荻窪のカフェひなぎくに行った。かどちん(http://kadomae.exblog.jp/)がタイで買いつけた雑貨を売るというので、見てきたのです(タイのノートと蚊取り線香入れかわいかったよ〜)。
初めて行ったカフェだったけど、とても落ち着いた。線路沿いにあるので定期的に電車の通る「ゴー」という音が聞こえるが、不快ではない。中央線沿いだったら、ガードの近くに住むのもそんなに苦痛じゃなくできるかもしれないなあと、ぼんやり思った。
お茶を飲みながら『ザ・フェミニズム』を読了したので佐藤雅子『季節のうた』を買って帰る。今、私は女の人の生き方に興味がある。フェミニズム対談で専業主婦の話が頻繁に出ていたので、ザ・専業主婦である佐藤先生の暮らし方を見たいと思ったのです。
帰りに荻窪のルミネをぶらぶらしていたら、マークスアンドウェブというおされ石けん屋を見つけた。ロクシタンも新宿のルミネに入ってたし、最近は5000円とかする石けんがはやっているのかねえ。あたしゃ石田千の、銭湯行きに使う小さな石けん箱の話のほうがしっくりくるけどねえ。誰か高い石けんとアロマのセットプレゼントしてください。
石田千ネタはココで読めます↓ http://www.kk-bestsellers.com/ishida/essay04.htm
昨日訪れた戸越銀座にしてもこの荻窪にしても、人がとても普通に、自分たちのペースで無理をせず(ということさえ意識せず)息をして暮らしている空気がある。
「戸越銀座はいいとこだよ。でも何にもないよ。忘れられた商店街って感じだけど、さびれてもない。人が住んで、生活してっていうのはこういうことだよね、こういう場所が自然にできるよねって思える場所」。
彼が電車の中で良いことを言うので、ひとり五反田から池上線に乗って、戸越銀座という駅で降りた。目的はなく、予備知識も、ガイドブックもゼロだった。
近所の人でにぎわう商店街をぼんやり歩いた。長い。全ての店が生き生きと、淡々と、今日の業務を続けていた。電気屋のおじさんと向かいの八百屋のおじさんが会話している。
「打ち水イベント」なるもののために、小学生の子供たち、カメラを構えた親たち、地域の重役らが集まっている。「打ち水機」(正式な名前は違うと思う)という壮大な装置の除幕式も執りおこなわれていた。
打ち水機(仮)の近くは涼しいが、少し離れるとまた日差しが襲ってくる。かき氷屋に入りたかったが、よそ者が小学生たちの夏休みの風景を邪魔してはいけない気がして、通り過ぎる。
一本路地を入ると、住宅街がある。エプロンをしたおばさんらが、自転車をこいでスーパーに流れてゆく。周りにはひとり暮らし用のアパートよりも、家族が購入するタイプのマンションが多い。
街の本屋にはいると星野博美『のりたまと煙突』が平積みしてあり、直筆のポップが掲げてある。作家はこの駅の出身だそうだ。
2006年07月23日(日) |
高円寺でカレーを食べる |
インドカレーをつくる。
カレー好きな人とは気が合うと思う。
高円寺(寺院)。
商店街から近いとは思えない静けさ。しょっちゅう通ってしまいそうだ。
第135回芥川賞に輝いた伊藤たかみさんという男性は角田光代の旦那だという。角田氏が結婚しているなんて、全然知らなかった。どひゃー。
全国のダメ男好き彼氏いない女子は、私に彼氏ができたときくらい(失礼)かーなり驚いているんじゃなかろうか。だって、夫婦で芥川賞、直木賞ってカッコいいもんなんか。クリエイティブにお互いを高めてそうじゃん。
角田光代のあのダメーな男を抱え込む感じとか、9時5時OLのようにボクシングやら海外旅行やら各種習い事により自分を高めようとする様子とかに、結婚て似合わないじゃん。
まあいいや。みんな幸せになるべきだもんね。つーわけでアイス食ってる彼氏の写真載せてオレは寝るぜ。いい夢見ろよ(リカちゃんのマネ)!
冬。トルコアイス。
今日。コーラフロート(アイスはスーパーカップバニラ)。
休日出勤を続けていたら疲れてしまって、平日だというのに久しぶりに埼玉の実家に帰ってきた。自分はなんと自立していないのだろうと反省しつつ、山崎ナオコーラさんも以前エッセイで、「疲れると実家に帰る、そうするとお母さんが静かに迎えてくれる」とその心地よさについて書いていたし、まあいいか、と言い訳しながら。
家に着くと、まず母親に「口から歯周病のにおいがするからすぐに歯医者に行きなさい」と言われた。高田馬場でいい歯医者を探すのが面倒くさいので、母の通っている北本の口腔外科を予約した。しばらく週末は歯医者に通うことになりそう。社会人になってから最もほったらかしてきた部分だったので、ここらできれいさっぱり清算しようと思う。
もうひとつ、相変わらず「結婚しな」というのを何度も言われた。今年度いっぱいは仕事に専念したいということを以前伝えて理解してもらえたのだけれど、それこそ社会人4年目(26歳になる年)にはすぐ結婚してほしいらしい。
そろそろ親孝行もしたいので、具体的に転職活動に向けて自分の方向性を見据えていくべきなのかもしれない。今の会社は居心地がいいし、編集者として本当に勉強になり、かなり鍛えられるから4年くらいいたいのが本音だが、私がそんな悠長なことを言っていて、いろいろな人に迷惑がかかるなら自分を鍛える場所は別の会社だととらえてもよいのかもしれない。
基本的に人生は行き当たりばったりでいいのだけれど、ふんばりどころで自分の意志をきちんと固めないと、その後のウン十年を棒に振ることになるから気をつけないといけない。私が今深夜帰宅でも仕事をがんばれるのは、就職活動に失敗し続けてもめげなかった時期があったからだという気がしているので。
それから、先日結婚したいとこが早速家を買うという話を聞いた。結婚とか家を買うとか、私が台割を考えて頭痛に悩まされている間に世の中の人々はなんと大きなことを考えつくのだろう。
心が大学生のまま止まっているのか、今が賃貸暮らしで馬場と高円寺というきわめて若者的風土の町を行き来しているせいか、大人が考える「地に足着いた暮らし」に実感がわかずにいる。地に足着いた暮らしに心底憧れるし、『ku:nel』信者の私であるのに、なぜかそれが現実に自分に降ってくることがあまり信じられないのだ。ちゃらちゃらドリスのブラウスとか買っている場合ではないのか。みなさんはそういう気持ちになることってないですか。
今の本を始めてから、仕事のことが頭から離れなくて常に鈍い頭痛がする。少し疲れたので物語に逃げるため、立て続けに小説を読んだ。村上龍『トパーズ』よしもとばなな『ハゴロモ』。ついでに辺見庸『自分自身への審問』も読了。
ジンバブウェのイイダ君が8月に帰国するそうだ。数日前にメールをもらう。「バナナさんの日記はどんどん老成していってる気がします」とのこと。
「つまらないとは感じてないんですが、ひっかかる部分が多いかな。多分大きな話というか達観した印象を与える文章があるからだと思う。でもそれは自分自身の意見が前面に出てきている証拠かな」と教えてくれた。
マイナス要素を書くまいと無意識に意識していたのか。これからは等身大の不安をぶちまけていこうと思う。
今日は寝る。
2006年07月02日(日) |
カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』 |
日曜日の午後、高田馬場のフジヤでコーヒーを頼んでいっきに読んだ。久しぶりに「何かが変わった」と思える小説。「何かが変わる」傑作に出会えるのはいつも久しぶりだ。それ以外のすべてが消費。消費して、消費して、消費して、たまにものすごく運よく何かを得られる。これが日常生活なのだと最近は少し分かった。
社会のしくみが分かっていない。24歳にして、ようやくそのことに気付く。本を読んでも新聞を読んでも、イマイチ核心に触れていない感じがする原因だ。私はいつも、森を見ずに、木も見ずに、枝だけを見て生きている気がする。森を知っていて、木を知っていて、枝を見るのはいい。ただ「枝でいいや」と思ってしまうのはとても怖いと思う。
社会のしくみを知るには、難しい学術書を読めばいいのだろうか。歴史を学べばいいのだろうか。手探りで、少し途方に暮れる。小説を読んですぐ、小手先だけの下のような文章を書いたが、自分に嫌気がさしたので途中でやめた。核心に触れようとすると、何を書いていいのかよく分からなくなるのだ。
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1995年に地下鉄サリン事件と阪神大震災が起こり、村上春樹は小説の書き方を変えた。彼ははっきりと言う。「小説家は社会にコミットしなければならない」。私は昔の村上春樹も、「コミットメント宣言」以降の彼も好きである。ただ、当時彼が『約束された場所で』『アンダーグラウンド』で行った信者、被害者へのインタビューが多くの人に批判された理由が今では少し分かる。『風の歌を聴け』の頃の彼のままでは、1995年の2つの「人災」は書けなかったのか。それが少し悲しい。
石牟礼道子は社会派の小説家だと言われる。しかし彼女の書いたものを読むと、「水俣病」という彼女を語る際に外せないキーワードは背後に置き去られる。読者の前にはその文章の紡ぎ出す美しいものが「手触り」とともに立ち上がって、キラキラと輝く。そしてそれが水俣病についての文章だからではなく、ただただあまりに美しい言葉であるという理由ゆえに、私は涙を流してしまう。「石牟礼道子ってどんな作家?」と聞かれたら、なるべく「水俣病の人」と答えたくはない。しかし、「水俣病訴訟50年」と新聞が伝える事実よりも、小説は私に問題の大きさを伝えてくれるのだ。
カズオ・イシグロの作品に触れたのは初めてだった。『わたしを離さないで』。この小説を読んだ時、作風も扱う題材も全く違うのに、なぜか頭に浮かんだのは石牟礼道子の『苦海浄土』だった。たぶんこの連想はほとんど思いつきで、偉い人が見たら全く脈絡のないものなのだが、忘れないように書いておきたいと感じた。
人(少なくとも私)は他人の喜びや苦しみを、一人称を通してしか理解できない。だが、喜びや悲しみを「一人称に落とし込む」作業は、才能のある作家にしかできない。だからこそ、「社会にコミットする」のが小説家の役割なのだろう。
『わたしを離さないで』の物語は、キャシーというひとりの女性の独白を通して語られる。子どもの頃に自分が育った「施設」のこと、大人になってからの「介護人」という仕事のこと。一人称が語るため、「客観的事実」は少しづつしか明らかにならない。感情が押さえられた冷静な筆致から徐々に徐々に暴かれることの「真相」に驚きながら、引き込まれるように読んだ。
小説は、ある恐ろしい社会問題について書いている。私はこの社会問題を知っていた。しかし、本当は何も知らなかったのだと、読後に気付いた。
2006年07月01日(土) |
ドリス・ヴァン・ノッテン先生 |
セールに行って久々に「おおー」という服に出会い、ブラウスを買いましたが何か? 初ドリスですが何か? インド綿、インド製ハンドメイドのせいか、33000円(定価4万5000円くらい)となんとかOLにも買える値段なところがいいんだか悪いんだか分からない。うぅ。
同じものがむげん堂なら……と言い出すときりがないのでやめるけれど、正直むげん堂には同じものはない(と思う、多分。ないかなあと常に頑張って探してはいる)。よく「ブランドの付加価値」云々というが、例えばドリスのような立ち位置のブランドって、ヴィトンのバッグとは違って「ドリス」の名前で高いというよりドリスにしか売ってないデザインとか、素材、プリントの美しさに惹かれるからお客さんは買うんだよなあと思う。
このVネックのアキ具合、この刺繍の入り方、この袖の微妙なふくらみ、このすこしゆったりめのサイズ感。
ああ。思い通りのものに出会うと、洋服が好きで本当によかったと思う(思い通りのものでも、Tシャツ7万とかイライラするだけだけど)。
あ、あと最近買ったJ-CREWの紺のチノパンは足が長く見えるのでとても気に入っている。
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