エンターテイメント日誌

2004年11月27日(土) <ハウルの動く城>に見る宮崎駿の手塚治虫化

前回の日誌で書き切れなかったことを補足しておこう。

最近の宮崎アニメで特に顕著になってきた特徴として<メタモルフォーゼ(変身)>への固執ということが挙げられるだろう。

昔の宮崎作品で登場人物がメタモルフォーゼすることは殆どなかった。メタモルフォーゼが初めて登場するのは「紅の豚」である。主人公のポルコ・ロッソは元々人間なのだが訳あって豚の姿になっている。しかし「紅の豚」で変身するのは主人公だけである。

しかし「千と千尋の神隠し」では逆に、主人公以外のキャラクターが殆どメタモルフォーゼするのである。千尋の両親がポルコ・ロッソ同様に豚に変態するのを筆頭に、ハク・湯婆婆・坊・カオナシなど具体例を挙げるまでもないだろう。また、汚れと廃棄物を身にまとった<オクサレさま>というドロドロと変形するキャラクターも特徴的である(「風の谷のナウシカ」の巨神兵を彷彿とさせる)。

その傾向は「ハウルの動く城」でさらに推し進められている。メタモルフォーゼのキャラクターとしてはハウル・ソフィー・カルシファー・マルクル・案山子・荒地の魔女など枚挙に暇がない。荒地の魔女の手下などドロドロのキャラも健在である。

実は変身は漫画の神様・手塚治虫が生涯追求してきたテーマである。そのものズバリの「メタモルフォーゼ」という作品もあるくらいだ。オサムシというペンネームでも分かるとおり、手塚さんは幼い頃から昆虫が大好きだった。だからこそ生物の変態に拘り続けたのである。

手塚さんが亡くなったとき、宮崎さんはその追悼文でアニメーション作家としての手塚治虫を完全否定した。しかしその裏には「漫画家としての手塚治虫には到底敵わない。」という想いがあったことは間違いない。描き溜めていた漫画が手塚さんの作風そっくりであることにある日気付いた宮崎さんは、愕然としてそれを全て焼き捨てたと告白している。漫画家として一等賞になることは手塚治虫という巨人がいる限り絶対に不可能である。だからせめてアニメーションの世界で天下を獲ってやろう。その決意こそが宮崎駿という作家の原点なのである。

しかしその宮崎さんも、老いるに連れて手塚漫画に次第に寄り添ってきている。非常に興味深い現象ではないだろうか。



2004年11月22日(月) 老人力。 <ハウルの動く城>

「ハウルの動く城」の評価はA-である。まずそのマイナス点について述べよう。

「ハウルの動く城」では戦火の恋が描かれる。宮崎アニメで戦争を背景としていたり、軍隊が登場する作品は珍しくない。「未来少年コナン」「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「紅の豚」「ジブリ実験劇場 On Your Mark」等がそうである。しかし、従来の作品では誰と誰が何を目的に戦っているのかが明確に表現されていた。それが「ハウルの動く城」ではさっぱり判らない。映画の結末で戦争が終結に向かうことが暗示されるが、それも何で問題が解決されたのか全く理解に苦しむ。王室つき魔法使い・サリマン先生が何をやりたかったのか、その行動原理も不明である。結局、宮崎翁にとってはそんなことはどうでも良くなったのだろう。だから原因と結果の因果関係が無視され、物語が無理矢理収束させられてしまっているという点で脚本(脚色)に問題がある。

だがまあ、そんな保留はこの映画にとって些事なのだ。この作品はそのディテールの面白さを堪能すれば良いのである。それで十分元が取れる。ヒッチコックはかつて演技に悩むイングリッド・バーグマンに「たかが映画じゃないか。」と言ったそうだが、その通り!たかが、漫画映画じゃないか。煩いことは抜きにしようぜ。

物語の背景となる戦争をお座なりに処理した代わりに、<老人力>漲る宮崎翁が心血を注いで描いたのはコミューン=共同体で生きることの愉しさである。共産主義者(コミュニスト):宮崎駿(←クリック)の面目躍如たる躍動感である。このコミューン幻影というのは「風の谷のナウシカ」の<風の谷>や「もののけ姫」の<たたら場>の例を挙げるまでもなく、宮崎翁の従来からの特色である。

そういう意味では「ハウルの動く城」は宮崎アニメの集大成とも言えるだろう。「未来少年コナン」のギガントによく似た飛行船が登場するし、「天空の城ラピュタ」の飛行石も出てくる。ハウルの変身は「千と千尋の神隠し」の湯婆婆を彷彿とさせるし、彼の城の動きはまるで「風の谷のナウシカ」に出てくる王蟲(オーム)みたいだ。

宮崎翁はコミュニストだから当然平和主義者である。しかし一方で戦車とか軍艦、戦闘飛行船などの乗り物を偏愛している人である。だから実は戦争を描くことが大好きなのだ。この自己矛盾こそが宮崎アニメの本質であり魅力なのだ。その特徴が「ハウルの動く城」でも存分に発揮されているので、それだけで筆者は大満足なのである。

ハウルは今までの宮崎作品の中で一番の美形ヒーロー。アニメ雑誌の人気投票で上位にくるのは必定。その他にも宮崎さんらしい奇想天外で魅力に溢れたキャラクターが今回も目白押しである。

宮崎駿、老いてなおその創作意欲とイマジネーションは衰えることを知らず。宮さん、もう引退するなんて言わないでこれからも大いに僕たちを愉しませて下さい。

なお、余談であるが声優陣では天才子役の神木隆之介 くんが最高に良かった。映画「恋愛小説」の神木くんも必見。



2004年11月18日(木) 崔洋一の軌跡と<血と骨>

崔洋一監督の映画は嫌いだった。内なる暴力願望を映像に叩きつけた「マークスの山」は緻密に構築された原作を粉砕し、嫌悪感以外の感情を抱けなかったし、キネマ旬報第一位を受賞した「月はどっちに出ている」も全く面白くなかった。乱暴な映画を撮る人という印象でしかなかった。

しかし、「刑務所の中」を撮った頃から崔監督の作風に変化が現れた。「刑務所の中」は淡々とした描写でむしろ飄々と撮っているという雰囲気で、なんだか崔さん枯れてきたなぁ、まるで好々爺みたいだという感慨を抱いたし、そのあとがあの大ヒットした盲導犬のお話「クイール」なんだから仰天した。これはむしろ転向と言っても良いくらいだった。崔さんどうしたんだ、骨抜きになっちまったのか!?と他人事ながら心配したくらいである。

しかし崔監督は原点に回帰してきた。6年間に渡り梁石日原作の「血と骨」を暖めていたのである。シナリオ第2稿の段階ではそれをそのまま映画化すれば5時間半に及ぶボリュームだったという。それをさらに改稿を重ね、削りに削って最終的には2時間半の作品に凝集した。だから映画の印象はダイジェストの感を否めず、それをナレーションで誤魔化した節がある。しかし、確かにそういう欠点はあるものの、それを補って余りある面白さがこの映画にはある。筆者の評価はB+を進呈する。

「血と骨」は昔の崔映画のように全編血と暴力で彩られている。しかし、以前筆者が感じた嫌悪感は今回抱かなかった。そこに崔さんの円熟を感じた。いくら主人公が破天荒で暴力的であっても、暴力でしか自己表現出来ない人間の哀しみがその行為を通じて画面から滲み出てくるのである。「殺人の追憶」でも卓越した仕事をした岩代太郎のまるでレクイエムのような静謐な音楽がその効果を高めることに貢献している。

この物語は朝鮮移民版「ゴッドファーザー」と呼んでも差し支えないだろう。特に映画の冒頭、移民船から人々が大阪の風景を見つめる場面は「ゴッドファーザー part II」を彷彿とさせた。しかしイタリアの移民船から見た自由の女神には希望があったが、大阪の工場の煙突から吹き出される煙は汚くくすんでいた。

「ゴッドファーザー」で描かれるイタリア・マフィアはなによりも家族の絆を大切にしたが「血と骨」の主人公・金俊平は全く家族を顧みない畜生道に墜ちた男で、全く何という違いだろう!その対比が面白く、<在日>であることに拘り続けた崔監督の面目躍如、ここにあり。



2004年11月13日(土) コイツは韓流キューブリックか!? <オールド・ボーイ>

「ヘルボーイ」「ディープ・ブルー」「砂と霧の家」など、既に観ているのにレビューを溜めているのが沢山ある。しかし何はさておき「オールド・ボーイ」だ。

「オールド・ボーイ」は今年カンヌでグランプリに輝いたが、筆者は最高賞であるパルムドールこそ、この映画に相応しいと確信する。筆者の評価はAAである。

韓国映画史に燦然と輝く「殺人の追憶」を撮った天才ポン・ジュノ監督のことを筆者は<韓国の黒澤明>と喩えたが、それならばさしずめ「オールド・ボーイ」のパク・チャヌク監督は<韓国のスタンリー・キューブリック>と呼ぶのが相当だろう。バイオレンスが炸裂するという意味では北野武や今年カンヌの審査委員長だったクエンティン・タランティーノの映画を思い起こすが、「オールド・ボーイ」はもっと奥が深い。敢えて一番似ている過去の作品を挙げるなら「時計仕掛けのオレンジ」だろう。決して好きな物語ではないのだが、まるで三島由紀夫の文学を読んだ時のように、その圧倒的な表現力・完璧な美の構築の前に呆然と立ちすくみ、無言でひれ伏すしかないという印象なのである。この作品を一言で表現するなら<とんがった映画>、これに尽きるだろう。正統派の「殺人の追憶」に対して本作は異端の傑作である。

実はパク・チャヌクの「JSA」は映画館で観ているのだが、正直大した作品だとは想わなかった。だから観る前は「オールド・ボーイ」も舐めていた。真に申し訳ない、ここに陳謝する次第である。

それにしても天才ポン・ジュノがいて、さらに奇才パク・チャヌクが出現するというのは今の韓国映画界は何と豊饒なのだろう。韓流、恐るべし。ハリウッドを別格として今世界で最も映画に活気があって最先端を突っ走っているのは韓国以外にあるまい。ヌーベルバーグ華やかなりしころのフランスを凌駕する勢いだ。

しかしこれだけ凄い作品が目尻押しなのに、次回のアカデミー外国映画賞の韓国代表が「プライベート・ライアン」のパクリでしかない駄作「ブラザーフッド」とは何事か!?韓国の選考委員は火焙りの刑に処すべきである。

「オールド・ボーイ」唯一の弱点は監禁した動機の真相が弱いことだろう。これは少々納得出来ない。ただこの動機は原作漫画と異なり映画オリジナルだそうだから致し方ないのかも知れない。しかし、その弱点を補って余りある映画の文体の素晴らしさには舌を巻く。こんな凄い映画観たことない!目を瞠る構図、流麗なカメラワーク。特に主人公デス(チェ・ミンシク)が18名の屈強なボディガード相手にひとり大立ち回りを演じる場面はカメラが横移動して2分40秒をワンカットで一気に観せる演出で、これには舌を巻いた。肌がヒリヒリ痛むような衝撃的真相が語られた後に、突如として雪のニュージーランドに舞台転換する意外性も圧巻だった。哀しくも、限りなく美しい幕切れであった。

それから韓国映画で一番立ち後れているのは音楽なのだが、この映画の音楽はとても印象的だった。特に哀切なあのワルツ!公式サイト(←クリック)で聴いてくれ。

チェ・ミンシクの演技はもう言うまでもなく文句なしなのだが、寂しさを湛えた瞳を持つヒロイン;ミドを演じたカン・ヘジョンの存在感も特筆に値する。またその脱ぎっぷりも潔い。観ていて爽やかだ。それに比べると映画の題材から言えば必然性があり、ヌードになることは絶対不可欠な筈なのに脱がなかった「海猫」の伊藤美咲と「血と骨」の鈴木京香は万死に値する不届き者である。女優の風上にも置けない。しかしそれはまた、別の話。

「オールド・ボーイ」を未見の者は直ちに映画館に駆けつけろ。興味のない奴、暴力描写の苦手な奴は・・・勝手にしやがれ!!



2004年11月10日(水) トム君、また脇役に食われちまったね。

トム・クルーズは気の毒な人である。オスカーを狙って昨年12月に公開された「ラスト・サムライ」では完全に渡辺謙に場をさらわれて結局、渡辺謙はアカデミー助演男優賞にノミネートされたが、トムは主演男優賞にノミネートされなかった。

新作「コラテラル(巻き添え)」ではタクシー運転手を演じたジェイミー・フォックスの存在感に完全に食われちゃった。トムは今度もオスカー・ノミネートは望み薄だ。一方でジェイミー・フォックスは現在北米で公開中の「レイ」でレイ・チャールズを演じ、アカデミー主演男優賞はほぼ確実である。この役は全盲という身体障害者であり、オスカーを受賞する法則に見事に適っている。

さて、「コラテラル」の評価はCである。確かに娯楽作品として良く出来ている。特にディスコでの派手な銃撃場面以降、俄然盛り上がる。虚無感漂う終幕は若干盛り下がるけれど、尻すぼみなのは「ヒート」の例を挙げるまでもなくマイケル・マン監督作品のお約束であるから余り気にならない。

ただ、オリジナル脚本の練りが足りないのが惜しいなぁ。大体設定に無理がある。一晩で5人を暗殺しようとする殺し屋が、行きずりのタクシーを拾う筈がないじゃないか。レンタカーを借りるか、殺しを依頼した組織が車と運転手を提供するのが筋でしょうが。それからフロントガラスが割れたタクシーに乗り続けるのも不自然。それじゃ目立ってしょうがないし、実際不審に思った警官に呼び止められるしね。やっぱりその時点でジェイミー・フォックスを殺して、別のタクシーに乗り換えるべきでしょう。

本作は夜間でも撮影可能な新開発デジタル・ビデオカメラ(Viper FilmStream Camera)で撮影されているが、フィルム撮りでない違和感は余りなかった。画質は及第点だろう。



2004年11月06日(土) 山田洋次流マンネリズム <隠し剣 鬼の爪>

山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」の評価はA。一方同じ藤沢周平原作による最新作「隠し剣 鬼の爪」の評価はB-である。

ぶっちゃけた話、両者の時代背景・舞台・そして物語展開は全く同じである。ではどうして評価がワンランク以上落ちたのかというと、それはひとえに主役のふたりの魅力の差だ。前者の真田広之と宮沢りえのコンビと比較すると後者の永瀬正敏と松たか子の魅力は半減というか、はっきり言えばミス・キャストなのである。

千葉真一が主宰するJAC(ジャパンアクションクラブ)に12歳から所属していた真田の刀さばきの鮮やかさや立ち振る舞いのしなやかさと比べると永瀬は見る影もないし、健康そうな松たか子が病気で床に伏せっていても全く説得力がないのである。

しかしながら脚本は良くできているし、山田洋次の演出も丁寧で映画の完成度は高い。徹頭徹尾「たそがれ清兵衛」の焼き直しではあるが、そこには寅さんシリーズを観ているような安心感・心地良いマンネリズムがある。

お金を払って観る価値はある映画だろう。特に「たそがれ清兵衛」未見の方にお勧めする。



2004年11月03日(水) From Stage to Screen <笑の大学>

現在テレビや映画で大活躍の三谷幸喜さんのホーム・グラウンドは舞台である。筆者は三谷さんが主宰していた劇団、東京サンシャインボーイズの公演を残念ながら生で観る機会が一度もなかった。

ちなみに中原俊監督で映画化された「12人の優しい日本人」は、この東京サンシャインボーイズ時代の作品である。

劇団が活動を休止する前の最終公演「東京サンシャインボーイズの罠」は劇団員・梶原善の古里、倉敷で上演されたのだが、残念ながら筆者が思い立った時には既にチケットは完売していた。1994年のことである。劇団が活動を再開する公演「リア玉」(リア王じゃありません、念のため)は2024年9月6日よりシアタートップスで公演されることが発表されているので、その時は是非観に往きたいと考えている。

そういう訳で筆者は遅れてきた三谷ファンなのだが、東京サンシャインボーイズ後に三谷さんが書いた芝居については主な作品は概ね観てきたつもりだ。筆者が選ぶ三谷作品(舞台)のベストは・・・

1.彦馬がゆく 2.笑の大学 3.君となら 4.オケピ! 5.アパッチ砦の攻防

である。

それにしても、ふたり芝居である「笑の大学」を観劇したときは、まさかこれが映画化されるなんて考えてもみなかった。

1996年読売演劇大賞最優秀作品賞を受賞した「笑の大学」は完璧な傑作である。舞台で完結している作品だし、これを映像にしてオリジナルに拮抗する作品に仕上げるには至難の業。だから監督をオファーされた星護さんが「私には無理だ。」と何年間も固持された気持ちは痛いほど分かる。しかし、最終的に三谷さんの熱意に応えて星さんは果敢に挑戦される決意を固めた。

筆者の映画の評価はC+だ。星さんはよく頑張った。当時の浅草の雰囲気が出ていたと想うし、後半次第に激しく動き出すカメラワークも見事である。しかし如何せんやはりふたり芝居を映画にするなんていうのは無理難題過ぎたのだ。役所広司と稲垣吾郎のコンビも熱演なのだが、舞台を知っている者の目から見れば西村雅彦と近藤芳正の丁々発止のやり取りを上回るものではなかったという厳しい裁定を下さざるを得ない。

しかしまあ、舞台を観ていない人にとっては十分愉しめる作品に仕上がっているのではなかろうか?コメディとして秀逸だし、非の打ち所のない脚本なので。

それにしても、本間勇輔さんが書いた「笑の大学」のテーマ曲が、映画「甘い生活」の音楽(作曲:ニーノ・ロータ)そっくりだと想ったのは筆者だけであろうか?(モーリス・ジャールが書いた「インドへの道」のアデラのテーマにもよく似ている)

「笑の大学」の映画化は必ずしも成功したとは言えないけれど、是非「新選組!」と同じ時代に生きたある写真館の家族の物語「彦馬がゆく」とミュージカル「オケピ!」も映画化して欲しいなぁ。


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]