空色の明日
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2000年12月31日(日) 今年の宝物

振りかえるといいながら結局ダラダラいろいろ
書いてしまったので今日は今年出会った素晴らしいモノ
たちを書く事にします。

映画・・・時計仕掛けのオレンジ(いまさら)
音楽・・・椎名林檎(これもなんかいまさら)
舞台・・・グリークス(実はいまBS2で見ながら書いてる)
ドラマ・・・池袋ウェストゲートパーク
(今年といわずココ数年で1番お気に入り)
役者・・・窪塚洋介(この人のおかげでいろんな人に会えた)
本・・・神様のボート(江國香織)
漫画・・・松本大洋(毎年の事)&IWGP(彦山さん作)
飲み物・・・バニラフレーバーコーヒー(ライオンコーヒー)

そして何より今年最大の出会いはPCくん。
数年乗ってほったらかしだったベスパを売って小金が入った
機会に何を思ったか購入してしまいましたが、こんなにも
私の生活を変化させるとは・・・。
こいつのおかげでたくさんの人と出会えたしたくさんの事を
学びました。
今日はさすがにこいつをちょっと磨いてあげました。
1年弱だけどご苦労様。
来年もがんばって私とたくさんの人をつないでね。

ではみなさまよいお年を。
今年1年どうもありがとう!


2000年12月30日(土) 今年も幸せ

もうそろそろ今年を振り返ろうかな。
といってもですね、人生上なにか大きな事があった
わけでないのですが、それが私の本望でして
「何事もなく普段が続く」ことが1番の幸せ。
昨日見たドラマでそういうのを「小さくまとまってる」と
言ってましたが、天と地がひっくり返るような出来事に
遭遇した事のある人はたぶん「昨日と同じ今日」が
訪れる事の幸せをわかってくれると思います。

私は向上心とは別に「求める」ことはある意味不幸だと
思います。
求めるが故に常に欲望が満たされないからです。
煩悩をなくし無欲に生きる人が幸せなのはそういうことだと
思います。
「私は不幸だ」と言ってる人の大半は自分の欲望が満たされて
いないからそう思ってると思うのですが、その欲しているものが
本当に必要なものかというとそれはその人によってまちまちで
「あんなの他人から見れば全然不幸じゃない」っていうのは
そういう価値観の違いですね。

私はある時から「自分は不幸だ」と思うことをやめることにしました。
もちろんそう思うほどつらい事に出会ってないのかもしれませんが
不幸っていうのは往々にして人と比べて自分が劣っているから
不幸と考えるパターンが多いと思います。
隣の芝は青く見えるし、物事には基準がないのでとりあえず
隣より劣ってるかどうかで判断するのが手っ取り早いといえばそうです。
そんなふうに私も「不幸」を気軽に口にして自分を慰めていました。

でもある時、考えました。
他人の物差しを見るのをやめよう。
それは子供の頃から日曜に親が仕事をしていたりして常に
「よそは、よそ。うちはうち」と言われて来たからでしょうが
私は私の物差しでつらいと思ったことが不幸、楽しければ幸せ、
その方が物事にいちいち一喜一憂するような無駄なエネルギーを
使わなくても済むではないかと。
求めるのならそれは自分でとにかくやってみようと。
そして何かをする時に無理に目標を決めずその時に自分でベストだと
思えるだけのことをやればいいじゃないかと。
そうすれば不幸の要因はすべてクリアできるんじゃないかと。

それで今年もやっぱり私は一度も不幸という言葉を口にせず
1年を終えようとしています。
今年はこれをした、あれをしたではなくやりたいことをやれるだけ
やった。
そうやって今年も、安藤みかげという人間を1年分作り上げた
ということが今年の私の功績。
そうやって不平不満もなく幸せな顔でいる今日の自分が
私の作品以外の何物でもないと考えます。

そしてそんな私を愛してくれる大勢の人たちが、かけてくれた
言葉のひとつひとつが何より1番の収穫!!
誉めてくれた事、叱ってくれた事すべてが私の頭の中で
新しいパーツとなってまた次のものを生み出す。
形のないモノは永遠に形がないけれど壊れる事もなくずっと
ココで生き続けて行きます。

あ・・・今年を振り返るじゃなくなった(笑)


2000年12月29日(金) 年末のご挨拶

母の友人に文章を書くことを趣味にされている方がいる。
その方からもらった手紙を読ませてもらった事があるが
くすみのない鮮明で優しい文章だった。

この方は同じような趣味の方とサークルを持っていて
日本全国にペンパルのような人が大勢いるらしい。
いわゆる今の私達のメル友みたいなもんだ。
あんな素晴らしい文章が日本を行ったり来たりしているの
かと思うとなんだかドキドキする。
私もよく素敵なメールを頂くのですがそれに見合った
お返事を書けないのが残念で文の練習の為にこの日記を
はじめました。
いまだに手抜きもあるし毒舌もあるし、一向に上達は
しませんがこの性格ですから、まあ続けていくには
そのくらいの気持ちでゆっくりやるしかないと自分に
甘く(笑)形式もエッセイという自信もないので
日記というええかげんな形をとってやや逃げ腰に書いて
いる次第です・・・。

話がそれました。
母がその方と知り合ったのはおととしのことですが
その年の12月31日にその方から1枚のはがきが届きました。
内容はその年1年お世話になったことへの礼状でした。
年賀状の代わりにその方は毎年お世話になった人に
暮れの12月31日に着くようにお手紙を書くそうです。
それは1月1日に着く年賀状よりもグッと心にしみたと
母は感動して見せてくれました。
年頭に抱負を掲げるのもいいですが、お世話になった事を
年末にお礼してその年を締めくくると言うのはなんとも
おさまりのいい習慣だと思います。
私もそれからそうしようと思いながらなかなか実現できず
今年も年賀状を書いてしまいました。

こういう粋な大人になれたらといつも憧れます。


2000年12月24日(日) 私の宗教

クリスマスイブ、とりあえず鶏モモ買ってきて食べました。
基本的に私の家族たちは無宗教。
ただ1人祖母だけが15年くらい前、ある日突然
クリスチャンになったので今晩はおそらくミサに行ってる
ことでしょう。

彼女はそれまで無宗教だった。
息子のお嫁さん(私のおばさん)がクリスチャンで
結婚式の段取りの為に教会に訪れたのがきっかけで
「イエス様の考えは私の主義に合いそうなの」と
彼女は洗礼をうけた。
小学校しかでていない祖母は結婚してからもずっと
働き通しで人からなにかを教わるチャンスがなかった。
だから毎週日曜学校でいろんなお話を聞く事が楽しくて
しかたないらしい。
食事の前にお祈りをし、ハロウィンパーティーの時に
みんなにふるまうちらし寿司に入れる高野豆腐を煮ている祖母は
とても充実した表情だ。

日本人は宗教と縁のない人が多い。
それってもしかしてだめなのかしら?と思った時に祖母に
「私も何か信仰したほうがいいのかなあ?」ときいた。
すると彼女は「あんたには必要ない。」と一言。
やりたい事があってそれを中心に生活している私には
迷いもないし、歩むべき道も自分で決められる。
そんな私には必要ないというのだ。

幸せなのかもしれない・・・。とはじめて感じた瞬間。
私には宗教が必要ないくらい幸せなんだ。
神以外に救えないような苦しみも悲しみもない。
やりたい事をやりたいだけやれる。
誤ったときにそれを諭してくれる人が大勢周りにいる。
確かに必要ないかもしれない。

家に宗教の勧誘が来てもきっぱり
「やりたい事があってそれの為に日々暮らしているので
今の私には宗教は必要ありません」と言える。
それ以上勧誘されたことは今まで1度もない。

宗教は信仰してないけど・・・
神様、仏様、ご先祖さま。今年も私は幸せに暮らせました。
どうもありがとう。
感謝の気持ち、それが私の崇拝しているもの。


2000年12月23日(土) クリスマス

天皇誕生日ですね。
朝っぱらから右翼団体が「君が代」をかけながら街を
ながしています。
うちの近所だけかもしれませんがいつも「宇宙戦艦ヤマト」
も一緒にかけて走ってる。
言いたい事はわからんではないが、「君が代」と一緒に
「イスカンダル」なんて歌詞が流れるのはどうだろうか。
っていうか天皇陛下はそれを聞いたらどう思われるのか?
前から気になっていて是非とも改善して頂きたいと心の中で
つぶやく私がいる・・・・。


世間ではすっかりクリスマスムードですね。
私の母は別にクリスチャンではないですが祭ごとが好きなので
ちゃんとツリーとかチキンとか用意してサンタもやってきて
結構盛大にやってた子供の頃。

現在はフラワーアレンジメントを習ってる関係上、12月は
家中がリースやツリーでいっぱいになる。
(12月のレッスンがすべてそれモノだからです。)
今年も飾るところがなくなるくらいいろんな物を作りました。
ま、別にパーティーするわけでも豪華な食事作るわけでも
ありませんけど。

そういえば「クリスマスディナー」ってやつは、どうして
あんなにも不味いのでしょう?
普段は美味しい店でさえ急激に不味くなる。
素材の良し悪しに関係なくクリスマスにちなんだものを
出さなければならないからだろうか?
おまけに一晩二回の入れ替え制で、結婚式の披露宴みたいに
みんなに一斉に食事が配られるのがなんとも不自然。
しかも普段フォークとナイフを使わないような人がにわかに
集まってきてるので変な緊張感が漂う・・・。
2回ほどそいつにがっかりさせられてから、クリスマスは
焼き鳥屋とか居酒屋とかなるべくクリスマスに無関係なとこで
食事をするようになった。
でもそれでもこの日に集中的に若者が街へ繰り出す為か、
23日24日に予約ナシで食事にありつくには相当の苦労が要る。
おまけにいきつけのバーなんか、普段ガラガラのクセに
こういう時だけ一見の客でいっぱいになり、店のムードも
一新するのあります。
そして結局「あー、クリスマスって鬱陶しい!!!」って毎年
叫びながら街を徘徊する羽目になるのでした。


2000年12月22日(金) 泣きドコロ

ロビンウイリアムスの「アンドリューNDR114」を
見ました。
ほんとに心優しくなるクリスマスに家族で見て欲しい
素敵な作品でした。

ところで人によって涙の出る場面というのは違いますね。
これって好みとかと似ていて「こういうとき泣く」って
いう指令が人によって違うんでしょうね。
例えば私は悲しい時ってあんまり泣きません。
涙が出るよりショックの方が大きいからでしょうか?
むしろ悔しい時とか震えるほどの衝撃を受けた時の方が
ポロリといきます。
だからめちゃくちゃ怒られても理由がわかってたり
納得できれば泣かないのに不条理なことで怒られたら
涙がボロボロでます。
たぶん意地っ張りだからだと思います。

「だから泣かそう」という魂胆が見え見えの作品では私は
絶対に泣けない。
「泣かそう」という姿勢がみえた段階でサーッと醒めてしまう。
泣いてやるもんかとさえ思う。
「ゴースト」とか「タイタニック」なんか絶対泣けなかった。
なんでそんなに「感動作品」として取り上げられるのかさえ
よくわからない。
唯一「タイタニック」の楽団の人が弾き続けたってとこだけ
感動した。実話だったから。
なんでローズはそんなに愛してる男が冷たい水に浸ってるのに
彼を救おうとしないのか・・・。がっかりだ。

今年のドラマ第一位に輝いた「ビューティフルライフ」だって
最終回にいくにしたがってどんどんがっかりだった。
私の周りではかなり評判悪い。
リアリティがないからかしら。
なんで車椅子で転んだ常盤貴子に原千晶は「大丈夫?」と
いうだけで手を差し伸べないのか?
そんな中途半端なことなら初めから車椅子をテーマにした
意味がないと思う。
キムタクだって彼女が死んでからあんな店するより、
車椅子の人の行きやすい店をつくってお客さんを美しくして
「とってもきれいだよ!」と自信をつけさせてあげるような
美容師になったほうがよかったと思うのは私だけかしら?
渡部篤朗と水野真紀カップルのほうがよっぽどリアリティが
あってよかった。

こんなことばっかりいってるから友達に
「この映画よかったよ。でもあんたは泣けないと思う」とか
言われるんだよね、きっと(笑)

だけどロビンウイリアムスの作品だけはなんだか素直に感動する。
たぶん彼のキャラクターだろうな。
「安心して泣いていいよ」って彼が言ってるように見える。
素直に勝てるものはないと思うのです。

そんな私が今年泣いた作品は
「ライフ イズ ビューティフル」だけでした。

そうそう、感動だけで泣くわけではないらしい。
ビックリでも泣くなと思います。
なんか震えが来ます。
例えば「欽ちゃん仮装大賞」でものすごい勢いで満点が出た
時とか、オリンピックですごい記録が出た時とか。
「マトリックス」や「時計仕掛けのオレンジ」の映像を見た時も
胸から震えがこみ上げて気付いたら涙がながれてました。

こんな泣きドコロなのでHPの映画のコーナーは
あんまり信用しないでください(笑)


2000年12月21日(木) 洋菓子グルメ王

私の暮らす街にはケーキ屋が1軒しかない。
区内に1軒しかないのだよ。
その1軒がこれまたとってもマズイ。
でも1軒しかないのでみんなそこで買うから、ケーキ屋
とは思えないほど馬鹿でかい店に成長している。
ほんとうになさけない。
区民の味覚はすっかりこのバカケーキに毒されている。

ご存知の様に神戸育ちの私はケーキには異常にうるさい。
神戸市民はおそらくみんなそうだと思う。
大阪で勤めていた頃、会社で手土産にもらったケーキを
食べる度「大阪のケーキってあんまり美味しくない」というと
びっくりしていた友人サルちゃんも、現在神戸市民になって
その意味がよくわかったと言っている。
神戸ははっきりいって「食い倒れの街大阪」よりも美味しい
ものが多い。
というかマズイ店が本当に少ない。
洋菓子に関していえば日本中から神戸に修業に来る人が
いるくらいそのレベルはずば抜けている。
だから小さな「街のケーキ屋」とて侮れないのである。

今やチョコレート業界では常識になった生チョコでさえ
私は小学生の頃から口にしていたのである。
そんな私が同居人でさえ「マズイ」というあのケーキに
耐えられるわけがない。
今は隣の区まで渡し舟(川が多いこの街には橋の代わりに
市営の渡し船が運航されている。もちろん人力ではない)
に乗り、自転車をこいでわざわざケーキを買いに行くのである。
ケーキ1つになんで往復1時間なんだ。

そんな私に一筋の希望の光が・・・。
来年春オープンのユニバーサルスタジオジャパン。
家から自転車で10分弱。
それに併設してどうも3軒のホテルがOPENするらしい。
ホテルなら必ずカフェがあってケーキもあるじゃないか。
たとえテイクアウトしていなくても、美味しければ私は
箱を持ってでも買いに行くつもりだ。
どこのホテルが来るんだろう・・?
どうかケーキの美味しいホテルがOPENしますように。
そしてそのホテルによってあのマズい低レベルのケーキ屋が
この街から撲滅されますように・・・。


2000年12月19日(火) 仏式結婚式

先日ある知り合いの女の子が結婚した。
彼女のおうちはお寺で相手の方も同業の方だ。
結婚式はホテルで行われたが仏式だった。
式に参列した友達は「仏式はやっぱり地味だった」
といって写真を見せてくれた。
お色直しをして打掛をきた彼女の隣には
ちょっと華やかな袈裟を着たご主人が写っていた。
なかなか新鮮だ。

彼女は会社勤めだったので主賓は当然上司。
一方ご主人の方の主賓はみんなお偉いお坊さん。
主賓挨拶はもちろん新郎側からスタートするわけだけど
さすがお坊さん、話しなれていらっしゃる。
なんせ諭すのが商売である。
大変おもしろいスピーチの後に、これまた運悪く
普段から無口なタイプの話下手な上司がスピーチ
することになってしまった。
ほんとうに気の毒な話だ。
結局しどろもどろになって収まりがつかずダラダラと
長いスピーチにみんなうんざりしてしまったそうだ。
こういうのもちょっと考えてあげないといけないと
思うね(笑)

お寺さんだからといってもやっぱりケーキカットも
キャンドルサービスもみんなやったそうな。
でも新婚旅行でニューカレドニアにいく2人に
友人がスピーチで
「お2人は新婚旅行で”世界で一番極楽に近い島”
に行かれるそうで」とおっしゃったそうだ。
やっぱり天国という言葉は彼等には存在しないらしい。


2000年12月18日(月) スター道

元宝塚トップスターで女優の剣幸さんと少しだけお話
できる機会があった時のことです。
当時トップスターだった彼女に恐れ多くも
「緊張なさることはないのですか?」とまだ世間知らず
だった私は聞いてしまいました。

すると彼女は
「緊張する時は自信のない時です。ものすごく難しい
セリフやたち回りの時はさすがに緊張します。
でもそうならない為に自信がつくまで練習するのです。」
とおっしゃいました。

うわ!これがプロか!

アマチュアながらライブハウスで歌っていた私です。
この話を聞くまでは緊張してました。
でもそれから緊張しなくなったのです。

緊張しなくなったまではよかったのですが、ある日
テンションがあがらなくなりました。
衣装を着替えてもメークをしても普段、家でゴロゴロ
してる気分とかわらないのです。
結局ライブが終わるまでそんな気持ちで歌って
しまいました。
テンションがあがってないと歌も上手く歌えません。

2〜3ヶ月毎日同じ演目を時には1日2公演。
緊張せず、しかもテンションを保ちながら
上演する剣さん。
同じようにそれを生業とする芸能人という人たちは
体力だけでなく自分の精神もコントロールできる
タフなハートを持っていないとやっていけない。


2000年12月17日(日) フレンチ道

昨日宝塚に行った時に新しく出来たフレンチのお店で
お昼を食べました。
OPENして3日目とは思えぬすばらしい店でした。

関西では今、またフレンチががんばっています。
バブル期にフレンチのお店が続々と登場し、その後
イタリアンブームの影に潜んでいましたが、とにかく
「高い」というリスクを解消することで関西の
フレンチは今、巻き返しをはじめています。
元々大阪や神戸には有名なシェフが何人かいて、そこで
修行をした人たちが丁度独立をはじめる時期であり、
この不景気の時代、いろいろアイディアを駆使して
低コスト化をはかり、今では3000円前後で立派な
フルコースディナーを食べさせるようなお店が
(しかもお味も抜群)しのぎを削っています。

いい料理っていうのは全部食べ終わって「美味しかった」と
言えるようなバランスのとれた料理を言うと思います。
食べる事が趣味の私は、お勤め時代お給料の殆どを食に
費やしていたので神戸の有名なフレンチはほぼ制覇していました。
やっぱりいい店といわれるところは味もボリュームも
『出すぎず引っ込みすぎず』だからといって個性はちゃんとある。
hanako west今月号の「おいしい店グランプリ」に
輝いたフレンチの店は、うちの近くにあるんですが
(つまり大阪の下町にあるということです)カウンターだけの
10席しかないほんとに小さな店です。
シェフと助手が1人、たった2人でやっている店ですが
無口なシェフが味とコストだけで勝負している店です。
みんなほんとによく鼻がきくなあ・・あんな店がグランプリなんて。
いまやフレンチは記念日だけに行く店ではなくなっています。

昔、本好きの友人に教えてもらった本で
海老沢泰久の『美味礼賛』(現在文春文庫でも出版)という
作品があります。
大阪の辻調理師専門学校の創設者 辻静雄氏の生涯を描いた
ほぼノンフィクションです。
辻静雄氏はあのTV番組『料理天国』のコーディネーター
でもあり、日本のフレンチ界の先駆者でもあります。
子供の頃から私にポアレだのフランベだのアメリケーヌソース
だのといった料理用語やテーブルマナーを教えてくれたのは
この人だといっても過言ではない・・・。
今、こうして私たちが関西でフレンチを気軽に普段着で
食べていることをあの世で辻先生は微笑みながら眺めているのだろう。


2000年12月16日(土) Oh!タカラヅカ

今日はですね、宝塚歌劇を見に行ってたのです。
「えぇ!?安藤ってヅカファンなの?」
いいえ、どっちかというとお仕事でよくお世話に
なってただけです。

皆さんは見たことあります?あの独特の世界を…。
そしてそのファンの熱心さも有名ですね。
宝塚歌劇は1つの劇団としてはものすごい人数を抱えた
めずらしいマンモス劇団です。
宝塚音楽学校という養成学校で2年間学んだ後、
ステージに立つわけですが、ファンの人はこの学校の
入学式から「この子はいける!」と目をつけその人の
成長をずっと追っていくという楽しみ方をしているそうです。
実際ファンの殆どの人はそのように新人の頃から共に歩ん
でいくことでますますそのスターへの思い入れを強く
しているのです。

あれだけ女の人がいっぱいいると確かに光っている人は
一目瞭然。
未来のトップスターは大体予想がつくわけです。
天海祐希さんなどは入団した時からトップを囁かれて
いたような人です。
でもみんなスターを目指して入ってきてるわけで、
あれだけ大勢のスターを目指す人々が集まっている
光景は圧巻です。
それを「自己顕示欲の強い女たちの集団」と言った人が
いましたが、まさにその通りです。
そのパワーは恐ろしいほど。
我々もお仕事で出会うことがあったとはいえ、
近づきがたい雰囲気でした。
だからこそ、そのステージのエネルギーもすごいわけです。

はじめ見た時はやっぱりあの独特の世界にビビりますが
なんで女性ファンが多いかと言うと、女性が思い描く
男性像がそこにあるわけで、あそこに登場する男性は
夢のように紳士で粋でかっこいいわけです。
3時間のステージが終わった頃には目もなれて、いつの間にか
夢の世界に引きずり込まれています。
今日も劇場を出る頃には心がラメ色になってました(笑)


2000年12月15日(金) 逃げ道

そろそろ今年を振り返る時期がやってきました。
今年一番私を変えた出来事2つ。
いい出来事・・・
PCを買った事。
友達に
「みかげちゃんは絶対首までどっぷりPCにつかる」
と予言されていた通り、私の生活の半分以上を
こいつが支配しています。
でもこいつのおかげでものすごく素敵な友達が大勢できて
とても充実した1年を送れたので感謝。

悪い出来事・・・
弟(クロちゃん)の親友 タッカン が死んだ事。
タッカンはクロちゃんの高校時代からのつきあいで
同じバンドのメンバーでもある。
クロちゃんの一番の親友だった。
ライブの2日前実家の近くのマンションから飛び降りた。
来年子供が生まれる事も知ってたくせに。
人が自殺する前って言うのはだいたいかなりおかしくなってる。
彼もおかしかったらしい。
第2の弟のようにかわいがっていたので私もお葬式にいった。
仕事がハードすぎてガリガリに痩せていた。
はじめてみた彼のお父さんは彼によく似てとても真面目そうな
人だった。
彼は真面目すぎて「会社をやめる」ことを思いつかなかった
のだと思う。

お葬式の最中、ふと私は自分の名前に関する由来を
父が話してくれたのを思い出した。
私の名前をつけたのは父だ。
画数とかも一応調べてつけたその名前を
「お前の名前は、完璧な画数よりちょっと抜いてある。
完璧にすると行き詰まった時、おかしくなるしかなくなる。
だからちょっと抜けるところを残しておかないとだめなんだ」
と説明していた。
だから私の名前は完璧な画数ではない。
抜ける所をもっていればタッカンも死以外に逃げ道をみつけられた
はずだと思うと悔しかった。

自分たちで経営をしてみてわかる。
仕事というのはどれも楽ではない。
仕事を愛せればそれはとても幸せだけど、多くの人は
お金を手にする為に、今日ご飯を食べ屋根のある所で眠る為に
働いている。
それに関してはいい仕事も悪い仕事もないと思う。
もちろん楽にたくさんお金をもらえればそれにこした事はない。
でも死を選ぶ事でしか逃れられないほどその仕事に
執着する必要などないと思う。
健康であれば世の中にはまだまだいくらでも仕事はある。
聞こえの悪い仕事だって働いてお金をもらう意味では
どんな仕事も同じ重み。
エリートサラリーマンが一番いい仕事だと思ったら大間違い
なのに、彼はそれにしがみついてしまった。

逃げ道をみつけよう。それは負けじゃない。
どんな手をつかってでも逃げ延びよう。
結局生き延びて自分の寿命を全うしたものが一番の勝者だから。


2000年12月11日(月) 『さよなら20世紀』

来年生まれた子は21世紀生まれなのね。
昭和生まれ20世紀生まれ・・。
だんだん古い人間になっていく響き。
でも20世紀っていったって私はその3分の1も
生きてない。

1世紀が100年。
私の祖母が80歳。
つまり私一人が自分のルーツについて話を聞けるのって
100年が限度ってことだ。
祖母のおじいさん、つまり祖祖祖父(?)は
兵庫県の明石市が村から市に変わる時に貢献した
偉い人だったらしく石碑にまで名前が載っている。
私がしってるルーツでもっとも古い話はこの話だ。
それがだいたい100年くらい前。
つまりその人は19世紀生まれなんだな。
そのおじいちゃんから私まで100年命が
つなげられてきた。
第2次世界大戦も阪神大震災も乗り越えて。

この100年、日本も地球もものすごくいろんな事が
あって、いろんなことが変化したけど
あいかわらず私は100年たってもただの人間で
おじいちゃんほど偉くもなくただこうして毎日
日記をつけて楽しく暮らしている。

地震の時に思った。
人間は地球の上に乗っかってるだけのただの生き物だと。
視野を少し後ろに引いてみれば地面を歩く蟻と
なにもかわらないってことを。
100年たって、便利になったけどいまだに私達は
地面を歩く生物。
さよなら20世紀。
でもそれは宇宙時間で、ほんの一瞬。


2000年12月06日(水) 答えはでない?

最近だんだん自分が前に何を書いたか忘れ始めました。
振り返るにももう3ヶ月。
一度書いて削除したネタなんかもあって、
「あれ?これ前書いたっけ?」なんてことがだんだん
増えてきてます。
「これ読んだことあるぞ」ってのが出てきても許してね。

これは夏のある日曜のお昼過ぎ店でのできごと。
昼ご飯のラッシュが過ぎてちょっとのんびり店番を
していたら近所のグラウンドで草野球をしてたっぽい
4〜5人の男の人達が汗もおさまらぬまま入ってきました。
いままで白熱した試合が行われたことが手に取るように
わかるほど息をきらし汗がひかり、楽しそうにビールの
売り場へ直行。
手に手にビールとおつまみやちょっとしたお惣菜を
もってレジに並びました。
その中の1人が温めて食べられるようなお惣菜を
カウンターに置き、他のものを取りにレジを離れたので
「こちら、温めましょうか?」と声をかけたら無視された。
まあ、よくあることだけどあんなに大きな声で言ったのにと
ちょっと心がカサっとした。
他のものを手にレジに戻ってきた彼にもう一度聞くと
コクンと頷いたので電子レンジへ。

すべての会計が終わって最後の人が店を出た瞬間
「しまった!!!」と思った。
なんと最後の人が出てみんな揃った時、表でワイワイ
と手話で話し始めたのです。
(ワイワイというのもなんか変ですが)
さっき心がカサッとしてしまった私はなんて失礼な事を
考えたのだろうと・・・。
日曜の昼に野球のユニフォーム姿で汗をかきかき、息せき切って
入ってくる人と耳が不自由な人が私の中でつながっていないと
いう差別的な考え。

そしてその次に「しまった」とそこで感じてる自分に
更に自己嫌悪。
「しまった」と思う「失礼な事を考えた」と思うその事が
心の中で耳が聞こえないということを特別視してるんじゃないかと。
素直に「ああ、聞こえなかったんだな」でいいじゃないか。
乙武くんのいう「心のバリアフリー」てこういうことじゃないかと。
特別扱いせず自然に振舞える事がいいんじゃないのかと。

でもいつも思うのです。
店に車椅子のお客さんが来たら
「高い棚のものはとりますから言ってくださいね」と
言いながら心の中で
「私があの人だったらやっぱり声をかけるのは
めんどくさくて我慢しちゃうよな」って。
なるべく声をかけやすいような近くでさりげに作業したり
してるんだけどそれももしかしたらその人には
プレッシャーなのかな・・・とか。
何が本当にその人にとって一番いいのか考えるほどに
わからなくなる。

むしろ「取って」と言われて当たり前、「取って」と言って
当たり前の世の中になったらずっと楽だろうに。
日本人はいい意味でも悪い意味でも遠慮がちな国民なので
それが浸透しにくいのか?
乙武くんのように積極的な性格の人は「取って」って
言えるだろうが私のようにめんどくさがりだったり
引っ込み思案の人だったらそれはやっぱり心の負担だろう。

「取って」と頼まれてイヤだと思う人なんてまずいないと思う。
結局「心のバリアフリー」で一番エネルギーを使うのは
「取って」と言う勇気を必要とする本人なんじゃないかしら。

考えても考えても答えはでない。
ただ勇気を出して「取って」と言ってくれたその人に
笑顔を返してあげる事でプラスマイナスゼロにしようと
自分を納得させて・・・。


2000年12月03日(日) 世界に誇る日本の・・・

「アイアンジャイアント」をみました。
アメリカのアニメは日本のアニメより20年遅れてますね。
ディズニーアニメが進んでたのは昔の話。
日本はとっくに抜かしてしまって追いつけないくらい先に
行ってしまってます。
所詮アメリカでアニメは子供向けなのだそうで・・・。

私の知り合いの旦那さんのお父様はヨーロッパに
初めて日本アニメをもちこんだ方。
その作品は「UFOロボ グレンダイザー」
私の世代なら見た覚えがあるでしょうか?
このアニメを初めてフランスに持っていった時、
ものすごい話題になったそうです。
ディズニーから一向に進化していなかったアニメ界が
日本では独自に発展していたことに当時フランス人は
驚愕したそうです。
鮮明な色、ナチュラルな動き、そして子供だましを越えた
精密なストーリー構成。
未だに日本はアニメ先進国。
だからアニメーションの事をフランスでも「アニメ」と
称するのだそうです。

この方、松本さんとおっしゃるのですがヨーロッパの
アニメ界でこの方の名前を知らない人はいないくらい
有名だそうです。
なんせ新しい文化を日本から運び込んだ人なのですからね。
今は息子さんが跡を継いでヨーロッパ中を日本アニメを
持って飛びまわっていらっしゃいます。

フランスとアメリカでは日本映画の受け入れられ方はずいぶん
違うそうです。
フランス映画とハリウッド映画の違いを見ればわかりますが
やっぱりフランスの方が日本の感覚に似ているのか、
受け入れられやすいそうですね。
「もののけ姫」はフランス人には受けたけどアメリカでは
無理だったらしい。なんかそれは頷ける。
なんで「もののけ姫」もって行っちゃったかな、ジブリ。
宮崎アニメの大ファンというイギリス人の青年が来日した際に
私の友達と丁度ロードショーしていた「もののけ姫」を
日本語もわからないのに喜び勇んで見に行ったそうですが
それを通訳する友達はどう説明していいかわからなかった
シーンがいっぱいあったとぐったりしていた。
日本のアニメはナイーブすぎるのか?
それでもやっぱり世界に誇る日本のアニメは映画大国
アメリカも追いつけないくらいリードしてると実感した
「アイアンジャイアント」でした。


2000年12月01日(金) 嫌いになれない人

日記リンクが流行っております。

私が「嫌いな人」は本当に少ない。
もちろん「好きでない人」はたくさんいる。
でも「嫌い」になるのはとても難しい。
なぜなら自分が「人に好かれる人」とは思っていないから。
弱点がいっぱいある。
物事の好みが偏っていてはっきりしすぎる。
協調性がない。
誰だってはじめは「なんだこいつは」と思うらしい。
そう思われても付き合ううちに相手はだんだんその意味を
わかってくれる。
「単に好みや主張が白黒はっきりしてるだけなんだ」と。
わかってもらうのには多少時間がかかる。
それでも分かってくれる人がちゃんといる。

初めて会っただけでは人はわからないものだと身をもって
感じているからどんなに第1印象が悪い人でも、きっと
どこかにいい面があるはずだと探してしまうのです。
そしてみつけてしまうと、その人を嫌いにはなれないのです。
悪い面があるとその裏には逆の長所が隠れているものだから。

昨日書いた私をいじめた子。
かおるちゃんという。
でもかおるちゃんが私より先に引っ越した時、私はひとつの
思い出の為に泣いた。
それは彼女が引っ越す少し前。
私をいじめていた彼女とクラスが別々になった。
その時私はどうしても苦手な事があった。
それはドッジボール。
ボールが怖くて受けとめられなかったのです。
かおるちゃんは学年でも一番ドッジボールが上手かった。
そのことやいじめの事を知っていた母があえて
「かおるちゃんにボールの受け方教えてもらったら?」と
言いました。
私もこのままはなんとなく嫌だったので勇気を出して
かおるちゃんの家を訪ねました。
かおるちゃんは不思議そうな恥ずかしそうなちょっと照れた
ような仏頂面で「いいよ」と言いました。

家の前の広場で特訓が始まりました。
「胸で抱える様にうけるんだよ」と何度も何度も彼女は
私にボールを投げてきました。
初めはゆっくり、そのうち段々強く。
そのうち彼女の顔が変わってきました。
それは私への悔しさ。
公文を習っても何をしてもどうしても私に勝てないという
悔しさをボールに思いっきりこめて投げてきているのです。
そしてとうとう、私がどんな強いボールも受けられる様に
なった時、彼女の悔しさも燃え尽きたようでした。
それから彼女の私へのキツイ視線はなくなりました。
「ありがとう」といってその日彼女と別れて、それから
学校でも話をする事はなかったけれど、引越しの日に
私が彼女に会いに行ったら寂しいような申し訳ないような
なんとも言えない表情で彼女は「さよなら」と言いました。
だから私は彼女の事を今でもずっと覚えています。
そして嫌いになれない人なのです。


安藤みかげ