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ドイツW杯2006アジア地区予選プロフィール - ブルネイ - 2004年05月31日(月) ちょっとイロイロあって中断していた、W杯予選出場国 紹介by fifa.comの翻訳再開です。 てなわけで、アルファベット順にBのブルネイ。 ------- ■ブルネイ プロフィール - 試行錯誤中のブルネイ Brunei taking stock ブルネイ・ダルサラーム国は、一般にアジアの強豪や中堅とは みなされないが、近年ブルネイ代表チームは発展してきている。 大陸内の試合での経験を積んできたことにより、戦術及び テクニックは著しく発展を遂げた。 日韓2002W杯・アジア地区予選において、UAE、イエメン、 インドと同じグループに入ったブルネイだが、6戦全敗という結果に 終わった。 6試合で、0得点28失点という記録が残っているが、ブルネイ 守備陣の奮闘は、アウェイのイエメン戦で、そしてホームの インド戦で0-1の惜敗という結果を残し、賞賛されることと なった。 またアジアカップ2004の予選では、南アジア選手権準優勝 だったモルジブ相手に1-1で引き分け、注目を浴びた。 彼らは徐々に発展をしてきてはいるものの、ブルネイはFIFA ランキングでは下位のあたりから大きく動いてはいない。 ブルネイは、ドイツW杯予選に不参加を決定した。 ■ブルネイサッカー協会:
■一口メモ ブルネイ・ダラサームがW杯に参加したのは、86年メキシコ大会の 予選からである。しかしマカオ、香港、中国に対し、勝利はおろか 引き分けに持ち込むことも出来なかった。 16年後、ブルネイは再度W杯の予選に参加した。日韓W杯2002 予選においては、6戦全敗、0得点28失点となった。この28失点 には、ブルネイのホームゲームで、UAE相手に0-12で負けた 試合も含まれている。 なお、0-12は、ブルネイサッカー史上最悪の記録である。 プラス面に目を向けると、ブルネイはフィリピン相手に2度 2-0で勝利している。80年五輪予選と、89年のSEA GAMESでの出来事だ。 http://fifaworldcup.yahoo.com/06/en/t/team/profile.html?team=bru ------ ブルネイも国内リーグが出来て、バラ色じゃーい、とか 思っても、ところがどっこい、しょっちゅう代表チーム (あだ名は、WASP=蜂)の監督が交代しています。 たいていの理由が、監督と選手との確執です。 ブルネイはご存知の通り、代表チームがそのままマレーシア リーグ(2部)に出場しています。ですから、他の国より も定期的に結果もわかってしまうところが、ツライのかも しれません。 このへんは、本当はサッカー協会がしっかりしなければ いけないと思うのですが、サッカー協会の本名は、 Brunei Amateur Football Association (BAFA) てなわけでして、まだまだ協会側も甘いところがあるのかと 思います。 頑張るのだ、WASP! ... ハッピバースディ、ディア、AFC - アジア - 2004年05月26日(水) さて、今年はFIFAが生まれて100周年。 んでも、実はわがAFCが生まれて50周年、ちゅー記念すべき 年なのであります。 アジアカップでは、なにやらたくらんでいるらしいのは喜ばしいの でありますが・・・ 全然、日本のメディアは取り上げねーじゃねーか!! つーか、サカマガもサカダイも、表紙は全部モハメド・ビン・ ハマム氏にして祝うとか、そんくらいヤレや! (無茶言ってるな、俺) ちゅーわけで、実はAFCに関しての歴史とかは、あんまし 日本のメディアに載らないっぽいので、とりあえずAFC 50周年ページらしきものを翻訳してみました。 ---- ■興味深い事例 ●1910 欧州サッカーにおける初のアジア人選手は、フィリピン・イロイロ出身の (1896年生)Paulino Alcantaraである。彼はスペインへ移り、FC バロセロナでプレイした。彼はクラブ史上最高のゴールゲッターであり、 375試合中、374ゴールを決めている。 彼の「プロ」デビューは、1912年に8-2で勝利した試合であり、 3得点を決めている。スペインでは5回の優勝を経験し、フィリピン・ スペイン両国の代表選手としてもプレイした。 彼の最も記憶に残る活躍は、1922年4月30日に、ボルドーの Bouscat Stadiumで行われたフランス-スペイン戦であり、そこで ゴールを決めた時である。 ●1936 インド人選手、Mohammed Abdul Salimは、英国のクラブで初めて プレイしたアジア人選手である。セルティックでプレイした彼は、 その裸足でボールをさばくスキルに当時のメディアは驚き、 「新たなるスタイル-インドの魔術師」と報じた。 「インドからセルティックにやってきたサリムの黄金の足が、 パークヘッドの観衆に催眠術をかけた!彼は、足の親指の上に ボールを落とさずに乗せ、足の小指を使ってボールを落とす。 そしてそれを捻って頭上に上げ、DFを抜き去ったのだ。」 セルティックはこの年、スコットランド優勝カップを手にした。 ●1938 蘭印(後のインドネシア)が、アジアのチームとして初のW杯出場。 ●1945 Frank Soo、Sir Stanley Matthews、Neil Franklinは有名なトリオと して知られている。彼らはイングランド代表として、1945年2月3日、 ヴィラパークでスコットランドと対戦した。 Sooは英国人の母と中国人の父のもとに生まれ、今日までイングランド代表 に入った唯一のアジア人選手として記録されている。 彼は英国の1部リーグ、Stroke City, Leicester City, Luton Townと いったクラブでプレイし、後に監督として成功した。 彼の最終監督の経歴は、60年代初頭にイスラエル代表監督である。 ■AFC50年の歩み ●1954 ・今日あるAFCは5月8日、フィリピンのマニラで産声を上げた。 第2回アジア大会の会合で、アジアサッカー連盟は正式に組織される こととなった。 アフガニスタン、ビルマ、中華民国、香港、インド、インドネシア、日本、 韓国、パキスタン、フィリピン、シンガポール、ベトナム12カ国の各国 サッカー協会が合意し、栄えある初代会長には、Sir Man Kam- loh(香港) が選出された。 AFCの事務局は香港に置かれ、初代事務局長には、Lee Wai-thong氏が 就任となった。 ・AFCは、スイスのベルンで行われたFIFA総会において、1954年 6月21日、正式に承認され、FIFA理事会で議席を持つことも認めら れた。 ・韓国は、初のAFC代表のチームとしてスイスW杯に参加した。 韓国はチューリッヒで行われた初戦のハンガリー戦では9-0、 ジュネーブでの試合はトルコに7-0で敗れている。 ●1956 ・第1回アジアカップが香港で開催され、韓国が優勝した。 ●1957 ・当時のマレーシアの首相Tunku Abdul Rahman氏が、マレーシア独立の 記念行事としてムルデカ・カップを開催。この大会はまたたく間に、 アジアのサッカーイベントとして権威ある大会となり、アジア各国の トップレベルの代表チームが参加することとなった。 ●1961 ・英国の1部リーグBlackpool所属の香港人選手Cheung Chi-doyが、 11月25日の対Sheffield Wednesday戦で初ゴール。アジア人選手 として記念すべき日となった。 ●1964 ・選手以外のサッカー関係者も、世界大会に進出を開始。 東京オリンピックにおいて、シンガポール人のGreg D'Silvaは、 国際大会で笛を吹いた初のアジア人審判である。 ●1966 ・北朝鮮がイングランドW杯で、欧州の強豪、イタリアを1-0で破り、 サッカー界に名を残した。Pak Doo-ikの得点は、W杯において始めての アジア人選手による得点であった。 ●1967 ・AFCの影響はクラブサッカー界にも広がり、第1回アジアクラブ 選手権決勝大会がタイのバンコクで開催された。 ●1970 ・トーナメント大会で引き分けが起こった場合、PK戦で勝敗を決める という方式が世界的に導入され、チームの戦略に関して大きな影響を 与えることとなった。 ・AFCは、この年サッカーの発展に不可欠なスポーツ医学に注目し、 初のアジア・スポーツ医学研修をタイのバンコクで行った。 ●1978 ・この年、1人のアジア系スコットランド人選手が引退した。 インド人の母を持つPaul Wilsonは、グラスゴーセルティックで ラストゲームを行った。1970年にデビューし、78年に引退 するまでに、214試合をセルティックで戦い、52得点を挙げた。 また、スコットランド代表としても、1975年にスペイン相手に 1得点を挙げている。 彼はレンジャーズ相手にコンスタントに得点するのが得意な選手 であった。 ●1980 ・欧州では他のアジア人選手が脚光をあびた。韓国のCha Bum-kun (1953年5月22日生)は、ドイツのEintracht Frankfurt に所属し、欧州で権威ある大会、UEFAカップ優勝トロフィーを 得ることが出来た初のアジア人選手である。 ●1985 ・アジア地域で、初の(FIFAによる)世界大会が行われたのは、 この年中国で行われた、FIFA U17選手権である。 ●1986 ・AFCはALFCを吸収し、アジアの女子サッカー界に新たなる 扉を開いた。AFC女子サッカー選手権がAFC管轄の下で初めて 行われ、中国が初代チャンピオンとなった。 これ以降、中国女子サッカーのタイトル独占時代が続いていく こととなる。 ●1988 ・韓国のCha Bum-kunが再度UEFAカップタイトルを手に入れた。 このとき所属したチームは、ドイツのBeyer Leverkusenである。 彼はブンデス・リーガで308試合に出場し、98得点を挙げた。 今日まで、欧州における最も成功したアジア人選手である。 ●1989 ・AFCは、第1回国際コーチ研修を、アジア各国の代表・クラブ の監督に対して行い、サッカーの発展を促進させるという役割を より強めた。 ●1994 ・タイのクラブ、タイ・ファーマーズ・バンクが、カタールの アル・アラビを決勝戦で破り、初のアジアクラブ選手権連覇 を成し遂げた。 ・ザイード・オワイランが初めて公式に行われたAFC年間 最優秀選手賞を獲得し、アジアのベスト選手という栄光を 受けた。 オワイランは94年米国W杯でベルギー相手に素晴らしい ゴールを生み出し、1-0でサウジの勝利に貢献した選 手として記憶されており、過去に(サウジがW杯で?)得点 した7人の選手の一人である。 ●1996 ・1996年6月1日、アジアは世界のサッカー界の地図に その存在を確立した。FIFAHA,2002年のW杯に、 韓国と日本を開催国に決定した。 W杯本大会がアジアで行われるのは、初めてのことであったが 同時にまた2カ国で大会が共催されるのも初めての決定だった。 ・サウジアラビアが、アジアカップ決勝で開催国のUAEを PK戦の末破り、3回目のアジア制覇となった。 ●1997 ・アジアクラブ選手権決勝で、韓国の浦項スティーラーズが、 中国の大連(中国)を破り2連覇を達成。 ●1998 ・中田英寿がAFC年間最優秀選手を2年連続受賞。 ・98年W杯フランス大会グループリーグで、イランは 米国相手にMehdi Mahdavikiaの決勝点により2-1で 勝利した。 試合には影響がなかったが、この2ヶ国は政治的な対立が あったため、世界中で様々な予想が飛び交った。 イランのこの勝利は、アジアの大きな後押しとなり、また Mahdavikiaの欧州チームへの移籍の布石ともなった。 ●1999 ・イランがマレーシアで行われた第1回アジアフットサル選手権 決勝で、韓国を9-0で破り優勝。参加は9ヶ国であった。 ●2000 ・AFC会長Sultan Ahmad Shah氏のもと、マレーシアのKLに アジアサッカーの本拠地であるAFCハウス完成。 ●2001 ・AFC女子サッカー選手権で北朝鮮が優勝し、中国の 7連覇でストップさせる。 ●2002 ・韓国の水原三星ブルーウィングスが、アジアクラブ選手権で 2連覇達成。2連覇は、韓国のチームとして2チーム目となった。 この試合の決勝戦は同じKリーグのライバル、安養LGチータス だったが、同点となったためPK戦にもつれ込んだ。 ・Feyenoord所属の日本の小野伸二が、韓国のCha Bum-kun以来の UEFAカップ優勝トロフィーを手にしたアジア人選手となる。 ・アジアで初のサッカー最大の祭典、W杯が行われた。 開催国の韓国・日本と予選を勝ち抜いたサウジアラビアと中国を 含む32カ国による大会となり、これまでのW杯史上最大で、 またベストの大会と言われた。財政面でも最大の大会でもある。 ・アジアチームがこの大会で躍進し、これまでで最高の結果を 残した。韓国はプライドを保ち、地元でポーランド、ポルトガル、 イタリア、スペインを破り、準決勝に進出。日本は初のベスト16 に進出した。 ・サッカーが、政治的な断絶を打ち破る手助けを行ったのも、 この年だ。韓国対北朝鮮の試合が8月8日韓国で行われ、0-0 という結果となった。 また、イラン対イラクが8月18日にテヘランで行われ、1-0 でイラクが勝利した。 ・アジアのクラブ大会が再編となり、AFCチャンピオンズリーグが スタート。これは、それまで行われていたアジアクラブ選手権、アジア・ カップ・ウィナーズ・カップ及びアジア・スーパーカップに 変わる新たな大会であった。 ・長い間紛争状態だったアフガニスタンが国際大会に戻ってきた。 9月28日、韓国の釜山で行われた第14回アジア大会の グループEの初戦の相手は、イランだった。 ・小野伸二が、AFC年間最優秀選手賞を受賞。世界のサッカー界での 日本サッカーの躍進を見せる受賞となった。 ●2003 ・UAEのAl-Ainが決勝戦で、タイのBECテロサーサナを 合計2-1で破りAFCチャンピオンズリーグの初代王者に。 ・1月、AFC会長のMohamed Bin Hammam氏が、アジア全域にわたった サッカー発展を目指した野心的なプログラム「ビジョン・アジア」を 発表。 ・イランが、AFCフットサル選手権で5連覇達成。イランの有名な サッカーを取り上げたストリート・アカデミーの効果が、チームの 優勝に貢献したといえる。この大会は、99年に参加した9カ国を 含む20カ国が参加し、アジアのスポーツ人気を示すこととなった。 ●2004 ・5月8日、KLにあるAFCハウスにおいて創立50周年を祝う式典 が行われる(予定) http://www.the-afc.com/english/goldenjubilee/default.asp?mAction=new&where=goldenjubilee&mnaction=history ---- 実は、この本に、結構詳しくAFCの歴史なんかが書いてあったり するのですが、激高なのであんまり世の中に浸透していないと 思うわけであります。 (中国・イスラエル問題とかそのへんはナカナカ面白いです。 AFCに関しては、4,5ページしかないけど) ただ、こーみると、やっぱし韓国はアジアですげーなー、と思いまして、 日本はまだ(AFCから見れば)若造なんだなー・・・つー印象が あります。 あと、フィリピンがなかったら、アジアのサッカーはもーちょっと 遅れていたのか?と思わせる、初期の活躍ッぷりであります。 さすがだ。 ちゅーわけで、50歳おめでとー、AFC。 これからもヨロ。 ... ACLを振り返っての反省 - タイ - 2004年05月25日(火) ACLも予選リーグが終わりました。 今回は日本勢、そして東南アジア勢がすべて予選リーグで 姿を消してしまったわけでありますが、まーしょーがない。 西の方は、イラン勢が全滅だし、欧州のCLでもいろいろ あったみたいだしな。 そんなわけで、タイの反省文をご紹介。 ------ ■ACL敗退から次の戦いへ目を向けるタイのクラブチーム Thai clubs pick up pieces after ACL exits May 21, 2004 FootballAsia バンコク発: AFCチャンピオンズリーグ(ACL)2003の準優勝チーム、 タイのBECテロサーサナは、2004年度のACLでは、落胆 させられる結果となった。 しかし、テロサーサナは、来年度のACLに向け、国内リーグ 上位進出の戦いに向かう。 BECテロサーサナは、国内でも、またアジアの大会でも惨めな 結果を残し、Attapol Puspakom監督を解雇したが、現在国内リーグ では、1位のポート・オーソリティーと勝ち点7差で、4位と低迷。 2002年度のリーグ優勝チーム・BECテロサーサナがACL 出場に必要な条件は、残りの5試合でリーグ2位以内の成績が 必要である。 「ファイア・ドラゴン」(注:テロサーサナのニックネーム)は、 昨シーズンのACLでMVPを獲得したMF、Therdsak Chaimanを 含む主力メンバーを失って以降、なんとか持ち直そうと苦しだが、 チームは、その状態で、不運と怪我人に6ヶ月間悩まされること となった。 新たに就任したSasom Pobprasert氏は、元タイ選手代表であり、 タイU17代表チームを率いてきた人物であるが、タイで最も 財政的に豊かなこのBECテロサーサナを引き継ぐ使命を 課せられた。 「今シーズンの不調には、多くの原因があります。 チームの多くの質の高い選手達がベトナムのクラブに移籍 したのです。しかも怪我人も多く、数試合は不運だったと 言えます。 中国での対上海申花戦は、いい試合展開を行いましたが、試合 終了寸前にゴールを割られ、負けてしまいました。 強い雨の中での試合で、自分達のペースに持っていくのは 難しかったのです。」 「チームは、タイリーグに目を向けています。来年のACL出場 のためにも努力し、戻ってくるように頑張りたい。来シーズン、 チームを再建し、何人かの外国人選手も受け入れるつもりです。」 2003年度のタイリーグチャンピオン、クルン・タイ・バンクは ACL戦後の状態ををみると、ライバルのテロサーサナよりも良い 状態だと言える。 クルン・タイ・バンクはACLのグループFにおいて、準々決勝 に進出した中国の大連実徳に次ぐ成績を収め、アジアのクラブ大会で 面目を保った。 クルン・タイ・バンクのマネージャー、Thammanoon Butdee氏は、 次のように語った。 「我々は本当に、今回のACLでの戦いぶりには満足しています。 大連には2敗しましたが、大連はアジアでもベストチームに 数えられるチームの1つです。 大連は、我々よりも少しだけ準備が整っていましたが、アジアの 大会経験は、我々よりもはるかに上でした。 望むべくは、来シーズンよりチームを強化して、準々決勝進出できる ようになりたいですね。」 クルン・タイ・バンクは、現在タイ・リーグでポート・オーソリティー のすぐ後ろにつけており、土曜日の試合に勝てば、トップに躍り出る。 「火曜日のPSMマカッサル(インドネシア)戦では、多くの選手を 休ませました(結果、1-2でクルン・タイ・バンクは敗戦)。 週末に、ポート・オーソリティーとのビッグマッチがありますからね。 この試合は事実上の決勝戦のようなものです。全力を出して取り組み たいですね。もし我々が勝てば、タイトル連覇へのいいきっかけですから。」 http://www.asian-football.com/en/regional/Asean/index.asp?id=35151&mth=5&yr=2004> ----- ちなみに、この記事の後、クルン・タイ・バンクはポートオーソリティーを 破り、5月23日にリーグトップとなっております。 PSMマカッサルが、クルン・タイ・バンクをタイで破ったのは、 オドロキでありましたが、後日「まー調整だし」みたいな記事を 読んで、許さん!とか思っておりました。 ま、こんな理由があったわけでありますね。なるほど。 上にも書いたとおり、日本とアセアンズがいなくなって、俺的には、 ちょっと興味を失いそうですが、ここで興味を失っては、また某TV局が お茶を濁しやがるので、とりあえず大連とパフタコールに注目しときます。 ちゅーわけで!! ... 10 minutes: ドラゴン、聖林に足跡をつける(2) - 2004年05月19日(水) 米国4大スポーツの一つ、メジャーリーグ観戦に 行って参りました。 カードは、ロスアンゼルス・ドジャーズvsシンシナティ・レッズ。 なお当方、野球を観にいくのは予備校生以来であります。 しかも、TVでも全く観ない野郎であります。 ![]() セキュリティーは、そんなに厳しくありませぬが、 制服に威圧感あります。 ![]() しかし、モギリのニーちゃん・ネーちゃんは、古き良き アメリカな出で立ちであります。素晴らしい。 ![]() すげービビったのは、入場者全員!にタダでTシャツを 配っておりました。なんつー太っ腹な・・・。 サイズがデカ過ぎるぞ!と言うと、小さめのサイズもくれます。 やはり、メリケン野球観るならホットドッグじゃい! と思って買ってみると、ナンと、 パンとソーセージだけ というシンプルな物を手渡されます。 キャペツとかそーいうのが既にかかっていて、それを ホクホクと食べる図、というのを想像していただけに、 ちょいとビックリ。 で、登場するのが日本では見ないスーパーマシン。 ![]() これは、ホットドックにマスタードとケチャップをかける マシンであります。 その隣に、タマネギとピクルスがたっぷりあって、 セルフでトッピングするのでありました。 ただこのマシン、使い加減が分かりにくく、俺のホットドッグは マスタードでまっ黄色に染まってしまったのでありました。 うう・・ ![]() 試合前のドジャーズスタジアム。キャパは6万人くらいか? 3階構造になっていると、妙にワクワクしますな。 ![]() ちーと感動したのは、国家斉唱中、入場中の人もスタッフも 全員その場で止まるんですわ。時々胸に手を当てている人も いて、パトリオットっちゅーのを感じたわけです。 ![]() 試合中は結構人が入りました。5万3,4千人だったとおもいますが、 競技専門のスタジアムってのは見やすいですね。 つーことは、陸上競技を観ると、トラック付き競技場の素晴らしさ がわかるのだろーか・・・? 一度国立か横国で陸上を見てみよう、うむ。 ![]() 建物自体は、結構古めかしい感じです。 内部を歩くと結構わかります。 そんなのもあってか、ドジャーズのファンは、昔(50年代 くらいか?)のユニを着ているようなオッちゃん達が結構 いました。 応援のスタイルも、やっぱしNBAやNHLなんかと同じ、 クラブ側が「さーやりましょー」というタイミングでやってくれます。 サポ(というかファン)は、白人・ヒスパニック・アジア人が 多く、アフロ系の人々は若干少ないかな、という印象です。 あー、L.A.だなーと思ったのは、「ラバンバ」が流れると、 他の曲よりも多くの人が口ずさむのであります。 曲で思い出したのですが、7回表が終わると、みんな 立ち上がってなにやら歌を歌い始めます。 結構有名なので、知っている方が多いと思いますが、 「Take me out to the ball game」という歌です。 前に座っていた若いアンちゃんたちも、すっげー楽しそうに歌う姿に どんな歌なんだ?と思っておったのですが、こんな感じです。 (歌詞はパクるとヤバいっぽいので、俺的翻訳)
結構適当に訳したのですが、内容はこんな感じで、女性が ボーイフレンドに言っている状況の歌らしいです。 帰国して、歌詞をじっくり見ていると、 「♪オレタチノ~」的な応援歌が多いJリーグに比べて、 ちょっと遠まわしな感じが俺的に激ラブ。 「♪今すぐ君に会いたい、そして抱きしめたいんじゃー」 ちゅーストレートな、若さのリビドーほとばしるラブソング じゃなくて、同じ愛の表現でも、 欧州:フランス映画みたいに、女がギャーギャー騒ぐ(偏見大) 米国:小粋な、昔のMGM映画のミュージカル的な愛の表現 の違い、ちゅーのがあるかも知れぬ・・・という妄想をして おりました。 オーロラビジョンではリプレイを見せない、つーのもオドロキですが、 (ドジャーズスタジアムだけなのか?)、スタッフの服装や 流れている曲、ファンの格好なんかも合せると、 野球=「古き良き米国の良心的伝統スポーツ」 というイメージが心に残ったメジャーリーグ観戦でありました。 ま次回米国に行くときは、NFLとNASCAR観戦が目標 であります。はい。 ... 10 minutes: 読者プレゼント! - 2004年05月17日(月) ここ2週間ほど、まともに更新していなかったので、 お詫びといっちゃ何ですが以下のものをプレゼントしたいと思います 以下は、マレーシアの骨董品屋さんで購入したものです。 No.1:タイガービール暖簾の1部 タイガービールの暖簾をバラ売りしていたので、買ってきました。 ビニール製で、1枚の大きさがA4サイズです。 ![]() 額に入れると、なかなかカッコいいです。 僕も最低1枚はもっておきたいので、このセットの1部を欲しい方に 差し上げます。 No.2:タイガービールコースター ![]() ちょっと昔のバージョンのロゴだと思います。 紙製です。 ![]() 同じく僕も最低1枚はもっておきたいので、このセットの1部を 欲しい方に差し上げます。 ご希望の方は、 ①ここから、当方あてにメールしてください ②メールアドレスを記入してください ③件名は:「プレゼント希望 」と「NO.1 or 2」を記入してください。 ③内容は、別に無くてもいいですが、本サイトの感想なんかを 書いてくれると、ちょっとだけ嬉しかったりします。 ●どっちか一個にしてください。すんません。 ●5月末まで募集します。 ●当選した方には、ご連絡します。 6月初旬に無かった方、ハズレっす。すんません。 ●住所やあて先は当方からの連絡時にお聞きします。 ●郵送料は当方で負担します。 ●各プレゼントの数量は、応募してくる方によって 変化します。 以上、ヨロシクっす!! ... 10 minutes: ドラゴン、聖林に足跡をつける(1) - 2004年05月16日(日) ちゅーわけで、ちょっと米国に行ってきました。 都市はL.Aであります。 前回のサンフランシスコ訪問では、アメリカ華人歴史学会が 激烈に面白かったので、今回は全米日系人博物館に行ってきました。 気になっていたのは、戦前の日本人移民はサッカーを行ったのか? という疑問であります。 というわけで、博物館の図書館でウロウロしていると、 ボランティアの方々が声をかけてくださり、一緒に資料を 探してくれたのですが、武道や相撲以外に、野球とバスケット の資料を発見したのに留まりました。 しかし、ボランティアの方(日系人)がいろいろ質問に答えて くれたので、その辺りを少し抜粋(うろ覚えだけど)。 (ボ、はボランティアの方)
お年などは聞けなかったので、詳しいことはわかりませんが、60 から70歳ぐらいの方でした。 戦前にサッカーはやっていなかった可能性のほうが高いってわけか・・ ちょっと残念。 それにしても、米国においての日本人チーム、つーのはあんまりこう、 民族のプライドじゃい!というものをかけて試合にのぞんだみたいな、 そういうもんではないような気がしてきた。 なんとなく、同民族のチームって、戦前の日本における朝鮮人チーム、 みたいなものがあるのかとおもっていたが、そうでもなさそう。 ちょっとサッカーに毒されすぎなのかなー、俺・・って気がしてきた。 そいで、"LAにおける若者のスポーツ"ってビデオを観させてもらい ました。その中にサッカーの試合(草サッカー風)があったのですが、 試合中にDJがラテン音楽かけまくりで、観に来ている人はみんな スペイン語(エルサルバドルがどーのこーのと言っておりました)。 ちょっと、米国サッカーの下部リーグの試合ってのもこんな感じなのか? と興味が沸く映像でありました。 次回はサカヲタが観たMLB訪問記っす。 ...
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