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昨日、BSでフランスF2のニュースを見ていたら、フランス、ブルゴーニュのソーリューにあるホテル・レストラン「ラ・コート・ドール」のシェフ、ベルナールロワゾーが自室で猟銃自殺したと言って、レストランガイドや、点数制の是非などを報道していた。 フランス人の料理人は、過去にも名誉と威信をかけて自殺した人が出ている。このニュースを見ていて、すぐに、ヴァテルを思った。
一・二年前に「宮廷料理人ヴァテール」という英仏合作映画の主人公のあのヴァテル(「ホイップクリーム=クレーム・ド シャンティイ」の発明者と俗に言われている)だ。映画の題名は「宮廷料理人」となっているが、実際は宮廷付でも料理人でもなくて、コンデ公の「食卓係」であった。当時ははっきりと「料理係」と「食卓係」に分かれていた。 コンデ公は ルイ14世の治世下にあって、反旗を翻し、フロンドの乱に加担した。内乱で国王を裏切ったコンデ公は、王の信頼を取り戻したいと願っていた。
ある時、国王の臣下ローザン公爵から、大公の居城シャンティイ城に国王が3日間滞在する事になると通達がある。威信回復のチャンスが訪れたと考えた公は、莫大な借金(日本円で三兆円とも言われている)をして三日間の宴を開く。それの総合演出を受け持ったのがヴァテルだった。
彼は最終日、魚の献立で、ブーローニュ港まで当てにしていた魚を探しにやっていたが、それがなかった。コンデ公のお家の断絶かどうかの瀬戸際で、ヴァテルの責任は非情に重かった。 結局魚は間に合わず、公夫人が「ヴァテルは待っている食料が間に合わなかったので自殺した」と言っているように、責任をとって自殺した。当時の価値観から見て、例えヴァテルが自殺しなくても、料理長か主に責任を問われて殺されていただろう。
今の目で見ると、そんなあほなと思うかも知れないが、ルイ十四世に仕えた財務長官フーケの持つ、ヴォーヴィコント城に招待された王は、その城の美しさに嫉妬して、彼に横領の罪を着せ投獄していたりするのだ。 しかしヴァテルは自殺した。そうして先日、ミシュランの星を、三つから二つに落とした(結局、ロワゾーの早とちりで星は落ちなかった。)ロワゾーも自殺した。日本の武士の所作とも見える。この責任の取り方が結局、世界の公式晩餐会の料理が、フランス料理となった事の一つの元になっているのかもしれない。 日本の料理人でそこまで出来る人がいるのか?
余談だが因果応報か、ルイ十四世は主治医に、上下全歯を抜かれ、(全ての病気は歯から来るという持論から)そのため噛めず、食物を丸のみにし、ために消化不良となり、そのために肛門をやられ、手術をしたが、垂れ流しに近い状態になり、臭いを消すために、庭に千本のオレンジを植え、祭りにはオレンジジュースを噴水から吹き出させ、臣下はハンケチに動物性の香水をたっぷり振りかけ鼻を覆い、謁見していた。太陽王と言われたルイ十四世も実際の所はこんなものだった。
参考文献:美食の文化史 ジャン・フランソワ・ルベル(筑摩書房)
今日お昼、朝日放送のニュースワイドショウを見ていたら、戦争反対の国別順で、一位がスイスで真ん中に日本、反対の最も少ないのが米国で、その次がイスラエルだと表を見せていた。米国は当事者で、戦争反対が少ないのは当然で、イスラエルもイラクとの事を考えると反対などと言えない状況にある。 次にこの世で最も危険な人物の一位がサダムフセインで、何と次が米国大統領のブッシュだというのだ。この二人だけを挙げて、金正日の金の字も出ていない。なんという番組だろうと思っていたら、この番組の本番中に、「日本海に向けて北朝鮮がミサイル発射」のニュースが飛び込んできた。 一同一瞬凍り付いた。が、なおかつ金正日がこの危険な人物リストの中に入っていないと言うことを彼等は言いもしないし、訂正しようともしなかった。
戦争反対を言うのなら、日本にどんなことがおこっても、戦わないつもりなのだろうか?
「戦争は万物の父となり、諸法の王となる」(*ヘラクレイトス)
「夜に正義の支配無いならば家を建てる物は自らを防衛せざるを得ない」 (*ショーペンハウエル)
「双方が正当である場合の唯一の裁判たる戦争を避ける国民は性情が弛廃する」(*プルードン)
米国と日本に。
家は漏らぬ程、食事は飢えぬ程にて、足る事なり。 千利休
ただ僕と一緒にいる場合のみ、君は自由でいられるのだ。 アルチュール・ランボオ(詩人)
月雪花は一度に眺められず。(日本の諺)
香餌の下には必ず死魚あり。 兵法書 『三略』
愛するという事は、我らが互いに見つめ合う事でなく、共に同じ方向を見つめる事だ。 サン・テクジュペリ (作家、飛行士)
*ヘラクレイトス(BC6世紀〜BC5世紀 ギリシャの哲学者) 宇宙の根源は「火」であり、一切は火から発して火に還るという万物流転説を唱えた。
* ショーペンハウエル(1788〜1860) ドイツの哲学者。 人間の自然の性質は非理性的であるとも言った。
* プルードン(1809-1865)、 社会思想家で、アナーキズムの父と称される。
今、イラクに日本の市民団体と、新右翼の一水会、それと平和を売り物にして稼いでいる、沖縄の歌手の喜納昌吉が、「戦争反対」のデモに行っている。市民団体とは多くの場合、左翼の団体である。右翼と左翼が同じ穴の狢(むじな)であることは、2002年01月19日(土) 「報道の不思議」に書いた。だからここでは言わない。
沖縄の歌手の喜納昌吉は、9.11テロの感想としてこんな事を言っている。
「今回の同時多発テロで犠牲となり亡くなった人たち、天国にいる人たちの魂がですね、本当に今回のような報復という形を望んでいるかということです。つまり「報復」という行為は、今生きている人たちが「報復」を選んだのであって、犠牲となった人たちの魂ではないんです。テロが悪いことは、誰も知っています。世界中の人たちがです。でもそのテロが生まれてくる背景というものを生きている我々は考えなければいけない。」
テロで犠牲になった人が、すべて天国に行けるとは初耳で、この場合、天国にというからには、宗教はキリスト教の事だろうが、死んだ人はすぐに天国にはいけないのである。だから、カタコンベや土葬で、人は生前の姿形を残し、神の「最期の審判(地獄行き天国行き)」を待つのだ。生きているときには、ちょっとでも神の心証を良くするためにも、慈善や奉仕運動に精を出す。
日本は歴史的に見ても城壁がない社会で、よく行く南仏アビニョンにも、中国南京他にも都市を囲む城壁がある。地続きがゆえに、あらゆる敵が入り込む。それを自分達の自由と、今で言う「人権を」守るために結束して戦った。一端屈服すれば、すぐに他民族の奴隷となった。奴隷(エジプトの王朝などで言う奴隷とは異なる)とは一切の自由人権が奪い取られるという事である。 「自由や人権」は、武器を持ち戦いで勝ち取った物であり、他民族との話し合いで得た物ではないと言うことを、城壁のない日本人は忘れてはいけない。
また、「報復は死んだ人が本当に望んでいるのか」と言っているが、現世は生きている人のためにある。死んだ人の弔いのための葬式も、お墓も、仏壇も、生きている人のためのもので、死んだ人への思慕や対話の場として用意されているものだ。
また、「地球上の人の命はすべて、大切で、平等だ。困った時はお互い様です」 などとも言っている。 平等でありたいと願い、それに向かって生きていくのならまだしも、「平等」という概念を疑いもせずに掲げて、「武器を楽器にすべて変えよう」などと言う。 平等は辞書によると「全ての物が一様で等しいこと」とある。これは共産主義の考えである。この試みがすべて失敗していることは歴史が証明している。 多分、喜納昌吉が使っている楽器も、大量生産物の安物の楽器ではなく、誰もに垂涎(すいぜん)の的となっている名器を使っているだろう。平等の世界からは、名器や名車は生まれてこない。非情な競争の中から、才能の有無の中から、闘い勝ち残ったものが名器となり名車となる。 ただし、雌雄を決する機会の「平等」はある。
日本に住み、自国を自国で守れず、アメリカの核の傘下にいて、守られながら、北朝鮮には何にも言わず、直接関係ないイラクに行ってなんで反戦歌を歌うのだ。
安易に、侵犯された都市テロの報復から続く、イラクへの戦争行為を、平和や博愛からだけで、独裁者の存在を無視してなぜ批判するのか。少なくとも今のアメリカはルールに沿ってやっている。もしアメリカに一言文句が言いたいのなら、安保をやめ核ミサイルを装備して、国家の主権を獲得してからいうべきだろう。
2003年02月11日(火) |
紀元節(建国記念日) |
日の丸を玄関に掲げる。世界情勢や、日本人の拉致問題などの事から半旗を掲げて、もう何度目の祝日だろうか。 今日は紀元節である。今日二月十一日は、神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)で、即位した旧暦の新年(「日本書紀」の中に書かれている。)を換算したもので、明治六年に、新暦二月十一日を紀元節ときめて以来、百余年の歴史がある。 明治の日本の近代国家の創設者も、日本の紀元という思いをこめて二月十一日という日を選んだ。 「そんなもの、何の意味もない、嘘っぱちだ」とおっしゃる方々、それなら、実在したかどうか解らない、キリスト生誕祭のクリスマスや、それから来る西暦、お正月が一月一日と決めていることも、何の根據もありませんね。
クリスマスなら良くて、紀元節なら嘘っぱちと眉を顰(ひそ)めて非難する人はどうかしている。そう言う人達は必ずこういう。 「記紀(古事記・日本書紀)に書かれている物なんて信用できない。」 そう言う人達が、支那の「後漢書」や、「魏志倭人傳」なら信用して、未だに引用する事が多い。だが、「魏志倭人傳」と言えども、日本のことが記述されている所は非常に少なく、三四頁くらいしかない。
「古事記」や「日本書紀」と比べたら問題にならぬ。日本人が書いたものは信用できなくて、支那人なら信用できるというのもおかしい。歴史学者が「史実」と言っているのは、単にそれについて書いた、歴史の信憑性の濃いものを史実と言っているにすぎない。 例えば「神皇正統記」は、北畠親房が南朝が正統であるという一つの気持を述べたもので、「日本書紀」は、大和朝廷が、国の基が固まった喜びや、この國が末永く安泰にと言う願いや祈りを、当時の歴史編纂官に命じて書かせたもので、一種の創作であることは間違いない。 しかし、のんべんだらりとした節のない日々を、たとい、大和朝廷と皇室の為であったとしても、その時にそう決めた日が二月十一日で何の問題があるのだろう。 もし、否定するなら、世の全部の祝祭日を意味の無い日として否定してしまわなければならないだろう。
*「祝祭日といふのは、一民族が同一共同體の意識を快復するといふ意味があった。自然をもとにし、それに日本民族特有の習慣を合せ、普段の個人的な、あるいは利己的な生活から解放されて一つになる。さういふ意味で、祝祭日がきめられた。 また、偶然に左右され、首尾一貫せず、一つの完結體を形成し得ない日常生活、貸し借りや身分、年齢、性別といふ社會的規範に縛られ、互ひに利害の樹立する日常生活、そこで磨り減らされ、疲勞した、個人がばらばらになってゐる辛さから避難し、その根抵にある共同體を確認する事によって再び日常生活に戻って行くあの活力を身につける事、そこに祝祭日を求める人間本來の慾求がある」
昭和四十年頃に出た「日本の歴史(中央公論社)」という本の、その第一巻の月報中、丸山眞男(丸山眞男は進歩派の象徴と見なされていた人)と井上光貞の対談があり、面白いことを言っている。
「ぼくが日本神話を大切だというのは、そのなかに日本国家の生成をさぐる上の素材が見いだされるだけでなく、古代人の世界像と価値判断のしかたが現われている点です。考古學的事実史の上からいうと、ぼくはしろうとだけれど、思想史からいうと、決定的に重要なんですね。記紀の話は事実としては作り話であっていいわけです。しかしなぜ作り話が一定の効果をもったかが問題なんですね。膝に蚊がとまって刺したなんていう自然的事實より、ウソでも作り話でも人間の心のなかに意識された事實のほうがずっと歴史的意味がありますよ。」
「日本神話は古代の天皇制を合理化するためのイデオロギー的體系であるという目的意識的な面だけを見るのでなく、神話の素材には實際に日本の各地方地方でおこなわれていた祭儀とか、民間傳承とか、そういうものがすくなくとも出雲神話などにはあるわけですね。」
また対談相手の井上光貞も、
「歴史というものは現代の立場から過去を見通すものではあるけれども、それぞれの時代にはそれぞれの価値があって、そしてその価値を中心にしていろいろなものが動いている。そういう時代固有の価値を認識するということが、いまの歴史から見失われてしまっているのじゃないか。 そうすると人間が歴史の上に残してくれた、いろいろな多様な現象が現在の歴史の上にどう働いているかを考えるばあい、あまりに直接的になってしまって、過去の人がそれぞれの価値體系のなかで、悪戦苦闘してきたのだという面が抜けてしまうのですね。それがないと歴史というものはひじょうにつまらないものになってしまうのではないか。それがいまの歴史教育の大きな欠点じゃないか。」と今の価値観でものを見る歴史観を否定している。
伝統を歴史を、意識して大切にしたいと紀元節の今日想った。
*参考引用文献:福田恒存 全集第五巻
先日、気晴らしに映画に行こうと思い、映画の情報を仕入れていたら、京都の朝日会館が店じまいしていた。朝日会館(朝日シネマ)は、いい映画を上映する時もあるが、ここにも左翼的な思想志向を持った人が入り込んでいるのか、時折、その方面の映画を上映したりしていた。 以前、「宗家の三姉妹」という蒋介石婦人、宋美麗の三姉妹を描いた映画を見ていて、途中で気分が悪くなって出てきたことがある。多分にプロパガンダ(政治的宣伝)を含んだ映画で、ありもしない南京大虐殺を巧みに映像でそれらしく入れたり、7.3.1部隊を暗示する、毒ガスマスクをつけた支那兵?などがカット挿入されていた。 それを無自覚に、へらへら笑いながら幸せそうに見ている、見物客の方に気分が悪くなったのだ、まさか映画館で講釈するわけにはいかない、一人黙って出るしかないのだ。ハリウッド製「パールーハーバー」などは、結末部分だけを日本向けに変えて上映し、翻訳も俳優の言っている事とは、少し内容の違う表現にした。こうでもしないと、歴史上の事であるし、気概のある人は抗議したことだろう。 それが、直接閉館とは関係が無いにしても、朝と昼と夜に上映している物が違ったり、あまりにせまい館内は、咳一つしても響いて、他の客に遠慮しなければならないような環境だと、どうしても足は遠のく。
他の映画館を見ると、スパイ映画が上映されているようなのでそれを見ることにし、映画館に行ってみると、やたら女の人が多い。入り口に貼られている「女性千円の日」、なるほどそれでかと合点した。が、男は通常の千八百円だった。夫婦で行くなら家計の助けにもなるだろうが、一般の男は実にいやな気がしたろう。 あれだけ男女平等を謳っている社会の筈なのに、こんな事になると、フェミニズムの人達から、「不平等だからやめてください」と、どこかにコメントしているのを見たことがない。(別に「映画の日」というのがあって男女同じ割引の日がある) 映画はたわいもない内容であった。席は八割方埋まり、ほとんどが「女性」であった。何でスパイ映画なんだと考えて、すぐそれは、映画を見に来ているのではなく、俳優を見に来ているのだと了解した。
こんな映画に2千円近くは非常に損した感じがした。が、男には「男の日」がないし、飲みに行くのに、「ごはんさそってぇ〜」と女に媚びる事も出来ない。逆はそこここで見かける。いまだに女物、ブランド物が売れている。なのに何で「女性千円」なのだ。
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