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2006年08月20日(日) 江ノ島




鳥居に向かって、細い坂がのびる。両脇には土産物屋と食堂。おばさんが忙しくたちまわる食堂のテレビが、甲子園の決勝を映す。わざわざ電車に乗って海のそばまで来て、テレビを見るために1時間ほど居座った。たのんだカツカレーは学食の味がした。

ハアハア言いながら階段を上りきると、神社の鳥居が姿を現す。木のあいだからもれてくる太陽の光。木々がつくる陰。まだ見えていないのに、海の気配が迫ってきた。

疲れて入ったかき氷屋から、無料で海の大パノラマを望む。となりの席では日本人女性と白人男性が、おさしみを頼んで食べていた。瓶ビールと、まぐろ。足下に飛んできた蝉に驚いて、女性が声をあげる。蝉は、海に堕ちていった。







2006年08月16日(水) 病気でした、伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』

過日の日記で「風邪をひいたけど治した」と書いたが実は治っていなかったらしい。先週月曜日、無理をして会社に行ったら次の日、完全にダウンしてしまった。

火曜の朝、のどがやられて声が出ない。唾を飲み込むときにこの世の終わりのような傷みが全身に襲ってくる。はいつくばりながら病院に行って体温を測ると、デジタル画面に「39度」とある。驚いて、「絶対違うと思います。違います」と看護婦さんに別の体温計を出してきてもらったが、数字は変わらない。仕方なく会社を休んだ。疲れがたまっていたのだろう。

病気をすると、普段放っておいている自分の体と否応なく向かい合うことになる。養老孟司の「人の体は毎日変わっているんです」という言葉を何度も思い出した。

特に面白いと思ったのが、「睡眠」と「入浴」。眠る前後とお風呂の前後では、明らかに体の中の何かが変わる。突然のどが痛くなったり、鼻水が透明から黄色に変化したり。不思議だ。風邪をひいているときは、それがいい方に転ぶのか暗転するのか分からず、ビクビクしていた。

夕方過ぎ、薬が効き始めて少し落ち着いたのでキオスクで買った文藝春秋の芥川賞を読む。伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』。中吊りに「格差社会の底辺の純愛!」みたいなことが書いてあったので気になったため。

フリーターの話。物書きになりたかったけどなれなくて、結婚したけど離婚して、自動販売機にカンを詰めて回っている男の子の話。

アッという間に読めて、良いのか悪いのか分からず、しかしそれでも「リアルな感じ」はあるのできっと良いんだろうなあ、うん、とぼんやり思いながら同誌をぱらぱらめくっていると、選評のコーナーに目がいく。

今まで気付かずにいたが、芥川賞掲載号の、この選評というものこそ最上のエンタテイメントであった。最近読んだどの小説よりも、もちろん伊藤たかみを遙かに超えて、面白かった。

芥川賞の選考委員は、池澤夏樹・石原慎太郎・黒井千次・河野多惠子・高樹のぶ子・宮本輝・村上龍・山田詠美の8人。それぞれが今回の最終候補に残った作品について意見を掲載している。

の、だが。

ほとんど全員、候補作品すべてへの悪口が渾身の力で書かれている。正確に言うと、文学界にぱっとした人が現れないことを、とにかく嘆いている。

宮本輝は「今回は該当者なしでよいと思ったが、2人の選考委員が○をつけてしまった」石原慎太郎は「作品が送られてきてすぐに読んだが審査当日まで記憶が残らない」村上龍に至っては選考を欠席、文書で回答(悪口)を寄せている。たまに性格のいい山田詠美あたりが「ここはよかったよね」みたいにフォローしているのがさらに面白い。

私が読後に感じた「いいのか悪いのか分からない感じ」は、当たらずとも遠からずだったのかもしれない。良いのか悪いのか分からないけど、たぶんいいんだろうな。こういう作品は、人生を変えてくれる作品にはならない。

深く共感した選評は次の2つ。「どの作品も登場人物が、物書きか物書き志望、出版社勤務など。そんな世界つまらん」という意見(山田詠美だったかな。ほんとにそう思う。作家みたいな人が悩んでいるところを見たいんじゃない)、「現代の生きにくさを伝えるものはテレビでもどこでもやっているし、みんな知っているんだからもういいじゃないか」という意見(ほとんどの選考委員が言っていた。池澤夏樹は「どうしてビョーキの話ばかりなんだ」と。確かに飽きたし、そんなの魚喃きりこあたりが書いて、勝手に映画かでもされればいい)。

最近の作家の小説に対する悶々を、偉い(選考委員のメンツってどうよ、という意見は知っているけど)先生方が言い得てくれた気がして、うれしかったのだ、私は。



2006年08月13日(日) 病気、edaくん

お盆なので実家に帰る。熱が出る。疲れがたまっていたのか、気が抜けたのか。今日は突然激しい頭痛が襲ってきて、のたうちまわった末、夕方に薬を飲んだらなんとか治った。

日曜に考えていた柴又行きは延期する。

その分、テレビで先週に続いて寅さん映画祭。今回のマドンナは伊藤蘭。母親が切り抜いてくれた笠智衆の俳優人生を紹介した新聞記事を読んだ後だったので、御前様を見ると背筋が伸びる心地がした。ああ、ほんとに寅さん映画が大好きだ、私は。来週は、吉岡秀隆初登場。楽しみだ。

先週水曜、edaくんがジンバブウェから帰国したので会う。色々と話したが、いつ話しても彼は浮世離れしているなあと感じる。浮世離れしているからこそ、話していて落ち着く。

「みんな社会人になると変わるよなあ」と言っていた。大学の同級生がたまにメールをくれるけど、社会人になってから仕事のことばかり。

タバコが大好きで、「アウトロー」を自称していた後輩の女の子が、もうすぐ結婚すると言ってすっかり落ち着いてしまったそうだ。「(その子の)家に行ったらな、なんやったっけ? マクロビオティック?……自然食とか、ヨガとかの本がたくさんあるねん。すっかり健康志向になってしまって。変わったよなあ」。

アフリカに行って帰ってきた人から「社会人は余裕がないな」と言われるのは、なんだか情けない気持ちだった。小さな世界でセコセコ生きることが私の日々だということは良く分かっている。でも、小さな世界でセコセコしない選択肢が常に横にあるのだといつも忘れずにいたい。

それからedaくんが自分の彼女のことをとてもほめていて、こういうのは気持ちがいいものだなあと思った。「彼女は人にも好かれるし、お金も貯めてるし、しっかりしてるからね。俺なんて人とうまくしゃべれへんし、金銭感覚もおかしいから、彼女が一緒におったら安心やねん」という。



2006年08月12日(土) 本のこと、自戒

昨日の続きだが、この夏読んだ中では東野圭吾『白夜行』と庄野潤三『うさぎのミミリー』がよかった。最近書店に行って1時間ぶらぶらしていても何を読んでいいのか良く分からなくなって、結局新書を1冊買って帰ってくることが多かったから、ようやく上記2冊に出会えたという感じ。

いい小説に出会えるかどうかは、たいてい自分の「思い切り」の問題で、「これ面白いかな、どうだろう」なんて迷っているときは、中途半端に、早く読めそうなよしもとばななあたりを買ってしまって中途半端な感動で終わるのがオチだ。(よしもと先生も、もちろん素晴らしい小説家さんです。)

だんだん汚い欲が出てきて、自分なりに「あたり」そうな作家の新作ばかり待つようになったらだめだなあと思う。私の場合、村上春樹、石田千、石牟礼道子あたりが「絶対にあたり」なのだが、どの方も新作を出すまでにはかなり時間がかかるだろうし、まだまだ素晴らしい作家はたくさんいるのだ。怖がって読まないだけでしょう、ドストエフスキーとか、名前が怖いからって。

今積ん読なのは、山田詠美『風味絶佳』、本屋で何度も眺めているはローリー・リン ドラモンド 『あなたに不利な証拠として』。小倉千加子本も読みたいんだけどあおい書店にはおいていなくて、ついつい機会を逃しています。そうだ、あと前にrikaちゃんに進められた中沢新一も読んでない。

それと、いつも反省しているのだが私の読書は歴史モノの量が圧倒的に少ない。マンガも少ない。いまさらですが、夏にガッツリ読めそうなお勧めがあったら教えてください。



2006年08月11日(金) トルコと東野圭吾

「俺、トルコに行く」。

ある土曜日、夕ご飯を食べていたインドカレー屋で彼が突然言いだした。

ほとんど初めての海外旅行、しかも1カ月ほど滞在予定だという。

これは大変だと思ったが、26歳の大の大人の発言を私がどうこうしようもないので、「トルコはいつだったら航空券が安いんだろう」とか「トルコとギリシアを旅行したことがある友人を知ってるから、どんな土地が聞いておくね」と色々応援の言葉を述べた。

トルコに行きたい理由は「親日のトルコの人たちにちやほやされたい」とのこと。旅行した友人も「トルコの人は優しかった」と言っていたし、これは嘘ではない気がした。

1カ月の旅行だと色々準備が必要だろうと思い、私が学生時代にアジアを旅行したときのグッズを色々掘り出してみた。電圧を変えられるコンセント、バックパック、簡易式ポット、電子辞書、海外旅行用のテレホンカードなど。私が大学2年の頃と状況は変わっているかもしれないが、役立つものもありそうだ。食べ物は、高田馬場のトルコ料理屋で予習しようと提案した。

1カ月の不在となると、連絡はどうやってとるのだろうかと不安にもなった。でも海外に行っているときくらい、日本とのつながりを絶ったほうがストレスがない気もする。こちらも心の準備を固めた。






数日後。

彼が「バナちゃん……」と私のほうをうるうるした目で見つめてきた。なんだろうと思って「どうしたの?」と聞いてみると、「僕は今……周りの人々にとても感謝しているんだ……(うるうる)」という。「はあ」。

よくよく聞いてみると、うるうるの原因は東野圭吾の『手紙』という小説であるらしい。

「僕はね、僕のことを気にかけてくれる人の、存在の素晴らしさに気づいた。自分の近くのものに文句言ってるやつが、トルコに行ったところで文句言うに決まってる。僕はトルコ行きをやめる」

というわけでトルコ行きはなしになったみたいです。





『手紙』は知らないが、東野圭吾の『白夜行』は面白い小説だった。久しぶりに引き込まれ、カレー屋で水を何杯もお替りしながら一気に読了した。背筋が寒くなる。と同時に切なくて涙が出てくる。とにもかくにも東野圭吾には、しばらく感謝しようと思っている。



2006年08月06日(日) 寅さんはいい映画だったこと以外も書いてます

世の中のよいことと悪いことがあるとしたら、今の彼といて本当によかったと思うのは、お互いに話す内容は世の中や身の回りで起こっている良いこと、悪いこと両方なのだけれど(当たり前だ)それを話す雰囲気や、これからの展望、私の中の結論は、良いほうに落ち着くところだ。私はもともと非常に楽観的な人間であるにもかかわらず、周りの雰囲気に非常にのまれやすいため、暗いほうに暗いほうに考える相手といるとどうしても自分が暗くならなければならない強迫観念めいたものに襲われるし、真面目な人といると自分の不真面目さを必要以上に呪ってしまうところがあるので、相手が楽観的であったり、明るい雰囲気の人であったりすると非常に助かる。

こんなことを考えたのは、世の中のブログを読んでいると本当に精神的に辛い思いをしているひとというのはたくさんいて、私の思春期の何千倍もこんがらがっている人もいるということに改めて気づいたからだ。そして自分という人間の底知れず複雑な部分について私はここのところまったく書いていないのは、自分がそれをあえて避けているからだと分かったのだ。

あえて避けているというのはどういうことかというと、私だって普通のOLとして日々会社に行き、その後のアフター3くらい(ファイブもない)と週末を個人として過ごしているわけだからそれなりに楽しいことも辛いこともそのどちらでもないけれどもしていることもある。しかし、そのうちのたとえば辛かったこと、直接的には辛くなかったけれども人間の複雑な部分に触れようとすればそうできたことについて言葉にするのが、本当に嫌なのだ。そんなことよりも同じ複雑でも自分が書いていて気持ちの良い内容を、文章にしたいと思ってしまうのだ。

日記が面白いのか面白くないのかということはまた別問題でおいておくとして、私は気持ちのいい文章を書きたいし、それが、今の私にとってけっこう大切な信条(というと大げさだが)なのかもしれないと、なんとなく思った。

私は村上春樹の作品に対して、「〇〇の頃のほうが好きだったけど、最近は変わってきちゃった」なんていう文句を言うけれど、そんなことを読者である私がいくらいったところで作家の作風は変わらないのだなと思った。もし〇〇を欲している読者が100万人いたとしても、本当に信条がある人はそれを曲げるのは本当にむずかしいんじゃないだろうか。それをさらっと変えられる人もいるだろうが、それはその人にとって変えることがなんてことないことだからだろう。

私は相手が望むことにはこたえてあげたいなと思う人間なので、たとえば仕事では、当初自分が思っていたことと違うことが相手からオーダーされても、ほとんど答えてあげている。言葉を変えれば妥協することもある。でも突き詰めて考えるとそれは私にとってさほど重要ではないことだからなのだろう。

話を戻すと自分の心のままに文章を書けるというのは私にとってとても大切なことなので、ここで日々自分の中に沸き起こるどろどろした部分だけをまとめて書くというのは、今の私には非常にしんどく、信条(というにはやはり重い)に反する行為なのだろうと思う。こうして書いている文章も、無駄な言葉が多くて本来気持ちよくかけているものとは違うが、私はウエットな人間なので、こちらの文章の書き方が自分の本質なのだ。何も考えず書くとこういう文体になるというのが本当に怖いが。

何を言いたいのかよく分からなくなってきたので、今日見たテレビのことを書く。NHKのBS寅さん映画祭なるものをやっており、初めて寅さん映画をはじめからおわりまで集中して見た。見たら、これが非常に面白く、いい映画だった。山田洋次と趣味合うんだ多分。あのおじさんがテレビでしゃべってるところすごく好きだもの。「負け組勝ち組の世の中はいやだ」とか、ぼそぼそつぶやいてるところ。まず風景がいい。柴又行こうと思う。金町も。先日書いた池上線沿いといい京成線沿いといい、東京にはまだまだ行くところがあるらしい。普通の人の、普通の暮らし。働いて、ごはんを食べて、食べ終わったらお茶を飲んで、その後少し楽器を弾いたりして眠る。そういう暮らしが、この映画にはある。

ほらね、また気持ちのいいほうに行こうとするでしょ、私、と書いていて思った。まあいいです。週末に徹夜して仕事ばっかりしてたらなんかもやもやしたので駄文を書いてやった。まどろっこしくて何を言っているか分からなくて雰囲気の言葉が多くて一文が長く、論旨が段落によりぶれぶれな文章を書きたくなるときもあるんだよばか。悪いか。俺は眠い。



2006年08月01日(火) 1年前のメール




こんばんは、バナナです。
昨日は神楽坂のお祭り、たのしかったです。
どうもありがとう。

夏が好きな理由を考えてみたんだけど、
もちろん寒いのが苦手ということ以外に
いろんな不自然な縛りから自由だからかなあと思いました。

外でだらっとビールが飲めるし(場所から自由)
寒くないから歩いても楽しいし(乗り物から自由)
花火もタダで見られるし(お金から自由?)
……
なんか例があんまり思いつかないけど(苦笑)
昨日電車が止まったにもかかわらず、神楽坂まで楽しく歩いたことを
思い出しながら、なんとなーく上記のようなことを考えました。

前に友人が
「○○がないと生きていけない」ってものを
なるべく減らしたいと話していて、
その通りだと共感したことがあったのです。
「化粧しないと外にでれない」っていうのがすごい不自由、と
その子は言っていた。

なんだか分かったような分からないようなことを書きましたが、
あともう一つ。

昨日買った石牟礼道子の本にあったくだりです。

「水俣の患者さんの女の子たちが、死ぬ前に桜の花を見て、
苦しいとも、いやだとも、人を怨むとも、なぜ自分たちがこんなに苦しむのかとも
一切言わないで、
『桜の花が……と言って死んだのです。
子どもに教えられて親はハッとして、
『今は桜の時期ばいなあ』と思って、桜を見たとおっしゃる。
その人たちも死にましたけれども。
人間はやはり、死の間際には、美しいものを見たいのだろうと思いました」

誤読かもしれませんが、
あなたが言っていた、人はどういう時幸せなのかっていう
レポートの話を思い出しました。

なんだか長くなり、ちょっと宗教めいてしまいましたが
(石牟礼道子は、よく「魂」とか「神様」とかいう人なの。
でも、不思議と怪しくない人)

よかったらまた遊んでくださいね。
私は今、伊東に行ってみたいのです。

それとお仕事のお忙しくない時にでも
引越祝いしましょう。
長くなりました。それではまた。



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