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2001年06月30日(土) 量より質が生まれる

今更ながらアクセス数の多いサイトはこまめな更新が
為されていることを再認識。数の大小なんて些細な問題だろうけど、
そうやってどんなことも「どうでもいい」と切り捨てていった挙句に
一体何が残るのかなあなんて思ってみたり。
量から質が生まれる、とも言うし。せめて日記くらいは、ね。

金曜日は午後からアルバイトに出勤。
やっつけでアップロードしたサイトの修正に追われる。
テキストだとどうしても安っぽく見えるので、相談の結果、
タイトルなども全てロゴ画像で作ることになった。
ところがこれまで更新してきたのは外部の専門業者。
やたらと凝ったつくりの画像が散りばめられていて、
作成がとても面倒くさい。フラッシュとかJavaとか
もうわけわからない。

とまあ、なんだかんだで残業。
アルバイトは全員帰り、社員も遅番の人のみが残っている状況。
人数が少ないと電話に出なくてはならないから不安になる。
時差の関係で夕方を過ぎるとスカンジナビアの方からの
電話が多くなるからだ。スタッフの人などは皆慣れたもの。

職場は市ヶ谷の駅から徒歩5分くらい。外堀に近い五番町のビルの4階。
オフィスは明るく開放的。スタッフは皆、カジュアルスタイル。
直線的な仕切りやついたての類はなく窓も大きく取られている。
当たり前と言えば当たり前だけど、当然国際的で
ボックスなども全て英語表記。「inquary」って何かと思ったら
「問い合わせ」の意らしい。社員はもちろんアルバイトの人も
海外経験の豊富な人が多くて、生来ドメスティックな人生を
歩んでいる僕はなんだか例外的存在のようだ。
来年からの僕の職場とは何もかもが正反対なんだろうな。

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最近すごく疑問に思ったことを1つ。

ドコモとAOLが提携して、iモードで最大25000文字までの
メールを受信できるようになったとか。広末はこれを読むので
マラソンを走りきってしまったらしいが、考えて見れば
25000文字ってそんな長いメール、送られても困る。
原稿用紙60枚以上、携帯はもとよりパソコンでも読みたくないな。

去年のうちのサークルの論文集の投稿の目安が10000字だから
論文が2本以上読める計算だ。まあ、うちのサークルの論文など
読んでいたらマラソンを走る気も失せてしまうだろうけど。




2001年06月28日(木) 夏はもうすぐ

高校野球の地区大会のトーナメントが新聞に発表され、
夏ダイヤの掲載された時刻表が本屋の店頭に並ぶのをみると、
僕は夏が迫りつつあると感じる。
もうあとわずかで夏休みだ。学生生活最後の夏。

梅雨はもうどこかへ行ってしまったかのような暑い日々が続く。
先週来バタバタとしていた所為なのか肉体的な疲労を感じている。
週末も休めずなかなか疲労も取れずしまい。バイト先のウエブサイトの
更新は25日が締め切り。遅ればせながら火曜日にやっつけで
アップロードしたが、自宅で見てみると穴だらけ。
明日はずっと修正だ・・・。

今日は午前中から祖母を車に乗せて、役所や郵便局などを回る。
いくら冷房を効かせても、フロントガラスから容赦なく照りつける
日光に参ってしまった。

夕方大学へ行くも眠気が取れず、図書館に行っても撃沈する
だけだと判断し、早々に撤退。

帰り道、池袋では喫茶店に入るもついウトウト。
久しぶりに立ち寄った本屋で新書、文庫を3冊買って帰宅。
何をやってもうまくいかない、そんな日は早く寝るに限る。

買った本はジャックケルアック「路上」と文化大革命と国定忠治に
関する新書2冊。後ろの2つは昨日2つのゼミでそれぞれ先生から
勧められた本だ。「国定忠治」は江戸時代の法や秩序を考える上で
示唆に富んだ本とのこと。半信半疑だがとりあえず読んでみよう。

休みの前に休み中の計画を思案する時期は楽しいものだ。
得てして計画倒れに終わってしまうのだけれど。

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高校時代の担任の教師が、夏を目前に控えてはやる心を
抑えられないでいるこの時期の僕たちに対してこんなことを
言っていた。


「毎年、過ぎた夏を短く感じてしまうのは、夏が実際に僕たちに残して
ゆくものが、行く夏に僕たちが寄せる期待に比べてあまりにも小さい
ものだからなのかもしれない。
今年もそんな刹那の夏がやってきた」


2001年06月17日(日) 2001年6月17日

2001年6月17日土曜日午前零時半頃、帰宅。
帰宅後しばらくは自室でパソコンを操作する。

午前2時頃、家の電話が鳴る。
たまにかかってくる深夜の悪戯電話ならばすぐ切れる。
切れて欲しい。
いや切れる筈さ。



1コール。





2コール。




「その時が、来たんだな」
僕は急いで階下へ駆け下りていった。





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母方の祖父には小さい頃からよく遊んでもらった。
小学校の頃から、学校の休みの度に泊まりに行っていた。
孫の数が少ないと言うこともあったが、その中でも2人しかいない
男孫で祖父の家によく遊びに行く僕は、
孫の中でも一番に祖父に目をかけてもらっていた。
小学4年の時に祖父の家の近くに越してからは、毎週のように遊びに行っていた。

友達と喧嘩してどうしようもなかったとき、
思わず祖父の家まで行ってしまったこともあった。
突然の訪問に祖父はとても驚いていたけれど、
いつもと変わらぬ笑顔で迎えてくれた。
そんな祖父を見ると、喧嘩したことも忘れて不思議と優しい気持ちになっていった。

祖父のごつごつした手が好きだった。
油の匂いがするその白髪が好きだった。
自転車の荷台に乗ってつかまるその広い背中が好きだった。


雑木林で虫取りをしたり、
野草を取って団子を作ったり、
自宅に実った梅でお酒を作ったり、
畑に行って野菜を収穫したり、
小学校の校庭で凧揚げをしたり。

祖父は僕を自転車の荷台に乗せてあちこちへ僕を連れ出した。
僕にいろんな遊びを教えてくれた。楽しくて楽しくて、そう、楽しかった。
そして暑い夏に遊んで帰った後は、決まってサイダーとスイカを食べた。
冬にはストーブの上で焼いた小魚を僕にくれて、一緒に食べた。

相撲と高校野球を見るのが好きだった。
高校2年の夏、僕の高校が甲子園に出場した時は
まるで僕が野球部員であるかのように、応援してくれた。

警察官だった祖父は生真面目で厳しい人だった。
けれど、不思議と僕には穏やかだった。

警察で外事の仕事を担当していた祖父は、朝鮮語が堪能で、
韓国人の友達も多く、キムチや焼肉などの韓国料理も好きだった。
僕はそんなことは露知らず、大学2年次から、
たまたま韓国の大学生との交流プログラムに参加し始めたのだが、
今から思えば少しは韓国と縁があったのかもしれない。
それを知った祖父は、ボロボロに使い古された朝鮮語の辞書を僕にくれた。


思い出が、尽きるわけない。
「そこ」に行けば祖父がいる。
今までもそうだったし、これからだってそのはずだった。
だから、いまも「そこ」に行けばいるような気がしてならない。
いや、いるんだよ。ね、そうだよね。



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4年前、僕が高校3年の夏、祖父は癌で入院した。
早期発見が幸いして、手術後は元通りの生活を送ることが出来た。
誰もがほっとしたし、何より祖父自身が安心したと思う。

けれど、病魔は、レントゲン写真にも映らず、
医者の目にもわからぬところで、
ひっそりとゆっくりと祖父の体を蝕み始めていた。

話はそれるが、高校3年の夏休みには現代文の授業で
「聞き書き」の宿題が課されていた。
これは村上春樹の地下鉄サリン事件を扱った
ノンフィクション小説『アンダーグラウンド』と同じ要領で、
他人から聞いたことをインタビュー形式にして
まとめるという内容であった。

僕はそのインタビューイーに祖父を選び、戦争体験を中心に話を聞くつもりだった。
ところがその夏、祖父は入院。
御見舞いの際に「どうしよう」といったつもりで祖父に話すと、
自分の半生を綴ったノートを貸すという。
かくして、僕は祖父の他、誰も目にしたことがないであろう、
祖父の生い立ちを記したノートを借りた。
僕は食い入るようにそのノートを読み漁った。

祖父は母親の死後、親の反対を押し切って兵に志願した。
昭和17年に満州へ渡り、2年後に南洋のハルマヘラ島へ
克明で生々しい戦地の描写。阿鼻叫喚を極めた爆撃の記録。
淡々とした文体がより一層、その悲惨さが現実感をもって自らに迫ってきた。

こんなことを書くのは好きではないけれど、
その提出課題は「出色の出来」との評価を受けた。
これはもちろん祖父のおかげだけれど、
試験でどんなに高い点を取った時より嬉しかった。
それは単に高い評価だったからというわけでなく、
祖父の記録をきちんと他者に伝えるという、
その責任を果たせてホッとしたからだったんだと思う。


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今年1月4日、アルバイトの帰り道、久しぶりに祖父の家に行った。
その日の祖父は明らかにそれまでの祖父とは違っていた。
夕食の寿司も2つか3つ食べただけ。
呼吸がとても苦しそうで、一息でしゃべることが出来ない。
思えば、祖父と夕食を取ったのはこの日が最後だった。
泊まれれば良かったのだが、生憎次の日も早くから
アルバイトがあったため帰宅しようとすると、
祖父は僕にいくつかの使っていたネクタイピンをくれた。

祖父が大病院に入院したのはそれからまもなくのことだった。
大学の試験期間と言うこともあって、
なかなかお見舞いに行くことが出来ぬまま1月の終わりを迎えた。

ある日、祖父の担当の医者が家族に話があるというので、
調子の悪い母親に代わって行くことになった。
「話」、ある程度の覚悟はしていた。

1月末日、試験終了後、祖父の入院している病院へ行く。
呼吸は相変わらず苦しそうだったが、
顔色はそれほど悪くも無く元気そうで安心した。


その後、医者に呼ばれ、祖母、伯母と共に小さな会議室へ入る。
医者はためらう風も無く、レントゲン写真を示しつつ淡々と切り出した。
それはどうしても一縷の望みに縋ろうとする家族の感情的な思いの一切を
断念させようとするかのように。

はたしてその思惑通り、3人は声をあげることも出来ず、
ただただじっと医者の話を聞くことしか出来なかった。

癌が肺に転移していた。

レントゲン写真には否定をすることも出来ないほど
はっきりと黒く大きな影が出来ていた。

末期であること、余命を予測することは出来ないが
次の年の冬を迎えるほど長くは生きられないこと。
大病院にいても施しようが無いので、せめて最後は自宅で
療養してはどうかということ。
何もしないで退院するのも本人が疑うので、
形ばかりの放射線治療を少し行うこと。

これまで老体に鞭打って、
遠い道のりを1日おきに足繁くお見舞いに通っていた
祖母は明らかに大きなショックを受けていて、
まだあまり事実を受け入れられてないようだった。

僕ははじめ、その医者のあまりに事務的な口ぶりに、
不満を覚えたが、動かしようの無い事実を
受け入れることに懸命で、どうしようもなかった。

その後、3人で病室へ戻った。
そこで祖父と話せというのは、僕にとってあまりに辛いことであり、
祖母たちが罪の無い優しさから
「放射線治療をすれば治る」と祖父を励ましているのを
聞くことにも耐え難い思いだった。
僕には祖父に嘘はつけないし、祖父だって僕の嘘など見抜くだろう。
半生、刑事をやってきた祖父のこと、祖母たちの言葉の裏でさえ、
読んでいたかもしれない。

2月から僕は就職活動が始まり、自らのことに必死の日々が続いた。
活動の合間、母親から祖父が先の病院を退院したこと、自宅療養を開始したこと、
夜中に呼吸が苦しくなって救急車で運ばれたことなどを知らされた。

4月に入り、就職活動が本格化し、怒涛のような面接が始まった。
僕は一日一日を過ごすことに精一杯で、周りを見渡す余裕など無かった。
4月2週目、希望の会社の選考が進み始めると、
一刻も早く決めて、祖父の下に行きたいという思いが出てきた。
週末には運良く内定を得て、早速翌週の平日に祖父の家へ行った。

祖父はもう自力で起き上がることが難しく、ベットに寝たままになっていた。
それでも口ぶりなどは元気で、就職の報告をすると、
「大したもんだな」と声を掛けてくれた。
頑張ってよかったし、祖父に就職の報告を出来て本当によかった。
しばらく居間で祖母と母親と3人で話し込み、
帰ろうと思って祖父のベットを見ると祖父はもう目を閉じて休んでいた。
やりきれない思いで、祖父の家を後にした。



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祖父が再び救急車で運ばれたのはそれから一週間も経たない日のことだった。
そして、それ以後、祖父は一度も家に戻ることはなかった。

病院にお見舞いに行くたび、祖父はやせ細っていった。
呼吸が苦しいせいか、話すことも少なくなった。

祖母はヘルパーさんと交代で祖父の部屋に泊まりこんだ。
いくら健康な祖母だって、70を超えた老齢だ。
無理はよくないと、僕の母親が止めるのにも耳を貸さず懸命に看護していた。
その健気な姿をみるのがまた辛かった。

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6月に入り、容態も落ち着いて、ひょっとしたらと思うこともあった。

6月10日日曜日、いつものように僕は母親と祖父を見舞った。
母親はまだ部屋に着いていない。
看護の祖母が洗い物のため部屋を空けた。

期せずして、部屋は僕と祖父だけになった。
祖父の手は繰り返される点滴注射のせいで黒ずんでいた。

それまで何も話さなかった祖父は突然、
僕に「何かメモを」と言った。

驚いた僕が急いでメモ用紙を渡すと、祖父は何かを書き出した。
力が入らないせいか、字がうまく書けない。
しかし「なに、おじいちゃん?」という僕の問いかけにも応じず
祖父は筆を置かず書きつづけた。今から考えれば、肺を患っていたから
声を出すことが思い通りに行かなかったのであろう。

そのメモ書きは今でも僕の机の上に置いてある。


   2階の小戸棚に
   2本か3本の洋酒のビンが
   あるからついでのときにもっ
   てきてほしい おねがい



うまく字が判別できず、よくわからない僕にはさみを持ち出して
メモ用紙を切り取り、その洋酒の形を作って見せた。

後になって知ったのだが、この洋酒は祖父の知り合いの韓国人からの
10年以上前の贈り物で、祖父は僕とヘルパーさんにくれるつもりだったらしい。
祖父の手から直接もらいたかったのだけれど、それは叶わぬことになってしまった。
そしてこれが、祖父と僕が交わした最後の会話になってしまった。


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6月15日金曜日、アルバイト中に母親から祖父が酸素吸入を始めたとの連絡が入った。
けれどすぐに命に関わることではないとのことで、アルバイトが終わった夜に
父母と3人で見舞った。


祖父は目を閉じたまま、マスクをつけていた。

突然
「水、水」
と声をあげた。

しかし、水をあげると肺に入ってしまうかもしれないのであげてはならないと
医者から言われていた。

仕方なく祖母は水を含んだ綿で、口の周りを湿らせたが、
喉が渇いた祖父は再び
「氷、氷」
と声をあげる。

「苦しいよ、苦しいよ」
そう訴える祖父を見るに見かねて祖母がナースコールをする。
看護婦さんが処置してくれたものの、今度はそれまで90程度だった
急に血圧が180まで上昇した。痛み止めを投薬し、ようやく落ち着いてきた。


その場にいるのが辛くて思わず病室を出た。
この2、3日が山かもしれない。父はそういった。
けれど、これまでもそういう状態は何度かあったし、
医者から「今夜が」と言われたわけでもない。
そう思いたくないという願いもあったからだろうか。
父母と僕の3人はとりあえず帰宅した。

16日土曜日朝、祖母は一時帰宅した。
僕は都内へ出た。
ヘルパーさんの話によれば、この日祖父は自らマスクをはずし、
前日の容態が信じられないほど元気になって話をしたとのこと。


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母親と妹を乗せて病院へ車を飛ばした。出発時、車の時計は2時17分だった。
「家族を呼んでください」と病院から連絡を受けた祖母が僕の家に
電話をしてきたのが冒頭の電話だった。

病院に着いたのは2時30分過ぎ。
急いで部屋に駆け込むと、それまでにないアルコールの匂いが鼻を突いた。
2人のヘルパーさんがベットの脇で祖父の体を触っていた。

なにか処置をしているんだろう、よかった、間に合ったのかな。

そう思いかけた矢先、母親がこういった。
「先に着いたおばあちゃんもね、間に合わなかったんだって」。


嘘・・・。


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2時25分。
あと少し早ければ。

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ふと部屋を見渡すと、昨日までの部屋を鬱陶しいものにしていた点滴器具や、
酸素吸入器は全てはずされていた。


とても安らかな顔。あまり苦しまなかったのだろう。
しばらく顔を眺めることしか出来なかった。
首の辺りを触れると、まだぬくもりが残っていた。

しばらくして、連絡のため一度病院の外へ出る。
再び部屋へ戻ると消毒の強いアルコールの匂いが鼻を突く。


部屋の片づけを求められ、荷物を車へ運ぶ。
ふと見れば、東の空はもう明け始めている。
残酷なまでに美しい朝焼けだ。

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「病は気から」という言葉がある。
祖父はもう一度家に帰るつもりで頑張っていた。
僕に対して「また焼肉を食べに行こうな」と言ったのも、
自分を奮い立たせるためだったのかもしれない。
そんな祖父が1週間ほど前から弱音を吐くようになったと聞いた。

「なあ、もう疲れたよ。もう帰ろう、病院から帰ろうよ」

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一日中、祖父母の自宅で動き回る。
病室の荷物を詰め込んだ袋からメモ帳を見つける。
それは容態、食事の量、その日の出来事などを祖母が記した看護日記だった。
ページをめくると、こんな走り書きがあった。



    27日 雪
    行きたくて行きたくてやっぱり出かけた。
    足がすべって大変だった。



治る見込みがないと知りながら、それでも必死に励まして、
自らの老体を省みず懸命に介護にあたった祖母を思うと
どうしても目の前の世界がにじんで見えてしまった。

誰が悪いわけでもない、誰も責められない。
皆が頑張って、そして祈った。
届かなかった。叶わなかった。
だから、ただ悲しむことのほか何をすることも出来ない。


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夕方、ついうとうとしてしまう。
あまりの眩しさに思わず目を開けると、窓から夕日が差し込んでいた。
それは見事な、夕焼けだった。太陽は失われた命をも燃料として輝いているのだろうか。

いつもと何も変わらない夕焼け。
この時間になると、大抵、祖父は畑で取ってきた野菜を手に帰ってきたものだった。
今日も帰ってくるんじゃないかな、そんな気がした。

太陽が昇ってから沈むまでを過ごした6月17日、それはとても長い一日だった。


ふと、誰かが涙に暮れながらポツリと漏らした。
「もう一度、名前を呼んで欲しかった」
この言葉を聞いてこらえることなんて出来なかった。

それはもう、切ないまでの叶わぬ願い。


2001年06月13日(水) 届いた葉書

新しいアルバイトを始めた。

某政府観光局にてHPのメンテナンスとデータ入力等の業務。
面接で思わずぽろっと「エクセルは講義でずいぶん使ったので
慣れてます」とか「HP作っているんですよ〜」とか調子に乗って
オモラシしてしまったら「そういう人材を待っていたのよ」
なんていわれて即採用決定。

「じゃあ、ちょっとうちのサイト見てみて」と言われ開いてみると
あらら、飛行機が動いてる。
こんな高等テクニックのメンテナンスなんて出来ないよ・・・。
FLASHとかJAVAとか言うやつだろうか。
ページのソースを見ても何が何だか札幌稚内。
レンタル日記を気まぐれに更新し、実質BBSしか機能していない
サイトを運営しているだけなのに。

勤務初日は大した仕事も与えられず、HPソフトを買いに行き、
リンクを1件追加しただけ。とりあえずアップできて良かった。
昨日は仕事と言うより、緊張したことに対してお金をもらった
のだろう。そう理解しておく。

給料は某国の国民の税金から払われるらしい。
前回の僕はネットサーフィンをしていただけだし、
一緒に勤務しているデンマーク人はチャットばかりやっていた。
税金使ってこんなことやっていいのか?
就職先といいバイト先といい何かと税金に世話になっている。

個人は相手にせずお断り。法人のみが対象のようだ。
政府の組織だが利益をあげる必要もあるとのこと。
かなり謎の組織なのだが、面白くもある。

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月曜の夜は成り行きで中ちょんとその彼女と3人で夕飯を食べた。
なにやら中ちょんは僕を含めた高校時代の部活の同期の話をよく
持ち出すらしく、僕の個人情報も筒抜けのようだ。

かなり面白い時を過ごした。
友人が彼女といる時の表情を観察するのも面白い。
結論。中ちょんは惚れているな、と。
僕と会っているときとは目が違う。にやけすぎだー、お前。
その彼女の妹の写真を見せてもらったのだが、
これがまたかわいい。う〜ん、家庭教師でもやらせてほしいものだ。

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卒業アルバムの写真撮影会の葉書が送られてきた。果てしなく先の事に
思っていた大学の卒業の時も刻一刻と近づいてくる。

「若いんだから」とか「今しか出来ないことをする」という言葉を
あたかも免罪符のように唱えて刹那的に傍若無人な振る舞いをする
人間には絶対になりたくはないけれど、それでも学生である今の時間
を大切に過ごしたい。後悔なんて結局、過ごした時間を有意義に
出来なかったことに対して抱く感情だと思うから。


2001年06月10日(日) よくあることだけど

理想ばかり追い求めて奇麗事を並び立てても
何も行動が伴っていないな、と反省。
ま、反省だけしても仕方ないけれど。

この1週間は、なんというか、自分の無力さ感じた。
今更なのか、と呆れる向きもあるかもしれないけれど。

別に落ち込んでいるわけじゃない。
僕は周囲の変化に対応できずに
ただただ傍観しているだけ。

それでも頑張らなきゃな、とは思う。


2001年06月03日(日) 早慶戦

毎年6月第1週の土日には東京六大学野球の早慶戦が行われる。
中学入学以来10年間、この時期になると体が疼き出してしまう。
中学高校は吹奏楽部に所属していたので、応援演奏の人手が
いつも以上に必要となる早慶戦では、大学の応援部のお手伝いに
行っていた。

応援演奏に行くと、授業を公認欠席出来、大学からまずくて冷めている
のに「炊きたて弁当」という非常に珍しい食料が支給されたり、チケット
入手の難しいこのカードを学生席のど真ん中で観戦できる、といった
オマケがあった。けれど何よりも、これまで10年間、あの独特の
雰囲気の試合を肌で感じることが出来たのが幸せなことだったと思う。

早慶戦にまつわる話は話せば限がなくなってしまう。

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大学4年の自分にとって、今年は最後の春の早慶戦となることもあって、
そんな色々な思い出のある早慶戦を土日2日とも観戦することにした。
土曜はサークルで、日曜はゼミの先輩達と。

日曜は、先輩が入場順位抽選会で240番中3番を見事ひきあて、
内野学生席の最前列で観戦。応援部のリーダーやチアガールの迫力
あふれる応援が楽しめるいい席だ。

何より、通路を挟んで隣にはブラスバンドが陣取っている。
その中で姿勢よく周囲を取り仕切りながらアルトサックスを
自在に操る友達の姿を見つけ、試合前、声をかけた。

彼は高校時代の部活の同期で、僕らの代の部長を務めた。
大学ブラスでも責任者として組織を運営している。
吹奏楽団代表として慶應席に挨拶に行ったり、
声を出して後輩に指示を出す彼の姿を見てふと
「遠い存在になってしまったのかなあ」なんて思ってみたり。

エール交換の際、双方の学生が一緒になって「早慶讃歌」を歌う。
神宮球場が1つになる瞬間だ。
試合前に双方の応援団が1つの歌を歌うなんていうのは
世界広しといえどこのカードくらいなものだろう。
こうして何とも言えない独特のムードは否が応にも高まってゆく。

試合は1点を争う好ゲーム。
1対1で迎えた9回の攻防では、チャンスを作るも
走塁ミスで双方無得点。
しかし延長10回表、ついに1点勝ち越し、早稲田勝利。
9、10回は双方の応援席は総立ちで応援。
1球ごとにため息と歓声が、球場全体を覆う。
応援歌を喉が枯れるまで歌った。

10年間で20試合以上見てきたと思うけど、その中でも
一番の試合だったと思う。

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大満足の試合後、名残惜しくて席をなかなか立てない僕のところに、
件の彼がやってきた。

「おつかれさん」

「いい試合だったな」

「相変わらず忙しいんだろ?」

「そうだな引退までは」

「ま、夏とか時間のあるときにでも皆で会おうぜ。
最近皆で集まる機会もなかなか無いしな」

「うん、そうだな、夏休みなら大丈夫だよ」

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「遠い存在」に感じた彼は相変わらずの口調だった。
変わっていたのは、少しばかりひげが濃くなったのと、
連日の応援のせいか肌が焼けているくらいだろうか。
それぞれがそれぞれの状況下で、それぞれの生活を頑張っている。

夏前に試験を受け、休みに旅に出たり、冬に初詣をしたりするのと
同じように毎年当たり前だった、この初夏の野球も来年からは
自分と遠い世界の出来事となってしまう。それはあまりに寂しいことだ。

試合自体の満足感とそれ以上の充実感とそして無情にも過ぎ去る時への
やるせなさを感じながら神宮の杜をあとにした。


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