エンターテイメント日誌

2005年11月26日(土) ハリーよ、何処へ往く? <炎のゴブレット>

「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」のレビューは昨年6/20の日誌に書いた。評価はAとした。

さて、新作「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」の評価はC-である。こりゃ駄目だ。お話にならない。

「アズカバンの囚人」の監督、アルフォンソ・キュアロンは優れたフィルム・メーカーであり、独自のスタイルと、確固たる美意識を持った人である。一方「炎のゴブレット」のマイク・ニューエル監督にはそういった個性もなければ映像センスも持ち合わせていないので、途端に映像が陳腐で奥行きがないものに成り下がってしまった。絵に品格がないのである。

シナリオはシリーズ当初からスティーブ・クローブスが担当しているが、今回は上手くいかなかった。日本版の原作は「賢者の石」から「アズカバンの囚人」まで一冊ずつで完結していたが、「炎のゴブレット」から上下2冊に肥大化した。これを映像化するに際し、膨大な内容なので前後篇に分けるという案も出たが、最終的に上映時間2時間37分の一本に収まった。ここで脚色に相当な無理が生じたと筆者は考える。所詮は原作のダイジェストに過ぎず、イベント重視で人間が全く描けていない。

新たなる登場人物であるセドリックがどんなに性格が良い奴なのか、映画を観ただけでは全く分からないし、ボーバートン校から三大魔法学校対抗戦にやってきた美少女フラーも試合中にビクビク怖がっているばっかりで、なんでこの娘が学校の代表に選ばれたんだか、全く理解に苦しむ。親友のロンがハリーに対して怒っている理由も分かり辛い。

映画冒頭のクィディッチ・ワールドカップのアイルランド対ブルガリア戦で、ブルガリアの花形選手ビクトールが登場して大いに盛り上がったと想ったら、映画は肝心の試合を全く見せることなく突然試合後の場面に飛んでしまい肩すかしを喰らわせる。本筋とは関係ないとはいえ、特撮アクションの見せ場だしビクトールがいかに強い選手かを印象づける意味でもカットしないで欲しかった。ハリーの初恋の人、チョウ・チャンにしてもレイブンクロー寮クイディッチ・チームの紅一点シーカーという設定が抜け落ちてるし、物語の終板で彼女は全く登場しなくなってしまう。これはいくら何でも酷いんじゃなかろうか?

やはりこの物語には「風と共に去りぬ」や「ロード・オブ・ザ・リング(LOTR)/王の帰還」くらいの上映時間が必要だったのではないだろうか?あるいは「キル・ビル」みたいにVOL.1と2を時期をずらして公開するとか。せめてDVDにはLOTRみたいにエクステンディッド・エディション(長尺版)が必要だろう。

あとがっかりしたのが音楽である。前3作は巨匠ジョン・ウイリアムズが担当してきたが、ジョンは今年「スター・ウオーズ エピソード3」「宇宙戦争」そしてまもなく公開の「SAYURI」とスピルバーグの新作「ミュンヘン」を手がけ、超多忙なために降板。パトリック・ドイルが後を受けた。メアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」や「いつか晴れた日に」「リトル・プリンセス」など、ドイルの音楽は嫌いじゃない。彼が担当した映画のサウンドトラックCDをいくつか所有しているくらいである。でも残念なことにハリー・ポッターの世界には全く合っていない。これはもう救いようがない。折角ジョン・ウイリアムズが築いてきた各キャラクターのライトモチーフ(示導動機、テーマ)がここで御破算になって、場当たり的なムード音楽に成り果てた。パーティで登場するロック・ミュージックも最低。エンド・クレジットの音楽にもそのロックが挿入されるのだが、ジョンが担当していた時はこんな下品な手法はあり得なかった。ハリー・ポッターも地に落ちたり。嗚呼、情けなや。



2005年11月19日(土) 来年のアカデミー賞長編アニメーション部門の行方

来年のアカデミー賞で長編アニメーション部門を競うのはクレイ(粘土)アニメーション「ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!」と人形アニメーションであるティム・バートンの「コープス・ブライド」の一騎打ちとなるであろう。「ハウルの動く城」もノミネートされる可能性は高いが、「千と千尋の神隠し」で既に受賞しているだけに、今回は難しいだろう。宮崎駿さんが、いかに世界のアニメーターから尊敬され、神と崇められているとはいえ外国映画であるというのも実に不利な条件だ。

「ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!」の公式サイトはこちら。既に来年3/18に日本での公開が決まっているが、これはアカデミー賞授賞式の直後であり配給会社も受賞に自信満々、オスカー効果を狙っているということだ。恐れ入った。

しかし、筆者としてはティム・バートンの「コープス・ブライド」を応援したい。「ウォレスとグルミット」が大傑作シリーズであることは十分理解している。しかしシリーズ第2作「ペンギンに気をつけろ!」と第3作の「ウォレスとグルミット、危機一髪!」で2度もアカデミー賞短編アニメーション部門を受賞し、第1作「チーズ・ホリデー」でもアカデミー賞にノミネートされるという輝かしい栄誉を既に受けているのだし、もう十分だろう。今回は遠慮してくれ。頼む。

無冠の帝王ティム・バートンは、今後も「チャーリーとチョコレート工場」のような、へんてこりんな大傑作を撮り続けるだろうし、是非そうあって欲しいと筆者も希う。だから実写の方でオスカーを獲る可能性は皆無に等しい。今回こそが滅多にないチャンスである。ついでに音楽のダニー・エルフマンにも頑張って欲しい。しかし、もっとも強力なライバルである「SAYURI」の音楽を担当したジョン・ウイリアムズが相当力を入れているようだ。ソリストに「シンドラーのリスト」「HERO英雄」のイツァーク・パールマン(バイオリン)と「セブン・イヤーズ・イン・チベット」「グリーン・デスティニー」のヨーヨー・マ(チェロ)のふたりをもって来るという離れ業を実現した。ジョンは今回本気だ。ダニー・エルフマン危機一髪!

さて、ティム・バートンの「コープス・ブライド」の評価はB+である。バートンの怪奇趣味が上手く醸し出され、エンターテイメントしても極上の仕上がりである。バートンの処女作「ヴィンセント」の姉妹編みたいな内容になっているのも愉しい。しかし、正直に告白するなら筆者は人形アニメーションとしてまだ技術的に劣っていた「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」の方が好きである。ついでに言うと、ダニー・エルフマンの音楽も「コープス・ブライド」より「ナイトメア」の方が印象的であった。「ナイトメア」が公開された1993年当時は未だアカデミー賞に長編アニメーション部門がなかったんだよね(短編はあった)。それが返す返すも惜しい。



2005年11月12日(土) 蝉しぐれ三変化

本当は映画「蝉しぐれ」を公開初日の10/1に既に観ていたのだが、レビューは今日まで放置プレーにしていた。これを書くのは実に気が重い。

藤沢周平の代表作「蝉しぐれ」は小説自体が優れているのでこれを翻案した作品はいずれも質の高いものとなっている。

まず「蝉しぐれ」は舞台化され「若き日の唄は忘れじ」という題名で宝塚星組が1994年に上演した。これはもう本当に心に滲みる名舞台で、特にお福を演じた白城あやかの凛とした美しさは絶品であった。原作者もこの舞台化を気に入っていたという。

それから映画化に奔走していた黒土三男さんが、その実現前にテレビ用に脚色し、NHK金曜時代劇として2003年に放映された。これまた掛け値なしの傑作であり、第44回モンテカルロ・テレビ祭で最優秀作品賞と主演男優賞を受賞。更に第30回放送文化基金賞ドラマ番組部門・作品賞、男優演技賞、演出賞の3賞を攫った。特に牧文四郎を演じた内野聖陽がこれ以上は考えられないくらいのはまり役であり魅了された。殆ど完璧に近いテレビ版の惜しむらくべき欠陥はお福を演じた水野真紀がこの役を演じるには既に年を取りすぎていたことと、小室等の音楽が全く画面に合ってなかったことくらいである。未見の方は是非このバージョンのDVDをご覧になることを強くお勧めする。

さて、そこで待ちに待った映画版の登場に相成るわけだが、テレビドラマの金字塔を打ち立てた黒土三男さんが脚本・監督を担当するということで、過剰な期待を持って映画館に臨んだのだが・・・嗚呼・・・・・

映画の評価はC(宝塚版とテレビ版はA)。テレビ版の欠点であったお福は、映画で演じた若い木村佳乃が好演していたし、音楽も映画版の岩代太郎の方がマシではある。しかし、岩代太郎の傑作「殺人の追憶」「血と骨」「義経」等と比べると「蝉しぐれ」の音楽は如何せん力不足、凡庸である。岩代太郎ならもっとやれた筈だ。市川染五郎の文四郎も悪くはないが、内野聖陽の完璧な文四郎像を知っている者にはやはり物足りない。文四郎の幼なじみを演じた今田耕司に至っては完全なミスキャスト。テレビ版のクドカン(宮藤官九郎)の方が遙かに良かった。悪役の里村を演じた映画版の加藤武とテレビ版の平幹二朗を比べるとこれも憎々しいヒラカン(平幹二朗)に軍配が上がる。

映画は日本の四季の美しさを捉えた撮影と豪華な美術セットが素晴らしい。しかし、稚拙な演出がスタッフの力を生かし切れていない憾みが残った。

大好きな作品だけに映画の不出来は哀しい。



2005年11月05日(土) オダジョーのフェロモン攻撃と<メゾン・ド・ヒミコ>

映画「メゾン・ド・ヒミコ」の人気が凄まじい。月初め1日の映画の日に大阪の梅田ガーデンシネマに観に往ったら、映画館に上映時間の1時間45分前に到着したのに「立ち見です」と言われ、その日はすごすごと引き下がった。チケット窓口のお兄さんの話では上映4時間前の時点で既に満席になったそうだ。

後日万全を期して夜の上映にもかかわらず早朝映画館に駆けつけ整理券番号1番をゲット。その足で長距離バスに乗り、有馬温泉でゆっくりとくつろいだ。夕方梅田に戻って夕食をとり、映画の臨んだ。勿論その日も大入り満員で立ち見も30人以上いた。これだけ超人気なのに大阪府内で単館上映というのはいくらなんでも酷すぎないか?

観客のうち男性客は100人中5人くらい。もう女性たちはオダギリジョーが放出するフェロモンにメロメロだった。スクリーンに映し出されるオダジョーを見つめる彼女たちの熱視線にこちらまで火傷しそうだった。

小説「むかしのはなし」で直木賞候補になった作家の三浦しをんは、「メゾン・ド・ヒミコ」におけるオダギリジョーの魅力について「シャツがイン!」なところが素敵だとしをんのしおりの中で語っている。「シャツがイン!」とは、通常男性のファッションでシャツをズボンの中に入れるのは実に美的センスに欠けて駄目な行為なのだが、オダギリジョーはそれがきまっていて凄いという訳だ。映画上映終了後、ロビーで女性たちが口々に「シャツが・・・シャツが・・・」と譫言を言いながらよろめいていたのが可笑しかった。

そんなフェロモン出しまくりのオダジョーに映画の中で対峙した少年が、内なる同性愛感情に目覚めるわけだが、まあそれもむべなるかなと実に説得力があった。残念ながら筆者にはその気はないので、オダジョーのフェロモン攻撃にも動じなかったのだが、むしろこの映画で感心したのは柴崎コウである。

実は今まで彼女の魅力についていまいち分からなかったのだが、「メゾン・ド・ヒミコ」を観て初めてふて腐れたような彼女が可愛いと想った。柴崎コウという女優は、例えば「世界の中心で、愛をさけぶ」のようなおとなしい、普通の女の子を演じると全く生彩を欠くが、「メゾン・ド・ヒミコ」では挫折感を抱え、人生に拗ね、自分を捨てた父親を恨んで睨み付けるような役どころで、こういう屈折した役を演じると俄然輝くのである。あまりの変貌ぶりに唖然とした。やっぱり役者というものは役を選ばなくちゃいけないなぁとつくづく感じた。

映画の出来も良い。評価はBを進呈する。「タッチ」でトホホな出来だった犬童一心監督はここではまるで別人のようだ。これは脚本の渡辺あや(「ジョゼと虎と魚たち」)の力に因るところが大きいのだろう。ドヴォルザーク作曲の「母が教えたまいし歌」が効果的に使われて実に印象的だった。

余談だがオダギリジョーの本名って小田切譲だって知ってた?そのまんま!格好良すぎ。出身は岡山県津山市らしい。B'zの稲葉浩志も津山出身。津山って美男子の産地なのか!?


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]