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1976年10月30日(土)

岡田光玉氏の霊的系譜

注) 「>」で始まる文章は、N氏に対する質問等や他の書き込みからの引用を示します。

八幡博堂(顕正)
内田良平の弟子で大日本生産党の幹部だった人物。 大正期から始めは東京の神保町や神楽坂を舞台に左翼政治活動をしていたが、その後左翼運動から右翼に転向し、内田良平の大日本生産党に発展解消されその幹部として活動していた。

昭和十一年以後、持病の気管支喘息が発病し十年の間病苦に苛まれるが、戦後の昭和二十一年に生長の家に入信して宗教活動に入った。昭和二十三年夏に知り合いから誘われて、始めて心霊研究団体「千鳥会」の交霊会に参加した事をきっかけとして、千鳥会の組み手になって自宅の藤沢で支部をやっていた。

昭和二十七年「千鳥会」は宗教法人「まことの道」に改称したが、昭和三十年の「まことの道」が事実上解散後、元千鳥会の医学博士、塩谷信男(信和)、陸軍軍人、大久保弘一(智明)、映画製作者、中田武雄(華風)と共に山梨県甲府で「まことの道宗像道場」(まことの道協会)(聖和教会)を舞台に、独自の活動を始めている。 後に、この軍人グループから薫陶を受けたのが、S界真光文明教団の教え主、岡田光玉や、富士宮瓊光(ふじのみやたまみつ)である。

昭和三十五年六月、岡田光玉の審神をしたのは、中田華風と言われている。

八幡博堂に付いて記載が有りました。
http://www2.justnet.ne.jp/~jingu/mediaron-daitojuku.htm

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千鳥会について

「千鳥会」からは、あの「世界人類が平和でありますように」で有名な宗教法人、『白光真宏会』の開祖である『五井昌久』氏も、参加していました。五井氏は当時、生長の家の信者であり、講師も務めていましたが、千鳥会に参加して、自分の守護神から「百知は一真実行に及ばず、誠実真行万理を識るに勝る」という言葉を拝受して、帰宅したその夜、いつものように生長の家の行である「神想観」を行い、統一していると、霊動が起き始めて、閉じた目に霊魂が見える様になったそうです。

五井氏は、それからその霊魂群(実は背後指導霊団だったそうです)と交流してみよう、と決意して、そのまま種種の霊的修行を行わされる破目になってしまい、最後の「想念停止の修行」をクリアして、やっと自分の『神我』と一体になる事が出来た、とその著書の中で語っています。(白光出版、「天と地をつなぐ者」より。)

この「千鳥会」という団体は、五井氏によると、大本教から独立した「日本心霊科学協会」(主催者、浅野和三郎、元・大本幹部)から分かれた会で、主催者は、霊媒師でもあった『萩原真』氏と、塩谷博士を中心に、昭和23年頃、発足した会だそうです。さらに五井氏によると、この千鳥会は、心霊科学協会のように、科学的に霊魂を研究する会ではなく、宗教的、政治的意義を持った神界、霊界、人間界の協力団体で、会員は同志的結合の下に、日本再興、世界救世の大祈願を掲げていたそうです。

そして交霊会が主に行われていたのですが、その中では萩原氏の友人で若くして亡くなったK霊の説明が始められ、その説明の後で、一千五百年位以前に生存していた『大峰老仙』の道の教えが説かれたそうです。この『大峰老仙』は、神界にある『聖徳太子』を中心にいただいて活動しているといわれ、天皇中心主義の、人類救済運動であり、神界霊界には、そうした同志が多数、この肉体界運営のために働いているという事なのだそうです。

現在、千鳥会は『真の道教団』と名を変え、現在は交霊会も一切行ってはいない、との事でした。
http://www.makoto.or.jp

しかし、この『千鳥会』がなければ、白光真宏会の五井昌久氏の存在しなかったという事を考えると、当時、この会はかなり重要なみ役を司っていた会だったのかも、知れません。

後、千鳥会は浅野和三郎系統というよりは、小田秀人の菊花会の系統です.菊花会の機関紙「いのち」に岡田光玉と塩谷博士が一緒に移っている写真が載っていました。(昭和四十四年)

昭和五年十一月三日、大本シンパの小田秀人が中心になって結成された心霊研究団体「菊花会」の設立に関しては同人として岡本霊祥(天明)、大嶋豊(後の東洋大学総長)、出口日出麿、(大本三代教主直日の夫)、小高英雄(大本ヨーロッパ宣伝使)、芹沢光治朗(作家)、笹目恒雄(秀和、モンゴルの笹目仙人)、中野貞四郎(出口三千麿)、岡田健文(大本信徒で作家)、岡村孝(バレエ演出家)、中田武雄(映画製作者)等と並び名を連ねている。

小田秀人は広島の旧家に生まれて親から医者に為るように期待されていたが、帝大と京大を計十年かけて卒業した後、昭和三年十一月『本能の声』を出版して青年詩人として暮らしていた。 小田の元に『本能の声』を読んだ人類愛善新聞記者が尋ねて来た事をきっかけに、大本との係わりが出来て綾部を訪ねて心霊現象に興味を持って「菊花会」を設立するが、一年ぐらいして直ぐに運営に行き詰まって休会してしまった。 

第二次大本事件後には日本国内では解散させられていた紅卍会関係の動きで、昭和十三年頃から呉清源、大嶋豊等と語って日本に於ける紅卍会を設立しようと遠藤柳作、八田嘉明、元陸軍中将松井七夫(松井石根陸軍大将の弟)と活動して、大陸と日本を行き来して国内の紅卍会を復興させようとして「世界紅卍会後援会主事」という肩書きで朝鮮や中国に渡って地下で活動していた。 その一端は昭和十四年に出版された『東亜建設と仏教』(財)仏教連合会編というアンソロジーに結晶されている。 この本に寄せられた執筆者を見れば、松井石根、小田秀人、大嶋豊、大久保弘一、といった後々面白いメンバーである。

心霊研究をしていただけで特高から始末書を書かされた事も有ったそうでだが、特高側は紅卍会と大本の隠れ信者の繋がりを察しての行動かも知れない。

小田秀人と萩原真の縁は、戦前の満州で日高見農場という開拓農場を経営していた若林初枝(旧姓、川上)という女傑で女大陸浪人として有名な人物の存在があった。 東京の高等女史師範学校を卒業した才女で、神道家川面凡児の流れをくみ右翼や左翼の青年達を傘下に入れて活動していた。 若林初枝の父親、川上賢三は日露戦争の後、大連に残って地元の経済発展に貢献していた。 又、この人物は大本の人類愛善会大連支部長の肩書きも在ったので、大本との関係も在ったようだ。

若林初枝はその後夫と離婚して内山若枝と名乗り、日本国内と大陸をまたに駆けて瞬出期没の活動をしていた。 昭和七年頃、成城学園に日本の拠点を造り、宗像三女神から名を取って巴章呂(注、巴は八幡の巴紋から取り、呂とは宮の意味である。)と名付けた。 このグループの活動から大連に満州神社が建立された。

内山若枝は、道院の道名を白光と云い、道院紅卍会の女道社(道院の女性メンバーから構成される結社)のトップだった事もあり、満州大連の巴章呂には八幡神社と老祖を祀っていた。

真の道で現在も唱えられている。

 みちから ちはえて あめつち ゆりませ

 顕彰大神通力

これらの言霊は内山若枝が昭和八年十二月二十三日に霊的に授かった言霊である。

その後は日高みほ子と名乗り、篁白光とも名乗った。 そのグループは《篁(たかむら)の一団》と呼ばれていたという。 戦後大本に入った三浦一郎や小田秀人と懇意にしていた。戦時中は板垣征四郎の特務機関で働き、内山若枝の傘下には、大社教大坂分院の千家尊建、陸軍大佐大久保弘一、萩原真、日高一輝、等が居たのである。

日高みほ子は戦後満州でソ連に抑留されたまま行方不明になっている。 心配した小田秀人が交霊会(成田で萩原真を霊媒に使ったろうから、昭和二十二年頃の事と思われる。)で日高みほ子の生霊を呼び出したところ、現われた日高みほ子の生霊は死人のような顔つきだったので、小田秀人は《日高みほ子はもう死んでいるだろう》と諦めたという。

萩原真、大久保弘一、は昭和二十三年六月結成された千鳥会の中心メンバーである。萩原真は満州の日高見農場に住み込んでいる内に霊能が発揮され、昭和七年一旦帰国後小田秀人等の指導で物理霊媒の才能を発揮し始めたのである。萩原真は日月神示《まつりの巻》の四十九人の御筆先を渡された一人である。

大久保弘一は参謀本部付きの軍人で、二、二六事件の折は決起軍将兵に呼びかけた《兵に告ぐ》《今からでも遅くない》の起草者である。 軍のプロパガンダの担当者であった。 千鳥会の機関紙「千鳥」では篁智明と名乗っている。

萩原真も戦後九十九里でしていた鰯の魚油の精製や製塩の仕事が、昭和二十三年九月のアリオン台風で財産を全て失ったりして大変な苦労したのだが、その前後東京の心霊相談所に所属して、元神政龍神会の塩谷信男医学博士と組んで昭和二十三年六月心霊研究団体《千鳥会》を発足させて、現在の宗教法人《真の道》として到っている。

千鳥会自体の霊的な本源が紅卍会に在り、紅卍会の五教同根(基、仏、回、道、儒)の思想を継承して昭和二十三年頃のフーチの神訓に、

《大和の国、神の国雛型なるにより、外つ国根の国にあれませるもろもろの事共ことに雛型なし大和の国におはすものなり。 宇内に五教あり、天に五気あり、地に五行あり、人に五臓あり、五体あり五感あり。 凡て同じきみの力の現われなせるものなり。外つ国の五教、大和の国に姿をうつして五つの教えと現はれしなり。 (大和の五教とは、天理、大本、黒住、金光、御嶽)五感別々ならざる如く五教亦一々のみにては全くからざるなり。 誠なる爪と牙のとの不用なる神の国のみ姿は、五教一に示されたる五にして五にあらざる一にして五なる直の教えなり真の道なり。、、、、》

中田武雄と大久保弘一は親類関係があったという。中田武雄(華風)成城に住み真の道の《キの宮》というのを、奉祭していた。昭和三十五年六月、岡田光玉の審神をしたのは、成城の《キの宮》に於いてである。

千鳥会及び真の道の機関紙上では岡田光玉(良一)の名を見つける事は出来なかった。初期には千鳥会に生長の家や救世教から信者が流れ込んだが、岡田光玉はもっと後に知って、昭和三十年以降に軍人ルートで真の道協会の方に繋がりが出来たのであろう。

霊的な事柄に興味の在った軍人達がかなり千鳥会に集まっていた事実がある。 岡田光玉のその一人だったと考えられる。

参考文献を入れるのを忘れていました。

戦時中の右翼の動向は、「ユダヤ問題と裏返した日本史」三浦一郎、八幡書店から復刻版有り。が参考になります。

真の道に付いては「真を求めて」萩原真 「飛翔」萩原真追悼集が参考になります。真の道全般に付いては、「人間の幸福」が参考になる。教団本部で購入可能です。

真の道協会寄りの情報は、「霊は生きている」塩谷勉 地球社 平成元年 著者は塩谷信男博士の弟で故人、矢野祐太郎に会った思い出等の記述有り。

小田秀人に付いては「四次元の不思議」潮文社 前記の文は大体この辺を使いました。
 
大概は国会図書館で閲覧出来るでしょう。http://webopac2.ndl.go.jp/ 

千鳥会機関紙 「千鳥」は3冊「真の道」は約3年分「まこと」は全部?入っていたかな。 「真光」は昭和四十四年から入っていたような、ギラギラした表紙が印象深い。

「真の道」誌をコピーして持っていたら、岡田光玉の説経の元ネタが入っていたらしくて、驚かれた事が有りました。フの言霊の吹き寄せ吹き分けとか、台風よけの話等、塩谷博士が執筆した論文から全部移している訳ですね。(台風よけの話は紅卍会が元ネタ)ヨの御霊も元ネタは「千鳥」第7号塩谷博士が執筆した「龍神物語」から移しただけですね。 アカナヒ、カラマラとか真光資料の文脈では意味不明ですが、千鳥会ではちゃんと解説されている。 (この号は国会図書館には架蔵されていない。私所有)何所から引いてあるか知っている人間から見れば、真光の教説はお粗末極まりない物です。
 
「御聖言」の原文が改変されている問題ですが、以前仲間内でも話題に上がりました。「御聖言」を岡田光玉に授けた霊が大峯老仙である事は、「御聖言」の中に所々大峯老仙の口調が残っているので「真の道神示」と読み比べれば一目瞭然、中学生程度の文章読解力があれば異論は無い筈。

原文改変は「寸教」というご教示集もそうで、昭和三十八年?に出た最初の講演録から恐ろしく改変されている。 原文にはアジャパーの世とか落語調の駄洒落満載で下町のオジさんのような親しみがあったが、今のは厳格な文章にされて真の道の用語がカットされている。是ほど教祖の教えが抹殺されている教団も珍しい。(○○真光の事)

数人の真光の古い組み手だった人と知り合いだが、生前の岡田光玉は自分の霊的な背景に付いて隠してなどいず、色々面白い本など教えてくれたと言う。(矢野祐太郎の神霊正典、等) 岡田光玉が急死した後の混乱後、組み手達が岡田光玉の霊的な背景を求めて肝川龍神や天津教などを周って歩いたそうです。

分裂騒動や肝川龍神や神政龍神会に人が流れ出す事に危惧した崇教教団サイドが、岡田光玉の霊的な背景を封印して嘘八百並べ出したのが真相だろう。数人の古い組み手だった私の知り合い達は、岡田光玉の霊的な背景や、自称娘が妾上りとかみんな知っていましたよ。おみたまの中身が呪符に変わったいたとか。 最早まともな霊統じゃないとわかる。

ここまで来ると、岡田光玉も可哀想な人物だなと思う。 教祖が書いた本物の文献を復刻するのも、真相に向かう一つの手立てだと思います。
 
>昭和三十五年六月、岡田光玉の審神をしたのは、成城の《キの宮》に於いてである。

 この情報は、陽文研の古いメンバ―だった人から聞きました。
 崇盟五道という天杖(フーチ)は、前回引用した

>外つ国の五教、大和の国に姿をうつして五つの教えと現はれしなり。
上記の事を指しています。

現在千歳烏山にある「真の道」、甲府にある「真の道協会」は別団体です。 以前昭和二十八年頃まで真の道の中心的な組み手だった柿内さんという方に、私が直接《岡田光玉という人物をご存知ですか》と尋ねたら、同じく組み手だった奥様と口を合わせて《全然聞いた事が有りません》と答えたのです。

因みにこの方も元職業軍人で、戦後パージに会い生きる希望を失い悶々としていた時に、軍人仲間から千鳥会の存在を教えられて参加したそうです。昭和二十八年に警察予備隊(後の自衛隊)に入隊する為、当時は思想関係がうるさく真の道から離れざるを得なかったそうで、面接の時に《真の道は右翼の隠れ蓑でないのか》と質問されたそうで、当時の官憲の考え方が判るエピソードです。

岡田光玉は昭和三十年以降に「真の道協会」と接触したものと考えられます。

訂正 バレエ演出家は、岡村祥三で岡村孝とは別人。二人共大本信徒。

訂正 
>移している
写している

>変わったいたとか 
変わっていた

>瞬出期没
神出鬼没


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1976年10月29日(金)

御み霊の中身について

>>  おみたまの中身が呪符に変わったいたとか。 
>このことについて、詳しく教えていただけないでしょうか。

真光の初期に出していたペンダントは、開けてはいけないという規則になっていたが、その気になれば自由に開けて中身を見れる物だったという。見るなといわれると見たくなるのが人の性、大概の人はこっそり見ているそうです。岡田光玉の出していたおみたまは、マルチョン印、乃至は、ちょん、を書いて聖鳳と書いてあったそうです。

それが二代目になってから、ペンダントがハンダ付けしたような全くあかない物に変えられたそうです。その開かないおみたまを持ったある四国の人が真光に疑問を持って、こんな物いらん、と念を込めたらペンダントがパカッと開いて中身を広げたら薄気味悪い字がごちゃごや書いた呪符だったそうです。
 
その話を聞いた家が、元真光の古い組み手だった方の家だったのですが、その方は岡田光玉在世時真光隊?の隊長も務めていたそうで真光の教義に詳しいのですが、その人も中身が呪符に変わっている事を知っていたそうでした。初代と二代目は霊系が全く違っているという話でした。

文明教団側に行った陽光文明研究会の中心メンバーだった人とも、この話した事が有るが、その話は正しいと認めて崇教の二代目ケイジュは(どうゆう根拠かしらないが)ヒマラヤの系統だという秘説を教えてくれた。

二代目ケイジュを霊的に導いた人物が居るという話も聞いた事があり、確か《東出さん》という名だと記憶しているが、その人の話を聞いた時の霊的な波動が悪かったな。多分、八大竜王の系統だろう。

真光を大本系とか伊都能売思想とかに分類するのが、根本的な誤りがあると思う。いい迷惑です。 はっきりいって八木派ですな。陽光子友の会時代の古い組み手だった「たま出版」瓜谷社長が書いた「無私の愛よ永遠に」の中に、真光の古い時代の話が回想されている。

私ももう亡くなったが、陽光子友の会時代の古い組み手だった女性から其の頃の話を聞いた事があるが、信者が百人位しか居ない頃の岡田光玉は、誰に対しても近づき易い大らかな人物だったという。

最後は何故ああなったかと云うと、岡田光玉の心の中に曇りが有ったという事しかいえない。


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心霊医学会

岡田光玉は昭和三十三年結成された岡田道一の主宰していた「心霊医学会」の理事を務めていた。岡田道一の著書、「霊癒の科学」には賛同者として岡田聖玉の名が掲載されている。

金井南龍主宰、神理研究会「さすら」
その一
金井 石田先生ネ、、、、岡田○○ね、、、話が横に飛んで済まないのですが、何千から何万という具合に信者が増え出すと、、、信者が二ケタか三ケタ位のとき、酒席で一緒に軍歌など歌ったときには、嘗っての軍人のときのスナヲさを裸になってサラケ出しましてネ、、、コイツ、、、好いとこあるわい、、、なんて思ってたんですか、、、いつしか「生き神様」の「積分人間」になって了うと、無学文盲ならソレで押し通せますが、彼は高級将校で理性のカケラがあったでせう、、、それで、、、絶対自己の矛盾撞着を感じていたんですネ。 その統一の場とは死でしたよ、、、

石田 馬鹿と気狂い、、、は長生きすることに、、、

その二
世の中宗教裁判位六ヶ敷しいものはない。 ということを奥弁護士は其の体験からして云われている。 氏の懐旧談は中々蘊蓄に富んで居るのである。
二木博士(岡田道一の間違い)創設の心霊医学会に奥さんと家内(金井)さんは好く理事としてその名の如く隣り合って座ってたものである。

「彼、わしの顔は、人間であるならば、マトモに見られたものでないのに、、、」「狐霊(どうぶつ)だからシャーシャーしてますよ」

これは岡田光玉理事のことについての二人の囁きである。 物価統制時での岡田氏の違反や、彼の女性関係での破廉恥行為に対する数度の裁判沙汰のとき、奥弁護士は岡田の弁護を、両人とも熱海の救世教での顧問弁護士と支部長、知己(チカヅキ)以来、岡田氏の裏切り独立営業での度重なる裁判沙汰で、引き受け、岡田の戸籍を汚させなかった。
(原文、漢字の誤りの他、そのまま)

>不勉強で申し訳ないのですが、「ヒマラヤの系統」「八大竜王の系統」「八木派」という言葉について、解説していただけないでしょうか?

返事が遅れました。 申し訳ありません。
「ヒマラヤの系統」は前に書いたように私にも判りません。 聞いただけの話ですから、、、
「八大竜王の系統」要するにエログロナンセンス
「八木派」大本開祖三女福島久の系統を指し、金毛九尾の霊が懸かっていた。
動物霊に人間が頭を下げるなという事です。

> > 金井南龍主宰、神理研究会「さすら」この文献についてもうすこし詳しく教えてくださらないでしょうか。国立国会図書館などで閲覧できるでしょうか。
「さすら」は国会図書館に架蔵されていますが、あの文章が何年何月号かは明かしたくありません。
資料が破壊隠滅される可能性が有るからです。

私が引用した部分が、総てをそのまま引用していますので御参考に下さい。

奥弁護士は、奥一夫といい救世教の顧問弁護士をしていた人でした。 既に故人ですが、東京弁護士会の副会長をしていた事も有ったようです。

心霊医学会は今では存在しないようです。 岡田道一と二木健三が中心になって発足したようです。岡田道一がずっと理事長をして、二木健三が初代会長、二代目会長が小川勇でした。

>「さすら」は神道研究の学術誌で、たとえば國學院大學の図書館にも蔵書があります。このような書誌にこのような記事がのるとはおどろきです。
>「さすら」は、東京の早稲田にある「日本心霊科学協会」で閲覧出来ます。一部については、貸し出しも出来ると思います。


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1976年10月28日(木)

八大龍王

八大竜王は元々は仏典に登場する神格で各地に祀られている。大本の流れで神道的に見た場合は、どうも霊的にヤマタノオロチの系統とされている節があるようだ。大本で初めに八大竜王を祀ったのは、兵庫県猪名川町の肝川支部で地元の農夫の妻、車小房(金龍姫)が神懸かって八大竜王を祀ったの最初だが、肝川という土地自体が元々源氏のふるさと多田神社の龍神信仰が盛んな土地だったという因縁が強いと思われる。大正三年肝川開きが王仁三郎によって為されたのである。肝川支部が出口直の三女福島久との関係を強めていったのが原因で、矢野祐太郎が入って昭和九年神政龍神会が結成されていくが、昭和十一年三月二十三日治安維持法適用で弾圧を受け崩壊し、矢野祐太郎が獄死したりした事もあり、戦後肝川支部は大本から独立して大国之宮として独自の展開をする。
 
昭和三十六年矢野新(シン)の努力で神霊聖典が復刊されて、岡田光玉も六甲の矢野新(シン)の住んでいた家に二度ほど訪ねてきたという。岡田光玉は肝川龍神にも顔を出していたという話である。

大本に於いても、肝川支部が戦前から大本本部の意向と違う流れに進んで行ったことの関係もあったか、昭和九年愛知県春日井の玉野川沿いの定光寺という土地に八大竜王を祀り直した経緯がある。大本関係では、八大竜王は二箇所祀られているのである。

大本教学上は霊界物語五十七巻から六十巻が伯耆大山の麓、皆生(かいせい)温泉に於いて口述されていて、八大竜王のタクシャカ竜王の改心の物語になっている。 タクシャカ竜王は海王星から飛来したこの世の悪霊の大元とされていて、オロチ、邪鬼、九尾の狐、三体の邪霊の大元の邪気とされている。王仁三郎はヤマタノオロチが退治されたのは伯耆大山だとしているので、因縁が深い部分である。

私の理解では、良く仏像の中で動物に乗っかった仏像が有るが、動物で表される力(未浄化の心)を、コントロールするすべを示していると考えている。心理学上のイドのような物だと考えている。 
 
霊界物語に於いて、タクシャカ竜王が封印されていた山は、アズモス山とされていて伯耆大山の事とされているが、これは富士山でもある訳である。 素盞嗚尊や大国常立尊が祀られる山に最大の悪霊が封印されていた訳であるから、逆説的な真理といえるが、私は龍神という存在は人体のクンダリニーのようなものと理解している。(龍神は霊的実在として存在するが、これは一つの理解としての解説)

昭和二十二年正月に岡本天明が正味三十分ほどで書き上げてしまった「三貴神像」は天照大神、素盞嗚尊、月読尊、三貴神が八大龍王に乗っている図相である。

龍神神懸かり(ピンからキリまで有るが)の特徴は、大体に於いて酒飲みで色欲に溺れ易いという特徴がある。

> 八大竜王と救い主様のことについて「心は宇宙の鏡 成星出版」という本のP86に書いてありますが、この本によりますと八大竜王が救い主様につくことにより手かざしができるようになったようです。この本の内容が正しいかどうかは調べようもありませんが、八大竜王についてもう少し詳しく教えてください。

この手の話は、岡田茂吉に琵琶湖の黒龍(国祖、国常立尊の事)が憑いた。という話から採ったような気もするなあ。まあ、確かに岡田光玉も龍神系の神懸かりだったことはわかるけど、、、
 
だいたい、肝川神啓の中に高津玉大神なる神格がある。 世界経済担当といいフランスと榛名山が領域という。岡田光玉が金銀財宝をジャラジャラ身に付けていたのを思い出す。 典型的な動物霊の仕業ですな。

高津玉と光玉、言霊的な意味は同じです。(津は助詞、高はコとかカは、古語で太陽の事を指す。)(光玉には、琥珀の玉(ぎょく)という意味も有ったようだけど)


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ラーム

今日、古い真光幹部だった人から聞きました。

ラームという人は、インドからアメリカに渡ったインド人のヨガ行者だそうです。「おみたま」になっていたスイスの高級腕時計は光玉がいつも見に付けていた物だったそうです。その人は、ラームのおみたま(ペンダント)は見た事ないそうです。


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高山が日本の中心

これは戦前巨石文化を研究していた退役軍人の上原清二という人が飛騨高山付近の巨石を調査して、竹内文献の研究者、酒井将軍等を連れて来て盛んに調査していたのです。 戦前の話です。戦後、昭和二十六年頃から地元出身の霊能者の霊示が元になって大本教にいた池澤原次郎という人物が中心になって飛騨の位山を開こうという気運が強くなったのです。 それには、上原清二も参加していたんですね。昭和二十九年と三十年に位山を開く祭典が執り行われています。 この話は昭和二十九年の中外日報に書いてある。 真光が高山の事を言い出したのは昭和四十年頃からだから十年早い。真光如きにはオリジナル等何もないという事である。

ついでに岡田光玉が苦労して九州の幣立神宮を突き止めて参拝したという話があるが、これは如何もうそ臭い。 幣立神宮の宮司、青木蘇陽は昭和二十年代後半から中外日報の常連ライターであり、この青木という人物は自己の所管する幣立神宮の宣伝もよくしていたし、昭和三十年頃には幣立神宮の宣伝をした赤い色の小冊子を発行している。 幣立神宮の「五色人祀り」なんて霊媒に語らせた事が起源になった全く根拠のない絵空事であった。

宗教マニアの岡田光玉はそれを知らなかったとは考えにくいのである。

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浮霊現象について

前に一度書いたと思うけど、真光の教義(方向性)事体に霊動《浮霊》と言います。《浮霊》、霊が浮かび上がる事を志向している教団であるという事実。真光は《浮霊》を、人工的(意図的)に引き起こそうとしている訳です。

この岡田光玉の《浮霊》への志向性が救世教を破門された理由で、人間の精神に対して非常に危険な方向性だったんですね。「祈言集」の《ゴクビジッソウゲンシカイ》なんて濁音だらけの祝詞は、普通の神道では在り得ない言霊として響きが汚いものです。態とこうゆうのを使用して人を《浮霊》させるのです。この事を私に教えてくれたのは真光の幹部だった人ですよ。

《浮霊》とか似た現象は気功やブリージングセラピーでも起こりますが、ブリージングは私もやった事あるが隣の人が蛇みたいにのたくっていた。 真光信者なら蛇の霊が憑いていると言いたげな感じですが、ただ副交感神経?だかの問題だそうです。(昔はこの手の情報に詳しかったがもう卒業しました。)暗示を受けやすい状態だから、前以て霊の憑依とか言い聞かせられると、その様な反応をするだけです。ただし霊的存在というものは確固として存在します。 霊的存在として動物霊という存在はありますよ。

霊動《浮霊》について補足しますと、本来は霊動《浮霊》=《悪》という訳ではありません。これらの現象は民間医学でいうが如くカタルシスの一種といえます。例えば野口整体の活元運動なんて、霊動《浮霊》に良く似ています。 これには、創始者の野口晴哉が救世教出身というから当たり前ともいえますが、活元運動で霊が憑いたなんていいませんよ。

霊動《浮霊》に付いては、人間が風邪を引くのは体の調整作用だと言われますが、霊動《浮霊》も交感神経の調整作用の一環と考えています。この手の現象が起きるような場合が想定される時は、シッカリ対処できる人間がいるかどうかという事にかかっていると思います。

>「霊動」は濁音の祝詞が起こす「暗示」と関係があるとおっしゃっているように受け取りますが、それでしたら暗示とは怖いものですね。人を一生縛り付ける。確かにゴクビ云々の語韻はゴクツブシといったののしり言葉などを連想させますが。濁音て、詩でもそうでしょう?

「祈言集」は今手元に無く、その《ゴクビジッソウゲンシカイ》は漢字では極微実相、後は覚えていません。
濁音だらけの祝詞なんて・・・国文学や神道学にある程度の関心が有る方ならば、普通納得される筈ですよね。 真言や呪には有るけど、何処の神さんが懸かっているのやら・・・

>この事を私に教えてくれたのは真光の幹部だった人ですよ。

この方は、真光隊の隊長だったかな務めていた人で光玉死後暫く後に脱退した方なので、《ゴクビジッソウゲンシカイ》の話を、今の幹部が知っているか?というのは私には判りません。

>「霊動」はその動作だけ観察したら、薬物中毒者によくみられる現象と同じです。

上記の内容より私はそうは思いません。 本来はセラピーの一環だったと考えます。

>野口整体って、こんにゃく運動の野口先生ですか?

その人です。野口整体と救世教の関係は余り知られていないようです。

>しかし
>>人間の精神に対して非常に危険な方向性だたんですね。
>ということで、光玉、救世教破門の原因が霊動への執着、関心。

そもそも、岡田茂吉は大本に居た時は神霊実験の研究等をしていた。昭和二十年代、始め救世教主宰で物理霊媒、亀井三郎の実験会の主宰等も有りましたが、救世教の浄霊をしている場に於いて憑依現象が度々起こり、弊害が多いために昭和二十六年頃に教祖岡田茂吉によって救世教の場では神懸かりは禁止されたのです。(天国の礎に確か論文が有ったかな?)

当時、例外として神懸かりが認められていたのは、京都のイズノメ中教会の多賀夫人で、この夫人の取り次ぐ内容が機関紙の地上天国に掲載されていたのです。それに触発されて何人か神懸かりを続けていた人物が居り、岡田光玉も止まなかった一人で遂に破門されたというのが救世教で伝わる話ですね。

当時もう一人神懸かりを止めなかった人物がいて、兵庫県の豊岡に居た池内一次という人物は岡田茂吉から直々に審神を受けて本物と認められたそうです。(岡田茂吉没後、独立してひかり教会を設立した)当時、岡田茂吉は総ての神懸かりを否定していなかったという事実は重要です。


以前私が野口整体と野口体操の創始者は同一人物等良く確かめもせず頷いていましたが、後でよく調べてみたら別人でした。

野口整体 野口晴裁

野口体操 野口三千三
でありました。 いい加減な事いってスイマセン。

フト思ったんですが、此方の皆さんは「教祖誕生」上之郷利昭 新潮社刊という本のことはご存知ですか?  何処かの文庫本にも入っていたが、出版系列からして新潮文庫?この中に岡田光玉の伝記資料が収められています。光玉の家族(妾じゃないよ)とか、古い知人からも取材したようです。 以下引用すると、

しかし光玉はこの頃から既に、宗教の方には相当身を入れていたようである。「神道、仏教あらゆるところを模索して歩いた」と、彼は後年、親しい人たちに漏らしている。として、生長の家や救世教、大本に関わっていたらしいと記述あり。 大本の話は、私自身が大本の人から岡田光玉が大本の講座を受講に来ていたという証言を聞いた事がある。あまりソースとしてはこの本の事が話題に上らないので書いてみました。


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1976年10月27日(水)

愛人疑惑

今日仕入れた話は、ケイジュが光玉の愛人だった事を如何して当時の組み手たちは判ったのですか?と尋ねたら、

《だって、見たそのまんまだもの。》

二人の中を隠してなかった訳だ。なかなか凄い人達だ。

更にケイジュは光玉死後、日陰葛(ひかげかずら)の愛人の身で操をたてて暮らしていたのかと思いきや、早速お付になったT塚という書道の大家とくっついたというのです。こんな酒池肉林を目の前で見たら、普通の神経の人間なら直ぐ信仰を止めるでしょうな。

光玉死後の分裂騒動というのは、光玉と陸士同期の人間達(その玉がケイジュ)と関口氏の間の権力争いであり、教義不在の金をめぐる争いであったという事実がハッキリしました。この話を教えてくれた方も、何時もはあまり真光の話をしたがらない理由が今日判りました。

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生長の家

岡田光玉が生長の家信者だったらしいという伝見は、前記「教祖誕生」の中に記述があり、生長の家の神示と真光の神示を読み合わせて見れば一目瞭然です。七つの灯台の神示と雰囲気がソックリです。光玉の残した「御講話集」を初めて読んだ時、エドガーケイシーやルドルフシュタイナ―の名が出てきたのには驚きましたが、とても当時の軍人の知的レベルを超えています。 此の辺の情報も生長の家から持ってきたようです。 

光玉、最後の御神示の中《くちゃくちゃ》というのは、真の道の大峰老仙という神霊の語り口調です。 その事実は宗教法人真の道刊行の「真の道神示」を参照すれば歴然です。

前にも指摘しましたが、真光の「御聖言」は真の道の大峰老仙という神霊の神示の口調を改竄したものであるという証拠です。(「御聖言」の文語調の部分は生長の家の神示の口調に由来しています。 これもBOOKOFFの100円コーナーで「生命の実相」を参照して貰えれば一目瞭然です。)

光玉とケイジュは言霊の研究会(真の道協会?)で知り合ったいう話が残っているそうです。 何方か引用していた資料ではケイジュは大月の出身とか、(戦争中知り合ったという話とは合いませんが)実は昭和二十七、八年頃、甲府市に真の道宗像道場という場が開かれていました。 甲府市に真の道宗像道場は、昭和三十年の教団分裂後に八幡博堂側についていました。 大月と甲府は近いですなあ。

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瓜谷社長の証言

岡田光玉に対する初期の気さくで大らかな人物という評価から、後年のブリキを切り抜いたような勲章をぶら下げてとても元帝国軍人とは思えないような歯をむき出した薄笑いを浮かべた教祖御真影になった姿とはどうも一致しない。

それについては、たま出版に瓜谷社長は初期の真光組み手であり、光玉のとの経緯を「無私の愛よ永遠に」平成二年刊に於いて書き残している。

(瓜谷氏の超宗教・超宗派への道の提言に対して)
以下引用

〔前略〕顕著な真光の業の実績などにより信者が増えるに従い、やはり通常の宗教セクトと同じような団体を形成し、数ある新興宗教団の一つとしてひたすら信者数を増やすという量的拡大の道を歩み始めた。

間もなく世界真光文明教団という麗々しい名称の下に宗教法人の認可が降りた。 そしてしばらくは世田谷区にある自宅兼事務所で布教活動を行なったが、本部になる殿堂の建立の計画がされ、東横線沿線の格好な土地が求められ、その建設が始まった。 その着工に先立つ地鎮祭の時、私も妻もその式に列席した。 式の途中、何故か物凄い突風吹き、周囲に張られた式幕が風で吹き飛ばされそうになった。 妻はこの余りにも強烈で、突然の風が、何かの予兆だと言い、本教団の前途が波乱に満ちたものであることを示すものと私に語った。

そしてこの予言は的中した。 本殿ができたのが昭和四十三年三月、その後教団自体は大いに伸びたが、初代教主O師(光玉の事)はその六年後、昭和四十九年六月、この本殿で、突然の急死をしてしまった。 その直後から後継者をめぐって二人の人物がそれぞれの正当性を主張し譲らず、遂に裁判まで持ち込まれ、その決着に五、六年を要した。 その結果一方が名称を変え、同じ教義の下に、同じ初代教主をいただいて、宗派活動をするようになり今日に至っている。 間もなく正式名称継承した方の教団から、第三代を名乗る人物が現われ、別派をつくり三つの教派に分裂してしまっている。

思うにこれはあらゆる宗教セクトが陥る宿命的な運命である。 宗教の時代はとっくに終わっているのに、現世的な名誉や財産に捉われ、神の経綸を説きながら、自らはそれを実践できないでいるこの悲喜劇が多く繰り返されている。 ああ何と悲しむべき現象であろうか。

この立派に殿堂が建つ前後よく妻と語りあったものである。

「これからの人を教化する宗教あるいは精神運動の場はすべからく幕舎でなければならぬ」そのように神(妻の)から授かったと彼女は何度も私に語ったことがあるが、私もその通りだと思った。 こういう点では不思議なことに、二人は必ず意見が一致し、何の葛藤もなくお互いの心中を語りあうことができた。

この本殿の建立が始まった頃、本来なら幕舎であるべき所なのにという思いと、万時に宗教セクトをますます強化し信者の拡大に走るその姿と、主神の代行者よろしく自らを特別神聖化して行くO師(光玉の事)の行方に、これではついていけないとの思いがつのった。 そしてある日二人で世田谷の本部に伺いO師(光玉の事)に面会した。 その時二人は信仰を離れることを決意はしていたが、いきなりそこまで言うのは、多年導きいただいた教主たる師に礼を失すると思い、その時は取りあえず、道場長、その他幹部的な役をいただいていることを辞したい旨お願いした。

師は顔色を変え、いつもの温顔がきびしくなった。 師は静かに信仰をやめかねない二人の態度に、もしこの信仰を去れば、それなりの罰や祟りがないとは言えない。 またこれから何かにつけ神の庇護を受けられなくなると、翻意を促すように告げた。 厳しい一瞬であった。 入信間もなく訪れた二階にある神殿のあるご本部の日本間である。 師の言葉は、決意の決まったわれわれ二人には空しかった。 しかし温情ある師から受けた現世的恩義は忘れることはできない。 それは感謝せねばならないし、その気持ちは十分あった。
そして師は、その豊かな霊感を見抜いて、妻に、もし将来あなたが、霊的な指導者として独立するなら援助は惜しまない。 だからもうしばらくここで修行を続けなさいとも語った。 しかしそれは妻が最もなりたくないことで、心中はとんでもないことと思ったが、その場ではその過分なお言葉に、最大級の謙遜な気持ちをこめて、師にその好意を感謝しつつも、はっきりご辞退申し上げた。 このような妻には人一倍強い霊感、霊能を持っていながら、これで信者を集めたり、これを仕事にするようなことは全然念願になかった。 やはり本質はあくまで精神世界的な、一求道者であった。 その意味では二人は文字通り、同じ道を歩む互いにかけがえのない同志であった。

このような一幕があって、折角本部殿堂ができたというのに、二人は次第に足が遠のいていった。 どんな立派なものであろうと、いや立派で堂々たる殿堂である程、二人には何の魅力もない空しいものしか思えなかった。〔後略〕

なんか夫婦愛について記述が長いが、奥さんの追悼集という意味合いが強い本なので仕方がない。

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大峰老仙


光玉、最後の御神示の中《くちゃくちゃ》というのは、真の道の大峰老仙という神霊の語り口調です。 その事実は宗教法人真の道刊行の「真の道神示」を 参照すれば歴然です。

>勉強不足で恐縮なのですが、最後の御神示というのはなんでしょうか?一般に公開されていないものという事でしょうか?
>過去に書き込みがあったのかもしれませんが・・・・すみません。


>13日夜 神起こし賜う 神前へこい 13日午前2時急ぎ着がえて神前へ しばらくくちゃくちゃ 御聖地と造営着手御伺い考え考えよ しばし右横へ 方向守るよ 高天原守らむなれど 時悪し神守るなれど 遅いよ遅いよ アマハラ 鎮護せしめん 胆なりヤマト人 遅いよ遅いよ 時悪ししばし 時を見よ(11日夜のこと金星すてぬなれど ここ運つきよ)

>神の大ミソギ早足なりし 上 8/25ヤレ玄岳に心むけさせし時、玄光山とおぬし叫たるが、しかりなれど、 あの時は玄は暗し クライ出思い出さしめん為 しばし仮に ヨ丈け秘かにもちて(ヨのみ霊もちて)娘に与えよ間に合わず 此地 時をまて 8月10日27所 与えられん思い立ったら吉日よもう一度 ほかの仕組みで 力 外に うまく そらさんも

岡田光玉の改編されていない御神示は、もろに大峰老仙の口調そのままであるという指摘です。千鳥会時代、霊の語るところによると、大峰老仙は役の行者の弟子であったという由で、聖徳太子の時代の人物だったそうです。わしは○○じゃよ。という口調で現れて交霊会で喋っていました。

後に作家になった皆川博子は塩谷博士の娘ですが、多感な年頃に千鳥会の交霊会に接してスッカリ霊的なことが嫌いになったそうで、大峰老仙の喋る《わしは○○じゃよ。》という口調が聖徳太子時代の口調とはとても考えられず、特に嫌いだったそうです。その頃の思い出から、「巫女のいる家」「巫女」という作品を書いています。「巫女」という作品は最近、学研M文庫から出たばかりだから大きな本屋で直ぐ手に入ります。

真の道の教義によると、真光霊団の一番上に座すのは聖徳太子という事ですが、真光教団に於いても踏破されているのでしょうか。

>私の所属道場は古い道場です。この間何日間だけ古い資料を公開していました。その中に昭和30年代の真の道の機関紙などがファイルされていました。(びっくり)
当然救い主様の記事もありました。膨大な量だった事と、時間もなかったので詳しい内容までは読み取れませんでした。

それは当然でしょう。 私の会った友の会時代の方(故人)によると、(真の道協会の人が来て)初期の頃(友の会時代)はフーチを良くやっていたそうです。陽文研に居たN氏によると、昭和三十年代の「真光」誌に真の道協会との交流が良く書いてあったとの事です。

因みに光玉の記事があったという「真の道の機関紙」は真の道協会の「聖和」でないですか? (真の道と真の道協会は分裂した別団体です。 その背景は昨年の十一月三日の投稿を御覧下さい。)

>又、教団設立当初の組み手さん、側近に近い人も何名かいらっしゃいます。(ほとんど話す機会はありませんが・・・)チャンスがあればいろいろと聞いてみたいと思っています。

是非お願いします。 初期の信者さんの光玉像と、現在の流布されている光玉像の間のギャップは如何。 歪められた虚像をただす時期にきているのでないでしょうか。

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ス座

光玉最後の神示というものを読むと、

>>神の大ミソギ早足なりし 上 8/25ヤレ玄岳に心むけさせし時、玄光山とおぬし叫たるが、しかりなれど、 あの時は玄は暗し クライ出思い出さしめん為 しばし仮に ヨ丈け秘かにもちて(ヨのみ霊もちて)娘に与えよ

気がついたのですが、上記神示の《玄岳》という山は熱海にある山のことなのですね。
http://www.izu.co.jp/~gaigo/hp5.html

又、《玄光山》という山は、ネット検索には引っかからなかったのですが、その正体は如何に?

玄という字はクロとも読みますが、

>あの時は玄は暗し クライ出思い出さしめん為

クロ クライから飛騨の位山(くらいやま)が連想されたのでしょうか?
文明教団のス座が熱海にあることと、崇教のス座が飛騨高山にあることとは、何か関係があるのでしょうか?

これ一冊でまるごとわかるシリーズ② 「古史古伝」論争 新人物往来社刊 という本を読むと、真光では(文明教団と崇教どちらの事か判りませんが)熱海の日金山や三重の御在所山に世界本山を作る話があったとか、書いていますが背景的には如何なんでしょうか。

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人類の母国「神国日本」

神保町で海軍大佐犬塚惟重の《人類の母国「神国日本」》昭和十八年刊というパンフレットを買い求めた。犬塚大佐は戦前、上海の特務機関長でユダヤ研究の分野で有名な人物であるが、逆にこの手の国体明徴の志向が有ったとは、私は最近まで知らなかった。

《人類の母国「神国日本」》の内容は、世界の古代文化の源流は日本にあるという世界観で、インカ・マヤ文化を始めアトランティス・ムー・レムリア文明・聖書ユダヤと日本の関係・民族移動説・地質学・考古学から見た日本原人(明石原人)飛騨高山の巨石文化・ボリビアの神代文字等の存在を根拠として《世界の古代文化の源流は日本にある》としている。これらの仮説を大きく裏付ける根拠として古文献(竹内文献の事・当時は天津教裁判中で名称を使う事が出来なかった)や契丹古伝の存在に大きく依存しているのである。まともに考えれば承知するにはかなり困難な珍説歴史を、戦前の有名な軍人達が信奉していたという事実には、いささか困惑するものである。

《人類の母国「神国日本」》は戦前一部の皇道派国体論者から支持された所説を纏めたものであるが、この本の内容(世界観)は、後の真光の教義と著しい類似を示している。 岡田光玉、本名良一が戦前、この手の国体論者のグループに属していた今のところ記録はない。というより岡田光玉の所説を読む限り、本から得た着想である事は明白である。

《人類の母国「神国日本」》の主張は、戦後は一般から顧みられるような事は無くなっていったが戦前学説?とされて公表されていたものが、戦後になって宗教の教義として登場したことには、真光という存在は、遅咲きのあだ花のような存在であったといえるだろう。


>...アトランティス大陸とムー大陸はかつて、水爆をも用いた大規模で悲惨な戦争をしました。さらに、金星やその他の惑星の霊たちとこの世の肉身をもった人類との間の戦争が起こりました。こうして、その戦いに敗北した霊の系統の者たちは、霊的に非常に強い恨みを現在の人類に対して持つようになりました。本当のことを言えば、現在の人間に憑依している霊の多数は、そのような霊たちなのです。

>神の力を以ってしても、憑依霊が人々の身体から長い間離れないこともあります。その理由を言いますと、ある程度までは、現実の人間の歴史の中で勝ったり負けたりしてきた霊の系統間の争いが、まさに今この現在まで続いているからなのです。現在、強い憎しみと恨みを持った霊たちが、現在の人間が幸せな世界を建設するのを邪魔するために、一致団結しています。言い換えれば、そういう霊たちは組織的に行動を起こしているのです。

>さらに、そのような霊たちは、また他の惑星からの霊たちまでもが、今日の人類の中に紛れ込み、人類の中に転生してきています。例えば、ムー大陸によって破壊されたアトランティス文明の人々は、今日の人間に霊として憑依するだけでなく、実際に、この世界に人間として転生してきているのです。さらに加えて、憎しみを持った霊はそのような人間たちと一緒になって、憎しみに満ち溢れた恐ろしい世界を作り上げようとさえしているのです。これが、現在起こっていることなのです...

上記の説(岡田光玉氏によるアトランティス霊障説 (5.真光、ムー大陸、そして天皇崇拝 参照))は、アメリカで1950年代に流行ったシェーバーミステリーが元でしょう。
SFマニアなら大抵知っている事では・・・

この手の翻訳本も昭和三十年代に、Rディクホフの「アガルタ」とか密教科学社なんていう処から出版されている。 持っていたけど、古本屋に売っちゃった。(高く売れた!)
「アガルタ」の口絵は、仏教徒と称するRディクホフの怪しい写真が載っていた。 この手の本を読んだんだろう岡田教祖は、どう見てもペテン師に思ったけど、気付かなかったのか?

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前に岡田光玉のUFO(宇宙)の話はアメリカのシェーバーミステリーの影響だろうと指摘しましたが、この番見ている人達は知らないようですなあ。 
他の人がNASAが如何のと、一生懸命反論しているのが可笑しかった。

今の世代の人は岡田光玉が影響を受けた戦前の国体主義者の把握が出来ていないと思います。
馬場さんが以前に批判いていたエタとユダが通音という教説は、オリジナルは確か小谷部全一郎か石川三四郎の説だったと思う。(違ったとしても同時代の誰かの説で、本で読んだ事がある)

この分野は余り参考文献が無いんだけど、一つ挙げると「偽史冒険世界」長山靖生 筑摩書房があります。 (トンデモ本解説書の体裁ですが)

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