西方見聞録...マルコ

 

 

セデック・バレ - 2013年05月25日(土)

 今私の人脈的に大変話題のセデック・バレを見てきた。


なんだかすごかった。


日本植民地下の台湾でおきた実在の「霧社事件」を主にセデックの視点から描く。主にセデックからの視点なんだけど、日本人の視点もわかるし、漢人の視点もなんとなくわかる、という仕組み。で、日本植民地政府とセデック族の世界観のぶつかり合いとそして命のぶつかり合いが描かれる。


ぶつかる両者の「間の人」花岡一郎と次郎(セデック出身の巡査)の造形が私には一番のキモだった。もうみなさん「日本とセデック族どっちのアイデンティティを選ぶか」という迫り方がなんかすごくて「死んだら神社に祭られるのか虹の橋を渡るのか」とか「葛藤を切り裂け、どちらでもない自由な魂になれ」とか、もう聞いてて、タイムマシンに乗って「複文化主義ってのがあって、あんたの中にいくつの文化があってもそれはいいのだ」、とかたりかけたくなるよ、もう。


しかし物語は激しく展開し、「間の人」はそれぞれに厳しい苦境に立たされる。


良きセデックの友であろうとした日本人巡査、小島の後半以降の立ち位置や、その後日譚での役割など、「間の人」が架け橋ではなく「苦境の人」や「破壊者」になってしまうような状況の悲劇がまざまざと描かれる。
友藩となったタイモ・ワリスたちはのちに靖国に祀られるのだが「靖国に祀られる」というその意味もセデック側から見ると戦慄の恐怖であることが実感を伴い理解できる。タイモ・ワリスと幼い息子の「なぜ戦うか」語りあう場面はタイモ・ワリスが戦う理由を納得する場面でもあり、タイモ・ワリスのその後を知る私たちには粟立つような悲しい場面にもなる。


そのほかにも主人公の壮年期の役の人は現職牧師さんだそうだが、ちゃんと現場復帰できたかとか、あの鳥の使い方はジョン・ウーへのリスペクトなのかとかビビアンスーはいつまでかわいいのかとか、いろいろとガーンとなりポイントの多い映画であった。


セデックの視点から見た日本による植民地支配と霧社事件、これを体験することで私たちは視点を彼と、我と、その間と、めまぐるしく動かして物ごとを見ることによって世界が立体的に立ち上がってくるのを体感する。敵か味方、親日か反日か、そんな動かない視座から世界を見ていては世界は平板でつまらない。「動け、そして現実を体感しろ」この映画はそう語りかけているように思った。





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