2005年08月29日(月) |
悪ガキどもは今日も元気 |
トレイ・パーカー, マット・ストーンのコンビによるアニメーション「サウスパーク 無修正映画版」は傑作だった。筆者の評価はA。アニメ「サウスパーク」シリーズの魅力は権威とか世間の倫理観とかいったものへの徹底的な反抗にあると想う。そこにあるのは親とか教師とか大人たちの全てに歯向かう悪ガキどもの理屈である。「サウスパーク」は徹底的に下品だが、彼らに一般的社会通念が通用する筈もない。
「サウスパーク 無修正映画版」の魅力はそれに加えて全編にミュージカルへの愛が溢れているからだ。「レ・ミゼラブル」のパロディなんて爆笑だったし、マーク・シェイマンの音楽もノリに乗っていた。劇中曲"Blame Canada"がアカデミー歌曲賞にノミネートされた事実からもその出来の良さが窺い知れるだろう(マーク・シェイマンは後に、舞台ミュージカル版「ヘアスプレイ」でトニー賞を受賞)。テレビの「サウスパーク」にはバーブラ・ストライザンドがしばしば登場するのだが、バーブラの回は特に面白い。
さて、ここからが本題。トレイ・パーカー, マット・ストーンの新作映画「チーム☆アメリカ/ワールドポリス」を観た。評価はB。彼らの下品でブラックな笑いは確かに健在なのだが、今回はアニメではなく操り人形劇と言うことで、素材を熟しきれていないという印象を憶えた。今回もミュージカル仕立てではあるのだが、それも消化不良の感を否めない。マーク・シェイマンがどうも途中で降板した模様で(数曲の唄に彼の名前がクレジットされてはいるが)後を受けたハリー・グレッグソン=ウィリアムズの音楽がいまひとつだった。ただし、冒頭部に登場するミュージカルRENTのパロディは秀逸で、これには笑い転げた。
チーム☆アメリカという組織は明らかに世界警察を気取るブッシュ極右政権の暗喩であり、彼らの繰り広げる「正義」のむちゃくちゃさは呆れるのを通り越して爽快ですらあるのだが、ではトレイ・パーカー, マット・ストーンの立場は反ブッシュ=左よりなのかというとそうではない。彼らはブッシュをこてんぱんに笑い飛ばすと同時に、もしマッカーシー旋風吹き荒れる1950年代アカ狩りの時代であれば、間違いなく投獄・あるいは国外追放になったであろう左翼映画人たち、すなわちスーザン・サランドン、ティム・ロビンス、ショーン・ペン、マイケル・ムーアらも血祭りに上げ、木っ端微塵に吹っ飛ばす。彼らは右にも左にも組みしない。かといって中道の立場をとるわけでも当然ない。その根底には「偉そうなことを言う権威は右も左もやっつけちゃえ!」というガキの理屈があるのである。結局この映画で彼らが何が言いたかったのか解り辛く、一般の観客を当惑させてしまう原因はそこら辺にあるのだろうと筆者は考える。
それにしてもやっぱりトレイとマットの作品にはバーブラ・ストライザンドが登場しないと盛り上がらないなぁ。
2005年08月22日(月) |
飛べ、おっさん、飛べ! |
直木賞を受賞した金城一紀の「GO」映画版はその年のキネマ旬報ベストワンに選ばれるなど文句なしの傑作であったが、その功績は脚色したクドカンこと宮藤官九郎に負うところが大きい。
同じ金城一紀の本「対話篇」に収録されている短編を映画化した「恋愛小説」も素晴らしい出来映えなのだが、これははっきり言って原作よりも映画の方が良い。やはり脚色の勝利である。どちらも評価はA-である。
さて、金城一紀が映画用の脚色も手がけた「フライ,ダディ,フライ」の評価はCである。余りにも物語が直球一本やりで、ひねり(変化球)がなさ過ぎる。プロット自体は「ロッキー」などスポコンものと大した違いがない。映画「GO」でクドカンは時間を逆回しするテクニックなどを駆使していたが、「フライ,ダディ,フライ」のつまらなさのお陰で、クドカンの巧さを再認識した次第だ。
堤真一と岡田准一がなかなか好演しているだけに、シナリオの不備が惜しまれる。それにしても金城一紀よ、在日コリアンというアイデンティティのみで今後も勝負し続けるのなら、近いうちにネタ切れするんじゃないかい?
2005年08月15日(月) |
亀は意外と見応えがある。 |
奥田英朗の「イン・ザ・プール」と直木賞を受賞した「空中ブランコ」という二つの小説は実に面白い。その最大の魅力は精神科医:伊良部先生の放埒なキャラクターに負うところが大きい。しかし三木聡監督の映画版「イン・ザ・プール」には結局全く食指が動かなかった。その最大の原因は伊良部先生に大人計画の松尾スズキをキャスティングしたことにある。これはテレビ版「空中ブランコ」で伊良部先生を阿部寛が演じたのと同様に、絶対にあってはならないキャスティングだからである。小説と映画は別物であることは十分承知しているが、物事には限度というものがある。上記行為は人としての節度を明らかに逸脱した暴挙である。
だから映画「イン・ザ・プール」を観ることなく三木聡さんの脚本・監督第二作である「亀は意外と速く泳ぐ」を体験することとなった。これは意外と面白く、拾いものである。評価はB。
全体に流れるゆる〜くてなんだか変な空気が妙に心地よい。小ネタのジョークを羅列したような構成で脚本自体が実に緩い。だから物語性などあって無きが如きなのでそういう意味でこの映画が醸し出す雰囲気にノレるかノレないか、観客を選ぶ映画といえるだろう。
現在日本映画を牽引する十代の若手女優といえば、上野樹里と蒼井優を真っ先に想い浮かべるが(実は調べてみると蒼井優はこの8/17に二十歳の誕生日を迎えるそうである)、その今まさに旬なふたりが競演しているというのも見逃せない要素である。
蒼井優は不思議な女優である。掴み所がないと言い換えても良い。多分彼女を映画で初めて観たのは2001年に公開された「リリイ・シュシュのすべて」の筈だが、全く記憶に残っていない。次に観たのが塩田明彦監督の悪意に満ちた傑作「害虫」(2002)なのだが、彼女は宮崎あおいの通う中学校のクラスメイト役だった。この優等生役も印象が薄かった。彼女の魅力が突如大爆発して瞠目させられたのが「花とアリス」である。
蒼井優はおとなしい美少女役の時は影が薄い。むしろ彼女の内包するパワーが全開するのはどこか風変わりなキャラクター、ド派手な服装をしたり蓮っ葉な喋り方をしたりする役柄を演じた時である。そういう意味で「亀は意外と速く泳ぐ」の役どころは正にドンピシャ。水を得た魚、もとい、亀のように生き生きと彼女はスクリーンを泳ぎ回った。今回は上野樹里がその勢いに気圧されているみたいに見受けられた。
2005年08月11日(木) |
戦後60年、ヒトラーとは何者だったのかを問う |
ドイツ映画「ヒトラー 〜最期の12日間〜」の評価はC-である。無意味に長すぎる上映時間(155分)を除いては取り立てて欠点もなく、かといって新鮮味とか美点もなく、淡々としたごく普通の映画である。ヒトラーを演じたブルーノ・ガンツのそっくりさんぶりは見事だが、有名なヒトラーの手の振戦(震え)の演技はわざとらしかった。
この映画はドイツで公開当時、ヒトラーの人間的側面を描いているということが物議を醸したそうなのだが、なにをいまさらという感が強い。ヒトラーだって人の子である。秘書や動物に対して優しいのなんか当たり前なことだ。なんでこんな下らないことで世間が驚くのかといえば、それはドイツ敗戦後、ヒトラーの非情で悪魔的な側面ばかり強調され続けてきたからである。ホロコーストという有史以来最悪の国家的犯罪を、ヒトラーただ一人の責任として押しつけてさえ置けば、ドイツ国民としての責任を回避できるという考えの甘さがそこにある。
しかし、忘れてならないのはナチスは公明正大な選挙によってドイツの第一党となり、議会民主主義のルールに則ってヒトラーは首相に選ばれたのである。ヒトラーの政策は当時のドイツ国民の絶大な支持を受けていたわけで、だからヒトラーの罪はドイツ国民の罪でもあるのである。ナチスの非道を「知らなかった」では済まされない。そこがクーデターで政権の座に着いたカンボジアのポルポトとか、共産党一党独裁の密室で選ばれたスターリン、あるいは権力を世襲した北朝鮮の金正日など他の独裁者とヒトラーの根本的相違である。寧ろ9・11同時多発テロを理由に、全く無関係のイラクを侵略し続けているジョージ・ブッシュとか、パレスチナ人に対するジェノサイド(大量殺戮)を実践しているイスラエルのシャロン首相の方がヒトラーに近い位置にいると言えるだろう。
21世紀を迎えた今、戦争は悲惨だとかナチスの悪行を描く映画を繰り返し撮っても無意味である。そんなことでははく、どうして当時ナチスはあれほどまでに熱狂的に民衆から支持されたのか、大規模な国家犯罪はいかにして成し遂げられたのかというメカニズムを解き明かす方向に進んでいかなければ駄目だろうというのが筆者の主張である。そういう意味で、「スターウォーズ エピソード3」は議会民主制が独裁体制に転落していく過程を分かり易く描いており、まさに今世紀の映画たり得たのだと想う。
2005年08月06日(土) |
福井晴敏イヤーの掉尾を飾る<亡国のイージス> |
福井晴敏の書いた冒険小説「亡国のイージス」は日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞、大藪春彦賞のトリプル受賞し、「このミステリーがすごい!2000年版」では3位に入選した。「終戦のローレライ」は吉川英治文学新人賞を受賞し、雑誌「このミステリーがすごい!2004年版」では堂々第2位に輝いた。どちらも掛け値なしに面白い小説である。
しかし、映画「ローレライ」の出来には失望した。潜水艦やテニアン島などそのほとんどをミニチュアとCGに頼り切ってリアリティが皆無だった。元々原作自体がアニメや漫画の多大な影響を受けているだけに、映画自体もCGアニメを観ているような錯覚を憶えた(ピクサーの作品の方が遙かに出来が良い)。
その点、映画「亡国のイージス」は見事な仕上がりである。自衛隊の全面的協力の下、本物のイージス艦や戦闘機が登場するので、その迫力たるや「ローレライ」とは歴然たる差がある。
音楽担当としてハリウッドからトレバー・ジョーンズを招いたのも実に効果的だった。音楽が格調高いと、映画自体がワン・ランク格上げされたみたいに感じてしまうのだから驚異である。佐藤直紀が作曲した「ローレライ」の音楽はハンズ・ジマー(「ライオンキング」「クリムゾン・タイド」「ラスト・サムライ」)の稚拙な模倣に過ぎない。
脚本は原作のエッセンスを上手く抽出しているが、クーデターを起こした者達の想いとか登場人物の心理の流れが些か掴みにくかったきらいはある。まあこれは長い原作を映画化する際の宿命みたいなものだから致し方あるまい。舌っ足らずの部分は原作を読んで補完すれば良いのだから。その労力に値する小説なのだし。
娯楽映画として及第点だが、筆者はアクション・シーンにスローモーションを挿入する演出は好きではない。それにより映画が失速してしまうからである。スローモーションを使って良いのはそれがあくまで役者の格好良さに奉仕する、ジョン・ウーだけだ。そういう減点も踏まえ、映画の総合評価はBとする。
福井晴敏は原作が出版された当初から映画化を希望していた。しかしその時点では映画化は不可能とあっさり却下された。映画の規模が問題なのではない。その思想背景が危険だと目されたのである。「亡国のイージス」は戦後60年の日本の国防のあり方に異議を唱え、憲法九条を明確に拒絶している。この小説が映画化されたら、左翼勢力が騒ぎ出し東條英機を描いた映画「プライド・運命の瞬間」が公開されたときと同様に上映反対運動が起こることを映画プロデューサー達は懼れたのである。
だから「亡国のイージス」は諦めて、当初から映画化を念頭に作られた物語が「終戦のローレライ」である。しかし、「ローレライ」プロジェクトが進行している間に、世の中は確実に変化していった。北朝鮮による日本人拉致が白日の下に晒され、共産党や社民党は国会の議席を減らし左翼ジャーナリズムも勢いを失っていった。左翼の高齢化も深刻な問題である。さらに憲法改正は具体的な見取り図が描かれる段階まで来ている。そんな時勢が後押しするかのように急転直下、「亡国のイージス」映画化が実現したのである。そして映画の観客も殆ど抵抗感無くこの物語を受け入れている。時代が遂に福井晴敏二追いついたのである。
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