repe
DiaryINDEX|past|will
真光業の真実
手かざし治療に賠償命令 (01/9/29)
「ハンドパワーで病気を治す」と言うふれ込みで多額の治療費をかき集めた「泰道」の元会員が損害賠償を求めた裁判で、長崎地裁は原告の主張を認めた。裁判長は、「会長を超能力者などと同視するもので、証明されない以上認められない」と断じた。 控訴審でも、「泰道」(解散)は敗訴しました(02/2/16)
http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/ 200209/11/20020911k0000e040044001c.html
2002年09月11日
損賠訴訟: 手かざし「泰道」に6550万円賠償命令 福岡地裁
-------------------------------------------------------------------------------- 「手かざし」で病気が治るとして多額の金を集めた団体「健康を守る会・泰道」=本部・佐賀県、解散=の元会員37人が、元幹部らに約7320万円の損害賠償を求めた訴訟で、福岡地裁の小山邦和裁判長は11日、開俊久元会長(55)ら9人と泰道傘下の宗教法人「宝珠宗宝珠会」など9団体に、計約6550万円の支払いを命じた。泰道の責任を問う三つの訴訟の1審で元会員側勝訴の判決が出そろった。泰道側は控訴する方針。
判決で小山裁判長は、手かざしの効果を「実在するものとは認めがたい」と否定、勧誘・集金システムについても「明らかに社会的相当性を逸脱し違法」と指摘した。同種訴訟の佐賀地裁判決で認められた慰謝料支払いは認めなかった。
元会員側は「組織的な違法性が詳細に認定され、ほぼ満足できる」と述べ、泰道側の代理人弁護士は「集金手段が違法とされ不満」と話した。
同様の訴訟では長崎地裁(昨年9月)と佐賀地裁(今年2月)が泰道側に賠償を命じる判決を言い渡した。長崎訴訟では双方が、佐賀訴訟では泰道側が控訴している。 【青島顕】
[毎日新聞9月11日] ( 2002-09-11-12:39 )
「お光さん」 <> 23 Nov 2002 14:34:41
「お光さま」は俗称で、正式な教団名は「世界救世教」である。 教祖の岡田茂吉は大本教の信者で支部長にまでなったが、自己の霊力に自信を持ち、 岡田式指圧療法をひろめはじめた。ところが翌年、医師違反に問われたため活動名を 改称して再出発したものの、昭和十五年には再び医師法違反に問われてしまった。
終戦を終え、「掌からでる霊波ですべての病気を癒す宗教」と評判となり、医薬品が 極度にとぼしかった時代を背景に多くの人々をひきつけたのであった。彼は病気治療に 薬を用いる近代医学を否定した。霊の曇りの本質は薬毒にある。薬毒には祖先からうけついだ
先天性薬毒と、生まれてから体内に入れた後天的薬毒とがあるが、病気になって、 もともと毒である薬をこの原理を知らないで用いると、一時的には快方にむかっても、 毒が体内に蓄積されるだけであってますます病気を重くする原因になるのだと説く。 病気になれば「浄霊法」を行って、体内の薬毒をとりのぞけば霊の曇りがのぞかれ、 霊主体属の原則で体力が増進するというのが、彼の病気癒しの方法である。
この薬毒論は終戦時の疾病に悩む大衆をひきつけたが、反面、 医師による診療を拒否したための過失致死が問題となり、ジャーナリストの 激しい非難となってあらわれた。
催眠誘導法 パス法 No: 3919 [返信][削除]
投稿者: 03/01/07 Tue 12:47:57 「図解雑学 催眠」(武藤安隆著 ナツメ社)140頁より
手の動きと暗示を組み合わせた誘導法とは? パス法 ●手の温かさを利用した催眠誘導法 メスメリスト達は患者に動物磁気を送るのに、磁気の入ったバケットや瓶とは別に自分の手を使っていた。彼らは自分の体に貯えられている磁気を手を通して患者に与えることができると信じていたのだ。具体的には手のひらを患者の体に向けた状態で体に沿って上から下に降ろしたり、直接体に触れて撫で降ろしたりした。これがパス法*1である。動物磁気の存在こそ否定されたものの、パス法自体は現在でも誘導法として使われることがある。 パス法が誘導法になり得るのは、二つの理由がある。一つには注意集中の状態を引き起こすからだ。被催眠者は催眠者の手や、その手が触れている(あるいは近づいている)自分自身の体の部分に注意を向けるようになる。この注意が集中した状態*2は外部のほかの刺激から遮断された状態でもある。こういうときに暗示を与えられると心の中にすっと入っていくものだ。 二つめの理由は催眠者の手のぬくもりが被催眠者の体に伝わるということである。たいがいの人は手を触れられたり近づけられたりすると温かさを感じるものだ。その温かさが自然と眠気を誘うのである。ごくあたりまえの生理現象を利用して誘導するということだ。 直接被催眠者の体に手を触れるときは、強く押しつけるのではなく軽く触れる程度にする。体に触れないで行なうときは、体から数センチ離れた位置に手を置く。どちらの場合も、頭、肩、腕というように上からゆっくりと手を降ろしていく。これを数回繰り返しながら同時に暗示を与えていく。「ゆったりとする」「体が温かい」「ぽかぽかとしたいい気持ちだ」「眠くなる」などの暗示をささやくような静かな声で繰り返す。こうして手の動きと暗示の組み合わせによって、被催眠者はしだいに催眠状態に誘われていくのだ。 *1按手法、通手法とも言う。 *2被催眠者が自分の体に注意を集中している状態では、催眠者が与える暗示に対して無批判になるので暗示が受け入れやすくなるのである。
(コメント) 真光の業と比較すると「注意集中の状態を引き起こす」「ごくあたりまえの生理現象を利用」の部分が興味深い。 組み手は「8番(みけん)のおきよめのとき、真光は何も暗示しない」というかもしれない。しかし真光は、8番のおきよめをはじめるまえに「もしも体がうごいたりしても無理に止めようとしないでください」と断るのである。これは「みけんにおきよめを受けると体がうごくことがある」と刷り込んでいるといえまいか。陽光ライフにも霊動の説明はある。道場参拝すれば体験者がおきよめを受ける前に浮霊している人をみることもありうる。8番受光前に下地が作られていると考えてもよいのではないか。
ヒプノシスへの期待と誤解 Follow: 3373 / No: 3370 [返信][削除]
投稿者: 02/12/24 Tue 11:25:53 http://plaza11.mbn.or.jp/~ffadsync/misunderstandings.htm ヒプノシスへの期待と誤解 より
「催眠」と聞くと、催眠術のショーや、映画、小説での催眠の場面が思いうかぶと思います。 意識が無くなり、催眠術師に操られて、何でもやらされてしまうといったイメージです。
催眠に入っている人は、意識が無い様に見えますが、実際には、しっかりと意識があります。リラックスするように誘導されて、体の力が抜けて、ぐったりとしているので、意識不明の様に見えているだけなんです。常に主導権は、クライアント本人にあり、自分が何をしているのかを認識しています。犯罪や自分を傷つける行為など、本人が同意出来ない指示には、拒否するか、瞬時に催眠から覚めます。
催眠は、睡眠、昏睡、失神では有りません。また、誰かにコントロールされたり、強制されたりといった事もありません。勿論、魔法や超能力でもありません。
ショーの中で、「あなたは犬になる。」と指示されて、吠えて走り回るのは、本人が同意出来る範囲の行動なんです。そして、頭の中では、「何でそんな事するの? するわけないじゃない。」と始めは思っています。(本人は、しっかりとした自覚意識があります。端から見ていると、力が抜けてぐったりとしている様に見えるので、意識が無い様に見えます。)それが次第に、「何だかやりたくなってきたな。」と思い始めます。更に、「よくわからないけれど、何だかやりたくてしょうがないな ・・・・。 なんでかな? やっちゃおー。」という事になります。
この様に、催眠中でも意識は、はっきりとしています。終わった後に、自分が何をしていたのか「憶えていない。」という人もいますが、これは、催眠から目覚める時に、「あなたは、今やっていた事を忘れる。」と暗示されて覚醒するからなんです。 この一連を観客として見ていると、何だかとても不思議に、そして意識がなくなって、操られているように見えてしまうのです。
もし、催眠に強制力があるとすれば、見ている人も全員が、犬の様にワンワン走り回り、観客がいなくなってショーが成立しなくなってしまいます。テレビや映画を見ていたあなたも、きっと催眠(術)には掛からなかった事と思います。
催眠(意識変容)状態の時には、頭で少し恥ずかしいなと思う事(実はやりたかった事)でも、心(潜在意識)がOKを出すと(本当はやりたかった事)行動します。「誰かに笑われても、大した問題ではない。」とあなたの潜在意識(無意識)は知っているからです。また、催眠術ショーは、催眠の一部分の面白おかしく、あまり当たり障りの無い内容で構成されています。更に、演出効果も大きく、意識が無くなって、何でもさせる事が出来る。或いは、操られている様に見えるだけなんです。
「催眠」という言葉には、誤解と過大な期待が未だについてまわっています。
ヒプノーシス(催眠)を意識が無くなってしまう状態と思っていたり、他人にコントロールされて自分の言っている事や行動が判らない状態だと思っている人もいます。 また、何でも、どんな事でも魔法のように願いがかなうものだと思っている人もいるようです。
ヒプノセラピーは、クライアントを深いリラックスに誘導する事で、顕在意識が一時的に休息し、顕在意識を迂回して潜在意識とのコミュニケーションにより、クライアントは、自分自身の内部への洞察力、集中力が増大していきます。そして、全てのイニシアティブ(主導権・選択権)は、常にクライアントにあります。また、セッション中に災害が発生した場合(地震、火災等)は、本能の働きにより、催眠状態から瞬時に目覚めます。そして、催眠状態に入ったままになる事もありません。
(コメント) 組み手は「霊動は催眠ではない。催眠は受施者の意識がないが真光はある」という。しかし、催眠は受施者の意識があるのだ。
投稿者:peke 02/07/29 Mon 02:31:43 前頭葉をちょっと調べたけど、あそこに手かざしするのは危ないね。 手かざしで何かしら刺激があるのだから、危険な事は確かみたいだね。 それから遺伝子とも関連があるみたいだね。 記憶の部分に深く関係してるって事は、古い過去の記憶も残ってるって事かもね。 ちょと調べただけでこれだけ出て来るんだから、霊動説が覆されるのも時間の問題と見た。
http://www.cypress.ne.jp/kishi/ht/frontal.html http://www.number.ne.jp/special_features/2000.08.03/spe2_page6.html http://members.jcom.home.ne.jp/2242426201/shige/hanashi.html http://www.inetmie.or.jp/~kasamie/kiokuZentouyou.html
手かざし治療の真実(1) No: 1569 [返信][削除]
投稿者:崇教Dr.A 02/10/17 Thu 20:24:03 崇教が平成13年7月に発行した小冊子「手かざし」が信者の間に好評だ。東北大学医学部名誉教授(医化学)の吉澤善作氏が自己の体験談をまとめたものだ。この本の医学的門題点を指摘していきたい。
1) 自己の体験レポートについて 吉澤氏がいろんな病気の患者に対して手かざしした体験談をまとめているが、比較対照検査は全く行われていない。初期研修のテキストに引用されている「保健薬を診断する」(高橋晄正など著)には、「大学教授が書いた『使って治ったから効いたように思われる』などという報告は信頼できない。二重盲検法でないとだめだ。」とはっきり書かれている。タバコや酒の手かざしについても二重盲検法が必要である。
2) 「医学と宗教を十字に組む」について(P52) 「ところで、宗教は医学を否定し、医学は宗教を否定するような風潮がありますが、病める人々が宗教によって救われた例や、医学を否定した宗教の信者達が不幸な結果を招いた例も多いことは周知の事実です。 疾病に苦しむ宗教の信者達も、進歩した現代医学を十分に認識し、活用して、正確な診断の下的確に対応し、早く恢復して本来の道を歩むことが大切ではないでしょうか。 そして、宗教と医学を十字に組んで人救いをさせていただくことが求められているのではないでしょうか。」 全く同感である。
3) 他の医師の報告の紹介 平木・石井・和田医師よりの症例報告があるが、いずれも医師の主観による症例報告で、学問的価値は乏しい。 小川医師のサーモグラフィーを用いた報告も、一見すると科学的手法を用いているように見えるが、単なる1例報告であり、客観性に欠けている。「他の多数の被験者についても確認されています。」とあるが、それなら統計学的データを示してほしい。 大阪大学医学部整形外科教授の越智孝雄氏が、第3回陽光文明国際会議(1999年8月高山市)で慢性関節リウマチ患者についての多数症例での比較対照検査をおこなっているが、その研究内容は全く紹介されていない。
4) 「ムコ多糖代謝パターンの若返り現象」(59頁) これに関する吉澤氏自身の報告は最も悪質な素人だましである。わずか一人の人間のムコ多糖データを提示して、"真光の業による若返り現象"がおきたなどと一方的に断定している。また研究の行われた年度も明記されていない。 「同じ様な傾向は男女を問わずに認められました。」などと、自慢そうに言っているが、それなら多数の症例に対して、統計学的解析を実施して示していただきたい。72-75頁をよく読むとわかることだが、すでに1981年以前に公表されていたわけだ。およそ生化学研究者として「気でも狂ったか」と言いたくなる。 4) 好中球に対する"真光の業"の効果データ(60頁) この研究自体は、学問の方法論に基づいている。 ただ、ここに紹介されている研究は、研究発表年がごまかされている。これも72-75頁を読めばわかるように、すでに1981年に発行された「真光」誌に掲載されている。20年も前に行われた古典的な実験内容を、研究発表年を明記せずに、ぼかしてのせるなど、科学者の風上にも置けない行為である。「何だあいつ気違いになったか」といわれて当然だ。越智孝弘氏は他人の研究を引用するとき、ちゃんと発表年を明記している。
約40年前、医学の学会で高橋晄正氏は「グロンサン・アリナミンの効き目に疑問がある。医師の主観的な症例報告ではだめで、二重盲検法を実施すべきだ。」と主張したが、他の大学教授らはすぐに意見を取り上げようとしなかった。私も、「手かざしの効き目に疑問がある。医師の主観的な症例報告ではだめで、二重盲検法を実施すべきだ。」と吉澤氏に主張したい。
-------------------------------------------------------------------------------- 手かざし治療の真実(2) No: 1570 [返信][削除]
投稿者:崇教Dr.A 02/10/17 Thu 20:24:46 「保健薬を診断する」(高橋晄正など著)よりの引用が、崇教真光の初期研修テキストに記載されているが、テキスト未収載の箇所をここに引用する、
(P29) 治療にあたって、プラシーボー効果を上手に利用することは、立派な医師の資格の一つですが、この「人間らしさ」の故に生じる効果は、薬のテストにあたっては、邪魔な存在であり、テストの段階では、一応は、とりはらうべき枝葉です。 これらの事柄を認識し、よりよい薬の発展を願うという前向きの立場をとるならば、それなりの実験のデザインの約束にしたがう必要があります。 人間における臨床実験では、特定の基準の薬ないしプラシーボーと、目的の「薬の卵」とを、素性のはっきりした患者に、特別な依怙ひいきなしに割りつけ、実験条件に特別な偏りがまぎれ込まないように工夫し、さらに、医師も患者も、どちらの薬を使っているかわからない状態、つまり医師も患者も薬の種類については盲目の、二重盲検法と呼ばれる手法によって、それぞれの薬の価値を吟味してくらべなければ、客観性のある結果は得にくいのです。 このような比較実験によって、薬の評価に客観性がでてきます。一口にいえば、二重盲検法にしたがって、基準薬ないしプラシーボーと目的の薬とを、特定の患者群に無作為に割りつけて、同時にテストをするという基本にしたがうことが、薬の正しい評価には不可欠です。 従来の日本の例では、雑多な患者に、適当に目的の薬だけを使い、たっぷりと主観的な、独断的な判断を加え、その薬を使って病気がなおった、したがって、その薬は効いたという絶対尺度の評価方法が多かったのです。一つには、このような種類の、科学の本質をつくような方法についての医学教育が行われず、薬の評価にあたっては、メーカーからの謝礼が馬鹿にならない財源になり、よろしくお願いしますという依頼に対してナニワブシ的な報告を書くという習慣があったために、科学的な薬の評価が育ちにくかったのでしょう。 また、実際にテストにたずさわる若い医師にしてみれば、偉い先生が将来の職場に関しても生殺与奪の権を握っており、先生が「赤く見える」というものを、あえて「白です」といいはって、破門の憂きめをみるよりは、「桃色に見える」ぐらいでつじつまをあわせていた方が無難であるという風潮があったこともいなめません。 きちんとした、人間における薬の評価は、一九四〇年代にイギリスではじめられ、アメリカにも伝えられ、ようやく日本にも、必要性が認められるようになってきたのです。しかし、この方面の仕事を主体にする専門家の養成とか研究室の設立などは、まだまだ時間を要することでしょう。国民の健康をまもる医療関係者にとっても、医療の恩恵をうけるはずの国民にとっても、無関心ではいられない問題です。 厳格な薬の評価を行おうとするほど、当面の倫理上の問題が大きな制約になることは確かですが、これを理由に、いい加減な評価を行ない、国民にいい加減な恩恵を与えていることの方がより倫理的なのでしょうか。
(解説) このように二重盲検法の必要性は同書に明記されているのである。
-------------------------------------------------------------------------------- 手かざし治療の真実(3) No: 1571 [返信][削除]
投稿者:崇教Dr.A 02/10/17 Thu 20:25:30 1910年に鈴木梅太郎博士(東京帝国大学農学部農芸化学科教授)がオリザニン(ビタミンB1)を発見したが、その時のエピソードが、「アリナミン」(高橋晄正著、三一書房1971年)に書かれてあるので、以下に引用する。 (41-42頁) (ビタミンB1について)これが脚気の本態物質であり、治療の上で有効性をもつというビタミン説は、簡単に医学の世界に受け入られたわけではなかった。 鈴木氏は三共株式会社に頼んでオリザニンを製剤化してもらったが、医学界ではほとんど顧みる人がなかったという。そこで鈴木氏は東京市の養育院で一年のあいだ二〇人の小児で栄養剤としてオリザニンを与えた者と与えない者との発育状態の比較をおこなって、与えたほうの発育が良好であるという成績を得ているが、医師でなかったために、脚気についての効果を試験することはできなかった。鈴木氏のような農芸化学者がかえってこのような早い時点において二群の比較をする対照試験の設計をしていることは注目すべきであろう。それは原理的に考えれば誰でも考えていたらざるを得ない生物科学の当然の帰結であったからであろう。
(解説) すでに明治時代に鈴木梅太郎博士により比較対照試験が行われていた。学部が違えど同じ生化学系研究者の吉澤善作博士は、21世紀になっても比較対照試験の必要性を主張していないのはおかしな事だ。 シーちゃん氏のように、医師でない一般人に二重盲検法の必要性を指摘していただいたことは、崇教真光所属の医師として心からなる敬意を表する。多数症例に対して、二重盲検法による比較対照試験を行い、その結果を光記念館に展示すべきだろう。 http://www.incs.co.jp/turezure/contents/baba-ture/baba-back/010914_ba.html http://www.incs.co.jp/turezure/contents/baba-ture/baba-back/010919_ba.html
-------------------------------------------------------------------------------- 手かざし治療の真実(4) No: 1572 [返信][削除]
投稿者:崇教Dr.A 02/10/17 Thu 20:26:14 現在、崇教の手かざしの病気治療研究で、唯一多数症例の比較研究を行ったのは、大阪大学医学部整形外科教授、越智隆弘氏である。 http://www.osaka-u.ac.jp/annai/cgi-bin/syousai.cgi?S=7011&K=1738
1999年8月 陽光文明国際会議抄録 B-1:慢性関節リウマチ患者に認められた疾患経過、治療経過、宗教的想念について 越智隆弘
慢性関節リウマチ(RA)は関節破壊が進む慢性炎症性疾患である。原因は不明で、世界中どの地域でも患者数は人口の0.3~1.0%で、日本では50万人と考えられている。
RAの長期経過を調べたところ(Ochi et al. Arthritis Rheum, 1988)、10年以上経っても手足末梢関節の破壊に終わり日常生活上の支障が少ない軽症病型(小関節破壊型:LES)、膝や股関節などの大関節にも破壊が及び機能障害が大きいが、骨はしっかりして人工関節などで自立が可能になる多関節破壊型(MES)、全身の関節が高度に破壊され、内臓の合併症も重度で自立困難なムチランス型(MUD)の三病型に罹病早期から分かれて診断可能である。種々の薬を用いても、関節の病巣を手術で取り除いても(Ochi et al: J Rheumatol, 1991)、完治できないばかりか重症病型を軽症に変えることもできない。
難しい病気で、専門医が患者を何とか良くしようと種々の投薬をして、逆に多くの副作用が起きている。塩川博士の発表によると、消炎鎮痛剤を服用している1008人のリウマチ患者を胃カメラで調べたところ624人もの多数に胃潰瘍を認めたという(リウマチ、1989)。また塩川博士の発表によると、大阪のリウマチ専門医にかかっていた患者(330人)の死亡年齢は、他地域と同様に約62才であった(臨床リウマチ、1989)。更に同博士は和歌山の山間部で専門医にかかることがない寝たきり患者(35人)の死亡年齢は当時の一般平均に近い75才と発表した(臨床リウマチ、1991)。これらは最新治療薬の副作用による寿命短縮を示唆するものであった。漢方治療ではどんな状態かを調べるために1990年から、ある漢方専門医にかかるリウマチ患者の5年以上の経過を調べた。軽症リウマチ(LES)では漢方のみで副作用無く経過したが、重症リウマチ(MESとMUD)では副腎皮質ホルモン剤や強い抗リウマチ剤併用を余儀なくされ、やはり多くの副作用を合併していた。
副作用の問題と共に私たち臨床医がリウマチ治療上で問題視しているのは、リウマチ患者の気持ちを明るく晴れさせてあげられないかということである。1991年のことであるが、四肢不自由にもかからわず明るい表情のあるリウマチ患者に出会った。驚いたことに、彼女は薬を服用してなく、真光の宗教的な「光」を毎日受けているとのことであった。その後、そのような「光」を毎日受けている患者40人を診ることができた。そのうちで薬を用いずにリウマチの長い経過を過ごし得ていた、おそらく宗教的想念が高いと思われる14名のリウマチ患者の5年以上の経過を観察できた。それらの患者は「光」を毎日受けていても薬なしでは、初めの3ヶ月弱にはリウマチの強い痛みに困っていた。しかしその後、痛みを訴えなくなり、明るい気分に変わっていった。リウマチに伴う臨床検査値や関節破壊の進行は各患者の病型の特徴通りで、抗リウマチ剤や漢方で治療を受けている患者さんと同様の変動を示した。重傷病型では関節破壊進行により人工関節手術を必要とした人もある。評価で最も特徴的だったのはFace Scale index (表情評価)が良かったことで、他のグループのリウマチ患者に比べて、気持ちの明るさによる生活の質(QOL)の向上が目立った。
現代医学によって完治できない慢性疾患は多い。副作用の問題だけでなく、薬によって解決できない精神的憂鬱の問題が生じてくる。信仰心は心の問題を含めての治療過程に大きな役割を果たし得ると考えられた。
-------------------------------------------------------------------------------- 手かざし治療の真実(5) No: 1573 [返信][削除]
投稿者:崇教Dr.A 02/10/17 Thu 20:26:55 寸教(崇教)H2.9初版 P224-226 [73]慈善事業とは 病人を救うために、病院を建てる。そのために寄付を集める----薬毒患者を多くつくるだけであり、慈善どころか罪業を積んでいく偽善事業であろう。 「慈善事業」とは、人類を無病化脱貧させて、真に平和で安泰な文明を、この世に顕現させていくために為すことである。 天国文明を拡めるために、現在一般常識とされている事でも、その間違いをハッキリ正していく事業、これも「慈善」である。 そういう事業のために、どんどんお金を出すこと、これも慈善事業なのだ。 今は、偽善事業が氾濫しすぎて、ますます世の中が悪化している。そのためにも、偽善事業に精を出している方に、早く本当の慈善に目覚めていただき、貧にあえぎ、病に苦しみ、やすらぎのない人々を真からのお救いに入れてあげてほしいものである。 仮にそうした意味で、ここに一億円を寄付された方がいるとする。それが元となって、どれだけ救いの輪が拡がることだろうか。 たいへんな救いになりはしないだろうか。これを「慈善事業」というのである。
崇教真光初期研修テキストJ版46頁 第十七 霊主(十字)の医学 ②法定伝染病や結核、エイズ、マラリア、ハンセン氏病等の伝染病、また精神病などはお医者さんに診せて入院させます。その上で、求められればお浄めさせて頂くのです。
(解説) 平成元年に陽光診療所が高山氏に開設され、平成5年後半に崇教の初期研修が改定された。特に医学に関する記載が大幅に書きかえられ、「医学と十字に組む」ことが強調されるようになった。上記の個所もその時付け加えられたが、「寸教」の光玉師の教えと、かけ離れた印象を受ける。
●「真光の業」が世界救世教から学んだものだったなんて、ありがたみが失せてしまう
たとえば、手かざしといえば、こうした教団の歩みに中には、手かざしによる浄霊で有名な世界救世教の名は登場してこない。崇教真光とすれば、それは同じ手かざしでもそれとは別のものなのだということかもしれないが、「実は岡田光玉初代教え主の足跡の中で、世界救世教の存在が意図的に隠されている」というのは、教団の内情に詳しい元会員である。
「つまり岡田光玉教え主は、もともと戦後浦和市を中心とした埼玉県下で世界救世教和光布教所長をしていたことには、一切触れられていないのです」
なんのことはない。崇教真光教がなぜ、「真光の業」と呼ぶ手かざしを売り物にしているかといえば、要するに世界救世教の手かざしによる浄霊がヒントになっていたわけである。
そのことを伏せているについては、当然それなりの訳があろう。それが「真光の業」は神から人類が賜った霊光であり、キリスト教の聖書にある「神は光なり」との教説を証明する霊術や、仏教でいう「無量光」と同じというのである。そして宇宙創造の唯一絶対神たる「主の神」は、それまではこの「真光の業」を大聖者であるイエスや釈迦にしか許していなかった。それを岡田光玉初代教え主は許されたというわけである。
ところが、自らをイエスや釈迦と同列に引き立てる道具ともいうべき「真光の業」が世界救世教から学んだというのでは、ありがた味が失せてしまうからだ。
新興宗教の正体 P44、45 早川和廣 あっぷる出版社 1987.2.2
repe

|