東南アジアサッカー調査メモ...ogaoga2k

 

 

ケンカの種 - マレーシア - 2002年09月29日(日)

セパボラ世界の旅(5)を書き終えて、ぼやーんと検索を
かけておると、マレーシアサッカー関係記事が出てきたの
で、保存しておきます。資料として、全文抜粋。

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■サッカー・カフェ盛況

日本経済新聞社 クアラルンプール支局 高橋一文


週末はグラスを傾けサッカー観戦――。マレーシアの
首都クアラルンプールの若者の間でサッカーカフェが流行
している。英国のプレミアリーグの試合を衛星放送経由で
ライブ受信、臨場感あふれる大画面スクリーンで放映する。

店ごとにマンチェスター・ユナイテッド、リバープール、
アーセナルなどひいきのチームが決まっている点が特徴だ。

■仲間と一緒にエキサイト


クアラルンプール中心部のジャラン・ラムリーにある 「レ
ッド・カフェ」はマンチェスター・ユナイテッドのサポータ
ーが集う店。キャップ、Tシャツ、公式球などを販売するオ
フィシャルショップが併設されている。マンチェスター・ユ
ナイテッドの試合がある日にはキャップ、Tシャツに身を固
めたグループが詰めかけ、歓声を上げながら応援する光景も
見られる。

飲み物の値段はビールが11リンギ50セント(約370円)、
ソフトドリンクが10リンギ80セントと現地の物価水準からす
れば決して安くはない。しかし「大画面でリアルな雰囲気が
満喫できるし、何より仲間と一緒にエキサイトできるのが楽
しい」(常連客の30代男性)。個人で衛星放送会社と契約す
れば月額約80リンギかかるため「サッカーだけならここに来
た方が安上がり」(20代OL)というちゃっかり派もいる。


■サッカー人気復活へ期待

旧宗主国である英国の影響を受け、マレーシア国民はもと
もとサッカー好き。マレーシアのチームはワールドカップへ
の出場経験こそないが、1972年には予選で日本、韓国を破り
ミュンヘン五輪に出場。80年のモスクワ五輪は最終的に出場
を辞退したが、予選は通過した。96年には12チームからなる
プロリーグも発足した。

しかし、97年のアジア通貨危機がプロリーグを直撃。ブラ
ジルなどから招へいした外国人選手の給与を払えなくなり、
技術水準が急低下、人気も下降してしまった。2002年のワー
ルドカップは1次予選で早々と敗退した。英プレミアリーグ
の試合に若者が熱狂するのも、ふがいない国内リーグへの鬱
憤(うっぷん)がたまった結果と言えなくもない。

とはいえ、マレーシア・サッカー協会の幹部にとって「サ
ッカー・カフェの盛況ぶりは頼もしい」と映る。これだけ人
気が高まれば、いつか国内リーグにも関心が向くと期待する
からだ。マレーシアは95年に全寮制のサッカースクールを設
立し小学生からの強化策に乗り出した。サッカー・カフェに
集った若い夫婦が、我が子を将来のスター選手に育て上げよ
うと夢見る日もそう遠くないかもしれない。

2001年12月著

NIKKEI Singapore > アジアの街角 > KL > サッカー・カフェ盛況
より
http://www.nikkei.com.sg/asiamachi0210.htm
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Mリーグ、外国人選手を一度禁止したのは、経済危機もあったの
か。

これまでは、自国のプレイヤーの保護の為、という説しか見なか
ったのだが。さすが日経だ。経済の面から語るとは。


ちゅーか、イングランドのサッカー人気inアジアというコトは、
タイでもブルネイでも問題になっていたと思うのだが、まぁFAM
幹部がイイと言っているのだからイイのであろう。


でもなぁ。。

ごく個人的な感想を書くと、結構ガッカリなんだよな。

国内リーグがあるのに、海外のスポーツが中心になっている本屋
とかTVって、「俺、異邦人だよなぁ・・」が薄れちゃうんだよな。

ちょっと思い出したのは、豪州のサッカー番組は、豪州のリーグ
だけを取り扱っててグーだったなぁ。

「あー、俺、豪州に居るんだナァ」とか思ったし。



ちゅーわけで、スーパーサッカーはココロを入れ替えて、冒頭
にUEFAチャンピオンズリーグとか流すのはヤメレ。

きっと、日本にきた欧州人は「せっかくスシの国に来たのに!」
とゲンナリするか、突然TVを観始める彼氏に、彼女が怒って
ケンカするかのどっちかだと思う。

後者は実際マレーシアで見たぞ(笑)。



...

弱点はヘディング - ラオス - 2002年09月27日(金)

祝!ビエンチャンタイムス再発見!

ちゅことで、世界唯一の国内ラオ・サッカーを取り扱う
メディア、ビエンチャンタイムスを発見できて嬉しい
管理人なのでした。

そんで、その中でちょっと目を引いた記事をご紹介。
時間がないので、今回はかなり抜粋&意訳。


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■ラオス、タイガーカップで”死のグループ”に入る

by Sisay Vilaysack


ラオスは2002年のタイガーカップで最も過酷なグループ
に入った。いわゆる死のグループである。


ラオスが入ったグループBは、この大会に出場する若手中心
のラオスチームにとって、脅威となるチームばかりである。

ホームとなるシンガポール、前回優勝のタイ、そして古豪
マレーシア、という対戦相手なのだ。

ラオス代表はアマチュアで構成されているが、対戦相手の
チームは自国のプロリーグを持っており、その中でもトップ
クラブの選手ばかりで構成されている。

ラオス代表に比べると、フィジカルもスキルの質も、高い
レベルでプレイしている選手達なのだ。

(略)

12月の第4回タイガーカップでは、そのプロリーグを持つ国々
相手に準決勝まで進み、他の国々を驚かせたいと関係者は語
っている。


 「タイガーカップへは、基本的にU21の選手と、前回のタイガ
 ーカップに出場した選手とで構成しようと思っています。
 トレーニングの中心は、両サイドからの攻撃とFKを考えてい
 ます。

 現在のラオス代表チームには、大きな問題点があります。

 1つは、FKで20メートル以上離れると、正面でもゴールに
 ボールが入らない点。

 もう一つは、ヘディングで点を取ることができないのです。」



トレーニングは10月頃から開始され、選手の招集は近いうちに
行うということだ。


:2002/09/10 ビエンチャンタイムスより。
http://www.vientianetimes.gov.la/Contents/No.72/Laos%20in%20Tiger%20Cup.htm

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うう・・これだけ読むと、ラオス代表、ボール扱い
がド下手に取れるが、U16見た限りだと、そんなに
ヘッたくそじゃなかったぞ・・。

あ、でもそういえば、ヘディングをあんまり見なか
った気がする。

昔の日本(昭和初期くらい?)の話で、ヘディング
するとバカにされたとかいうのを読んだことがある
が、それに似た感じなのかなぁ。

多分、そんな事ないと思うが。


んでも、いつもは大袈裟なラオスの新聞だが、今回
の死のグループは同情。

U21でいくのはちょっと無謀だと思うが。

まー、台風の目になってくれ、ラオス。



...

ニックネームは産卵地 - マレーシア - 2002年09月19日(木)

世界のクラブチームには、ニックネームがあったりしますが、
東南アジアだとそれほどお目にかかりません。


その中でも僕が見ている限り、一番使われているのがマレーシア。
よく新聞で見るのはこんな感じ。


▽スランゴール
=レッド・ジャイアンツ(赤い巨人)

▽サバ
=リノ(サイ)

▽ペナン
=パンサーズ

▽トレンガヌ
=タートルズ

▽サラワク
=クロックス(ワニ(Crocs))

▽ブルネイ
=ワスプ(蜂)


と、基本的にその州で有名な動物(トレンガヌは、ウミガメの
産卵地で有名)や、州の旗の色から、というパターンが多いみ
たいであります。


んじゃ、母国のイングランドは?と思って調べたら、結構面白
いのが見つかったので、一部をちょっとパクリ。

↓ココ。
http://www.footballculture.net/japan/teams/names_nick1.shtml


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▽ Gunners【ガナーズ(意味:砲手/銃手)】

正式名称:Arsenal/アーセナル(イングランド)

もともとアーセナルのチームは、ロンドン南東部、
ウーリッジ兵器庫(Woolwich Arsenal)軍需品工場
で働く労働者で形成されていたから。

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まーこの呼び名はよく聞きますな。

日本だったら昔の広島あたりの感じだったんでしょーか。




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▽トフィーズ(Toffees)

正式名称:エヴァートン/Everton(イングランド)

エヴァートンのリバプール地区で作られる、エヴァート
ン・ミントは、多くの人に愛されているミント・トフィ
ー(キャラメルのようなキャンディーの一種)だ。

かつて、エヴァートンのホーム、グッディソン・パーク
では、伝統的なスカート、ショール、帽子を身につけた
トフィー・レディーが登場し、観客に無料でトフィーを
配っていた。

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カワイらしいあだ名ですな。

まー、これは”ガリガリ君”って感じでしょう。

つーか、トフィーとガリガリ君じゃ、えらい違いな気
がしますが。


埼玉県深谷市のメーカーがガリガリ君作っているそうで、
アルディージャのホームゲームで、ガリガリ・レディー
(嫌なレディーだな)がガリガリ君を無料で配っている感
じ?



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▽アディックス(Addicks)

正式名称:チャールトン/Charlton(イングランド)

ニックネームの由来:“Addicks”という言葉は、鱈
:タラ(haddock)を意味する南ロンドンのスラング
から派生した。

なぜタラを意味する言葉がチャールトンのニックネ
ームになったかについては、さまざまな理由が言わ
れている。

その中で、初代チームのメンバーがタラが好きだっ
たからというものと、試合の後に対戦チームを食事
に招待し、タラを振る舞ったからというものが有力だ。

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英国人のタラって、日本人のマグロみたいな感覚?

マグロの方言て、”びんちょう”とかそんな感じだろう
か。

うーむ、清水エスパルスのあだ名が”びんちょう”て
なら、ちょっとわかる気がする。長谷川健太とか配り
そうだしな。


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▽ジ・アラブス(The Arabs)

正式名称:ダンディー・ユナイテッド/Dundee United(スコットランド)

その昔、クラブのホームグラウンドが砂だらけだったか
ら。(Andrew Boyleさんからの投稿)

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ひでぇグラウンドってあんまり見たことないんですが、
ちょっと小粋です。


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▽ガスメン(Gasmen)

正式名称:ブリストル・ローバーズ/Bristol Rovers(イングランド)

ニックネームの由来:昔、ホームグラウンドがガス工場の
隣にあったから。

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FC東京のことですか?

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まあ、あだ名については前にも書いたけど、やっぱ
その土地ならではの名前がついていると、面白いっす。

はい。




...

10 minutes: オーバーエイジは全てのアジアで - 2002年09月15日(日)

AFC U17、日本は負けてしまったのでありますが、
(日本の)色々な掲示板見てると、相手はオーバーエイジ
使ってんだろ云々って書いてあったりするわけで。


でも、実は他のアジアの国から、日本もそう思われてたり
してたのです(笑)


某掲示板より。

=====================================================
From: (伏せ)
Date: Sun Sep 8, 2002 3:49 pm
Subject:
-----------------------------------------------------

おいおい、誰かwww.footballasia.com見た?
韓国とパキスタンの選手の写真見ると、
どっちのチームもオーバーエイジの選手じゃないか?

(以下略)


-----------------------------------------------------
From: (伏せ)
Date: Tue Sep 10, 2002 12:23 pm
Subject:

オーバーエイジ問題、東南アジアだけじゃなくて、
他のアジアの国でもあるんじゃないかなぁ。

韓国、日本、んでインドの選手の写真見たんだけど、
多分、何人かの選手がオーバーエイジだと思う。
つーかほとんどかも。

(以下略)

-----------------------------------------------------

抜粋しただけなので、これだけ見ると気分が悪くなる人
も居るかもしれませんが、これを言っているのは一人だ
けなので、まぁドコにでもいるヤツということで、許し
てあげましょうや。


それにしても、東南アジア勢はやっぱり全滅・・。

ミャンマーちょっと期待してたのに。



...

すまんかった、サンミゲル -フィリピン - 2002年09月07日(土)

時間がないので、取り急ぎ。

フィリピンサッカーの歴史のページがあったので、
全文適当訳で行きました。

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■フィリピンサッカーの歴史


 この地でのサッカーというものは、歴史的に見て
1930年代から40年代の初めかけての頃、既にそのピ
ークに達してしまったものです。

1900年代、香港のイギリス水兵らによって試合が行
われて以降、外国人によって定期的に試合が行われ
ていました。



英国人および中国人によって行われた試合の影は、
マニラおよび他の南部地方の都市で感じとることが
できますが、スペイン人によって行われたサッカー
の影響は、フィリピン全土にまたがって見ることが
できます。

戦前を見ると、バスケットの人気がサッカーに追い
つき始めましたが、それでも好カードの試合ともなる
と、26,000人もの観客を集めました。


欧州のチームは度々フィリピン遠征に訪れ、Turba Salvaje、
YCO Athletic Club、Nomads、Casinoといった地方の
チーム、あるいはSanto Tomas大学といった学生の
チームと対戦し、スタジアムを満員にしたものでした。



サッカーが戦後の混乱期から回復し始めた頃になって
も、スペインの影響は、試合の中で依然色濃く残ってい
ました。

伝統的にSan MiguelとElizaldeのようなスペイン系の
企業はスポンサーを続け、サッカーの発展のために熱心
に試合を開催し、大会を組織運営していたのです。



50年代になるとフィリピンのサッカーは、大学のトップ
グループのチームの試合を通して、再び元気を取り戻し
てきました。

例えばLetran大学、Santo Tomas大学、San Beda大学、
Ateneo大学、La Salle大学, San Carlos大学, Silliman大学,
Visayas大学などが例にあげられます。



サンミゲル社はフィリピンサッカー協会を通して、スポーツ
の発展と楽しさを提供する為に、諸外国のノウハウを輸入す
べきとだという決断を行いました。

よってSorianoグループは60年代初め、英国人コーチ
のアラン・ロジャーズとブライアン・カバを招聘し、
フィリピンの審判・コーチ・選手のトレーニングを
行い、その資金提供を行いました。

招聘された英国人の2人は、選手たちがサッカーの設備
不足によってプレーできないことがないようにと、バス
ケット・コートのフィールドで行われる、1チーム5人
の選手でプレイ可能な”5-Aサイド”のサッカーを練習に
導入しました。

彼らの役目は後に、フィリピン代表やユース代表の指導者、
ダニー・マクラーレンとグレアム・アダムスという2人の
コーチに引き継がれていきます。



1961年、サンミゲルはフィリピンサッカー協会を通して、
4人のスペイン医学生をフィリピンへ招待しました。彼ら
はとてもサッカー技術に優れた学生だったのです。

Felipe Monserrat(フィリピンサッカー協会会長)は、彼ら
4人が試合で魅力あるプレイを披露し、そのプレイや地方
のサッカー選手の発展に結びつくよう期待しました。


このカルテットは、Francisco Escarte、 Enrique dela Mata
(一年間滞在し、帰国)、Claudio Sanchez、 Juan Cutillas Espana
という顔ぶれでした。後にAteneo大学、La Salle大学に
入学した英国人Peter Leaverがこのグループに入ります。



1966年、第8回アジアユース大会の決勝は、サンミゲル社
によるこれまでの努力、ならびにエルサルデ社の宣伝活動
のかいもあり、20,000人もの観客がRizal Football Stadium
に集まりました。



それまでの間に、サンミゲル社によって支援を受けたJuan Cutillas
は1965年に一時スペインへ帰国し、その後1968年、医師と
なってフィリピンに戻って着ました。

彼はマドリッドで体育卒業証書、スペイン・サッカー指導
ライセンス、医学の博士号といった多くの資格を得て、
フィリピンサッカー界への復帰も始めたのです。Cutillasは
文字通り、フィリピンにサッカー「津波」となって押し寄せ
ました。

このかいもあって、サッカーは再び観客を集めるようになりました。



1968年、フィリピン遠征に来たプロチーム、Dallas Tornadoes
に対し、Juan Cutillasのフィリピン選抜チームは2-1の勝利
しました。

元アトレチコ・マドリッドのMFが監督を務めるSan Beda Red Lions
(大学チーム)は、1968年以来フィリピンのNCAAで
3年連続優勝を成し遂げたということも、津波の影響でしょう。



その年以降、Cutillasはフィリピン代表監督に就任し、
他のスポーツではトレーナーに就任しました。彼が代表
チームを指導しなかったのは、Florentino Broceが代表
監督を行った73年と74年だけでした。

CutillasはPFAサッカートーナメントにサンミゲルチーム
を率いて7回出場し、5回の優勝を勝ち取っています。



1971年、Cutillasは4人の強力なスペイン人選手、ならび
に1人の中国人選手を選抜しました。フィリピン代表チーム
を強化するために伝統を破ったのです。

有名な大会に乗り込むべきだという主張が通り、Cutillasの
代表チームが再び動きはじめました。


フィリピン代表チームは、ムルデカ大会、Pesta Sukan大会、
インドネシア記念カップ、インドネシア・プレジテント・パーク
大会のような有名な大会に参加し、タイやシンガポールそして
強豪の韓国に迫る成績を残しました。


このことから、再びフィリピンでのサッカー人気が復活して
きたのです。



ここまでが、フィリピンからサッカーが消えていくまでの歴史です。

スペイン人達の Lozano、Cuenca、Gutierrez、Roxaが資金不足
からサッカー界を去ると、バスケットボール人気が押しよせ、
人々はそちらに目を向けるようになりました。

バスケットボールは1974年にプロリーグ発足が決定的なものと
なり、サッカーは隅へと追いやられてしまったのです。



1975年以来注目をあびる事がなくなったサッカーでしたが、
PFAは希望を失わずにの復活への努力をしました。協会の
フェルナンド・アルバレスは、ドイツ大使館へ支援を求めに
行ったのです。



ドイツ政府当局は、フィリピンへ一流選手を派遣する代わりに、
Bernhard Zgoll氏という、国際的に有名なスポーツ専門家であり、
特にサッカーに関して権威を持つ医師を派遣しました。


Zgollは、地方のサッカー関係者を訪ねたり、島々のサッカー事情
を調査したりして、それを元に注意深く分析したのです。


Zgollの研究は、MYSD大臣Gilberto Duavitとマルコス大統領との
会合中に提出され、直ちに大統領に認められたのです。


この突破口から政府の協力を取り付けたことにより、
フィリピン国技としてサッカーは現在発展中なのです。

http://www.skyinet.net/~giboy/history.html

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ちなみに、Juan Cutillasはつい最近までフィリピンの
代表監督をやってました(今は日本人でありますが)。

ちなみにこの人↓




うーむ、とても興味深い歴史だ。

昔は人気もあったとか、スペイン人とか英国人が
来たとか、欧州のチームが来たとか。


フィリピン、バスケがなかったら、恐ろしいサッカー
大国になっていたかもしれん・・。あなどれんな。

マニラ・ユナイテッドとかレアル・ミンダナオとか
実はパラレルワールドで存在するかもしれんな。
ないと思うけど。


つーか、サンミゲル、すまんかった。

ちゃんとスポンサードしてたんだなぁ。
してないと思って、飲まんかった。
これから飲むようにする。


...



 

 

 

 

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