エンターテイメント日誌

2006年01月31日(火) リインカーネーション/REINCARNATION

タイトルのREINCARNATIONとは「魂の再生」という意味である。そう、今回は映画「輪廻」のお話だ。

ま、評価はCくらいだな。清水崇監督の作品は東映ビデオ版「呪怨1・2」、邦画版「呪怨1・2」、ハリウッド版「THE JUON/呪怨」と追っかけてきた。「稀人(駄作!)」も観ている。これだけ観てくると、監督が観客を怖がらせるパターンが分かってきて、まあ正直「輪廻」は想定内の仕上がりでしかなかった。「呪怨」シリーズの肝は何が潜んでいるか分からない日本家屋の恐怖でもあったわけだが、今回の設定はホテルで、それも失敗だったと想う。和室の押入も出てくるが、もう無理矢理って感じ。それに押入といえば所詮「呪怨」の二番煎じでしかない。予算が増えて、撮り方は洗練されてきたが(それに今回の音楽は「攻殻機動隊」「イノセンス」の川井憲次である!実に豪華)その分、衝撃度が次第に薄れていくようだ。

清水監督は恐怖の対象を徹底的に見せることで高く評価をされてきたわけだが、今回の子供を刺し殺す場面まで見せるのは悪趣味だ。映画には描写を省略することによって観客の想像力に委ねるという手法があるのだから。



2006年01月26日(木) ジェイン・オースティンの高慢と偏見

映画「プライドと偏見」を観た。う〜ん、評価はB- 位だなぁ。

確かによく出来た映画である。文芸ものとしての風格がある。狭い室内における自由自在なカメラワークとか、巧みな編集とか演出(監督は新人)も素晴らしい。しかし、物語の骨格自体に問題がある。

原作はジェイン・オースティンのPride and Prejudice(高慢と偏見)であり、タイトル自体が同じオースティンの Sense and Sensibility (分別と多感)と対を成している。Sense and Sensibilityは今「ブロークバック・マウンテン」で話題沸騰のアン・リーが監督して映画になり、日本では「いつか晴れた日に」という邦題で公開された。これは名作であった。

「プライドと偏見」を観ていて、しばしば既視感に襲われた。実に内容がSense and Sensibilityに似通っているのである。結婚適齢期の娘しかいない家庭。女には財産相続権がないので、金持ちの男を捕まえることが出来るかどうかにその家自体が没落するか存続出来るかの命運が掛かっている。ある日主人公の前に白馬の王子様が現れるが、気高い主人公はその男に反感を感じ・・・紆余曲折はあるけれど最後はめでたしめでたし。全く同じである。金太郎飴みたいなもんだ。

ヒロインの考え方にも大いなる疑問を抱いた。白馬の王子様が結婚を申し込む。しかし、彼がヒロインの母親と妹たちが下品であると侮辱したことを怒り、彼女は断る。ところがである。物語の後半、彼女は自分が間違っていた、彼に対して偏見を抱いていたと反省し、彼を愛するようになる。・・・おいおい、そりゃ変じゃない?ヒロインは間違ってないよ。彼が侮辱したことは事実なんだし、彼が後半態度を改めるのも、ひとえに彼女と結婚したいからだけだろ?その目的のためには本心を曲げて、自分の親友を犠牲にしてもいいと、そういうことだろ?それがあの男の本質じゃないか。全く納得いかない。正に恋は盲目である。

それから姉妹ばかりで次女が勝ち気という設定はオルコットの「若草物語」を彷彿とさせる。出版年は「高慢と偏見」の方が先なので、恐らくオルコットがこの小説を参考にしたのだろう。

この映画で何に目が釘付けだったかと言えば、ヒロインを演じたキーラ・ナイトレイの胸元である。豊満だからではない、むしろその逆だ。胸がない!まるでまな板みたいだ。本人も気にしているそうだが、ありゃ深刻だわ。本作一番の見所は実はこれかも知れない。



2006年01月21日(土) 傑作の証明

映画「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」の原題はシンプルにProofである。どうして意味のないカタカナ英語を加えるのかなぁ!?>>配給会社のスタッフ

まあ、それは別にしてこれは傑作である。評価はB+。アカデミー作品賞を受賞した「恋に落ちたシェイクスピア」は良かったけれど、その後にジョン・マッデン監督が撮った「コレリ大佐のマンドリン」は救いようのない駄作だった。見所はペネロペ・クルスのヌードだけとは実に情けない。しかし今回、マッデンは完全に復調した。

数学者を主人公としているという意味では「ビューティフル・マインド」や「博士の愛した数式」を彷彿とさせるけれど、そこに父と娘の葛藤を盛り込んだのが味噌。どちらもオスカー俳優であるグイネス・パルトローとアンソニー・ホプキンスの見事な演技で、まるで舞台を見ているかのような(原作は戯曲である)白熱した醍醐味があった。しかしだからといって映像的な見所もちゃんとあり、堂々たる映画になっているのは高く評価したい。

ただ、スティーブン・ウォーベックの短い旋律を反復するミニマル・ミュージックの手法で書かれた音楽は、明らかに「ビューティフル・マインド」でジェームズ・ホーナーが採った方法論のパクリであり、これはいただけない。



2006年01月15日(日) 三谷の法則 <THE 有頂天ホテル>

「THE 有頂天ホテル」の前に三谷幸喜が監督・脚本を担当した、あるいは脚本のみ書いた映画を2つに分類すると以下のようになる。

<傑作>「十二人の優しい日本人」「ラヂオの時間」
<失敗作>「みんなのいえ」「竜馬の妻とその夫と愛人」「笑の大学」

ちなみに筆者は舞台版の「十二人の優しい日本人」「竜馬の妻とその夫と愛人」「笑の大学」を観ているが、舞台については全て文句なしの傑作である。特に「笑の大学」については三谷幸喜の舞台における代表作ではないかとさえ考えている。

では映画に関して傑作と失敗作を分けている要素は何かと考えれば、それはズバリ登場人物の数である。ふたり芝居の「笑の大学」とか、登場人物が4人しかいない「竜馬の妻とその夫と愛人」などは舞台では良くても映画では間がもたないのだ。つまり三谷作品の映画が面白くなるためには台詞のある役が12人以上の群像劇であるということが必須条件なのである。

そこで「THE 有頂天ホテル」だが、このグランド・ホテル形式の作品は見事にこの条件を満たしている。成果は言わずもがな。三谷映画の最高傑作となった。評価はAである。

三谷作品は従来、テレビでも映画でも非常に舞台的な空間を醸し出していた。場面転換が少なく、限定された室内で物語が進行することが多かった。「王様のレストラン」しかり、「今夜、宇宙の片隅で」しかり。

しかし、2006年になって三夜連続で放送された「古畑任三郎」ファイナル・シリーズや「新選組!!土方歳三最後の一日」を観て感じたのだが、三谷幸喜は明らかに進化した。場面転換が速くなり、躍動感を増したのである。つまり非常に映像的になったのだ。そのことは「THE 有頂天ホテル」でも端的に表れている。沢山の登場人物が画面狭しと入り乱れ、様々な人生が交差する。キャメラが彼らを追って動く、動く!これぞ正に映画である。



2006年01月07日(土) 単館系映画二題

「亀も空を飛ぶ」評価:B-
イラン、イラクの合作である。国家を持たないクルド民族の悲劇は実に痛ましい。だが、そのテーマは同じバフマン・ゴバディ監督の「酔っぱらった馬の時間」(2000)で既に描かれたことであり、目新しいものをこの映画に発見することは出来なかった。描かれていることは重いが、プロットが弱い。まあはっきり言えば些か退屈であった。クルド民族の物語なら船戸与一の小説「砂のクロニクル」(山本周五郎賞受賞)の方が断然面白い。

「歓びを歌にのせて」評価:C
アカデミー外国語映画賞にノミネートされたスエーデン映画。スエーデン映画を観るなんて実に久しぶりだ。ラッセ・ハルストレム監督の名作「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」(1985)以来か?とすると実に20年ぶりである。歌う(音楽を演奏する)ことの歓びに溢れる佳作ではあるが、もっとそのテーマをシンプルに語るべきではなかったろうか?俺の女を寝取っただのどうのと、実に下世話な話に貶められているのが興ざめであった。それから主人公の指揮者は心臓病なのに何で血を吐くんだ??食道静脈瘤とか胃潰瘍、結核じゃないんだから。


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]