目次|過去|未来
世間は狂牛病が日本でついに出たといって、いっせいに騒ぎはじめた。日常では肉類はほとんど口にしないが、ごくたまに、焼き肉を食べるか、西洋料理屋に行ったときに羊肉を食べるか位で、基本的に家では玄米に日本の昔からの総菜、それも季節のものしか食べない。
大阪の焼き肉のメッカ、鶴橋などは駅前近くで半分以下の売り上げになっているという。なんだ、日本人も結構敏感に反応するのだと思って、逆に行って見たくなった。 「牛角」という、最近関東から勢力を広げてきている、チェーン店に行って見ることにした。味はいい方だと思うが、ガブガブ、ビールを飲みながらの食事は良しとしないので、幾種かの赤白ワインがあるここに、時々来ている。 牛の検査結果の判定が、二転三転している中で行くんだから、さぞや閑散としてるだろうと思って行ったら、あら、大変!エレベーターを降りた前で、カップルが4組ぐらい手持ちぶさたで待っている。一瞬何かのまちがいではないかと思って、ガラス扉越しに店内をのぞき込んでいたら、従業員が出てきて、満員ですという。大繁盛!? 今までも時折、満員で少し待った事はあったけれど、この時期に、この熱気溢れた雰囲気は一体なんなのだ。予約待ちにして置いて、一旦階下におりて、謎が解けた。肉屋もさるもの、なんとビール一杯98円なんだ!
そうすると何かぃ、とにかく安けりゃ狂牛病の疑いある牛食ってもいいって分けか? なんか浅ましいなぁ! そこまでしてそんなに牛食いたいか。
あんまり知られていない事だけど、牛からタンパク質をわざわざ摂るのだったら、牛の餌になる大豆などから摂る方が遙かに効率がよいのだ。 それに、冗談みたいだが、放牧された牛が出すゲップは地球温暖化?にかなり影響をあたえると何かの番組で言っていた。 馬科は10種満たないほどに衰退していて、一方、牛科は、ヤギ、羊、など繁栄している。これは、偏(ひとえ)に反芻(はんすう)という食べ方をしているためで、車でいうと、ターボエンジンと同様に、消化の効率が非常に良いのだ。 馬は草の全たんぱく質の1/4しか取り込めないけれど、牛は草のたんぱく質の吸収力が反芻によって非常に大きくなる。 が、この反芻がくせもので、この時牛は、頻繁にゲップする。ゲップにはメタンガスが混じっている。メタンの温室効果は二酸化炭素よりはるかに大きく、ウシのゲップは世界中のメタンガス発生量の1/5を占めているらしい。 98円なんかでビール売ったら、それがためだけに集まる、安けりゃ何でもいい種類の人間共が、いっぱい飲んでいっぱいゲップする。これも、温暖化になるのとちがうか?ここは、京都議定書の京都やど!ちょっとは遠慮してゲップせぃ! ようやく、席について98円ビールを注文したら、あれは限定で売り切れましたという。 これを目当てに来た奴はさぞがっくりしたろう。この時勢にこんな商法。あっぱれ!あっぱれ! 久しぶりに思い切り毒?を食べた。 死なばもろとも。(-.-;)y-゚゚゚
夜更けに、最近ちょっと飽き始めたインターネットの画面を見ながら、ふと面白い事を思いついた。小学校の頃を手始めに、親しかった友人や先生の名前を入れたらどうなるだろうか、まず手始めに小学校の頃の友人、それも何らかで目立っていた友人、そう言う人達を思いだし、検索にかけてみた。 不思議なもので、そういう才気煥発で目立っていた友人というのは、何十年経っても苗字だけではなく、下の名前までちゃんと覚えているものだ。面白くなって、次から次へと思いつくままに入れていった。
まぁ、驚くべし!
その友人の一人は建築事務所をやっていた。故郷で、建築事務所のホームページを作っていた。また一人の中学時代の友人は、東京の自分の住む町で、オンブズマンのネットワークなどのホームページを作っていて、民間のコンピュータ会社のプログラマーを仕事にしていた。最近のプロフィールのページに写真が載せてあり、一目見たときに、何十年も前の記憶にもかかわらず、笑った顔の口元や目はそのままで、すぐ本人とわかった。 高校時代の恩師は、故郷の県立高校校長協会の会長をしていて、やはり最近の写真があり、あの若々しく、当時フェアレディZだったか、ホンダS8だったかのオープンカーに乗って、さっそうと学校に来ていた先生とは思えないくらいおじい顔になって、威厳を漂わせていた。
小学校時代の友人のページには掲示板があったので、現在、そこで何十年ぶりかの再会を喜びあって、近況などを書き始めたばかりだ。その掲示板にはもう一人、小学校時代の友人が書き込んでいて、二人は小学校時代から今も仲のよい友達のようなのだ。 昔なら40年前に巣立っていった友とは、同窓会幹事か誰かが、精力的に音信を辿らなければ、まず会えないだろう。
世間でも、興信所か私立探偵、事件がらみなら警察のお世話にならないかぎり、まず不可能だろう。それを個人が思い出すまま名前を打ち込むだけで、あっさり出来てしまった。おまけにここ一年くらいの間に撮ったと思われる顔写真入りで出てくるのだ。 これはもう、昔で言うと奇跡である。 ネット同窓会なんてもの、もう先に行っている人達はやっているかもしれない。とりあえず、更新がおぼつかなくても、ホームページを開いて置けば、必要な時、誰かが探し出してくれるかもしれない。 新しい遊びをまた見つけてしまった。
2001年10月23日(火) |
チャップリンの黄金狂時代の秘密 |
最近、BSで、チャップリン特集をやっていた。チャップリンは学生時代、京都アメリカンセンターで全部みた。その時は「黄金狂時代」も抱腹絶倒の連続で、もう腹の皮と頬の皮がおかしくなるくらいに笑ったのを覚えている。そうした印象だけだった。 だけれど今回BSで改めて「黄金狂時代」を見ていて、愉快で間抜けな主人公を素直に笑えなかった。というのも、シュテファン・ツヴァイクの『人類の星の時問』(みすず書房)という本の中に、書かれていたことを思いだしたからだ。 どういうことかと言うと、アメリカ建国から半世紀ほど経った頃、ヨハン・オウギュスト・ズータという、破産して無一文になったドイツ人が新大陸で、一旗揚げようとアメリカにやって来る。 数年ニューヨークで働いて金をためて、まだ手つかずの西部へと向かってカリフォルニアに移りすむ。そこでも地道に働き、ついに大農園を経営するまでになる。土地を開墾し井戸を掘り、家畜を育て、ヨーロッパに残してきた妻子を呼び寄せ、幸せな生活を送り始めた矢先に、彼の使用人が敷地内の中を流れる運河から砂金を見つけた。
この事実は堅く口止めされたが、あっというまに噂は広がってしまった。 手始めは農園で働いていた使用人が、仕事をほっぱらかして砂金取りに熱中した、つづいて噂を聞きつけたならず者達が全国から殺到し、勝手に敷地内に入り、農園の牛を殺して食い、穀物庫を壊し、勝手に自分達の家を建てた。 農地は踏み荒らされ、農機具などは盗まれてしまった。このヨハン・オウギュスト・ズータの個人の土地を、沢山のならず者が不法に占拠侵入して、次第に町が作られて行った。その町の名はサンフランシスコと呼ばれた。
チャップリンの「黄金狂時代」はまさにこの、ヨハン・オウギュスト・ズータの個人の土地で繰り広げられた事だと思えば単純に笑えない。サンフランシスコは、個人の土地に大勢の欲に目がくらんだ人達が作った町だった。
アメリカ人はオーストラリアを笑えない。オーストラリアは昔、犯罪者の島流しの地で、今でも、住民はその制度以後、ここに移住したと言うことを常としているくらい、オーストラリア人であることを、後ろめたいと思っている。
ところで、それから、哀れなヨハンはどうしたか?勿論、もう法治国家だったから、裁判に訴えた。自分の土地を不法占拠している二万人!!に近い人々の退去、カリフォルニア州政府に対する賠償請求、これはどこまでも正論で、裁判ではすべて勝った。ところが、ここからが信じられない。この不法占拠しているならず者が暴動を起こし、なんと裁判所を襲い、裁判官をリンチにかけようとした。おまけに、彼の全財産を略奪しようと企て、全てを奪い去った。 それが原因で子達はピストル自殺をし、ヨハン・ズーターもついに狂ってしまったと言われている。
自分にとっての自由は、相手にとっての不自由だと言うことをアメリカはいまだに理解できないでいる。
2001年10月22日(月) |
やっぱり変だよ!北条時宗 |
NHKの北条時宗が、低視聴率だそうだ。共立女子大学教授の木村治美 (きむら・はるみ)さんは、『北条時宗』において、蒙古襲来を前にして時宗が恐れおののき、「この首をフビライ殿に差し上げてもよい。それでこの国が救われるのなら」という台詞をとらえて、「鎌倉武士がそんな軟弱な発想をするだろうか」と疑問を投げかけ、独協大学教授の中村粲(なかむら・あきら)さんは、「対馬.壼岐の島民に対する元・高麗兵の残虐行為は史上余りにも有名だ。 男は皆殺し。女は虜として手の平に穴を穿つて索を通し、素裸で舷側に結びつけ、好む時、ほしいまま好む儘に船上にて凌辱強姦を恣にしつつ博多へ侵逮したのだ。この残暴は史料にも記され、博多の元寇史料館所蔵、矢田一輔画「対馬の暴虐」の生々しく画くところでもある。この言語に絶する猟奇的蛮行もNHKドラマでは「むごき戦ひでございました」の一言で片付ける」と書いている。
このことを知った上で、木村教授の指摘している台詞を北条時宗ははけるのだろうか?
最初、この時代をテレビドラマにするのはめずらしく思えて、(それにちょっとファンの女優?N・Hも出演すると聞いて)最初から見ようと決心し、期待してそうして、二回目だったかでやめてしまった。理由は大根の集まりと悟ったから、といっても、評論家や、上の教授達の言う、筋の通った言い分ではなくて、あまりな演技にびっくりして嫌気がさして以後、二度と見ていない。
どう言うことかというと、時頼の正室で時宗の母、涼子役の浅野温子(あさの あつこ)のひどい演技のせいである。台詞回しとかそういう事ではなくて、場面は、涼子が、何かの報にあわてた様子で、L字の廊下をこちらに急ぎ足でくるシーンで、愛想つきた。歩き方が西洋歩きそのもので、つま先をあげ、かかとから着地しながら急ぎ足の演技をする(ハイヒールであれば、靴音高く、カッカッと高らかに響くところだ)、どたばたとこちらに向かってくる。
幾重もの着物を着ているのに、足の踵部分までがはっきり見える、この場合はどんなに急いでも、すり足でしょうが!! 心は急いでいる、が、足指の前の部分に体重を移し、すり足で急ぐのが、見ているこちらにも緊迫感を与えるのに、このトレンディドラマで名を売った女優はそんなことお構いなしで演技した。
演技指導の人も何も言わないのだろうか?気がつかないのかもしれない。いくら着物がちゃんと着られても、立ち居振る舞いがおかしかったら、もう着物を着た現代劇だ。「じゃぁないですか」言葉、半疑問言葉、症候群もおりまぜて使ったらいっそ完璧なのに。
という理由から一切見なくなってしばらく、上の両教授の指摘に、「やーっぱり!」と思わず膝を打ったのだった。
それと、主人公を演じる和泉元彌の本職、狂言は面白くない。台詞が口中に含みすぎて聞いていて違和感がある。それに、狂言は本来、関西弁でっせ! この人は、その端正な容姿から俳優さんにむいていると思う。前に、なんかの番組で、小栗上野介(日本最初の株式会社「兵庫商社」の設立、諸色会所「商工会議所の前身」の設立、中央銀行の設立計画 、ガス灯設置と建議、鉄道建設(江戸〜横浜間)の建議などの功労者)を演じたとき思った。
和泉流は家元(父親)を若くして失ったので、和泉元彌は、もう誰からも和泉流狂言を教わる事が出来なくなってしまった。今はもうない白鷺流などと同じように消えていく運命にあるのだろうか。
ニューヨークにテロがある数日前に、ブルーノート(ニューヨークのジャズの老舗)で、日本人ジャズシンガー小林桂のライブがあった。夜更け見るとはなくBSを見ていたら、そのライブを流していた。でぇ嫌いな筑紫哲也のニュース番組のテーマ音楽に、ハウ・ハイ・ザ・ムーンが使われている。が、「ヘン!」てなもんで、歯牙にもかけなかった。久米宏のニュース番組と同じく、坊主にくけりゃ、今朝までじぁなかった、袈裟まで憎い?の習いで、テーマ音楽になったところでどうでもよかった。だから、前から小林桂が、スゥイングジャーナル紙で、男性ボーカル第一位になったとかの噂は聞いていたけれど、あんまり興味はなかった。 そこに、まったく偶然に先の番組を見た。 「とてもよろしい(少し貧弱な容姿はさておき)!」観客も少人数だが聞き入っていた。 小林の声は、メルトーメの初期の声が気に入っている者としては、まだ適度に荒れていず、(史上最年少でブルーノートに出演したらしいから、無理もないが)もの足りない。が、通して歌っている小林桂には、何か知らないけれどムードがある。
日本人の男のジャズ(シャンソンも)歌手にはいいのがいないのだ。女の歌手は結構いる、ようするに「大人」があんまり見あたらないのだ。 スキーの萩原選手にどこか似ていて、思わず笑ってしまうけれど、まだ二十代というのが良い。これが40代くらいになって円熟味を増すと、どうなるのだろう? 「ミスティ」は確か二十年前くらいに同じ題で、ヘレンメリルが出していて、当時、毎日のように、制作の時にかけて聞いてた。 小林のジャズは、爺ちゃんの代から三代目だそうで、爺ちゃん、デューク・エリントンを愛して、ジャズを演奏していたらしい。 それと、小林桂をさらによくしているのは、日本人バックバンドだ。ピアノの石井彰が良い。流れるように軽快なアドリブ演奏、とてもセンスがいい。 安カ川大樹のウッドベースなんかもう、正統?ジャズの王道だ。ちょっとダンディなトランペッター松島啓之の押さえた演奏、ドラムのバックに徹した小島勉みんな質がいい。ううむ…!ついに、ジャズCD、10年ぶりに買う…か!
2001年10月16日(火) |
テロリスト、米国攻撃の種本 |
「レッドオクトーバーを追え」やゲームのレインボーシックスで有名な、トムクランシーという作家がいる。多作で国家をいじって作品にしたりするのが得意で、この人の作品の一つに、「日米開戦」というのがあって、その内容がまさに今回の米国攻撃と同じ方法、本では日本人が、旅客機を乗っ取ってアメリカの重要施設に突っ込み日米開戦が勃発するというストーリーだ。
多分、テロリスト首謀者はトムクランシーの愛読者だ。この他にも「ノドン強奪」だとか、「ソ連再建」だとか物騒がせな著書が沢山ある。テロリストの格好の勉教本だ。そういえば、真珠湾攻撃を日本がする何年か前にすでに、米国で真珠湾を攻撃するストーリーの本が出ていたらしい。 これを日本人が読んでいたとしたら……。
かといって作家に圧力をかけてもどうしようもないし困ったもんだ。
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寺が西向きに傾き、ここに住む寺の貫主より偉い、むささび・もりあおがえる達のため?に、普請し直すということで、慈善音楽会が開かれた。 演目はテレマン・バッハ・パガニーニ他、出演者10数名にもおよんだ。
先の盛夏の昼下がり、本尊の前で読経会をした同じ場所で行われた。本尊の前にはなぜか文机、別名二月堂が縦に五枚立てかけ並べられて、塀のように後ろの仏さんを遮っている。二月堂は黒漆に朱の漆で縁取りされていて、我が家でも、家の者だけの時は一つ、人が四人くらいの時は二つつなげて真四角の食卓に、それ以上だと三枚つなげて使うとまことに便利で、もう随分ながいこと愛用している。 風呂敷と一緒でこれは図抜けた便利ものなんである。風呂敷は一升瓶二つ簡単に包めてさげられる。そこで、同じものを入れる鞄を用意してごらん!どうだ、そう簡単には一升瓶二本入る鞄なんぞないだろう? 入ったとして用済みの後、その鞄は依然としてでかい鞄をやめないが、風呂敷はポケットにはいってしまう。二月堂の机もこれとおなじなのだ。
ところで、仏さんを遮る文机五枚は何だろう……。 バッハの無伴奏チェロ組曲は、やっぱり、カザルスのがいいなぁと思いながら、この禅問答?(法然は浄土宗)が解けた!二月堂が五枚で十月堂!そうか、今月は十月だった!(ほんまかいな)
フルート奏者は三人いたが、ブラジル風バッハを演奏した、フルートの中川佳子がすごかった。あのフルートはすごい!ちょっとびっくりのテクニックだった。 コオロギが鳴く秋の夜半、音楽会は最終曲に突入、ここでがらりとなぜかボサノバタイムに変わり、全員が出てきて、ご本尊の前で大ばちあたり大会となった。なんかすごい景色だった。百数十人の聴衆は絶句していたようにも感じられた。 が、これが日本人の柔軟性かも知れない。これがなかったら、その昔、神道・仏教相容れず、宗教戦争とあいなったかも知れない。けれど、本地垂迹説(仏神同根)なんかを発明して日本人はうまくやってきた。イスラム原理主義の前でこれやったら、まず、偶像破壊で仏像は爆破、分けのわからん音楽を流す奴は、広場で射殺。よかった、日本に生まれて。 それにしても、寺にはバロックがあう。ここに眠る谷崎潤一郎の墓碑銘は「寂」とあるけれど、さぞかし今夜は草葉の陰でうかれていたにちがいない。オッペケぺ節で有名な川上音二郎もここに眠っているが、案外ボサノバとオッペケペッポペッポッポはあうかもしれない、
音二郎の傑作風刺を一つ、「権利幸福嫌いな人に、自由湯(じゆうとう)をば飲ませたい、 オッペケペッポペッポッポ〜♪」
孤独・孤独と言うけれど、どれほど実際に孤独感を味わった人がいるだろうか?二日前の朝、最近伴侶を亡くした友人が突然電話をかけてきて、京都にきているという。午後会うことにした。イノダで落ち合い、近くの懐石料理屋で昼飯を共にしながら話した。場所を変え、馴染みのビストロで、延々、閉店まで話し続けた。 友はひたすら寂しくて寂しくて、そして孤独なのだ。面白おかしく喋っても、目が時々遠い所を見ている。子供はもう大きくて大学に行っているが、そんな子供達のことは何ら今の心持ちとは関係なく、早くあの世から迎えに来てくれるとよいとも言った。話を聞くことで、少しでも慰めになってくれたらそれでいいし、それしかできない。共に笑い共に泣くことしか他人にはできない。
昔、十七八の頃、孤独とはどんなものか、度胸を試しに、ツェルト(簡易テント)と食料を持ち、四国の奥深い山にたった一人で入った事がある。その後何回も単独行は経験したけれど、最初の山行きで、恐ろしく世間と超絶した自分を意識した時の恐怖は一生忘れられない。
霧雨煙る土曜日の午後、田舎に向かうバスからして客はたった一人きり、夕刻終点について林道をとぼとぼ歩く、真っ暗でヘッドランプの明かりを頼りにひたすら山道をのぼった、いい加減登ったあたりで、雑木林の中に、適当な広さの所を見つけ、足で踏みつけて空間を作り、ツェルトを出し潜り込んだ。シュラフ(寝袋)に腰半分入り、簡単な食事をとるまでは何ともなかった。が、それから、おおよそ耐え難い孤独感が襲ってきた。 なにしろ生まれて初めて、少なくとも周囲3kmには多分人は誰もいない。この孤独感は経験してみないと絶対わからない。
最近は、エベレストや南・北極冒険がたいそうに言われているけれど、あれはもう孤独感はないだろう。いつも衛星で自分と家族または協力者達と電話でつながっている。だからもう一人ではない。ちゃんと社会とつながっている。
それで、その夜は、もう風の音、山に住む動物の鳴き声などがとても不気味で、とにかく夜が明けたら帰ろうと弱気な事ばかり考えていた。初冬のせいもあり、その寂寥感は耐え難いものだった。簡単に言うとしたら、真っ暗闇にポツンと自分がいて上も下も右も左もだーれもいない宙ぶらりんを思ってくれればいい。そんな感じが近い。とにかく恐怖でどうしようもなかった。それは幽霊がでる恐怖とは違うものだ。
社会から完全に関係が切れて宙ぶらりんの状態の事をアノミーというらしいのだけれど、それに近いものだろう。 これだと、都会、山の中、関係ない。長年連れ添った仲の良い伴侶をなくした友はこの状態に多分近く、関係を求めて京都にやってきたのだろう。それでようやく自分を確認しているのだと思う。 ただ救いは、山中であれほど恐怖を味わって一晩過ごした森に、朝日が一条射し込むのを見た瞬間、不思議な何とも言えない勇気と希望が湧いてきて、昨晩の弱気があっというまにどこかに吹き飛んだ事を覚えている。 光は希望と勇気を与えるというのが、宗教みたいだけれど本当に実感した事だった。
このところ、知人が立続けに亡くなって、誰かが何かに書いていた「もうそういう年になった」事を実感として感じている。 昨年、一昨年は友人の親達の訃報がけっこうあり、年賀辞退の知らせが来たりしていた。所が、今年つい何ヶ月かの間に立続けに4人の知人が逝ってしまった。うち二人は親子で、亡くなった父親の後を追うように亡くなった。人は死ぬ時は実にあっさり死ぬ。ここ十年で、友人知人を亡くした数を数えてみると、自殺が3人、事故が2人、病気その他で実に7人。計12人がこの世からいなくなっている。これは世間的にみてどのくらいの数字なんだろうか。数を改めて意識すると戦慄した。 それでも生者は生きていかなければならない。今日は一日無常感が体を包んでいた。 庭の金木犀が強烈ににおっていた。
京都の町屋を見直そうと、建築家の卵の学生達に案を募集して、その中の優秀なものを実際に現役の建築家が協力し、京都のど真ん中に町屋を建てることが決まったようだ。 大学では木造建築や、日本の尺、間などは教えない(音楽も、某有名日本人ソプラノ歌手が言っているように、ピアノ・リコーダーを教えても琴、笛は教えないし、音楽室に掛かっている肖像画は、ほとんど全部外国人の音楽家で、浪速のモーツアルトはかかっていない??)。 大工は出る幕なく、建築家ばかりが排出されるようになっている。日本人は昔からあった日本の単位をすてて、外国の単位を取り入れた。世界基準だという事だった。が、よく見てみると、未だポンド・ヤード・マイルは現役だ。アメリカなんかいまだcmではなくインチを使っている。
昔からマンションに、テッコンキンクリートにはどんなに落ちぶれても住まないと言う固い決心の下、暮らしてきた。だから今も、猫の額ほどの庭付きアルミサッシュがない借家に住んでいる。マンションより遙かに安く快適だ。 今回上の京都の町屋が、新しく作られる事が我が事のようにうれしい。三軒長屋共同のろうじ、井戸端会議の場所がある、うなぎの寝床の細長い玄関がある。最奥には坪庭がある。いいなぁ!
申し込みはほぼ一杯だそうだ。買うことを決めた老夫婦は老後は、こういう環境で、縁側でビールを飲んだり、妻が入れてくれたお茶で和んだりするのが夢でしたと言っていた。 大学の建築科に木を使った住宅を造りたいという、学生は結構多いそうだが、何を血迷っているのか、教えないのだ。ベッドで寝て、畳を棄て、洋風の生活を良しと教え込んだのは誰だろう。 かといって、ぺらぺらの合板で家を建てるのは反対だ。年月が経てば確実にジャンクになる。いい素材で破産しそうになるくらいの予算で建ててもらう。いっそ予算なんて大工に、棟梁にまかせてしまう。 そうすると確実に後世に残るし、また高く売れる物ができる。
まぁ、建築家になる人達は大半田舎者上がりで、無いものに憧れてきた。京都にも“鷹末浸(仮名)”なんていう、あと2.30年したら確実にジャンク扱いの建築物を作る建築家(本人の事務所はなんと京町屋なのだ!)が、幅を利かせているけれど、上のような動きが出てきてようやく日本人も目覚めて来たようなのだ。本当に嬉しい。 作品としては面白い、暗頭只男(仮名)の設計した町屋(コンクリート打ちぱなし)の狭い部屋に、ホーム炬燵を置いて婆ちゃんが入っているその背中は、冷え冷えした灰色の、背中から冷えて年寄りには辛いだろうコンクリートだった。テレビで放映していた。
おまけに雨が降ったらトイレには傘を差して!!一階の空間(庭ではない)を横切らねばならないのだ。 何でも合理的なのは良くないという発想だそうで、ここの若い息子は建築家のファンだそうだった。今、その家族はここを売り払ってどこかに引っ越したらしい。そうだろう、住めへんで!オブジェには。
北山通り、植物園裏側のちょっと入った所に「甚六(じんろく)」という蕎麦屋がある。知る人ぞ知る蕎麦屋で、その精進の仕方はもう並ではない。 自分でも蕎麦を打つので、そこらの蕎麦屋なんてちゃんちゃらおかしいのだけど、ここの蕎麦屋にはかなわない。 まず、そう常連でもないのに、話が蕎麦のことで馬があったと思ったら、これも食えこれも食えと出してくる。曰く、これは徳島の祖谷の蕎麦を挽いたもの、今日店で出しているのは茨城産もの、これも食ってくれと、今度は福井産のそば粉で、蕎麦がきにして持ってくる。 こっちの注文はざる一枚にも関わらずである。昼の間、数時間しかあいていなくて、夜はやっていない。これでは儲からんと思って、昼からビールを頼み、なんとかその分儲けて欲しいと思うのだけど、ビールを頼んだら頼んだで、また別に茎わさびやなにかの突き出しを出してくれる。 昨日も深夜バスで茨城まで蕎麦を見に行き、その日にまた深夜バスで戻ってきて仕事していると言う。 普通商売をながくやっていると惰性に傾くと思うのだけれど、ここの主人の蕎麦に対する情熱は並ではない。 この店の存在は、案内や宣伝雑誌にもほとんど出ていないから、思いついて行ってもちょっと分からない。たまに行っても、客はそこそこ入っているので、うどん食いの関西で宣伝もせずに大健闘だと思う。
味のわかるお客さんの口コミで来るのだろう。一度など、居合わせた神戸から来たご夫婦が、書かれた雑誌の地図がまちがっていて非道い目にあったと怒っていた。地図に載せた側もあんまり知らなかったんだろう。結構名のある案内の本であったにもかかわらずそうである。 初めてここの蕎麦を食べるお客さんは、その、蕎麦つゆの少なさにまず仰天することになる。蕎麦ちょこにほんまにちょこ、としか入っていないのだ。蕎麦猪口のそこの方に8mm位、本当にそれきり入っていない。 が、ここからが不思議なとこ。それで大丈夫なんだほんとに! きどって蕎麦の先だけをつけて食うというレベルではなくて、本当に“辛つゆ”なので、ざぶとつけて食うものではないことがわかる。京都の蕎麦屋のつゆは全体に甘口だが、ここのは蕎麦のことを考えて作ってある。 そばを打ってみて初めて分かるのだが、蕎麦の香りは打っている時が一番する。湯がきあがってきたものを嗅げと言う蕎麦屋があるが、ほとんど意味がない。わずかなつゆにつけて口に運ぶとほんのりと蕎麦は香る。 このわずかなつゆで最後にそば湯を作って飲むが、いいドイツワインを飲んだ後と同じく、その日の厠は蕎麦の香りで満ちる。蕎麦粉100%の強烈さを重い汁?。
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