痒痛 ☆ 日記 
お酒と音楽と変人と。菫色の日々。

2003年02月28日(金) (なんど目かの)身も蓋も無い

自分が愛煙しているタバコの銘柄ですが、どういう意味なんだ?とふと思い愛用の自動翻訳サイトへ。英和辞書をもっていないのだ。

新銘柄がでるたびに、試しまくり、そしていつもココに帰ってきた、糟糠の妻よ。
CASTER。パッケージが変わった時には、いつものもっさりした妻じゃない!と変な違和感を感じたものですが、あいかわらず頼りないソフトパックでいてくれてありがとう。君さえ吸っていれば、喉もイガイガしないんだ。安心なんだよ。

さあ、君の名前にはどんな意味があるの?
レッツ トランスレイト!

CASTER → 足車

そりゃあそうだけどさ・・・


椅子や台車の足についてる滑車をキャスターっていうよ。いいますよ。
でもタバコの銘柄だよ。ほかの子は 七つの星 とか 桜 とか 雲雀 とか、
木霊 とか わかば(そのままだ)とか、イメージがあるでしょ。
なに?わたしがネイティブイングリッシュスピーカーだったら、
「itchたばこナニ吸ってるの?」
「足車。これに決めてる。」

こうなの?

いや、きっとCASTERにも、他の意味があるのだ。頭のどこかで、馬に関係していたような気がするぞ、と雑学くんの声がする。
しかし英和辞書がない今は、足車と承知せざるをえない。

昔、スペインにいった時だったか、タバコ屋の親父との会話の中で
「日本のタバコはうまい!(スペイン語)」
「そう?(エセスペイン語だったか英語だったか日本語だったかジェスチャー)」
「そうだ。七つの星はサイコウだ!マルボロなんかくそだ!(スペイン語)」

今でもそうなのかしら。とにかく若くておしゃれたい人は輸入モノとくにアメリカタバコそれもマルボロ限定つまりマルボロを国産モノの3倍近いお金をだして吸うことがステイタスだった。だから仲良くなると観光客はすごくタバコを強請られた(そのかわり、みんな必ず自分がタバコを吸うときには、目の前のひとに1本といわず差し出してくれる)ものですが、その時の、

七つの星 Los siete estrellas
が、すごくきれいな名前に聞こえて、とくにマルボロにくらべるとなんて詩的なんだろう、
i Viva Cigarrillo japone's!
と、とたわいないところでナショナリズムをくすぐられた思い出があるのです。

だ・か・ら、愛するキャスターにもなにか、そんな詩的なイメージが欲しかった。
悔しいので、明日 図書館で調べます。
足車じゃイヤ。



2003年02月27日(木) プロのひと

きょうスーパーマーケットで、瓶詰の塩辛を12本買うおじさんをみた。それは重そうだった。安かったのかもしらん。が、一気に12本纏め買いするほど激安とも思えない。よーか堂だし。
おじさんは他にもたくさん買い物をしていた。煮豆とか、豆腐とか。
一瞬、このヒトは料理人で、お店のツキだし用の塩辛を買っているのかなあ、とも思ったけど、それは可能性の一つとして、一番かんたんに納得のいく説明であるだけで、そうでないことは分かっていた。
塩辛おじさんにはプロの気配は微塵もなかったから。
手作りの塩辛を毎日仕込むのもプロならば、業者用大パックを買って悪くなるまでつかうのもプロ。でも、小鉢にあけたら10人分もないような瓶詰をいつもより30円安いからと纏め買いするのはプロじゃない。12本の塩辛瓶を全部きちんと立てに袋詰したレジ係のほうがよっぽどプロ。

ま、そういうことよりも佇まいでわかるものでしょう。料理人に限らずプロのひとがその仕事関係で動いている時には。なんだろう、あれは。別段緊張感にあふれているわけでもなく、むしろスムーズ&ナチュラル。当然あたりまえのことをしているんです。確信。かしら。その先に明確な目的があることが回りにも伝わる。

でも、塩辛おじさんは、はっきりいえばただの変なひと。わたしは変わり者を見るのがすきなので、周囲から浮いているひとを見つけるとついジッとウォッチングしてしまう。
変わり者が好きなのは、その行動にいたる理由が想像つかないから。だいたい安いからって、せいぜい4〜5個でいいじゃない。いったい毎日どれぐらいの量の塩辛を消費するのか。お客さんをたくさん呼んで大いに飲むのか。絶対違う。おじさんには、独り者友人少なしの匂いがプンプンだった。塩辛はおじさんによっておじさんの為にだけ購入されおじさんひとりで消費する、ハズ。


結局 世界ってあいかわらずわからないことだらけで、確認して納得して把握して、少しでもこの世界を理解したいという欲はいつまでもあるね。
生まれてみたらなにがなんだかわからなくて、触って嗅いで舐めて、見て質問してだんだん「なんで?」てきかなくなって、わかったような気になっても奇異なもの驚くようなものに出会うと、まだまだ世界ってわからないところ油断ならないところと興奮して緊張する。冒険だから楽しくて怖い。
身近なことでは変人に出会うだけで、人間さえもよくわからんということに
「オレもまだまだ・・・」と思うしね。
それに大抵のひとは旅行が好きだ。見たことの無いところへ見なれていないところへ行きたいのもきっとそう。新しいこと知らないことをを知りたいのも、勉強したくなるのも、きっとそのうんと先で、自分のいまいる世界をわかりたいから。

ちょこっと変わり者ウォッチングを記しておくつもりが飛躍してしまった。
塩辛おじさんは、自転車のハンドルに塩辛を12本、ちゃんと袋に立てたままぶらさげて帰っていきました。それがもうプロっぽくないのなんのって。




2003年02月22日(土) せんせい

服部克久はなぜあんなに生まれつきえらそうなのか。
個人的には存じ上げないですが、あの語り、ものごし。ものすごく若い頃から先生と呼ばれてきた男、というかんじ。
二世だから?ほかでもない服部良一の息子だから?
しかし黒澤久雄は黒沢明の息子だが、若い頃からいつみてもどこからみてもなにをしていても小物にしかみえなかった。
むしろ安心して小物しているようにさえみえる。これはこれですごいことかも。
石原伸太郎の息子も加山雄三の息子も小物感のかたまりだけど全然安心の境地から遠いところにいる。みたい。
小沢征爾の息子は・・・ わかんないや。なまえの読み方もわかんないし。パス。
美空ひばりの・・・ あれは甥だ。ん〜 パス。

二世とは関係無いのかも。でも服部克久はえらそうなのだ。毎週NHKFMでDJをしているけど、教授というでもなくマニア的でもない、ただもう大御所チックなのだ。嫌いじゃないけどね。でもずっとみんなにそういうキャラクターだと受け止められてきただろうに、イヤじゃなかったのかなあ。
「もっと僕にフランクになってよ」
とか思わなかったのかしら。

克久先生のポップスグラフティで、久しぶりに、真夏の夜のジャズのなかのアニタ・オデイの歌う”Tea for two”を聞きました。
すっかり忘れていたけど、わたしの一番すきな女性ヴォーカリストは彼女だったんだった。1枚しかもっていなかっったアルバムを聞いたなあ。ひ〜うんまい〜、と何度聞いてもどのフレーズも耳がお留守になることがなかった。
いつぐらいだ。中学生か高校生の頃かしら。その後 味のある表現という罠にはまってしまい少し遠くなっていたけど、歌手も役者もとにかく舌をまくほどうまいひとが子供の頃からすきだったのだな。
自由自在な表現能力にジャンプ力。これしかできない味勝負。飛びぬけてしまえば、なにかが滲んでしまうのは一緒。
どっちからのアプローチが好きかってこと。
比べてもしかないことを比べたり選んだりして10代20代は過ごしてきたんだなあ、と枯れたふり。でもまだなんでもどうでもいいよ、まではいっていない。みたい。
黒澤久雄の境地は遠い。



2003年02月19日(水) いま欲しいのは押し入れ収納棚

さみしさのつれづれに 通販にはまったらおしまいだ、とツクヅク部屋の隅に小山をなすカタログを眺めながら したためています。
土曜の資源ごみにださないと。危険。

これが欲しいぞ、と思うまでお店にいかない、CMはみない、いままでコレでしのいでこれたのですが、春夏号の名のもとに、毎日我が家に商品がおしかけてきます。
広告メールは一日に何十本もはいってきます。

飲み物だけ、と言いながらメニュを見たとたんにアレもコレも食べたくなる。
通販もそうなの。もううちには、一冬に着る機会の巡ってこないセーターも、毎日使い捨てしてもしばらく持つほどパンツも、両手の指に3コづつつけてもいいほどの指輪もあるのに、見ると新しいものがほしくなる。
でも、コーディネートには頭と時間をつかうので、新物を買っても組合せを思いつくまでついいつもの格好をしてしまう。春や秋の短い旬のものはそのまま何シーズンもお蔵入りだったりします。
いつでも流行り廃りの関係ない格好になるのはそのせいです。

カタログ通販は、きっとみんなそうしていると思うけど、まず欲しいもののページの端を手当たり次第に折っていきます。dog ear だっけ。そして電卓をとりだしてとにかく全ての総計をだしてみてギョッとします。たいてい うん十万とかになるからね。それから毎日同じカタログを眺めくらし、
デザインはいいが使いづらそうである
ほとんど同じようなものを持っている
これを見て思いついたが手持ちのアイテムをこう使えば似た効果がだせる
いくらなんでも高すぎる
などの理由から一日一日、一頁また一頁と、垂れた耳を立てていきます。
その度に残った候補の総計をまた計算します。
そしてこれなら払えるという金額になったあたりで、今度は候補のページを破りとります。これを申し込みハガキとともに、どこに行くにも持ち歩く。しばしば出して眺める。

やがて破いたページは折じわができ、端は紙の繊維がモロモロになり、載っている商品の魅力も薄れたようなカンジになります。この間もどこかでいいものをみつけてお買い物をしてしまっているかもしれないので、かぶった商品のページを捨てたりしているうちに最終的にそう、3点くらいになるかな。ここでやっぱり欲しいや、と思ったものだけ、ハガキで申し込みます。
我ながらクドイ。でも通販はハガキ! いきなりカタログをみて電話をしたりしてはいけない。My fatharのように眠れずにTVショッピングを見るのはいいが午前3時にいきなり電話でカーナビを買ったりしてはいけない。もちろん翌朝家族中の軽蔑の眼差しに耐えかねキャンセルの電話をしていました。

このように通販というものに鉄壁の防御をしき堅いルールを守ってきたのに、ネット通販に対しての免疫、自己防御がなかったの。
今のところマイルールは
送料無料
のみ。
たった2月の間に、
すごく美味いトマト(たしかにすごく美味かった。でも食べちゃった。もうない。)
腸すっきりなんとか(やってみたかった。今後は不要)
70%offの時計(こんどこそと思ったけどやはり腕時計は身体にあわなかった。電池をかえればいいだけの時計をすでに7個所有)
玄米おかゆ(玄米を買えばいい、とすぐ悟った)
冬物一掃60%offブーツ(試し履きをしないで靴を買うのは勇気ではないと知った)
強運のペンダント(うちの家紋と一緒だからこれもなにかの縁、と自分を騙して購入。でも限定30個・残数4個にそそのかされた。もちろん宝くじが当たるといいな、と思った)
それから化粧品お試しセット4ブランド(いらないポーチがまた4個増えた。毎日コンビ二に1050円の振込用紙をもっていくのが恥ずかしかった)

無駄遣い、なのでしょうか。これもひとつのお勉強代なのでしょうか。
これからは、セキュリティー警告のウィンドウをなにも考えずにエンターで、スキップしてしまうのはやめたいです。



2003年02月15日(土) 愛称 モジ

しばらく絵をみに行っていないなあ、と思っていたら、いま、メトロポリタン展をやっているのですね。
わたしはべたですが、とてもとてもモジリアニの女性像が好きなので、
よし!来週さっそくBUNKAMURAにいって、いっぱいポスターやら絵葉書やら買ってこよう!!!(いつでも本物よりお土産屋さんの方が好き)
と意気込んでいたら、パリ行きの格安チケットが当たったよ、というお知らせが。

わあい、3年ぶりのパリ。
なんだあ、では3月に本場でモジの絵を見よう、と思ったけど今までパリで美術館には足を踏み入れたこともなかったことを思い出しました。
今回も絶対いかない予感。きっといかない。

それに見たい絵もみんな世界中に貸し出されているかも。

やっぱりBUNKAMURAにいってきましょう。
せっかく渋谷にいかなくて済むと思ったのに。
もうあそこはブラックホールのような町だから。

だいたいなんだ。文化村 でいいではないか!



2003年02月14日(金) 犬と猫

猫のような女=小悪魔的 と見られたい。
このような生っぽい欲望は10年前に卒業したはずです。
でも最近おもしろい説を聞いたので。ちょっとだけ。

人間はみな無いものねだりなので、コンパニオンとして犬を選ぶひとは、いわゆる猫型人間。猫を選ぶひとは犬型人間。
信頼を尊び役割を遂行することへの熱い情熱をもち、ひとなつっこい犬チックなひとは、食って寝て自分の欲望のためにしか行動しない猫を偏愛し、移り気で、わがままなのに人見知りな猫っぽい(あくまでぽいですよお)ひとは、犬だけは自分を決して裏切らない真の友のように語る。
どっちも人間相手ではプライドがじゃまをして自分と逆のタイプに
「好き 自分に似たタイプにはうんざり 一緒にいるとホッとする」とはおおっぴらに言えないけど 動物だったらだいじょうぶ。まして相手はかわいらしい。


こういうエセ心理学みたいな解釈って、一瞬
「そうそう。当たってるよ」
と口からでてしまう。
「そのとおり。だからわたしは猫なんだわ」
とかね。

ひとと付き合いを深める前に、おおまかにタイプわけして、今までの経験と知識からこのひととどう付き合ったらリスクが少ないか、自分が傷つかず、かつ余禄を得られるか。
余禄は単純に「楽しい」でもそうだよね。
これはみんなやる。誰に似たタイプ→要注意 とか初対面いきなり好感度上 とか。
でも、まかりとおっているけどふううん な分類法をいきなり使うのは自分の判断をサボりすぎ。血液型とか星座をか動物占いとか。
話としては楽しいから、こういう話もできるようになったんだ、の段階でならイヤじゃないけどね。
そういう分類法を研究して世に広めたひとなら好きなだけお試しなさい、だけど 
まあ大抵のひとは時間つぶしの雑誌の受け売りだしょう。

上の犬猫分類法でいくと、わたしは完全に犬好き→猫型人間なんだけど、そのほかに毛の生えていない、ヌルッとした生き物を偏愛する人間の心理分析はここからは無視されてる。ブーブー。
どっちを選ぶ? コモドドラゴン or オオサンショウウオ
ならば当然わたしは後者なのですが、爬虫類と両生類の性格の違いなど誰も研究していないのかね。金にならないからね。所詮 金 ですか!

ちょっと両生類愛のために話がずれてしまった。
そうです。そりゃあわたしは 集団行動が嫌いで、人見知りで、確たる目的意識も持ったことが無く、 居心地のよいところに一度座ったらめったに動かず、どこにおじゃましても猫あつかい=役にたたないけど、吠えないのでいてもいい、そんな猫っぽいひとかもしれませんが、ひとに対する飽くなき好奇心、誉められたいこの気持ち、一度忠誠を誓えばまず揺るがない、ものすごく犬的な人間でもあるのです。
第一 犬が大好きだけど、猫も好きだあ。

判断は生で時間をかけて下されたものならしかたない受け入れよう、でも2つの選択肢で勝手にきめるなよう。

心理学は勉強をしたことがないのでおいておきますが、こういうエセ心理分析やそれを元にした心理テストがきらいです。

今回は愛する両生類を思い、やけに熱くほとばしってしまいました。


あ、でもね、いきもの好きの女のひとはつい対象を自分の子供みたいに扱うけど、男のひとはやけに 親友・奴・同居人・・・どことなくロマンと照れのかほりがする。
男のひとの語る おれの犬or猫。
スポーツに生きざまを見てしまう語ってしまう。
近しい匂いを感じるわ。



2003年02月12日(水) 兎と亀

何度か事故にあったり、たくさんのお金を警察に納めたりして、いまではスッカリ安全ドライバーのわたしです。
「あおるなあ。どうぞ先にいってください。ば〜か。」
というのがもっぱらの運転態度です。
そうなると、車のお尻をみていることが多いわけで、後姿というものは人でも車でも カッコヨサ・マヌケップリ をありありと映し出してしまうものですね。
本人は決してみることはできないけれども。

後から悔やむから後悔というのだ。使い古されたことばですが。
でも、
しまった
とか、
これは危ないかなあ
という気持ちは伝達速度がおそいです。理性による判断だからかな。脳にたっするのがゆっくりなの。
それに比べて
いっちゃえ
とか、
このやろうなめんな
という気持ちは早いのね。感情だからねえ。アドレナリンどばっと。即→脳。

で、手足は脳からくる信号に順番にしたがって動くと。

運転中は脳フル回転で、瞬時に 判断 判断 だから、きた信号にとっさにしたがっちゃうのかも。たくさんのひとがハンドルを握るとひとが変わるけど、そういうひとは時間があれば、つまり日常では先にぐっと上がってきた感情をおさえて大人としてふるまっているのでしょう。

いままでみた愉快なドライバーさんは、やはり普通の感覚のひとではないのでしょう。運転中でも感情先走りタイプではないように思います。

すごく大型のベンツが38km/hペースを守って4号線を走っていて、そこは40km/h制限の道だったので、2km/h余裕を持たせたのでしょう。この時わたしはあと1点で免停だったので、40km/hジャストで左車線を走しり、一瞬横に並んですいっとベンツを追い抜いたので(駅伝の追い抜きのようでした)、たぶん38km/hくらいだったのだと思われます。そうこのベンツのおばさんは中央車線を走っていたのですよ。真後ろの車は懸命に長いこと右車線に移ろうと、ちらちら車の鼻先を何度も動かすんだけど、もっと手前の車は、なにゆえかしらねど中央車線がつまっていることは分かっているので、じゃんじゃん右に移ってガンガン走り抜けていくので、彼に首をはさめる隙はないのです。
おばさんの車は1千万くらいするようなベンツでした。

もう一人は若いカップルでした。

スクーターで走っているとドンドン車に抜かれていきます。
まあね、いいの。都内の道だと、たいてい次の信号で追いつくからね。
たまにトコトコ路肩に寄せて健気に走っているわたしをワザと
「邪魔だ」
とばかりに肩先すれすれに寄せて抜いていく馬鹿野郎もいますが、次の信号でトコトコ追いついて停止線で横にとまったりすると、ここぞとばかりにドライバーの顔をみてやります。二輪車の停止線が車用より前にあるときは振り向いて、メットのフェイスガードを持ち上げてじっくりと
「コロスキカ!」
という気持ちをこめてみてやります。
ほとんどの奴は一瞬の、「うぜえんだよ」という感情に動かされあとからの「やばい、ひっかかったら危なかったな」という判断が追いついたころなので、気まずそうに目をそらします。
この話をすると危ないからやめろと言われちゃうんだけど、そうかもね。でも本当に危なそうなのは、次の信号で横になったりしないから。ぶっちぎって先にいってるからね。

愉快なカップルはそういうのではないです。
たまたまその道はずっと停止線が横断歩道よりかなり手前に引いてあったのです。
そして人通りのないまっすぐな道なのに、やけに信号が長いのです。
運転手である、カップルの彼は、きっちり停止線でとまるんだけど、ふと見ると、
10cmくらいずつ ズル ズルズル と前に進んでいるのです。ほんとにチョビットづつ。
まっすぐな道で、信号が青になるたびに彼はビューンとわたしを抜いていくんだけど、また次の信号でもわたしが追いつく。またズルズル ビューン 追いつく ズルズル。しまいに何回目かにはズルズルしすぎて信号機の真下までいってしまい、当然、死角にはいってしまった信号が青に変わったことも見えず、後ろの車にクラクションを鳴らされていました。笑った。

こういう彼氏とつきあうのってどういう女の子なんだろう、と助手席を覗いたけど、彼女は終始、身体を横にしてドライバー君を向いていたので顔はみれなかった。

小心。
愛すべきもの。



2003年02月11日(火) 貧乏人の子は眠れない

こんなことわざが昔からありますが。って。
いや、知りませんでした。常識ですか?誰でもしっているのですか?

あいかわらず、日本昔話には教えられることがいっぱいです。
まだ読んでる!

たぶん、お腹がすいたまま眠る & 考えることがいっぱい(明日食べるものや明日期日の借金)。なるほど道理にかなっている。けど、そのまんまだよ。コトワザなの?なにか裏の意味があるの?わかんない・・・

さて先日、「とんち名人はみんなイヤな奴」と結論づけて終わった名人戦ですが、本日サイコウにイヤなとんち野郎をみつけてしまいました。
岩手の 馬喰”やそ八”
君がナンバーワンだ。

嘘をつき
ひとを落としいれ
金をゆすり
母を餓死させ
その罪をひとにおっかぶせ
また金をゆすり
ひとをだまして何人も死においやり
ひとの財産をのっとった

すべて口先ひとつ。これが やそ八 の人生だ。
胸糞悪いぜ やそ八。バチあたれ。しかし成功したところで話は終わる。
それが とんち話。
なんつうか、理不尽でしょう。

ああ、花粉症の季節なんだな、とありがたいことにまだ他人事のように言えるわけですが。
今日 鼻マスクをしているひとを見た。
鼻だけ覆うマスクです。あんなの売ってるのかなあ。自分専用の手作りかしら。
ブルドッグみたいなおじさんだった。奥さんの手作りかな。
ふつうにホームで地下鉄を待っていました。恥ずかしさ微塵も感じさせず。
我が道をゆく。こうしないと洟がだらだら垂れっぱなしなんじゃい、とばかりにスッと伸びた姿勢。ブルドッグみたいなんだけどね。

男らしいぜ。



2003年02月09日(日) ゴジラ

顔、髪質、肌質、笑顔が マツイそっくり。でも身長がヤンキーより、25cmほど少なめ。というのは現代男子として、逆転を狙うに頭をしぼるのではないか、と勝手に想像しています。彼、クラブ遊びが大好きなんだよね。
ルックス(この言葉も死につつあるね)をあげつらうわけではないけれど、似合わない。なにを着ていてもおしゃれじゃない。またいつもアタラシモノ身につけているんだ。パーティ・DJ・トランス・オール と しじゅう口にしているけど、いやあ どうみても盆踊りっしょ。
あ、あげつらってますか。

もう、君の武器は「可愛げ」これしかないよ、と言ってしまいたい。

彼は自己イメージをどのように持っているんだろうなあ。

殿方の場合は、ほとんど想像つかない。ロマンチストだったり照れ屋だったり、ひねくれてたり。いわれているほど 女性にいいとこみせたい、と思っているのか。

ふと、平日におとうさん改造計画なんぞを見ていると、たいてい皆、
「生まれて始めてこういうかっこをしました」
なんて嬉しそうにしている。
自らトライして、笑われることをなにより恐れていたのかも。
これは少し想像できる。
わたしはジーンズ屋さんにいくのが怖いもの。店員さんにバカにされるのでは、と恐れている。
同じように、普通の男の子は、スニーカー屋さんが怖い、と言っていました。

でも、ミニゴジラは今のところハッタリかもしれないけど、なにも恐れていない。



2003年02月08日(土) 今やろうと思ったのにい

はじっことはいえ、東京に家があって、部屋もあまっているのに、わざわざ家からドア〜ドアで30分くらいのところに、部屋を、それもビンボーそうな隠れ家を借りている、というとひとは
「もったいな〜い」
とおっしゃいます。
ベツニモウオヤカラケッコンセヨトセマラレルワケジャナイデショ、と。
一度も家からでたことのないお嬢さんは、
「いいなあ、家賃いくら?」
と尋ね、4万、と聞くと、イマドキドンナヘヤニ・・・、と黙りこみます。

もったいないのは、お金。月に自由になるお金があと4万あったらいいのに、という意味ですか。でも、そんなに物欲がないのと、実家にいた時も深夜のタクシー代を結構つかっていたので、わたしは山手線圏内に住めて満足です。
実家にいて、終電で帰れば月7万は浮くではないか、という考え方もありますが、そしたらなんのための人生ですか。
全部、本、旅行、お付き合い・・・消えモノで使ってしまう。7万程度では生活のレベルアップとはいかないっしょ。

なにより、一人暮らしは健康にいいよ。親にやさしくなれる。
なにが嫌いかって、つくづく、ひとから指図されることが嫌いだ、と最近あらためてわかったので、
おきろ
ごはんをたべろ
せんたくをしろ
へやをそうじしろ
おふろにはいれ
かみをぬれたままにするな
もうねろ
こういうことを、少しでもほのめかされるともう駄目。喧嘩はしたくないので、黙ってむくれるか、自分でもコントロールできないほどトゲトゲしいひとになってしまう。ハイハイと受け流すことができないのです、いまだに。
家庭教師をつけたことはないけど、あんなふうに斜め後からずっと手元を見られて数学の解の展開はこの方がいい、とか言われたら耐えられん。
結局傲慢な人間なので親でも誰でも、
「口出しすんな」
ひとのせいにしないから放っておいてほしい、というのが一番の欲かしら。

しかし、親にとって子供って人格以前のもんだいみたい。なにゆえに午前10時に起こしたぐらいで、目覚ましは10時15分にかけているのに、わたしが眠くて不機嫌などころでないほど怒髪天をつくのかは理解できない。
「いま起きるところだったんだ!」
ならなぜそんなに怒る?
それはそうですね。でもね。起こされたくない、自分で起きたいんだよ。たとえ寝坊しても。
お互いに愛が噛み合わず悲しい思いをするので、週に2回くらい(十分だ)顔をみせ、2回ほど はやくごはんたべろ、と促されると今週はもう十分、と隠れ家に帰ってくるのです。

来週はバレンタインデーですか。昔、
「itchは○○君に 当然 あげるんでしょ。もう買った?」
と友人にほのめかされ、もちろんあげるつもりでいいのを探そうと密かにはりきっていたのに、急に他人に 当然 とか言われて
「べつに。つきあってるわけじゃないしね。」
と心冷え、投げやりになり、やめてしまったことがあるっす。

たんなるヒネクレモノですか。



2003年02月07日(金) 説明なし

って、潔いような、気持ち悪いような。

うたの主題はつねに 愛 と信じているんだけど、恋愛かどうか、っていうと・・・

恋愛に対する、盲目的な信心は面とむかってはこの頃薄くなってきたように思うけど、その対角にもってきたものが、ただの欲情とか、かけひき、獲得欲、逃避、では弱すぎる。
恋愛は計算だ、と広言するひともいるけど、それは男女関係(同性間でもいいんだよ)は計算である、の言い間違え。語彙が少ないんでしょう。
恋愛の価値を打ち消す必要もないと思いし、そんなものでは 恋愛への盲信は打ち消されまへん。まだまだ負け犬の遠吠え。
それだけ、ひとは夢みてるよう。
恋に。
運命の出会いに。
半身に。
誰も永遠に、一人なのではない、って希望に。

たしかに、恋なのかも?
と思った瞬間からしばらくの自分って、コントロールがきかなくて、
身体はかってに熱くなるは、心拍数があがるは、思ってもみないことを口走るは、
異常、アラート、なにかの信号みたい→奇跡の予感。
と思いがちですよねえ。
なんどそうなっても、
「これが本物か?!」
年をとっても、家庭をもっても、たぶん性的に機能しなくなっても、その瞬間は信じてしまう。んでしょう。伝え聞くところによると。

根っこはなんなんだろう。この、真実の愛への信仰は。
一人ぼっちはつまらない〜 、の仲間つくりへの情熱とはあきらかにレベルの違う
熱。長続きしないけど、ものすごい瞬発力と心を飛躍させる力。
わからない。
けど、人間が他人の心がわからず、他人からも自分の心をかくしておけるかぎり、この先もずっと一番強い、夢と希望でありつづけそう。
平和への願いより、愛するひとが欲しいという思いの方が強い。
理念で超えられなかった信仰や思想の壁も、恋するととたんに超えてしまったりする。
生き物が突然変異で進化していく説にのっとると、人間が変わっていくのは、やっぱり病的な、このフィーバーが一番大きな因子になるのかも。

んんん。劇的。ゆえに、ドラマも歌もこれを主題にするのはあたりまえかあ。
頭で変化を考えても、熱にうかされたように飛躍した思考・行動の結果には、早さでおいつかない。

降参しつつも、面倒くさい人間は、「恋かも?!」と感じる最初のきっかけ、なにがヒトを異常な状態にさせるのかをしりたい。
わからないから、誰でも恋について語ることができ、誰でも表現できる、とも言える。
迷宮。まさに。

だっていろんなこと疑いつつも、わたしも信心してるもん。
もう、一生会うことができなくても この世に半身がいる、いてほしい、
という究極の我が身を投げ出してのご信心だ。

諦めともいう。






2003年02月04日(火) れとりっく

あなたが とても すきだった
ごめんね でも わすれてしまった
あんまりじかんがたったから
いろんなこと たくさん わすれてしまった

わすれようとしても おもいだせない

たくさん ないたこと
これきり みんな なくしてしまうと
おびえて ねむった よる


あなたが いないと わらえないと 
ほんとに そう しんじたかった
あんなにじかんはあったのに
じぶんのこと いちども だませなかった

おもいだすたびに わすれてしまう

たのしくて うれしくて
それでも みんな なくしてしまうと
しってた きのうの ゆめ

わすれようとしても 
あのひも あのかなしみも 
うしなったものさえも
もう おもいだせない

おもいだすたびに 
えがおも わらいごえも
あいしてたことさえも
すぐ わすれてしまう


わすれようとしても おもいだせない

おもいだすたびに  わすれてしまう

ないたことも わらったことも

みんな とけていく


いつか また どこかで すれちがったら

そのとき おもいだす




2003年02月03日(月) 爺と蟹

みそおでん って美味しいもんだね。

歌でもお話でも、自分の好みというか、感動しやすいパターンというか、これが王道であり黄金の道である、と信じている流れがあってそれは、

おもしろうてやがてかなしき

芦屋雁之助ですがな。
そのあとで、もう一度 反転。

かなしくて、そのあとポカーンと頭が真っ白 感情の真空の時間があって魂が抜けてしまい、もどってきた時には、もうなんだかおかしくなっているのさ、かなしみさえも。

というようなもんですがに。

そんでもって、また昔話なんです。恐縮です。

にわか昔話大好きっ子となって、300編あまりのお話を読んでみたわけですが、たんに印象ですよ。東北とくに岩手のお話は、話が入り組んでいて多重構造。九州四国のお話は飛躍はあるけど、聞き手を突き放したスタンスでおしまいがむしろ乱暴に感じるお話が多いように思いました。
同じように始まっても、結末や話の持っていき方、なによりキャラクターが同じような行動にでるにいたる動機の説明などに、あきらかに南と北の違いを感じます。山梨長野あたりのお話も結構エピソードの積み重ねなんだよな。
そんな中キラリと光る、まあ単にわたしの好きなお話が多いのはなんと、
新潟(あたり)だったのです。
なんとも余韻がいいんだ。

中でも、ベストオブベスト。今のところ一番好きなお話がこの「爺と蟹」なのです。

爺さんが川にいくと蟹がいたので、持って帰って縁の下で飼っていた。
爺さんは美味いものを手に入れると真っ先に蟹に分けたので蟹は爺さんになついた。
蟹はとくに、爺さんがまちにいくと買ってくる焼芋が好きだった。
爺さんが
♪じじこそ 参った
 かにこそ こそこそ♪
と呼ぶと蟹はいつでも縁の下からでてきてウマイものをもらった。
ところが、婆さんは爺さんが自分をおいて先に蟹にウマイものをやるので激しく嫉妬した。
そこで、爺さんが留守の時に蟹をいじめようと、爺さんのうた♪じじこそ・・・♪をまねて、ノコノコでてきた蟹を驚かすつもりで棒でコツンとぶった。
が、打ち所が悪くて蟹は死んでしまった。
婆さんは「えらいことしてもうた」とあせったが蟹が大好きだったので、煮て食べてしまった。
証拠隠滅のため、婆さんは蟹のこうらや殻は裏の竹やぶに埋めた。
爺さんが焼芋をみやげにもどり早速♪じじこそ・・・♪と呼んだが蟹はでてこなかった。
裏の畑で遊んでいるのかと探したがいなかった。
ぼんやりしてると、きれいな小鳥が竹やぶからやってきていい声で鳴くとまた竹やぶに飛んでいった。
爺さんは小鳥に心ひかれて竹やぶにいてみると、小鳥がまたいい声で鳴いてある場所を足でかいていた。
その土は誰かが掘りかえした形跡があった。
???と思いながらも爺さんがそこを掘ると、蟹のこうらや足がでてきた。
「なんとむごい。これは蟹をよく食べるばあさんの仕業かもしれん」と、
うちに帰って
「ばあさん、かわいそうなことをしたな、蟹は竹やぶで死んでいるよ」と、
言うなり爺さんは悲しみに倒れてしまった。
婆さんはびっくりして反省し、
「かんべんしてくれ。殺すつもりでなかった。おどろかせようと叩いたら死んでしまった」と、
泣きながらあやまった。
爺さんはやっと起きあがり、
「いいよ、謝るならゆるすよ」と、
婆さんを許し、二人で竹やぶに蟹の墓をつくった。
それからたまに、きれいな小鳥がやってきていい声で鳴くようになった。
おしまい。

どうですか。焼芋好きの蟹。蟹好きの爺さん。蟹(を食べるのが)好きな婆さん。
女の嫉妬。食い意地。蟹が畑で遊ぶかっていうの!そんな判断もできずぼんやりする爺さん。倒れる爺さん。それを見て悔いる(蟹がカワイソウというわけではないらしい)婆さん。許す爺さん。そして余韻。

ちょっとガルシア・マルケスのようではないですか?ごめん、2作しか読んだことないんだ。

なにより、呼びかけというか唄がいいよねえ。
「こそ」は(我)こそ、と 来そ(来い おいで)、と コソコソいう蟹の動きと掛けているのでしょう。

♪爺(だよ)おいで おいで 蟹コソコソ おいで おいで♪ 

かわいいぞ。爺さんは蟹をさがしてあっちこっちでこう呼んでいるのです。

そして、自分はペットのように可愛がっていても別のひとから見たら食べ物(好物)なんだよね、って爺さんもわかっている。正邪の二極化でおわらない。


爺と蟹。ベストです。これを新潟の古いことばで聞いてみたいがに。

そしてこんなうたがうたいたいがに。



2003年02月02日(日) パッチ

寒い毎日。でも、スクーター大好きッ子は乗ってますよ。寒さ対策フル装備で。
と、思ってたけどそうでもなかったというお話。

でも、最近は二酸化炭素削減&腰痛対策(背筋をきたえるぞ)のため、5km圏内は自転車に乗っています。
あ〜 今日の日記は全体的にババくさいです。
しかし、腰痛は本当によくなった。昨冬とは大違いです。

自転車とスクーターでは、体感温度が全然違うのですよ。えっさほっさペダルを漕いでいるのと、じっとしたまま時速30km/hの風にふかれているのでは、そりゃあもう。
当然、自転車のときは、毛糸の手袋とマフラー程度の装備がスクーターになると、皮手袋ムートン内張り・帽子inヘルメット・上着の下にヤッケ・マフラーでなくストール首にぴったりスカーフ、最高潮に寒い日はマスク。
ここまでやっても、ガタガタガタガタ獅子舞のように歯が鳴るです。

そうだ、そのせいか、わざと歯をカタカタ鳴らすの得意なんだ。今まで役にたったことはないけど。

当然、ボトムはパンツなわけですが、まあズボンですね、これより先の防寒は考え付かなかったのですが、今日ふとワイドなパンツを履いていたので、ちょいとスパッツをその下に履いてみたのです。

歯が鳴らない。

そうかあ、おじさんがズボン下=パッチを一度履いたら脱げなくなるのはこのせいか。スパッツはただの綿だけど、重ね着したから暖かい空気が層になってるんだね。
いままで、足は冷えても風邪はひかない、と頭と胴にくらべてわりと防寒に無頓着だったけど、考えてみれば内蔵は入っていなくても、体の表面積の半分は足だ。足から熱が逃げないようにすれば、身体全体も冷えにくいわけですね。

ふーむ、そうすると冬場のファッションがますます限られてくるです。毎回同じかっこうで登場するときは、
「今日はスクーター日なんだな」
と思ってください。

しかし、室内はあったかいんだ。トイレでパッチを脱ぐのも、脱いだパッチをまた履くのも、いやだなあ。


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