エンターテイメント日誌

2003年06月28日(土) 忘れ得ぬ幻想映画(+落ち穂拾い)後編

まず最近観た映画の落ち穂拾いから。

「過去のない男」・・・カンヌ映画祭グランプリ受賞作である。映画祭で授賞する作品で真の名作は少ないと語ったのは、映画評論家の故・荻昌弘さんだが、この映画はその典型だろう。テンポが遅くて詰まらない。コメディ風でも笑えない。芸術作品を気取っていても心に残らない。フィンランド映画でありながらアメリカのロックを賛美し、そのくせこの監督はイラン攻撃に抗議してアカデミー賞授賞式出席を拒んだのだから笑止である。”アキ・カウリスマキが見終わった後、未来に希望が持てる余韻を残す映画を撮ったから素晴らしい”って?・・・アハハハ、勝手にほざいていなさい。まぁ結局、この作品に外国語映画賞を与えなかったのだから、アカデミー会員の方がカンヌの審査員より確かな審美眼を持っていたということだろう(授賞式欠席が落選の理由ではない。だって宮崎駿さんだって欠席したけど授賞したのだから)。駄作。

さて、本題に移る。

究極の幻想映画について語る時、「ジェニーの肖像」と並んで決して忘れてはならないのが「ある日どこかで」Somewhere In Time(1980)である。これは数あるタイム・スリップものの中で最も浪漫的な最高傑作である。

日本ではこの映画は人知れずひっそりと公開され、2週間で上映は終了してしまった。しかしその後口コミでその素晴らしさが映画を愛する人々の間で広まり、現在ではカルト的人気を誇るまでに至った。本作を愛する熱狂的ファンは既に国際的ネットワークを形成し、日本支部の<公式>ホームページ(←クリック)まで存在するに至っている。で、皆さんには本家本元のアメリカの公式サイトを是非ご覧頂きたいのだが、もうTシャツとかマグカップ、マウスパッドなど沢山のグッズまで売っているのだから笑ってしまった。しかしこの懐中時計はちょっと欲しいぞ(笑)。映画をご覧頂けば分かるが、これはファン心理をくすぐる魅惑の商品である。また本編にも登場した小道具、グランドホテルのオルゴールにも心を揺さぶられるものがある。屋根の蓋を開けると、あのラフマニノフのラプソディー(狂詩曲)の旋律が流れてくるんだよねぇ。

この名作はたとえば大林宣彦監督に愛され、「さびしんぼう」ではオルゴールのアイディアが流用されている。大林監督がテレビ用に撮った「麗猫伝説」でも「ある日どこかで」とそっくりの場面が登場する。また「時をかける少女」の音楽が「ある日どこかで」のジョン・バリーの曲(もう最高!)に余りにもそっくりなことは有名である。「時をかける少女」で音楽を担当した松任谷正隆(ユーミンの旦那)さんは音楽参考試写として大林監督から「ある日どこかで」を観るよう指示されたそうである。

やはり映画化された「奇跡の輝き」も書いたリチャード・マシスンの原作小説はなかなか日本では翻訳されず、ようやく昨年になってファン長年の念願が叶い、創元推理文庫より出版された。この巻末が熱い。訳者あとがきで翻訳を担当した尾之上浩司さんは、かつて「『ある日どこかで』のような作品を翻訳するのが夢です。」と言ってこの仕事を始めたのだと語り、解説を書いた瀬名秀明(『パラサイト・イヴ』の著者)さんは「これは奇跡の作品である。」と断言する。この解説がまた素晴らしい。原作から映画化への過程が詳細に述べられており、瀬名さんご自身で撮られた、小説の舞台となったホテル(映画のロケ地とは異なる)の写真まで掲載されている。映画と合わせて一読されることをお勧めしたい。この解説で初めて「ある日どこかで」のヒロインにモデルがいて20世紀初頭に活躍したモード・アダムスという女優であることを知った。ここで彼女の写真を沢山見ることが出来る。

「ある日どこかで」のあらすじは敢えて省略したい。各自、映画や小説を通してこの奇跡の作品に新鮮な出逢いをして頂きたいと切に願うからである。真の傑作に言葉はいらない。ただ、一言語らせて頂くならば、僕が大好きな場面は映画の冒頭、主人公が老婆に突然"Come back to me."と語りかけられ懐中時計を渡されるところ、主人公がヒロインの肖像画と出会い心を奪われる場面(照明光が美しい!)、ふたりがホテルの庭の階段でお互いに気づき、駆けよって包容しあう場面などである(言葉はいらないといいながら語り過ぎ??)

映画で主人公を演じた「スーパーマン」こと、クリストファー・リーブは後に馬術競技会で落馬して頚椎損傷の重傷を負い、半身不随となった。つい先日のトニー賞授章式でその元気な姿を見せてくれ大変嬉しかったのだが、彼は役者として「ある日どこかで」みたいな、公開されて20年以上経た今でもこれだけ多くの人々から愛される映画に出演しただけでも幸せだと僕は信じて疑わない。20周年記念版のDVDが北米では発売されているのだが、日本では未だにDVD化されていないというのが残念でならない。一日も早い実現を願う。未見という不幸な方がもしいらっしゃるのならば、比較的多くのレンタル店でこのビデオが置いてあると想うのでとりあえずそれで急場を凌いで下さい。

最後に余談であるが、「ある日どこかで」がお好きな方にお薦めしたい小説がケン・グリムウッドの「リプレイ」である。この小説にはルーカスやスピルバーグの名前も登場し、すこぶるスリリングである。これ、映画化したら面白い作品になるだろうになぁ。



2003年06月21日(土) 究極の幻想映画(+落ち穂拾い)前編

まず最近観た映画の落ち穂拾いから。

「エルミタージュ幻想」…アルフレッド・ヒッチコックは映画全編をワン・カットで撮りたいという夢を抱いて、映画「ロープ」を製作した。しかし、撮影フィルムは一巻が10分しかないので、その繋ぎ目では例えば人物が横切るなどして、瞬間的に画面が真っ暗になったカットで編集するという方式をとらざるを得なかった。結局出来上がった作品はテンポが緩く、ヒッチ特有の切れ味に欠け、本人自身も失敗作だと認めている。時代は移り映画をハイビジョンカメラで撮るようになって、このような問題は解決した。そしてこの全編ワンカットという暴挙に再び挑んだのが露西亜のアレクサンドル・ソクーロフである。まあ、その志は潔しとしよう。クライマックスの人海戦術を駆使した舞踏会の場面は確かに圧巻である。しかし、なにしろ展開がかったるい。面白みに欠ける。やはり映画の魅力はモンタージュ、そのカットとカットのせめぎ合いにこそ潜んでいるのだということを再確認した。

さて、本題に移る。

最近では「ハリー・ポッター」や「ロード・オブ・ザ・リング」などファンタジーが花盛りである。映画のみならず本も売れまくり、例えば日本ミステリイ界の女王、宮部みゆきも小説「ブレイブ・ストーリー」でファンタジーに挑んでいる。しかし、僕にとっての幻想映画とはこのような魔法使いが登場する作品ではなく、むしろ失われてゆく<時>を主題としたものに強く心を揺さぶられるのである。「時をかける少女」「さびしんぼう」「はるか、ノスタルジイ」など大林宣彦監督作品を偏愛するのもそのせいなのだろう。そのような作品群の中で<究極>の2本のハリウッド映画を紹介したい。まず今回は「ジェニーの肖像」(1948年)である。

原作はロバート・ネイサンの著名な幻想小説である。ここ(←クリック!)に掲載されているネイサンの小説の表紙を眺めているだけで愉しい気持ちになる。しかし、もうその殆どが絶版になっているのがとても残念だ。ネイサンはもはや世間から忘れかけられている作家なのかも知れない。

「ジェニーの肖像」はある日主人公の画家が出会った幼い少女が、出会うたびに時を超えて成長していくという浪漫的な物語である。この小説が後の作家達に与えた影響はとても大きく、僕の知っているだけでもジェニーが影を色濃く落としている日本の小説は浅田次郎の「鉄道員」、山田太一の「飛ぶ夢をしばらく見ない」(このふたつは映画化されている)、恩田陸の「ライオンハート」等がある。「飛ぶ夢をしばらく見ない」の場合は主人公が出会った老婆が逢う毎にどんどん若くなっていき、最後には幼女にまで遡るという<逆パターン>である。ちゃんと小説中に「ジェニーの肖像」への言及もある。恩田陸の場合はこちらで正々堂々と「ライオンハート」は「ジェニーの肖像」へのオマージュであると、熱い想いを語っている。また漫画に目を向けるとこちらのサイトによれば、水野英子の「セシリア」、石ノ森章太郎の「昨日はもうこない、だが明日もまた…」、池田理代子の「水色の少女」などが「ジェニーの肖像」に触発された作品だという。

僕は勿論、原作小説も読んだのだが、映画の完成度は明らかに小説を超えていると信じて疑わない。まず脚色が素晴らしい。原作では大きな役割を与えられていない画商の女性が、映画では非常に謎めいて陰影に富む存在となっている。また、この映画は公開時にアカデミー賞で特殊効果賞を授賞しているのだが、非常に凝った絵画的で美しい映像が心に深く残像を刻む。さらに、亜麻色の髪の乙女・牧神の午後への前奏曲・アラベスクなど、ドビッシーの名曲を編曲して取り込んだディミトリー・ティオムキンの音楽が印象的。

この映画を製作したデヴィッド・O・セルズニックは「風と共に去りぬ」のプロデューサーとして余りにも有名だが、この映画は彼の妻で女優、ジェニファー・ジョーンズのために企画された。そのセルズニックの愛が全編に溢れ、ジョーンズもその期待に応え神々しいまでに美しい(実は本来余り僕の好みの女優さんではないのだが、これは別格だ)。もう本作に出演したというだけで女優冥利に尽きるだろう。そして、そういう想いこそがこの映画を一層輝かせているのだろう。

僕はこれを従来BSでの放送やレンタルビデオで愉しんできたので徹頭徹尾、白黒映画だと今まで信じてきた。だからつい最近DVDを購入して驚愕した。映画のクライマックスで次第に画面が色付きはじめたのである。そして最後の最後でフル・カラーになった瞬間、滂沱の涙が流れて止まらなかった。オリジナルはこんな演出だったのだ!もうその鮮やかさに茫然自失してしまった。必見。



2003年06月14日(土) Lose Eminemself(ルーズ・エミネムセルフ)

今年のアカデミー賞でなにが一番驚いたって、何といってもエミネムが唄った映画「8 Mile」の主題歌Lose Yourselfがオリジナル歌曲賞を授賞したことだ。アカデミー会員は非常に保守的なことで知られているし、ラップがオスカーを受賞するのは史上初である。結局エミネムは授賞式でパフォーマンスをしなかったし、これはひとつの事件と呼んでも良い出来事だった。

Lose Yourselfのプロモーション・ビデオはこちら(←クリック!)で全曲視聴出来る。

正直に告白すると僕は当初、この曲の良さが理解出来なかった。しかし、実際にエミネムの半自伝的映画「8 Mile」を観終えた今、成る程これぞ真に<主題歌>と呼ぶに相応しい心に残る曲だと納得した。Lose Yourselfの歌詞には映画の内容が濃縮され詰まっている。エンド・クレジットに流れるこの曲に向かって、ひたすら映画そのものが疾走すると表現しても大げさではないだろう。「8 Mile」はそういう意味で、見事に音楽映画であった。劇中の会話までもがラップのリズムを刻んでいる。

Lose Yourselfが映画の最後に流れ出すと、直ぐに席を立って帰る観客が半数近くいたのだが、一体全体何のためにこの映画を観にきたのか問い質したくなった(笑)。この曲こそが映画のcore(核)でありsoul(魂)なのに。

「8 Mile」は今まで見たこともない世界を垣間見させてくれるという意味で非常にユニークである。白人が黒人から差別される世界を描いたという点でも他に例を見ないし、ラップ・バトルという過酷な競技も非常に新鮮だった。

手持ちカメラによるドキュメンタリー・タッチの映像、切れの良い編集などカーティス・ハンソン監督の演出も冴え、ラップという音楽の生理に映画が的確に寄り添い、息づいていた。

しかしこの映画の白眉はなんといってもキム・ベイシンガーだろう。男にだらしなくて、どうしようもなく駄目な母親を、痛快なまでに見事に演じ切っている。彼女がオスカーを受賞した同じくカーティス・ハンソン監督作「L.A.コンフィデンシャル」の娼婦役よりもはるかに良かった。彼女の監督に対する信頼と、友情が観ているこちらにもひしひしと伝わり、そこに男気を感じた。その美しい肢体も衰えることなく、撮影当時49歳とは到底信じられない!まあ、成人した息子がいるようには見えないというのが欠点といえば欠点か。ちなみに実生活において、エミネムの母親は自分を侮辱したとして、息子に対し1000万ドルの訴訟を起こしたそうだ。

それにしても「8 Mile」においてデトロイトは落ちぶれて閉塞した希望も何もない街として描かれ、主人公がなんとかそこから脱出しようともがく姿が描かれる訳だが、実際にデトロイトに住む人やその出身者にとって、この映画は辛いだろうなぁ。



2003年06月07日(土) マトリックスとエヴァンゲリオン

これは、前回の日誌からの続きである。

前回、いかにマトリックスという映画が、神話や聖書からの引用に溢れているかについて解き明かした。それで想い出す作品が「新世紀エヴァンゲリオン」である。あの一大ブームを巻き起こしたアニメーションは旧約聖書との密接な繋がりがある。そのあたりのことはこちらに詳しく解説されている(←クリック)のでご参考あれ。そう、マトリックスは実はエヴァンゲリオンだったのだ。

考えてみればマトリックスの作品世界では人間の大半がコンピューターの制御下におかれ、羊水みたいな液体中に培養されている。これはエヴァンゲリオンにおけるLCLという液体に満たされた操縦席のカプセルを彷彿とさせるではないか。エヴァが放送されたのが1995年、マトリックスが公開されたのが1999年だからウォシャウスキー兄弟がエヴァの影響を受けていると仮定しても決しておかしくはないのである。ちなみにエヴァのTVシリーズおよび劇場版は既に北米でDVDも発売されている。

ウォシャウスキー兄弟は実は漫画とジャパニメーションおたくである。大体彼らがマトリックスの企画を売り込む時に押井守監督のアニメーション「攻殻機動隊」を引き合いに出したというのは余りにも有名な話である。この両者の切っても切れない関係は例えば検索エンジンGoogleで「マトリックス」「攻殻機動隊」「押井守」などのキーワードで掛ければ無数にヒットするので、嘘だと想うのなら試されたら良いだろう。

だからウォシャウスキー兄弟がマトリックスの第一作とリローデッドの間を繋ぐ物語として短編アニメーションのオムニバス作品「アニマトリックス」を製作し、しかも9本の作品中、実に7本が日本人のアニメーターに委ねられたというのは当然の帰結なのである。

さて、今年のカンヌ映画祭において「新世紀エヴァンゲリオン」がハリウッドで実写映画化されると発表された。記事はこちら。製作は日本のガイナックスと日本製アニメの海外配給を多数手がけてきたアメリカのADV Films。VFXを「ロード・オブ・ザ・リング」の第一部と二部で二度オスカーを獲得したニュージーランドのWETAワークショップが担当する。是非この監督にウォシャウスキー兄弟をと願うのは僕だけではないだろう。まあ、ハリウッド版「ドラゴンボール」の監督でも良いのだけれど(笑)。


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