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田原総一郎という司会者がいる。今は司会者で名を馳せているが、15.6年前には、当時オムニ(日本版)という科学雑誌に、企業内研究者の提灯記事を書いていた。何度か読みかけたが、提灯記事の性格を持つ上に、その文体がとても「下品」で読むに絶えなく、以後、再びテレビでは見るが、氏の書く文章は読んでいない。
三流である。何が三流かというと、司会業なのに、自分の意見でもって、ゲスト達の言論を遮って何とも思わない事で、ニュースステーションの久米宏も同列である。イタチの最後ッぺで、ぽろりと稚拙な持論をいい、先までのニュースソースを茶にして、コマーシャルに行く。そうすると、見ている人にとって、その最後ッぺが、強烈な印象として残る。
司会者やアナウンサーは仕事中に、私見をいうな!
意見言うなら、自分がそう言う席にゲストとして、言論人として出た時に言え。 今回も、サンデープロジェクトで、高市早苗議員へ難癖を付けて、靖国参拝する不特定多数の人々に対して、「靖国神社に行ったら、下品な人間の、憎たらしい顔をしたのが集まっている」とまで言った。
氏は一見、バランスをとった司会をしているようで実はそうではない。最初に結論ありで、自分の考えを全面に押し出して、裁判官のように言論人の意見を切って捨てる。 今回も 「満州事変以降の戦争は、日本にとって自存自衛の戦争だったと思うか?」と、事はそう簡単にどっちかなどといえない問題に、自分の持っている私見を中心に話を進めてしまうのである。あげくに見解の違う相手を罵倒してしまうのだ。
満州事変(1931(昭和6))年について、最近少し偏向して日本に対する悪意の記事が多い、ニューヨークタイムスも当時、以下の記事を書いている。
「日本は満州事変に関して効果的な広報をまったく欠いている。日本の側にも数多くの点で正当な主張はある。国際的な条約で認められた満州での権益を中国側に侵害されたことを主張する権利がある。・・・だが日本は国際世論への配慮を怠り、激しい批判に対する自国の立場の説明や、正当化をしないままに終わっている。 国際連盟理事会での日中代表による公開討論会においても語学力、表現力の決定的な差によって、すっかり親中反日の空気に覆われてしまった。「連盟はそれに影響されて、中国にあまりにも有利な見解を軽率すぎるほど早急に採用してしまった」」 この時の首相、犬養毅の序文がついた*河上清の「日本は発言する・日中危機の中で」と題する本が米マクミラン社から緊急出版された。タイムリーな発言は、全米で評判になった。
満州事変周辺には、以上のような当時の状況があった。
著者の序文では河上清は自分自身を「みずからの生まれた故国を深く愛しながらも海外に長く住んで欧米のものの見方を十分に理解している愛国心あふれる日本国民」と言っている。
単に、白か黒かではないのである。
*ジャーナリスト。 24歳の時、当時の大新聞・萬(よろず)朝報に評論記事を 送った所、いきなり第一面の「論壇」に掲載され、その縁で内村鑑三、幸徳秋水、内藤湖南など、萬朝報のそうそうたる執筆 陣に混じって、健筆をふるうようになる。 参考文献: 国際派日本人養成講座
三年前の初夏、スイスアルプスまっただ中の、グリンデルワルドにある、シュバイツアーホフというホテルにいた。夕飯をとるテラスからはアイガー北壁が目の前に見える。北壁の中腹辺に、ほぼ垂直の岩壁にへばりつくように小屋がある。 山小屋は見えないが、山小屋のともしびが広い斜面にぽつんと見えた。テラスには備え付けの望遠鏡があって、北壁の登攀者を確認できるようになっている。 夕飯の間はチターの生演奏。第三の男の演奏になった途端、拍手が起こった。四方は白銀の山嶺。至福の一時。やがて日は落ち、青い月が白きたおやかな峰々を照し、夜は更けていく。 翌日はユングフラウヨッホ(約3500m)に登った。といっても、登山電車を乗り継いで行けてしまうのだ。 頂上付近には、巨大な氷室があって、氷の彫刻などがブルーアイスのトンネルの中、あちこちに置かれている。日本の相撲取りの全身像もあった。そこで本題に入る。 この山の中を巡っている巨大な氷室(迷路のようになっている)は天然自然の環境で成り立っていると、本日の夕方のニュース番組を見るまで思っていた。近年、地球の温暖化かどうか、雪が溶けている事も知っていたつもりだった。 ニュースでは、このユングフラウヨッホの氷室の事を伝えていた。何と!あの氷室は巨大なクーラーで冷やして人が管理しているのだそうで、グリンデルワルドの雪も、どこかから持ってきている??と伝えていた。標高三千五百メートル近くの所にあるというのに。 知らなかった! 確かに、八十五年頃に訪れたときは、もっと氷河も下の方まであった。 本当に知らぬ間に深刻な事になってきているようだ。 あの巨大な氷室全体が人工的な冷蔵庫なのだ。
ここ何日か前から、涼しい日が続き、明け方など、寒さで目が覚めたことがあった。今朝も気持ちの良い目覚めで、花に水をやるため庭に出た。その時、庭の竹垣に立てかけてあったスコップの木の柄、上三分の一の所に、蝉の抜け殻が喰らいついているのが目に留まった。蝉の抜け殻は都会ならまだしも、この辺りでは珍しくもない。夏の季節の終わり頃、哲学の道を散歩すると、短い一生を終えた蝉や抜け殻など、道端にゴロゴロ落ちている、哲学の道大虐殺?の現場が見られる。 だけど、今回のスコップの木の柄に喰らいついている、空蝉(うつせみ)は様子が違った。近づいてよく観察すると、なんと殻から蝉が頭を出し、まさに脱皮しかかる状態で息絶えていたのだ。 七年に及んで地下生活をして、地中からようやっと這い出し、どこか小高い場所に這っていって、おもむろに殻を破りはい出ようとした時、明け方の急激な温度変化で、命運尽きたに違いなかった。しばらくじっと見ているうちに、志賀直哉の「城の崎(きのさき)にて」を思い起こしてしまった。
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・・・ ある朝のこと、自分は一疋の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその傍を這いまわるが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立ち働いている蜂はいかにも生きている物という感じを与えた。その傍に一疋、朝も昼も夕も、見るたびに一つ所に全く動かずに俯向きに転がっているのを見ると、それがまたいかにも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどそのままになっていた。それは見ていて、いかにも静かな感じを与えた。淋しかった。 他の蜂が皆巣へ入ってしまった日暮れ、冷たい瓦の上に一つ残った死骸をみることは淋しかった。しかし、それはいかにも静かだった。夜の間にひどい雨が降った。朝は晴れ、木の葉も地面も屋根も綺麗に洗われていた。蜂の死骸はもうそこになかった。今の巣の蜂どもは元気に働いているが、死んだ蜂は雨樋を伝って地面へ流し出された事であろう。足は縮めたまま、触角は顔へこびりついたまま、たぶん泥にまみれてどこかで凝然としていることだろう。外界にそれを動かす次の変化が起るまでは死骸は凝然とそこにしているだろう。
それとも蟻に曳かれて行くか。それにしろ、それはいかにも静かであった。忙しく忙しく働いてばかりいた蜂が全く動くことがなくなったのだから静かである。自分はその静かさに親しみを感じた。
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志賀直哉の言いたいことはよく分かる、生の果ての死、動の終わりとしての静を蜂の死に重ね、そしてそれはもう、外的誘因がない限り、永遠に動かない。それを志賀はひたすら「静か(静謐)である、そして静(死)に親しみを感じる」と言っている。
ところが、今日庭で見た、半空蝉はその感慨にはたどり着かない。生の躍動最中(さなか)、それも、変身を遂げる直前で死んでしまったのだ。「ひたすら静か」とは到底感じられない。 ずっと見ていると、今にもぬれた羽をひろげ、少しの後、大空に飛び出していきそうな気配が残っている。ひたすら、「動」の気配が漂っているのだ。黒いキャビアほどの蝉の目が潤んでいるように見えた。
生から死へ天寿を全うした蜂と対照的に、生のただ中、十分力を蓄えて、変身を遂げようとするさなかの、不意の死。変な言い方かもしれないが、エネルギーがみなぎった死、のように思えた。
出版物などを出すときや、新聞紙面の原稿を書くとき、影にいてチェックする人達が校正の人達である。この人達のおかげで既成の事実、字の間違いなどがチェックされる。そうして、「作品」となって発表される。 ところがインターネットの個人ページの文章などはそれがない。だから、かなり著名な人でもタイプミスや記憶違いによる誤記があることがある。
淡譚自身も後で読んでとても恥ずかしいミスをしていたり、思い違いによる、ミスが結構ある。救いは、お金を取っていないことで、その分差し引いて読んで下さい。名前特に人の名はしょっちゅう記憶間違いします。下記の淡譚もそうでした。今朝新聞を読んでいて、いつのまにか頭の中で、敬子が敏子にすり替わっていた。ほとんど、自分で気がつく以外に誰も注意してくれない。
今までは、その文章自体を訂正していましたが、あほさ加減を残そうと思い、間違いの文章はそのままにすることにし、訂正文章を後にその箇所に書くことにした。自身の文章を載せる前に何度読み返しても間違いは発見しにくい。 昔、古本市の珍本コーナーで、表紙に「スパデッテイーの秘密」と堂々とタイトル印刷された本を、買ったことがある。だれも気がつかないで、印刷出版して初めて読者に笑われて、回収されたと思われるもので、これからも分かるように、校正という仕事は無くてはならないものなのだ。 10年くらい前、Dr.中松の一連の著書を読んでいたとき、非常に誤記やタイプミスが多かった事を覚えている。きっと校正者を使っていないんだろうと思った事があった。
ここの文章は出版物には無い良さで、ちょっと書き換えたりすることがあります。そういう楽しみ?もあるかもしれない。
長野県の知事候補の紅一点、飯田市の弁護士、長谷川敬子(敏子から訂正8/21)と言う人の背景が何だかあやしい。正式出馬表明は駒ヶ根市の女性市民グループ「女性の目で見る県政ネットワーク」が代理発表している。 田中康夫前知事の、幼稚な胸バッジや、初めは冗談でやっていると思った、知事室を透明には、文字どおりガラス張りにした。これが情報公開というしゃれだとしても、座布団はやらない。しゃれで言うと駄じゃれである。「そのまんまやないか!」 女の人との閨房日記のような自慢話(男から見たら)を雑誌発表して、何とも思わない神経で、知事に立候補したのは良いけれど、最初に結論ありきで、議会ともかみ合わない。それで失格の烙印を押され、失職した。ところが破廉恥にもまた知事選に出ている。そしてそれでもまだ支持すると言う市民グループがいる。 さてここで言う「市民」とはなんぞや?彼の市民と此の市民はどう違う?日本語の市民は普通、市井の人々を指すようだが、市民には本来、「シビル」と「シビック」との二種に分けられ、「シビル」は国家を権力=悪とみなし戦う市民、「シビック」は国家に対し、義務と権利をわきまえる市民を指す、という意味がある。さて上の長谷川さん、田中前知事の応援団はどちらだろう。
多分どちらの市民グループも「シビル」だろう。長谷川さんのバックにはフェミニズムの臭いのする人達がいる。当選すると妙に女を強調するような言動や行動に出るようになるかもしれない。そうして今回その危惧がある。なんでわざわざ「県政を女性の目で見る必要」があるのだろうか?普段フェミニズムは、「男や女を超えて人間として」と言っている。そうすると別にわざわざ、女性の目で見て県政をしなくてもいいと言うことになる。 しかし、現実には「女性の目で見る県政ネットワーク」が代理出馬発表している。
田中真紀子が外務大臣を降りたとき、なぜ次も女でなければならなかったのだろう。女の人であればフェミニズム方面にもいい顔が向けられるし、集票率がいいとでも思ったのだろうか。 本当に尊敬すべき女達はいる。だけど、政治家の中にはほとんどと言っていない。大抵は野で活躍している人達の中にいる。
脱ダム奪だむ後光の擦り切れ・・・?と、となえ続ける田中元知事の応援団も多分にアウトロー的な「シビル」だろう。「私達の知事が書いた***日記よ」と子供に平気で話せるのだろうから。
最も近い秘書も本人に要請を受けてなったが、程なく離れた。最初全面的に支持していた地元有力者も離れていく。この人たちが本当の「シビック」かもしれない。愛想が尽きたらしいのだ。 長野県民は見た目で選んでるとやがてしっぺ返しが来て、お叱呼チビルことになる。
愛媛県人は民度が高い。漱石のぼっちゃんの舞台であり、俳句の盛んな県で もある。この愛媛県で、扶桑社の中学の歴史教科書が採択された。京都で若い友人達や諸先輩方と採択に向けて協力し、本が出来たことを期に、今は離れたが、やはり嬉しい。これがきっかけとなって日本中に拡がって欲しいと思う。栃木県のように、一端採択されたものを、一部イデオロギーの偏った連中に脅迫(教育委員の家に、カミソリの刃を送ったり執拗にFAXを送ったり)されて、採択を取り消すなどと言う民主主義の基本を壊してしまうような事があってはならない。 本当に愛媛県の人々、「つくる会」の人達、日本会議の方達、もうみんなえらい!! が、高校の教科書はまだだめである。
2002年08月16日(金) |
大文字山(だいもんじやま) |
大文字の送り火はつつがなく終わった。この大文字さんを効果的に他府県の友人に知らしめる悪戯がある。家の裏にある、若王子神社を抜けて、同志社大学の創始者新島襄の墓に行こうと、さりげなく声をかける。友は山を少し登らなければならないと聞いて、躊躇するも断る理由もない。しぶしぶと後に従ってついてくる。小さな山の腹をトラバース(横に巻くこと)し、狭いけれど、はっきりついた小径を登っていく。 やがて、新島襄先生のお墓に着くが実はそこが目的ではない。そこからさらに一端琵琶湖側に出て、灌木の尾根筋を北へとひたすら歩く。友は不安に駆られて、一体どこへ行くのだと聞く。ここで、迷ってしまったと大嘘をつく。 構わずどんどん山道を北へとる。30分くらい歩くと琵琶湖側から、京都側へのみちとなり、つらつらと下ると、急に視野が開け、細長い土の剥き出た階段状の場所に出る。
「ちょっと休憩しようか。」 縦に長く下に続く小径の横に座り、友をうながす。友も、隣に座って眼下の山々に囲まれた盆地の町並みに
「いい眺めだなぁ。」 茶を入れ、友の顔をじっと見る。
「いい眺めだろ、ここ。」 「ほんとにいい眺めだなぁ!あの緑濃い所が御所か、そうすると…」
と悦に入っている。
「ここどの辺だと思う?」 友は、京都の知識を総動員して、
「あそこが御所だろ、だとすると、あの界隈が百万遍か…。」 なんて言っている。
ま、ほとんどが分からないで終わる。そこでおもむろに咳を一つして、今、お前が座っている所は、送り火で有名な大文字山の、大の縦棒のうったての部分に座っているのだと言うと、 「あっ…!!」 もうこちらの期待したとおりの驚きよう。 してやったり!
そうして、とても嬉しそうな顔になる。見るだけの大文字だったのが、知らぬ間にそのまっただ中にいるのだから。
また、ある時は、友を大の字、右上に座らせお前の座っている所は犬の点の所だと、犬文字にしたり、太文字にしたりして悪戯する。これは府外客に必ず受ける。が、これから下る、銀閣寺側、朝鮮学校のあるところから登ると、案内板があるので、ばれてしまう。
そうして、ひとしきり楽しんだら、銀閣寺に向かって下っていくと、ご先祖様の(ウソです)、旧中尾城跡下に質のいい湧き水が出ているところを通る。 以前はここまで歩いて、真夜中の12時頃10リットルのポリタンクを担いで、茶のために水を汲みに来ていた。何でそんな真夜中かというと、朝・昼はこの水のファンが多く、しばらく待たなければならない。それに10リットルである。ちょろちょろの岩清水を10リットルは結構時間がかかる。後を待つ人に申し訳ない。と言うことで、真夜中となった。貸し切りですぐ入れられて、真っ暗な中、下山するので、足腰も鍛えられる。 抹茶の発色が水道水とはちがうのだ。
そういう真夜中、会って一番怖いのは化け物ではなくて、人間である。一度など、上から人が急に降りてきて、本当にびっくりした。男二人で、京大の学生諸君であった。彼等は夜景が見たくて、夜大文字に登ったんだと言って、水を一口飲んで、下って行った。現代にも剛毅な若者はいるのだなぁと感心した。
今日のこの日が敗戦の日で、終戦の日ではない事は、淡譚2002年04月28日(日)「今日は本当の終戦記念日-覚え-」で書いた。
* ポツダム宣言を受諾した昭和二十年八月十五日に敗戦を迎えた。なぜ、敗戦で終戦ではないのかというと、昭和二十七年の今日まで日本は戦争状態にあった。
*サンフランシスコ講話条約(第一条a) 「日本国と各連合国との間の戦争状態は(中略)この条約が日本国と当該連合 国との間に効力を生ずる日(昭和二十七年四月二十八日)に終了する」
以上の理由から終戦記念日は四月二十八日となり、今日は戦が負けと決まった日。
ここ二三日、町行く人々の感想をテレビでインタビューしている。何にも変わっていない。「戦争を二度と起こしてはならない。」とか、「戦争はいけない。」とか、「平和の願い」のような意見。意図的にカットされたのかどうか、意見が単色なのだ。人々は美食や買い物には興味があっても、この日の意味をほとんど学ぼうとしないし、興味を持とうともしないように見える。今日栄耀栄華を極めている中で、はっきりしている事がある。
戦って負けた事は、残念だった。それとそのことに対する善悪は別である。 もし、勝ち戦(いくさ)をしていれば、上のインタビューされた同じその人の口から「戦争はいけない」とか、「二度と戦争を起こしてはならない」という言葉は出てこないだろう。歴史を振り返ってみても、日清戦争の後、日露戦争の後の人々の言葉を当時の新聞で拾ってみれば、簡単に分かることである。
今日、かっての高度経済成長、全くの武器を持たない平和主義(というと必ず自衛隊があるじゃないかというが、戦闘機にしても、先制攻撃出来ないように、朝鮮半島まで飛べないように燃料タンクは細工されている。また、ミサイルを積めないようにして骨抜きになっている。)は、アメリカとの同盟の下での言い換えれば、アメリカの核の下での平和享受なのである。この平和の下で、戦争の善悪を言ってみてもはじまらない。
昔、日本人は、自国は自国で守ろうとした。台湾人が最近の日本人を見て、腑甲斐ないと嘆いている。かって、台湾も朝鮮も日本だった。台湾人は日本精神という言葉を一級の言葉として使っている。「武」なしの平和は今のところありえない。無抵抗主義と誤解されているガンジーでさえ認めている。 自国(自分)の事は自国で守るのは当たり前のことである。永世中立国スイスを、何か平和主義の象徴のようにいう人があるが、綺麗なスイスアルプスの土手っ腹には、四方に向いてミサイル格納基地があるのを知らないのは、多分日本人だけだろう。 スイスは優れた地域共同体を持ち、各個人の家に一家に一冊「民間防衛」という本を配っている。内容は、戦時国際法に基づく戦い方、他国軍隊がスイスを通過していく時には、どのように振る舞ったらよいかなどが、書かれている。これ等を踏まえて初めて「平和」の尊さを発言できる。
隣国が善人だと頭から信じて、我が国の人々が誠実に成してきたことを信じず、隣国の言った事の方を信じる日本人は多い。人は平気でうそをつく存在なのだ。 日本人にとって、A級戦犯もB級戦犯もないのだ。靖国神社の事もそうだ。誰に気兼ねしているのか。言っている当事国は死者にむち打つ国であることを知っておいた方がよい。墓を掘り起こしてその死体をばらばらにしてしまう国柄なのだ。兵馬俑が頭を残しているのは、地中に埋めてあるのが発見されていなかった事が幸いしている。彼の国の、地上にある歴史的な石像などは全部首がない。そういう国柄だからこそ、日本のために戦った英霊に文句を言う。死んだら仏や神になる我が国のことなど認めないのだ。
かって戦争で日本人に虐待されたと、日本にそれを訴えに来た英国人が靖国神社を訪れ、靖国に奉られているのは日本人だけではない事を知り、訴訟を止めたという事があった。
「武」を持ち「武」を知り、それに「知(智)」をともなって初めて、「平和」を語る事が出来ると考える。
夏の山旅の終わり近く、深山の峰をはるか下にある村に向かってひたすら下っていると、日暮しのかな・かな・かなという鳴き声が決まって聞こえて来る。それは祭りの後のなんとやらと同じような、一種独特の寂寥(せきりょう)感がある。日暮しにはつい最近までそういう風なイメージを持っていた。遠くで鳴いている、あぁ、夏も終わりだなぁと言うような。
ところが、先日夕暮れ迫る頃、庭のクスノキに日暮らしが一匹やって来た。そうして鳴き始めた。「かな・かな・かな・かな」まぁ、その鳴き声の喧(かまびす)しきことこの上ない。
わずか二・三メートル下で聞く日暮しには、寂寥感も何もない。ただ異様に通る鳴き声に驚くばかりだった。秋が来たなんて露程にも思えない。現役のミンミンゼミやつくつく法師より鳴き声は大きい感じさえした。趣一切無し!
蝉と言えば昔、芭蕉の「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」の中の蝉をめぐって、歌人の斎藤茂吉と、小宮豊隆と言う人が、論争をしたことがあった。茂吉はあぶらぜみ、小宮はニイニイぜみと譲らない。芭蕉はこの句を、陽暦七月十三日頃の山形県・立石寺で詠んだと言われている。茂吉の主張する、あぶらぜみは山形では7月中旬〜8月中旬、小宮のニイニイぜみは6月中旬〜8月中旬だということで、どうやら小宮の方に軍配があがったらしい。他にも蝉はいたようだが、日暮しは7月の初め頃、エゾハルゼミは五月〜七月で句にそぐわないという事だったようだ。
万葉集に
「 ひぐらしの鳴きぬるときは女郎花 咲きたる野辺を行きつつ見るべし」
「今よりは秋づきぬらしあしひきの 山松陰にひぐらし鳴きぬ」
「萩の花咲きたる野辺にひぐらしの なくなるなへに秋の風吹く」
これに詠まれている日暮しはどうも今の、かなかなかなと鳴く日暮し一種ではなく、萩や女郎花などの季節に鳴くのは、和名「赤せみ」のようで、阿波徳島では、今も赤せみの古名「日くらし」と伝えている。当時、日が暮れてなを鳴くせみ全般を指して、ひぐらし(比久良之)と言っていたらしいと、どこかで読んだ。
そこで一句
日暮しは遠きに聞きて想うもの??
参考書:『セミの自然史』(中尾舜一 中公新書) 『万葉集』『和名類聚』『万葉集名物考』
毎年やって来るこの日。この日の三日後、長崎にも種類の違う原爆が落とされる。一つはウラニウム片とウラニウム片をぶつけて爆発させるタイプ、他の一つはプルトニウムを球状に閉じ込めて、外から火薬で内に向けて原子を衝突させるタイプ。これをそれぞれ広島・長崎に落とした。米国の言い分は各軍需産業の工場はドイツのように分別されていなく、日本の一般の家でも部品は作られている、だから東京の絨毯爆撃と同じく民間人が多く住む都会に落としてもかまわないと言う理屈だった。 最初は京都に落とす予定であったが、さすがに京都の歴史的な背景は無視できず、陸軍長官のヘンリースティムソンは京都投下には反対した。広島に落とされる一ヶ月前にニューメキシコ州アランゴードで実験をし、そして今日広島に落とされた。 ところで、有史以来の戦時での最大の民間人虐殺はどれ位あったのだろうか?戦争による最大の虐殺は、米軍による原爆を含む日本本土空襲で、被害者数は約百万人である。 では平時において、もっともひどい虐殺とは何だったか。最大は共産中国による旧地主階級らの粛清。二千万人以上が殺されたといわれている。次はソ連・スターリンによる粛清。こちらも一千万から二千万人。 そしてナチス・ドイツによる ホロコースト。ユダヤ人を中心に六百万から八百万人。最後がポル・ ポト。百万から二百万人。ポルポトは短期に自国民の二、三割を殺した。この内三つは共産主義思想の下に行われた。ナチスドイツさえやらなかった自国民を大量虐殺するという事をやった。 ナチスのやった行為は、ユダヤ人迫害という民族差別で、それでも詳細に調べていくと、今や定説となって潜在意識下でみんな了解している「毒ガスによる虐殺」は否定(なかった)派の方の論が勝っている。今でもドイツではそれを言うのはタブーで、それを言っている学者はドイツに住めないで、スイス国境近くで住み、執筆している。
それはともかく、これだけ虐殺しておいて、いまだに共産主義者は何の責任も問われないのはおかしいのではないかという、問題提起の本が一九九七年にフランスで出版された『共産主義黒書』(Le livre noir ducommunisme,Editions Robert Laffont,Paris,1997)である。
序章 共産主義の犯罪 ステファン・クルトワ
第一部 自国民に敵対する国家
第二部 世界革命、内戦、テロル
第三部 共産主義の犠牲者としての他のヨーロッパ
第四部 アジアの共産主義体制 「再教育」と大量殺害の間
第五部 第三世界
終章 なぜ? ステファン・クルトワ からなっている。これほどまで人類史上その思想信条と正義という御旗でもって人間を虐殺し続けてきたのに、今も現在、日本には共産党と名乗る団体があり、日本の国旗は血塗られているらしく反対なのに、共産党の党名には無頓着なのか馬鹿なのか、党内で揉めたことを寡聞にして聞かない。
アメリカは自前の正義を勝利させるためにコードネームを「オリンピック」と名付け、悪者日本に原爆投下した。一方共産主義者も人民のためと正義のためにと、敵国ではなく、自国民を大量に虐殺した。
人間は厄介な生き物でこれはこれからも変わることはないだろう。 時代は変わっても人は変わらない。
参考文献:「共産主義黒書」(Le livre noir ducommunisme,Editions Robert Laffont,Paris,1997) 「ガス室」の真実 西岡昌紀 「アウシュビッツの争点」 木村愛二 「偽イスラエル政治神話」ロジェ・ガロディ 他
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