エンターテイメント日誌

2005年06月29日(水) そして神話は完結した <SW: Episode III>

「スター・ウォーズ エピソード3」先々行上映は、祝祭空間としての熱気に満ち溢れていた。映画を観る前から人々はSWグッズ売り場に押し寄せ、スクリーンにルーカス・フィルムのロゴマークが映し出されると、これから始まる物語への期待で、痛いくらい静まりかえった場内に人々が固唾を呑む音さえも聞こえるようだった。明らかにその瞬間、場内の温度が2℃は軽く上昇したのが体感された。

さて、筆者の本作への評価はAAAである。もちろんこれより上はない。エピソード4が北米公開されて28年、ついにこの大河叙事詩が完結したのである。感慨もひとしおだ。スターウォーズほどsaga(武勇伝説、冒険物語)という英単語が相応しい物語はないであろう。

ジョージ・ルーカスという人は希代のストーリー・テラーであることは承知していたが、正直言って映画監督としてはあまり演出が上手くはないのではないかと想っていた。特にエピソード2の恋愛描写は誰がどう見ても稚拙であるとしか言いようがない。

ところが、である。エピソード3は冒頭からの圧倒的な迫力の映像の洪水、怒濤の展開に打ちのめされた。テンポの良い巧みな編集もこれまでの中で最高の出来で、特にアナキンvs.オビ=ワンとヨーダvs.ダース・シディアスの対決を交互にカットバックする場面には手に汗を握った。エピソード3では、あたかも<映画の神>がルーカスに憑依したのではないかと疑いたくなるほどの人間業とは想えない演出力なのである。

まるで「マクベス」や「オセロ」などシェークスピアを彷彿とさせる重厚な悲劇でありながら(パルパティーンはさながらマクベス夫人であり、イヤーゴでもある)、最後にはキッチリと「新たなる希望」を提示して終わる鮮やかさ。これぞカタルシス(アリストテレスが「詩学」で展開した説。悲劇を見ることによって日頃鬱積している情緒を解放し,精神を浄化すること)である。

エピソード4への物語の繋がりも見事である。長年の疑問が氷解し、バラバラだったパズルのピースが収まるべき所に収まる心地よさ。長い物語の中には作者が大風呂敷を広げ過ぎて複線・謎をばらまくだけばらまき、それを全く回収せず終わる実に不親切かつ無責任な作品がある。例えばデビット・リンチの「ツインピークス」であり、庵野秀明の「新世紀エヴァンゲリオン」やウォシャウスキー兄弟の「マトリックス」3部作のことを指す。結局ハッタリだけで、端から綿密なプロットなど立てないで始めるからこんなことになるのである。その点、ルーカスは観客に対して完璧に説明責任を果たしたと想う。

最後に、「スターウォーズ」全6部作で作曲家のジョン・ウイリアムズが成し遂げた仕事はワーグナーが楽劇「ニーベルングの指輪」4部作(ラインの黄金、ワルキューレ、ジークフリート、神々の黄昏)で成したことに匹敵する、いや、それをも凌ぐ偉業であると賞賛しておく。



2005年06月25日(土) スター・ウォーズの想い出

「スター・ウォーズ/エピソード4」が北米で公開されたのは1977年5月。全く期待されていなかったこのSF映画は、たった32館だけでの上映からの出発だった。それから瞬く間に大ヒットとなり、歴代の映画興行成績記録を塗り替えることになる。

日本で上映されたのはそれから1年以上後の1978年夏。日本の20世紀フォックス宣伝部は長期に渡る宣伝戦略を立てたわけだ。しかし結局、待たされすぎた日本の観客の反応は鈍く、期待されたほどのヒットには結びつかなかったのだが。

映画が日本で公開された年、僕は小学校六年生だった。待たされた1年間の間に、どうもアメリカから凄いSF映画がやってくるらしいと、子供たちの間でも話題になっていた。小学生だけで映画館に入る訳にはいかないので、うちの父親に頼んで引率してもらい、同級生10人くらいを引き連れて観に往った。今考えてみればあれが僕の映画原体験であり、「スター・ウォーズ」から映画に恋い焦がれ続ける我が人生が始まったと言っても過言ではない。

僕は映画を観るよりも先にジョン・ウイリアムズの音楽を聴いていた。小学生のくせに生意気にもクラシック音楽ばかり当時聴いていた少年は、クラシック界の有名な指揮者ズービン・メータが「スター・ウォーズ」の音楽に魅了され、作曲家に依頼し組曲にしてもらってレコーディングしたという記事を読んで興味を持った。そのメータ指揮ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団の演奏するアルバムがFMで放送されたのをカセット・テープに録音(=当時は”エアーチェック”と言った)し、繰り返して聴いた。現代にもこんな凄いオーケストラ曲を書ける人がいるんだと驚嘆したものだ。

本当は作曲者自身がロンドン交響楽団を振った映画のサウンドトラック・レコード(CDが登場するのはまだ先の話である)が欲しかったのだが、サントラとしては珍しいLP 2枚組で、小学生の乏しいお小遣いでは高嶺の花だった。

当時TBSでは「オーケストラがやってきた」という音楽番組を放送していて故・山本直純さん(「男はつらいよ」の作曲家)が司会と指揮を担当されていた。その「オーケストラがやってきた」でも「スター・ウォーズ」の音楽が取り上げられて、山本さんが<王座の間とエンドタイトル>を指揮した後に、この冒頭部はメンデルスゾーンの「結婚行進曲」で、その後に登場する弦の旋律はエルガーの「威風堂々」の影響を受けていると分かり易く解説されていたのを今でもよく憶えている。

あれから27年間、未だにジョン・ウイリアムズこそ現役最高の作曲家であるということを一度も疑ったことはないし、ジョンが作曲した映画のサントラに関する限り、この世に存在する全てのCDを手元に保有していると確信を持って言い切ることが出来る。JWFC(ジョン・ウイリアムズ・ファン・クラブ)にも入ったし、ジョンがボストン・ポップス・オーケストラを引き連れて来日した際も岡山から大阪までコンサートに駆けつけた。結局そんな僕のささやかな歴史は、ひとえにあの小学校六年生の夏の日から始まったんだなぁと想うと感慨深い。

エピソード4から6までを観たのはテアトル岡山という、汚い場末の映画館だった。音響が貧弱で、ドルビー・サラウンドの映画を平気な顔をしてモノラル音声で上映するような所だった。さらに、音量が大きくなるとスピーカーの音が割れるのである。上映設備が整ったシネコンが主流になった現在から考えると隔世の感がある。その映画館も今では潰れて、駐車場になってしまった。多分テアトル岡山で最後に観た映画は「タイタニック」だと想う。

エピソード4がテレビで初めて放送された時も話題になったなぁ。日本語の吹き替えを担当したのが以下の通り。

ルーク = 渡辺徹、レイア = 大場久美子、ハン・ソロ = 松崎しげる

途轍もないキャスティングである。当然ファンの怒りも凄まじかった。この事件は今でも語り草となっている。呆れ果てた僕は勿論観なかったのだが、今考えてみるとその吹き替え版も怖いもの見たさでの興味はある。DVDの音声選択に入れてはもらえまいか。



2005年06月21日(火) 今日の呟きとショート・レビュー3連発

ニコール・キッドマン → ペネロペ・クルス → ケイティ・ホームズ(「バットマン ビギンズ」のヒロイン)

以上がトム・クルーズが交際した(あるいは婚約・結婚した)女優遍歴だが、年を追うごとに美人度が劣化してきていると感じるのは筆者だけだろうか?・・・以上が本日の「ぼそっ。」

さて、今週末は「エピソード3」先々行上映がある。指定席は既に確保した。一大イベントに備えて溜まったレビューをここらで一気に放出しておこう。<祭りの準備>だ。

「ハサミ男」評価:B-
メフィスト賞を受賞した殊能将之のミステリを読んだ時、最初に感じたのはこの叙述トリックを駆使した小説は、実に面白いけれど映画化は無理だろうということ。クリスティの「アクロイド殺し」を映画化するのに匹敵するくらい無謀な話だと想っていたのだが、完成した映画を観てなかなか巧みにその問題を処理しているのに感心した。しかし、原作にはないファーザー・コンプレックスというテーマをこの物語に持ち込んだのは、如何なものかという気はする。そこが評価が分かれるところだろう。結末は原作の方がスマートで良かったな。映画のエピローグはちょっとクドイ。

「ザ・インタープリター」評価:C
なかなか退屈しないサスペンス映画に仕上がっていると想う。役者が良い。結局シドニー・ポラック監督がこの映画でしたかったのはヒッチコック映画へのオマージュなんだね。国連のロビーは「北北西に進路を取れ」に登場するし、ショーン・ペンとニコール・キッドマンが窓と窓を隔てて対面するのは「裏窓」だし。そして国連という大舞台で暗殺を試みるというのは「知りすぎた男」(「暗殺者の家」)におけるコンサート会場での暗殺計画の置き換えである。
 
「クローサー」評価:B+
マイク・ニコルズは映画監督としてだけではなく舞台演出家として有名である。今年のトニー賞(演劇界のアカデミー賞)でもミュージカル演出賞を受賞した。「クローサー」のオリジナルも舞台である。だから密度の濃い会話劇を見事に演出していると想う。ただ残念なのはナタリー・ポートマンはストリッパー役なのに、彼女のヌードシーンがないこと。スケベ心で言うのではなく、これは実に不自然である。実はナタリーのヌードシーンは撮影されていたのだが、公開直前になって彼女の決心が揺らぎ、ニコルズに頼んで肌を露出した場面はカットしてもらったというのが真相だそうだ。さて、今から何十年か後に「クローサー」の完全版が世に出るということは果たしてあるのだろうか?



2005年06月16日(木) ミュージカル映画RENT予告編が遂に登場!

トム・ハンクスがAIDS患者を演じてオスカーを受賞した「フィラデルフィア」(1993)が公開された前後、ブロードウェイではAIDSを題材にしたふたつの作品が話題を独占した。

ひとつはトニー賞やピュリツァー賞に輝き、ロンドンのナショナル・シアターが”20世紀の最も偉大な戯曲10本”のひとつに選んだストレートプレイ「エンジェルズ・イン・アメリカ」であり、これは2003年に「卒業」「クローサー」のマイク・ニコルズが監督してテレビのミニ・シリーズとなり、エミー賞史上最多11部門受賞をはじめゴールデン・グローブ賞など総なめにした(日本ではWOWOWが放映)。

もうひとつがミュージカルRENTであり、これもトニー賞やピュリツァー賞に輝いた。1996年にニューヨークの劇場で初演される前日に、作者であるジョナサン・ラーソンが35歳の若さで亡くなったことも、作品を神格化させるのに拍車をかけた。なお、ラーソンはHIV感染者であったが、死因は大動脈瘤破裂である。

RENT映画化にも紆余曲折があった。舞台が大ヒットして映画化権を最初に手に入れたのがミラマックス。しかしなかなか具体化することはなかった。一時は「ドゥ・ザ・ライト・シング」「マルコムX」のスパイク・リー監督が名乗りを上げたが頓挫した。次にプロデューサーはロブ・マーシャル監督に声をかけたが、マーシャルは全く興味を示さず「RENTなんかよりももっと良い映画の企画がある。」と提案したのが「シカゴ」であり、これはアカデミー作品賞に輝き、ミラマックス創設以来最大のヒットとなった。RENTを持て余したミラマックスは一時はテレビ映画にしようとまでしたのだが、これも上手く転がらず、結局映画化権を手放したのがつい一年くらい前の話である。それからはトントン拍子でクリス・コロンバスが監督に決まり、一気に映画は完成してしまった。

ミュージカル映画RENT公式ページはこちらである。予告編(trailerをクリック)を是非観て欲しい。

なんといっても今回の映画化で何が凄いってブロードウェイのオリジナル・キャストをずらりと並べたことだろう。ロジャー:アダム・パスカル、マーク:アンソニー・ラップ、エンジェル:ウィルソン・ジャーメイン・ヘレディア、トム・コリンズ:ジェッセ・L・マーティン、ベンジャミン・コフィン・Jr:テイ・ディッグス、そして女性ではモーリーン役のイディナ・メンゼルがオリジナル・キャストである。映画化でこれだけ揃えたのは他に例を見ない。筆者はブロードウェイでアダム・パスカルが「アイーダ」のラダメス役で出演しているときに観劇し、その野性的な容姿と圧倒的歌唱力に痺れた。今や伝説となったアダム・パスカルのロジャーが映画で見られるなんて感慨もひとしおである。テイ・ディッグスは映画「シカゴ」でピアニストを演じ、端役ながら実に存在感があり、格好良かった。彼のパフォーマンスも実に愉しみである。

映画に若干の不安があるとすれば、まず初演から9年が経過して、オリジナル・キャストが当初の若々しさを保っていられるのかということと、AIDSという病気は既にアメリカでは感染爆発の時期が過ぎて、今では治療法が確立している=つまり映画化する時期を失したのではないかということである。そして監督がクリス・コロンバスであるということも気になるところ。コロンバスは「ホーム・アローン」「ミセス・ダウト」やハリー・ポッター・シリーズなどどちらかと言えばお子さま向けの映画を撮ってきた人だし、ミュージカルも今回初挑戦の筈だ。・・・しかしながら、予告編を観る限り、そんな心配も杞憂に終わるだろう。

RENTは北米で今年の11月に公開予定。そして12月には、こちらもブロードウェイ・オリジナル・キャストをずらりと並べ、アカデミー賞を狙う「プロデューサーズ:The Movie Musical」(邦題の正式タイトルは未定)の登場である。2005年、ミュージカル映画は今まさに豊饒の時を迎えようとしている。



2005年06月11日(土) 期待はずれの二本

「ソマリア」
評価:F
韓国のアカデミー賞と言われる大鐘賞で最優秀作品賞を受賞した「春夏秋冬そして春」は面白い映画ではないが、悪くはなかった。しかしそのキム・キドク監督の最新作「ソマリア」はいただけない。思わせ振りで気取っているだけ。中身は虚ろ。これは屑だ。援助交際を題材にしていることになっているが、その問題についての製作者の態度が曖昧なまま焦点はぼやけ、物語は迷走していく。登場人物達の行動理念もさっぱり分からず「どう、俺の映画って時代の最先端を走っていて格好いいだろ?」という監督の自惚れ(惚け)だけが空しく残る。

「オペレッタ狸御殿」
評価:D
増村保造と並んで鈴木清順は1960年代の日本映画を代表する映画監督だと信じて疑わない。あの頃の清順映画は本当に凄みがあった。編集のテンポが良くてアヴァンギャルドで正に時代の最先端を突き進んでいた。伝説的カルト映画「殺しの烙印」(1967)を撮って「わけのわからん映画を撮る奴はいらん!」と日活の社長を激怒させ、解雇された事件はいわば清順監督にとって勲章みたいなものだ。しかし・・・である。最新作「オペレッタ狸御殿」を観てズッコケた。これはもう、擁護しようのない代物である。兎に角テンポが悪い。オペレッタなんだから当然唄があるのだが、これが間延びしてしまう。清順さんにミュージカル映画は似合わない。物語も編集も音楽も、そしてチャン・ツィイーが喋る日本語もみんな緩い。ユルユルである。映画を観ている最中、何度も睡魔に襲われた。「殺しの烙印」の続編とも言える前作「ピストルオペラ」(2001)で清順さんの復調を肌で感じただけに、落胆も大きい。願わくはこれが清順さんの遺作になりませんように!



2005年06月03日(金) リドリー・スコットの色彩感覚<キングダム・オブ・ヘブン>

リドリー・スコットはその監督デビュー作「デュエリスト/決闘者」(1977)の頃からスタイリッシュな映像表現が突出しており、特に青の色彩へのこだわりがあった。北野武の<キタノ・ブルー>に対抗して<スコット・ブルー>と呼称しても差し支えないくらいだ。

最新作「キングダム・オブ・ヘブン」でも、冒頭の真っ青の背景に十字架が浮かび上がる場面から、その映像の魔力に魅了される。<スコット・ブルー>の独壇場である。

それから本作を観て痛切に感じたのは、スコットはとことんリベラルな人なんだなぁということ。例えば「ブラック・ホーク・ダウン」でスコットはアメリカ軍のソマリアでの市街戦を描いているが、アメリカ軍人を主人公に据えながら、そこにはアメリカ軍がソマリアの内戦に軍事介入(お節介)しなければ、こんな事態に陥ることはなかった筈だというイギリス人としての醒めた眼差しが常にあった。「キングダム・オブ・ヘブン」に於いても、十字軍に参加するオーランド・ブルームが主人公ではあるが、スコットが十字軍の正義なんかこれっぽっちも信じていないことは端から明らかである。キリスト教徒はあくまで野蛮人として存在する一方で、イスラム教徒のサラディン王が最も魅力的人物として描かれるのである。中世を舞台としながら、それが現代のイスラエルのユダヤ人VS.パレスチナ人、あるいはブッシュ率いるアメリカ軍VS.イラク民衆という対立をも照射する仕掛けには、ほとほと感心した。

正直言ってこれが映画デビューとなるウィリアム・モナハンの脚本の完成度は高くない。例えば殺人という罪を贖うために十字軍に参加したはずのオーランド・ブルームがエルサレムでも人を殺しまくっているのは明らかに自己矛盾だし、その彼に恋する王女が一体何をしたいんだかさっぱり意味不明である。しかしながらその脚本の不備を補って余りある魅力がこの映画にはあると想う。筆者の評価はBである。


 < 過去の日誌  総目次  未来 >


↑エンピツ投票ボタン
押せばコメントの続きが読めます

My追加
雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]