2003年11月30日(日) |
「どんな事が起こるんだろう?」想像してみよう |
追記
テレビをつけたら岡田くんが、女の子(まあ深津エリなんだけどね、まあ私にとっては私にしか見えないんだけどね)を抱きしめていたよ。はああ。
あのね、強がるのやめたよ。岡田くんも光一くんも、ケミストリーの堂珍くんも好きです。顔が綺麗なのって才能だわ。ちえこが、「最近昔の(ジャニーズ)ジュニアのビデオばかり見てる」と言っていた意味がわかります。
昨日は少しだけ早く帰れたのでカウントダウンティービーと、ジャパンカウントダウンをものすごく久しぶりに見た。やっぱり普通の生活(土日があって、帰ったらテレビがやってて)っていいなあ、とふと思ってしまうこともある。
でも、ようやく正式に「来年からも宜しくね」と部長におっしゃって頂いた。「田中さんは、来年からどこが希望なの?」と聞かれたので「情報誌です」と答えたら、「そうなんだ。君は一人の人にじっくり取材をするような仕事が向いてるのかなあと僕は思う。情報誌もいいけれど、なかなかその人のカラーが誌面に出にくい」。
「それで、松尾さんに取材できたらね」。部長は私の面接を覚えていてくれた。きっかけさえあれば遠い話じゃないよ、忙しそうだからアポを取るのが大変かもしれないけれど、と言う。私は幸せ者だ。頑張らなきゃ。
テレビには最後に1位でミスチルが登場して、番組のセットで歌っていた。恥ずかしいけれどぐっときてしまった。最近ボブディランとビートルズしか聞いていなかった私である。
キスしながら唾を吐いて 舐めるつもりが噛みついて 着せるつもりが引き裂いて また愛求める
ひとつにならなくていいよ 認め合うことができればさ もちろん投げやりじゃなくて (『掌』)
こういう書き方じゃ格好悪いポエマーみたいで(まあ、実際そうなんだ)誰にも伝わらないかもしれないが、すごく良かった。何もかもを受け入れてそれでも進んでいる感じがした。CDを買うことにした。夕方、電話をくれた人に「ミスチルがさあ」と青春を語ってしまった。恥ずかしい。以下、近況。
■おすすめホームページ(無断リンクです)
圧縮パン(GO!)とrock is noise(GO!)の写真がとても好きだ。何度も何度も見てしまう。ぽつんとした、寂しそうではないけれどもある一定以上近づけない孤独。
■日(今日)
本当に久しぶりにこたつでだらだら。母は隣で昼寝をしている。ウェブ日記の巡回をして、溜まっていた分を読む。町田康のトークショーの前売りに問い合わせたらもう売り切れて、当日券のみだそう。ああ、どうしようかな、ミラクルヤングのライブも気になるけれど、ひとりじゃなあ。「ひとりじゃなあ」と、さすがの私も思うことがあることくらい知っておきな。
個人ページを見ていると、必ず「かぶりネタ」が出てくるので面白い。今週はNO.E。
■金 流行通信はコレクション特集だった。APCのインタビューがとても気になったのですぐに友達に電話をした。
「僕には物語を作ってコレクションを作る必要がなくなった。よく、コレクションが終わって、取材されるデザイナーが、「このコレクションのテーマはこうで、イメージする女性はモダンな人で…」って説明や解説をするよね。僕はもう、そういう次元ではないんだ。
僕はコレクションを製作して、そしてスタイリングを設定する。着る女性が哲学を勉強している学生なのか、パン屋のお姉さんなのか、それは僕の問題ではない。似合って、綺麗であれば、それでいいと思う。ルックブックでその女性がストーリーを語るかどうか、それが目的ではない。
ディオールの広告を見てごらん。このイメージの女性の物語を想像しよう。きっと彼女はロシア人のコールガールで、ひとりでホテルにいるというシチュエーションだよね。その世界に君は当てはまらないに決まっているし、消費者はその物語に入り込まないでしょう?」
(ジャン・トゥイトゥのインタビューより)
これを読んで私が思ったことは、この人はよく、デザイナーをしているなあという感想だ。物語と無関係に、ただ、例えば着心地のいいものを、トレンドに則したものもの(?)を作り出すなんて、労働者的というか、職人的だなあと。それは悪いことではないけれど、洋服にある程度失望した後に出てくる楽しみな気がしたから。
友達は、「でも、デザイナーが作り出す物語がなくたってさ、それぞれ着た人の物語が服に反映されていくわけでしょ?」ということを言った。
あとから上のジャン氏の文章を読み返したら、この人は服によって作り出される物語を消費者に託しているのかもしれない、と気付く。やはりそう考えると、改めて、とてもすごいデザイナーなのかもしれないと思った。
どうでもいいことだが一応書いておくと、私はやはり、洋服が好きだという結論に今再び達している。服が私を選ばなくても、私は服を愛して集めてしまう。都築響一がいうところの"HAPPY VICTIM"なのだ。でも好きなんだ。でも好きなんだ。きっと小倉優子のファンと同じ。最後にゴシップ。小倉優子は、私の高校時代の友達の元SFだか元彼?だか(=王子さまみたいな子!)と付き合ってるんだって!
■水
友達がロッキング・○ンに受かりそう。今度こそ本当に。どうしよう、どうしよう、また会えない人になってしまうのか。そう思ったらなんだか悔しくもなり、嫌だとさえ思い、そういう汚い気持ちのままその人にあった。
本人はとても冷静だった。「今までの就職活動がうまくいかなかったのはどうしてだと思いますか?」と山崎洋一郎に尋ねられて、「宝くじに外れたようなものだと思います」と答えたらしい。本当に格好いい。そうやって生きたい。汚い気持ちだった自分が、恥ずかしくなった。
「僕はずっと、長い間貯めてきた知識があって、それが人よりすごいんだくらいにいい気になってたんだよ。でも知識というのは、ーーそれがたとえ体系的なものであってもーー「点」でしかないんだよね。今回の筆記を受けてよく分かりました。だからさ、山崎さんみたいな人でもビジョンだとかこれからの〜とか言わなきゃいけなくなるほどきっと現状は厳しいんだ。
知識だけじゃなくて、それを本にするにはきっと「技術」が必要なんだと思う。僕は受かったら、そういう気持ちで仕事しようと思う」。
技術を身につけるという意味で、君はいいところに就職したよ、と彼はいってくれた。
私が凄いと思った人は、本当に凄い人だ。そういう才能に嫉妬するのではなくて、私は私がやるべきことを、ロッキング・○ンでもなく、新潮社でなくても続けていこうと思った。そうしたらいつか凄い人たちと仕事できる日が来るかもしれない。誰かをサポートするという形でも。
夜、中学の友達のあいちゃんに久しぶりに会い、大宮で焼き肉を食べた。彼女は陸上部時代の同級生で、持久走大会を一緒に、(文字通り並んで走る、という契約で)ゴールした人だ。
成人式の前に、彼女が自律神経失調症でひどく痩せたということは聞いていた。この人はいつでも、大変な時でも、人に距離がある。
バカ騒ぎではなくて、きちんと話したのは実は初めてだったのかもしれない。私が中学時代からずっと感じてきた「距離」は、それほど見当違いだったわけでもなかったらしい。あいちゃんは、恐ろしいほどの現実主義者で、恋愛については特に、ニヒリストだった。でも少しも暗くなくて、あっけらかんとしているのがとても興味をそそられた。
何かがないと立っていられないような弱いところ、痛いところの見える人よりも、一人でも平気なんだろーなー、と思わせる静かな強さをたたえている人が私は好きである。わざわざ悲しいものをみようと思わない。
彼女の友達がやっているという大宮のCafe Lump(→GO!)は居心地が良くておすすめです。Linkには、私が高校生の時に付き合っていた(といえるのか!?)人のページがあるらしいのですが…。こっそりのぞいてみて、「どうなってるんだろう今」などとと感慨に浸ってみたりもした。ぬー。
掲示板を再び設置しました。 これからもマイペースで続けていきたいと思っています。
http://www1.rocketbbs.com/618/reiqoo.html
外苑の銀杏並木を見ようとしていたのに寝坊して、友達と待ち合わせていた新宿に着いたのは2時半過ぎだった。一度行ってみたかった世界堂(美術の画材屋)来訪が実現し、「すごい、すごい」といって隅から隅まで見て回った。
鉛筆や筆や絵の具、スケッチブック、石膏像。同じものがずらっと並んでいるところを見るのは本当に好きだと思う。特に、自分にとって特に「価値」のないものが、ある一定の意味のある人たちに向けてはとても魅力的にそこに存在しているということに感動する。
表参道駅に着いた時にはもう夕方の4時だった。七面鳥カフェで初めてご飯を食べた。もっとこう、隅から隅までスキのない感じの、青山っぽいお店だと思っていたのに(たとえば代官山のシェルタや、東京タワーの見えるニドカフェのような……そういうの好きだけど。)そこはいい意味で骨董通りらしい、本当に居心地のいいお店だった。ご飯が美味しくて、ソファは古びた黒い革で、隣の席との距離もたっぷりで。
コーヒー豆を店員さんが手でひいてから入れていた。マグカップも大きくて、冷めても美味しい一杯だった。(私は一人暮らしをしたら、絶対に美味しいコーヒーを入れられる環境だけは整えよう。)
プロジェクターが部屋の真ん中にあり、壁にエリック・クラプトン、ボブ・ディラン、ニールヤングのライブ映像を映し出していた。ちょうど私は壁を背にするソファに座っていたけれど、向かいにいる友達の席は鑑賞にうってつけで、テレビを見ながらご飯を食べる子供のみたいに夢中なのが面白かった。
一人暮らしの家でご飯を食べているような、とても素敵な気分だった。また行こうと思う。
携帯電話をなくしました。
連絡してくれた皆さま、ごめんなさい。 しばらく連絡はパソコンメールにお願いいたします。
かんだちさん、なぐもくん、リンクありがとうございます。今日はこれから会社に行って、その後プロフィールページとリンクページを更新しますので。それでは、宜しくお願いいたします。
誰が読んでいるのか分からない日記をこんな風に卒業論文の合間に続けてる俺はえらい。今日は卒論のために学校で徹夜。一風堂で夕飯を食べた。学校のそばのコンビニでお茶を買ったら、パジャマ姿のでさきくんとちばっち(クラスメイト)のお泊り会コンビに遭遇する。(夜中の1時なのに)「がっこーきてんの〜」とちばっちが聞いてきた。
会社の近く(外堀通沿い)においしいインドカレー屋さんを見つけた。最近できた店だ。タンドリーチキンとカレーとライスorナンと、ラッシーまでついて850円。タンドリーさんがいないと750円。今日、2時半過ぎにいったらお客さんは私一人で、ガラスの向こうに見える桜の紅葉しかかった様を眺めながら本を読んだ。
12月5日が近づく。何もなくてもわくわくする。お誕生日プレゼントには津森千里の下着がほしい、ちょっぴりかわいいぞろ目のれーこたんなのでした。アピールしちゃうのでした。てへ。
また「卒論」という足かせをはめられたまま一日中パソコンの前。6時間座っていて30分くらい書くという、ひどい集中力だ。
日記の推敲ばかりしてしまう。何回でも書いてやる。日記ならば何回だって書ける。何回だって、「書くこと」だけは苦痛なしにやれる。(ああでも卒論は書きたくない……悶々悶々…中学生男子並み)
■東京国際女子マラソン
高橋尚子が負けた。悔しい。気分が悪くて、レースが終わった後に撮ったビデオを巻き戻す父親に八つ当たりした。「見たくないよ、終わったレースでしょ」、と。
彼女が負けたところを初めて見た。毎回嫌な予感がしたけれどいつもそれを跳ね返して勝ってくれていた。もしかしたらこのままずっと負けないのかなこの人、と思った矢先だった。
彼女が頭角を現してきた4年くらい前、私は高橋尚子が嫌いだった。「走るのは気持ちいいです」「スタートラインに立つのが嬉しい」--ポジティブな台詞が鼻についた。走るのが楽しいわけがないじゃん、苦しいに決まってるじゃん。心の中で畜生、と思っていた。
中学の時陸上部だったと以前書いた。それ以来、私は走るのが大嫌いである。ダイエットのためにするジョギングさえスタートするにはものすごい力がいる。走るときに得られる快感は、単にレースで勝つこと、勝った瞬間にテープを切ること、それに尽きると今でも思っている。まあ、テープを切ることのためだけに走る人がいるくらい、テープを切るのは快感だという言い方も出来るが。
高橋尚子は、(比べるのは失礼だけれども、まあ走りに対する姿勢が、マインドが、ということね)私と正反対のランナーだと思う。
2年前のNHKの正月特番でインタビューに答えているのを見て以来、私は彼女が好きになった。この人には負けた、天才だ、と観念したのだ。走るのが本当に楽しくて楽しくて、だからマラソンをしている人がこの世にいるのだということが、私には衝撃だった。無名の選手だった長い時間にも、高橋は「走ること」が嬉しいという理由だけでずっと陸上を続けていたのだという。
「私は練習しなくなったらすぐだめになる選手です。それが自分で分かるから、常に常に人より走り続けていないといけないんです」。インタビューでの彼女の言葉が、今でも頭に残って離れない。なんと強い人なのだろう。私が斜めから見て疎んでいた彼女の「自然体」は、生まれ持った才能だったのだ。
松本大洋の『ピンポン』で、スマイルが、アクマがペコを求めるように、私は高橋の金メダルを待っている。それはかつての有森や鈴木博美や、10000メートルをやっていた時代の千葉真子がしょっていたような、おかしな悲壮感の末の勝利ではない。正直、そんな「日本のため」みたいな金メダルはどうでもいい。
見たいのは、コースからふわっと浮き上がってレースとかオリンピックとか、39キロ過ぎとか、他の選手のロードから飛翔して、ふわっと「どこか」からゴールに舞い降りてくるような、笑顔の高橋なのである。彼女は一人で走っているところがすごく似合う。
今日のタイムは2時間27分。これでは代表に漏れると監督に言われて、彼女はもう一度選考会を走るという。強いなあ。何度でも走って、勝ってほしい。勝ってアテネに行って、また勝ってほしい。31歳で、体力的にも限界なのかもしれないが、いつまでも楽しいからという理由でいつまでもやってくれたらいいと思う。人間なんだから、そんなにたくさんマラソンをやれるはずはないし、けがで休んでいるところも何度も見ている。それでも、それでも、と夢を見るのは、天才である彼女を本当に尊敬しているからである。やめる時は、人とか監督とか関係なく勝手にやめて、またボルダーを楽しいから、といって走る人のように思えるからである。
ああ、ああもう。本当に悔しい、悔しい。
■ビールの恐ろしさ
あまりに辛すぎる事実や、恥ずかしすぎることはネタにもならないことがあります。でも黙っているともっと辛いし、過ぎたことは仕方がないので話します。
ニールヤングのライブに行った。初めての武道館である。素晴らしい、こんな大物を見るのはビョーク以来だ。日記にもすぐ書くつもりでいた。
開演の直前に、アサヒスーパードライを買って飲んだ。酒には弱いのは分かっている。いつも生中1杯もいかないうちにウーロン茶を頼む。ああ、それなのに武道館には革ジャンを着たかっこいいおじさんたちがわさわさとタバコをすっていたのよ、それを見たらね、私もなんだかビールが好きな錯覚に陥ったのよ。
開演直後、おかしい生あくびが5回連続で出た。やばい、と思ったら船をこいで眠っていた。本当に興奮できたのは、アンコールの1曲だけ。一緒に行った友達(誘って、チケットまでとってくれた人)は「寝るなら最後まで寝なよ、たまに起きるとうざい」と本気で怒っていた。ああ。
そういえば前にもこんなことがあったなあ。よしかちゃんと二人でのみに行って、ゆず酒1杯で眠ってしまって、ずうっと「れいこちゃん、れいこちゃん」と面倒を見てもらったっけ。
酔う→気持ち悪くなる→眠るの途中、一瞬だけ気持ちのいい酩酊状態が訪れて、ああいまだらっと横になれたらなんだってできるぜ、という時があって、こういうのを世の中の人はしょっちゅう感じていて、だから世の中にはしょちゅう「酒の勢いで……」という過ちが引き起こされるのだろう、というどうでもいいことがぐるぐる頭をまわった。お酒で気持ちよくなれる人が、私はやっぱり羨ましい。
そしてニールヤングへの罪滅ぼしとして、私は彼のアルバムをすり切れるまで聴きます。これから海外アーティストが来たら、面倒くさがらずにすぐにチケットをとります。ふう。
■武蔵丸
また、私が一生懸命相撲を見ていた時代に強かった力士がやめた。「一番印象に残っているのは、初優勝の時です」と会見でいう彼を見て、少し切なくなる。初優勝を超える強度は、来なかったのか?それ以来。
色々悔しいよ、今日は。それでも卒論は書かないといけないし、明日は仕事だ。増田明美がテレビで、キューちゃん失速の原因を解明している。この人はつらくてつらくて、プレッシャーに負けて走るのをやめたという私に似ているランナーだったそう。今日つらいことがあったほうが、アテネでうまくいくって。いいこと言うなあ。
ああ、こんな徒然日記を書いている暇に君は書くものがあるだろう?それにしても高橋尚子は悔しい。なんだか人格が溶けてきたよ。パフェが食べたい、ごにょごにょ。
昨日から、アキちゃんのことを考えていたらちょうど今日、彼女から葉書が届いた。とても嬉しい。
「しましまのシャツ チャックのシャツ 水玉のシャツ」 ポストカードの裏にはゴシック体の黒字で、単語が並んでいた。私と一緒に中野ブロードウェイに行った時に買っていたのを思い出す。
「しましまのシャツ、チェックのシャツ、水玉のシャツ、全部れい子ちゃんに似合いそう(シャツが似合いそうなイメージ)だったので、今回はこれにしました」「毎日毎日丁寧に生きているれい子ちゃんはとても良いなあと思います」
アキちゃん、私は本当は、シャツが似合わないいかり肩です。アキちゃん、私は本当は、おととい電話した友達にけんかをふっかけるような乱雑な生活をしています。しかもそれは「この人なら許してくれるはず、試してみよう」という子供のような動機が引き起こしたもので、「つかず離れず」が目標のはずの人間関係は、どうしても嫉妬の末にこんがらがります。汚いです。ごめんね。でもこれからもよろしくね。
昨日ふと、高校生の時に友達だったある男の子のことを思いだして、何故彼があれ程に、自分を傷つけたり人から離れていったりしたのかと考え、また彼は今元気でやっているのかどうかを本気で心配した。「どうしてるんだろう」と私がひとりごとのように言ったら、電話の向こうの友達は、「僕も昔、いろんなところにピアスを開けてた、鼻にまで開けた」と言う。今の穏やかさからは想像できない。そういえばアキちゃんは、大変な時に自分の髪を切るという。
ここのところずっと読んでいる小阪修平『そうだったのか現代思想』(講談社+α文庫)が、とても面白い。分かりやすいので、インテリゲンツィアに対抗したいおしゃれピープルは読むべきだと思う。もやもやしていたものがしっかりと言葉に置き換わっていくのは快感だ。先日、「夜が好き」「きゅんとするから?」というエピソードを書いたのも、相手のリアリティを言葉に置き換えて説明できたことがとても嬉しかったからだ。
今ちょうど、デリダの章に入っていて、浅田彰の『逃走論』が解説されている。うふふ、出てきたよ出てきたよ「脱構築」とか「ずらし」とか!
煩悩ばかりが先だって、先週はろくに読書もしなかったが、今週くらいからまた本の楽しさに戻っていけるようになった。いざとなったら本があるんだから、きっとどんなことだって出来るはずだ。なんて幸せなことだろう。
先日高田馬場の芳林堂で取り寄せを頼んでいたジョン・サベージ『イギリス族物語』(毎日新聞社)が届いたとの連絡があった。イギリスの音楽とファッション、若者のスタイルカルチャーをまとめた本だ。今最も勉強したいのは物事のルーツや「歴史」について。
それから会社で昔読んだミステリーの話になって、それ以来ポワロ再読に燃えている。『オリエント急行殺人事件』の衝撃の展開はすごいですよね〜と私が言うと、「田中さん『アクロイド殺し』は読んだことある?あれもすっごいびっくりするよ」と隣のなかむらさんが。気になって卒論なんて書けたもんじゃないわ。アクロイドさん、アクロイドさん……(悶々悶々、そう、実はこの日記、卒業論文からの現実逃避なのじゃ)
アフリカのジンバブエで勉強をしている友達からメールが届いた。とてもいい文章だったのでほとんどそのまま引用する。こうして素晴らしいものを人に紹介していく仕事がしたいので、私は編集者を目指した。(とかいうのは言い訳かしら?無断で載せたら怒られるかな……)
田中さん、
>今年は、たかだ君に昨年勧めていただいた 高尾山に行ってくる予定でいます。
高尾山か、是非天気のいい日に行ってください。なかなか良い姿の富士山が見れます。あと、道端のお地蔵さんなど写真を撮るにもいいところだと思いますよ。
そうそう、ヴェニスの映画のことを日記書いていたのを見た頃にちょうど僕の彼女がヴェニスに行っていたのでなんだか、すこし羨ましくなってしまいました。
現在、ベースは大学近くのフラットに置いていますが、日常的にはMbareという旧黒人居住区で住み込みをしながら調査を行っています。フラットは他大学の先生のものをhouse sittingするかわりに借りてる状況。でもこっちに帰ってくるのは1週間に1度だけです。
Mbareでは朝は大体5時半くらいに起きます。最近は身体が鈍っているので朝はラジオ体操をしてから、腹筋や背筋、スクワット、ストレッチをします。あと10分くらい座禅もする。こんなの日本でもしてなかったけど、こういうのすると身体の調子がやっぱり良くなります。身体を鍛えるためにやってるわけではないので結構適当だったりしますが・・・それからこちらの言葉であるショナ語の勉強をします。どこかに通いに行くのが一番なんですが、とりあえず今はテキストを使って独学です。
朝ごはんはポリッジ。おかゆみたいなものです。こっちの人はなんにでも砂糖か塩を大量に入れますが、このポリッジは砂糖が大量に入ってます。初めは口にあいませんでしたが、最近は大分と慣れてきました。朝食を食べたら調査に出かけます。調査はMbareで活動している住民組織について。現在は3、4つくらいの組織を主な対象にしています。あと市のコミュニティサービス課にもよく話を聞きに行きます。ただ基本的にどこかの組織に行ったからといってお目当ての人に会えることはほとんどないので、一日にいくつもの組織を訪ねることになります。お昼はその辺で売っているパンやドーナッツ、フルーツを買って食べるか、どこかで運良く食べさせてくれることがあります。これからフルーツの季節なので楽しみ。マンゴがすごく安くで売っているのでよく食べます。今は闇レートで1US=7~8000Z$くらいなんですが、1つ100Z$ほどで買えます。
夕方には戻って再びショナ語の勉強。夕食はサザです。サザというのはトウモロコシの粉をこねて作るこちらの主食。東アフリカで言うところのウガリと一緒のもの。サザのおかずはたいてい野菜の煮込み。この煮込みは塩味。かなり塩辛いです。日本食ほどヘルシーな料理はやっぱりないな、と思いますね。いま住んでる建物には電気が来ていないので夜はろうそくを灯して少しショナ語の単語の暗記をして、それからまた腹筋やストレッチをしてから10時頃には床に着きます。
1週間に1度フラットに戻って、1週間分のフィールドノートをまとめてパソコンに打ち込みます。デジカメで撮った写真もパソコンに保存します。あとは大学に行って図書館で本を借りたり、supervisorに会ったりします。
と、まぁ、それなりに子忙しい毎日を過ごしています。日本で言うところのスローライフとは程遠いかな、自分の感覚では。第一、旧黒人居住区という土地柄あまり上品な暮らしではないですからね。電気が来ていないことからも分かるように、いま住まわせてもらってるところは裕福な家庭ではないし、食事で肉が食べられることはまずないです。昨日の夜小魚の煮込みが出ましたが、10日ほどの食事の中で動物性たんぱく質が出たのはこれが初めてではなかったかと思います。
都市に限らずですが、いい人もたくさんいる代わりに悪い人やいやな人もたくさんいます。Mbareに住んでいる黒人以外の人というのはかなり珍しいのでいやでも目立ってしまうので何かとあるのです。
ま、こんな感じの生活を送っています。けっこう世知辛くて、のんびりしてるとは言いがたいなぁ。調査にも追われてるしね・・・ぼちぼちやろうとは思っても時間は刻一刻と過ぎていくし、なんだか思うようなデータも集められないしで、それなりに苦労しております。ま、でも自分のやりたいことなので贅沢は言ってられませんが。
ではでは
12時半、地元の駅に着くと、息が白かった。見上げたらオリオン座がきりっと光ってあった。きゅっとする。
昨日、芝居を見に行った時に会った年下の女の子が「夜が好きなんですぅー」と言うので、「なんで?」と聞いたら「分かんなーい」と言う。少し考えて、「きゅっとするから?」と尋ねてみると、「そうそう!」と言葉が見つかった、という風に相づちを打ってくれた。
冬は、夜は、きゅっとする。色々なことを、思い出す。消えてゆく。
帰り道、コンビニでピザマンを買って食べた。店員さんは、私の中学の陸上部時代の後輩だった。お互いなんとなく、知らないふりをした。ふうふうしながら帰り道、ああ、また、とても満たされた気持ちがやってきた。ああ、こんな時に、こうなんだよって話せたらいいのに。すぐに、話せたらいいのに。
毎日の生活を、お金を稼ぎながら、どれだけ充実して過ごせるかを考えていきたい。例えば汁ぎれのいいお鍋。たとえばいつもより暖かいセーター。湿気のないふかふかのお布団。古本屋での時間。お気に入りのテーブルクロス。鍋パーティー。
げろげろ、書けば書くほどカントリー好きの主婦みたいな文章になってしまう。それでも、暮らしをよくするとは、そういうことだ。そういうことなんだから、仕方ない。仕事を含めた日々のほとんどが、きっと雑務である。ふわっと浮き上がるような強度の体験をできるのは、文章を書くときと、読んでいる時だけだ。しかし生活を綴る時間よりも、生活をする時間のほうがずっと長い。
最近「おひさしぶりです、いつも読んでいます」というメールと「ホームページ消しちゃったんですか?」というメールを(計2通)頂いた。とても嬉しい。忘れられたと思って気付かない振りをし、諦めていた人間関係だった。心が温かくなった。
ちょうどよく、ほんの少しの人が見てくれる日記でいいのだと、いつも思うのだ。何がいいとか、何がむかつくとか、こういう切り口で世界を見てますとか、展覧会への問題意識とか、そういったことももう別にいいのかもしれない。こんな服買ったとか、飯を誰と食ったとか、そういうことでいい。もっともてたら、こんなセックスしたとか、そういうのが一番面白いのかもしれない。でもしてないので書けない。ああ。(そういえば、彼氏に振られてからもう、ええと、1年と半年くらい経ったのだ。夏休みは2回過ぎた。別に彼ともセックスなんてしてないけど)
「お気に入り」のウェブ日記を巡回するたびに経験するあのうらやましいなあ、という感覚は、それぞれの人にそれぞれのみずみずしい夕食やカフェでの語らいや、読書体験や彼氏との日常があり、それは私にはないもので、たとえ似たようなことをできたとしても絶対に全くおなじ実存を生きることはできないことを知っているから感じるものなのだと思う。
もっともっと、(たっかがウェブ日記なのに!)書くことに追われるように書いていた頃には、ただマイペースに、まっすぐに綴る、記録する日常がうらやましくて仕方がなかった。今は、それが少し、できている気がする。それは”とんがって”いようとする意志を放棄する行為なのかもしれない。しかし、別にいいか、とふと面倒臭くなって「はてなダイアリー」をやめた。こういう言い訳でいいかな?
以下、近況。
■過去、連続
寝ぼけている時にかかってきた電話の内容を、すっぽり忘れてしまう。相手の方には迷惑な話だが、これが最高に気持ちがいい。昨夜も忘れた。「寝ぼけてるでしょ?」と「ピンクのシャツ」しか覚えていない。ごめんね。でも気持ちがいい。
責任逃れがしたいにゃー。知らなかったです、忘れました、全部それでやっていきたいにゃー。
■「ありがとうと言いたくなった。でも言わない。でも言いたい」。
JR東日本「フルムーン夫婦グリーンパス」の広告にあったコピー。凄くいいと思う。
■友達の劇
知り合いの人が出演しているペピン結構設計の『マルチメディア』というお芝居を見てきた。すごく好みの俳優さんがいたので、そのひとの顔ばかり見ていた。というのは嘘で、(実はちょっと本当で)大変面白く、あやうく泣きそうになった。
■マガジンハウスにゃ負けました
18歳の時に好きな先輩がいて、電車のお金がないのにお見舞いに行く!といって家までついていったり、いきなり駅におしかけてバレンタインチョコを渡したら、相手の彼女に食べられて捨てられたり、すごく馬鹿なことをしていたことがあった。ちょっと笑える。
その頃によく、ananを読んでいた。ちょっと本気で、読んでいた。「ほおっておかれない女」とか、「世界の恋人たちのセックスライフ!」(役にたったのか、あたし)とか。一時期勢いがなくなった気がして、もっとガツガツしないのかなあ、と勝手に思っていたけれど、最近のananは煩悩だらけでとてもいい。
先週号、「スペシャル感のある女」だよ。やられちゃうよ。だって水森亜土ちゃんのインタビュー付きだもの。しかも高級感のあるジュエリーつけろとか、それでいいのかい?という苦しい解決法がてんこもりで。うまいよ、うますぎるよ。
改めて眺めると、今月は結局ananもGINZAもBRUTUSも、ku:nelも買っている。マガハに惨敗です。
そういえば、私が騒いでいたミハラヤスヒロの革ジャン(14万)をGINZAで富永愛が着ていた。ああ!買わなくて良かった!!そこまでスペシャルじゃなくていいっす、自分は!
■卒業論文
こうしている間にも、卒論のしめきりが迫っているのにやりたくない。
お久しぶりです。今日、(出勤だった)帰りに池袋に寄り、アフタヌーンティーでお茶をしながら最近読んだ本や見た作品、人と話したことについてつらつらと書き連ねたら、やっぱりいいなあ、書くのは、と思ってしまった。来年の日記帳を選ぶのが楽しみ。以下、近況をつらつらと。
■ほとんど生まれて初めてくらいに友達と喧嘩をした。というか友達が本気で私に向かって怒っていた。驚いたし、「まじでやべえ」と思って平謝りしたけれど、そしてこういう言い方はどうかと思うけれど、とても、実は、嬉しかったのよね。真剣に他人と向き合うことはなかなか面倒くさい。面倒くさいことをわざわざやってくれる心の広さとか、その後でもやり直していける信頼関係とか、そういうものを与えてくれる人がいることに幸せを感じる。
■最近心の通ったお買い物を経験することが多く、とても嬉しい。
デルフォニクスは本当にいいお店だ。親しい仲にも礼儀あり、ではないが、お客さんとの距離を知っている。そして店員さんが本当にお店の物が好きなんだなあと実感できるような接客をしてくれる。この前頼んでいたリュックを取りに行った時も、「あ、お財布」とお兄さんが気付いてくれて、「やっぱり使っているところを見ると、改めて可愛いですね」としみじみ褒めてくれた。「この前来た時も、お財布と時計、って気付いてもらったんですよ、恥ずかしい」と照れたら、「毎回言われたら来にくくなっちゃいますよね」と笑ってくれた。
それからもうひとつ、ナショナルスタンダードで。閉店ギリギリに冬用の靴下だけ買いにいったのに、「実はかわいい靴下まだまだあるんですよー」と言って柄物を戸棚から次々と引っ張り出してきてくれた。小柄で可愛い感じの、それでもやっぱり絶妙な距離の取り方が素敵な店員さんだった。たんすを広げて自分のコレクションを自慢するように「ああ、きりがないなあ。もうちょっとだけいいですか?」とぶつぶつ言いながら棚いっぱいにお花やチョウチョの柄を並べる。
「こんなにあるのに他のお洋服を並べるから場所が無くて、表に出せないんですよーもったいないよね」「うん本当にもったいない!すっごいかわいい」「それTOGAのカーディガン?可愛いですよねー」「うん。すっごいすきなの!」ふたりできゃっきゃと騒いで、結局悩んだ末に2足だけ買った。雪の結晶柄と、無地の編み込み。
どの柄にしようか、うーんうーんとプレゼントを選ぶ時のように一緒に悩んでくれた2足だ。それ以来、靴下をはく日が嬉しくて仕方ない。
私は本来、お店の人と知り合い、とかあまり好きではなくて、個人的に親しくなるといらない物まで買ってしまいそうだしセレブじゃあるまいし、恥ずかしいよねえ、と思っている。だからいつもは「話かけないでオーラ」をだしてしまう不器用な子だなのだけれど、一回一回をこうして楽しい心の交流が出来ることは本当に素敵なことだと感じる。一期一会。
■早稲田祭でロックカメラマンの久保憲治さんを見た。(『beikoku音楽』編集長との対談企画。)格好良いとはお世辞にも言えないけれど、本当に本当に笑顔が素敵な人だった。「お仕事は、実力の次に笑顔と人柄から」ということを学びました。
この人は「オアシスはエクスタシーの興奮をギターで鳴らした」という名言を吐いた人だそうで、もう私はそういうのにぎゃーとしびれちゃうどうしようもない人間なのです。天才!
久保さんは中卒で、自分の高校の漢字が書けない(それはまずいよ)そうだ。「君たちは頭がいいから、きっと大手レコード会社や雑誌社に入るのかな。そうしたら偉そうにしている上司の言うことを聞かないで、コピーコントロールCDに反対してね」とおっしゃっていた。「あと仕事ください」だって!
どんなに”アウトロー””反体制”という顔をして何かにかみつく格好をしていても、結局それを「マス」に向かってはき出す権利を持っているのは選ばれたインテリたちだという気がする。あの雑誌もあの雑誌も東大生だらけじゃあないの?就職活動は大変なのですよ、はあ。まあいいけど。
クボケンさんの写真集は3000円位したので、お給料が入ったら買います……。
■働き初めて4キロくらい痩せたので、体が軽くて服を着るのが楽しい。(残念ながら見た目は変わっていません。)実はちょうど去年の今頃から「太っていいか」と思うようになって、それ以来ますますお洋服が楽しくなった。その上痩せたので今年はもっといい。
あと一ヶ月足らずで22歳になる。大学4年間で私は変わったと思う。「変わったと思う」と自信満々に書いているのが変わっていない素直さ=気持ち悪さではあるけれども。
色々なことを、まあ例えばけっこう太っているという人生最大の大問題だったことについて、いいか、と思えたことはすごく大きい。いいか、いざとなったら本があるし。いいか、いざとなったら書くことがあるし。いいか、太ったおばちゃんになっても。いいか、郊外のアパート暮らしでも。
違った形の幸せや、変化した後の世界の美しさ。今まで見えなかったものに「気付く」ことの快感を思う。スーパーカーのナカコーが以前、雑誌のインタビューで語っていた廃墟の後にのこる美しさ、のことを思い出した。全てが変化して終わってしまったという意味の世界から飛び立った時、そこには本当に綺麗な新しい地平が、あるいは「綺麗な」「新しい」という形容詞さえ邪魔になるようなそれが広がっているのだろう。
2003年11月03日(月) |
「ほんの少しあなたと笑っただけで」 |
昨日、友人と3人で黒沢清監督『ドッペルゲンガー』(訳の分からない傑作!)を見て笑った後にラーメン屋で暗い話をし(生きるか死ぬか、労働とは、みてえなことよ)、今日は一人で『月曜日に乾杯!』鑑賞。日比谷シャンテにて。文化の日だからか、映画館には人がとても多く、しかもそのほとんどが中高年の品のいい老夫婦たちである。いつもミニシアターにいるような、映画が好きそうなもっさい若者たちがあまり目につかなかった。
日比谷シャンテシネではとなりでアカデミー賞の『ポロック』を上映していて、こちらも非常に捨てがたかったが今日は月曜日なのでやはり狙っていた作品に落ち着く。席はほぼ満席だった。
『月曜日に乾杯!』は、絶対に見たほうがいい映画です。少しも泣くところなどないのだけれど、途中でくすっと笑いながら涙が垂れてきた。
「フランスの田舎って素敵」「パリで暮らしたい!」「肩ひじはらないくらしがしたい。」「しぜんにしぜんに」くそったれな言葉が書店に、街に溢れる。私はそれを消費して、大宮のスタバでスコーン食いながらちょっとどっか外国の(どこだっていいや、フランスだってロシアだって、ヴェニスだって、あ、ヴェニスは市の名前だっけ?)ティータイムについて考えて、もっとくそったれな今をやり過ごす。
ああ、この映画は最近はやりの、そして私が大好きな、スローライフ信仰とは全く逆のやり方でいまここにある暮らしの素晴らしさを教えてくれるのだ。
工場に通う単調な日々にうんざりしたヴァンサンは、フランスの郊外から、ある日突然旅に出る。電車でイタリアのヴェニスへ。彼を待っていたのは見たこともない景色?水の都の神々しい空?いや、彼を待っていたのは自分とそっくり同じ、人々の「日常」だった。そこに、逃げるべき彼岸はない。
この映画で私が泣いたのは、すべての映像が、まったく特別ではない幸せにあふれていたからである。それはヴェニスでも、フランスでも同じことだった。
乾杯の一瞬に、いってらっしゃいのキスに、「楽しかった?」「旅行だからね」というやりとりに、お墓にお花を届けるおばあちゃんに、ボートを漕ぐ男の汚れたボーダーTシャツに、使い古しのコーヒーメーカーに、眠る前に読み聞かせる絵本と子どもの笑い声に、修道女の足を覗き見るばかなおっさんたちに、となりの夫婦のエキセントリックな夫婦喧嘩に、ちゃぷちゃぷと流れる水の音に。
どうして気がつかないのだろう?どうして知らないのだろう?こんなに美しい毎日が、そこにあるよ。私は映画になった自分の日常を想像して、少しだけ嬉しくなった。大橋歩じゃない私の、丁寧じゃないせわしない暮らしは、結構泣けたりしてね、なんて。
そして明日も憂鬱な「月曜日の朝」がやってくる。
2003年11月01日(土) |
今日はみかんちゃんだよ。 |
エリオットスミスが亡くなったことをショックだ、と書いているサイトをいくつか見て、それはその人たちにとてもショックなのだということが大変よく分かり、こういう言い方は失礼なのかもしれないがとても感銘を受けた。それ以来ずっと、音楽を聴いている。
最悪だ、クソだ、ということがなくなった。本を読むのも遅い。何も入ってこない。もっとどん欲に何かを求めることや、もっとひりひりとカミソリのようだった傷付きやすい感性は、もうもどらないのだろうか。
恐いので今日も人の日記に身を浸す。
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