2005年10月28日(金) |
マンガの映画化、北米の事情。 <シン・シティ> |
ハリウッドでも沢山のアメリカン・コミックス(アメコミ)が映画化されてきた。「フラッシュ・ゴードン」「スーパーマン」「バットマン」「スパイダーマン」「X−メン」「デアデビル」「ファンタスティック・フォー」「キャットウーマン」「ハルク」「ヘルボーイ」「スポーンSPAWN」などである。成功した例が極めて少ないのは日本の漫画の場合と同様である。
失敗の原因は歴然としている。まず第一にアメコミ自体のレベルが極めて低いこと。日本にはハリウッド映画は観ても日本映画を観ない観客は沢山いるが、アメコミは読むけれど日本の漫画は読まないという人は皆無であることからも、その事実が窺い知れよう。
上に挙げた作品群を観れば一目瞭然だが、アメコミ作品は殆どがヒーローものである。ワン・パターン。どれも似たり寄ったりだ。
第二に原作そのものが基本的に一話完結であるということも一本の映画としてのまとまりのなさの原因になっている。物語に広がりがないのだ。アメリカには日本のようなストーリー漫画という伝統が存在しない。漫画によって長大な物語、壮大な世界観を語るというストーリー漫画は日本独自の文化であり、これはひとえに漫画の神様ー手塚治虫のお陰である。現在隆盛を誇っている少年漫画も少女漫画も、その系統図を辿っていけばその源流はどれも手塚治虫に収束していくのである。アメコミは何故、画一的なヒーローものから進化出来なかったのか?それはアメリカに手塚治虫がいなかったからである。
さて「シン・シティ」だが、映画の評価はC。
確かにこの映画はモノトーンな映像がスタイリッシュであり、個性的な雰囲気がある。ただし、観る価値があるのはその一点だけだ。
兎に角、物語そのものが詰まらない。言ってみれば3話のオムニバス映画であり、それぞれのエピソードが有機的に結びつくことはなく、実に散漫な印象しかない。それぞれの物語の主人公がある場所ですれ違うという場面はあるにはあるのだが、それも<運命が交差する>などといった気の利いたことでは全くなく、ただ物理的に同じ場所にいたというだけ。意味がない。はっきり言おう、しょーもな。
1800円の入場料を払う価値は全くない。レンタルで十分。
2005年10月22日(土) |
漫画の映画化、日本の場合。<タッチ><NANA> |
漫画を実写映画化して成功する例は極めて少ない。アメコミについては今度<シン・シティ>を取り上げる際に分析するとして、今回は日本の事情だ。史上最悪といわれる「デビルマン」を筆頭に「キューティハニー」「キャシャーン」「あずみ」「鉄人28号」「青い春」「はいからさんが通る」「花より男子」「みゆき」「姉妹坂」「漂流教室」「めぞん一刻」「ゴルゴ13(主演は高倉健!)」、さらに市川昆監督の「火の鳥(黎明編)」や「シェルブールの雨傘」を撮った巨匠ジャック・ドゥミ監督がフランスで撮った珍品「ベルサイユのばら」LADY OSCARなど死屍累々たる惨状である。
日本の漫画を原作とした映画化で成功したと言える例は「少年時代」「ピンポン」「月光の囁き」、韓国で映画化された「オールド・ボーイ」、そしてキネマ旬報ベストワンに輝いた「桜の園」くらいしか思い浮かばない。あと筆者は個人的に金子修介監督が萩尾望都の書いた「トーマの心臓」を下敷きにして撮った「1999年の夏休み」(原作者了承の上で萩尾望都のクレジットなし)も静謐で偏愛しているのだが。
小説よりも漫画の映画化の方が困難なのはやはり原作の時点で物語だけではなく、絵としての具体的なイメージが既に提示されているからだろう。登場人物の容姿のみならずそのファッションまでファンにはこうでなければならないという固定観念があるから、映画で生身の役者が演じると当然不満は募る。また紙の上で展開される物語なので想像力を羽ばたかせた、すなわちリアリティには乏しい作品も当然多い。だから実写になるとそこに齟齬が生じ違和感が付きまとうのである。成功した例を見ると、やはり原作自体が現実に即した物語であることが殆どである。
さて、映画「タッチ」の評価はD+。プラスが付いているのはひとえにヒロインが長澤まさみだからという理由以外にはなにもない。映画自体はお粗末の一言。とにかく監督の犬童一心と脚本の山室有紀子のどちらにもあだち充の原作に対する敬意、愛情が感じられないのが致命的である。盛り上がらなければならないここぞという場面で映画自体が失速して場が白ける。どうして達也が野球部に入ることを母親は反対するのか?野球部の部員は何故入部当初、達也に冷たく接するのか?はたまたクライマックスの試合の時に浅倉南は何故に最初から球場にいないのか?・・・もうさっぱり訳が分からない。そういう設定自体に何の意味もないのである。一体全体貴女は何がしたかったんだ、山室有紀子?
一方、映画「NANA」は恐らく21世紀で最初の女性映画の傑作ではなかろうか。評価はB+。現在と過去が交差する脚色が素晴らしい。「NANA」は一言で言えば<野良猫のように気ままに、そして誇り高く生きる女の子と忠犬ハチ公みたに人懐っこくて可愛い女の子の友情物語>である。女同士の友情ものといえば最近では「下妻物語」があるが、あのハードボイルドな味わいに比べると「NANA」は少しウエットである。つまり「下妻物語」のふたりは我が道を行くタイプで独りでも生きていけるが、「NANA」のふたりはお互いがお互いを必要としている関係である。そこが筆者が女性映画だという所以である。この違いは「下妻物語」の原作者も脚本家も男なのに対し、「NANA」の原作者矢沢あいも(共同)脚本の浅野妙子(「ラブ ジェネレーション」「神様、もう少しだけ」)も女性であることと無縁ではあるまい。男には決して理解できない、女にしか書けない細やかな情感が映画全編に溢れていて見応えがあった。
宮崎あおいという女優と初めて出会ったのは大林宣彦監督の「あの、夏の日 ーとんでろ じいちゃんー」(1999)である。当時まだ13歳くらいだろう。しかし、あの作品では彼女の痛々しいヌードばかりが強烈な印象として残り、いくらなんでも大林さん酷すぎる、幼気な少女を何の必然性もなく脱がすなんて余りにも可哀想だと想った。この映画については彼女としても消し去りたい記憶なのだろう。宮崎あおい公式ホームページにも一切触れていない。
彼女が女優としての頭角を現したのはナント3大陸映画祭で主演女優賞を受賞した塩田明彦監督の「害虫」である。この女子中学生を主人公としたハードボイルドな傑作における宮崎あおいは、まだ堅いつぼみの頑なで真っ直ぐな少女という印象であった。撮影時15歳くらいの頃か。3年前に筆者が書いた「害虫」のレビューはここをクリック。
そして「NANA」の登場である。宮崎あおいは19歳になった。昨年公開され、高い評価を受けた大林監督の「理由」にも一寸だけ出演していたが「NANA」における彼女の変貌ぶりには目を瞠った。まだまだ堅いつぼみだとつい先日まで想っていた少女はいつの間にか大きく花を開き、美しくたおやかな娘に成長していた。もう到底「害虫」のあの少女と同一人物だとは想えない。ただただ唖然とするばかりである。宮崎あおい、本当に素敵な良い女優になった。感動的ですらある。
こんなにきれいになって りっぱになったのか きのうまでは小さな子が
日は昇り また沈み 時移る やがて朝が来れば 花もすぐ開く
これはミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」のナンバー、"サンライズ・サンセット"の歌詞であるが、本当にこれを唄い出したくなるような気分に、しばし浸ったのであった。
2005年10月14日(金) |
エンニオ・モリコーネ IN JAPAN 2005 |
これは前回の日誌からの続きである。
さて、小泉総理がコンサート会場に駆けつけたのは東京国際フォーラム Aホール、筆者が聴いたのは大阪のフェスティバルホールである。どうも大阪と東京では曲目がかなり異なっていたようである。東京でのみ参加したヴァイオリンの葉加瀬太郎とオペラ歌手フィリッパ・ジョルダーノとの共演を考慮した結果なのだろうが、東京公演ではずらりと日本未公開の作品が並び、マニアックというか渋い選曲となっており余り一般向けではなかったようだ。
ところがどっこい、大阪の曲目はまさに王道。これぞ名曲のオン・パレードであった。DVDで発売されているアリーナ・コンチェルトと8割方重複しているので参照あれ。ちなみにこのDVDは実に感動的な記録なので今回のコンサートを見逃して悔しい想いをされている方には是非お勧めする。
地下鉄を降りて会場に向かって歩いているとあちらこちらでイタリア語の会話が聞こえてきた。大阪にも案外イタリア人が住んでいるんだなとぼんやり考えていて、はたと気がついた。嗚呼、みんなコンサートに行く人達なんだ!イタリアから大作曲家が来日したので在阪のイタリア人が大挙して押し寄せたという訳である。
モリコーネは現在76歳だが、元気なおじいちゃんだった。しっかりした足取りで現れて背筋を伸ばして厳粛な面持ちで指揮をする雄姿は、大指揮者・朝比奈隆の晩年の立ち姿に重なった。聖歌隊を指揮する神父(パードレ)のような雰囲気でもあった。
演奏するのはフル・オーケストラに合唱を加えて総勢200名余り。合唱は日本人だがオーケストラの団員は全てイタリアからやって来た。それにピアノとソプラノ独唱が加わるのだからそれは壮観である。
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」を聴くと即座に想い出すのはアヘン窟でヘロヘロになって哀しげに笑うデ・ニーロの衝撃的なラスト・カット。あの孤独、救いようのない絶望をモリコーネの音楽が優しく包み込むように慰撫する。
「ニュー・シネマ・パラダイス」という映画とモリコーネの付けた音楽は我が生涯最愛のものである。奇跡のように甘美で切ないその愛のテーマは筆者の結婚式で使用したくらいだ。
米アカデミー作曲賞にノミネートされた「マレーナ」も心に滲みる名曲だ。嗚呼、愛しのモニカ・ベルッチ!イタリアの宝石よ...
マカロニ・ウエスタン(英語だとSpaghetti Western)など初期のモリコーネ・サウンドに計り知れない貢献をしたのはエッダ・デル・オルソの美しいスキャット(ヴォーカリーズ、歌詞のない歌声)なのだが、今回参加した歌姫も実に見事で「続・夕陽のガンマン」「ウエスタン」「夕陽のギャングたち」などを聴いているとセルジオ・レオーネ監督の描いた開拓時代のアメリカ西部の雄大な映像が瞼に浮かんでくるようだった。
そして何と言ってもこのコンサートの白眉は最後に演奏された「ミッション」組曲だろう。気高く響く"ガブリエルのオーボエ"に始まり合唱も加わって壮大なフィナーレへとなだれ込む。筆者はカンヌ映画祭でグランプリを獲った「ミッション」という映画は大嫌いである(評価はF)。西洋人の思い上がり、作品の根底にあるキリスト教こそ唯一無比の宗教であり、それを布教された南米の人々は絶対に幸せな筈だという確信に虫酸が走る。しかし映画の出来と音楽は全く別である。モリコーネが付けた曲は「ニュー・シネマ・パラダイス」などと並び彼の最高傑作の一つだろう。今回のコンサートでもフィナーレの崇高さには鳥肌が立ち、体が震えるのを押さえることが出来なかった。天国の門は開かれた。そしてそこから確かに神の声が聞こえてきたのである。ビバ!モリコーネ。
2005年10月10日(月) |
小泉総理とエンニオ・モリコーネ |
「道」「太陽がいっぱい」「ゴッド・ファーザー」などで知られるニーノ・ロータと共に20世紀にイタリアが産んだ大作曲家エンニオ・モリコーネのコンサートに往って来た。
小泉総理もモリコーネの大ファンだそうで、この度「私の大好きなモリコーネ・ミュージック 小泉純一郎選曲」というCDを発売。多忙なスケジュールの合間を縫ってコンサート会場にも姿を見せた。これに国会で噛みついたのが民主党である。詳しい経緯はこちら。
全く民主党の大人げないこと、目を覆うばかりである。洒落っ気も解さないような有象無象の寄せ集めだから先日の衆院選でも国民から見放されたのだ。そんなことも分からないのか!?目くじらを立てるのならどうして3年前のCD「私の好きなエルヴィス〜小泉純一郎選曲」は問題にしなかったのか?一貫性がないではないか。それでは誰も説得出来ない。もっと国会の場では実のある議論をして貰いたいものである。
皇太子と雅子妃ご婚礼の年-1993年にジョン・ウイリアムズがボストン・ポップス・オーケストラを率いて来日公演を行った。コンサートではお二人のご婚礼を祝ってジョンが作曲した「雅の鐘」に始まり、まだ公開前だった「ジュラシック・パーク」テーマ曲のお披露目もあった。「E.T.」の音楽が演奏されたあと、一緒に聴きに往っていた親友が僕の肩をつついてこう云った。「僕の隣に座っている女の子が音楽を聴きながら感極まって泣いていたよ。きっと映画の一場面を想い出したんだね」僕らはその夜、音楽という芸術の持つ底知れない力について大いに語り合った。その友人は1996年に急性骨髄性白血病で30年という短い生涯を閉じた。その年はアトランタ・オリンピックの年でジョン・ウイリアムズが作曲したオリンピック・ファンファーレの入ったCDを病床の友人にプレゼントした。
1998年と2000年に「オーメン」や「猿の惑星」「スター・トレック」などで有名な作曲家ジェリー・ゴールドスミスの来日公演が横浜や東京であった。当時首都圏からずっと離れた地方都市で仕事をしていたので、コンサートに駆けつけるのは断念せざるを得なかった。ジェリーは2004年7月21日に亡くなり、彼自身が紡ぎ出す音楽を生で聴く機会は永遠に失われた。悔やんでも悔やみきれなかった。
こういう偉大な作曲家の来日公演というものは本当に一期一会だと想う。ジェリーに逢えなかった後悔を二度と繰り返してはならない。そう決心して今回モリコーネのコンサートに臨んだ。
長くなった。続きは次回としよう。Coming soon...
映画「シンデレラマン」の評価はBである。
「ミリオンダラー・ベイビー」のレビューで筆者はボクシング映画だと想って観に往ったら安楽死をテーマにした映画だったので騙されたと書いたが、この「シンデレラマン」については予想の範疇に収まるボクシング映画、成功物語だった。そういう意味では「ロッキー」や「どついたるねん」と同類の映画であり新鮮味はない。ただし出来は極上である。特にボクシングの試合の場面での切れ味のある鮮やかな編集が素晴らしい。
ただ、1929年に始まるアメリカの大恐慌を背景に、不景気のどん底に喘ぎ、疲弊した民衆が主人公のボクサーに夢や希望を託すという構図は、ボクサーを馬に置き換えたら「シービスケット」そっくりだなと可笑しかった。
レニー・ゼルウィガーは相変わらず上手いんだけど、レニーに黒髪は似合わないな。レニーは映画「キャバレー」のリメイクで、前回ライザ・ミネリが演じたサリー・ボウルズ役を希望しているそうだが、是非監督は舞台版リバイバルを共同演出したサム・メンデス(「アメリカン・ビューティ」「ロード・トゥ・パーディション」)かロブ・マーシャル(「シカゴ」「SAYURI」)にお願いしたい。狂言回しのMC役は勿論、舞台リバイバル版のパフォーマンスでトニー賞最優秀主演男優賞を獲ったアラン・カミング以外絶対に考えられない!
2005年10月01日(土) |
リモコンで800円割引! |
映画「サマータイムマシン・ブルース」を観てきた。クーラーのリモコンを持参すれば本来大人1800円の入場料金が1000円になるという実に愉快なキャンペーンをしていることを事前に知っていたので、ちゃんと持っていった。東京や大阪などの大都市では水曜日のレディースデイ割引はあってもメンズデイはないので、こういう企画は嬉しい。それにしても、メンズデイがないのは男性差別ではなかろうかと日頃から憤慨している。ちなみに岡山県岡山市では月曜が男性一律1000円のメンズデイ、岡山県倉敷市では木曜日がメンズデイとなっている。変なの。全国的に統一してもらいたいものだ。
「サマータイムマシン・ブルース」の評価はA+。いやはや、これは文句なしの傑作である。まずタイムマシンを利用してすることが、部室のクーラーのリモコンが壊れる前である24時間前に戻ってそのリモコンを獲ってくること、という馬鹿馬鹿しさが実に良い。日常にSFを持ち込むという手法は藤子・F・不二雄の世界を彷彿とさせる。
過去に遡ったり、現在に戻ってきたりというドタバタを繰り返しながらも、混乱することなく飽きさせずに見せる巧みな脚本も素晴らしい。元は舞台劇で、その台本を執筆した「ヨーロッパ企画」の上田誠が映画の脚色も担当しているが、「東京サンシャインボーイズ」の三谷幸喜や「大人計画」の宮藤官九郎(クドカン)に続いて、小劇場演劇からまたまた凄い才能が映画界にやってきたものだと実に頼もしい限りである。
「踊る大捜査線THE MOVIE」を観た限り、本広克行監督は過去の大監督の演出を模倣するだけの才能のない人と嘗めていたのだが、もうとんでもない勘違いだった。テンポ良く軽妙な演出力にはただただ唖然。「サマータイムマシン・ブルース」は本広監督の古里・香川県でロケされているのだが、人は自らの原点に立ち帰るとこれほどまでに変われるものなのかと驚嘆した。本広監督の次回作も同じ讃岐を舞台にした「UDON(うどん)」だそうだから、これまた実に楽しみである。
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