エンターテイメント日誌

2004年05月28日(金) 今年最低なのは君で決まりさ、ハニー。

アカデミー賞の前日に授賞式が行われる、その年の最低映画を選ぶ祭典、ゴールデン・ラズベリー賞(通称ラジー賞)も日本でかなり認知されてきた感がある。最低作品賞、最低主演男・女優賞、最低カップル賞など昨年度のラジー賞を総なめにしたのはバカップルことジェニファー・ロペスとベン・アフレックが共演した"Gigli"「ジッリ」である。結婚式直前までいっていたふたりは、ラジー賞のおかげで結局破局の道をまっしぐらに突き進むこととなる。今回の醜態で<スター性に疑問がある>との烙印を押されたベンアフは、「トータル・フィアーズ」に続くジャック・ライアン・シリーズを降板させられる憂き目にあい、仕事が激減した。

もしラジー賞が日本にあったとしたら・・・今年はもうこの映画で決まりである。そう、「キューティーハニー」のことだ。評価は無論F。僕が審査員ならば最低作品賞、最低監督賞(庵野秀明)、最低主演女優賞(佐藤江梨子)、最低助演女優賞(市川実日子)、最低助演男優賞(村上淳)、最低カップル賞(佐藤江梨子、村上淳)、最低脚色賞(高橋留美、庵野秀明)には少なくとも確実に投票するね。

まず演出が酷すぎる。例えばある登場人物が喋る。すると相手が返事をする。この間に妙な間があるんだよね。会話のテンポが非常に悪いのである。それから編集も間延びしているし、「津軽海峡冬景色」をカラオケで唄うとか会社でのエピソードなど本編と無関係・無駄な場面が多すぎる。上映時間はたった93分なのに、それが未来永劫続く拷問のように辛かった。つまり庵野監督は演出のなんたるかを全く分かっていないということである。庵野さんよ、悪いこと言わないからもう映画の世界から足を洗った方がいいよ。あんた才能ないよ。

庵野氏は元々アニメーターだった。「風の谷のナウシカ」では原画を担当している(巨神兵のパート)。しかし彼が演出した「新世紀エヴァンゲリオン」が一世風靡したことで何を勘違いしたのか本人が舞い上がってしまい、とち狂った彼はアニメーションを捨てて実写の世界に足を踏み入れた。本作ではハニーメーションなどと称して実写で何とかアニメを模倣しようとしているのだが、それが全く無駄な労力としか想えない。だったら端からアニメで撮ればいいじゃん。大体本編よりもガイナックス(エヴァの製作会社)が担当したオープニング・アニメーションの方がセクシーでより魅力があるってどういうこと?本末転倒でしょうが。

サトエリ(佐藤江梨子)のあまりの大根役者ぶりにも唖然とさせられた。自分では一人前のコメディエンヌを気取っているのかも知れないが、それが完全な空回り。ただチャラチャラしてふざけた喋り方をしているようにしか見えない。これでセクシーならまだ許せるが、下着姿になったりミニスカートを履きさえすれば色気を表現できるとなんか勘違いしていないか?世の中そんなに甘くはないんだよ。永井豪が描くハニーの爪の垢でも煎じて飲んで出直してこい!

本作品唯一の救いはミッチー(及川光博)が唄う場面である。

筆者は特撮がチープな日本のSF映画に対しては寛容な方であると自認している。もはや伝説化したトンデモ映画、深作欣二監督「宇宙からのメッセージ」とか原田眞人監督・脚本の「ガンヘッド」、あるいは大林宣彦監督の「ねらわれた学園」「漂流教室」など相当酷い映画を今まで我慢して観てきた。しかしそれらよりもはるかに下回る、より悲惨な作品がよもや登場するとは「キューティーハニー」を観るまで考えてもいなかった。いやはや、こんな代物にはなかなか滅多にお目にかかれないという意味では一見の価値がある作品と言えるのかも知れない。それでは貴方も一緒に・・ハニーフラッシュ!



2004年05月26日(水) ビルを殺れ! 第弐巻

「キル・ビル VOL.2」の評価はB。

ディズニーの子会社である映画スタジオ:ミラマックス創設者のハーヴェイとボブ・ワインスタイン兄弟は「キル・ビル」の製作にあたって是非アカデミー賞を狙いたいと考えていたようだ。しかし、タランティーノの編集作業は遅れ、全長4時間を越える大作になってしまったために、第一部を2003年に、第二部を2004年に分けて公開することを余儀なくされた。そして当然アカデミー賞でも完全に無視される結果となった。ワインスタイン兄弟としてはプロデューサーの権限で大幅にカットし、単体にまとめた短縮版を公開したかったことだろう。しかしタランティーノとの契約で、編集権は全て監督に帰属するという条項があったために手も足も出せなかったという訳だ。

第一部は故・深作欣二監督に捧げられ、やくざ映画であるとか「女囚さそり」や「修羅雪姫」など梶芽衣子主演の1970年代日本映画へのオマージュが全編を彩っていたが、今度の第二部ではセルジオ・レオーネ監督によるマカロニ・ウエスタン(←クリック)への郷愁が色濃い作品に仕上がっており、雰囲気が見事に変化していた。今回レオーネと長年組んでいたエンニオ・モリコーネの音楽がこれでもかっ!というくらい、挿入されているのもそのことを反映している。時差公開せざるを得なくなった不利を逆手にとって、一部と二部のカラーの違いを鮮明に打ち出すあたり、タランティーノの戦略はなかなかしたたかであり、それが奏効している。

今回は男と女の物語をじっくりと見せるという趣向な様だ。サブタイトルもLOVE STORYだし。ただし、ど派手なアクション・シーンがてんこ盛りだった第一部と比較すると第二部がいささか地味な感があるのは否めない。“GOGO夕張”が出てこないのも寂しいな。



2004年05月22日(土) まさみ、まさみ、まさみ!<世界の中心で愛をさけぶ>

セカチュウこと映画「世界の中心で愛をさけぶ」の評価はB。いや、あの腐った韓国映画みたいな臭いメロドラマ(実際「冬のソナタ」の監督が韓国でリメイクすることが決定している)に対する評価はFが分相応である。しかしながら筆者の評価をここまで上昇させたのはヒロインを演じた長澤まさみの輝くばかりの素晴らしさをおいて他ない。

長澤まさみは1987年6月3日生まれ。12歳の時、第5回東宝シンデレラグランプリ受賞。2000年、13歳で「クロスファイア」に出演し映画デビューを果たした。僕はこれを映画館で観たが、まさみのその時の印象はちょっと可愛い女の子くらいのものでしかなかった。その後彼女が出演した「なごり雪」「黄泉がえり」「ロボコン」「阿修羅のごとく」等を観ながら彼女が女優として育っていくのを見守ってきたのだが、そこへこの「世界の中心で愛をさけぶ」の大爆発である!いや〜恐れ入りました。凄い。これは「長澤まさみの、まさみによる、まさみのための映画」だね(断定)。彼女のウエディングドレス姿を見ながら「いつの間に成長して、こんなに奇麗になったんだ…」と娘を嫁にやる父親の心境になったね、いや、本当。白血病が発病し抗ガン剤の副作用で髪の毛が抜け落ちる場面は、彼女自ら志願してスキンヘッドにしたのだが、キネマ旬報のインタビューによると髪を剃る日、まさみは行定勲監督に、一緒に付いていて欲しいと懇願したそうだ。行定監督は鋏が入れられるごとに俯いていく彼女を見つめながら胸が張り裂けそうになり「よし、俺も剃そろう!」と決心したそうだ(結局周囲への影響を考えて思い留まったらしいが)。いやはや、その監督の気持ち、よく理解できる。知らぬ間にまさみはそんな風に男を狂わす女になっていたのだ。映画の無菌室の場面でスキンヘッドになったまさみが頭を撫でながら照れ笑いして、「エヘヘ、こんな頭になっちゃった。」とあの舌っ足らずの台詞回しで言う場面があるのだが、いやぁ、まさみにあんなこといわれた日にゃあ、あなた、白血病でなくても鼻血が思わずドビュ〜っと出ちゃいますがな!彼女の映画女優としての凛とした覚悟をここに見た。恐れ入りました、降参です。

撮影:篠田昇、照明:中村裕樹のコンビが映画屋の気骨を見せた素晴らしい職人技を発揮している。現代の場面は青を基調とした寒々とした画面で、これが過去になるとオレンジなど暖色系主体にいつも夕日が差しているかのような色彩を醸し出しているのである。体育館でまさみがピアノを弾く場面、彼女の白い制服に窓を流れる雨の影が映って、それはもう夢の中にいるような美しさだった。

最近の東宝映画はその大半がHDビデオカメラで撮影したものを、フィルムに変換しているのだが(その方が経費が安く済むのである)、行定監督とそのスタッフは今回あくまでフィルムで撮影することにこだわった。しかもシネマスコープ・サイズである。この熱意、映画への愛が作品をより豊饒にしている。スタッフのがんばりにも心から拍手を送りたい。

実は行定勲さんは「Love Letter」「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」「スワロウテイル」「四月物語」など一連の岩井俊二監督の映画で助監督をしていた。篠田昇や中村裕樹はその岩井組のスタッフである。今回行定さんはこの仕事を引き受け「Love Letter」のような恋愛映画を撮ることで、師匠へ挑戦状を突きつけたかったのではなかろうかという気が僕にはして仕方ない。

え?柴咲コウはどうだったかって?そんな名前の女優、出てたっけ?



2004年05月20日(木) ハリウッド版「Shall we ダンス?」登場!

日本で公開された年のキネマ旬報ベストワンなど映画賞を総なめにした原案・脚本・監督:周防正行の「Shall we ダンス?」がハリウッドで映画化された。役所広司が演じた主人公はリチャード・ギア、その妻にスーザン・サランドン、ダンス教室の先生役をジェニファー・ロペスが演じ、「ジッリ」でゴールデン・ラズベリー賞の最低主演女優賞、最低カップル賞など独占し、さらには結婚寸前だった恋人のベン・アフレックとの破局にまで追い込まれた汚名返上を謀る。

その予告編はここから観ることが出来る。

予告編を観て驚いたのはこのリメイク版、状況設定から物語の展開まで実にオリジナルに忠実に創られているということである。竹中直人が演じたハゲでヅラのラテン系ダンサーも、あのキャラクターそのままに登場するのである。オリジナルへの敬意が感じられてとても嬉しかった。

リメイク版を制作したミラマックスが監督として白羽の矢をたてたのはピーター・チェルソム。実はこの人、知る人ぞ知る隠れた名作「ヒア・マイ・ソング」の監督なのである。このアイルランドを舞台にしたイギリス映画、実に清々しく心温まる作品で、最後は心地良い涙が自然と流れる。詳しくは今は亡き淀川長治さんの名調子でどうぞ。だからハリウッド版「Shall We Dance?」も非常に愉しみなのである。

リメイクといえば「仄暗い水の底から」のハリウッド版「Dark Water」の撮影もそろそろ終わっている頃だ。オリジナルで黒木瞳が演じた母親役に抜擢されたのは「ビューティフル・マインド」でアカデミー助演女優賞に輝いたジェニファー・コネリー。監督はヴァルテル・サレス。彼はブラジル映画の大傑作「セントラル・ステーション」を撮った人だけにこちらも期待できそうである。



2004年05月18日(火) 独逸映画二題

「飛ぶ教室」評価:C-
原作は「エーミールと探偵たち」「点子ちゃんとアントン」「二人のロッテ」など独逸児童文学の巨匠エーリヒ・ケストナー が書いた小説である。「飛ぶ教室」は1933年に出版され、この年ヒトラーがドイツ国家元首に就任し、この小説はナチスにより出版禁止、焚書の対象となった。ケストナーは二度逮捕され執筆も禁じられるが、それでもナチスの弾圧に屈することなく多くの小説家や詩人などの芸術家たちが祖国を捨てて国外へと避難する中、彼はドイツに留まった。以後1945年まで彼の小説はスイスで刊行された。作品だけが亡命したのである。

さて映画版の方は舞台を現代に置き換えている。映画の製作者たちの意図も理解できないではないが、残念ながらこの翻案が明らかに失敗している。とにかく様々なエピソードが有機的に繋がらない。ケストナーがこの物語に込めた想いが伝わってこない。少年たちが寄宿学校の少年合唱団に所属しているという設定からして全く生かされていない。クリスマスで上演されるミュージカル風劇中劇「飛ぶ教室」のコンセプトも意味不明だし、このラップ・ミュージックがとにかくダサイ。現代独逸における、映画音楽作曲家のレベルの低さが露呈して悲惨としか言いようがない。日本映画における音楽水準の方が段違いに格上である。合唱団の少年がラップをしたがるのも妙な話だ。オーソドックスな音楽劇で良いではないか。現代風を無理に装おうとするから駄目なんだよ。

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「グッバイ、レーニン!」評価:B
今年の米アカデミー外国映画賞部門で何が驚いたって独逸代表のこの映画がノミネートされなかったことである。受賞した加奈陀映画「みなさん、さようなら」(筆者の評価はC)を先日観たが、あんな凡庸な安楽死肯定映画よりもこちらの方が遙かに良い。

息子の母を想う気持ちが素直に出ていて好感度大である。レーニン像がヘリコプターで運ばれる場面はフェリーニの「甘い生活」でヘリコプターがキリスト像を吊り下げているあの有名な映像を彷彿とさせた。それからこの映画の主人公は子供の頃から宇宙飛行士に憧れていて、それが最後に見事な複線にもなっているのだが、これを観ながら「ギルバート・グレイプ」のラッセ・ハルストレム監督がスエーデン時代に撮った名作「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」(アカデミー外国語映画賞受賞)を懐かしく想い出した。あの映画で満天の星空を見上げながら主人公である12歳の少年イングマル君はこう呟くんだよね。“人口衛星スプートニクに乗せられ、宇宙に送られて死んだライカ犬のことを思えば、僕の人生の方がまだ幸せだ。”

「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」を連想したのは僕だけじゃなくってこちらサイトにも同様の感想が書かれていたので、なんだか溜飲が下がった。



2004年05月15日(土) 逃した魚は大きかった・・・

ティム・バートン監督「ビッグ・フィッシュ」の評価はA-である。

これだけ優れた映画なのに米アカデミー賞では無視され、ダニー・エルフマンが作曲賞にノミネートされただけというのはどう考えても解せない。不当な評価である。受賞は無理としても少なくとも作品賞と監督賞にはノミネートされる価値のある映画ではなかろうか?凡庸なメロドラマ「コールド・マウンテン」よりもこちらの方がよっぽど良いんだけどなぁ。

まあ実を申せば物語の前半は多少もたつく感はある。大体ティム・バートンに親子の情愛とかヒューマンな物語は似合わない。オスカーを意識した文芸作仕掛けがむしろ映画を窮屈にしている印象を受ける。しかし、怒濤のラストは彼らしいファンタジックな展開となり、想わず涙腺がゆるんだ。それから何と言っても一面に咲き誇る水仙の花畑の場面がとても奇麗で印象的だった。

バートンがディズニーに雇われていたアニメーター時代の処女作、怪奇映画の名優ヴィンセント・プライスへ熱きオマージュを捧げた「ヴィンセント」やフランケンシュタインの怪物への恋文「フランケンウィニー」(これら二作品は「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」コレクターズ・エディションDVDに収録されている)の時代から最近の壮大なる失敗作「猿の惑星」まで、一貫してテーマにしてきたのは異形の者たちへの尽きることのない愛情である。そしてそれは「ビッグ・フィッシュ」にもぴったりと当てはまる。魔女・巨人・サーカス団・シャム双生児などバートン好みの登場人物たちが沢山登場してきて映画を豊饒にしている。

ダニー・エルフマンの音楽は見事に映画に寄り添ってはいるがいささか地味だなぁ。彼は「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」のような凄い名曲が書ける人なんだからもう一頑張りして欲しかった。しかし、彼のような才能のある作曲家が未だにオスカーを獲れないことが悔しくてならない。別人が作曲した主題歌がエンドロールで唐突に流れ出すのには違和感を感じた。エルフマンが書けばいいのに。スタジオの要請なのだろうか。



2004年05月12日(水) ロックンロールは学校で学べるのか?

「スクール・オブ・ロック」の評価は秀逸なB級映画という意味を込めてB+である。

はっきり言ってこの映画の設定は無茶苦茶である。幼少の大切な時期に勉強そっちのけでロックのことばかり教える学校教師が現実にいたとしたらはた迷惑なことこの上ない。それにこれは劇中主人公の台詞にもあるのだがロックンロール魂とは<親や教師、突き詰めれば体制への反抗>であり、その反骨精神こそがロックの真髄である。だからロックは学校で教える音楽とは本来対極の位置にあるべきものである。故に学校の生徒にロックを教えるという行為自体、明らかに自己矛盾を孕んでいるのである。

しかしながらこの映画の監督のリチャード・リンクレイターや自らロック・バンドを結成し音楽活動を続けている主演のジャック・ブラック、そして最初からブラックを念頭に脚本を執筆し、かつ主人公の友人役で出演したマイク・ホワイトら、この映画の製作チームは端からそんなことは承知の上。彼らはしたたかな確信犯である。この矛盾だらけで突っ込みどころ満載のB級映画がそれでも観客を興奮させ、感動させずには置かないのはこの作品に込められた作り手達のロックへの敬意、無償の愛ーその熱い想い故であろう。これは「ジーザス・クライスト・スーパースター」「ヘアー」「トミー」「ファントム・オブ・パラダイス」「ヘドウィッグ・アンド・アングリーインチ」などに続くロック・オペラ映画の佳作である。

舞台のロック・オペラ「レント」とディズニー版ミュージカル「アイーダ」のオリジナル・キャスト、アダム・パスカルが出演し、オープニングとクライマックスのバンド・バトルでその美声を披露してくれるのも嬉しい。この映画の主人公が家賃=RENTを払えなくて居候させてもらっている友人と言い合いになる場面があるのは決して偶然ではないだろう。

ちなみにピューリツァー賞やトニー賞で作品賞・楽曲賞などを受賞した「レント」はミラマックスが舞台初演当初の1996年から映画化権を所有していたが、なかなか企画が具体化せず(一時は「シカゴ」のロブ・マーシャルにオファーがいったが素気無く断られた)、結局つい最近ワーナー・ブラザースがミラマックスから権利を買い取った。ワーナーは「ホーム・アローン」や「ハリー・ポッター」シリーズを撮ったクリス・コロンバスに脚色・監督をオファーしたらしい。全然イメージに合わないけどなぁ・・・



2004年05月08日(土) 此奴は凄い!韓国の黒澤明、現る。

嘗ての日本の黒澤明や印度のサダジット・レイ、あるいは台湾の侯孝賢(ホウ・シャオシェン)、中国の張藝謀(チャン・イーモウ)、香港(今は中国領だが)の王家衛(ウォン・カーワイ)、イランのアッバス・キアロスタミなどそれぞれの国にはその国家を代表する監督たちがいる。そして遂に韓国からもその人々に加わるべき極めつけの才能が出現した。ポン・ジュノその人である。いゃぁ恐れ入りました。この監督は非凡な映像センスと確乎たるスタイルを持っている。こういったものは技術とか経験を積むことでは決して獲得できない天賦の資質である。以下、彼の二作品について語ろう。

「ほえる犬は噛まない」評価B+:ポン・ジュノの監督デビュー作である。撮影当時30歳というのが信じられないくらい成熟した才気が既に萌芽している。まるでスタンリー・キューブリック先生の「博士の異常な愛情/または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」(1964)とかフランク・キャプラ監督の「毒薬と老嬢」(1944)を彷彿とさせるような秀逸なブラック・コメディである。犬を食べることを偏愛するマンションの警備員のおっさんが、スウィーニー・トッドみたいで笑えた。原題が「フランダースの犬」(アニメの主題歌もそのまま引用)というのがまた人を喰っていて素晴らしい。韓国では興行的に失敗したそうだが2000年の東京国際映画祭ではバカ受け。「ラブストーリー」など陳腐なメロドラマが未だに主流の韓国では30年早すぎた秀作なのではなかろうか(「世界の中心で、愛をさけぶ」が250万部を超える大ベスト・セラーになっている日本も明らかな退行現象が看られるのだが…)。化粧をすれば凄い美人のぺ・ドゥナがすっぴんで好演。特に彼女がここぞという場面でまるで<もじもじ君>みたいに黄色いパーカーのフードの紐をキュッと締める仕草が超キュート。惚れたぜ。今月発売されたばかりのDVDの特典映像ではヒロインのその姿の似顔絵をポン・ジュノ監督が色紙に描いている場面が登場するのだがこのイラストがめちゃくちゃ巧いんだ。絵心があるんだよね。各場面も絵コンテを描いて撮影しているみたいなので、だからこそあれだけ構図がかっちりした見事な映像が撮れるのだろう。

「殺人の追憶」評価AA:打ちのめされた。これは断言するが十年に一本お目に掛かるかどうかの大傑作である。まず映画は秋の黄金色に染まる田園風景から始まる。そしてカメラが上方にチルト(首振り)されるとくっきりとした青空が広がる。この冒頭部の映像の美しさにまず魅了され、映画に引き込まれる。すると突如として画面が陰鬱な色調に転換し、光と陰が交差するモノトーンな世界へと突入する。クライマックスのトンネルの場面でキャロル・リード監督の白黒映画の名作「第三の男」(1949)を想い出したのは決して偶然ではないだろう。そしてエピローグでは再び秋が巡ってきて冒頭と同様の風景に回帰する。しかしその同じ風景が主人公に語りかけるものは冒頭のそれとは全く異なっている。この計算し尽くされた映像設計に舌を巻かずにはいられない。途轍もない才能である。実は映画を観る前は「未解決の連続強姦殺人事件を素材に描いても中途半端な結末にならざるを得ないし、面白い筈がない。」と高を括っていたのだが、とんでもない間違いだった。暴力を行使しても自白を強要する田舎刑事と都会から派遣され、証拠に基ずく科学的な捜査を標榜する刑事の対立を軸に映画の前半は展開されるのだが、事態が進行するに従って両者の立場が逆転するという練りに練られたシナリオも素晴らしい。これは必見。


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]