2004年02月29日(日) |
気持ちのいい涙を流したい。 |
一日中家にいて、『ラバーソウル~』とバルト『明るい部屋』の残りを読む。近所のレンタルビデオ屋に行き、昨日のトークショーで話に出たガス・ヴァン・サントの『小説家を見つけたら』を借りてきて見る(作品選択間違ってるかな)。
■
夜、友達から電話をもらって面白い話を聞いた。
RADIOHEADのアルバム『KID A』M10に、『モーション・ピクチャー・サウンドトラック』という曲が入っているのだが、この中にある、"I think you are clazy, maybe."という詞について。
「おまえら狂ってるよ、多分ね」のmaybeは必要か?というのだ。
友人はずっと、maybeなんていらねえよ、言い切るべきだという意見だったという。まわりがみんな狂ってるんだよ、あいつらおかしい。ところが最近、「あ、この一語は必要だったんだ」という気持ちがふっと心に涌いてきたそうだ。
突然、あれ?もしかして俺がおかしいんじゃないか?という思いにとらわれる瞬間が訪れる。「トム・ヨークもきっとそういう体験があるのかもね。だからmaybeは必要なんだ。分かったよ」彼は言う。「それをHに話したらさ、『そういうとき私は死にたくなるんだよ!バカ!』って。俺は別にそんなことないけどな、死にたいとか一切ないけどな、でも不安にはなるよな」。
"狂ってるのは俺と世界と、どっちだ?"(『プラネテス』)
「こういうこと書くと重くなるじゃん?だから嫌なんだよ、そんな、自分に関わること個人サイトで書きたくないんだ」そうひとりごちる友人のために、書くのが少しも苦痛でない私が文字に起こしてみた。
実感のもてない人の書いた文章で、真意はどれだけ伝わっただろうかと思う。そして、こういった感覚に生では触れられない自分が、どこかで感じているコンプレックスに気付いて私は愕然とするのだ。「余計な感覚は、ないほうがいいんだよ」きっと彼らがそういうことは、もう分かっている。
■
久しぶりにとても魅力的なサイトを見つけた。通信社か新聞社の新米さんが書いている日記。ただひたすら自分に素直な文章。スキャンダラス(そんな写真出しちゃっていいの?)だとか、斬新(といえば聞こえのいい、よく分からない言葉遣い)だとか、そういった装飾を一切廃しているのに、心にまっすぐ届いて涙が出そうになる。グッとくるのに、痛くない。無駄な主張も彼女には不必要なようだ。
無断でこっそり少しだけ引用。あとで、勇気が出たらきちんと許諾をとろう。ごめんなさい。
土曜日 昼、車がダムに転落して呼び出し
日曜日 早朝、選挙違反で呼び出し 取材後、 副署長の「 さん、今日はこのままいた方がいいんじゃないかな」 という意味深発言のせいで一日署で待機 殺人で一人出頭したが名前など教えてくれず打てずじまい これなら教えてくれない方がよかった
月曜日 午前3時半起床、無意味に午前四時からK署前で待機 内職商法の「逮捕へ」から「逮捕した」の差し替えを 広報文出る前に一番乗りで出したい、というデスクの注文で 風速百㍍を越える突風と雪の舞う中3時間 歯が痛い
トイレに急ぐ署長を捕まえて 「終わったみたいだよ」のひと言を聞き08:30任務終了 歯が猛烈に痛い
風で飛ばされた手袋が家の近くに落ちていた 神様ってやっぱりいるのかもしれない
文章の隙間からじゅぶじゅぶとしみ出てくる感情。この日記がすばらしいのは別に、「事件現場」が出てくるからではないのだ。例えばこの子が、家でずっとネットサーフィンをした日のことを書いたとしても、私は読みたいと思うだろう。そして、うまくなくていいから、こういう態度で自分の書いていく物事に接したいと感じた。
頭をがーんと殴られるような衝撃はなかなかない。ある人が、もうそういうのを隅から隅まで探して、見つけだすのも面倒くさいから、ジェットコースターとか乗りたい、そういうすぐに手に入る強度が欲しいと言っていたのを思い出す。
『nobdy』のイベントでアテネフランセへ。ガス・ヴァン・サント『psycho』の上映と、蓮實重彦・中原昌也のトークショー。nobodyを買ったので雑誌付き2000円でこれはお得だったのではないかと思います。と、偉そうに書きましたが、映画好きの友達に連れていってもらったのでした(多分素人は、私と丸尾さんだけだった……)。
元ネタ、ヒッチコックの『psycho』や、これから公開(公開中?)の『elephant』も見ようと思った。良い機会となりました。
私は中原昌也先生の大ファンなのですが、彼とおつき合いするにはやはり映画の知識が不可欠、という気がします。それから、彼は生活苦のようなので養ってあげるために偉くならないと、と思います。蓮實先生は文章がややこしいので、ややこしい人かと思ったら、とてもおもしろかった。与太話はいいです。
それにしても帰りに友達とも話したけれど、ここに集まってくるようなすてきな人々は普段何をなさっているのだろうという疑問がわき上がりました。nobodyのスタッフの方々は普通に女の子にもてそうな、こぎれいで洗練された青年たち。インテリで格好いいって、ずるいよな、と思う。だから中原昌也に惹かれちゃう。
今日のお話にペドロ・コスタ監督『ヴァンダの部屋』についての言及もありました。映画好きの友達が、「今年はペドロの年だ」と騒いでいたこともあり、気になっています。是非見てみたいと思います。
イベントのあと、友達の彼女も交えてお茶の水でご飯を食べる。お茶の水に行くと、何故だかいつも「カロリー」という、学生っぽい定食屋に入る。
彼女はフライトアテンダントをしていて、憧れの職業なので色々と質問をしてしまった。2年目に入ったので、仕事が楽しくなってきたとのこと。帰りには福岡のおみやげ、塩豆大福を箱ごと頂いてしまう。私と同じクラスにも今年航空会社に内定した子がいるのだが、やはり人間としての重みや品が常人とは違う、でも気取ったところが全くない。凄いなあと思う。
私は人と会っていても落ち着きが無くて、「今日タコ踊りしてたね」と大爆笑されてしまうので、あの品格を身につけるのはなかなか難しいのかな、と感じる。でも頑張りたい。
それと、4月から田舎(四国)に帰るという人がいて驚いた。皆、ああだこうだいいながらも落ち着くところを見つけていくんだなあ。こういうのを大人になるって言うのかしら。と、ありきたりに綴ってみる。
たまに「戻れない感じ」、が胸を襲ってとてもとても怖くなるが、職場はいい人が多いしきっと大丈夫。君がいないと寂しいよ、葉書書くよ、と伝えた。
2004年02月27日(金) |
論点が見えないつれづれになってしまった。↓ |
出版の、就職予備校時代の友達と飲んだ。ちょうど去年の今頃、切磋琢磨していた彼らと。皆、いい落ち着きどころを得てこれからを楽しみにしているようだった。初任給が10万くらい違う友達と並んでここにいても恥ずかしいと思わなくなった自分を、少し変われたのかな、と思い嬉しかった。久しぶりにワイドパンツに黒のオールスターで渋谷へ出た。ゆるゆるの太ももが気持ちよかった。
努力が足りないな、帰りの電車で思う。知らないことが単純に多い。自分の見せ方を考えるのではなく、もっと絶対値をあげる努力をしたい。知らないことは恥ずかしいことなんだ、そういう危機感を持って日々のことに臨みたい。今の私に必要なのは、足りない部分を埋めてゆく職人的作業。根気がいるけれど、それなしでは始まらない。
どうやってよく見せよう、どうやって向き合おう、そういうことばかり考えて例えうまくなったとしても、それは私が憎んできた種の要領の良さに過ぎない。とにかく刺激になった夜。そしてふんぎりと言うものについて考えた夜。(それにしてもこういう文を書くとすっかり優等生のように完璧になるのは、義務教育時代のたまものだと思うのでした)
少し前に、「別れってカタルシスあるよね」、というスヌーザーのタナソウの言葉を引用したら、「ああ分かる、それすげえ思う」という反響をもらった。それ以来、物事の終わりや別れについて良く考える。「ああ分かる、それすげえ思う」と言ったのは、私が「こころのない人」とカテゴライズしている友達だった。昨日その子にハナレグミの話をしたところ、SUPER BUTTER DOGの『サヨナラCOLOR』という曲がいいから聴いてみな、と言う。「さよならから始まることもあるよ」、という一見優しい詩が、また終わりや別れのカタルシス、美しさについての連想を呼んだ。
スーパーカーのナカコーが昔のBUZZで話していた言葉が、今も頭に残っている。引っぱり出して引用する。
「ものが始まっていく美しさとか、ただ綺麗なものがそこにあるっていうのは、自分には今作れない。何かものが壊れていくとか、死んでいくとか--そのものが美しいっていう (BUZZ 2002年5月号より)
テロを意識した会話の中で繰り出される、彼のいう「美しさ」が、当時の私にはさっぱり(頭ではできても、体で)理解できなかったのを覚えている。
今日の帰りの電車で、それを実感するヒントのような文章に出会った。昨日からすっかりハマって読んでいる、『ラバーソウルの弾みかた』より。
・・・ジャニス・ジョップリンは、「あなたは何について歌っているのか」という質問に、こう答えた。
悲惨について歌うとか、幸せについて歌うとか、そういうんじゃなくてさ、いますでに心の億に持っているんだけど、それをほんとに感じてしまったら、上品な会話が出来なくなってしまうとかで、感じないようにしてることってあるじゃない?それを全部感じることが、歌う・・・演奏するってことなんじゃないかって。だから、あたしが歌えるのは、何ていうか--こうやって目を閉じて心の奥にあるものを全部さらけだしてしまえるかどうか、さらけだせるひとが歌える人だって思う。
ジャニスの有名な台詞に、「あたしは一晩に二万5千人の客とやって、それでひとりで家に帰って寝る」というのがある。Singing is fucking。 (中略) 文化というものは生命体に似て、いたるところにネガティブフィードバックを安全弁として用意しているものだ。その点、いたるところポジティブ・フィードバックだらけだったレイト・シックスティーズのアメリカ若者文化には、まさに「カウンターカルチャー」の呼び名がふさわしいのかもしれない。「カウンターカルチャー」の中心は、それが成立した時に、すでに自己は会に向けて開かれていた。そのあぶなさが魅力となって、さらに多くの魂を引き入れ、さらなるポジティブフィードバックを起こしたのだった。
外に出たい、普段の自分をたたき壊したい、それはすべてを曝け出すことに通じる。これは別れのカタルシスと、同じことを言っていると思う。
ぼんやり頭の私には、まだ結びつかない線も多い。おそらく大切なのは”終わっていくこと”の語義とは矛盾した魅力??うーん。意味を剥ぎ取ったときに現前する、希望、爽快感。そう、すごくすごく好きだった人と別れた帰り道、泣きながら体がふっと軽くなったのを思い出した。ああもうこれで、電話をしなくても待たなくてもいいんだ。不謹慎だが涙とはうらはらの感情がわきあがった。恋愛の破局は、社会的束縛からの解放でもあったのである・・・とかかっこよく言ってみるけれどもまだまだこの件については分からないことだらけ。勉強不足だな。
「ラバーソウル~』は本当に面白いのでぜひ御一読を。決して、ただの60年代クロニクルじゃあありません。
■タワレコで本を買う
約一週間、意図的にインプットを減らしてだらだらと時を過ごしていたら、自分としてカタルシスのある文章が書けなくなった。これが私の排泄物!と絞り出すやり方がつかめなくなってくる。まあ別に絞り出さなくてもいいんだけど。きもいよ、絞るなんてね。
やはり本を読むことは大切。つくづく、私は努力し続けないといけない人間なのだと知る。さっそく今年の目標に戻ることを決意、佐藤良明『ラバーソウルの弾みかた ビートルズと60年代文化のゆくえ』 (平凡社ライブラリー)を購入。これが帰りの電車で読んだら本当におもしろくてはまった。あと、タワレコで視聴したのだとメロウというグループの『パーフェクト・カラーズ」というアルバムが良かったです。
■ブルーナ展
母親が行きたいというので、「ディック・ブルーナ展」についていった。たった300円でいいものが見られました。ブルーナ氏は、装丁家としても知られる(というのはもう常識?)。彼がデザインしていた本は、「ペーパーバック」と呼ばれる類の本だ。日本でいうと「ノベルズ」が一番近いのかな--駅の売店に置いてある、推理小説や大衆小説。最近こじゃれた雑貨屋さんに彼の本が売っているけれど、あれって清涼院流水の小説を並べているのと変わらないわけだ。そう考えると可笑しい。ブルーナ氏の経歴からは、アーティストに定番の苦悩のあとは読みとれなかった。「うさこちゃん」の生みの親にふさわしい、ヨーロッパ紳士のイメージ。家業の出版社経営の傍ら絵本作家を志す、すてきなお父さんという印象です。
いつものとおり図説を買って散財。しかし2千円ほどであの分厚い図説が手に入るのに、広告が入っているくせに1500円とか、そういった雑誌の価格設定はバカじゃないかと思う。値段ということだけで言えばロッキングオンは500円雑誌が多いから偉い。でもラルクを載せる「ジャパン」は、他にどんなすばらしい記事があったとしても、鹿野さんが天才でも、絶対に買わないぞ。
■葉書と対面と保留
少し前にもらった、「最近はどんなことを考えていますか?」と一言書いてある葉書を引き出しにしまって、その問いかけには答えないまま返事を出した。「木村伊兵衛と土門拳展に行きましたよ」と近況だけを書いて。
最近はどんな事を考えているのか、そういうことに向き合うたびに辛いことが起こるので、突き詰めるのをやめていたのかもしれない、無意識に。適当に展覧会に行って、適当に買い物をして、適当に雑誌を読みあさって、適当にブログを覗いておけば、たいていの用は足りる。自分と向き合ったり人と向き合ったり、そんなことはだるいよ。もういいよ、と思ってしまうこともある。便せん何枚にも渡って手紙を書くのには、それなりに力がいるのだ。こんな事がありましたよ、と近況を葉書で知らせるのは、粋なんじゃなくてただ楽しているだけ。
さて、新聞を読むのは楽しい。オピニオン云々を置いても、色々なことを知れるから。しかし、きっと、新聞を作るのは大変だろうと思う。ひとつひとつの事件に、記者は向き合っているわけだから。
2004年02月25日(水) |
だってカートみたいだから 私がコートニーじゃない? |
■「ホシちゃん」という女の子
ホシちゃんに勧めてもらったハナレグミ『音タイム』を買う。なんかきっとこんな感じだろうな、ある一定の感動だろう。そう思って特に、聴く気のなかったアルバムだった。「毎日泣いちゃうんだよね」彼女の言葉で少し気が変わった。
多分ホシちゃんは、私と正反対の何かを持った子だ。彼女は「私を見て!」なんて大声で言ったりしない。辛いことがあっても、叫び出したり泣いたり、男の子に頼ったりしない(と私は思う)。喜びも悲しみも、彼女の表現方法は小さくて上品で、とても魅力的だ。
たちいったことには ふれないよ 安心してて 見せられないこと ぼくも 持ってるしね
ボンヤリ 空を 見つめるだけで 伝わる言葉も あるよ それだけで 今は 充分だよね
ナタリー 今日は ここで寝かせて ナタリー その胸で 夢見させて
小高い丘の上から見下ろす いつもの夕暮れの町。 与えられた光と時間、守られているような。 ほほをかすめる冷たい風 今日の日の終わりを知らせ 1本の気にもたれている僕らは 立ち上がる。 そう、忘れてゆくかもしれない この景色、もう戻らないかもしれない 気持ち。 でも僕らはすべりだす。 そして家路へ急ぐ。 真っ赤にそまった この空を、僕らの笑い声を、また夢で 見ればいい。 いつか夢で見ればいい。
幸せを 話そうよ 見方を変えて 幸せだって 言ってしまうんだよ
ボンヤリ 空を見つめれば 悲しいことは ネコにくれてやるほど そんなもの 今 ほしいものじゃない
(M8「ナタリー」)
お気に入りの服を選んだり、友達に会ってご飯を食べたり。手作りのブックカバーを作ろうと思って本を買ったり、(でもなかなか作れずじまいで終わったり)くるりの新曲を視聴してアルバムを買うまで待つか悩んだり。そんな日常の隙間に、たまに届かずに終わった思いやうまくいかない面接を思い出すんだ。エッジじゃない、新しくもない。普通の、かわいい、ひとりの女の子の日々は、そんなに退屈そうに見えるかな?型にはまってるって、文句言うのかな?ホシちゃんはきっと気にしないよ。「自立」しようと必死なあなたより、ずっと幸せそうじゃない?
中学校の時、3年間同じ人を好きだった。いつも成績が一番の私を、少しも特別扱いしないで話しかけてくれる、野球部の男の子。彼にはかわいい彼女がいた。クラスで一緒にいる二人を見ながら、あのころの私は何を思っていたのだろう。日記には勉強のことしか残っていないから、今となっては正確なところは分からないけれど。思いも伝えずそこにある距離のままに接して、向き合って、嬉しかった。そして卒業が来た。
なぜだかそんな幼い恋を、思い出した。
ホシちゃんは強い。ひとりで立つとは、どういうことだろうか。結局、「スカして」いただけの自分を振りかえって、考えた。渋谷の町は少しも怖くなかった。優しい音楽がウォークマンから流れてきたし、ホシちゃんもきっとこんな気持ちで歩いている気がしたからだ。
帰りに立ち寄ったブックファーストで、ほっとしてしまう私ってださいなあと思った。
ホシちゃん、私も「ナタリー」でちょっと泣きそうになったよ。キャラじゃないから、我慢したけれど。毎日の暮らしは叫びだしそうなほど辛くなんてない。もう一枚買った、コートニー・ラヴの絶叫にグッとくる自分に少し嫌気がさして、そしてホシちゃんになれない私は彼女が好きだと思った。
■観劇
友達の参加している劇団、ペピン結構設計の公演を、池袋の東京芸術劇場で見る。いつもの通りおもしろくて、すてきな午後が過ごせた。
前回見てから格好良いなあと思っていた俳優さんが今回は主役級で、しかもダメ男役という、私のツボをぐぐっとついてくる設定だった。作品の素晴らしさ云々の前にそれだけでも100点。
『東京の米』という題にちなんで終了後におにぎりを配っているのを、ちゃっかり頂く。そうしたらなんとこれが今話題のニギリズム作!隅から隅まで洒落てるねえ。
「あと5日で30になります、20代で結婚したいです、わかるよね?」
おにぎりの中にこんな↑紙が入っていました。私専用?と思ってドキドキした。28くらいには結婚したい。
2004年02月23日(月) |
「流れ星探すことにしよう もう子供じゃないならね」 |
■スカした奴
インターネットで知り合った人(っていうとなんだか電波だな)と直接会うと必ず言われるのが、「もっとクールな(スカした、突き放すような)自立した女性だと思ってた」ということ。「声が高くて(アニメ声で)驚いた」というのもよくある。私の文章はそんなに極悪非道に読めるのかしら。高校時代の友達に話したら、「そういえばはじめてみた時クールなのかなって思ったよ」と、6年前の記憶まで持ち出してくれた。やれやれ。
改善策。「だ・である」調が悪いのでは?という結論にいたり、「です・ます」調でやわらかい文章を書くよう意識してみます。王子さまへの手紙もこまめに。乙女度数を上げたいです。
■良かったと思う。
先日前の彼から久しぶりに連絡をもらった。短いけれど楽しい電話だった。良かったと思う。
「田中のウェブを覗いたよ~くるりの引用してたね」というので驚いて、「前の彼っていっぱいでてくるよ、セックスとドラッグとロックンロールにしか興味がないキャラで」と伝えたら「俺セックスとドラッグには興味あるけどロックンロールは別に(笑)」という。音楽ギョーカイ人としてあるまじき発言。ここまで、何かに対する思い入れや熱意がない=心がないというのは才能だよな。彼はあいかわらずデブまっしぐら、今や75キロに到達したらしい。道玄坂の上にデブ用洋服店があるそうだから今度プレゼントしてあげようと思う。
電話を切った後、少しだけ目頭が熱くなった。
ああ、頭がいいのに少しも気取らなくて、どこまでもダメだけどちゃんと優しい、そして天才の、この人の後輩で良かったな、と普通に思った。きっと出会った相手みんなを、そういう気持ちにさせてくれる人なのだろう。
サークルの帰り道に、「バンドやめちゃったんですか!?ひどい!」と私がダメだししていた会話などを思い出し、ちょっと可笑しくなる。ずっと感じていたコンプレックスも、すっと消えていた。
前略 王子様
ごぶさたしていますが、お元気ですか? という一文をいつも手紙の書き出しにつかってしまいます。 こんにちは。
花粉症の季節が始まりました。 私は大変です。 あの鼻炎薬を飲むと、 瞬間的な深い眠りがやってくるから本当に恐い。 恐いけれど気持ちがいい。あの、微睡む感じ。 快楽主義者になったらどうしよう。 つくづく危険な「おくすり」だと思います。
さて、あなたはどこにいるのでしょう。
私は、昨日、今日と大好きな友達会って とても楽しい時を過ごしました。 普通の話ができるって、普通に笑えるって、 なんて楽しいんだろうね。
ねえ王子様 いまあなたと面と向かっても、 私はこんなふうに、大口開けて笑えるかしら? ねえ、 私が笑うのを見たら、あなたは嬉しくなるかしら?
あなたがいなくなってしまってから、ずいぶん悩んだけれど それでも可愛いニットを買ったり 朝日ギャラリーで写真展を見たり、 そんな暇つぶしをしながら、(他にもいっぱいあるけれどね) 私の暮らしは過ぎていきます。 ふうん続いていくんだな、そんな気が凄くしています。
今日の朝日新聞、「ひと」欄にそのまんま東が載っていました。 早稲田大学の第二文学部をこの春で卒業し、 こんどは政治経済学部に入学するのだそうです。
「学問は裏切らない。 雲をつかむような芸能界で、唯一のよりどころです」。
読み終わって鳥肌がたちました。少し泣きそうでした。 人間とは本当にその気があれば、 これほどまでに変われるのかと思いました。
「全力でやったことは 必ず自分に返ってくる」。 --中学生の頃、繰り返し繰り返し唱えた言葉です。 このどうしようもなく大きな希望を 私は思い出しました。 勉強はいいですね。(なんて隠居じじいみたいかな)
朝日新聞からもうひとつ、書評欄に面白い記事を見つけました。 『サラーム・パックス バグダッドからの日記』を、 高橋源一郎が紹介しています。 これはウェブ日記を一冊にまとめたものなので、 現在もウェブ上(↑)で読むことが出来ます。 ね、おもしろいでしょ?
源一郎先生は、次のように結んで書評を閉じています。
------------------------------------------- サラームくんは呪文を唱える。 「開け、ネット!」 すると一瞬のうちに、遙かな距離を乗り越え、 いまそこにある言葉を読みとってくる力が生まれる。
ぼくはこの本を読みながら、インターネットの驚くべき可能性を感じていたのだった。
サラームくん、君の影響でぼくもネットで日記をはじめたよ。暇があったら、立ち寄ってね。でも、日本語だけど。(http://www.funk.ne.jp/~gen1rou/index.html/) -------------------------------------------
おかげで英語の勉強まで出来そうです。 あなたもぜひ。
かしこ
2004年02月21日(土) |
おやすみっていいね。 |
約半年間続けたアルバイトの業務が終了し(まあお願いして休ませてもらったんだけど。学生だし!)、4月からは契約社員として出勤する。旅行したり、本をたくさん読んだり、しばらくのんびりしようと思う。
ここ数日、会社の人に返却しなければならなかったため朝にも晩にも『ベルセルク』ばかり読んでいた。きちんと勉強してからでないと簡単には感想をアップできそうもない大作。古本でそろえて再読しようと思う。
今日は昼に起き出し、合羽橋に出かた。ひとりで道具街をぶらぶら。若いカップルがとても多い。これからふたりで住むのかなあ。いいね。
夜は仕事帰りの友達とロータスでお茶をする。ロータスでお茶をする。ロータスでお茶をする。隣が自信満々の医大生で、ちょっと気になってしまった。
お腹がすいていたので、私だけがつがつご飯を食べた。じゃこと漬け物のまぜごはん、だしまき卵つき。美味しかった。こういうのを、うちでちゃんと作って出したい。
休みの一日目だったけれど特別なことは何もしていない。でもいい日だった。きっとこういうなんて事ない日を、後からふっと思い出して温かい気持ちになるのだろう。大学4年間の思い出も、涙が出るほど懐かしくなるのは、うちで鍋をした平日の夜だったり、盛り上がらなかった早慶戦の応援だったりする。
そんなことを考えながら田舎道を帰った。もう春がくるようで、オリオン座は姿を消していた。
■ここ数日、努めて早く眠ろう、と心がけ、パソコンをつけずに一日を終えていました。ご飯を食べるのが深夜の1時ころだから、ネットしていると簡単に3時過ぎなどになり、結局寝るのが怖くなってもっと夜更かしをしたり、誰かに電話をかけてしまったりするからです。多分誰でも経験があるんじゃないかという気がするのだが、あの、「寝るのがなんとなく嫌だ」という感情はなんなのかしらと思う。
■デルフォニクスで年初に買ったお気に入りの手帳に、こことは別のメモ的日記をつけている。たいてい、「今日は楽しい話が出来た」、「相手の○○という言葉が心に残った」、というような人間関係についてのもの。1週間前に、「もうしばらく人に電話しないようにする」と書いて、三日も立たないうちに朝まで語っていたりするから、書き残しておくとなかなかおもしろい。
■会社の先輩(女の人)に「田中さんはおもしろいね~、田中さんと暮らしたら飽きないよ」とおっしゃって頂いた。うふふふ。そういう王子さまが現れたら、私もお嫁に行けるかも。
■「仕事で、地図が読めなかった、やばいやばい」という話をしたら、「どんくさい!」と100回くらい言われた。どんくさいなあ。どんくさいかなあ。どんくさいかなあああ。
2004年02月15日(日) |
ちょっと気持ち悪いサイトになってきた。 |
レディオヘッドのライブ、チケットをとりました。オールスタンディングなのでまだまだ余っているよう。
ヒマだったのでベックのサイトから王子さま画像をダウンロードしてみる。このひとが、30をゆうに超えていることに驚愕。福山雅治が35歳であることにも。

ひさしぶりの完全休日。何もしないで昼まで寝る。午後はバレンタインのケーキでも焼こうかな。
友達の誕生日にプレゼントを送って、そのおまけにCDをつけた。音楽に詳しい人相手に、中途半端なのを作っても仕方ないなあと思ったので、自分の音楽履歴、人生のあゆみの集大成となるものにしてみた。(恐い。)
椎名林檎からバンプ・オブ・チキンに始まって、syrup16g、Beckの失恋の歌。後半はママラグの『悲しみにさようなら』、スパーカーの『ストロボライツ』やナカカズの『ジュビリー』『セブンスター』……最後にスパー・ファーリー・アニマルズの『Hello Sunshine』で終了する、夜明けに向かう(笑)一枚。
DJってかっこつける人がやるものだと思っていたけれど、もっと暗くてちまちました編集作業なのかもしれないな、と思った。人に何かを紹介するのは楽しい。今日、友達から「中村一義いいね」というメールが入って、つくづくそう思ったよ。
以下、さぼっていたぶんの日記。
■ワールドのセール
この前の土日を、仕事半分遊び半分で無為に過ごしたのを後悔していたので、2月11日は動く決意。『木村伊兵衛と土門拳』の写真展と、ワールド本社ビルのセールへ。
ワールドのセールはダイレクトメールを友達にもらったのでいけることになったのだけれど、ドレステリアが全品60%オフは本当に凄い。8万円のブルゾンを3万円で買いました。すいません。それでも高いけど、安いよね?うんうん。
メンズだと、私が男の子だったら絶対着たいなあと思うバブァーのオイルドジャケットが出ていた。(→)ドレステリアの本店のセールでも、除外品だったのに。
ユニセックスのダッフルコートも、46000円が60%オフだと思ったら、ちょっと欲しくなったが、サイズが微妙だったのでやめておきました。
来年も再来年も、その次の年も変わることなく作られる職人技の定番を4割で売るワールドの太っ腹ぶりに感動した一日。エグチさん、DMありがとう。
■「木村伊兵衛と土門拳」展
有楽町朝日ギャラリーってどこ?とネットで調べたら、マリオン内にあるという。ああ、就職活動でよく来たなあと感慨深くエレベーターを上った。朝日新聞も松竹も、たしかここで説明会があった。つくづく一年前には、色々な会社に落ちていたものだ、というよりまだ、落ちる前でがちがちに頑張っていたのだったと記憶が蘇る。不思議な気持ち。
さて、写真展は少し勉強していったこと、それからパネルに書いてある解説がよかったこと、両方が功を奏して大変面白く見られた。パネルにあった無署名の文章は誰か書いたのだろう。朝日新聞と毎日新聞の記者だろうか。
写真展や美術展などを見に行くときには、そこに集まったお客さんを眺めるという楽しみがある。銀座のどまんなかで、下ではピカデリーにカップルが溢れているというのに、ひとりで、リュックをしょって、古ぼけたジャンパーを羽織っていうるおにいさんの多いこと。銀座には直行直帰かな、などと失礼な妄想をしながら、彼らをとてもいとおしく思う。
「粋でいなせな」木村伊兵衛と「怒りの写真家」土門拳。比べられないけれど、私は後者の写真に好きなものが多いように思えた。特に子供を撮った写真のいくつかには、立ち止まって見入る。
今ちょうど、ロランバルト『明るい部屋 写真についての覚え書き』(みすず書房)を読んでいて、これが筆者の名前のおどろおどろしさに対して大変読みやすく、とても勉強になる。「ほう」とうならされることが多い。
バルトによれば、われわれが、(というか「私」が)写真を見る時の感動には「ストゥディウム」と「プンクトゥム」の二種類があるそうだ。ものすごく簡単に言うと、前者は見る者に(多分studyに繋がると思うのだが)一般的な関心、「like/don't like」レベルのものしか呼び起こさない。後者は、われわれを、「突き刺す」。それは細部であり、説明できない。
土門拳の子供の写真には、得も言われぬ「プンクトゥム」があるなあ、と私は偉そうにひとりごちてみたのだった。
■就職祝い
出版社にはいるとか映画監督になるとか、小説を書いていくとか色々ぐだぐだとしていた男の子の友達が、25歳を目前に就職を決めた。
おめでとう。
彼は私の就活中もずっと励まし合ってきた人で、落ち込んだ時も何度も何度も立ち直る機会をもらった。本当に賢いので会社に入る器なのかは分からないけれど、ずっと不安でいるよりは、今後羽ばたくためのきっかけとして欲しい。
考えてみれば大学を出てから一年間、落ちたり腐ったりしながらもずっと努力し続けていたし、他人に対して(少なくとも私には)負の感情を出したのを見たことがない。当たり前のように頼ってきたけれど、自分の就活中の精神不安定を思うと、そう簡単に出来ることではないと、改めて尊敬をしている。
高田馬場のマラバール(インドカレー屋)さんでりんちゃんと3人、乾杯をした。馬場の町もひとも、食卓もとてもあたたかかった。お互い頑張ろう。
■精彩を欠くということ
久しぶりにりんちゃんに会ったので、前から気になって、でも怖くて聞けなかったことをおそろおそる尋ねてみた。
「お前の日記は最近精彩を欠いてるぞ」って、今でも思ってる?
回答。「いやそんなことなけどさ、なんか変な前向きが余計っていうか。こっちはぐちゃぐちゃ暗いのが読みたいわけよ」だそう。中学の日記を良かったと言ったのは、誰かに見せるために書いてないから。気持ちが素直にぶちまけてある。
私が最近過去の日記を写していて思ったことに似ている気がした。奇をてらったり、「フィクション」であることを強調するような文章には、何も感じなかったし、過去の自分の日記として読む価値がないような気がした。よそ行きの「オピニオン」があるものほど、反吐が出そうだった。
逆に、「面接でへこんだ」「ここが悪かった、頑張ろう」そんな素直な気持ちが、まっすぐ心に届いた。
「自分のことをさ、本当に書こうと思ったら、それなりに恥ずかしいし、大変だし面倒くさいんだよ。だからそうじゃないことを、みんな書くわけでしょう?俺はそこまでして、個人ホームページで、自分を晒そうと思わないし。利点が分かんないし。だから田中の日記も、別に身を削って書かなきゃどうのこうのってことじゃないよ」。
平熱で日常を肯定する表現を私がやると、なぜだろう、「変な前向き」になる。少し湿っぽい感じが、私の文体の芸風なのかもしれない。
■HRMの靴
最後にひとつ、お洋服の話題。
ブルータスとメンノンに載っていて気になったのが、ハリウッドランチマーケットの靴。古着のレザーブルゾンを解体して作ったという、あか抜けない感じがツボでした。
うんちくにやられるのは言うまでもなく、何よりその風合いが新品にはないものですてきです。38000円。怖いので、レディスがあるのかは問い合わせません。
←ウェブに画像がなかったので私の携帯写真……。
念のためウェブ。 Men's non no(今後MEN'S NON NO Gが出るらしいっす!) BRUTUS HRM
LYCOSのレンタル日記に書いていた頃のログを、一晩かけてすべて移した。ほぼ自分のためですが、痛い日記を読みたい物好きな人はちらっとのぞいてみてください。友達に電話で、「最近の君の日記はちびまるこちゃんぽい。ガ~ン、て白目になってる感じ」と言ってもらう。ちょっと嬉しい。
仕事をだらだらと家でしていたら夕方で、やばい日曜日が終わってしまうと思い、思い切ってジュンク堂に出かけた。2冊買って、そのとなりのスターバックスで読んだり書いたりした。また長い手紙を綴った。気持ち悪いかな。
こういうネタは、ほんだ先生の十八番だろうから、あえて私が発表しなくても皆知っているのだろうが、それでも行きたいので書いちゃうよ。
有楽町朝日ギャラリーで行われている「木村伊兵衛と土門拳」展(まだ行けてない)。
飯沢耕太郎が今日の毎日新聞「21世紀を読む」欄に寄稿していた。二人の作品についてひとしきり書いた後、彼は次のようにまとめている。--「だが、それ以上に、写真家の作品というのは、年を経るにつれてその個性や作風の違いが少しずつ消えてゆき、むしろそこに映し出されている「時代」の手触りのほうが全面にでてくるものなのかもしれないと思った」、と。優れた写真、さらに言うなら音楽や文学、洋服とは、そういうものではないかと思う。匿名のものになったときに、価値を持ちうるかどうか。写真を「記録するもの」と考える時、さらにその色合いは強くなるだろう。時代を映した珠玉の名作を撮った二人の写真を、昭和の軌跡として見る時、彼らがいかに天才であったかがを解することが出来るのかもしれない。
予習のために本を買っちゃいました。『木村伊兵衛と土門拳 写真とその生涯』(三島靖、平凡社)。
ついでに補足。2月19日木曜日には、ジュンク堂で飯沢先生のトークセッションがあります。平日かよ。『編集会議』も写真特集だったし、ちょっと面白いねえ、いろんな事が繋がると。
夜中にCDを作る。今週もたのしくたのしくやさしく過ごしたい。華原朋ちゃんのように。うん。
アルバイトを始めて半年が経った。最近仕事でよく褒めて頂ける。自分の未熟さは自分がよく分かっているし、実際編集者として、例えば「売れる本を作れる」という能力と、今褒められていることは全く別だと知っている、当たり前か。何甘いこと言ってんだ。
しかし、それでも嬉しい。私は大学四年間、アルバイトをするたびに、自分は社会不適合者だという感覚をずっと感じてきた。仕事をするからにはきっと「つらい、つらい」という感覚は消えないのだろうと半分諦めてさえいたのだ。いい意味でも悪い意味でも、先のことは見えないという好例を、私は体験として得ることが出来た。ところで今日、「大人計画」からの電話をとった。何故?
新聞と文庫本とウォークマンを忘れるという不覚をしたおかげというかなんというか、昨日ひさしぶりに買って、たまたま鞄に入っていたsnoozer最新号を行き帰りの電車で熟読した。
●別れが好き?(笑)ああ、でも別れって、カタルシスあるよね、別れ=すべてゼロに戻る=目の前に真っ白な地平がひろがってるだけ。開放感がある。(タナソウ)
「それが得たいと思ってるわけではないんですけど。~自分の中では~モックンと別れたっていうのはデカイですよね。それに対して、悔やんでたり、気をつかってるわけではないんですが。で、今こんだけ、すごいことになれてるわけですから、感謝してるとか、そういうのはないんですけど。「人生はつづいていくんやなあ」としみじみは思わないですけど、たまにふと思いますね」。(岸田くん)
くるり岸田くんのインタビューより、お得意の引用。最後の数行に隠れていた台詞だった。読み流したら、見つけられなかっただろう。こういうのがたまにある。ずっしりくる。沢山読んだ中のほんのちょっぴりだが、ただ情報をコピペするブログからは得られないものなんじゃないかなあ。じっくり一つのことに向き合う自分を、ああいいんだ、と思える文章との出会い。 (とかいいつつ、その文章をここに「ブログ的」に貼り付けるわたしの阿呆よ)
それからもう一つ、50BEST ALBAMS OF THE YEARに入っていた椎名林檎の『加爾基 精液 栗の花』のレビューにはっとする。またまたお得意の、全文引用。
自らの存在意義の全てを世界に問いかけるかのように、音楽的バックグラウンドを総動員させた、一大豪華絢爛”私”絵巻。強迫観念的なまでにすきまなく敷き詰められた音の洪水。アナログ的な温かみを持たせない、ギスギスして、歪んだ音色。真摯すぎるコミュニケーション願望の過剰さゆえに、伝わるべきものは何も伝わらず、その切実さだけが伝わるというパラドクス。まるで永遠の愛を誓わせるかのように、聴き手に1対1で対峙することを強要する踏み絵のような世紀の迷作。(タナソウ)
うわー、怖い怖い。これ、私のことを言っているのでは?という気がして震えた。だいぶほげほげしたと自覚しているし、林檎ちゃんも聞かなくなったけれども、この間友達に「れいこさんは人間関係に真摯に向き合ってるって事だよ」と(その子としてはいい意味で)言われたのを思い出す。「ここまで見せても許してくれる?ねえ、受け入れて、これがほんとの私なの」と、まるで嘔吐物を見せびらかすような、人間関係をしていなかっただろうか。
反省し、そしてもう、そういうのはいいんだし、自分でも嫌だと改めて思うのだった。
一日中原稿。70個のものについて各40ワード程(少なすぎて大変)で書くのに、ものすごく時間を費やした。あーあ。でも、こういう誰が書いても同じ、と端から見えるような文章でさえ、作って組み立てている時の私は本当に幸せで、仕事とは思えない、楽しいのだ。まあ遅かったら意味がないけれど。
今月の流行通信に載っていたミューズ5人、
ビョーク ジェーン・バーキン マドンナ パティ・スミス キム・ゴードン
のうち誰がいいか、という話を数人に振ってみる。異性はキム・ゴードン人気高し。「でも自立した女性、とか言いたくてしょうがなさそうに主張するやつが、ミューズに設定しそうだから、キム・ゴードンもパティ・スミスも嫌だな。本人はいいけど」という意見も聞いた。
ちなみに私は、なれるなら誰でもいい(笑)が、まあだんとつでマドンナです。男を踏み台にしてのし上がる彼女の強さ、狡猾さ、そしてポップである事へのどん欲さ。どれをとっても真似しようとして出来るものではないから。(事情は多少異なるけれども同じような理由で、松田聖子と浜崎あゆみを私はそれなりに尊敬しています。)
見開きページにずらっと並ぶ、ミューズの象徴的アイテムを見ながら思う。そう、白いシャツにタイをしたらパティ・スミスになれるかもしれない。バレエジューズに、バーキンを合わせた少女趣味で、ゲンズブール気取りの誰かと歩いてみるのもいいだろう。分かりやすいアイコンとして認識できるセレブほど、簡単に自分を重ねることが出来るのだ。
しかしマドンナはそれが非常に難しい人です。マドンナの歩いた道が、マドンナの歩いた道として残っていく。「マドンナみたいになりたい」という意見を、だからあまり人は言わない。いえない。こぼれ出てくる弱さなどいらないから、どこが「その人」なのか見えないほどの強さが欲しいと思う。
久しぶりに友達と長電話。夜中の一時から朝の5時すぎまで話した。眠る前に「ありがとう」と言った。
読んでいる本の話をしようとしたけれど、分かっていたつもりのことが、言葉で説明しようとする瞬間、形にならなくなる。これを「理解していない」と呼ぶ。話題にしたのは岩波書店の『文学理論』だ。
デリダは書く。「これらの補遺の連鎖を通して、一つの法則が浮かび上がってくる、際限なく続く連鎖の法則が。次々と介在してくる補遺はモノそれ自体がそこにあるような感覚を、物自体を印象を、直接的にそれが現前する、起源を知覚したといった印象を生み出す一方で、物自体を先送りにしてしまうのだ。直接性は派生的なもの。すべては媒介から始まる」と。これらのテクストは、物それ自体が現前することの重要性について多くを語ろうとすればするほど、媒介物が必要であることを示すことになる。
・・・実際は、デリダの有名な言葉を使うならば、「テクストの外部というものはない」と言うことを示しているのだ。記号とテクストの外側へ出て、「現実そのもの」へ到達したと思っても、そこにあるのはさらなるテクストと、さらなる記号と、補遺の連鎖なのである。
ある人が現前することは、「常に媒介と補遺を必要とする、ある特定の不在のあり方である」ということらしい。難しいっす。
電話では、「あがり」の人生なんてくそくらえだ、ということを熱っぽく語った。あがらないなりの傷みはあるだろう。努力も必要だ。けれど先が見えるなんて、手を伸ばすことをしないなんて、そんなにつらいことはきっとない。ああ、それにしても私の友達は本当によく勉強している人が多い。尊敬し見習いたい。
土日、両方とも出勤で結構ぶーたれていて、早く帰ることばかりを考えて働いていた。なんでわたしばっかり!と思い始めていた矢先、日曜日の夕方頃に、ご飯を食べながらほげほげと『ファインディング・ニモ』の話をしている先輩を見て、「ああ、まったく何をかりかりしていたのか」と反省した。
もっと大変な人を助けるのが私の役割だったのだ。何をやったらお手伝いしている相手は、版元は、(さらに言うなら読者は)喜ぶのかを、いつも考えることを心がけたい。求められたものも満たせない人に、自分が満足する物を作ることは出来ないと、少なくとも今はそういう気がしている。
という話も電話でした。普段何にも褒めてもらえないけれど、それだけは「偉いのー」と普通に言ってもらえて、別にだから何だって訳ではないけれども嬉しかった。ずらしてずらして裏返して、人間関係をしている。ずらしてずらして裏返して、その先に何が残るのかをいつも見極めようとして。しかし、本当に大切なのはそんな残りかすなのかとたまに疑ってしまう。
2週間ほど前、以前付き合っていた人と話す機会があったのだけれども、いつもいつもへこんでいる相手にどうやって面白い話をしようか、本の謎解きをしようか自分のリアリティを、実感を伴って伝えるには?と考えあぐねていた頃にはあり得なかった、普通の話が出来た。本当に普通の、最近何読んだの、だとか、すきなひといるの?だとか、松本大洋の気持ちが分かるんだよね~とか、他愛もない若者の会話。
お茶を飲んで笑っているだけで、何が悪いのだろう。笑っていたらそれだけで、笑っているということだけができる。
先日メールで教えてもらった山形浩生さんのサイトを、たまたま仕事で見つけた。プロジェクト杉田玄白という、翻訳テキストを置いてあるページ。そういえば不思議の国のアリス、ちゃんと研究しなきゃ。
|