いやならやめれば - 2006年05月23日(火) そう,確かにその通り. やめればいいと,自分でも思う. 分かってる,分かってるのだけれど なんでできないんだろう? 自分の心一つ,満足に扱えない. - 昔の遊び - 2006年05月20日(土) 懲りないな,と思う.自分でも呆れるくらい. 動かない心を無理矢理動かすのは,結局,自分で自分の首を絞めているだけのようなものなのに. 「動かしたい」のか「動くかどうか確かめたい」のか,その境界は曖昧で 「この辺までは大丈夫」だと確認しながら,そろり,そろりと足を踏み出している感じだ. こういう遊び,そういえば子供の頃にしたことがある. 鬼が壁の方を向きながら何か呪文のようなものを叫ぶ(多分それが遊びの名前). 鬼以外の子供はその鬼の背後からその鬼が壁を向いている間(つまり,呪文を叫んでいる間)だけ鬼に近寄っていく. 呪文を唱え終わった鬼は,パッと後ろを振り向く.鬼以外の子供はそこで動くのをやめないといけない.動いてしまうと,鬼につかまり,鬼と小指をつながなければならない. また,鬼が呪文を唱える.鬼以外の子供は,鬼に近付いて行く. やがて,誰か鬼につかまっているなら,鬼以外の子供はその鬼と捕虜のこの指をきって逃げる.鬼が振り向いて,「ストップ」と言うまで逃げる. もし誰もつかまっていなければ,鬼の背にタッチをして同じように逃げる. そっから,どうだったっけ? ストップをかけた鬼は,何かしらでストップしている子どもたちに近付いてタッチをする. タッチをされた子供が,次の鬼になる. 多分,そんな遊びだったと思う. ちょっとでも要領がいい子は,鬼が呪文を唱え終える前に立ち止まって楽な姿勢でいる. その遊びを楽しみたい子は,鬼が呪文を唱えている間,力一杯鬼に近付こうとするので,無理な姿勢で立ち止まり,捕虜になる可能性が高い. さて,私はどっちだろう. - コワイモノ - 2006年05月18日(木) 「人からどう思われようと,それが一体何なのでしょうか」 その文章を読んだとき,心の底から,人を信じられない人がいる,ということに愕然としました. そして,それを理解したとき,自分の中で血の気が引く感じがしました. 吐き気すら,覚えました. その人が何をそんなに怖がっているのか どうしてそんなに殻をかぶってしまうのか その人にとって「自分以外」はそんなに怖いものなのか そして,その人にとって,私も「怖い他人」なのだということを突きつけられた気がしました. 「人からどう思われてもいい」という言葉の裏には 「どうせ自分のことを分かってもらえることはない」という諦めと 「分かってもらえないことで傷つきたくない」という自己防衛が見え隠れして 何て弱くて,痛々しいのだろう そんなその人のことが,本当に本当に,可哀想で悲しい. そして同時に,私ではどうしようもない深い暗闇を突きつけられたようで,怖かった. あの人は,ずっとそうやっていくんだろうか. 知らず知らずのうちに,差し伸べられた手を握っているのに そのまま握り返せばすむことなのに すんでの所で手放してしまう それを繰り返していくのだろうか. 握り返すのに力はいらないのに 差し出された手はただ,差し出されただけで,その人を傷つけるものは何もないのに 何がそんなに怖いんだろう? そして,それに気付きながらも どうしようもできない私自身も,とても悲しい. - 洗濯物 - 2006年05月12日(金) 最近は,目覚ましがなくてもすっかり起きれるようになりました. 目が覚めるのは,だいたい6時くらい. そこからごろごろするときもあるし,シャワーを浴びるときもある. 今朝は,夕べ洗濯したまま寝てしまい,洗濯機の中に放りっぱなしになっていた洗濯物を干してきた. 今日くらい天気が良ければ,帰るころには洗濯物は乾いているだろう. - もしかすると - 2006年05月05日(金) 「あ,疲れている」と感じる瞬間. 昔はそれほどなかったはずなのに,そう感じる周期が,短くなってきている. どんなことにも,動揺しないように,揺れないように,沈まないように そのための防衛線をずっと貼りっぱなしだった数年間の副作用のようなものがでてきているのかもしれない. 感じなくなった心は,少しずつ,少しずつ解きほぐしていくしかないのだけれど. その術を今の私は持てない. もしかしると,そろそろ「旅に出なさい」って言われてるのかもしれない. -
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