人に頭を下げるのが苦手なわたしですが、同じくらい、頭を下げられるのが苦手です。苦手というか、なるべく避けたい。先生とか呼ばれるのも嫌い。
いやそれが、同じジャンルの勉強をしている人や、ファンの人から呼ばれるんならいいんです。でも、全然ゆかりのないジャンルの人や、わたしの本を読んでいないような人、児童書に興味のない人から、頭を下げられてしまうのはいやだなあ。 たとえ、相手が善意で尊敬してくれても、身の置き場がなくて困ってしまいます。おつきあいで頭を下げられるのは、当然のこと、もっといやです。
作家なんて、その人のファン以外の人からは、まるで価値のない存在なのです。偉くも何ともないのです。だからって、馬鹿にされたら腹が立ちますが、あまりにも、先生扱いされるのも…。でも、児童文学作家をやって七年も経つと、イベントなどで、そういう場面にたたされることも多いのであります。
そういうわけで、わたしは、講演会の仕事が来ても、断れる限りはすべて断っているのですが、明日は久しぶりに人前で話をします。 卒業した高校が、明日、創立百二十一年目の創立記念日を迎えるのですが、その場でお話をすることになりまして、いくらなんでも、母校からのお招きでは、わたしでも断れないのでした。おいしいお弁当も出るらしいので…ははは。
今日は、明日話すための短い原稿を書いていたのですが、ちょっと、「風の丘通信」のことでも話そうかなと思いました。もっとも、創立記念日でのお話なのですから、学校のことや教育理念などにも、ふれなければいけません。なんとか結びついたものがかけたので、今はほっとしています。 高校生たちに喜んでもらえる話になるかどうかはわかりませんが、心をこめて、話してきたいと思っています。
…あとは、先生と呼ばれるたびにひきつる顔の表情を、どうやってごまかすかという知恵を考えなければ。
これは便利だなあ、と、しみじみかみしめています。 というのは、パソコンに来るメールを、携帯電話に転送するように設定したのです。 するとなにがいいかというと、いつでもメールの着信がわかる。 携帯電話は、メール着信音を鳴らしてくれるからです。
うちのプロバイダは、ODNですが、メール転送の設定で、コピーをプロバイダに残す設定にすると、電話にメールを転送したあとも、同じメールが残るから、あとでパソコンで受信し直して、保存することができるのです。 もっとも、F209iは、250文字しか受信できないので、メールは途中で切れてしまうし、添付ファイルは当然うけとれませんが、それでも便利です。 急ぎのメールがきても、すぐにわかるから。
出版社で、メールで連絡を取ってくるところは、自分たちは一日パソコンの電源をいれていますから、相手もすぐにメールを読むものだと思って、急ぎの時でもメールを送ってくるのですね。 でもわたしは、仕事はワープロ専用機でやっていますから、当然のように、仕事中はパソコンの電源をいれていません。 するとどうなるか。 「あの…メール、送ったんですけど、みてくださいましたか?」 という、困った声の電話がかかってきて、それからあわててパソコンを立ち上げ、 今更のようにメールチェック、ということになります。
これがね。けっこう、気になっていたんですよ。悪いなあと。 で、反対に、急ぎのメールを待っているときは、こちらは何度も、パソコンでメール受信をしなくてはなりませんから、めんどうです。待つのもつらいし。
そこで、携帯電話。 いつでも、メール受信を知らせてくれる、お利口なF209i。 わたしはこのためだけに、こいつを買ってよかったと思いました。
それにしても、と、感慨に耽ります。 わたしが作家としてはじめて本を出した七年前。 あのころわたしは、コクヨの原稿用紙に手書きで童話を書いていました。 今は、メールに添付で、編集部に原稿を送ります。 こんな未来が来るなんて、夢にも思わなかったなあ。 この日記の、これから先に、わたしはどんな未来を綴るのでしょうか? わたしは基本的に楽観的な人間なので、明るい未来しか想像しませんが、 その未来の日記を書く自分が、そのときどういう機械を使って仕事をしているのか、そのことの想像だけは、つかないような気がします。 (猫型の執事ロボットとか、そばに寝てたらかわいいとか思いますが。 「お仕事のしすぎです。お茶の時間にしませんか?」とか、 赤いリボンの蝶ネクタイをつけた黒猫ロボットがいってくれたら、かわいいなあv)。
このことの感慨については、エッセイのコーナー「雑感」に書いたので、もうこれ以上書くこともないなあとも思うのですが、もう一言だけ。
若いころは、「わたしは人間なんか嫌いだ」とか、「ひとりでも生きていけるんだ」とか、思ったり、そんなふうに生きていきたいと思った時期もありました。
でも、今のわたしは、人間が好きだし、できればたくさん友達がほしい。 優しい言葉をかけあったり、励まし合ったり、なぐさめ合ったりしたい。 そういう自分であることを、認めた方が楽だなあと思っています。 だから、うちの掲示板が、今現在、そういう場になっているということが、 とてもうれしいです。レスを書くのは大変だし、テレホタイムには混雑するし、人が来すぎて、掲示板は吹っ飛びますが、でも、にぎわってよかったです。
あ、今夜は何だか、眠くてどうも、上手くかけないけど。 とにかく、掲示板の常連のみなさま、ありがとうございました。 これからもよろしくお願いいたします。
2000年11月27日(月) |
新庄節美著「魔界病院の怪物」(小峰書店刊) |
読書日記その1(やれうれしや☆)
産経新聞の子どもの本欄の書評の関係で、送られてきた本です。 いつもあそこの書評はたのまれるとき、「この本とこの本とこの本がありますけど、どれがいいですか?」というふうに、記者のTさんから電話で希望を聞かれて、こちらが選書できるようになっています(一方で、わたしの方から、この本を書かせて欲しい、と、もちこむこともあります)。
今回は、もう一冊、評論社さんの新刊も候補に挙がっていたのですが、分厚いらしいということと、ドイツのファンタジー(何となく、わたしは苦手^^;)だということで、降りてしまいました。降りたといっても、わたしが書かないというだけで、ほかの、もっと立派な方が書くことになるかもしれないわけですから、むしろわたしが降りて本にとってはよかったかも。 一方、新庄さんの本は前から興味があったので、送ってもらったわけです。
さて。「魔界病院の怪物」ですが、「なぜか怪奇現象が多い町」が舞台の、子ども向け「Xファイル」のような娯楽冒険物語で、これがシリーズ第二巻。ただし、「X」と違って、怪談はないし、今後も登場しない予定らしい。 つまり、「怪しげな事件」が起きるが、「おちはSF」という話なのです。 子ども向け怪奇SF小説なわけですね。そのあたり、D.R.クーンツから、宗教とホラーを抜いた感じとでもいいましょうか? アクションシーンと謎解きのあたりが、とっても、モダンホラーな感じがします。 でも、思想は子ども向けに健全なんですね。これは、子ども向けだからと意識したというより、作者さんの性格がにじみ出ているんだと思います。
で、評価としては、おもしろかったです(だから、書評も書きました。つまらないときは、書かないもん。12月中旬ごろの産経新聞に載る予定です)。 不吉な赤い流れ星が落ちた日から始まった、怪物の出現騒ぎ。街をうろつく、あやしげな青い帽子をかぶった男たち。はたして街になにが起こっているのか? 真実を突き止めるために、廃屋と化した病院に忍び込む主人公の少年少女。そして出会った怪物の持つ、悲しい過去とは? みたいな話です。
気になった点ももちろんあります。伏線の張り方がフェアじゃないんじゃないかとか(このてん今日担当さんにきいたら、オチがばれそうなので、あとで削ったとか。うーむ。難しいところですね)。主人公三人の性格設定が、ちょっとステレオタイプなんじゃないかとか。なにより気になったのは、前半、間違った推理を主人公たちが延々と繰り広げていくくだりが、とにかく長い…。長すぎる。
でも、鉄条網でおおわれ、錆びたシャッターで閉ざされた病院に忍び込むあたりから、話は俄然盛り上がり、怪物の正体が分かったあとからはもう、本から目が離せなくなるので、子どもたちにはなんとか最後まで読んで欲しいですね。読後感が、とってもいいし。中学年以上の子から、お薦めの本です。 (余談ですが、わたしの書くものといろんな意味で傾向がにているので、村山早紀の本が好きな子は、この本とも相性がいいと思います(^^))。
今夜は、家族でイタリアのごはんなど、食しにいきました。 海辺のレストランで、大きな窓から見える夜景も美しく、料理もおいしく、いうこと無かったのですが、おもしろかったのが、生後一年四ヶ月になる、姪っ子です。
一緒には暮らしていないということもあって、楽しく彼女の成長の話など聞いていたのですが、このごろ彼女は、何かやましいことがあると、「ものをくれる」そうです。 たとえば、紙を破ってしまった、ものを落とした、などの彼女なりにやばそうな行為をしてしまうと、「はい」と、両親にものを渡すというのです。
それはたぶん、彼女なりの「とりつくろい」というか、「おわび」というか、そんなものなのだろうとわたしは思ったわけです。 愛情表現のためのコミュニケーションとして、ものを渡している。 なぜって、乳幼児は相手にものを渡すのが、愛情表現だと思っているからです。
うう。今夜はひざの上の猫をなでながらなので、右手でしかキーが打てなくてつらい。
ええっと。赤ちゃんは、与えられるそんざいなわけです。 まだ自我もなにも育っていない状態から、与えられ続けて育てられる。 すると、いつか、愛情とは、相手に何かを与える行為であると、おぼえる。
最初は、それは、母乳であり、おもちゃであり、離乳食ですよね。 物質です。 で、赤ちゃんは、成長するにつれ、今度は親に、ものを持ってくるようになります。愛情表現として。
でも、大人の人間は、愛情表現は、物質だけじゃないと知っていますよね。 精神的な言葉のやりとりだけで、愛情が表現できるのだと知るようになるし、表現もする。 いつのまに、それがわかるんだろうと、不思議に思いました。
いつ、赤ちゃんは、人間に成長するのでしょう?
二千円札を、ついに手にしてしまいました…。 なにを今頃、とかいわないでください。わたしははじめてみたんです。
ダイエーの前に出ていた、バッグのワゴンセールのようなのをなにげにのぞいていたら、昔懐かしいような小物入れがあったので(がま口みたいなぱっくんとひらく口金がついた小物いれ。蓋の裏側には鏡がついているという優れもので、おそらく化粧品入れだろうと思われる)、買ったら、お釣りが二千円札でした。
お札を差し出すとき、お店のおばさんが、なぜだか申し訳なさそうに、 「あの、お釣り、これでもよかですか?」というので、なにかしらんと思いながら、そのてを見ると、妙に色のついたお札が一枚…。 「あっ、二千円札だ!」 わたしは思わず叫んでしまいましたよ。 本当にはじめてみたんですもの。「これでいいです、ぜひください!」
おばさんは、にこにこ笑顔で、いいました。 「二千円札、めったにでんとけど、今日久しぶりにでたとよ」 「そうですか? めったにみませんものね」 「お客さん、でもそのお金ね、使うと間違えるけん、つかわん方がよかよ。 財布に入れるときも、ほかのお金と別にしたほうがよか。 わたしなんか、つかわんで、うちに飾っとるもんねえ」 「はい。わたしもうちにかざります♪ だって、こんなめずらしいもの、つかったら、次はいつお目にかかれるかわからないし」
…二千円札って、景気浮揚のためにだされた新札じゃなかったでしたっけ? それがこんな、珍獣みたいな扱いを受けていていいものなのかどうか。 とにかく、日本中のお店の、店員さんとお客さんのあいだで、こういう会話が繰り広げられているんだろうな、と、ちょっと苦笑してしまいました。
で。手に入れた(?)二千円札についての感想ですが。 まず思うのは、色彩的にはきれいだということですか。最初見たとき、思わず、「まあ、きれい」と、いってしまいましたし。 大きさは千円札。雰囲気は五千円札や一万円札ににています。 いくら色目が違っても、たしかにまちがえてしまいそう。
やっぱり、お財布にはいれないだろうな…。
わたしは、人に頭を下げるのが、嫌いです。
といっても、自分よりキャリアがある人や、人格者な人には、すすんで頭を下げ、しっぽもふってついていきますが、仕事のしがらみとかで、尊敬できないような人に頭を下げなくてはならないとか、そういうのはごめん被りたいです。 で、それで自分が損しても、仕方がないと思う。そういう覚悟はできてます。 だって、短い人生、自分が好きになれない人と無理してつきあったって、時間を損するだけだと思うから。時間を損するくらいなら、相手から嫌われた方がまだましですね。それも自分の興味のない人なら、別に好かれなくてもいいので。 たとえそれが、どんなに「偉い」人でもね。
むしろ、表向きは笑顔で、頭を下げておきながら、裏で悪口を言ったりする人間関係なんていうのは、絶対いやですね。 なるべくなら、そういうことなしで生きていきたいので、今の仕事は天職だと思っています。わたしだって、会社勤めしていたら、こんなことはいえないでしょう。作家業はいいなあ。もうからないけど、自分が王様。
けっこう、仕事の原動力って、こんなところにもあるのかもと思ったり。 わたしは人に頭を下げないために、小説を書いているのです。
HP更新の準備をしつつ、今日も引き続き、おニューの(死語か?)、iモードと遊びました。ストラップに、トルマリンのブレスレットをくっつけてみたりとか、外部をいじっていました。一種のマーキングかもしれない、などと思います。 着信音や、待ち受け画像も、どこぞからダウンロードしてきて、オリジナルなものに変えたいと思うのですが、まだいまいち、どこのサイトになにがあるやらわからずに、元から入っている、猫のぺるこ(名付け可能なんですな)がやたらと踊るのを見ています。 209iには、「きゃらいふ」という「どこでもいっしょ」みたいな、成長するキャラクターが電話の中にすんでいる、という趣向があるのです。
虎猫ぺるこは、よほど自分がアニメで動くのが自慢なのか、電源をいれては踊り、メールが来たといってははしゃぎ、メールを運ぶといっては走ります。そして、踊りながら、メールに対するコメントを述べます。 最初はかわいいなあとか思っていたのですが、あまりにもめまぐるしいので、だんだんつきあいきれなくなってきて、きゃらいふの設定を何度かオフにしました。が、そのとき現れるアニメーションの、あふれる涙を流しながら、名残惜しそうにさっていくぺるこ、という画像に耐えられず、結局は、また「きゃらいふ」オンにしてしまうのでした…。
ぺるこ、急いでメールを送っているときに、メールに注釈をつけるのはやめてほしいの。「さきは、Nさん(注ポプラ社の担当さん)となかよしなのね。わたしも今度紹介してほしいなあv」「いまどきめずらしいんじゃない? 弟となかよしなのね」なかよしなかよしって、もう…。ううう。 明日もまた、ぺることいっしょの毎日が始まります。
「シェーラひめのぼうけん8・闇色の竜」が、今月中旬あたりから、全国の書店さんで、好評(たぶん)発売中です。内容については、HPのほうで、書いていますので、ここでは詳しくふれませんが、今回の悪役、黒い竜の人の話です。 解説を書いてくれた、作家にして科学者の夏緑さんが、「彼はわたし(夏さん)ににている」といっていたけれど、あのキャラクターは、私自身が投影されてもいるのです。実はかなり意識して書きました。
努力をしない(ようにみえる)人間は嫌いで、自分の弱さに甘える人間が嫌い。上昇志向のない人間はだめだなあ、とか思ってしまう…。 こうかくと、かなりいやな人間ですが、実際そうなんです。「わたしはなになにできないの」という相談を受けると、「あなたの努力が足りないからだ」と思ってしまうのです(だから、その手の相談はわたしにしない方があなたのためです(^^;)。
まあ、結局は、同族嫌悪なのだろうと思います。私自身が弱い人間で、しょうがないものだと恒に意識しているから、なんとかしなきゃいけないと日々努力しようとしてるから(少なくとも気持ちだけは…)、それで、天職の今の仕事も手に入れたし、人間関係もやっていっているので、だから、「本当の自分」を思わせるような愚痴や弱気に、腹がたつのだと思うのです。
でもやっぱり、そういう冷たい自分がいやでもあるので、これじゃいかんと、悪役にしてみました。どんなもんでしょう?
2000年11月21日(火) |
ついに日記がスタート |
日記を書くことにしてしまいました。 どうしてかといいますと、よそのサイトで日記を読んでると、おもしろいから、ひょっとして、かくのもおもしろいのかな、とか、思ったわけで。実験かも。
webで日記を書くことについては、わたしはあまり、気が進まなかった時期がありました。というのは、わたしは自分の生な感情を、そのまま、人目にさらすということを、あまり美的なこととは思わないからです(人がするのを見る分には、かまわないのですが。ピュアな感情の発露、ということで、好意的に受け取ることもあります)。結局、かっこ付けが激しいということなのでしょう。
でも、日々の覚え書きとか、読んだ本のこととか、チョコエッグでなにが出たとか、そういう細かなことをちょこちょこ書く場がほしくなってきたので、ついに、日記を書くことにしてしまいました…。
うちのHPには、「雑感」といって、ちゃんとエッセイのコーナーもあるんですが、そっちには、ちゃんとした文章を書きたいし、気がつくとあっちは、真面目なコーナーになってしまって、おばかなネタがかけなくなってしまって…。
そういうわけで、日記、スタートです。
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