橋本裕の日記
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2002年05月31日(金) 「二次方程式と因数分解」(4)

私「哲学好きのGさんと話していたら、話がずいぶんと高尚になってしまいました。初歩的な質問でもいいですから、他の方もお願いします。Eさん、何かありませんか」

E「そうですね。それでは、一つ馬鹿みたいな質問で笑われそうですが、2乗して9になる数は、3と−3だと言われましたが、この2数の他に答えはないのですか」

私「だれか、答えてくれませんか。Fさん、どうですか」

F「ありません。 二次方程式 X<2>=9 の答えはx=+3、−3 の二つだけです」

E「どうして2つだけだと分かるのですか」

F「そんなの、あたりまえではないのですか。いわゆる自明ということです」

G「ちょっとまってください。たしかに3の2乗は9ですし、−3の2乗も9ですから、この二つが解であることは自明と言ってもいいでしょうね。しかし、この二つ以外に、答えがないかどうか、自明と言えるかどうか、そう間単に決めつけてよいのでしょうか」

私「なるほど。その通りですね」

G「自明というより、自明のように思われているということではないでしょうか。常識的にはあたりまえでも、数学的には必ずしも明らかとはいえませんね。ここはちんと証明する必要がある」

E「証明ができるのですか。とすると、私の質問もまんざら捨てたものじゃないですね。是非、どなたか証明してください」

F「思い出しました。その証明は私にやらせて下さい。因数分解の方法を使えば簡単じゃないですか。

 x<2>=9、 x<2>−9=0, x<2>−3<2>=0
 (x+3)(x−3)=0、 これよりx=−3,3 できましたよ」

私「やってみると、簡単ですね。しかし、ここで、
  ab=0のとき、a=0またはb=0
 という公式が使われていることを留意しておきましょう。だれか、他に証明ができた人はありませんか」

G「3以外に解があったと仮定して、その解を 3+x と置いてもできそうですね。つまり、
 (3+x)<2>=9、 x<2>+6x+9=9, x<2>+6x=0
 x(x+6)=0 これを解いて、 x=0,−6 題意から xは0でないので、
 x=−6 となります。したがって、2乗して9になるのは他にもう一つだけ存在して、その数は 3−6=−3 ということになります」

私「なるほど。Gさん、なかなかやるじゃないですか。俄然、数学に目覚めたという感じですね」

F「私もすこし<数学>が分かってきましたよ。自明と思われることでも、ちゃんと証明ができるのですね」

私「そのとおりです。数学の命題は一部の定義や公理をのぞけば、すべて証明が可能です。数学で主張が正しいということは、それに先立つ命題から、そのことを論理的に導き出すことができるということなのです。さて、他に質問はありませんか。おや、たくさん手があがりましたね。Cさん、どうぞ」

 という訳で、明日の日記でCさんの質問を紹介しよう。

<今日の一句> 琵琶の実に 雨降りかかる 日暮れかな  裕


2002年05月30日(木) 「二次方程式と因数分解」(3)

G「今までのところで、もうすこし踏み込んで知りたいことがあるのですが、質問していいでしょうか」

私「もちろん歓迎します」

G「因数分解するとき、できたものと仮定して、

 x<2>+2x−35=(x+□)(x+○) ・・・・・・(2)

と置きましたね。私はこれがこの問題のポイントだと思いました。同時に、何かここには<飛躍>があるような気がするのですが・・・。数学ではこうした発想が大切なのでしょうか」

私「その通りです。できたものと仮定する、これは<存在の仮定>です。方程式を立てるという考え方の根底にあるのも同じ発想ですね。答えが存在したとして、それを<X>と置いて、式を作るわけです。こういうものごとを<仮定>することから<数学>の世界が始まります」

G「そうすると、数学をするには、想像力とか空想力が必要なわけですね。<仮定する>というのは、現実を離れて、別の世界を考えるわけですからね。そういえば、<虚数>などというわけのわからない<数>も習ったような気がします」

私「そうです。<虚数>は英語で言うとイマジナリ・ナンバーです。つまり<空想上の数>なわけですね。これに対して、実数は<リアル・ナンバー>で<現実の数>と呼ばれている。しかし、この<空想上の数>の登場するところが、数学らしいところだと思うのです」

G「ユークリッドが定義した点とか、直線とか、円などというのも、実際は論理上の想像の産物なんすね。実際には面積を持たない点や線は存在しませんし、完全な円などというものも存在しないでしよう。人間の頭の中だけに存在する観念でしかないわけですものね。考えてみれば、私たちが使っている<言葉>そのものがこうしたイマジナリとしての性格を持っていますね」

私「そういうことです。そしてこうした抽象的な概念を考え、これを自在に組み合わせるることで、現実というものがよりよく理解されるわけです。方程式の問題に帰ると、<x>という解を仮定することで、はじめて式を書くことができ、<x>そのものの値を求めることができます」

A「こうした方程式を立てて解くというような考えはいつごろからあったのでしょうか」

私「数学の歴史に詳しくないので、はっきりしたことは言えませんが、発想はギリシャ時代からあったと思います。ただ、方程式として具体的に表現されたのは紀元後のインドやアラブでだったようです。未知数に<x>という記号を導入したのはデカルトです。このころから、数学が飛躍的に発達して、やがて微分や積分が発明されるわけです」

G「デカルトの時代の数学を、いま学校で私たちが勉強している訳ですね。方程式を学習するのは、中学になってからでしたね」

私「そうです。いわゆる<9歳の壁>というのがあって、このころ、私たちの大脳の前頭葉ができあがり、働きだします。そうすると、これまでの感覚的な知能の段階から、もうすこし高度な操作的知能の段階に至ります。とくに11,12歳をすぎると、現実の世界にはないことも思考可能になるわけです。そして、抽象的に考えだしたものを、形式的に操作することができるようになります」

G「そこで、<x>を使った方程式の登場となるわけですね」

私「そうです。<算数>から<数学>への飛躍と言ってもいいですね。Gさんが最初に<飛躍>があると言ったのは、正しい直観でしたね。大切なのはこの<飛躍?であり、これが私たちの思考を現実の縛りから解放して<自由>にします。この自由を手に入れれば、私たちは仮説の上に立って、実践的に思考を進めていくことができるし、問題を首尾一貫した論理的体系としてとらえることもできるようになります」

G「数学を勉強するのに、想像力や空想力が必要だとは考えてもいませんでした」

私「<集合論>を作り出したカントールという数学者は<数学の本質は自由である>と言っていますが、まさに名言だと思いますね。数学は人間の<空想力や想像力の産物>だと言ってもいい。そしてその本質は因習的な常識に囚われずに、<自由に考えること>でしょうね。さて、哲学好きのGさんと話していたら、話がずいぶんと高尚になってしまいました。初歩的な質問でもいいですから、他の方もお願いします」

<今日の一句> 琵琶の実が 色づきにけり 小鳥来る  裕


2002年05月29日(水) 「二次方程式の因数分解」(2)

 さて、昨日に続いて、数学の授業のデモンストレーションである。対象は数学が苦手だという社会人のおじさんたち。中学校で習う「因数分解」を教材にして、彼らに数学の面白さを少しでも分かってもらおうと、もうひと踏ん張りしてみよう。

私「さて、このトランプのカードの数字をあててください。この数字を2乗した値に、この数字を2倍した値を足して、さらに35を引くと、その合計の値は0になります。Dさん、どうですか」

D「急に難しくなりましたね。まったく見当がつきません」

私「そう言わずに、頑張ってみましょう。Dさん、黒板に式を書いてみて下さい」

D「わかりました。こんなもんでどうでしょうか」
 
    x<2>+2x−35=0 ・・・・・・・・・・(1)

私「正解です。それでは、この式を解いてみましょう。左辺を因数分解するのでしたね。それでは、Eさん、やってくれますか」

E「私は数学は本当に苦手なんです。その、因数なんとかいう奴が、とんとわかりません。何ですかね、その因数なんとかというのは・・・」

私「因数分解です。たとえば 6=2×3 と分解できるでしょう。ここで、2とか3のことを6の因数と呼びます。この因数の積にすることを因数分解というのです。これは数字の場合ですが、式もこのように因数分解ができます。
 たとえば、 (x−1)(x+2) は次のように展開できますよね。

 (x−1)(x+2)=x(x+2)−(x+2)=x<2>+x−2

したがって、

 x<2>+x−2=(x−1)(x+2)

と因数分解できることがわかります。

E「なるほど因数分解がどんなものかいくらかわかりました。でも、どうやって因数分解をしたらよいのかわかりません。展開の方はできそうですが・・・」

私「どうしたら与えられた式を因数分解できるか。そのことを次に考えてみましよう。そのために、まず与えられた式が次のように因数分解できたと仮定してみます。

  x<2>+2x−35=(x+□)(x+○) ・・・・・・(2)

 ここで、□、○に入る具体的な数字が見つかればいいわけですよね。それでは、さきほどから退屈そうにしているFさんに答えて貰いましょうか。□、○の数字を言って下さい」

F「−5と7です」

私「正解です。Fさんはどうして答えが分かりましたか」

F「昔、学校で習いましたからね。掛けて−35,足して2になればいいのでしょう」

私「その通りです。それでは、なぜそうするといいのか、説明はできますか」

F「説明はできません。ただ、そんなふうにすればいいと教えられたので、まあ、その通り覚えているわけです」

私「いわゆる公式として暗記したのですね。理屈はわからなくても、確かに問題は解けるし、点数はもらえますからね。でも、それでは数学の本当の面白さはわかりませんね。数学をほんとうに理解したことにもなりません。だれか、ちゃんと説明できる人はいませんか」

G「先ほど先生がやられたように、(2)式の右辺を展開すればいいのではないでしょうか。ちょっと、黒板を使わせて下さい。

 (x+□)(x+○)=z<2>+(□+○)x+□○

一方 (2)式から (x+□)(x+○)=z<2>+2x−35 なので、

 □○=−35、  □+○=2 ・・・・・・(3)    
 
 これを解いて、□=−5、○=7が得られます。つまり、次のように因数分解できます。

  x<2>+2x−35=(x−5)(x+7) ・・・・・・(4)

私「すばらしいですね。ひとつ質問ですが、どうやって(3)式を解きましたか」

G「まず、□○=−35に着目して、□と○の数字の組み合わせを考えました。そして浮かんだ1と−35、−1と35、5と−7、−5と7の4通りの中から、□+○=2を満たすものとして、−5と7を選んだのです」

私「完璧ですね。それでは、Gさんに、もうひとがんばりしてもらいましょう。最初の(1)式の答えを求めて下さい」

G「最初の(1)式をもう一度書くと、

  x<2>+2x−35=0 ・・・・・・・・・・(1)

(4)式から(1)式は次のように書けることになります。

  (x−5)(x+7)=0 ・・・・・・・・・(5)

 これが成り立つのは、 x−5=0 または x+7=0 であればよいので、
x=5 または x=−7 です。1≦X≦13 ということですから、結局 x=5 が答えです」

私「正解ですね。ほらこのとおり、トランプのカードは5もです。Gさんは数学が得意なのではないですか。苦手だなんて、うそでしょう」

G「得意だったのは中学時代までです。高校に行ってからは、まったく分からなくなりましたから。それで、理系をあきらめて、文学部の哲学科に行ったのです」

私「それはそれで立派な選択だったと思います。数学も哲学も昔は一緒だったのですよ。Gさんは決して数学の才能がないわけではないと思います」

G「そう言ってもらえると有り難いですね。実は、今までのところで、いくつかわからない点があるのです。質問していいでしょうか」

私「もちろん歓迎しますよ」

 このあと、Gさんから、鋭い質問が次々と出された。それはいずれも、数学の本質にかかわるような質問だった。また、Gさん以外の人からも面白い質問が飛び出してきた。明日の日記で、そのうちのいくつかを紹介しよう。

<今日の一句> 虹立ちぬ 心のなかも 雨上がり  裕


2002年05月28日(火) 「二次方程式と因数分解」(1)

 今日は「二次方程式と因数分解」の話をしよう。あまり数学の得意でない社会人のグループの勉強会に招かれて、中学生レベルの数学を教材にして数学がどんな学問かわかりやすく話をしてくれと言われたとする。私なら、こんな風な話をするだろうという、まあ、一種のデモンストレーションである。

 小道具としてトランプを使う。数学は魔術ではないが、どこか似た雰囲気がないでもない。そこで、雰囲気作りのために、何かトランプを使った奇術でも披露したいところだが、あいにく私にその才能はない。そこで、前置きは抜きにして、トランプの一枚をみんなの前に数字が見えないように差し出して、その数字をあてさせる。

私「誰かこの数字をあてて下さい。Aさんどうですか」
A「わかりません」
私「全然分かりませんか。これはトランプですよ。可能性としては、どうですか」
A「1から13までの数字のどれかです」
私「そうですね。だったら、あててみて下さい。やまかんでいいのですよ」
A「7です」
私「残念でした。7ではありません。それじゃ、ヒントをあげます。5で割ると2あまります」
A「あっ、わかった。12です」
私「正解です。ほら、このとおり12ですね。それじゃ、Bさんに質問しましょう。Aさんはどうして正解が分かったのでしょうか」
B「1から13のうちで、5で割ってあまる数字は7と12です。5でないとすると12ということになります。Bさんはそんなふうに考えたのだと思います」
私「Aさん、Bさんのいう通りですか」
A「その通りです」
私「そうですね。数学の問題の答えは一つとは限らない。たくさんある場合があります。また、問題によっては条件がいくつか与えられる。その条件によって答えが絞り込まれます。最終的にただ一つの答えになることもあります。答えがないということも起こってきます。そのときは<解なし>が正しい答えです。
 いずれにせよ、推論さえまちがっていなければ、数学の問題はだれが解いても同じ答えになります。だから正解は一つだけです。これはありがたいですね。数学が入試問題として重宝がられるのもわかります。
 余談はこのくらいにして、次の問題にうつりますよ。Cさん、このトランプの数字をあててください。ヒントをあげます。この数字を2乗して1を引くと8になります」
C「3です」
私「どうして分かりましたか」
C「1を引く前は9です。2乗して9になる数字は3しかありません」
私「2乗して9になる数字は本当に3だけでしょうか」
C「−3もありますが、1から13までの数字に限定すると、3です」
私「その通りですね。そこで、いまCさんが言った内容のことを、式で書いてみますね。ちょっと黒板を見て下さい。未知の数字を X と書くと、こんな式が成り立ちますね。なお<2>で、<2乗>を表すことにします。

  X<2>−1=8, X<2>=8+1、 X<2>=9、 X=+−3,
  1≦X≦13より、 X=3 (答)

 ところで、X<2>−1=8のような式を「Xの二次方程式」といいます。これが解ければ答えがわかりますね。さて、それではウオーミングアップはこの位にして、本命の問題を出します。Dさんの番ですよ。覚悟はいいですか」
D「わあ、こまりましたね」
私「この数字を2乗した値に、この数字を2倍した値を足して、さらに35を引くと、その値は0になります。この数字をあててください」
D「急に難しくなりましたね。まったく分かりませんよ」
私「そう言わずに、頑張ってみましょう。Dさん、黒板に式を書いてみて下さい」

 こんな風に、「二次方程式と因数分解」の授業は始まる。ちなみにDさんは次のような式を書いてくれた。
    x<2>+2x−35=0
 問題はこの式をいかに解くかである。数学苦手な人々に、これをどう理解させたらよいだろうか。「理論的で実践的」な授業の模範を示したいところだが、さて、うまくいくかどうか、続きは明日の日記にしよう。

<今日の一句> 稲びかり 十七文字に 天と地を   裕  


2002年05月27日(月) 山の中の高校

 数年前に、自伝の4部作を書いた。「幼年時代」「少年時代」「青年時代」「就職まで」がそうだ。一作書くのに1年間ずつ、4年間かかって書いた。毎日パソコンの前に坐り、一枚ずつ書いた。これを一年間続ければ360枚ほどの作品が出来上がる。

「就職まで」の次は「結婚まで」を書く予定だったが、もう4年間も中断している。ぼちぼち「自伝」の執筆をと考えていたが、書き出すとこれはかなりの負担になる。HPの日記帳は更新がむつかしくなるのではないか。そう考えて二の足を踏んでいたが、次第に残された時間も少なくなってきた。そこで、試みに週一回、月曜日の日記に「自伝」の続きを掲載することにした。

「結婚まで」は私の新任から数年間の教師生活が中心になる。教育に対する私の考えや、日本や愛知県の教育の現状に対する批判にも触れざるをえない。同僚の教師や生徒の思い出も書きたい。しかし、他人のプライバシーについて、これを暴露したり、蹂躙することは許されない。この点に留意しながら書く必要があるので、なかなか難しい作業である。さて、うまくいくかどうか。今日はその一回目である。

  ・・・・・・・・・<山の中の高校>・・・・・・・・・・・

 1979年3月某日、新規採用教員として私が最初に赴いた県立加茂丘高校は、西三河の山の中にある僻地の高校だった。当時のN校長から自宅に新規採用の電話があり、さっそく出かけて行った。当時私は名古屋市昭和区石川橋の下宿に住んでいた。地下鉄と名鉄電車を乗り継いで豊田市まで行き、駅前から加茂丘高校行きのバスに乗った。

 終点の加茂丘高校で降りたのは私ともう一人。顔を見合わせて、しばらくしてから、お互いに「やあ」と挨拶した。彼が社会科の新任の古川さんだった。中肉中背の彼は黒のダブルにサングラス姿である。28歳の私より4つほど下だったが、いかにも落ち着いていて、押し出しが堂々としている。というか、堅気の教員らしくない個性的な風貌なので、私はちょっと声をかけるのをためらったほどだ。

 バス停の傍らに校門があったが、そこから校舎が見えない。目の前に小高い丘があって、雑木が生えている。どうやら校舎はこの丘の上にあるらしい。「何だか研究所みたいじゃないか」といいながら、二人で並んで、校門から続くコンクリートの坂道を登って行った。

 五分ほどで丘の上にさしかかって、校舎が見えたきた。駐車場にまばらに職員の車が止まっている。春休みの最中で、あまり人影はない。校長室へ行くと、そこにもう一人、数学の新任の中山さんがいた。彼は古川さんよりいくらか若かった。坊主頭で色が浅黒く、プロレスラーのようなよい筋肉質の体格をしていた。彼は名古屋の家から直接車を運転してやってきたという話だった。

 古川さんは神奈川大学を卒業した後、やはり東京の大学の大学院に行っていたということだ。中山さんは京大の数学科を卒業して、新卒での採用らしい。私は名大の大学院の物理学科を中退して教職への転向だった。新任の3人はすぐに仲良しになった。もちろん悪い遊びも一緒にした。

 ただ、校長がこの時私だけに、「こんな田舎の高校ですまないが、2年間ほとは我慢して下さい」と言った。2年後、この言葉は現実になる。そして豊田市の新設高校に行くのだが、それまでの間、私は各学年3クラスというこじんまりとした田舎の学校でのんびり過ごすことができた。この学校や学校の仲間が気に入っていただけに、転勤と聞いたときは、ほんとうにがっかりしたものだ。
                             (「結婚まで」第1回 終わり)

<今日の一句> 病癒え 口笛吹きぬ 青田道  裕


2002年05月26日(日) アメリカの授業風景

 NHK教育テレビで「英会話」を勉強している。その中に、アメリカの大学の英語の授業風景をそのまま見せてくれる番組がある。英語を母国語としない国際色豊かな学生たち(日本人、中国人、インド人、ヒスパニック系など多彩な人種)が対象なので、私も彼らとともに授業に参加したような気になって見ている。

 授業は講師と生徒達との対話で成り立っている。黒板を使って講師が字句の説明をしたり、生徒達が黒板に文章を書いたりするが、それも対話の一部であり、お互いに顔を見合わせ、しっかりコミニュケートしている。授業中にうつむいてノートを取っている学生は誰もいない。日本の授業風景と随分違っている。

 授業の内容は新聞の文章の解説とか、選挙や野球の話とか多岐に及ぶが、固苦しさはなく、実践的で、教師の質問に答えているうちに、自然に英語を使っている。英語を勉強するというのではなく、英語でいろいろなことを考え、表現しようというねらいだ。

 英語の単語を取りあげる場合でも、その単語の使われる社会的文脈の中で行き届いた解説が行われる。たとえば選挙で使うrun-offという単語を解説する場合は、野球のplay-offの取りあげながらその用法の類似性を指摘する。そうすると一度聞いただけで、もう忘れることはない。知識の定着のための反復練習など少しも必要がないのである。

 発音の矯正も行き届いていて、その生徒がしっかり発音できるまで、ときには黒板に楽譜のようなものを書いたり、喉に手を当てたり、さまざまな工夫をしながら、わかりやすく説明する。指導がいちいち具体的である。そして最後は必ず、全体に声を出させてチェックする。それは決しておざなりな反復練習というものではない。

 知識の記憶に機械的な反復練習が有効なのは、人生経験が少なく、知能が未熟な段階である。いわゆる「9歳の壁」を超えたら、知識はむしろ意味のある文脈の中で効果的に定着する。その上、社会的文脈の中で関連つけられ、体系付けられた知識は、生きた知識としていつでも活用ができる。

 アメリカの授業風景のルポを読んだことがあるが、対話形式が一般的で、ピアジェに代表される現代的な認知心理学の学習理論が充分考慮されているように思われた。たとえば、生徒が前に出て、自分でテーマを考えてスピーチをする。それに対して、他の生徒が次々に意見を述べる。分からないところや知識の曖昧なところが出てきても、教師は答えを言わない。次の授業までに調べさせて、誰かに報告させる。こうした議論と対話を通して、知識を確実に身につけて、しかも各自が自分の主張をはっきりと発表するプレゼンテーションの能力を向上させて行く。

 知識の習得で終わらず、いかにその知識を活用して、自分なりの考え方を作り上げ、さらにそれをいかに的確に表現して、他者を説得し、同意と賞賛を得るか、すべてはこうしたことのための学習であり切磋琢磨である。知識の機械的な受容を第一とする一方的な注入形式の詰め込み式の授業とは、まるでそのスタイルも目差すものも違っている。こうした教育から有能な政治家、外交官、弁護士や企業家が生まれるのだろう。まさに「現代を生きる力」に直結した実践的な授業だと言える。

 ところで、これに近い教育は日本で可能だろうか。手前味噌になるが、私も以前、このアメリカ方式を採用し、成功したことがある。私のささやかな教育実践を、あしたの日記で報告しよう。

<今日の一句> 木洩れ日に 君の名残の あたたかさ  裕


2002年05月25日(土) テニスの思い出

 私がテニスを本格的にやりはじめたのは、教員になってからである。最初に任されたのが女子テニス部の顧問だった。三河の山の中の小さな高校だったが、女子テニス部は割と活発で、総勢二十名ほどの部員がいた。

 白いスコートから伸びた脚が、新米教師の私には何やらまぶしい。どぎまぎしながら、彼女たちの練習に加わったが、初心者の私は指導するどころか、される立場だった。これではあまりに情けないということで、土曜日の夜、名古屋のテニススクールに通い始めた。

 初心者のクラスだったので、基本をしっかり教えてもらえた。ストレッチ体操、素振り、フットワーク、フォアハンド、バックハンド、ボレー、スマッシュ、サービス、ロブと、ひととおり修得するのに1年ほどかかった。女性の先生だったが、的確なアドバイスがあり、きびきびした気持ちのよい先生だった。昨日は短歌教室のことを書いたが、テニス教室でも私は教師に恵まれた。そして、テニスがとても好きになった。

 テニススクールには20名ほどの生徒がいたが、男性は私ともう一人のA君だけ。そこで私は、日曜日に私の勤務校のコートでテニスの練習をしようと、A君と数名の女性に声をかけた。田舎の学校なので、まわりは山である。2,3台の車を連ねて、ピクニック気分で出かけ、清々しい環境で、一日テニスに熱中した。夏はテニスの後、学校のプールで泳いだりもした。

 そのころ私の車の助手席にいつも乗っていたのが、現在の妻である。テニスが縁で結ばれた訳だが、結婚した後、妻はほとんどテニスをしなくなった。どうやら、妻にとってテニスはどうでもよくて、よき伴侶を見つけるための手段だったらしい。もっともこの二十数年間、私がよき伴侶だったかどうか疑問だが・・・。

 さて、今日は学校で部活である。この春の試合で引退した3年生11名を迎えて、追い出しコンパの親善試合をする。年に一回のお祭りなので、部費から弁当を出し、賞品もたくさん用意した。顧問の私、コーチ役のS先生も加わり、上位入賞を目差す。私の目標はとりあえず10位入賞である。わが部活も毎年レベルが上がってきて、私の目標が年々控えめになってきた。

<今日の一句> 影ふたつ 睦みし人に 風やさし  裕


2002年05月24日(金) 短歌教室の思い出

 十数年前、まだ定時制高校に勤務していた30代の終わりの頃、2年間ほど名古屋栄の「朝日カルチャーセンター」の短歌教室に通った。講師は現代家人教会の会員で、角川短歌賞次席入選の実績のある栗木京子先生だった。

 栗木先生はNHKの教育テレビの短歌講座に出演していたので、短歌通の方は顔も知っているのではないか。笑顔のさわやかな、目のきれいな先生だったが、ブラウン管で見る先生は、またひときわ聡明で美しく見えた。

 昭和29年生まれだというから、妻と同じ年齢である。私より4つほど年下だが、気品があって、最初は近づきがたい印象だった。先生に認めて貰いたいばかりに、ずいぶんと創作に熱がはいった。私にとっては、願ってもいない理想の先生だったわけだ。

 毎週、歌を5首ほど作り、葉書に書いて先生の自宅に送る。先生はその中から一首をえらび、そうした生徒達の歌を作者名は伏せたままで並べて、その週の教材を作る。20人近くの生徒達は他の人たちの歌に目を通して、自分が気に入った歌をとりあげ、その感想を一人づつ述べる。そして、先生の批評。実作中心の講座なので、真剣勝負の緊張感があり、気が抜けなかった。

 全日制の高校に転勤になって、短歌教室に通えなくなったが、よき教師に恵まれたことは、私を決定的に短歌好きにした。最後に、栗木先生の短歌を、講談社学術文庫「現代の短歌」から引用しよう。この本の464ページには先生のさわやかで愛らしい顔写真が載っている。

  観覧車回れよ回れ想ひ出は
  君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)

  舞う雪とその影と地に重なれり
  子音を追ひて母音降るごと

  白あぢさゐ雨にほのかに明るみて
  時間(とき)の流れの小さき淵見ゆ

<今日の一句> 淋しさは 初夏の空ゆく 白い雲  裕


2002年05月23日(木) 腰・ハラ文化を考える

 斉藤孝さんの本がよく売れているらしい。職員室の私の隣の国語の先生の机の上に、「声に出して読みたい日本語」があったので、無断で読ませてもらった。日本文学にある名文、詩、短歌、俳句、古典や中国の漢詩など、活字が大きいし、馴染みのある文章ばかりだから、すぐに読めた。斉藤さんは前書きにこんなことを書いている。

「ここに取り上げたのは、日本語の宝石です。暗唱、朗唱することによって、こうした日本語の宝石を身体の奥深くに埋め込、生涯にわたって折りにふれてその輝きを味わう。こうした宝石を身体に埋めるイメージで楽しんでください」

 彼には他に[身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生] (NHKブックス)などという著作もある。日本の20世紀を、身体をなおざりにした100年と総括し、身体文化の中心軸としての腰・ハラ文化に着目している。

 頭脳中心の西洋文化に対して、日本の文化は「踏ん張る」「期待を背負う」「腹が立つ」「肝が冷える」など「からだ言葉」が豊富である。ところが最近は日本語からこうした身体感覚が喪失してきている。こうした身体語の衰退が青少年の非行や、すぐにキレる忍耐力の不足、情緒不安定など結びついているという。そこで「身体性を重視した伝統文化の復活」という彼の処方箋が説得力を持ってくる。

 文化を「身体」のレベルから捉え、教育問題にも一石を投じた彼の文章は、とてもわかりやすく、実践的で、読んでいて面白い。万葉集を愛唱し、名文を読むことを楽しみにしている私には異存などあるはずもないのだが、どうも腑に落ちない。

 結論から言えば、私は体で覚えさせるという斉藤流教育論や暗唱という国語教育のあり方に反対である。また伝統の尊重ということについても、それが「腰・ハラ文化の尊重」という次元に矮小化されてはならないと思う。「身体主義」は必ず幼稚な「精神主義」に移行する。このことについては、いずれもう少し踏み込んで書いてみたいと思っている。

<今日の一句> 風そよぐ 若木のごとき 少女来る  裕


2002年05月22日(水) 写生の楽しみ

 小学生の頃、よく写生大会があった。若狭の小浜市に住んでいた頃は、土曜日を一日つぶして、学校から画板を下げて、思い思いの場所に出かけたものだ。小浜市は港町だから、港に行くと漁船がたむろしている。私は画題として、漁船をよく描いた。

 中学生の頃、美術の先生が、私の絵を「写真のようでつまらない」と評した。「もっと自由に描きなさい」と言われて、それから、空を紫色にしたり、肌の色を緑にしたりして、おもわぬ面白い絵を描くようような連中が現れたが、結局私はそんな絵は好きになれなかった。

 その後、ゴッホやピカソの絵が面白いと感じるようになったが、今はとりたてて好きだというわけではない。セザンヌやシャガールは好きだが、ミロとかダリのような絵は余り好きになれない。「芸術は爆発だ」などとのたまわう岡本太郎も苦手である。

「日本では昔から写生といふ事をはなはだおろそかに見て居ったために、書の発達を妨げ、文章も歌もすべてのことが皆な進歩しなかったのである。それが習慣となって今日でもまだ写生の味を知らない人が十中八九である。書の上にも詩歌の上にも、理想ということを称える人が少なくないが、それは写生の味を知らない人であって、写生といふことを非常に浅薄な事として排斥するのであるが、其の実、理想の方が余程浅薄であって、とても写生の趣味の変化の多きには及ばぬことである」

 正岡子規の「病牀六尺」からの引用だ。こうした文章に出会うと、風通しのよい庭先にでも立ったような気がして、何だか少しホッとする。理想と主張することも大切だが、それは客観性の軽視であってはならない。芭蕉が偉大なのは、彼が理想主義者でありながら、しかも客観を尊ぶ精神を持っていたからだろう。「竹のことは竹に習え」という彼の言葉がそのことを語っている。

<今日の一句> アサリ汁 海の匂ひの 朝餉かな  裕


2002年05月21日(火) 望遠鏡の思い出

 顕微鏡を買ってもらったのが、小学校の4年生のときだった。クリスマスのプレゼントだったと思う。値段は700円くらいだった。さっそく手当たり次第、色々なものを眺めた。アメーバーやゾウリムシなど、毎日眺めていて飽きなかった。

 半年ほどしたころ、顕微鏡の接眼レンズと祖母の老眼鏡のレンズを組み合わせて、望遠鏡を作った。かわいそうに、祖母は眼鏡のレンズが片方だけになって、かなり不自由したことだろう。しばらくして、顕微鏡を買った店で、望遠鏡用の対物レンズを手に入れた。

 これを顕微鏡の接眼レンズと組み合わせると、かなりの高性能な望遠鏡が出来た。月のクレーターもなかなかリアルに見えたし、もちろん金星や火星も見えた。自分がガリレオ・ガリレイになった気分だった。

 中学生になった頃、学校で望遠鏡を買う機会があった。土星の輪が見えるということで、是非欲しいと思ったが、定価が3000円近くするので、とても小遣いでは買えない。そこで、友人の村崎君と共同で買うことにした。

 一週間交代で双方の家に置くという約束で買った。しばらくはそうして、望遠鏡は双方の家を行ったり来たりしたが、そのうちにどちらかの家に何ヶ月も置いたままになった。高校生になったころは、私も星を観察する趣味はなくなり、望遠鏡も村崎君に渡したままになった。

 最近、また星が見たくなった。双眼鏡を片手に空を眺めているが、双眼鏡ではじっくり眺めることができない。そこで、最近星に興味を持ちだして、私の双眼鏡を持ち出すようになった次女に、「どうだ、半分ずつ出して買わないか」と持ちかけてみたが、「お父さん、買って」と、あっさり振られてしまった。

<今日の一句> 彦星と 織女はいずこ 星の夜  裕


2002年05月20日(月) ラッセルの幸福論

 高校時代に読んだ本のなかで、とくに印象に残った本の一冊に、ラッセルの「幸福論」がある。ただ印象に残ったというだけではなく、何かしら生き方の基本を教えられたようで、その後の私の人生に絶大な影響を与えた一冊である。

 先日、北さんと飲んで、この本のすばらしさを力説した。そうしたら、さっそく北さんは本を手に入れて、しっかりと読んでくれた。その感想を彼の掲示板で見ることが出来る。それを読んで、私自身も旧友に再会したような懐かしさを覚えた。北さんの雑記帳から、ラッセルの言葉を多数引用させていただく。

「現代生活では、重要な疲れの種類はつねに情緒的なものである。純粋に知的な疲れは、純粋に筋肉的な疲れと同様に、眠ることでおのずと取れてしまう」(第5章『疲れ』)

「文明人は、おのれの知能を拡大してきたように、いまや、心情を拡大しなければならない。自己を超越することを学び、そして自己を超越することで宇宙の自由を獲得することを学ばなければならない」(第6章『ねたみ』)

「根本的な幸福は、ほかの何にもまして人や物に対する友好的な関心とも言うべきものに依拠しているのである。人に対する友好的な関心は、愛情のひとつの形であるが、貪欲で、独占欲の強い、つねに強い反応を求める形は、そうではない。

 後者の形は、まま不幸の源になる。幸福に寄与する愛情は、人々を観察することを好み、その個々の特徴に喜びを見出すたぐいの愛情である。接触するようになった人々の興味や楽しみが十分に生かされる機会を与えたいと願うのみで、その人たちを左右する力を獲得したいとか、その人たちの熱烈な称賛を得たいとか願わないたぐいの愛情である。

 他人に対して真にこうした態度をとれる人は、幸福の源になるだろうし、相互的な親切の受け手にもなるだろう。・・・他の人には、腹立たしいほど神経にさわるような風変わりな癖でも、彼にとっては、ほのぼのとしたおかしみの種となるだろう。」(第10章『幸福はそれでも可能か』)

「不幸に見舞われたときによく耐えるためには、幸福なときに、ある程度広い興味を養っておくのが賢明である。そうすれば、現在を耐え難くしているのとは別の連想や感情を思いつかせてくれる静かな場所が、精神のために用意されるだろう」(第15章『私心のない興味』)

「賢人は、妨げうる不幸を座視することはしない一方、避けられない不幸に時間と感情を浪費することもしないだろう。また、それだけなら避けられるような不幸にみまわれたとしても、もしも、それを避けるのに必要な時間と労力がもっと重要な目的の追求を妨げるようであれば、進んでその不幸を甘受するだろう。多くの人々は、ささいなことでもうまくいかなければ、いつもじれたり怒ったりして、ために、もっと有益に使えるはずのエネルギーを多量にむだにしている。」(第16章『努力とあきらめ』)

「あなたが自己に没頭することをやめたならば、たちまち、本物の客観的な興味が芽生えてくる、と確信してよい。幸福な人生は、不思議なまでに、よい人生と同じである」(第17章『幸福な人』)

「幸福な人とは、客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味を持っている人である。また、こういう興味と愛情を通して、そして今度は、それゆえに自分がほかの多くの人々の興味と愛情の対象にされるという事実を通して、幸福をしかとつかみとる人である。愛情の受け手になることは、幸福の強い原因である。しかし、愛情を要求する人は、愛情が与えられる人ではない。」(第17章『幸福な人』)

(参考文献) 「ラッセル幸福論」 ラッセル著、安藤貞雄訳、岩波文庫

<今日の一句> あてもなく 道をたどれば 青若葉  裕 


2002年05月19日(日) ガリレオと望遠鏡

 ガリレオと言えば望遠鏡である。彼は望遠鏡を使って、月のクレーターや土星の輪、金星や火星が満ち欠けすること、天の川が無数の恒星の集合であることなどを発見した。

 もっとも望遠鏡そのものは彼の発明ではない。オランダの眼鏡職人が、筒の中に二つのレンズを並べたところ、遠くにある教会の尖塔がすぐ近くに見えたという。こういう不思議な筒眼鏡の噂が1509年頃、パドヴァ大学で数学教授をしていたガリレオの耳に届いた。

 ガリレオはすぐにその筒眼鏡の原理を理解した。そして、はるかに性能のよい筒眼鏡を製作して、売り出すことを考える。そして次の日にはもう装置を作りだした。2週間ほどかけて、3倍率の筒眼鏡が出来上がり、数ヶ月もすると、32倍倍率の筒眼鏡が完成した。ガリレオはこの高性能の筒眼鏡を望遠鏡(テレスコープ)と呼ぶことにした。

 ガリレオの発明した望遠鏡は大評判になった。これは航海や軍事でもたしかに役にたつ実用的な発明である。総督たちは競ってこれを手に入れようとした。たとえばヴェネチアの総督は、これを手に入れた見返りに、ガリレオの給与を倍増し、報奨として一時金を払った上に、終生数学教授の地位を保証するようにパドヴァ大学に命令を下した。

 やがて、ガリレオは望遠鏡を天体に向ける。そうすると、木星に惑星が見つかった。これは太陽と地球の縮図ではないか。金星が満ち欠けしているのは、金星が太陽の回りを回転している証拠である。それだけではない、太陽に黒点があるではないか。しかも、黒点は位置をかえる。太陽も自転しているらしい。

 ガリレオはこうした観測をもとに、1610年に「星界の報告」という本を書いた。ラテン語でかかれたこの本は、やがてヨーロッパ中にセンセーションを巻き起こした。しかし、46歳のガリレオに思わぬ地位と名声をもたらしたこの成功は、アリストテレス派の聖職者たちの危機感を呼び覚ますことになった。6年後、ローマ法王庁は彼らの意見を容れて、コペルニクスの学説を禁止する布告を出す。以後ガリレオは公に地動説を支持することができなくなった。

<今日の一句> 日傘持つ 女がひとり 振り返る  裕


2002年05月18日(土) ガリレオと相対性原理(2)

 地球が動いているとしたら、なぜ私たちはその「運動」を感じることができないのか。そのことを、ガリレオは「天文対話」の中で、船に乗った人の体験を例にして、わかりやすく説明している。

「大きな船のデッキ下の船室に閉じこもってみて下さい。水の入ったビンを吊るし、水が一滴ずつ落ちるようにしておきます。こうしておいて、船をお好みの早さで走らせます。ただし、動き方は一様で、あちこちに揺れ動くことのないようにします。

 このような状態でもやはり、水滴はまっすぐ下に落ちます。友だちに何か物を投げようとする場合、距離が同じであれば、どの方向に投げるのに要する力も同じです。両足を揃えて跳ぶと、方向に関係なく飛べる幅は同じです。

 船が一様な運動をしている限り、船室内の様子は変わりません。つまるところ私たちは、船が動いているか止まっているかさえ、見極めることができないのです」

 船室にもし窓があれば、人は窓の外の景色が移動するのを見て、船が動いていることを知るだろう。まさか、動いているのは、船ではなく、船以外の全世界だと考える人がいるとは思えない。地球上に住んでいる私たちはこの船室の人と同じである。違うのは、動いているのは地球ではなく、地球以外のすべての天体だと考えていることだ。

 ガリレオは船室にいる人が、どんな実験をしても、自分たちが静止しているか、運動しているかを判定することは出来ないという。なぜなら、「一様な運動状態にある世界では、物理法則はまったく同様に成り立つ」からだ。

 一様な運動というのは、もう少し正確に言えば「等速直線運動」ということだ。ガリレオは物体は外部から力を受けない限り、物体は一様な運動を続けると考えた。逆に言えば、物体は一様な運動を続ける限り、外部から余計な力を受けるわけはない。そして、地球の運動は、近似的にこの一様な運動と見なされるので、その地上に住む私たちも、余計な力の支配を受けないですむのである。

 運動が「相対的」であるということは、地球と他の天体との間にも言えることである。しかし、宇宙を回転させることとは容易ではない。いったいどうして、そんな大それた力を地球は生み出すことができるのだろうか。ガリレオは「天文対話」のなかで、地動説を主張するサルヴィアティにこう語らせている。

「もし、地球の運動を認めれば、私たちはこのような困難に出会うことはありません。地球は宇宙に比較すれば小さな、とるに足らない存在であり、宇宙に対して威力を行使することは不可能です」

 ガリレオを受け継いだニュートンは、「一様な運動状態にある世界では、物理法則はまったく同様に成り立つ」というガリレオの発見した原理を、「運動の第一法則」に位置づけた。そしてこの原理を力学だけではなく、光の現象にまであてはめたのが、アインシュタインである。だから、アインシュタインは20世紀のガリレオであり、ガリレオが発想した偉大な仕事の後継者である。

<今日の一句> 受話器とる 音のかなたも 夜の雨  裕


2002年05月17日(金) ガリレオと相対性原理(1)

 ガリレオと言えば「慣性の法則」である。地動説も有名だが、これはむしろコペルニクスの受け売りである。ピサの斜塔の実験にしても、ガリレオ以前に「物体はすべて同時に落ちる」と主張していた学者はいた。

 これを大衆にまで知らせたのはガリレオの力だが、彼の発明発見ではない。それでは正真正銘、ガリレオの独創性はどこにあるのか、それは「慣性の法則」の発見と、それを支える「相対性原理」の発見である。有名なアインシュタインの「相対性原理」は、実のところこのガリレオの発想を、ほんの少し前進させたものにすぎない。

 ガリレオの時代、多くの人々は「地動説」を信じなかった。コペルニクスの理論を理解できるほどの相当学識のある人でも、理論としては面白いが、とうてい地球が動いているなどと信じることはできなかった。コペルニクスが言うように、もし地球が太陽の回りを公転し、かつ自転していたらどういうことになるか。

 自転による場合だけ考えても、その速度は大変なものである。地球の円周が約4万キロメートルだとして、これを24で割り、さらに60で割り、さらに60で割れば私たち地表に存在するものが持つ秒速が得られる。その結果は秒速463メートルで、これは音速よりも早い。

 そこで、もし人が地表から飛び上がったらどうなるか。1秒後には地表は463メートルも移動している。無事に住むはずがない。空を飛ぶ鳥の場合はもっと悲惨である。こんなすさまじい環境ではとてもまともな生活ができそうではない。しかも、話はこれだけではない。公転の場合の速度は、これよりも30倍も速いのである。

 ガリレオはこの問題を解決することができた。それが今日「慣性の法則」「ガリレオの相対性原理」として知られている物理学の根本原理である。ガリレオはそれを「天文対話」のなかでとても分かりやすく説明している。あしたの日記で紹介しよう。 

<今日の一句> たまゆらの いのち貴し 蛙なく  裕


2002年05月16日(木) 影の薄い日本の父親

 私たちの世代もふくめ、最近の子供たちはあまり父親の仕事場を見ることはないのだろう。とくに父親がサラリーマンの場合、まず父親が仕事をしている姿を見る機会はないにちがいない。

 見るのは、家庭でテレビを見て、グラス片手にだらしなくくつろいでいる姿や、わがままを言って、家人にあたりちらしたり、自室に引きこもっていると思ったら、なにやらいかがわしいエロビデオをこっそり見ていたり・・・、とにかく、子供の目にうつる父親の姿は、あまり芳しいものではない。すくなくとも、我が家の場合はそんなところである。

 これにたいして、母親はもう少しまともである。育児、調理、洗濯、掃除など、その働いている様子が、子供の目にうつり、父親とは随分違った状態で記憶に刻みつけられる。だから幼い子供たちも母親はいくらか尊敬するが、父親はまあ、どうしょうもない怠け者の居候くらいにしか思わない。

 もちろんこうした認識は、成人し、自らが職場で働くようになると、いくぶん訂正される。家でグラス片手に、くだらない冗談を飛ばして、家人に軽蔑されていた父親が、会社でどんな思いをしていたか、世の中に出てお金を稼ぐということの重みや、一家を支えるということの精神的苦労が、いくらかわかるからだ。

 しかし、それでも、最終的に子供は母親を選ぶだろう。「三つ子の魂百まで」という諺があるが、幼い頃こころに刷り込まれた観念は強力である。やはり身近な存在だった母親に対する尊敬や親しみは、終生かわることなく、父親を凌駕するのではないだろうか。

 そこで、子供に慕われようと思ったら、父親はやはり家庭でも子供たちの身近な存在である必要がある。そして、家事にも積極的に参加して、存在感をアピールしなければならない。もちろん、こんなことは、私にはできそうもないので、私は妻と張り合うことは、もうとっくにあきらめている。

<今日の一句> 青草に 風のさやけさ 夏来たる  裕


2002年05月15日(水) 花アカシア

 今日も、過去の日記からの引用である。11年前の6月2日(日)の日記から、「花アカシア」という詩をひいておこう。

  花アカシア

 父が死んだ日
 私は仮通夜の席を抜けて
 夜の公園に行った
 空に星はなく
 もう近くの民家には
 明かりも灯っていなかった
 
 私はベンチにすわり
 公園の木々を眺めた
 ふるさとを出て二十数年
 幼い頃の遊び場だった原っぱも
 いまではすっかり様変わり
 私自身もかっての少年ではない
 
 この二十数年間
 私は精一杯生きてきた
 大学を出て社会人になり
 結婚して二児の父となり
 少しお腹も出てきて
 世知辛い世間を渡っていく自信もできた
 
 それでも、そのときの私の心は
 この公園で遊んでいたころの
 よるべない少年のようだった
 私はそんな心細さを紛らわすように
 ベンチから立ち上がり
 夜目にもぼおっと白い
 木々のほうに近づいた
 かすかに匂ってきた
 懐かしい香りのする花アカシア

 その大きな樹に手をふれ
 頬を寄せていると
 さきほどまで私を領していた
 ほろにがい悲しみが
 あてのない不安や恐怖が
 なにものかによって抱きとられ
 やさしく慰撫されたかのように
 私は安らいで
 心が少しだけ明るくなった

<今日の一句> 形見とて 何か残さむ すみれ咲く  裕


2002年05月14日(火) 古武士のごとく

 今日は父の命日である。1991年5月14日(火)14時5分が臨終だった。11年前の日記を開くと、5月12日(日)から5月19日(日)まで、一週間もとんでいる。実は父の死に引き続き、祖母まで死んで、私は日記を書く余裕がなかったのだ。5月19日の日記をまるごと引用する。

 ・・・・・・・・・1991年5月19日(日)の日記・・・・・・・・・

 5月13日(月)の夜9時頃、福井の弟から、父が緊急入院したという報せを受け、福井に帰った。父は県立病院で昏睡状態だった。そして、時折呼吸困難に襲われていた。

 翌朝6時頃、私はひとまず病院をあとにして、一宮の勤務先の高校へ行った。授業を終えて学校から帰ってくると、父永眠の電話があったことを妻より知らされる。14時5分に永眠とのこと。

 さっそく一家で福井に帰った。仮通夜をすまし、翌15日夜7時より通夜、16日朝9時より、近所の帰命寺で葬儀。翌17日に納骨と初7日の法要をかねて丸岡町竹田の菩提寺に行く。

 菩提寺で永代経を聴いている最中に、今度は祖母死去の報が届く。11時27分に永眠とのこと。その夜に祖母の仮通夜。翌18日に通夜。19日に葬儀と納骨をすませて福井から帰ってきた。

 以上が、父と祖母の死去の顛末である。この二人がもうこの世にいないということが、いまだに信じられない。母のことを思う。合掌。

  孫連れて父の来たりし公園の
  アカシア咲けり父亡き日にも

  仮通夜に 花アカシアも 散りにけり

  今は亡き父の写真を取りだして
  掌をあわせている夜の寂寥

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 11年前の出来事が、昨日のように浮かんでくる。肝硬変から肝臓癌を病んで、もう手の施しようのなかった父に、断末魔のけいれんが起きて、母が救急車を呼んだ。父は寝間着のまま母に抱きかかえられて、救急車まで歩いた。

 近所の人が何事かと集まってくると、父は苦しい息の中で居住まいをただして、ていねいに礼をして、「ありがとう」とつぶやきながら、車に乗ったという。父のことを「古武士のようだ」といった人がいたが、いかにも父らしい最後だと思った。

<今日の一句> アカシアに 父を想へば 雨上がる   裕  


2002年05月13日(月) たらちねの母

 昨日の朝日新聞「折々の歌」で、大岡信さんが、長塚節(1879〜1915)の歌を紹介していた。それは歌集「鍼の如く」の中のこんな一首である。

  垂乳根の母が釣りたる青蚊帳を
  すがしといねつたるみたれども

 長塚節(ながつかたかし)は私の好きな歌人の一人だ。「馬酔木」の同人で子規に師事、写生的短歌を作った。しかし、晩年、結核を患い、また恋愛にも破れて、そのころからの歌は、単なる写生の域を超えて心が深くなった。この歌も、そうした人生の滋味と香気を静かにたたえている。

 なぜ、母親が息子の蚊帳を釣ったのか。息子をあまやかしている訳ではない。節は病院を抜けてきたのだ。結核は彼を追いつめた。さらに、辛い出来事が追い打ちをかける。彼は自分を襲った業病故に、愛する人と別れる決心をした。そして力が尽きて、母親の元に逃れてきたのだ。彼にはもはや、蚊帳を釣る力は残されていなかった。

 それにしても、「垂乳根の母」がいい。いまどきなら「哺乳壜の母」も多いのだろうが、子と母の絆はやはり子が母の乳房を吸うことで始まり、深まっていく。子のいのちを育んだ母親の乳房は、たとえ形が崩れていようと、人生の宝物なのだろう。

 以前に読んだときには、「たるみたれども」が少し気にかかった。母の釣った蚊帳がたるんでいる状況を歌っているのだが、ここはすこし冗漫ではないか、せつかくの清々しい歌が、最後にゆるんでいるのではないかと残念だった。

 ところが、大岡さんは、この部分を、「お母さんの力では蚊帳もたるんでいるけれど」と解釈している。この文章を読んで、「ああ、そうだったのか」と私はうなずいた。母親の息子を思う気持ちは、すこしもたるんではいない。むしろ蚊帳のたるみに、長塚は母親の愛の深さと、人生の切なさを感じているわけだ。このことに気付いて、私はこの歌がますます好きになった。 

<今日の一句> たらちねの 母を想へば 風薫る   裕 


2002年05月12日(日) ガリレオと地動説

 太陽が宇宙の中心だという説はピタゴラス、プラトン、アルキメデスがすでに唱えている。しかし、これを「地動説」として、首尾一貫した論理的体系として示したのは、ポーランドの天文学者コペルニクス(1473〜1543)が最初だった。

 しかし、コペルニクスはこの説を学者である読者を対象にラテン語と数学的計算で示しただけで、一般大衆に知らせることは意図しなかった。「新奇で非常識な見解に浴びせられそうな嘲笑をおそれるあまり、私は着手した仕事をあやうく放棄するところだった」と述べているとおり、彼は自説が大衆に受け入れられるとは考えていなかった。「天球の回転について」が出版されたのも、彼の死後のことだった。

 若くしてアリストテレスの説に疑問を持ったガリレオが、コペルニクスの「天動説」に惹かれたのは自然ななりゆきだろう。ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでに、コペルニクスを我らが師と呼び、彼が「暗愚な圧倒的多数の大衆から笑い者にされ、排斥されている」ことを惜しんでいる。

 しかし、コペルニクスの説を排斥したのは、なにも暗愚な一般大衆ばかりではなかった。当代一流の学者や聖職者達も同じだった。たとえばガリレオと十数年の交際歴をもつ友人で、かって天文学を学び、ガリレオに勧められて望遠鏡で木星を検察したこともある枢機卿ロベルト・ベラルミーノでさえガリレオを批判した。

「太陽は昇り、また沈みてみずから立ち昇りし住処へ帰るとは、聖書に書かれた賢者ソロモンの言葉である。・・・太陽と地球に関しては、賢人はその判断を修正する必要はない。地球が静止していること、太陽、月、もろもろの星が動いているように見えるのは目の錯覚でないことは経験より明らかだからだ」

 ベラルミーノは法王の信任が厚く、ブルーノが焚刑になった裁判で審問官を勤め、「異端者の鉄槌」と呼ばれていたイエズス会きっての知識人である。ガリレオもこのときは彼の忠告に従わざるを得なかった。ただ、内心、不満であったことは言うまでもない。彼には聖書の記述に関わりなく、「地動説」こそ真実であるという確信があったからだ。ガリレオは後に書かれた「偽金鑑識官」という本の中で、このように書いている。

「多数の人々の証言が小数の人々の証言より価値があるということはほとんどないと私は言おう。それは、複雑な事柄に関してよく推論する人は、拙劣な推論をする人に比べてはるかに少ないからだ。・・・・推論は競馬のようなもので、バレベリーア産の馬一頭は百頭のフリースランド産の馬より速く走れるのだ」

 真理はつねに少数者のもとに生まれる。真理はただ忍耐強い推論と観察によってのみ、その真理であることを保証されるのであり、真理の真理であることを、多数決で決めるわけにはいかない。そんなことをすれば、真理はたちまちその誕生とともに葬り去られるだろう。このことをガリレオは誰よりもよく理解していた。だからこそ、アインシュタインは彼を讃えて、「近代科学の父」と呼んだのである。

 ガリレオは弟子のベネデット・カステリ宛の手紙でこう書いている。「聖書は誤りを犯すことがないとはいえ、その説明者、解釈者がいつも聖書の文言の文字通りの意味を頼りとするならば、彼らはいろいろな点であやまりをおかしがちです。・・・聖書と自然とは両者ともに神の言葉の所産であります。前者は聖霊によって口述されたものであり、後者は神の命令の厳密な執行者であるのです」

 このように、敬虔なカソリックの信者であったガリレオは、地動説が聖書に矛盾しているとは少しも考えてはいなかった。むしろ太陽中心の宇宙論に立った方が、聖書もよく理解できると考えていた。そして、自然を神の最高の作品として賛美し、その自然を知ろうとする人間の知性を、神が人間に与えた最高のプレゼントだとして信頼した。

 ガリレオにとって自然を知ることは、神を知ることに他ならかった。この点は、ニュートンも、アインシュタインも同じであろう。彼らの伝記を読む限り、科学と宗教を矛盾対立するものとして捉えるのは、いささか軽率といわなければならない。

<今日の一句> 衣がえ あかねの空に 星ひとつ   裕 


2002年05月11日(土) ガリレオの娘

 ガリレオには二人の娘と、一人の息子がいた。二人の娘は修道院に入れたが、ガリレオは彼女たちを愛していた。なかでも、長女のヴィルジーニア・ガリレイ(洗礼名マリア・チェレステ)は父親ゆずりの聡明さと感受性を受け継ぎ、ガリレオの最愛の女性だったと言ってよい。

 マリアは1600年に生まれている。ちなみにこの年、ジョルダーノ・ブルーノがローマで火刑に処されている。1633年の1月、ガリレオが同じようにローマの異端審問所に連行される。ガリレオはそのまま拘留され、帰郷を許されたのはその年の12月だった。そして翌年の3月、マリアは父親の帰郷を見届けたあと、いのちの炎が燃え尽きたように34歳の若さで死んでいる。

 生前、マリアは数多くの手紙を父親に送った。124通もの手紙が残されている。もちろん、ガリレオからもこれに匹敵するだけの手紙が送られたのだろう。しかし、残念ながらガリレオの手紙は残されていない。マリアが修道院で死んだとき、処分されたらしい。解放されたとはいえ、ガリレオは異端審問所の監督下で幽閉されていた。

 現存するマリアの最初の手紙は、1623年5月10日の日付である。ガリレオがこの手紙を受け取ったのは、妹ヴィルジーニアの葬儀の翌日だった。なお、ガリレオは死んだ妹をとても愛していた。だから、自分の長女の名前もおなじ、ヴィルジーニアと名付けていた。

「私たちはみな地上では異邦人や旅人のように生き、やがては、叔母上の祝福された魂がすでに赴かれた至福に満ちた天上の真の祖国に向かう運命にあります。ですから、父上、神の愛にかけて、どうかご自分を慰め、御身を神の御手に委ねて下さい」

 ちなみにマリア・チェレステという洗礼名は、「天界のマリア」という意味らしい。星の研究に余念のなかった父親を敬愛してつけた名前だという。皮肉なことに、この星に対する研究が、やがてガリレオを苦境に陥れる。他ならぬ法王に捧げられた彼の著作「天文対話」が、天動説を誹謗していいるとして、異端者の嫌疑を受けた。

 晩年のマリアの手紙は、こうした苦境にある父の安否を気遣い、父親を勇気づけようとする慈愛に満ちている。マリアの現存する124番目の最後の手紙は1633年12月10日の日付を持っている。

「父上の送還のニュースが届くほんの少し前に、私は大使夫人閣下に宛てて、もう一度この件について取りなしをしてくださるようにお願いする手紙を書こうとペンを取りあげたところでした。こうして時間だけが経過するのを見て、今年の末になっても解決しないのではないかと不安になったからです」

「それだけに、私の急な喜びは予期せぬものであると同時に大きなものでした。喜びに浸ったのは私たち姉妹だけではなく、修道女たち全員が、好意からでた本当の幸福感を表しています。それは彼女たちが私たちの苦しみに同情してくれていたために他なりません。私たちは父上のお帰りを切に待ちわびています。そして天候が父上の旅のために晴れ上がるのを見ては心を浮き立たせています」

 しかしこのころ、マリアの体調はすでに悪化していた。このあと父親の帰郷を見届けたマリアは急速に素弱し、最後は赤痢にかかって死んだ。1634年4月2日。享年34歳だった。あとに残された70歳のガリレオは、マリアをよく知っている友人たちに、こんな言葉を残している。

「私は限りない悲哀と憂愁を感じています。そのうえ極度の食欲不振に加え、自己嫌悪に陥っています。そして絶えず最愛の娘が私に呼びかける声が聞こえるのです」(ジェリ・ボッキネリ宛て)

「私は大変ひっそりと暮らし、しばしば隣の修道院を訪れていました。ここで修道女として暮らしていた二人の娘に私は愛情を注いでおりましたが、特に上の娘は極めて繊細な心、比類ない善良さを持ち、このうえない愛情をもって私を慕っていました。
 彼女は私の不在の間、かなり健康不良に悩まされていましたが、自分自身についてはあまり注意を払っていませんでした。結局赤痢に倒れることとなり、6日間の闘病の末、悲嘆にくれる私を残して亡くなりました。・・・
 私が現在の幽閉状態から解放されるのは、私がもう一つの、万人に共通で極めて狭く、そして永遠に続く、ある状態に入るときだけであるということです」(エリア・ディオダーティ宛て)

<今日の一句> 五月雨も 何やら楽し ツバメくる  裕


2002年05月10日(金) ガリレオの父

 ガリレオの父ピンチェンツォはフィレンツェの貴族で、才気溢れる男だったが、金儲けには不器用で、終生貧しかったという。彼はヴィネチアで音楽を学び、音楽理論の指導者の一人になった。彼の音楽理論は、形式的な対位法のルールから、音楽を自由に解き放とうとするものだったらしい。

 中世的なハーモニーの理論を破壊するために、弦楽器を用いて実験をくりかえし、協和音が生まれる原理をあきらかにしようとした。当時の音楽理論は数学の一部でもあった。同時に、実験物理学の一部でもあったようだ。ピンチェンツォはこの実験を息子ガリレオとともに行っている。こうした父親の先進的な実験重視の姿勢がガリレオに与えた影響は大きかったに違いない。

「なんらかの主張を裏付けるため、それを支持する論拠をなんら示すことなしに、権威の重みだけに頼ろうとするのは、笑止千万な振る舞いである。私は逆に、真理を追究する者にふさわしく、いかなるへつらいも用いず、自由に質問し、自由に答えることが許されることを望む者だ」

 これはガリレオの言葉ではない。かれの父の著作「古代音楽と近代音楽の対話」からの引用である。この本の題名は、ガリレオの名著「天文対話」の題名を想わせるが、その精神においても、まったく瓜二つである。この父ありて、息子ありということだろう。

 ピンチェンツォは1591年に70歳で世を去った。あとに6人の弟妹、不平ばかり口にする年老いた母親が残された。27歳のガリレオに、これだけの家族を養う重責がのしかかってきた。しかし、ピサ大学の数学教授の給料は年間60スイードで、これは本屋の店員なみだった。同じ学者でも哲学教授はこの8倍ももらっていたという。

 1592年にパドヴァ大学に移って、給料はかなり増えたが、それでも支出を賄うには少なすぎた。あらたにマリナが加わり、彼女との間に3人の子供が産まれたからだ。さらに、彼自身の遊び癖がある。研究するにも資金が必要だった。ガリレオはかくして借金に走った。やがて彼はたくさんの借金取りに追われるようになる。

 借金の大きさは、母親のガリレオあての手紙からもよみとれる。債権者の中にはガリレオを破産者向けの牢獄にぶちこむと警告する者まであらわれた。ガリレオはこの苦境を脱するために、研究の傍ら、発明に走らざるを得なかった。彼の手がけた発明の中で、とくに「関数尺コンパス」はヨーロッパで広く用いられるようになり、彼にかなりの経済的利益をもたらした。たしかに必要こそが発明の母だった。

<今日の一句> 借金は あれどさわやか 五月晴れ  裕


2002年05月09日(木) ガリレオの妻

 女遊びに余念のなかったガリレオが、1599年、友人の家で催されたパーティで一人の魅力的な女性に出会う。名前はマリナ・ガンバ。美人だが、蔭では「衣服をすぐに脱ぎ捨てる女」と言われていたらしい。35歳のガリレオは21歳のこの小娘に一目惚れしてしまった。

 マリナは裏通りに住む身分の低い生まれで、読み書きもできなかった。一方のガリレオは名家の生まれで、大学教授である。この頃すでに父は死んでいたが、母親が健在だった。もちろん母親はこのいかがわしい女に敵意をあらわにする。身分違いの女との結婚を許すはずがない。

 ガリレオは彼女を自分の家のすぐ近くに住まわせた。事実上の同棲生活であり、実際に、ガリレオとこの内縁の妻マリナの間に3人の子供が産まれている。二人の娘と、一人の息子だ。ガリレオはこの三人を自分の子供と認めたが、法律上は私生児あつかいだった。二人の娘は修道院に送られ、そこで生涯を終えている。

 ところで、マリナとガリレオの母親の関係に話を戻そう。母親は大切な息子を手放したくはなかった。かなり支配欲が強い女だったようだ。自分が世界の中心でなければ気が済まないのだ。しかし、マリナもこの点では負けてはいない。二人はガリレオを前にしてののしりあい、金切り声を張り上げた。そして、最後には髪の毛の引っ張り合いが始まったという。

 結局、10年後の1609年にガリレオはマリナと分かれる決心をする。この年、ガリレオはアンナと母親を残したまま荷物をまとめ、二人の娘と息子を連れて、大学町パドヴァをあとにした。行き先は花の都フィレンツェ。そこでかって家庭教師をしたことがあるトスカーナ大公(コジモ・デ・メディチ)に仕えることになった。

 ガリレオが去って、一年もたたないうちに、マリナはガリレオからせしめたにちがいない持参金を携えて別の男と再婚した。この結婚はマリナにとって幸せなものだったらしい。一方、マリナや母親から解放されたガリレオも幸福だった。この頃から、ガリレオの自然研究の速度が急ピッチであがって行った。

<今日の一句> ガリレオに 星を想ひて イチゴ食う  裕  


2002年05月08日(水) 若き日のガリレオ

 ガリレオの伝記を書いてみたいと思っていた。近代科学の父と呼ばれるガリレオの思想や業績をたどり、波瀾万丈の生涯をたどることは、科学とは何か、宗教とは何か、近代的精神とは何か、そしてそもそも人間とは何かという問題を考える上で、絶好の材料だからだ。ガリレオから、人間の歴史そのものが見えてきそうである。

 ガリレオが生まれた1564年にルネッサンスの巨人ミケランジェロが死んでいる。そしてガリレオが死んだ1642年にニュートンが生まれている。ガリレオはルネッサンスと近代を結ぶ橋でもあった。

 そして、ガリレオと言えば、まず浮かぶのがピサの斜塔での有名な実験だろう。ここから重さの違う二つの鉄の玉を落として、重い物体ほど早く落ちるというアリストテレスの説をくつがえした。これは伝説だが、おそらく事実だったのだろう。ガリレオ自身が弟子に語っているからだ。

 彼は早熟で、すでに大学生の頃、アリストテレスの説に疑問を持ち、教師に質問したらしい。しかし、教師は彼の質問をはねつけた。それ以来、彼は大学の教師を軽蔑するようになった。教義に固まり、自分の頭で考えようともしない権威主義の俗物達ばかり。教授のガウンを着て威張っていても、中身はからっぽだから、たんなる空威張りでしかない。

 そのころ、彼はたまたま数学者オスティリオ・リッチの講演を聞いた。そしてたちまちユークリッドの「原論」とアルキメデスの数学の魅力にとりつかれる。彼はもともと医学の勉強をするはずだったが、頭の中にはもう数学しかなかった。そして、1585年、21歳のガリレオは4年に及ぶ大学生活のあと、結局学位を取得することもなく大学を去ることになる。

 ところが、彼は25歳の時、力学の研究で知り合ったウバルド侯爵の知遇を得て、彼の推薦により、母校ピサ大学になんと数学教授として戻ってくる。ピサ大学にすれば思いもよらなかったことだ。かっての議論好きの生意気な学生が教授とは。しかも、彼の性格は少しも変わっていなかった。彼は教授のガウンを着ることを拒否した。そしてこんな戯れ歌を作った。

   ガウンを着たまえ
   いかめしい顔をして威張り散らす馬鹿なら、
   ガウンを着たまえ。
   それが大学のユニホーム。
   ガウンを着たまえ
   規則が大事な奴は
   ガウンを着たまえ
   そいつらの仲間に入ったら
   売春宿にさえ行けない・・・

 ガリレオは女好きで、若い頃から売春宿にいりびたっていたらしい。それにしても、女遊びができないから、学者のガウンを着ないというのは、とんでもない言いぐさである。こんな型破りの教師だったから、大学当局からにらまれた。4年後の1592年に、彼は契約の更新を拒否され、ピサ大学を去ることになる。

 さいわいなことに、そのころパドヴァ大学の数学教授の口があいた。ピサ大学は彼をそこに推薦した。とにかくガリレオをピサの地から一刻も早く追い出したかったらしい。目の敵にしていたガリレを追い出して、ピサ大学の学者たちに、ふたたびつかのまの平和が訪れた。

<今日の一句> 梅雨のごと 雨降る夜に 書をひらく  裕


2002年05月07日(火) 宇宙の中心

 エルサレムに「聖なる石」がある。旧約聖書に書かれたこの石を、ユダヤ教徒は聖なる場所と考えている。どうように、この同じ石を、イスラム教とも崇拝している。なぜなら、コーランには教祖マホメッドがこの石から天に飛び立ったと書かれているからだ。彼らにとって、この石こそ世界の中心であり、宇宙の中心なのだろう。

 もちろん、これは宗教上の立場であって、現代の科学者は、そのような場所を、何か特別な空間だとは考えない。それでは、はたして宇宙に中心と呼べるような特別な点が存在するのだろうか。それはなにをもって「中心」と定義するかにもよる。たとえば宇宙の重心がそうだとすれば、どこかにその点はあるのだろう。しかし、そのような点が何か特別な意味を持った聖なる点だというわけではない。

 天動説が信じられていた頃は、地球の中心が宇宙の中心だった。万物はこの中心に向かって引かれる。私たちが今日重力と呼んでいる力がこれである。こうした力を生み出す源泉として、地球の中心は宇宙の中心と呼ぶに相応しい、聖なる点だと考えられた。

 コペルニクスが唱えた地動説によると、宇宙の中心は地球ではなく太陽だということになる。動いているのは地球で、太陽こそ不動の中心である。この考えは教会から異端視され、迫害された。しかし、やがて一般に受け入れられていく。

 ただ、天動説で困ったのが、重力の問題である。太陽が宇宙の中心だとすると、地球の中心に向かう「神秘的な力」はどう考えたらよいのだろう。これまでは宇宙の中心だということで説明できたが、もはやこうした説明は説得力を失う。それでは何故、物体は地上に落ちるのだろうか。

 この問題に解決を与えたのが、ニュートンの「万有引力」の説だった。この説によれば、地球ばかりではなく太陽でさえもが宇宙の中心ではなく、宇宙に無数に存在する物体のひとつに過ぎないということになる。リンゴは地球の重心へと引きつけられるが、地球もリンゴの引力を受けている。質量の違いが、力の大きさの違いを生み出している。

 宇宙に特別な空間や、特別な物体が存在しないというニュートン力学の世界は、人間の知性にとって大きな収穫だった。しかし、ニュートンによって、すべての謎が解決されたわけではなかった。力とは何か、質量とは何か、こうした本質的な謎が現れてきた。この謎に挑戦したのがアインシュタインである。

 アインシュタインの学説には興味があるが、今は話をもとにもどそう。宇宙に中心はあるのか。現代科学は、そのような特別な点が宇宙にあるとは考えない。時間と空間、そこで行われる物体の運動はすべて相対的で、絶対的なものではない。この考えはガリレオから始まり、ニュートン、アインシュタインと受け継がれ、徹底してきた。

 しかし、それは科学の立場である。人間の立場に立つと、また違った考え方ができそうだ。たとえば釈迦の唱えた「天上天下唯我独尊」などがそうだろう。パスカルが言うように、私たちはこの広大な宇宙の中で、粟粒のような微少な存在かもしれない。しかし、考えるという行為によって、私たちは宇宙をも包むことができる。

 私たちはこの世界の中心をいつも自分の外側に求めてきた。しかし、その中心点を、私たちの内部に求めてみてはどうだろう。そのとき、私たちひとりひとりが、かけがえのない宇宙の中心だということに気付くだろう。人生の風景がすこし違って見えてくるかも知れない。

<今日の一句> われひとり 河原に来れば おぼろ月  裕


2002年05月06日(月) ちさの花咲く

 私の家の庭先に、ちさの花が咲いている。「ちさ」というのは、エゴの木の昔風の呼び名である。私は「ちさ」の方が好きだ。「エゴ」の木よりは、ずいぶん語感がよい。したがって、ちさの花と書く。

 五弁の清楚な白い花が、うつむき加減に下を向いて、たくさん咲いている。やさしくて、かわいらしい花で、爽やかなかおりがして、いかにも日本人好みの花だ。万葉の昔から、歌にも読まれている。

 知左(ちさ)の花 咲ける盛りに 愛(は)しきよし
 その妻の子と 朝夕に 笑みみ笑まずも  (大伴家持 巻18−4106)

 息の緒(を)に 思へる我れを 山ぢさの
 花にか君が うつろひぬらむ   (作者未詳 巻7−1078)

 ちさの花は、やがてしぼみ、はかなく散る。そこで、恋人の心のうつろう姿を、このように可憐な花にたとえたのだろう。万葉集には「知左」という字があてられている。エゴの木というのは、実がエグイことからつけられたのだろうが、きれいな花がこの無粋な名前ではかわいそうだ。

 万葉集に出てくるゆかりの花は、おもい草(ナンバキセル)、わすれな草(ヤブカンゾウ)、さきくさ(みつまた)など、いずれも美しい名前で呼ばれていた。古人のこころのやさしさ、愛情の深さがしのばれる。

<今日の一句> そよかぜに ほのかに匂ふ ちさの花   裕


2002年05月05日(日) 愛別離苦

 父の命日が近づいてきた。父が死んだのは、1991年5月20日である。そこで、今日はその頃の日記を取り出して読んでみた。11年前の5月5日の日記を、そのまま引用しよう。

<一昨日、昨日と、福井に帰省。父の足腰がだいぶん弱くなっていた。しかし用便はどうにかひとりでできるようである。祖母の場合と比べても、非常に扱いやすく、素直な病人だという母の話に、いささか驚いた。

 福井は祭りの最中だということで、「もろびた」に五目飯が作ってあった。それを食べながら、「おとうさん、盆までもつかしら」という、母の話を聞いた。

  もろびたに五目つくりて我を迎ふ
  ふるさとの父母ありがたきかな

 今日はこちらは朝から地区運動会である。少々風邪気味で、鼻水がでる。体調悪く、創作意欲もほとんど湧かない。卒業生の二尾さんから、二輪草の絵葉書が届いた。返信を書いた。>

 日記を読みながら、11年前の父の様子が目に浮かんできた。私たちが帰るとき、父はこれまで必ず玄関先まで出てきていた。この日も寝床から立とうとするのを、押しとどめて帰ってきた。

 そのとき、私はふとこれが生前の父の見納めかも知れないと思った。父もたぶん同じことを考えていたのだろう。寝床から起きあがって、別れ際に私たちを見つめる父の顔が、すこし涙ぐんでいた。

<今日の一句> あめにぬれ 道をたどれば ツツジ咲く  裕


2002年05月04日(土) 可愛い生徒達

 テニス部の顧問をやっていると、まず、連休はほとんどなくなる。週休2日制になっても、一日は部活の練習でつぶれるからだ。公式試合があるときは、2日ともつぶれることもある。

 この4連休も、昨日と今日の2日間は部活の予定が入っている。無料報酬のボランティアである。いわば半ば強制されたボランティアだが、まあ、可愛い生徒のためだと思ってがんばるしかない。

 春の公式試合が終わって、11人の3年生が部活から抜けたが、そのかわり新入部員が18人入ってきて、活気が出てきた。今のところ、18人全員が練習に出てきている。いまのところ休日は1年生は自由参加にしてあるが、昨日も熱心な生徒が7人ほど来ていた。彼らが今後どれだけ成長するか楽しみである。

 私自身はこの連休中、部活、山登り、水泳と、このところ運動ついている。そのせいか、一昨日の6限のHPの時間、急に右手が上がらなくなった。しかたなく、チョークを左手に持ち替えて書いたが、おかげて、「先生、へ〜たくそ」とクラスの生徒たちに受けた。

 調子に乗って、黒板に福井県の地図をかき、愛犬を抱えて山登りの話をしたら、またまた受けた。今年は自分のクラスに行くのが楽しい。こんなことは、ここ数年なかっただけにうれしい。(むかしはこれがあたりまえだったのになあ)


2002年05月03日(金) 教科書の文章

 数年前のことだが、図書館からアメリカの理科の教科書を借り出して、読みふけったことがあった。小学校と中学校で使われている教科書なので、英語もやさしくて、辞書などひかずに読み進むことができた。

 ハードカバーの立派な教科書である。写真やイラストもふんだんに使ってあり、一見して高価だとわかる。これを学校は生徒に無料で貸し出すらしい。氏名を書く欄が10個ほど用意されているのは、10年間ほどはこれを使うのだろう。よいものを長く使うという方針のようだ。

 私が感動したのは、その内容の面白さである。小学校、中学校の理科の教科書がこんなに面白いとは思わなかった。高校で長年理科を教えてきた私(現在は数学)が読んでも、自然界に対する新たな発見があり、驚きがあった。さらに学年が進むと、問題を更に深く追求したい生徒のために、文献のリストまでついている。

 アメリカの教科書は、日本の貧弱で、無味乾燥な教科書とはまるで違っている。まず、文章が生き生きとしている。貧弱な英語力の持ち主の私が読んでも感動するのである。こうした感動を、私はついぞ日本の教科書で味わった覚えがない。

 いや、例外がないわけではない。たとえば大学時代に読んだ朝永振一郎さんの「量子力学」など、文章がとてもすばらしいので感動したものだった。考えてみると、私が物理学者になろうと憧れたのは、湯川さんや朝永さんの文章に引かれたせいもあるのだろう。湯川秀樹の「旅人」、朝永振一郎の「物理学とはなんだろう」など、高校時代に読んで感銘をうけた書物の一冊として今も鮮明に記憶に残っている。

 アメリカの教科書を読んでいらい、「教育改革は教科書改革から」というのが私の持論になった。もっとも、日本の学者や教育者に、このような魅力的な文章が書ける人材がいるかどうか、そこが心配である。また、このような魅力的な教科書は、日本の知識偏重の受験体制からは生まれない。

 さらに、文部科学省の検定制度や、出版社の儲け主義が壁になっている。つまるところ、日本の教育体制を根本的に変えることが必要なのだが、その風土を変えるためにも、魅力的な日本語で書かれた理科や数学の教科書が、一冊でも世に出てほしいと思う。

(私がこれを書いてやろうという野心がないわけではない。しかし、そうすると、放浪の旅をあきらめないわけにはいかない。それに、好きな小説や俳句を楽しんでいることもできなくなりそうだ)


2002年05月02日(木) ゆでカエルの悲劇

 クジラやイルカの集団死が世界各地で起こっているようだ。その原因については、学者の間でも意見は様々で、増えすぎによる自然淘汰説、エルニーニョの影響でえさが減ったため、化学物質による海洋汚染などの説がある。さらに海水温暖化による影響も考えられる。 

 先日、NHKテレビで、こんな話が紹介されていた。熱湯の入った釜にカエルを入れると、カエルは熱さに驚いて、釜から必死で飛び出してくる。しかし、最初にカエルを釜に入れて、すこしづつ熱してやると、カエルはそのまま茹だって、死んでしまうというのだ。

 今、人類が置かれている状況は、このゆでカエルと同じらしい。環境が少しずつ悪化しているのを知りながら、まだ大丈夫だと思って、油断をしている。そして気が付いたときには、もうすっかり行動の自由を奪われているというわけだ。急激な変化に対しては危機感を抱いても、緩慢な変化に対しては、私たちは鈍感である。そして、気が付いたときにはもう手遅れになっている。

 さらに、これに集団的な痴呆効果が加わる。釜の中にたくさんのカエルがいると、「みんないるから、まだ大丈夫だ」とお互いに安心して、状況判断を誤り、危機感をもたなくなる。死が迫っていても、いわれなき安心感のなかに酔っていて、危機回避の行動を起こそうとしない。

 地球が少しずつ暑くなっている。南極や北極の氷が次第に薄くなり、アルプスやヒマラヤでも氷河が融けだしている。このまま推移すれば、近い将来、私たちは間違いなくゆでカエルの悲劇を体験することになるだろう。クジラやイルカの集団死は、人類の集団死への警告なのかも知れない。

(参考サイト) 「なぜ、買い物かごなの?」
http://www.city.toyota.aichi.jp/ae00/ae02/kyougikai/naze/naze.htm


2002年05月01日(水) 森林が消える

 先日、若狭に行ってきた。若狭は私が小学生時代を過ごした場所である。車を走らせながら、しばし過去の思い出に耽った。見覚えのある山や川、そして民家のたたずまい。

 おりしも、新緑の季節である。山は一面の緑色、と書きたいところだが、現実は違っていた。山肌がところどころまだらになっている。木が枯れて茶色になったところ、さらにすすんで、白けた幹だけの柱の林立。なかにはすっかり禿げ山になっているところもあった。

 どうしてこんなことになったのか。理由として大気汚染や酸性雨が浮かぶ。以前に新潟県を旅したときも、同じ光景にであった。そのとき同行した友人の話では、中国から来る汚染物質の影響だと言うことだった。そうだとすると、被害は日本海側の森林全体に及んでいるのだろうか。

 山のみどりが滅びたらどうなるのだろう。森林は自然のダムである。この巨大な貯水池が失われたら、農業は壊滅するのではないか。土壌が雨で流され、海を汚染し、やがて海の幸も失われるだろう。森林の消滅は、私たちの生活に計り知れない影響を及ぼす。

 私たちの今回の旅の目的は福井県と京都府の県境にある「青葉山」に登ることだった。しかし、目的地に近づくに連れて、私の心に不安が募ってきた。もし、私の大好きな青葉山が、枯れ山になっていたらどうしよう。これはもう悪夢としかいいようがない。

 しかし、これは杞憂だった。青葉山はその名前の通り、青葉、若葉に覆われていた。どこにも枯れたまだら模様はなかった。登山道を辿り、杉林を抜け、樺や楢などの原生林を通ったが、そこもまた、生き生きとした青葉に包まれていた。

 私はほっとして、山のみどりを堪能した。しかし、近いうちに、この山も青葉山でなくなるときがくるのではないだろうか。十年後、ふたたびこの山の麓に来て、山を仰いだとき、そこにどんな山の姿があるのか不安である。この不安を現実のものにしないために、私たちにできることはなんだろうか。


橋本裕 |MAILHomePage

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