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たまのひとりごと
たま
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2002年02月28日(木)
ときはなされる

昨日のマルクの結果からは、病原がほとんど消えてるとのこと。
つまり、今の治療は大変効果が上がっているということだ。
今日からは抗癌剤はストップで、今後3週間かけて白血球とかの回復を待つ。
そして二回目は地固め治療に入るわけだけど、今は小休止に入るのだ。

食べられないのだけど、缶詰の焼き鳥を電子レンジでチンしてあげると少しだけたべられた。
明日は炊き立てのご飯で小さいお握りと出汁巻きを作って持っていくつもり。
これも食前にチンして殺菌するのは勿論だけど。。。

夕方、診断書の件で会社に電話する。
N課長から、「交代は決まったから、今はお母さんのことだけ考えておいてね」とのお言葉をいただき、安堵とともに感謝する。
いろいろあったけど、あなたのその言葉がなによりもわたしにとってはうれしいです。本当にありがとう。
いつかはこの恩返しをしたいと思っています。



2002年02月27日(水)
風邪

身体がだるい。
風邪薬をのんでいるせいかずっと眠い。

今日は母はマルクの日。
自分がされるわけじゃないのに、部屋の外へでて緊張する。

廊下で引っくり返るおじいさん。
カーンと金属音が鳴り響き、鈍い音があとから続く。
車椅子を断って自力でトイレに行こうとしたのが原因らしい。
老人に老妻が付き添ってるのだから無理もないか。
ナースステーションのすぐ傍だったので、看護婦さんが数人バタバタと出てきて助け起こす。
「大丈夫??どこか打ってない?ホントに大丈夫??」
悲鳴に近い質問。
あぶないよ。。。静脈カテーテル引っこ抜けたりしたら大変よ。。

母は口内炎が少し出たみたいだ。ノドもちと痛いらしい。
あれだけうがいと吸入してるのにだめなのか。

家に帰ると留守電に山ほどメッセージが。
メッセージなしで切れているのもたくさん。

夜8時ぐらいから10時ぐらいまではなりっぱなし。
留守電に名前が入って、自分の知り合いのときだけ出ます。
ほとんどは無言で切ってしまう感じ?

電話のプラグ抜いたろかしらん。。。



2002年02月26日(火)
仕事

今日は夕べ早く就寝したにもかかわらず、朝からセキがでて熱っぽい。
生ごみの日なので、7時過ぎにごみを捨てたあと、もう一度ベッドで寝る。

ウトウトッとしたら、もう9時半なので、起き出して朝食を摂り市販の風邪薬を飲んだ。なんとかセキをとめないと、今の母の状態ではえらいことになる。
遅くなって悪いことをしたけど、犬に10時ごろエサをやる。
「今日も留守番頑張ってくれよ!」
「わん!」

目元が熱っぽいが、洗濯物を持って病院へ行く。
部屋を覗くと母はちょうど洗面所の前でうがいしているところなので、外で10分ほど待つ。(ベッドから出ているときは送風機から離れているので、感染を防ぐため近付かないほうがいいのだ。)

その間に主治医の先生に(会社に提出するための)「診断書」のことについてお話した。

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やはり自分の具合がいまいちなので、午後から外来へ行き、風邪薬と咳止めをもらった。
(こういうときは病院なので便利です。)
外来から戻って、トイレに行って病室に戻ろうとすると、会社のK所長とN課長がお見舞いに来てくれていた。(ビックリ)

内容からすると、まあ今後のこととか仕事の引継ぎのことだ。
当然だろうな。仕事の方も竣工前で大変だろうし、決算前だし。
K所長は「少しやせたんじゃない?」とお世辞を言ってくださる。
(そんなことありませんヨ!ニラ玉食べて頑張ってますし、、、)

私は休業扱いがダメならば退職も考えていることをN課長には言っていたのだけど、K所長は、こういう病気だと長引くだろうし、今は大変だろうけど治療費とかも考えると、なんとか仕事しながら夜病院へ来るようにして続けるほうがいいのじゃないか、というふうに言われていた。

勿論、それが一番いいのはわかっている。
ただ、症状の経過を見ないと今は決めかねている。
中途半端に仕事をしていると、ものすごい迷惑がかかるのが嫌なだけなのだ。
それにしても、お忙しい中、来ていただいて感謝。

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親戚の叔母(というか母の従姉妹)も電話で言っていた。
「大変だろうけどねえ。あなたの人生のほうもあるでしょう?」




わたしの人生って一体なんだろう?

家族は母しかいないので、どうしても今はそれしかないよ。









2002年02月25日(月)
急性骨髄性白血病

「急性骨髄性白血病」
これが、診断の結果の母の正式な病名である。
この中でも細かく種類が分かれており、M0〜M8まであるらしい。
母の場合はM2。
先生曰く、「安心してください。M2でしたよ、これは治療できますよ。」

これについてはいろいろと調べてみたけど、今回は完全寛解するかもしれないけど、何年か、あるいは何ヶ月かして再発しないとも限らない。
いろいろと考えてしまうが、今は悩んでも仕方がない。
とりあえず、家に戻れるように努力をするしかない。

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今日からは、マスクだけではなく、頭のキャップとガウンも用意された。
部屋に入るときは、厳重に手洗いの末、滅菌ロッカーの中に入れてあるマスクと頭のキャップとガウンを着る。
抗癌剤投与7日目にして、今一番免疫低下の時期なのである。
食事も無菌食となり、すべて食べる前に電子レンジで熱を入れられる。
缶詰とかはOK。

生ものはもってのほか。
持ち込みの新聞とかも、まずは滅菌ロッカーに入れて半日置いてからでないと手にすることは出来ない。

毎日、身体を拭いてから下着からパジャマまですべて交換しないといけないのだけど、これも着替えの分を前日に滅菌ロッカーに入れておいて翌日の着替えの分とする。
タオル等も勿論のことである。

毎日我が家の洗濯機はフル回転。金曜日にデパートで下着とかパジャマを多めに買いこんでよかった。




2002年02月24日(日)
熱が少し下がる

入院当時から39度前後だった熱が下がり始めた。
今は37度台で止まっている。
夜わたしは眠れなかったので、安心して横のソファで仮眠。

日曜日にもかかわらずS部長は病院内を回っておられた。
ご本人曰く、「枯れ葉のごとく毎日院内を漂っております。」
部屋に来られたとき、「病巣からの熱が下がりましたね。これからは感染からの熱が出るかも知れませんが、薬の効果が出ていますから心配しないでくださいね。」とおっしゃったので、とても安心できた。
何よりも何気ない状況診断を言って貰えると患者及び家族はそれだけでものすごい安心と信頼感を持てる。

今日は栄養の点滴と抗生物質の点滴のみ。
日曜日なので看護婦さんの出入りも少ない。
逆に入院患者の家族のお見舞いが多いのか、廊下が騒々しい。
それでもわたしがソファで横になっていると、母も軽いいびきをかいて眠っていた。吸入のせいか、セキが少し楽になったみたいだ。

症状も比較的今はラクそうなので、今日は5時半に病院を出た。
今朝は食事の用意が出来なかったので、帰りにスーパーに買い物に寄る。
卵があまっているのでニラ玉でもするか。
あとは豆腐で煮やっこ。

猫のタマが寂しがっている。
いつもなら昼間はだいたい母がいるのに、この二週間ほど昼間は一人ぼっちなので寂しくて仕方ないらしく、私が戻ると後を付いて周り足元にスリスリ。
夜はベッドの上で寝て、朝方は懐に入ってきていびきをかきながら寝る。
いびきも相当やかましい。起きると今度はゴロゴロがやかましい。
ただでさえ熟睡できていないのに、これはかなりきつい。
それでも可愛いもんです、猫って。








2002年02月23日(土)
消毒消毒

朝病院に出かける前は忙しい。
おきてから洗濯、掃除、犬や猫の世話。
それから花木に水をやり(冬なので毎日ではないが)、仏壇にお茶とお線香を供え、ごみの日はごみをだし(当たり前だけど)、その間に自分が家に帰ってからの食事の下ごしらえをやっておく。(というかほとんど作っておく)
帰ってからは気分によっては作る気にはなれないのだ。
最初はコンビニ弁当とか買ってきて食欲もなく食べていたけど、すぐ飽きるのと不味いのと味気ないのとでイヤになった。
まだ冷凍うどんのほうがマシである。しかしこれも飽きる。

ところで、朝のそういうバタバタしてるときに電話がよくかかる。
これは昼間とか電話に誰も出ないので、心配して掛けてきて下さる母の友人とかがほとんどである。
一応、「貧血がひどいので検査入院でして。。」と答える。
大概は、「どちらの病院へ?」と尋ねられる。
そして、言葉を濁して、「はい、ちょっと。。。長引きそうです」と私は答える。
中には更に追求して来られる人もある。
ちょっと困る。でもあくまでもごまかす。(笑)

普通の外科の入院や、白内障の入院とはわけが違うのである。
抗癌剤の抜毛に控えて、髪の毛も2日前に柴犬なみの7分刈りにしているし、今後は本当に抜けてくるであろうし、病室は殺菌しまくりの状態である。気持ちはありがたいが、お見舞いに来ていただける状態ではないのである。ましてや、感染防止のため花もご法度、果物や野菜などの生ものも一切厳禁状態である。
ナースセンターの傍に設置してある、身体を拭く蒸しタオルでさえ、わたしの母を拭くときはビニール袋に入れて更に電子レンジでチンして殺菌している状態なのだ。

そういう電話をいただく中でもご自分がガンを患ったことのある人は何も言わなくてもすぐ察知して、「お大事に頑張ってください。お元気になったらご連絡お待ちしております」とだけ仰って電話を切られる。
これは体験している人(あるいは身内が)のみがわかる事情なのだろう。
わたしもいままではこういうことは知らなかった。

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ところで、今日からまたひとつ消毒が増えた。
こんどは気管支と肺を消毒する吸引である。
肺炎を防ぐためのと、消毒のと二種類の吸引を食後の3種類のうがいのあとに実行することになった。またまた忙しくなった。
3種類のうがいは、感染症の中では一番多い「口内炎」、吸入は「肺炎」を防ぐためのものだそうだ。

この病院の「腫瘍内科」のS部長の抗癌剤治療においては感染症をほとんどといっていうほど出したことがないそうである。(看護婦さん談)そのなかで感染症が出た患者さんは、その3種類のうがいと二種類の吸引を面倒だからとサボったケースだそうである。

ということは、感染症になるとサボったことになるので母は頑張ってうがい等を励行しています。

どんなにしんどくても自分でやることが感染予防になるとのこと。
つまり第三者の手を借りれば借りるほど、感染する可能性は増えるからである。
年寄りにはある意味過酷ではあるが、わたしがHP等で読んだ感染症の辛さを毎日のように母に教えているので、本人はせっせとやっている。

その間にも、トイレの蓋や便座やベッドの手すりやドアノブ、照明のスイッチ等をわたしは消毒し続ける。

できれば、私が早くガウンみたいなものを与えられて着替えられるといいのだけど。なにしろ、家にはペットがいるので、出かけるときには洗濯した服に着替えて猫にじゃれつかれないようにして出かける。
洗濯ものもなるべく天日に干して毎日着替えられるようにしなければいけないし、いままでの杜撰な日々から比べるとまさに一変である。

明日は抗癌剤投与4回目の日。
いよいよ明日からは完全に母は病室から出られなくなるのでストレスがたまるであろう。
それでも食べられないけど、まだ今のところは吐き気がないのが救いである。








2002年02月22日(金)
個室へ移動

今日の午後から個室へ移動となった。
今度の部屋はすでにクリーンルームの設置がしてある。

クリーンルームとは、壁半分ぐらいの大きさの機械から無菌の送風が流れており、患者のベッドの周りにはビニールカーテンが吊るされているので、ちょうどベッドの頭のほうからその無菌風が流れて汚染された空気から守るようになっているのだ。
特に人が来たときは風を「強」にする。

勿論、部屋に入るときはまずドアの外で手を消毒剤で洗い、更に室内に入るともう一度消毒入りの石鹸で手を洗い、無菌の紙タオルで手を拭き、更に使い捨てのマスクを装備する。

抗癌剤治療が始まると良い白血球も殺してしまうので、免疫機能が著しく衰えているために、こういう処置を取るそうだ。

さらに患者も食事の後は、薬を飲んだあと、歯を磨き、更に何かわからないけどうがいの前の薬を飲み(このうがいセットの消毒がまたすごい)それから3種類のうがい薬を順番に使う。これは口内炎を防ぐためでもあるし、口の中にはさまざまな雑菌があるため、感染症を防ぐために入院したときから行われている。
このうがいのあとは30分は水も飲んではいけないことになっている。

わたしも、なるべく着替えとかのとき以外は母に必要以上に近づかず、ビニールのカーテン越しに話すだけである。
もちろんマスクをしているのは当然のことである。
母がトイレに立つと、熱が高いときはついていく。

外に出られるのも多分今日までではないだろうか。
次回の抗癌剤投与からはおそらくしばらくはこの部屋からは出られなくなるだろう。わたしも無菌のガウンを着せられるはずである。

とりあえず、今日は熱も38度までしか上がらなかったので良かった。
しかし、お腹はすくにもかかわらず、食事を前にすると食べられなくなってきた。いよいよ副作用が始まったようである。

これからが正念場だ。







2002年02月20日(水)
転院二日目

朝病院に行くと、夜が熱とセキで眠れないらしい。

点滴は鎖骨から静脈カテーテルを入れられている。
いままで点滴なんて二人ともしたことがないから映画の世界である。

しかも高熱が続いていたので母も朦朧としているし、すぐに慣れない点滴の管を忘れる。
トイレで(入り口までは付いていったが)中から「きゃあ!!引っ掛けてしまったから血が逆流してる!!」と悲鳴が。

あわてて看護婦さんを呼ぶ。
幸いトイレのすぐそばがナースステーションなので便利である。

担当看護婦さんがすぐに来てくれて、手馴れた調子ではずれた管を刺しなおしてくれた。
「大丈夫ですよ〜。はずれたから圧力なくなって逆流しただけですから」

そうかもしれないけど、わたしにしてはハラハラである。
付いてるときならいいけど、すぐに忘れる母親だからどうなることやら。


ところで、昼過ぎに昨日のマルクがうまく取れていなかったとのことで(昨日の腰からのマルクは担当の若い医師が取った)、最初に紹介された部長が来てくれてもう一度取り直し。
部長曰く、「ごめんね〜。今度は僕が取るからね。僕上手いからぜんぜん痛くないから大丈夫よ〜。」
母にするといままで痛くないので、特に恐怖もなく「ハイ」

マルクのときはわたしは「向こうへ行っていてください」と言われるので談話室のほうで時間をつぶす。

しばらくして戻ってみて「どうだった?」と聞くと、「部長だったら早い早い、チクっとしただけで大丈夫だったよ」と母が言うので安心した。
なにしろ、これからイヤというほどマルクがあるはずなので、それだけが(いやそれだけじゃあないけど)心配なのだ。
これだけは替わってやることは出来ないので。。。。

午後からいよいよ抗癌剤投与になる。

それにしても、今ははっきり告知してから治療を説明するんですねえ。
そりゃ治療始まれば誰だって自分がガンだってわかりますけどね。
それでも、「ハイ、ガンですね。ですから明日からこれこれを投与します。あとまた検査してから効き具合を見て、上手く合うならこれで進めますし、合わない場合はまた別のコースにしますね」と、まるでエステティックコースのように言ってくださる。

母と一緒に聞くわけで、本人は唇がカラカラになっていた。無理もない。
しかし、病気を知り、治療を説明して、副作用も細かく説明しないと確かに効果を得るのが難しいだろう。
治療が過酷なだけに、副作用も激しいし、それに伴う感染症を防ぐための知識を説明するには告知しないと無理である。

かくして、闘いは始まった。




2002年02月19日(火)
転院

午後から病院を変わることになった。
血液内科の専門医がいる病院を紹介してもらったのだ。
芦屋市の病院で、かなり血液内科では有名なチームがいるらしい。

とにかく、見る見る弱っていく親を見ていると、医師の強い薦めに従って転院することにした。
二時半に車椅子で母を病院玄関まで押し、タクシーに乗せて、芦屋までひた走る。
健康体ならば、ドライブ日和のいいお天気だ。
芦屋の山手の住宅街を抜け、いよいよ病院の正面玄関にたどり着く。

かなり古い病院なので、設備とか不安があったのだけど、たどり着いてみると明るくて感じのよい受付エントランスといい、ボランティアのカウンターといい、雰囲気はとてもいい。

椅子に母を座らせて、受付で手続きをしていると、紹介先である担当医師が降りてきてくださって、さっそく前病院の脊髄検査結果をお渡しする。
とてもフランクで感じのいい先生だ。
なんといっても、「それではさっそく明日から一生懸命治療させていただきます!」とのお言葉がうれしかった。
なにやら、絶望の底から希望の光が見えてくるような力強い言葉だった。

とりあえず、急遽部屋を用意してもらったこともあり、6人部屋に入ることになる。かなり狭いけど贅沢は言っていられない。

さっそく血液検査と尿検査、エコー検査、心電図と続けさまに検査が続き、しかももう一度詳しいことを調べたいので、ということで再びマルク(脊髄から髄液採取)を。
普通恐怖のマルクなのだけど、母の場合、前病院のときも、今回もチクッとしただけでたいして痛くはなかったらしい。
前は胸部からのマルクだったけど、さすがに翌日なこともあり、今回は腰からの採取。

熱が38.5度なので、かなり辛かっただろうけど、翌朝だと外来もあり、今なら検査も早いということで、我慢して受けた。
ベッドの横には風のベールを作る機械が置かれてそれで感染を防ぐのだけどかなりやかましい。

なんとか初日の処置も終わり、ベッドでゆっくり横になるが、セキが続いているので横隔膜まわりの筋肉が痛いらしい。

熱のせいで食欲はないらしいが、薬を飲むためにおかゆと煮物を頑張って食べていた。

上で先生とお会いしたときに、「体格もよろしいですし、体力もおありなので、一応60歳向けの治療で明日からさっそく抗癌剤投与を行います。」と言われた。
母は72歳である。
体格はともかくとして、ひとまわりも若い治療で大丈夫だろうか??

しかし、相手は専門家。
とにかく効果があるならお任せするしかない。
「どうぞよろしくお願いします」
深々と(心から)頭を下げた。



2002年02月18日(月)
難病

母はどうもMDSという難病の疑いが濃い。
今日、脊髄から採取した検査の結果は明日出るが、恐らくそれか、それに近い病気であろう。
年齢から言ってもほとんど不治の病である。
それどころか、見ていても急激な弱りようを見ている限り、楽観的にはいられない。
むしろ、胃がんや肺がんのほうがまだ救いがあるような感じだ。

つい4日前までは食欲もあり、久しぶりのすき焼きに「やっぱりお肉は美味しい!」と舌鼓を打って平らげていたのに。

今の病院では血液の専門医がいないため、明日以降転院の予定なので、多忙ながらも、今日締め切った支払いの書類を明日早朝最寄の駅で会社の課長に手渡すことを携帯電話でお願いした。あとはインプットするだけなので誰でも出来るのだ。

現在の家を建てるとき、「車椅子になったりしても大丈夫なように」とバリアフリーにし、「年いってもお風呂で楽なように」手すりをつけ、と色々思案して喜んでいたのに、もしかすると。。。最悪の場合はもう二度と家には戻ることがないかもしれない。

主がいなくなった食堂の椅子は今も座布団の下に靴下がはさんだままだった。



2002年02月17日(日)
病院にて

病院のエレベーターの中でふと子供のころのアルミのお弁当箱の匂いを思い出した。
なぜだかわからない。
箱の蓋に描かれていた絵はどんなだったかもう思い出せない。

幼稚園のころ、お弁当を温める機器があって、朝行くとお弁当をその機器の中へ保母さんがいれてくれた。
ある日、お昼になってお弁当のオカズ箱が開かなくて泣いた。
先生が来て開けてくれたら、デザート用のマスカットが変色して出てきたので更に泣いた。

遥か遠い日のこと。



2002年02月14日(木)
お通夜

今日は上司の家の不幸で、滋賀県は大津までお通夜の手伝いに行ってきました。はあ、、疲れた。
寒いのなんの!
底冷えというのでしょうか。
行きはJR西ノ宮から会社の仲間と三人で快速に乗り、尼崎で新快速に乗り換え(階段の上り下りがかなり急がされたのでゼイゼイ)
これはお年寄りだとゼッタイ乗り遅れますヨ。。。。寒いのに。

ロマンスシートに腰掛けてからは京都までグッスリ。
隣のおじさんは涎を垂らしてオネムでした。

お通夜の受付というのも不思議なもので、知ってる顔が次々と現れるとなんだかホッとしたりするし、その中にも緊張感がピンと張り詰めてるという不思議な状態。(しかし底冷えが。。)

終了してから外へ出るとボタン雪が舞っていた。さぶ。
プラットホームで電車を待つ間も冷気は瀬戸内海のものとはまったく違う内陸部の冷えなのだ。

寒い中、帰宅してバスタブにつかると睡魔に襲われて夢を見ていた。
生まれてこの方、お風呂の中で寝たのは初めて。

冷え切って、あと温まると眠くなるのはよくあることですが。

ということで、今日はUOもお休みでICQもオンせずにオヤスミナサイ



2002年02月07日(木)
体調さいあく

肩こりなんて生易しいもんじゃなく。
背中が板みたいで、しかもずっとバキボキ音が。
しかも仕事のほうは相変わらず忙しいし。

おまけに母の体が不調になって入院になったらどうしよう。
こういうときだけはペットがいるのは大変です。

三連休もいいけれど、病院とかのことを考えると困るなあ。。
兄弟がいないっていうのはこういうとき本当に不便ですな。

まあ考えても仕方がない。なるようにしかならないな。

今日はなんか暗いな。(最近ずっとそうだけど)



2002年02月03日(日)
鴨鍋ふたたび

昨日は会社のダチと三人で鴨鍋の宴会。
鴨すきではなく鴨ちりである。
前菜に、てっさを付けて貰い、あとが鍋。
久々のご馳走に舌鼓を打ち、あとはシャンペン・バーへ繰り出す。
いい加減、鍋のときにビールで始まり、ひれ酒3杯でまったりし、
シャンペンもグラス4杯飲んで日ごろの憂さを晴らした。

うちの仕事はある意味環境が特殊なので、同じ仕事仲間でないと、愚痴を言っても他の会社の人だといまいちわからないのだ。
さんざん愚痴をこぼしたのでかなりすっきり♪

最後には「要注意人物メモ」をみんなで取ってお開きに。
はっと思って時計を見ると11時半じゃんか。

土曜日の11時半からUOの友達の結婚式!!
あわてて帰るも二次会にやっと駆けつけるありさま。
おまけに酔っ払いなので、お祝いの品も忘れるし。(汗
すんませんでした_(__)_