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2002年09月29日(日) 久しぶりの「会話」

先日、とある送別会の場で今度僕のいる組織を去る人
−去るのは単に契約期間の問題でなのだが−
からこんなことを言われた。
「おじゅん君は率直に言って今の仕事を続けるの?」と。

その人には入社直後の研修時からたびたびお世話に
なってきた。長いこと話し込んだことは無かったけれど、
時折交わした言葉の端々から、きっと僕ときちんとした
「会話」が出来る稀有な人であろうと思っていた
数少ない人だった。そして、このときこのような言葉を
かけられたことでさらにその意を強くした。

多くの人が集まっている送別会で、その人と二人だけで
長いこと話すのは周りに迷惑かとも思ったが、
僕はゆっくりと言葉を選びながらその人に
自分の思いを伝えた。僕にとってもその人にとっても
そうすることが必要だと思ったし、久しぶりに
きとんとした「会話」をする機会になると思ったからだ。

僕は決して今の仕事をすぐに辞めるつもりはない。
可能性と広がりのある仕事だと今でも信じているし、
言われているよりも柔軟な組織であると実感しているから。
やってみたいことはたくさんある。

けれど、そのことと僕がこの仕事だけを通して
年をとっていくことに納得できるかどうかということは
別の問題であって、とても簡単に出せる結論ではない。

その人はこうも言っていた。
「あなたはこれまでこの組織を去っていった人と
どこか共通のものを持っていると感じるの」と。

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ピアニスト、フジコヘミングとモスクワフィルハーモニーによる
演奏会を聴きに行った。考えてみれば、クラシックのコンサートは
社会人になって初めてだった。

リストの「ラ・カンパネラ」では、フジコヘミング氏の
超絶技巧に耳ではなく目を奪われ酔いしれた。
またモスクワフィルというだけあって、一部を除いて
プログラムはチャイコづくし。
オーボエとフルートがことのほか良かった。
ホルンは僕がこれまで聞いたホルンの中でも
最も朗々と澄んだ音で、ロシアのホルニストは
きっとこういう音を出すのだろうと感じさせる音だった。

このところ言い様の無い不安感に襲われている。
そんな風に僕が言うと大学時代の友人は決まって
「もっと具体的に悩めよ」と言っていたことを思い出す。
何におびえているのかは自分でもよくわからない。


2002年09月20日(金) 半年が経った

研修が終わると渋谷へ繰り出し、
この日がBunkamuraでの上映最終日となる
映画「エトワール」を観に行った。
最終回ということもあって通路は立ち見客で一杯。

おそらくは一人では見に行くことは無かったと思うが、
フラメンコをやっている大学時代の友人から誘われた。
「エトワール」はドキュメンタリータッチでパリ・オペラ座
のダンサーたちを追ってゆく作品で、誘った彼女は、
形やスタイルは違えど同じ「ダンサー」として作品に
興味があったとのこと。

トップダンサーたちによるバレエに対する思いはさまざまだが、
そのインタビューの端々から感じたのは、
それが身を賭すに値する価値のあるモノであるということ。

この日、卒業式のときに取った写真をもらった。
僕は元来写真写りが悪いのだが(元が悪いのは勿論認めるが)
自分で言うのもなんだけど、その写真の僕は奇跡的に珍しく
まともな表情をしていて、僕はその写真を気に入った。
人のカメラに残った写真が良かったのはなんだか嬉しかった。

2ヶ月ぶりの再会。
会うたびに立ち居振る舞いが大人びてゆき
洗練されていくのがわかる。
一方で僕はこの半年間いったい何をしてきたのだろう?
どう変われたというのだろう。

もう、半年が経った。


2002年09月08日(日) まだ大丈夫

買い物のついでに久しぶりに銀座にある
某楽器店へ足を運んだ。中学高校時代は
楽譜や楽器のメンテナンス用具を求めて
何度も通ったものだが、社会人になって
来るのは初めてだった。

管楽器売り場では、信じられないような
値札のついたホルンをただただ眺めていた。
試奏室からはトランペットの音が聴こえた。
柔らかくてなかなかいい音だった。
「展覧会の絵」、「カルメン」、
「ワシントンポストマーチ」。。。
聴き覚えのあるフレーズを吹いている。

自分も無性に吹きたくなった。
一つ決心した。

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「成長しない男、ブッシュ」
電車のつり広告に並ぶこんな言葉を見て
思わず考えこんでしまった。

今の自分が欲しがっている、余裕、なんて
そんなものは初めからただの幻想にすぎなくて、
今まではいつも大変だったし、これからはもっと
大変になるのだろう。こんなこと何年も前の日記に
記していることなのに。

おそらくは自分に向けられたと思われる
(僕にとっては)直截的な忠告を
2、3のサイトで目にした。

どんな言葉よりも、
それが今の僕にとっては、僕のためには、良かった。


2002年09月07日(土) あの子を探して

金曜の夜、仕事から帰宅すると同時に
部屋の電話が鳴った。大学時代の友人からだった。
社会人になって初めて弱音を吐いた。

繕った自分が受け入れられないのが怖くて、
さらに取り繕っては失敗するという悪循環。
何をするべく今の道を選んだのだろう。

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先週末、レコード店で流れる朝比奈隆指揮
チャイコフスキー第4番を衝動買い。
9年前の冬演奏会に向けこの曲を練習したことを思い出す。
ブラスの曲と違って他の金管同様にしっかりとホルンが
目立つこの曲が、なかでも4楽章のホルンのソリの旋律が
好きで、普段は嫌いな練習もこの曲のときだけは楽しかった。

あのときは、どこに向かって進んでいたのだろう。
あの頃の僕に出会ったら、今の僕はきっと
叱られてしまうだろう。理由はわからない。
けどきっと怒られるような気がする。

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想像力の欠如した、「思考」していない自分勝手な人間
−つまり僕がもっとも嫌いなタイプの人間−
は他でもない僕自身であると思えてならない。
いろいろな意味で今つまづいている。
すべては自分の過去の行動の結果であると認識は
しているのだけれど。
今のままでは自分の限界が近づきつつあるように思う。

過去に対する確信が「自信」であり、
未来に対する確信が「希望」であるならば、
すべてに対して確信を持てず
前に進むちからを失った今の僕は
翼をもがれた鳥のように地面で
じたばたして息絶えるのを待つだけだ。

すべてがふわふわした状態で地に足が着いていない状態で、
ただただ時に流されるようにここまでやってきた。
努力を怠る自分に対して「忙しい」という言い訳をして
ちゃらんぽらんでやってきた。これではいけない。

同世代の人々と同じ時間を生きてきたはずなのに
さまざまな面で遅れをとってしまっている。
自分の信念を貫いてきたつもりでも、
それは単なる他人の信念だったのかもしれない。

過去は美化されて残るものだから忘れてしまった
のだろうけれど、きっとこういう状況は過去にも
あったはず。しばし自分と向き合えばそして努力を
すれば一歩でも前に進めるようになれると思うし、
そうしなくちゃいけない。

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「あの子を探して」は、観ていてなんだかもどかしかった。
クライマックスのシーン、
ブラウン管に映る幼い少女の流す涙を見て
それまでのもどかしかった思いが消え、
同時に自分が恥ずかしくなった。

ひたすら要領のよさだけを求めて生きている自分は
会えるとも知れない見知らぬ人を丸2日間もテレビ局の前で
待つこの少女のような熱情を持ち合わせているだろうか。
今の自分に足りないのはこの少女が見せてくれた
愚直なまでのひたむきさなんだと、チャンイーモウに
気づかされた。

この5ヶ月間は素直に反省しなくてはいけない。
謙虚さが、想像力が、そして何より
ひたむきさが足りなかった。


2002年09月06日(金) 余裕

珍しく2日連続の更新。

僕はまだ、この世の中を生きていくにはあまりに弱いし、
あまりに幼すぎる。そう痛感している。

一人の有名なアーティストが結婚したニュースなど
今の僕にとってはあまりに瑣末なことだ。
それよりも今は自分が日々仕事を終えるので精一杯。
つまり僕は今、余裕を失っていると言うことだ。

自分の力でご飯を食べることがこれほど大変なことだとは
知らなかった。仕事の内容は興味深い。けれど仕事を
「する」のにはいろいろと面倒なことが多い。

またシベリア鉄道に乗りたい。
誰にも話しかけられず、ただただ窓の外の広大な平原を
眺めていただけの7日間は僕の人生でもっとも大切な
そして幸福な時間であったのだと、僕は今切に感じる。


2002年09月05日(木) 立ち止まりたい

少し立ち止まる時間が必要だと思っている。
エネルギーを向ける方向が違うのではないかとも思っている。
一番嫌いな言動不一致を他でもない自分がやっている気がする。

僕はいつも先走ってしまう。
何もかもが手探りの状態で、ふわふわしていて不安で仕方がない。

意味性の無い言葉の多さに腹立たしさを覚てしまう。
今の生活で他人から聴く言葉のほとんどは、
その言葉の発された理由が簡単にわかってしまう。
ゆがんだ形で顕在化する自己顕示欲に満ち溢れた
言葉の多さには辟易してしまう。
別に自己顕示欲は否定しない。どうしてそれをもっと
素直に出さないのだろう。それが不思議で仕方ない。

「社会人は忙しくて当たり前」
こう記された大学の恩師からの暑中見舞いを
読むたび少し元気付けられる。

きっといろんなことに対して余裕を失っているのだと思う。


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