤信夫は千葉県船橋市の小学校の教師をしていて、彼は太平洋戦争が始まった年に「星月夜」という題ですでにこの歌の作詞をして、「音羽ゆりかご会」を主宰していた作曲家の海沼実に送っていた。その歌詞は1番と2番は同じだが、3番と4番が次のようだった。

  きれいなきれいな椰子の島
  しっかり護って下さいと
  ああ父さんのご武運を
  今夜も一人で祈ります

  大きく大きくなったなら
  兵隊さんだようれしいな
  ねえ母さんよ僕だって
  必ずお国を護ります

 戦後、戦場に教え子を送り出した罪を悔いて教師を辞めていた斉藤信夫のもとに、作曲家の海沼実から呼び出しの電報が届く。3番の歌詞をかえて復員兵を迎える歌詞にかえて欲しいという依頼だった。斉藤信夫が「里の秋」の歌詞をもってNHKにたどり着いたのは番組開始直前で、さっそく海沼実と川田正子にそれを見せたのだという。こうして「里の秋」が生まれた。

 まだ戦争の焼け跡の残る街角や闇市の雑踏にこの歌が流れたとき、人々は思わず可憐な少女の歌うこの歌に聴き入り、そして放送が終わると同時に、リクエストを要求する電話がNHKに殺到したという。

(参考サイト) http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/3000Lied-Foto/010030Lied.htm


2003年05月13日(火) 日本を近代化した男

 戦国武将の中で、私が一番好きなのは織田信長だ。私は彼こそ日本が生んだもっともスケールの大きな人物ではないかと考えている。当時は一向一揆が全盛であり、他に様々な宗派があって、民衆や武士の支持を受け、彼らの心を支配しつつあった。実のところ信長の最大の敵は宗教勢力だった。これを「天下布武」の理想に燃えた信長が粉砕した。

 彼の武力による支配がなかったら、日本はおかしな宗教国家になっていただろう。宗教の支配をうち破ることができたのは信長がいかなる宗教にも支配されない無神論者だったからだ。こんな自由な人は世界史的にも珍しい。前代未聞といってもよい。

 彼の「天下布武」のおかげで、日本はワケの分からぬ宗教国家になることを免れた。そして宗教戦争も経験せずに、平和に自由に暮らすことができた。信長がいなければ日本は恐るべき宗教国家になっていただろう。いまのイスラムのような世界を想像すればよい。

 信長の最大の功績は、宗教を政治から切り離したことである。政教分離を断行して、日本を本当に近代化したのは彼の最大の功績だった。そしてこれは世界史的に見てもほんとうにスゴイことだったのである。

 しかし、私は信長が本能寺で明智光秀に打たれたのも「天の配剤」だと考える。なぜなら、もし信長が天下を取っていたら、彼はまれにみる強力な独裁者として君臨していたにちがいないからだ。彼の「天下布武」の夢も日本という小さな島国に収まるものではなかった。

 おそらく朝鮮半島、中国に進出し、場合によってはインドやイラン、ローマまで侵攻して行ったに違いない。つまりアレクサンダーやジンギスカンに勝るとも劣らない大帝国を築いていた可能性がある。彼の夢はこの広大な世界帝国の皇帝になることであったとみてよい。

 日本に来た宣教師が、信長は地球が丸いということを認識した最初の日本人ではないかと書いていたが、信長ならそのくらいのことはやるだろう。当時日本の火縄銃の生産能力は世界最大であり、日本の保有する武力勢力はおそらく世界最強だったと考えられるからだ。経済的生産力の面でもヨーロッパやアジアのすべての国を凌駕していた。つまり日本の国力が一番充実していた時代だった。

 信長の夢を秀吉が引き継ぐが、やはり器が違う。それに秀吉は信長の後継者になるために精力の大半を使わなければならなかった。信長が光秀に打たれたことで、世界制覇という信長の野望が費えたわけだが、これは日本にとっても世界にとっても幸いなことだといわなければならない。

 信長が打たれ、秀吉が死んで、最後に生き残った家康が日本の国を治めることになった。そして彼は宗教を馴致し、これを政治の支配下に置くことで日本に未曾有の平和な時代を実現した。こうして日本の宗教は開祖達の理想を忘れ、堕落した葬式仏教として余命を保つことになったわけだが、これもまた「天の配剤」だと言えないこともない。


2003年05月12日(月) あかね雲

4.東の廓(くるわ)

 寺の近くが色町だった。「おひがし」と呼ばれた遊郭の名残が今も残っていて、紅殻格子の家並みの路地を歩いていると、笛、太鼓、三味線の音が聞こえてきた。芸子と思われる粋な女性に街ですれ違うこともあった。

 芸事を嗜みながら暮らす人たちには、何か独特のみやびな風情を感じた。そこにはふつうの市井では感じられない情緒や色香がほのかに匂っているようだった。それは、その街で暮らしている子供たちにまで及んでいた。

 私の住んでいた寺の境内はそうした近所の子供たちの遊び場で、夏休みにはラジオ体操の会場になった。子供たちのなかに目のきれいな少女がいて、彼女の溌剌とした表情や澄んだ声が印象的だった。

 私は大学への行き帰りに、屋号の浮き出た行燈の並ぶ軒下を、三味線や小太鼓の音に耳を傾けながら歩いた。一角に東湯という銭湯があって、私はそこに通った。

 あるとき、湯舟に浸かっていると、寺の境内で見かけた少女が男の子を二人連れて入ってきた。男の子は体を洗わずに飛び込んできた。
「洗ってからはいるのよ」
 少女は洗い場で掛け湯をして、少し遅れて入った。
 胸元がふくらみかけていた少女は湯舟の私に気付くと、黙って背を向けた。私が銭湯の男湯で彼女を見かけたのはその時だけだった。

 銭湯の近くに、小島弘子の家があった。しもた屋風の民家で、浅野川に並行して走る道筋にあった。私は学校の行き帰りにその前を通って、表札に目をやっていた。弘子もこの銭湯を利用しているかも知れなかった。 


2003年05月11日(日) ボールに集中

 4月29日にテニス部の公式試合が終わり、3年生は一応引退と言うことで、今日はその追いだしコンパをかねた親善試合大会をすることにしている。毎年今頃に行っている行事で、今年は2,3年生20名余りと、顧問やコーチ3名が参加する。
 
 全員に弁当を用意し、また賞品も部費から2万円ほど出して買った。部費の正体は公式試合に参加した生徒の交通費だから、これをこの機会に生徒に還元することにしている。成績のいいものから順に、好きな賞品を選んでいくので、下位になるとソックスくらいしか残っていないが、それでも全員にいきわたるだけの数は用意してある。

 今年で3回目になるが、回を追うごとに私の成績が落ちてきている。昨年は体調不良の上、昼にビールを飲んだりしてので気分が悪くなり、午後の試合を放棄したため、ほとんど最下位に近い成績だった。今年も血圧の薬を飲んでの出場だから、あまり無理は出来ない。成績はぱっとしないだろうが、これも愛嬌である。親善第一で楽しみたいと思っている。

 ところで、この春の公式試合は県大会出場を逃すなど、やや残念な結果になった。試合を見ていて思うのは、やはり基本のストローク力が弱いということ、それから試合運びを知らないということである。練習量はかなりのものだったが、問題はその質である。基本的な技術の習得に向けて、地道な基礎練習を重視する必要がある。

 試合に臨む選手に、顧問として言い続けたことは「ボールに集中しろ」ということだった。ミスショットの多くはボールから目が離れたところで起こっている。相手の選手や、相手の学校の応援の声が気になったり、隣のコートが気になったり、試合中に色々な雑念が浮かんできて、集中が途切れる生徒がいる。また、大事なところで萎縮して、本来の力が出ないことがある。

 ボールに集中することで、そうした雑念を払いのけることが出来る。そのボールから相手の動きも見えてくるし、そうすると自然とリズムがよくなり、試合の運びもよくなり、主導権を握ることが出来る。これは25年ほどテニスをやってきて私が得た結論なのだが、さて今日の試合で私自身どれほど「ボールに集中」できるかである。


2003年05月10日(土) 恵まれない日本の理系

 幼稚園〜小学生男児の「なりたい職業」の1位が今年、「学者・博士」になった。常連のサッカー選手を抜いて初のトップだという。ノーベル賞のダブル受賞があり、世間の関心が科学技術に集まったこともあるのだろうが、ちょっと意外である。同じ調査を中学生や高校生でしてみたらどんな結果になるのだろう。

 アメリカや他の国に比べ、日本では理系大学出身者の待遇は非情に悪い。大阪大助教授らの調査によると、理系出身者の生涯賃金は文系出身者に比べて5000万円も低いという。霞が関の次官級官僚のうち、理系出身者はわずか3%で、ここでも文系優位がはっきりしている。

 今日の情報化社会では、その社会的命運は科学技術の振興にかかっている。にもかかわらず、文部科学省の官僚や大臣もほとんどが文系である。政界や経済界を見渡して、理系出身者のトップや管理職が異常に少ない。5000万円の格差が生まれるのももっともなような気がする。

 中国の例でみると、新執行部の9人のすべてが理系出身者でしかも博士号の持ち主である。つまり指導部を科学技術のテクノクラートで固めているわけだ。中国がいかに科学技術を重視し、そしてまた理系出身者の明晰な頭脳を政治の運営に活用しようとしているかがわかる。私はこの人事を見ただけで、中国の未来は明るいなと思った。

 日本を代表する世界的企業と言えば、ソニーやホンダ、トヨタがあるが、こうした企業の創業者はいずれも技術者である。今をときめく日産のゴーン社長も工科系出身である。米国では、事務職よりも博士号を持った技術職の社会的地位が高い。日本では、博士号まで取って進路が決まらない人は3割に上るというからその差は歴然としている。

 なぜ、日本の理系出身者はむくわれないのだろうか。これは学閥やコネといった人間関係を重視する社会的風土が大きいのだと思う。しかしそれに加えて、日本の理系出身者の視野の狭さや融通のなさも一因ではないかと思う。

 理系出身者は優秀な人ほど専門馬鹿で社交性に乏しく、殻に閉じこもった暗い性格だとみられがちだ。たしかに日本の理系出身者は頭が固い。社交性も社会的能力も乏しく、人間的魅力が感じられない。リーダーになる資格に欠けていると言ってよい。

 これは日本の偏狭な学校教育の問題でもある。受験中心の現在の体制ではこうなるしかないのだろう。学問は本来もっと自由で、人間的なものであるが、それが暗記や型にはまった思考を強要する非人間的な特殊技能を養成するシステムになっている。日本の理系出身者を「工学部刑務所」の囚人にたとえる人があるが、言い得て妙である。

 こうしたなかで、日本の若者はアメリカに留学するケースが多くなった。しかも、米国の大学で博士号を取った理科系学学生の半数以上が「アメリカに残りたい」と思っている。日本に帰っても自分の能力を活用する場がなく、生涯賃金が5000万円も安くては馬鹿らしくてかなわない。

 しかし、これでは日本の社会は停滞するしかない。日本を理系出身者が活躍できる社会にするために何が必要か。私はまずは理系教育の在り方が問われるべきではないかと思っている。そしてそのためには理系出身者自らがその殻を破る努力も必要だと思う。自然科学の持つ柔軟で創造的な思考を大いに活用して、広く世間と交わり、その能力を社会的に生かしていく前向きの生き方が大切である。

(参考文献) 毎日新聞「記者の目」(5/7日朝刊)
        http://www.mainichi.co.jp/eye/kishanome/200305/07.html


2003年05月09日(金) あかね雲

3.署名活動
 翌七十年になると、六月二十三日に安保条約が自動延長になるので、これに反対する運動が本格化した。私は署名運動に力を入れた。昼は街頭に立ち、夜は家庭訪問をした。玄関口では何だからと、部屋まで入れてくれる議論好きの人がいた。

「日本が平和で繁栄しているのは、安保条約によってアメリカが日本を守っていてくれるからではないのかね。アメリカ軍を追い出して、だれが日本を守るんだい。社会党はソ連や中国と仲良くして非武装中立で行けばよいと言うが、肝心の中国とソ連がいつ戦争を始めるか分からないんだからこれは非現実的な空論だね。

 共産党はスイスのように中立武装を考えているようだが、日本にはシビリアンコントロールの実績がないからね。ソ連や中国みたいな全体主義国家になって、また戦前の軍国主義に戻っちゃうよ。

 やはり安保体制を維持しながら、軍備を最小限にとどめて、経済活動や文化活動に力を入れて、平和で豊かな国作りを心がけるべきじゃないかね。いずれはアメリカ軍の基地は撤去すべきだが、そのためには日本にしっかりした民主主義が育たないとね」

 タクシーの運転手をしている中年のおじさんだったが、大学生の息子と議論をしているというだけあって、なかなか雄弁だった。

 私はその年の暮れに犀川河畔の下宿を出て、浅野川に近い卯辰山のふもとの寺に引っ越した。そこは日蓮宗の寺だったが、住職が病死して無住の寺になっていた。これまでの二食付き門限ありの堅苦しい下宿生活に比べて自由が利いた。そのかわり、境内の草むしりや、雪かきなどの仕事ができた。


2003年05月08日(木) 日蓮と一念三千論(1)

1.はじめに

 もう二十年近く前になるが、私は法華経や日蓮について友人のT君と対話を試み、双方に膨大な書簡をやりとりしたことがあった。その集大成となるのが、「日蓮と一念三千論」と題された私の手紙で、そのコピーが私の手元にあるが、これがなんと便箋120枚に及ぶ大作である。

 先日、思うところがあってこれを読み返してみたが、読み返すだけでも2時間はかかった。これを書くのにどれほどの時間とエネルギーを使ったことか、我ながら感心した。内容について、いささか腑に落ちない点はあるが、先ずはその情熱に圧倒され、この20年間、私はいったい何をしてきたのかと、いささか忸怩たる思いを禁じ得ない。

 私は親鸞に傾倒し、「歎異抄」を深く愛していた。日蓮は本来ならば論駁すべき相手なのだろうが、私は日蓮について知れば知るほど、この人物に大いなる魅力を覚えないわけにはいかなかった。ここにもすばらしく純な精神を持った偉人がいたのかと、うれしくて仕方がなかった。そのよろこびが、私にこのような膨大な文書を書かせたのであろう。

 手紙の日付は1984年12月28日になっている。そこで急いでその当時の日記を繙いてみた。そこにこんなことが書いてあった。

<静かな朝である。夜中にイヌの声で目をさましてから、なかなか眠れなかった。そのとき考えたこと。
 人は誰でも心中に夜叉を飼っている。夜叉は煩悩と言ってもよい。しかし、この煩悩があるが故に菩提があるのである。このことが一つ。
 それから、信仰とは何かと言うことを考えた。そして信仰とは究極において大自然の恵みを信じることであろうと思った。
 それから一念三千について考えた。現在の我の中に悠久な過去と未来があり、広大な宇宙があるということ。このことを考えると心が広々とし、浩然の気が生じて、生きてあることがしみじみと嬉しくなった>

 むかしの文章を読み返してみて、あらためて信仰ということについて考えてみたくなった。その手始めに、「日蓮と一念三千論」をとりあえず、この日記に連載してみようかと思う。週に一度、木曜日の日記をこれにあてることにしたいが、おそらくそのペースだと完結までに4,5年はかかるかもしれない。


2003年05月07日(水) 公園のベンチ

 連休中に父と祖母の13回忌で福井に帰省して、翌朝、実家の近くの公園に家族で散歩に行った。朝はやかったせいで、人気もほとんどなく、しずかだった。白、赤、ピンクのツツジやサツキが満開で、ほかに花菖蒲や小手鞠などが咲いていた。

 古ぼけた公園の木製のベンチに腰を下した。父もまたこのベンチに腰を下ろして孫を遊ばせたり、好きなカップ酒を家族に隠れて飲んでいたのだろう。そう思うと、古いベンチがいっそう身近に感じられ、父も眺めたであろう公園の木々が生き生きと迫ってきた。

 実家から歩いて5分のところにあるこの小さな公園にはいろいろな思い出がたくさん詰まっている。夏休みにはこの公園でラジオ体操をし、夜には野外映画を見たものだ。そして盆踊りや相撲大会、運動会もあった。おさななじみのT子と毎日ブランコを乗りに来たのも、初めて買ってもらった自転車の練習をしたり、そして学校帰りに好きな少女と初めてデートをしたのもこの公園だった。

 私が幼い頃は、まだ空の空気が澄んでいて、夜の闇も深かったせいか、この公園に来ると一面の星空で、天の川の姿も眺められた。おそらく若い頃の父と母が星を眺めて未来を契り会ったのもこの公園かも知れない。古ぼけたベンチに坐っていると、さまざまな想像が浮かんできた。

  公園の古木のベンチなつかしく
  亡父眺めし樹や花を見る    裕


2003年05月06日(火) 心の中のパルテノン

 作家の曽野絢子さんが、イラクのフセイン宮殿を文化財として保護するように訴えていた。宮殿や城は権力者がその力を誇示するために贅を尽くして豪華に作られている。そしてその栄華の跡は、時代がたつとともに輝きを増し、貴重な観光資源になる。経済的価値は大きい。

 エジプトのピラミッドやベルサイユ宮殿、イギリスやドイツや日本の数々の城や名園もそうだ。中国の紫禁城、ロシアのクレムリン宮殿、日光の東照宮など、私はテレビや写真でしか知らないが、その壮麗さは想像がつく。すでに跡形はないが、アレキサンダー大王が燃やしたペルセポリスの宮殿も絶大な権力を誇った専制君主の栄華の跡である。

 歴史に残る壮麗な宮殿や墳墓、庭園の多くは、強力な王権や特権的な貴族・商人の豪奢な生活から生み出された。しかし、嬉しい例外がないわけではない。たとえばギリシャのパルテノン神殿や劇場は公共施設であり、市民の共有の財産だった。ローマのさまざまな建造物もそうである。それらは市民のための公共財であって、権力者や富豪の専有物ではなかった。

 なかでも私はギリシャの神殿が好きだ。これも写真や映像で見ただけだが、いかにも簡素で神聖な感じがしてすがすがしい。私がギリシャを愛するのは、彼らがこうした公共の施設の建設をとおして彼らの理想の美を完成させたことだ。

 しかし彼らの想像力は目に見える世界を越えていた。彼らは精神世界に、壮麗な殿堂を築き上げた。その典型が学問や芸術であり、民主主義という新しい政治制度である。アクロポリスの丘に立つパルテノン神殿も美しいが、もっと偉大で美しい精神的建造物を人間はだれしも各々の内面に作り上げることができる、そのことを私たちは彼らから学ぶことができる。


2003年05月05日(月) あかね雲

2.片思い

 夏休みが明けて、物理の実験が加わった。学生二人でペアを組み、二週間で一つの実験を終え、結果をレポートにまとめなければならない。私にあてがわれたのは磁気ヒステリシスの実験だった。実験ごとにパートナーが変わるが、最初のパートナーは物理学科で紅一点の小島弘子だった。

 彼女も私と同じ民主青年同盟の組織に入っていて、理想を同じくする同士だった。いや、私にとって彼女は同士以上だった。私は彼女に片思いを寄せていた。それだけに彼女とペアを組むことは願ってもない僥倖だった。

 私たちはオシロスコープに写った磁気ヒステリシス曲線をカメラに撮り、暗室に入ってフイルムを現像した。写真の現像ははじめてなので、思うように行かない。ようやく三日目にフイルムの現像ができた。あとは焼き付けだからやり直しが利く。実験に集中していた私も一息ついた。彼女もほっとしたのか、暗室で鼻歌を口ずさみ始めた。

 私は焼き付けをはじめたものの、暗室の中に響く彼女の澄んだ歌声を聞いているうちに、何だか切ないものがあふれてきた。心のなかに「いまがチャンス」という声が響いた。私は作業の手をとめて、
「お願いがあるんだけど……」
「何?」
「僕とつき合ってくれないか」

 暗室のほの暗い照明のなかに、彼女の瓜実顔と白いセーターの胸が浮かんでいた。それまで軽快に流れていた歌声がぴたりと止まり、しばらくの沈黙のあと、
「ごめんなさい。私好きな人がいるの」 
 相手は演劇部の先輩だという。
「片思いなの。でも、自分の気持ちに正直になりたいから。彼がいなかったら、あなたのことを考えたかもしれないけど……」
 私はそれから調子を乱して、写真の焼き付けができなかった。


2003年05月04日(日) やっと自由な休日

 昨日、今日と、法事で福井に帰省してきた。父と祖母が相次いで亡くなったのが1991年の5月14日と17日だったから、やがて12年目になるわけだ。つまり十三回忌ということになる。

 久しぶりに会えた親戚もいて、何だかなつかしかった。まだ幼稚園児だった子が高校生のお嬢さんだったりする。それは先方も同じで、うちの娘も何時の間にか大学生だから子供の成長はほんとうにはやい。いずれにせよ、法事も無事終わって、これでようやく一息つくことができる。

 振り返ってみると、4月は慌ただしかった。今年も三年の担任になったが、面識があるのはテニス部の一人だけ。放課後、ひとりずつ面接をし、進路を話し合った。 この間、無断アルバイト、家出、授業エスケープがあり、保護者を次々と学校に呼び懇談した。おまけに部活の試合で土・日が6日間も拘束されるなど、超多忙だった。

 去年の暮れに、血圧が190を越え、通院し服薬してどうにか血圧の上昇を押さえているが、薬の副作用のせいか、ときには体中の筋肉が弛緩して無力感に襲われ、その場にへたりこみそうになる。病院で窮状を訴えると、椅子に坐らせたまま、しかも着衣のままでぞんざいに血圧を測り、「いぜん血圧がたかいようなので、飲んで下さい」と若いインターンのような医者は面倒くさそうに言うだけ。二時間も待たされて、診察時間は5分だけ。そして3000円も診察料をとられるのだから割り切れない。

 ベッドに寝てゆっくり深呼吸して計れば20は下がることを、この医者は知っているのだろうか。案の定、家に帰って計ったら、上は130しかなかった。場合によっては110を切ることさえある。急激な変化に身体がついていかないのだろう。その場にへたりこみそうになるときは、おそらくもっと下がっているにちがいない。

 現在、2種類の薬を自分の独断で1種類に減らして飲んでいる。自分の身体は自分で管理するしかない。医者の言うことを聞いているとろくなことにならない。このように、肉体的に辛い状態にあり、精神的にも疲労感が蓄積した4月だった。5月はすこし息をつきたいものだ。

 父が死ぬ前に言っていたのは、「医者を信用するな」ということと、「働きすぎるな」ということだった。ふと思い出して妻に言うと、「あなたのお父さんは65歳まで働いたんでしょう」と一蹴されてしまった。中学を出ると18歳で中国に渡り、軍隊に行き、戦後は職を変えながら、65歳までしゃにむに働き続け、67歳で体がぼろぼろになって死んでいった父が何ともあわれである。

 さて、気付いたらもうゴールデン・ウイークも明日一日しかない。一ヶ月ぶりに手にする完全に自由な休日である。勿体なくて、どこかに飾っておきたい気分だ。


2003年05月03日(土) 笑顔を忘れるなかれ

 卒業生を送り出して、二ヶ月がたった。進学したもの、就職したもの、みんな元気でやっているか気になるこの頃である。先日、大学へ進学したS君がやってきて、「K君が悪戦苦闘しているみたいだよ」と言っていた。K君は老人福祉の施設に正社員として就職した。大変な仕事だが頑張ってほしい。きっとそのうち、一回り逞しくなって学校に遊びに来るのではないかと期待している。

 K君に限らず、どこの職場も新人は大変に違いない。給料をもらって働くということは本当に辛抱がいることである。学生時代のようなわけにはいかない。職場の人間関係もなかなかむつかしく、気苦労もあるのだろう。そんなことを考えていたら、就職したF子から手紙をもらったので紹介しよう。

<毎日やはり大変です。何もかもが大変だし、仕事もむつかしいし、電話の内線も外線もうまくできないし……。毎日自己嫌悪です。
 最初からちゃんとできる人なんていないんだけど、やはりできないとへこみます。仕事も辛いけど、人間関係も大変です。みんなイイ人ばかりでいいんですけど、今まであった輪の中に入っていくのはすごく難しいです。
 社会人になることは大変だっていうことは学生の頃から分かっていましたが、いざ、その状態になるとやっぱ辛いです。
 今はすごく高校生に戻りたいです。のんびりと毎日普通に学校に行って、友だちと話して、家帰っての生活がすごくよかった。まあ、現実には戻れないんですけど……。
 でもまだまだ始まったばかりだし、これからまだまだ大変なことばかりだと思いますが頑張ります>

 さて、彼女にどんな返事を書こうか、今その文面を考えている。たとえばこんなことを書いて、彼女を励ましてやろうかなと思う。

<お手紙拝見。読んでいてなつかしかった。二十数年前、僕が教員になった頃を思い出したよ。やっぱり、最初は大変だったからね。分からないことばかり、そして失敗ばかり、はずかしいこと、くやしいことばかりだった。でも、そこを乗り越えると、少しずつゆとりができる。

 僕が思うに、働くと言うことは、単に給料を貰うためだけじゃない。自分だけのためだけじゃなくて、これは一つの社会貢献じゃないかな。自分の足で自立して歩くことは大変だけど、人の世話になって安閑と生きていてるより何倍もすばらしいことだと思うよ。

 だから、へこたれずにがんばってほしい。F子さんなら大丈夫。自分でも声が大きくて、元気が取り柄だって言っていただろう。いつもの笑顔さえ忘れなければ、職場でも好かれるよ。絶対大丈夫だ。応援しているよ>

 さて、今日から一泊二日で福井に帰省する。父と祖母の十三回忌に出席するためである。したがって明日の日記の更新は夜になるだろう。日記を書く秘訣はひとつしかない。すなわち「毎日書くこと」である。だから疲れていても、日記は欠かさずに書きたいと思っている。


2003年05月02日(金) 嬉しい手紙

5年ほど前担任した1年生のS君の父親から、先日嬉しい手紙をもらった。S君が短大の福祉学科に合格したというのだ。S君は入学してすぐに不登校に陥り、やがて学校を退学した。その間、私は彼の家を10回以上家庭訪問し、父親や母親にも何回か学校に来てもらった。

 学校を辞めて働きたいという本人に、「高校くらい卒業しなければだめだ」と最後まで反対したのが父親だった。結局、最後は父親が折れて、本人は退学し、働きはじめたわけだが、その数ケ月間の親子の軋轢がたいへんだった。家庭内の暴力もあったようである。しかし、学校を止めてから本人の表情があかるくなった。私が家庭訪問すると、「先生、こんなに貯金できたよ」と通帳を持ってきて見せてくれた。

 去年、父親が再び学校に相談にきた。S君が仕事を辞めて、勉強したいといいだしたので、どんな道があるか相談だった。定時制の高校や河合塾の大検コースなどいろいろな方法を紹介したが、結局本人は大検コースを選び、最短の1年間で短大に合格したようだ。本人は相当努力したに違いない。

<今本当の幸福とは何かと深く考えています。家族の健康、子供の成長、自分の出世、財産等が原点ではないのかと考えておりました。しかし、心の中で他人をおもいやり、自分自身を律することではないのか。又、自分も生き、他人を生かし共生することなのかと。私も50半ばになり生きてきた目的、成果を見出したいと思うようになりました。人生の目的とはなにか、本当の幸福とは何かと自問しながら生きていきたいと考えています>

 父親の手紙から一部を引用させていただいた。S君も逞しく成長したが、父親も大きく変わった。ほんとうに嬉しい手紙だった。昔は親子の対話もほとんどなかったが、今はドライブや買い物も一緒にするようになったという。この手紙への返信のなかで、私は次のように書いて、父親の労をねぎらった。

<人生には道草や回り道もときには必要かと思います。私も大学で2年留年し、教員に採用されたのは28歳の時でした。長い回り道でしたが、「幸福とは何か」いろいと考える機会に恵まれました。苦しいとき、人の支えが必要です。S君が自分の道を見出すことができたのも、お父さんの献身的な愛情と実践のたまものではないでしょうか。そのことをS君もよくわかっていると思います>

 少し前に、私は大学生になった娘に、「どこの大学に入ったかは問題じゃない。大切なのは大学で何を学ぶかだ」と言った。おなじ言葉をS君にプレゼントしたいと思ったが、辛い労働を経験し、世間の荒波を体験したS君には、あるいは釈迦に説法かも知れない。


2003年05月01日(木) 欺瞞と反抗の10年

サンデープロジェクトの「米国メディアが伝えたイラク戦争」によると、アメリカのテレビは負傷したイラクの子どもたちや泣き叫ぶ女性たちの姿を、まったく映さなかったという。そして米軍に大量の記者を同行させ、愛国心を煽るような映像を流し続けた。アルジャーラの報道は伝えないどころか、そのバグダッド支局を「誤爆」さえした。

 こうしてアメリカ自作自演のイラク戦争が終わり、アメリカ軍がイラク全土を掌握してもうかなりになるが、イラクが保有しているとされた生物化学大量殺人兵器はいまだに発見されていない。アメリカのイラク侵攻の主な理由だっただけに、この問題は蔑ろにされてはいけない。あくまでしっかり検証して欲しいものである。そしてできることなら、この検証を国連の査察機関に行って貰いたい。アメリカ政府の発表はあまり信用できないからだ。

 イラク軍はイラン・イラク戦争末期の88年3月、イラク北部にある少数民族クルド人の町ハラブジャで化学兵器を使ったとされている。パウエル米国務長官は2月の国連での報告で「クルド人に対するマスタードガスと神経ガスの使用は、20世紀の最も恐ろしい虐殺の一つだ。5000人が死亡した」と非難した。そして日米のメディアはこれを事実として報道した。

 しかし、米中央情報局(CIA)分析官の経歴を持つペレティエ米陸軍大教授(当時)らは90年の報告書で「両軍が化学兵器を使った。現実にクルド人を殺したのはイラン軍の爆撃である可能性が高い」と指摘している。死者はシアンガス中毒の兆候を示していた。そしてシアンガスを使っていたのは、イラン軍だった。しかも昨年10月のCIA報告書はハラブジャの事例を「死傷者が数百人」と記していて、5000人という数字もイラクに「悪の枢軸」というイメージを与えるためにでっち上げられた可能性がある。

 昨年9月、ブッシュ大統領が国連演説した際に「欺瞞と反抗の10年」という文書が公表された。ここには「イラクは95年、高級幹部の亡命後、スカッドミサイルの弾頭用として炭疽菌、ボツリヌス菌など数千リットルの菌を製造している事実を認めた」との記述がある。これだとだれしもイラク政府が95年時点で生物兵器を製造していたかのように読める。

 しかし、イラクが生物兵器を製造していたのは91年の湾岸戦争前のことで、CIA報告書にはそのことが明記されている。イラクはそのことを95年になって認めて、さらに亡命した高官でさえそれらは完全に廃棄されたと主張したのだが、「欺瞞と反抗の10年」の文章はそうした経緯については何も言及していない。

 こうしたアメリカ政府の事実歪曲の舞台裏を知らされてみると、ブッシュやパウエルの方が国際社会に対する「欺瞞と反抗」の主役であり、「悪の枢軸」ではないかと疑わざるをえない。それにしてもこんなにもお粗末なレトリックを使ってまで、急いでイラクを侵略したブッシュ一派の真意は何だったのか。これから少しずつ、その化けの皮が剥がれ落ちていくのだろう。

(参考サイト) http://www.mainichi.co.jp/eye/kishanome/200304/29.html
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20030320/mng_____tokuho__000.shtml


橋本裕 |MAILHomePage

My追加