頑張る40代!plus

2002年08月31日(土) しろげしんたが選ぶ洋楽ベスト20(15位〜12位)

この洋楽ベスト20を選曲するに当たって、手持ちのCDを聴きなおしてみた。
どちらかというと、ぼくは洋楽よりも、邦楽のCDのほうを多く持っている。
邦楽は、好きなアーティストのアルバムを全部集めるからだ。
逆に、嫌いなアーティストは、いかにいい歌があろうとも、買う気がしない。
一方、洋楽の場合はそういうことがない。
アーティストよりも、その歌のほうに興味があるからだ。
だから、邦楽のように「あの歌手は好かんけ、聴かんわい」ということがない。
興味の赴くままに、CDを買い揃えていく。
しかし洋楽は、誰が歌っているのか、また曲名すらわからないものが多くある。
そういうわけで、自分の知識だけで買うので、その量も当然少なくなっている。
このベスト20も、自分の知識だけで選んだものである。
当然、選曲に偏りがあるのは否めない。

第15位
『オールド・デキシー・ダウン』ザ・バンド
むかし、何かのドラマでこの歌がかかっていた。
その時、ぼくは「何か聴いたことがあるなあ」と思いながら聴いていた。
それもそのはず、ぼくはこの歌の入ったアルバムを持っていたのだ。
ただ、そのアルバムは、このザ・バンドのものではなく、ボブ・ディランの『偉大なる復活』というアルバムだった。
このアルバムの構成は、ディラン→バンド→ディランというふうになっており、ぼくはこのアルバムを聴く時は、いつもバンドの部分を飛ばして聴いていた。
極端に言えば、ザ・バンドなんてどうでもよかったのだ。
しかし、先に書いたドラマを見て、これはいい歌だと思った。
さっそくバンドのアルバムを買い求めた。
その時期は、ちょうど『ラスト・ワルツ』というアルバムが出た頃だった。

第14位
『アローン・アゲイン』ギルバート・オサリバン
自分でもびっくりしているが、「え、この曲が14位?」という感じである。
とりあえず好きな曲を羅列していって、好きな歌の順に並べていった。
その結果が14位である。
この歌以上に、好きな歌が13曲もある、ということである。
この曲に関する思い出は、以前書いたことがあるので省くことにする。
明日から9月、いよいよ秋になる。
秋はこの歌が似合う季節でもある。

第13位
『Desperado』イーグルス
オリジナルのイーグルスの歌を聴いたのは、5,6年前のことである。
友人がイーグルスのCDを持っていたので、MDに録音してもらった。
その中にこの曲が入っていた。
けだるい曲ではあるが、何か魂が揺すぶられるような感銘を受けた。
この歌は、カーペンターズも歌っているが、なんとなく趣きが違う。
このけだるさは男性の声のほうが、よりいい。
なぜなら、イーグルスのほうが、より「ならず者」臭いからだ。
ちなみに、イーグルスといえば、何といっても『ホテル・カリフォルニア』だが、ぼくはこの歌はあまり好きではない。
というより、いい思い出を持ってないといったほうがいいだろう。
聞いた時代がよくなかった。
その頃ぼくは浪人中で、いろいろ嫌な思いをしていたのだ。

第12位
『ジェラス・ガイ』ジョン・レノン
この曲はアルバム『イマジン』に入っているが、アルバムタイトルにもなっている『イマジン』はあまり好きではない。
もちろん、世間一般では『イマジン』のほうが有名である。
しかし、ぼくはどうも好きになれないのだ。
このアルバムを聴いたのは、このアルバムが発売してから4年後、高校3年の頃である。
それまであまりジョン・レノンには興味がなかった。
ある時、友人がこのアルバムを録音してきてくれた。
「ジョンに興味ないやろうけど、このアルバムはいいけ、聴いてみて」
テープをもらってから、すぐに聴いたわけではなかった。
聴いたのは数日後だった。
重苦しいピアノで始まる『イマジン』から、「こいつアホか」と思った『オー・ヨーコ』まで一気に聴いた。
その中で一番気に入った曲が、この『ジェラス・ガイ』だったわけだ。
「何で、イマジンのほうが名曲と言われるんだろう」という思いにかられたものだった。
この歌を一度聴いて、もう一度聴いて、さらに聴いて、と何度も聴いていくうちに、だんだんこの歌が好きになっていった。
そうなると、テープでしか持ってないのが気に入らない。
さっそくレコードを買い求めた。
家に帰ってから、レコードを開けてみると、一枚の写真が入っていた。
それを見て笑ってしまった。
ぼくは、ポール・マッカートニーの『RAM』のジャケットを知っていたからだ。
それ以来、このいたずら好きのおっさんが好きになった。
さて、歌のほうだが、ぼくは今でもこの歌を、ビートルズ時代を含めたジョンの作品の中で、最高の歌だと思っている。
こんなに素直に心情を語っている歌は他にないだろう。
しかし、その対象がオノ・ヨーコというのもねえ。

おお、もうこんなに書いてしまった。
今日は11位まで書こうと思ったのだが、しかたない、今日はここまでで打ち止めにしておこう。



2002年08月30日(金) しろげしんたが選ぶ洋楽ベスト20(20位〜16位)

やっと、この企画を始める気になった。
というより、今日は他のネタを考えつかなかったのだ。
まあ、しばらくこの企画にお付き合い下さい。

第20位
『テネシー・ワルツ』パティ・ペイジ
ぼくは物心ついたときから、この曲をハーモニカで吹いていた。
聴いて覚えたというより、体で覚えた一曲である。
しかし、そうは言いうものの、パティ・ペイジを聴いたのは、ずっと後のことだった。
オールデイズのアルバムを買った時に、この歌も入っていたのだ。
それについての印象は、何もない。

第19位
『春がいっぱい』シャドウズ
高校の頃、春になると、ラジオ等で必ずかかっていた曲だった。
最近はあまり聞くことがなくなったが、こういう名曲はどんどんかけてもらいたいものである。
しかしこの曲、『春がいっぱい』というタイトルなのだが、どういうわけか、ぼくの持っているこの曲のイメージは、曇天なのだ。
ちょうど曇った日に、由布院の街並みを歩くようなイメージなのである。
なぜそういうイメージを持っているのかはわからないが。

第18位
『歌にたくして』ジム・クロウチ
高校生の頃、FM放送を聴いている時に、ちょっと印象に残る歌がかかっていた。
アンディ・ウィリアムスの歌う『歌にたくして』だった。
その時DJがこの歌の説明をしていたのだが、ジム・クロウチという聞いたことのない名前の人がオリジナルを歌っているということだった。
その人は、1973年に飛行機事故で死亡したということも、その時に聞いた。
さっそくぼくはレコード店に行って、『美しすぎる遺作』というアルバムを買い求めた。
アンディ・ウィリアムスのように、抜けるような声ではなく、鼻にかかった粘りのある声だった。
その声が、この歌に実にマッチしている。
アコースティックギターで始まるイントロが、すんなりと入ってくる。
これがまたいい。

第17位
『煙が目にしみる』ザ・プラターズ
この曲は、スタンダードナンバーのアルバムで知った曲である。
インストルメントばかりで聴いていたので、プラターズ版を聴いた時には、ちょっとした驚きがあった。
初めてプラターズ版を聴いたのは、映画『オールウエイズ』を見た時だった。
『ゴースト』の元になったような映画の中に、頻繁にこの歌が流れていた。
「え、この曲、歌詞があったんか」と思い、映画はそっちのけで、歌ばかり聴いていたのを覚えている。

第16位
『スタンド・バイ・ミー』ベン・E・キング
この歌もオリジナルを聴いたのは、ずっと後のことである。
初めて耳にしたのは、ジョン・レノンが歌ったものだった。
『ロックン・ロール』というアルバムが発売された頃、ラジオではこの曲と『ビー・バップ・ルーラ』がよくかかっていた。
「ぜひオリジナルを聴いてみたいものだ」と思っていたが、なかなかその望みは叶えられなかった。
当時のラジオ番組は洋楽全盛であったにもかかわらず、新曲を競ってかけていたので、オールデイズなどの特集を組んでいるような番組はなかった。
レコードも探してみたのだが、どこを探しても、ベン・E・キングという歌手のレコードは置いてなかった。
レコードの時代が終わり、CDの時代が到来しても、しばらくベン・E・キングなる人の『スタンド・バイ・ミー』はCD化されなかった。
ようやくCD化されたのが、例の映画『スタンド・バイ・ミー』のサントラ盤であった。
「ああ、こんな感じの歌だったのか」と何度も聴いているうちに、好きになっていった。
この歌の歌詞は、実に単純なものである。
要は、「どんなことがあっても、あんたにそばにいてほしい」、というのである。
今考えたら、介護の歌でもあるわけだ。
こういう単純な詩は、単純な演奏に乗ると、妙に輝きを増してくる。
ちなみに、この歌は、かつてぼくが歌える数少ない洋楽の一つだった。
カラオケでも何度か歌ったことがある。
しかし、最近は歌ってないので、舌が回らないと思う。



2002年08月29日(木) 恋愛に勝者なし

「君がほしい」(1975・8・29)

朝焼けが差し込み 今日の運命を決める朝に
灰色がかった空に 薄く日が差す昼に
カラスが鳴き叫び こうもりが群がる夜に
君がほしい

みんなが美しいと言う花に そっぽを向く時
みんなが素晴らしいと言う 風に向かって歩く時
みんなが この時間がにせものだと思う時
君がほしい

 組み合った手は すべてを引きつけ
 その中に君がいることも たしかだろう
 君にすべてを向けたい だけど心は遠くに
 君がほしい 君がほしい 君がほしい

さっきからの夜が 影を映し出す
そこで君が 今夜のありかを確かめる
「ここから先は もう何も見えないみたい」
君がほしい

草むらの陰に隠れ じっと息を止めると
どこからともなく 光の声がする
「話が違うじゃないの あんたうそつきね」
君がほしい

 組み合った手は すべてを引きつけ
 その中に君がいることも たしかだろう
 君にすべてを向けたい だけど心は遠くに
 君がほしい 君がほしい 君がほしい


高校3年の時に作った詩だ。
この頃、ぼくは深い恋をしていた。
その人とは結ばれないと、本能的にはわかっていたのだが、それでも彼女に対する激しい感情は抑えることが出来なかった。
その感情が、詩となり、歌になったと言っても過言ではない。
結局、ぼくはその人のことを、高校1年の時から8年間思い続けた。
途中、他に好きになった人がいないではないが、その人への想いには勝てなかった。
不器用なぼくのことである。
その人とは、もちろん片思いのままで終わった。
終わったと自覚したのは、その人が結婚したというのを聞いた時だった。
想っては諦め、諦めては想い、の8年間だった。
その8年間の恋を、ぼくは次の詩で締めくくった。


「思い出に恋をして」(1981)

メルヘンの世界に恋しては
ため息をつきながら扉を右へ
行き着くところもなくただひたすら
影が見える公園へと歩いて

帽子をかぶった小さな子供たち
楽しそうに何かささやいて
ひとつふたつパラソル振って
空の中へ向かっていく

明日は晴れるといいのにね
小さな雲に写った夕焼けが
君たちのしぐさを見守っているよ
そのうちにパラソルも消えて

悲しいのは今じゃない
思い出にこだわるぼくなんだ
気がついてみると君を忘れて
ただつまらぬ思い出に恋をして


また、数年後、その8年間を振り返ってもみた。


「プラトニック」(1986)

今 君がどこにいて何をしてるかなんて
ぼくには関心ないことなんだよ
もっと大切なことは 君を心の中から
離したくない それだけなんだよ

 いつも、君はぼくの中にいる
 もっと、素敵な笑顔見せてくれ
 早く、もっと早くぼくの前に
 明るい風を吹かせてくれ、いいね

もう 時を急ぐことはない
ぼくは 時を超えているんだから
今 君がどんなに変わっていても
吹きすぎる風は ぼくにやさしい

 いつも、君はぼくの中にいる
 もっと、素敵な笑顔見せてくれ
 早く、もっと早くぼくの前に
 明るい風を吹かせてくれ、いいね


悲しいものである。
人に恋をするということは、病気になるということだ、とぼくはこの詩を書いた時につくづく思った。
まあ、病気ではないにしろ、まともな精神状態でないことはたしかだ。
片思いでさえ、こんなふうなのだから、相思相愛であったとしたら、かなり重症である。
それは目を見たらわかる。
何かトロンとしているものだ。
自分を見失っている証拠だろう。

以前、ある人に彼女の話をした時、「結局、おまえは今のだんなに負けたんだな」と言われた。
しかし、ぼくが好きだということが、その人にうまく伝わってないのに、「だんなに負けた」もないものだ。
そういえば、よく恋は勝ち取るものだと言うが、ぼくはそれは間違っていると思う。
いったい何を基準に恋の成就と言うのだろう。
セックスまで至ることが成就なのか?
結婚に至ることが成就なのか?
心中することが成就なのか?
どうもはっきりしない。
基準のはっきりしないものに、勝ち負けなんかあるはずないじゃないか。
だいたい、病気の度合いを競って、何になると言うのだろう。
どんなに深い恋でも、いつかは消え去ってしまうものだ。
そんな一過性の病気のようなものに、優劣をつけること自体おかしい。
つまり、恋愛に勝者なし、ということである。

ああ、ぼくは恋愛の勝者を求めていたのかなあ。
であれば、片思いより、そちらのほうが悲しい。



2002年08月28日(水) あしたのために

ジャブ
−攻撃の突破口を開くため、あるいは敵の出足を止めるため、左パンチを小刻みに打つこと。その際ひじを、左のわき腹の下から離さぬ心がまえで、やや内側を狙い、えぐりこむように打つべし。正確なジャブ3発に続く右パンチは、その威力を3倍にするものなり−

「あしたのジョー」ファンなら、もちろん上の文句を知っているに違いない。
丹下段平が、鑑別所にいる矢吹丈に宛てた、ハガキによるボクシングの通信教育第一弾「あしたのために その一」である。
「打つベーし、打つベーし、打つベーし」と言って、鑑別所のボスであった西を殴る場面は、実に痛快だった。

なぜまた「あしたのジョー」かというと、実はぼくは数週間前から、インターネットでアニメ「あしたのジョー」を見ているのだ。
ぼくは、「あしたのジョー」はマンガでは何度も読んだことがあるのだが、アニメは1度しか見たことがない。
それもリアルタイムに見ていた。
中学生の頃だったから、もはや記憶は薄れている。
しかも、当時はビデオなどなかったので、全部見たわけではない。
あの力石徹との闘いで、ジョーが力石からアッパーカットを食らい敗北したシーン、またその後の、あまりにも有名な力石との握手シーンを見逃している。
あの力石の倒れるシーンは、友だちの演技でしか見たことがない。
いつか全編通して見たいと思っていたのだが、ビデオやLDで全巻揃えるのは、経済的に無理があった。

ところが、最近「ジョー」をインターネットでやっているという情報を得、さっそくそこの会員になった。
そういうわけで、毎日何話かずつ「ジョー」を見ているのだ。

アニメ版とはいえ、セリフはほとんどマンガといっしょである。
「あしたのジョー」というマンガは、少年誌に掲載されていたわりには、言葉が難しく、また哲学的なことを書いた場所も多々見受けられる。
それでも、多くのバカ少年に受けていたのは、その奥に当時の風潮であった自由への憧れがあったからなのかもしれない。
何者にも縛られることなく、ただ己の本能の赴くままに突っ走って行くジョーの姿に感銘を受けたのだろう。
その後、ぼくは吉田拓郎という人に出会うのだが、拓郎にも同じような感銘を受けたのを覚えている。
ぼくが拓郎を好きになったのは、彼の中に「あしたのジョー」を見たからかもしれない。

さて、ジョーには「不可能を可能にする、天性の野生児」という形容があるが、あの言葉が最近ようやくわかってきた。
ジョーを解くキーワードの一つに、「完全燃焼」という言葉がある。
結局ジョーは最後に「真っ白な灰」になるのであるが、彼にはその真っ白になるための起爆剤が必要だった。
その起爆剤こそが、力石であり、カーロスであり、金竜飛であり、ホセ・メンドーサだった。
最終的に彼は、勝ちへの執念より、「完全燃焼」を選んだ。
「完全燃焼」するために、どうしても必要なものがある。
それは集中力である。
人間の持つ集中力というのは、どんな不可能でも可能にできるのである。
それは、数学が苦手だったぼくが、九大生でも解けんと言われた問題を解いたこと、また初めて卓球をした時、卓球部の人間に勝ったことで経験している。
とにかく、あの時は我ながら凄い集中力が出ていたと思う。
何か普通と違うのである。
眉間から、それまでに味わったこともない不思議な気が出て、体がフワフワしていたのを覚えている。
おそらく、ジョーで言う「完全燃焼」というのも、こんな感じではないだろうか。
そういう状態の時、人は不可能を可能に出来る。
ジョーという人は、それを人為ではなく、本能で実現した人である。

ぼくは今、集中力という観点から「あしたのジョー」を見ている。
そういう目で人生を見るのも、また楽しいものである。
信長も、武蔵も、きっと集中力の優れた人だったのだろう。
では、その集中力を高める方法はあるのだろうか?
答は「イエス」である。
ではどうやって、集中力を高めるのか?
座禅を組むのがいいのか?
念仏を唱えるのがいいのか?
滝に打たれるのがいいのか?
断食すべきなのか?
たしかにそういう方法もあるだろう。
しかし、そんな悠長なことをしていたら、とっさの時に何も出来ない。
すべては王陽明の言う「事上磨錬」
つまり、実践で鍛えていくのだ。
そして、その時の心構えこそが、「えぐりこむように、打つべし」である。



2002年08月27日(火) 1月6日の日記の続き

最近、休みが取れないでいる。
基本的に火曜日と金曜日が休みなのだが、人員削減の結果、どうもローテーションがうまくいかない。
先週の金曜日は商品の入荷日のため午前中出勤になった。
今日は今日で、昼から会議だった。
昔は休みも取らずに頑張れたのだが、40歳を超えたころから、これが苦痛になった。
肉体的には別に何ということはない。
ただ寝不足が辛い、ということだけである。
問題は精神的なものにある。
目が覚めてから、「今日は休みだ」と思うのと、「今日も仕事だ」と思うのは、全然違う。
雨が降っていても「休みだ」と思うのは、晴れているがごとく感じる。
逆に晴れていても「仕事だ」と思うのは、どんよりと雲が垂れ下がったように感じる。
まあ、何にしろ、今まであった「日常」というものを崩されるということが、こんなにも苦痛なものなのか、と思い知らされる日々である。

愚痴はここまでにしておこう。
今日のテーマは、今年の1月6日の日記に、店の屋上で血を流して倒れていたおっさんのことを書いたが、その続編である。
その休日出勤となった先週の金曜日。
午前11時頃だった。
9時前に出勤していたぼくは、ようやく検品作業を終え、家に帰ろうとした時だった。
一人の品のいい年配の男の人が「店長さんいますか」と言って、事務所に入ってきた。
ぼくは店内放送で店長を呼んだ。
店長とその男性は、倉庫でしばらく話をしていたが、「その件は私は知りません」と言う店長の声が聞こえた。
そして店長は「しんたさん」とぼくを呼んだ。
「1月に屋上で人が倒れとった話を知っとるかねえ」
「ああ、知ってますよ」
「誰が担当したんかねえ」
「一応、第一発見者は、ぼくということになっていますけど」
「ちょうどよかった。この方が話があるらしいよ」
そう言って店長はその場を離れた。
前にも話したが、店長はこの8月に転勤したばかりで、そんな事件があったことは知らない。

さっそくその男性は、ぼくに名刺を見せた。
名刺に書いてある社名では、その仕事の内容がわからなかったが、その男性の説明で、興信所みたいな会社ということがわかった。
その人は、倒れた男性の調査をしにきたのだ。
その人が調査を始める前に、ぼくは「あの人どうなったんですか?」と尋ねた。
「救急車で病院に運ばれた後、しばらく意識があったんですが、その後意識がなくなって、植物状態になりました。
そして先々月、6月に急性肺炎で亡くなりました」
「ああ、亡くなったんですか」
調査が始まった。
「そのときの状況を教えて下さい」
ぼくは、あの日の日記に書いていたことを、思い出しながら言った。
「倒れていたのはどこですか?」
ぼくは屋上までその人を連れて行き、その場所を教えた。
「どこに血が流れていたのですか?」
「この辺一帯です」
「小便をしていたらしいですね?」
「それはこの壁です」
「吐いた跡もあったとか」
「うーん、吐いてたのは覚えてますけど、場所まではよく覚えていませんねえ」
20分ほど彼はぼくに質問したのだが、変に吐いたことに執着しているようだった。
「飲んでたんですか?」
「さあ、どうだったか」
後で思い出したのだが、そのときの状況は、この日記に詳しく書いていたのだった。
そう、おっさんは酒気帯び運転で店まで来ていたのだ。
あいまいな説明をするよりも、このサイトを教えてやればよかった。

そういえば、死んだおっさんには娘がいた。
おそらく、おっさんが死んだので保険金を請求したのだろうが、現金なものである。
この親子は絶縁状態と言えるほど、仲が悪かったらしい。
警察が身元を確認するために娘を呼んだ時も、娘は行くのを拒んだという。
怪我をすると他人で、死ぬと親子か。
世知辛い世の中である。

ぼくはこの調査のおかげで、家に帰り着いたのは、午後1時を過ぎていた。
仕事中なら、別に1時間や2時間は苦にならない。
しかし、休みの日の1時間は貴重である。
以前はそこまで時間には執着しなかったのだが。
そう思うようになったのは、仕事のために休日を利用しなくてはならなくなったからだ。
この無駄になった時間を、娘に請求しようかなあ。



2002年08月26日(月) 秋山引退

今日は、月曜日ということもあり商品の入荷が少なかった。
また、昨日で売出しが終わったため、午前中からわりと暇だった。
午後になってからも状況はあまり変わらず、「さてちょっと早いけど、食事にでも行こうか」と思っていたところ、例の万引きじいさんが来たとの情報が入った。
店の外にあるベンチに座って、こちらをしきりに窺っている。
隙あらば、ということだったんだろう。
ぼくは、わざとじいさんの目に付くところに立っていた。
じいさんは、ぼくに気づくと慌てて下を向いた。
じいさんを牽制した後で、ぼくは、じいさんが立ち寄りそうな売場に声をかけ、警戒するように言った。

それから一時してからのことだった。
一通のメールが、ぼくの携帯電話に入った。
着信音で、そのメールが、ホークスTOWNからのメールであることがわかった。
「あれ? 今日はデーゲームやったかのう」と思いながらメールを開いてみると、そこにはショッキングな文字が躍っていた。
『秋山幸二引退表明』
ぼくは7月頃から、なんとなくそんな気がしていた。
以前の秋山と何か違う。
打球も伸びないし、守備にも精彩がない。
これはシーズン後の引退もありえるなあ、と思っていたところだった。
ああ、ついに引退か。

夕方のローカルニュースは、どのチャンネルを回しても「秋山引退」一色だった。
王監督のコメント、選手のコメント、秋山のお母さんのコメント、街の声などなど。
あのNHKでさえ、時間を割いて秋山の特集をやっていた。
仮に主砲小久保が、今やめたとしても、ここまで大きく扱ってはくれないだろう。
それだけ、秋山の業績は大きかったと言える。
たしかに西武から移籍してきた当初は、覇気を感じず、だらしなく映っていたものだった。
しかし、年を追うにつれ、秋山はチームに、いや九州になくてはならない存在になっていった。
3年前、西武の松坂から、顔面にデッドボールを受け骨折した時だって、翌日彼はベンチに入っていた。
われわれファンとしては、それだけでもありがたかった。
彼の記録もさることながら、それ以上に存在感のある選手だったと言えるだろう。

ところで、ぼくが秋山のことを思う時、どうしても思い浮かぶ人がいる。
それは、かつて史上最強のチームと言われた西鉄ライオンズの主力打者、大下弘である。
秋山と大下、この二人の選手はよく似ている。
どちらもホームランバッターである。
どちらも存在感のある選手である。
また、どちらも全国区の選手になった後に、この福岡の地にやってきて、チームの黄金期作りに力を尽くした選手である。
そして、チームの黄金期が去った後に、引退した選手である。
(ぼくとてホークスはこれからのチームだと思う。しかし、今年の戦い方を見た限りでは、一時代が終わったと思わざるを得ないだろう)

秋山はこれからどうするのだろうか?
本人は未定だと言っていた。
まあ、あれだけの選手だから、いろいろ声もかかるだろうとは思う。
ただ間違っても、解説だけはしないでほしい。
無駄口を叩かない人には、解説者は勤まらないのだから。
まだまだマスターズリーグに行くには早すぎる。
ぼくとしては、ダイエーに残って、次の黄金期を作る後進を育ててもらいたいと思うのだが。



2002年08月25日(日) 不器用なりに、かっこよく

ぼくは何をやらしても不器用な男である。
先日話した、図画にしろ工作にしろ、まったく駄目である。
字も生まれつきではないかと思えるほど下手で、長崎屋にいた頃にDMの宛名書きをしたことがあるのだが、上司がぼくの字を見て呆れてしまい、「しんたはもういいから、売場に戻って」と言われたこともある。

不器用さ、これは人生においても言える。
まず、目上に対しての付き合いが下手である。
前の会社にいた時、人事部長に言われたことがある。
「あんたは世渡りが下手やねえ。もう少し目上の人との付き合いをうまくせんとね」
ぼくも、ここで「はい」とか「気をつけます」とか返事をしておけばよいものを、「気が合わんのやけ、しょうがないでしょう」と言ってしまった。
その時の人事部長の不愉快な顔を今でも忘れない。
中にはそんなぼくを理解してくれる人もいる。
しかし、大半の上司はぼくを嫌っていた。
それも徹底的に。
何度「しんたを辞めさせろ」と言われたかわからない。
それでもぼくは、そんなことに頓着せず、平気で上司の気に障ることばかり言っていた。
お中元やお歳暮を贈ったことがないのはもちろん、暑中見舞いや年賀状すら出したことがない。
それでも何とか人並みに昇進して行ったのは、運の部分が大きく作用していると思われる。
なにせ、姓名判断上ぼくの名前は「実力派」の暗示があるのだから。(笑)

さて、ぼくにはさらに不器用なことがある。
それは恋愛である。
わりと女性とは頓着なくしゃべるほうであるが、いざ好きな人の前に出ると、うまく自分を表現できない。
20歳の頃に、同じバイト先の年上の人を好きになったことがある。
バイトの先輩から「押しの一手で、どんな女でも落ちる」と言われて奮い立ち、バイト帰りに告白を決行した。
彼女が前を歩いていた。
ぼくはダッシュで追いかけていき、彼女の肩をドンと押した。
そして「ねえ、付き合って」と言った。
当然断られた。
そのことを先輩に言うと、「あほか、おまえは」と嘲笑われた。

むかし、友人が気を利かして、当時ぼくが好きだった人といっしょに飲める場をセッティングしてくれたことがあるのだが、そんな時に限ってぼくは無口になってしまう。
ぼくは彼女と目を合わせることもなく、「ああ、頭が痛い」と言ったっきり、黙りこくってしまった。
その後も何度かチャンスがあったが、わけのわからない行動に出たりして、結局彼女とは付き合うこともなく終わってしまった。

ぼくは、河島英五の「時代おくれ」という歌が好きである。
「不器用だけれど 白けずに / 純粋だけど 野暮じゃなく」というフレーズが特に好きである。
この歌を聴くと、「不器用なりに、かっこよく生きてやろうじゃないか」という気持ちになる。
そういう気持ちが、このサイトを始めた動機でもある。
まあ、こういう不器用男ですけど、末永くご愛顧下さい。
(ケッ、上手く言えんわい)



2002年08月24日(土) 喫煙権

十数年前、「嫌煙権」という言葉が世の中にお目見えした頃のことだ。
当時ぼくはJRで通勤していた。
電車内での喫煙は、まだ普通に行われていて、世間もそれほどやかましくは言ってなかった。

ある日の会社帰り、ぼくは小倉駅で時間待ちしていた電車に乗った。
発車時刻までまだ時間がある。
乗っている人もまばらだったので、ぼくはタバコを吸い始めた。
半分くらい吸い終えた時だった。
けっこう離れた席に座っていた20代くらいの女性がぼくのところにやってきて、「すいません。タバコをやめてもらえませんか」と言った。
ぼくが「ああ、嫌煙権ですか?」と聞くと、その女性は「いや、そんなんじゃないんですけど、私タバコの煙がだめなんです」と言った。
「わかりました」とぼくは言い、タバコの火を消した。
しばらくして、発車時刻も迫り、だんだん人が多くなってきた。
すると、どこからともなくタバコの臭いがしてきた。
誰が吸っているのかと思い、顔を上げて見回すと、ぼくに意見してきた嫌煙権女のすぐそばで、強面のおっさんがタバコを吸っている。
あの女どうするかなと思って見ていると、意見するでもなく、黙って本を読んでいる。
「おいおい、タバコの煙が死ぬほど嫌だったんじゃないのか。
それとも何か。
ぼくのタバコの煙はだめで、おっさんの煙ならいいとでもいうのか。
確かに相手は強面だが、あんたは人を選ぶのか。
自分の主張を貫けないような嫌煙権ならやめてしまえ」
と、ぼくはその時思った。

その後時代は進み、現在我々喫煙家は、実に肩身の狭い思いをしている。
ファミレスの喫煙席は、いつも満員だ。
そのため、禁煙席に回される。
電車や飛行機の中では吸ってはいけない。
駅では灰皿をホームの隅っこに置かれる。
そこで吸っていても白い目で見られる。
以前、ホームの隅っこでタバコを吸っている時、ぼくのいる位置から5メートルほど離れたところに、マスクをしたばあさんがいて、迷惑そうな顔をしてこちらを睨んでいる。
そしてわざと咳払いを繰り返している。
調べてみると、ぼくのほうが風上で、煙がばあさんのほうに流れて行っているのがわかった。
しかし、いくら煙が流れて行こうとも、ぼくはちゃんと所定の場所で吸っているのだ。
ここ以外のどこで吸えと言うのだ。
嫌なら、ばあさんのほうが場所を移ればいいじゃないか。
あんたの体臭や、膏薬の臭いほうが、よっぽど迷惑だわい。

よく「あなたの吐く煙が、私の健康を害す」と言うが、こちらにも言い分がある。
「あなたたちを気遣ってタバコを我慢しなければならない。そのストレスが、私の健康を害す」
こう言うと、喫煙家の勝手な言い分だと言われるが、元はと言えば、そちらの「私が迷惑しなければ、あんたのことは知ったこっちゃない」という身勝手さから始まったものじゃないか。
本当の愛煙家といものは、周りの人を気遣い、吸う場所も充分にわきまえている。
あたりかまわず吸っている、カッコつけの兄ちゃんたちといっしょにしないでほしいものだ。

さて、タバコの話は以前にもしたことがある。
では、なぜこの話をまたするのか。
それは今月の頭にさかのぼる。
実は店長が換わったのだ。
以前の店長は喫煙家だったが、今度の店長はまったくタバコを吸わない。
赴任してからの第一声が、「タバコは体に悪い」だった。
そのため、勝手に禁煙タイムを作り、喫煙場所まで決めてしまった。
こちらは、吸えないわけではないから別にいいやと思っていたのだが、最近になって、所定の場所で吸っていてさえも、変な目で見られるようになった。
この視線を感じるようになって、ぼくは自分の店でタバコを買うのをやめた。
先月までは、タバコをひと月分買いだめしていたのだが、このことがあってから、「売り上げ協力して歓迎されない店で、誰が買うか!」という気分になったのだ。
とにかく、タバコを吸う人を悪人を見るような目で見ることはやめてほしいものだ。

嫌煙権というものを許すのなら、喫煙権というのも認めるべきである。
もう、嫌煙家の言いなりにはならないぞ!



2002年08月23日(金) 絵日記

今日は処暑、暦どおり暑さも一段落したようである。
昼間、日差しは強かったものの、なんとなく涼しく、物悲しさを感じたものだった。

ところで、そろそろ夏休みも終わりである。
先日ニュースで、佐賀の何とかいう分校の、始業式の風景を映していた。
九州にしては、えらく早い始業式である。
この分校は冬休みが多くあるのだろうか。
それとも時代を先取りして、秋休みを設定しているのだろうか。
「この時期に始業式か。宿題する暇ないやん」などと思いながら、ニュースを見ていた。

小学生の頃は、21日の登校日になると、「今日から毎日4日分の宿題をやっても充分に間に合う」と思っていた。
それが24日、つまり1週間前になると、「今日から毎日5日分の宿題をやれば間に合う」と思うようになる。
そう、21日から24日まで何もやっていないのである。
そういう状態で、夏休みが終わる3日前まで過ごしていた。
ということで、29日ともなれば地獄だった。
早々と宿題を終えた子が遊びにくるが、遊べない。
伯母は、この時期になると、よく「アリとキリギリス」の話を言って聞かせてた。
おかげで、ぼくは「アリとキリギリス」の話が大嫌いである。

ぼくが夏休みの宿題をぎりぎりまでしなかったのは、早くも小学1年の時からである。
夏休みの宿題帳であった「夏休みの友」というのは、その頃同居していた厳しい伯母の指導の下、なんとか計画通りにやっていた。
しかし、絵日記のほうを怠っていた。
これが難物であった。
何とか覚えているのは、海水浴に行ったことくらいで、後は代わり映えのしない毎日だったので、これをどうまとめていくのかが、大きな課題となった。
結局、代わり映えのしない毎日を一括して描くものだから、代わり映えのしない絵日記になってしまった。

その頃、どういうことを絵日記に書いていたかを思い出しているのだが、思い出せないでいる。
あまり印象に残ってないから、きっと今の日記と同じで、つまらないことをうだうだと書いていたのだろう。

その「うだうだ」の中で、ひとつだけ鮮明に覚えているものがある。
それはゴミ出しの風景である。
今ゴミははゴミ袋に入れて所定の場所に出すのだが、当時はポリのゴミ箱をそのまま出していた。
収集車が来るのは、午前9時頃だった。
朝ごはんを食べた後に、慌ててゴミを持って行った。
これは今でもそうだが、北九州市のゴミ収集車は「乙女の祈り」のオルゴールを鳴らしながらやってくる。
爽やかな朝に「乙女の祈り」のオルゴール、やってくるのはゴミ収集車、不釣合いな組み合わせだが、これが妙にマッチしていた。
その印象を絵日記に書いたのだった。

絵日記といえば、このサイトを始めるにあたって、いっそ日記を絵日記にしようかと思ったことがある。
しかし、それはやめた。
なぜなら、ぼくは絵が下手だからである。
だいたいぼくは、図画工作が苦手な人間である。
とは言いながらも、小学2年生の頃まで、そう絵日記をつけていた頃までは、通信簿の点はまずまずだった。
粘土細工などは、学校の代表として、区の大会に出たこともある。
それがどうして苦手になったのか。
2年生の頃、図画の時間に、運動会の画を描けという宿題が出た。
そこでぼくは、かけっこの画を描いたのだが、先生が「しんた君、これはかけっこで走っている人が転んだ画かねえ」と言った。
「いや、走っている画やけど」
「私には転んでいるように見えるんやけど、みんなはどう思う?」
すると、みんな一斉に「こけてます」と言った。
確かにその画は3次元的な表現ができていなかった。
見ようによっては「こけている」ように見える。
しかし、精一杯描いたつもりだった。
それをけなされたので、へそを曲げたのである。
それ以来、ぼくは画を描くのが、いや図画工作が嫌いになったのだ。

しかし、そうは言ってもリクエストでもあれば・・・
いや、やっぱり止めときます。



2002年08月22日(木) 再び万引き

一昨日、以前から書きたかった「万引き」の話を書き終え、一安心していたのだが、今日また「万引き」について書かなければならなくなった。

ここ最近、一人のじいさんが頻繁に現れるようになった。
そのじいさんは、かつて店に来てはカラオケテープや工具、はては老眼鏡まで万引きしていたじいさんである。

何年か前に、一度このじいさんを捕まえたことがある。
ぼくがいるのに気づかず、じいさんはカラオケテープを2本、ズボンのうしろポケットに入れた。
そして、そのままて外に出たのだ。
ぼくは、追いかけて行って「ちょっとすいません」と言った。
じいさんは「はっ!」と驚いたようだった。
「そのまま動かんで下さい」と言い、じいさんのうしろポケットから、カラオケテープを取り出した。
「これ、まだ会計がすんでないですよね」と言うと、じいさんはうつろな目をして、ぼそぼそとわけのわからないことを言い出した。
「こちらに来て下さい」と、ぼくはじいさんを事務所まで連れて行った。

事務所でもじいさんは、相変わらずわけのわからないことを言っている。
しかたがないので、店長は警察を呼んだ。
警察が来ると、じいさんは急にぼけたふりをしだした。
警察が「おじいさん、名前は」などといろいろ聞き出していくうちに、このじいさんが何度も警察に連行されていることが判明した。
万引きどころか、神社のお賽銭まで拝借していたという。

あれからしばらくじいさんの顔を見なかったのだが、1ヶ月ほど前から、また現れるようになったわけである。
従業員はもちろんじいさんの顔を知っているので、じいさんがやってくると従業員同士連絡を取り合い、非常線を張った。
じいさんは、ぼくらが見張っているのに気づくと、すぐに外に出た。
そしてしばらくすると、また店に入ってくる。
何度かこちらの隙を狙っているが、だめだと悟ると、その日はすごすごと帰って行く。
何度かそういうことがあった。

そして今日、ぼくたちの隙を突いて、ついにやったのだ。
しかし、悪いことは出来ないものである。
うちの女子従業員が、しっかりその現場を見ていた。
ぼくが事務所から帰ってくる途中に、「しんたさーん」と呼ぶ声がする。
声のするほうを見てみると、その子が万引きのサインを出した。
「誰?」
「じいちゃんです」
ぼくは追いかけて行った。
店の外に出ると、じいさんはベンチに腰掛けていた。
何気なくじいさんの横に行ってみると、じいさんのポケットからカラオケテープが見えていた。
ぼくは「すいません」と言って、じいさんのポケットからテープを取り出し、「これは何ですか」と聞いた。
じいさんは「ああ、これを買おうかどうしようか迷っとった」などと、またしてもわけのわからないことを言った。
「お客さんは、買おうかどうしようかと迷ったら、店の外に商品を持って出るんですか」
「ははは、そりゃおかしいなあ」
「とにかく、こちらに来て下さい」と、事務所に引っ張っていた。

事務所には店長代理がいたのだが、じいさんの顔を見るなり、「また、あんたね」と呆れ顔で言った。
代理がいろいろとじいさんに聞きただしている間に、ぼくは警察に連絡した。
「はい、警察です」
「○○店ですが、万引きなんですけど」
「お待ち下さい」
担当の署員が出た。
「あ、○○店です。また万引きなんですが、常習者なのでお願いします」
「常習者? Hさんですか?」
ぼくは噴出しそうになった。
Hさんとは、この日記に何度も登場している、酔っ払いのおいちゃんのことである。
警察も、酔っ払いおいちゃんにはいろいろ迷惑しているので、相手にしたくなかったのだろう。
「いえ、Hさんじゃありません。お年寄りですけど」
「70歳くらいの人ですか」
「はい」
「ああ、そうですか」
心当たりがあるようだった。

しばらくして、警察官がやってきた。
「名前は?」
「○○です」
「生年月日は?」
「大正○年・・・です」
「住所は?」
「ああ、わかりません」
「わかりません? あんた、自分の住所がわからんとね」
「引っ越したもんですから」
「じゃあ、電話番号は?」
「わかりません」
あとは何を聞いても「わかりません」である。
警察官はムッとした顔をして、「じゃあ、わかるまで警察におってもらおう」と言って、じいさんを連れて行った。
警察官が帰った後、代理がぼくのところに来て、「あのじいさんは出入り禁止にするけ、見つけたら追い出して」と言った。
しかし、追い出してもまたくるもんなあ。

ところで、その後、じいさんはどうしたんだろう。
あいかわらず、「わかりません」で粘っているのだろうか。
とすれば、警察からは出られてないことになる。
普段は酔っ払いの親父に迷惑し、今日はボケもどきのじいさんに困惑している。
警察もいろいろと大変である。



2002年08月21日(水) 武蔵の画

中学の頃、国語の先生から、こんな話を聞いたことがある。

「先生が学生の頃、美術の授業で先生から一枚の画を見せられた。
その画は水墨画で、枯れ木に鳥がとまっている画だった。
美術の先生は、『この画を見てどう思うか?』と我々に尋ねた。
我々が各自意見を言った後に、その先生が『私はこの画が恐ろしい』と言った。
『この画は、あの宮本武蔵が描いたものだ。あれだけ人を斬った人である。だから私には恐ろしく感じる』
その画は、宮本武蔵の『枯木鳴鵙図』という有名な画だった」

国語の先生は、感動的にその話をしたのだが、ぼくはこの話を聞いた時、ぼくの中で何かすっきりしないものが残った。
しかし、その時は、それが何であるかはわからなかった。

それがわかったのは、十年以上たってからのことだ。
それは、「いかにそれが凄い作品であっても、たかが画を見たくらいで、そんなことがわかるはずはない」、ということだった。
それがわかるのは、よほどの目利きか、超能力者や霊能者だけである。
その先生が、そういうたいしたお方だとは聞いてない。
では、どういう理由から、その教師はそんなことを言ったのだろう。
それは、その美術の先生の頭の中に、すでに宮本武蔵像が出来上がっていて、それを作品に当てはめた、ということである。
その作品を見て、宮本武蔵を連想したのならともかく、最初から「宮本武蔵の画」と知って見たのだから、容易に彼の持つ宮本武蔵像に走っていく。
「宮本武蔵=怖い」、笑止である。
「東大=偉い」と同じ発想ではないか。
おそらくその美術の教論は、「私は、それほど画を見る力を持っているのだ」と言いたかったに違いない。

仮に、本当に彼がその作品を見て「怖い」と思ったとしよう。
となれば、この作品は人を斬った後、すぐに描かれたものでないとおかしい。
武蔵とて、いつも仏頂面をしていたわけではなかろう。
時には軽口も叩いただろう。
人の情にも触れただろう。
そういう心境で、「怖い」と思わせるものが描けるだろうか。
人を斬った時の、鬼の心境にある時でないと、見る人に「怖い」と思わせる画などは描けないはずである。

この作品は武蔵の晩年の作品と言われる。
その時期に、武蔵は人を斬ってはいない。
では、若い頃からずっと人斬りの精神状態で居続けたのだろうか。
そんなこと出来るはずがない。
晩年といえば、あの「五輪の書」を書いていた時期である。
自ら「澄んだ気持ちでこの書を書いている」と言っているのに、どこに人斬りの精神状態が立ち入ることが出来るだろう。
「人を斬った感動を、晩年画にしてやる」と思っていたにしろ、いつまでもその感動が続くはずがない。
ましてや、年寄りである。

偉そうに口を開いた美術の教師は、その眼力のなさ、発想の凡庸さを、学生たちに公表したのだ。
実に恥ずかしい話である。



2002年08月20日(火) 万引き その3

ぼくはレジの隅にいた。
いつものように、夫は酔っ払っていた。
ぼくがいたのに気づかなかったのか、「お、誰もおらん」と言った。
そして、夫はCDの前にかがみこむと、おもむろにCDをわしづかみにし、それを懐の中に入れた。
もう一度同じ動作を繰り返した後、立ち上がり、「は、は、は、・・・」と大声で笑いながら店を出て行った。
刑事はその後を追いかけて行った。

数分後、中年の刑事がぼくのところにやってきた。
「無事逮捕しました」と刑事は言った。
「ありがとうございました」
「ところで、事情聴取をしたいので、今からいっしょに来てくれませんか」
「パトカーに乗ってですか?」
「そういうことになりますなあ」
「今、人がいないので、後からではいけませんか」
「今のほうが都合がいいんだけど。・・じゃあ、1時間以内に来て下さい」
ということで、30分後、ぼくは本署に行った。

本署に着くと、ぼくは防犯課に案内された。
課内にはたくさんの刑事がいた。
「○○さん、防弾チョッキ余ってなかったですか」などと言い合っている。
テレビでしか見たことのない光景がここにあった。
ぼくがイスに座って待っていると、ぼくの前を例の万引き夫婦の夫のほうが連れられて行った。
取調室から声が聞こえてくる。
「Nよ、今度は逃れられんぞ。2,3年は臭い飯を食ってもらわんとのう」
「・・・」
「今日の朝からの行動を言うてみい」
「・・・」
夫の声は小さく、よく聞き取れない。
「『行くぞ』と言うて、家を出たんか」
「・・・」
「それが『万引きしに行く』の合言葉か」
「・・・」
ぼくは笑いそうになった。
いくらなんでも、『行くぞ』が『万引きしに行く』の合言葉だとは思えない。
「これはただ単に『行くぞ』だったに違いない」と思っているところに、「しんたさん」の呼び出しがあった。

しかし、いつ来ても、警察の事情聴取というのは面倒臭い。
結局、夫はCDを14枚盗っていたのだが、そのアルバムのタイトルとアーティストを全部言わなければならない。
そして、自分の立っていた位置や、相手が盗った時の状況を説明しなければならない。
1時間近くかかって出来上がった調書は、充分に笑えるものだった。
ところどころに「刑事さん」という言葉が出てくる。
結局出来上がったものは、
「スーパー○○、××店の電気売場は、再三彼らに被害にあっていた。
そこの担当であるところの、私しろげしんたは『刑事さん』に相談した。
その翌日、開店と同時に彼らが来たので、さっそく『刑事さん』に連絡した。
『刑事さん』はすぐにやってきてくれた。
・・・
再び犯人たちがやってきた。
私しろげしんたは、レジの隅にいたが、犯人たちは私のことに気づかなかったようだ。
私の後ろには『刑事さん』が3人いて、犯人を見張っていてくれた。、
犯人たちは、コンパクトディスクを懐に入れ逃げて行った。
『刑事さん』は、すぐさま犯人たちを追いかけて行った。
そして3分後、刑事さんは、犯人たちを逮捕してくれた。

被害にあったのはコンパクトディスクで、内訳は・・・(14枚のアルバムタイトルとアーティスト名)である。
・・・・・
 右、相違ありません。
             しろげしんた 押印」
おおむねこんなところだった。
こちらが刑事の質問に対して答えていき、文章を書くのはその『刑事さん』だった。
できばえは、小学生の作文並みである。
それにしても、この『刑事さん』たちは大活躍である。
ぼくの扱いは、あくまでも一市民にすぎない。
これがドラマなら、ぼくは「その他の出演者」のところに名を連ねるだろう。

万引きを捕まえるのはいいけど、その後の事情聴取が疲れるんですよ。
商品がわかりやすいものならいいけど、その商品の周辺機器ともなると大変である。
まず、この商品がどんなもので、どういう時に使うのかを詳しく説明しなくてはならない。
楽器を売っていた頃、シンセサイザーの周辺機器シーケンサーを盗られたことがあるのだが、説明に小一時間を要したことがある。
結局いくら説明してもわからなかったようだった。
調書には「幅30センチ、縦25センチの楽器の録音機」と書いてあった。

とにかく、「たかが万引き」のために、店の人間はこれだけ苦労するのだ。
物を取られるのも、人を捕まえるのも、あまり気分のいいものではない。
そのために一生を台無しにする人だっているのだ。
万引きなんかやめてほしいものである。



2002年08月19日(月) 万引き その2

何年か前、「ヘイ!ヘイ!ヘイ!」という番組に相川七瀬がゲストで出た時に、万引きの話になったことがある。
ダウンタウンの「どんなものを万引きしたのか」という質問に、相川は「タンスを盗ったことがある」と答え、ご丁寧にその手口まで披露していた。
ふざけるな、何が万引きだ。
タンスを盗むなど、立派な泥棒である。
世の中狂っている、としか言いようがない。
こんな話題で笑いをとろうとする司会者は、万引きに対する罪の意識など、これっぽちも持ち合わせていないのだろう。
こういう放送を、公然と流す放送局も放送局だ。
「ヘイ!ヘイ!ヘイ!」といえば、若者向けの番組である。
ただでさえ、万引きを罪と思っていない若者が多いのに、こんなことを公然と流していいのだろうか。
フジテレビは、その姿勢を問われるべきである。
この放送を見てから以降は、ぼくは「ヘイ!ヘイ!ヘイ!」はおろか、ダウンタウンの出ている番組も見ないことにした。
もちろん、相川の歌も聞かない。

話は変わるが、数年前に、万引きで生計を立てている夫婦がよく来ていた。
この夫婦は「万引き夫婦」と呼ばれ、当時ぼくの働いていた店の近辺では有名だった。
この夫婦はCDを主に万引きして、その他の商品には見向きもしなかった。
CDを狙ったのは、換金目的からである。
また他の商品に手をつけなかったのは、足が付くからである。
夫はいつも酔っていた。
焦点の定まらない目で店員にクダを巻いて、その間に嫁が盗る、という手口だった。
ぼくの売場も何回か被害にあっていた、
そのため、彼らが来るといつも神経をそちらに集中させていた。
それを察した夫がいちゃもんをつけてくる。
一度、ぼくのネクタイをつかみ、「表に出ろ」と凄んだことがある。
「おう、出ろうやないか」とぼくが応じ、入り口までいっしょに行くと、夫が突然「ぼくたち盗ってません」と言い出した。
ぼくが「誰も盗ったとか言うてないやろ」と言うと、夫は「本当です。盗ってません」と重ねて言った。
しかし、ぼくはその時、彼らが盗ったのを知っていた。
ただ現場を押さえていなかったため、「盗ったやろ」と言えなかったのだ。
嫁の腹が軽く膨らんでいたのである。

翌日、またその夫婦はやってきた。
「昨日はすいませんでした」と言いながら、また「本当に盗ってないです」と言った。
それから1年近く、週に何度か訪れるようになった。
こちらも注意していたので、彼らもなかなか手を出せない。

ある日、彼らはちょっとしたこちらの隙をついて、CDを盗った。
その万引き現場が、しっかりとビデオテープに録画されていた。
さっそくぼくは警察に連絡した。
やってきた警察の人は、そのビデオを見るなり、「お、これはNやないか」と言った。
「こいつはCD専門なんよ」と言い、「また来たら連絡して」と言って帰っていった。
翌日、開店と同時に、その夫婦はやってきた。
その時は、まだCDのケースにカバーをかけていたので、あっさりと帰った。
ぼくが「来ました」と警察に連絡すると、10分ほどして本署から5人ほどの刑事がやってきた。
ぼくが刑事に事情を話しているところに、再び万引き夫婦はやってきた。
「あいつらです」とぼくが目で合図すると、刑事は散らばった。



2002年08月18日(日) 万引き その1

小売店や百貨店には、切っても切れない縁の人たちがいる。
それは万引きである。
ぼくも販売員を20年以上やっているので、少なからず彼らと接してきた。
そういうそぶりを一切見せず、こちらがまったく気づかないまま盗っていく名人もいれば、いかにも「やるぞ」といった雰囲気の人間もいる。
前者は、こちらが気づかないうちに、さっと来て、さっと帰る。
こちらが神経を使う暇がない。
気がつけば商品がなくなっている。
「あれ、売れたかな」と思い、売上げデータを調べてみる。
が、売れた形跡はない。
おかしいなあと思い、店内を探し回る。
が、見つからない。
そこまできてやっと盗られたことを悟る。
いつやられたのか、誰にやられたのか、まったくわからない。
後で、見えない犯人の顔を思い浮かべては、悔しい思いをしているわけである。

後者の場合は、その多くが集団でやってくる。
そのため、こちらは始終彼らに張り付いてなくてはならないので、神経が磨り減るし、他の仕事が出来ない。
中には威嚇してくる奴らもいる。
こういう場合、決して慌てたり、うろたえたりしてはならない。
威嚇行為をやる奴らはおとりである。
実際攻撃をしてくるわけではない。
こちらの目を威嚇行為に向けさせておいて、その間に他の奴らが盗るのである。

前の会社にいた時には、しょっちゅうこの手の万引き集団が来ていた。
目つきの悪い兄ちゃんが商品を狙っていたので、ぼくが見張っていると、別のデブの兄ちゃんがぼくの所にやって来た。
「こら、お前何見よるんか!」
ぼくは無視して、目つきの悪い兄ちゃんのほうを見ていた。
「こら、聞こえんとか!」
それでも無視である。
「殺すぞ!」
何を言われても無視していたので、デブの兄ちゃんは帰って行った。
デブの兄ちゃんが帰るのを見て、目つきの悪い兄ちゃんも盗るのを諦めて帰って行った。

その数日後、目つきの悪い兄ちゃんが他の仲間とやってきた。
またぼくは見張っていたのだが、電話がかかったので、女子社員に「見張っとけ」と言ってその場を離れた。
相手は女子社員と思ってなめたのだろう。
さっと商品を袋に入れて、走って行った。
その女子社員は、ぼくに「しんちゃん、盗られた」と言って追いかけていった。
ぼくもすぐさま電話を切り、その後を追いかけていった。
店の外に出てみると、その女子社員が兄ちゃんの持っていた袋をつかんでいた。
「あんた盗ったやろ」
「盗ってない」
「ちゃんと見よったんやけね」
兄ちゃんは「うるせえ、くそばばあ」と言って、女子社員に蹴りを入れた。
そこをぼくが捕まえた。
「離せ、おれ盗ってない」
「でも、蹴ったやろうが」
「・・・、ああ」

騒ぎを聞きつけて、他の従業員がやってきた。
兄ちゃんも観念したようだ。
その後、警備室まで引っ張って行った。
その途中に何度か逃げるそぶりを見せたので、ぼくはベルトの後ろをしっかりと掴んでいた。
「離せ」
「だめ、お前逃げるけ」
「逃げんけ、離して」
「いや」
すると兄ちゃんは、威勢よく「○○署の人に、Hというたら知らん人はおらんけ」などとわけのわからないことを言い出した。
警察に名前を知られていたら、カッコイイとでも思っているのだろう。
そこでぼくが「お前、そんなことが自慢なんか」と言うと、兄ちゃんは急にトークダウンして「・・いや、そうじゃないけど」と言った。

警備室に連れて行くと、また兄ちゃんの態度は一変した。
兄ちゃんは以前からその警備員を知っていて、なめていたのである。
兄ちゃんは急に偉そうになった。
警備の人の質問にも、適当に答えているのがわかった。
そこでぼくが、「お前、仲間がおったやろうが」と聞くと、「おらん」と言う。
「この間のデブは仲間やろうが。何なら捕まえてきちゃろうか」とぼくが凄んで言うと、兄ちゃんはまたシュンとなり、「いや、あの人はたまたま店であっただけ」と言った。
「うそつけ!」
「・・うそやない」

その後のことは警備員に任せ、ぼくは売場に戻った。
兄ちゃんは警察に連れて行かれたらしい。
その後兄ちゃんがどうなったのかは知らないが、二度と店に現れることはなかった。



2002年08月17日(土) 溺愛

今日、あるパートさんの話を聞いて、目が点になった。
パートさんの娘さんの同級生に、過保護に育てられた男の子がいるらしい。
その男の子は、今年高校1年生ということだが、いまだに母親といっしょに寝ているという。
いったい何を考えているのだろう。
団塊の世代の後のぼくたちの世代も、さんざん「過保護世代」と言われたが、それでもぼくは、小学校6年生の時には、すでに母親といっしょに外出するのを拒んでいた。
中学や高校の時には、街で母親とすれ違うことさえ嫌だった。
そんな状況だったから、母親といっしょに寝るなんて、とても考えられないことだった。

いっしょに寝ている母親も母親だ。
高校1年生といえば、新陳代謝の激しい時期である。
男の場合、人生の中で、これほど「臭い」時期はない、と言っても過言ではない。
青臭い、汗臭い、足が臭い等、思春期の男性は臭さの塊である。
よく、そんな臭い生物といっしょに寝る気が起きるものだ。

おまけに、その時期の男は不潔である。
高校の頃、ぼくも含めて周りは、インキンタムシの花盛りだった。
皆さん股の周りをボリボリと掻いていたものだ。
これは元々不潔にしていると起きる病気であるが、むれたりしてもなることがあった。
特に中学・高校時代は、体育の時に短パンをはくので、トランクスをはいていると、ちょっと始末が悪い。
短パンからトランクスの裾がはみ出たり、体操座りをしていると見たくないものが見えたり、と大変である。
そのため、ほとんどの男子は、ブリーフを着用していた。
しかし、このブリーフが曲者だった。
そう、通気が悪いため、むれるのである。
そのうち、そのむれた部分がかぶれてしまい、インキン化してしまう。
まあ、その子がインキンだかどうかは知らないが、不潔であるのは確かだろう。

ちなみにぼくの例で言うと、中学生の頃は風呂に入っても体を洗ったことがなかった。
俗に言う「カラスの行水」をやっていたわけである。
また、1ヶ月くらい頭を洗わなくても平気だった。
そのため、頭は臭かったし、痒かったし、フケがたくさん出ていたものだ。

話を元に戻す。
次の話を聞いて、ぼくは倒れそうになった。
もしかしたら、広い世間のことだから、大きくなっても母親といっしょに寝ている子は、他にもいるのかもしれない。
しかし、今から話す例は稀だろう。
その子は、中学の頃まで、大きい用を足した後、「おかーさーん」と呼んでいたという。
呼ばれた母親は、何とトイレの中に入って、お尻を拭いてあげていたというのだ。
ほとんどの子は、幼稚園に上がる前には、すでにお尻は自分で拭いているだろう。
「甘えるにもほどがあるわい!
いい年して、お前は母親にうんこの始末させて、チンチン見られて嫌じゃないのか」
と、つい大声上げで怒鳴りたくなった。

その子は学校の成績がよく、進学校に合格したらしい。
しかし、いくら勉強できても、自分のうんこの始末も出来ない人間が、社会で通用するとでも思っているのだろうか。
これは立派な不具者である。
「母親の溺愛が、息子を不具者にしてしまった」と謗りを受けても、何の反論も出来ないではないか。
息子ももう高校生なんだから、いい加減に世話を焼くのをやめたらどうなんだ。
そういうことが世間に広まっているということは、その母親が何らかの形で公表したのかもしれない。
そうであれば、つくづく馬鹿な親と言わざるを得ない。

もしかして、その母親は息子に手を・・・
いや、それは考えたくない。



2002年08月16日(金) 寝冷え

どうやら寝冷えしたようだ。
どうも調子が悪い。
朝から何度もトイレに駆け込んでいる。
休みだからよかったものの、仕事だったら大変なことになっていた。
いつも言っているように、ぼくはエアコンがあまり好きなほうではない。
茶の間はともかく、自分の部屋はエアコンを入れていない。
そのため、夏場家にいる時は、いつもトランクス一枚である。
もちろん寝る時もそうだ。
裸のおなかの上に、タオルケットを一枚引っ掛けて寝ているにすぎない。
ところがここ数日、朝方はめっきり冷えるようになった。
寝る時間帯は相変わらず暑苦しく、夏モードで寝ているため、朝型の寒さに対応できない。
そういう理由から、寝冷えしたのだと思う。

ぼくは、40歳くらいまではあまり胃腸が丈夫なほうではなかった。
そのため、よく腹を壊していた。
汚い話だが、便の周期や硬さが一定していなかったのだ。
毎日便の状態が違う。
一時期、あまりにひどくなったので、正露丸を常用していたこともある。
その後は、「こういう体質なのだ」とあきらめていた。
ところが、どういうわけか40歳を過ぎてから、胃腸が丈夫になった。
毎日決まった時間にお通じがあるし、硬さも一定だ。
さらに、歯を磨いている時に、えづくこともなくなった。
「やった、治った」と喜んでいたら、代わりに疲れがたまるようになったり、物忘れがひどくなったりした。
やはり、人生はバランスが取れている。
全てが良好ということは決してないものである。

これを書いている途中にも、腹が「グルグル」言っている。
今回の寝冷えは、何回トイレに連れて行ってくれるのだろうか。
そういえば、下痢をした時、お尻が痛くなるのはどうしてだろう。
ぼくは痔ぎみではあるが、この痛さは痔の痛さではない。
なにか、内臓がじわじわと出てくるような、鈍く気持ち悪い痛さである。
そのため、残余感や残尿感を感じる。
何か落ち着かない。
今日、本屋に歩いて行ったのだが、歩いている時にも、お尻が何かむずむずする。
おまけに、本屋に入ると、例のごとく便意をもよおしてしまう。
「痛い」「暑い」「したい」、今日はこの三重苦であった。

さて、いよいよ気分のほうがすぐれなくなってきた。
窓は全開しているものの、風が全然ない。
そういう理由から、こういう事態に陥っても、ぼくは夏モードで過ごしている。
腹は、案の定冷えている。
「多少の暑さは我慢して、上に何か着ればいいじゃないか」、と思う方もおられるだろう。
しかし、今「暑さと痛み、どちらかを選べ」と言われれば、暑いのは我慢できないから、痛いのを選択するだろう。
それほど、風の通らない部屋は暑いのだ。

ということで、今日はこれで終わりにします。

PS: ああ、座っているだけでも痛い!



2002年08月15日(木) ペテン師

人生はやり直しがきかないという。
しかし、ぼくの考えはちょっと違う。
人生はやり直しがきく。
というより、人は何度も同じ人生をたどるのだ。

人は死ぬと、ある程度の時間を置いて、またこの世に生まれ変わると言う。
いわゆる輪廻転生説である。
この輪廻転生でいう、生まれ変わり先は、あくまでも未来である。
輪廻転生説では、前世の記憶はすべて消されると説く。
しかし、そういうことをして何になるというのだろうか。
もし、未来に生まれるとしたら、前世の体験や経験は全然生きてこないじゃないか。
すべて0からのスタートで、何の進歩があると言うのだろうか。
解脱しない限り永遠にこの輪廻転生を繰り返すことになると言われているが、はたして、過去の体験や経験が全然生かされない人生に、何の発展があると言うのだ。
これは絶対おかしなことである。
というより、神や仏は、生きとし生けるものをいじめているとしか思えない。

では、もしもその生まれ変わり先が未来ではなく、今、つまり今生だったらどうだろうか。
これなら大きな発展が望めるだろう。
何度も何度も、同じ人生をやり直すわけだから、いくら記憶を消されたとしても、何らかの形で残っているものである。。
例えば、「いつだったか、この風景を見たことがある」とか、「以前、この光景に出くわしたことがある」とかいうデジャブは、そういうことの現われだろう。
よく「何か悪い予感がしたので、飛行機を一便遅らせた。おかげであの事故に遭わずにすんだ」などという話をよく聞くが、その「予感」と言うものも前世の記憶の領域に入る。
前世での失敗を、予感という形でもって修正しているわけである。

この論法からすれば、予言者というのはペテン師ということになる。
なぜなら、彼らは普通の人が読めない未来を読んでいるのではなく、前世で経験したことや見聞きしたことを語っているに過ぎないからだ。
その前世の記憶を、「予言しました」というふうに世間に触れ回っているのだから、ペテン師と呼ばれてもしかたないだろう。
彼らは決して「予言者」ではない。
が、「妙に記憶力のいい人」とは言える。

そういえば、姪がまだ小さかった頃、よくおかしなことを言っていた。
3歳の時だったか、通りがかりの中学生を見て、急に「私が英語の先生だった頃ねぇ、あの人生徒やったんよ」と言い出した。
そして、見知らぬその中学生を「○○君」と呼んでいた。
それを聞いて、ぼくたちは唖然としていたが、よくよく考えるとこれも前世の記憶なのかもしれない。
ずっと後に、その話を姪にしてみると、「えー、私そんなこと言うたとー」と言って笑っていた。
姪は今大学生だが、そのうち英語の先生になるのかもしれない。

さて、この仮説はぼくが頭で考えたものではない。
ある日忽然とひらめいたのだ。
最初は面白がってこの仮説で遊んでいたのだが、最近はかなり真剣に受け止めるようになってきた。
次章で失敗しないように、今から準備しておかないと、と思うようになった。
そのために、今までの人生の節目節目に、チェックポイントを設けている。
「そういえば、あんなことがあったが、あの場面、今度はこう選択してみよう」とか、「あの時ああいうことを言ってしまったが、あれは失敗だった。次はこう言ってみよう」などと、その時期の記憶にチェックを入れている。
こうしておけば、次の人生はうまくいくはずである。
いよいよ来世、ペテン師しろげしんたの活躍が始まる。



2002年08月14日(水) ちょっと気になる話

(1)
小学3年の夏休みに、地元の河内貯水池の畔に当時あった、八幡製鉄所の保養所に行ったことがある。
その日、親戚一同が集まって、そこで宴会をしたのだ。
宴もたけなわ、名古屋から来ていた叔父が自慢のカメラを取り出して、写真を写しだした。
その時の写真は今でも残っている。
もちろん30年以上も前のことだから、カラー写真ではない。
全部白黒写真である。
その中に何枚か変な写真がある。
伯父と伯母とぼくの3人で横並びになって写っている、ありきたりの写真なのだが、何とその写真、ぼくたちの下半身が透き通っているのだ。
周りには光が飛び散り、しっかりと心霊写真の様相を呈している。
その後、ぼくたちに霊障が起きたということはない。
ただの失敗だと思うのだが、どうも腑に落ちない。
その後、その保養所は、ある短大の研修所になった。
何年か前に、「そこには出る」といううわさを聞いたことがある。

(2)
福岡県にも芦屋という地名がある。
兵庫県の芦屋と違って、ここは町である。
歴史や茶の好きな人は「芦屋釜発祥の地」、ギャンブルの好きな人は「芦屋競艇」のある所、と言えばお分かりいただけるだろう。
ここは昔から異質な場所であったと言われる。
古くは、陰陽師「芦屋道満」と密接な関係があったと言われる。
当時、兵庫県の芦屋は、筑前芦屋の出先であったとも言われている。
また、ここには「芦屋念仏」なるものがあったと伝えられる。
そういえば、今でも芦屋は人口のわりにお寺が多くある。
これもその言い伝えの裏づけになるのだろうか。

さて、その芦屋には城山という小高い山がある。
高貴な方の陵だとか、古戦場だったとか、いろいろな説がある。
霊能力のある人は、そこに行くと「何かを感じる」と言う。
地元の年寄りの話によると、そこに家を建てたりすると、その家は必ず滅びるらしい。
とにかく、芦屋は、その歴史の古さから、いろいろな伝説を抱えている場所である。

ぼくが小学6年生の頃だった。
ある話題が学校中を駆け回った。
その話題とは、芦屋で起きたある事件の話である。
ある雨の降っている夜のこと、バス停でバスを待っている一人の女性がいた。
運転手はそれを見つけバスを停めた。
女性が乗ってきた。
バスには他に2人のお客がいた。
つまり、女性を含めると、お客は計3人になる。
そのバスは「芦屋行き」だった。
途中で2人が降りた。
「残りはあと一人、あの女性だな」と思って、運転手がミラーを見ると、バスの中には誰も乗ってなかった。
そのせいで、そのバスの運転手はノイローゼになったと言う。

この話は有名な話で、ぼくが高校に上がった時、友人にこの話をしたのだが、みなその話を知っていた。
まあ、地域によって、天候やお客の人数やその後の運転手がどうなったかというのは違っていたのだが、その行き先はみな一様に、芦屋であった。
ぼくは社会に出てから、芦屋を訪れることが多くなった。
が、芦屋に行くと妙にその話が蘇ってきてしまう。
バス停を通り過ぎる時には、いつも「誰も立っていませんように」と祈っている。



2002年08月13日(火) 洞穴

ぼくは昭和34年に、今住んでいる場所に引っ越してきた。
2歳の頃だから、当然その当時の記憶はない。
それ以前にここがどういう状態だったのかは、よく知らない。
聞いた話によると、それ以前ここは池であったとか、海の入り江だったとかいうことだ。

さて、今は団地が出来て跡形もなくなっているが、20年ほど前までぼくの家の裏には小さなハゲ山があった。
その山には洞穴があった。
これも聞いた話だが、その洞穴は防空壕だったということだ。
ぼくが小学生の頃には、その洞穴を探検に来る人が多くいた。
わりと遠方から来る人もいた。
みな手にろうそくを持って来ていたのを覚えている。
その洞穴は、入り口が幅2メートルほどあり、中に入ると直径5メートルほどの円形の空間になっていた。
その奥は通路が細くなっており、通路を10メートルほど行くと、山の裏側に出た。
ぼくが中学生の頃に、その穴は埋められてしまった。
理由は「危険だ」ということだった。

その穴が自然に出来たものでないことは、まだ幼かったぼくにもわかった。
では、いったい何のためにその穴は掘られたのだろうか。
長い間、そのことはぼくの中で疑問であった。
ぼくの住む一帯は埋め立てて住宅を作った場所であるため、そのことを知っている人もいない。
町の歴史にもそのことは書いていない。
仮に防空壕であったとしたら、「この辺も空襲にあいました」くらいのことは書いているはずだが、それもない。
実際、爆撃を受けていたとしたら、終戦後それほどたっていない時期だから、付近に空襲の傷跡が残っているはずだ。
しかし、長いことこの地に住んでいるが、そういう場所があるとは一度も聞いたことがない。

しかし、防空壕でないとしたら、その穴はいったい何のために掘られたのだろうか。
木の実がなるとか、果物が採れるとか、畑があるとか、そういう生産性のある山ではなかった。
だから、その穴が貯蔵庫に使われたという推理は立てにくい。
古墳などという歴史的なものでもない。
それなら、当然郷土史に書いてあるはずだ。
墓穴でもない。
そういう雰囲気を漂わせる山ではなかった。

やはり防空壕が妥当なのだろうか。
そうであれば、以前ぼくが、もんぺ姿のおばあさんの霊や、戦時中の格好をした子供の霊を見たことも納得がいく。
戦時中、ぼくの住んでいる場所は入り江で、防空壕付近で死んだ、子供や年寄りの遺体を、当時岬であった後のハゲ山から投げ捨てた。
そういう浮かばれない霊を、ぼくは見たわけだ。
また、こういう話もある。
2,3年前、ぼくと同じ団地に住むじいさんが死んだ。
そのじいさんは、死ぬ前に奇妙な行動をとっていたという。
団地内の駐車場に塩をまいていたというのだ。
近所の人が「何をしているんですか」と聞くと、じいさんは「ここにはたくさん霊がいるので、清めているところです」と言ったという。
その駐車場とは、今の団地に建て替える前にぼくが住んでいた場所である。
そう、ぼくが「もんぺ姿のおばあさん」の霊を見た、まさしくその場所である。
ぼくがその場所に住んでいた時、ばあさんの他にも、白い影や、誰もいないはずの階段に人の気配を感じたりしたものだ。

さて、あの洞穴は何だったのだろうか。
ぼくが見た霊に、何らかの関係があるのだろうか
この謎は年々、ぼくの中で深まるばかりである。



2002年08月12日(月) 店内を走るな!!

7月20日の日記で書いたが、夏休みに入ってからほとんど毎日、ガキが店内を走り回っている。
こちらも気がついたら注意をしているが、到底追いつかない。
店に来たガキは、みな走り回っているからだ。
走り回っているのはガキだけではない。
ある程度分別があると思われる、中学生や高校生までが走り回っている。
声変わりしたむさくるしい男たちが、大声を出して騒いでいるのは不気味なものがある。

今日頭に来たことがある。
いつものようにガキが走り回っていた。
3,4歳の子だった。
ふらふらして危ないので注意しようと思ったら、何といっしょに遊んでいるのは、その子のじじいだった。
追いかけっこをしているのだ。
家の中でやっていることを、何も店に来てまでやることはないと思うのだが。
仮にその子がこけたりして、大怪我をしたとしたら、その責任は誰がとるんだろうか。
おそらくじじいは、責任逃れをするに違いない。
そして、店の管理がなってない、となるだろう。

夕方のこと。
ぼくがテレビの前のカウンターで伝票整理をしていると、小学生のガキがやってきた。
そして「あ、テレビ。イス借りよう」と言って、勝手にイスを持っていこうとした。
ぼくは「だめ!」と言った。
するとそのガキは、「ふーん、だめなんか」と言って、テレビの前にだらしない格好で座り込んだ。
しばらく黙って見ていると、その子の弟がやってきた。
弟も同じようにテレビの前で座り込んだ。
そのうち兄弟で寝転んでじゃれあいだした。
ぼくが「そんなところで寝転んだら、他の人に迷惑がかかるやろ。立ちなさい!!」と怒鳴ると、その子たちはサッと立ち上がった。
そして、へらへら笑いながらどこかに行った。
おそらく、親に「テレビ見てたら、店のおいちゃんから叱られた」と報告しにでも行ったのだろう。

ぼくは常々、いかに小さな子といえども、一歩外に出たら社会の一員であると思っている。
外で家の延長をやられると、周りの人が迷惑する。
自分の子供や孫は、かわいいから許されるとでも思っているのだろうか。
かわいいと思うのは当事者だけなのだ。
周りの人には憎たらしいガキとしか映らないのだから、外では外でのしつけをするべきである。

前の会社にいた時、壁とエスカレーターの間に挟まれて、怪我をした子供がいた。
命に別状はなかったのだが、鎖骨を折る重傷だった。
こういう場合、親が「この店の安全管理はどうなっているのか!」と怒鳴り込んでくるのが普通である。
が、この子の母親は違った。
翌日「このたびは息子が迷惑をおかけして、大変申し訳ありませんでした」と子供を連れてわびに来たのだ。
そして子供にも、「あんたが悪かったんだから、ちゃんとこのおじちゃんたちに謝りなさい」と言って謝らせた。
こちらも誠意を尽くしたのは言うまでもない。

毎年どこかで、エスカレーターでの事故が起きている。
そのたびに、店の安全面が問われる。
しかし、事故を起こすのは「エスカレーター」ではない。
それを使用している「人」である。
そこで遊んだり、ふざけたりしなければ、たいがいの事故は防げるのだ。
では、そういうことを誰が教えるのか?
先生でも、政治家でも、警察でも、消防士でも、医師でも、店のおっさんでもない。
それを教え、しつけるのは親である。
事故をネタに慰謝料を請求するのが親の務めではない。
事故が起こらないように導いてやるのが親の務めである。

今日の標語
「店内で 遊ぶな、走るな、ふざけるな!」
である。



2002年08月11日(日) 盆踊り

今日は8月11日か。
ぼくが小学生の頃、この日は登校日だった。
先生が黒板に山の絵を描いて、「7月21日がふもとで、8月1日の登校日が5合目付近、そして今日8月11日はちょうど山頂にあたります」と言っていたのを覚えている。
祭や海水浴といった夏休みの楽しいイベントは、大半がこの日以前、つまり前半で終わってしまう。
一つ残ったイベント、盆踊り大会も、後4日すれば終わってしまう。
それから後は台風が来たり、宿題に縛られたり、あまり面白かったという記憶はない。
高校野球も、次の登校日である8月21日頃には終わってしまう。
それを過ぎると、「夏休みはあと○日しか残ってない」という焦りと寂しさでいっぱいになる。

さて、いよいよお盆である。
そういえば、最近ぼくの住んでいる地域は盆踊り大会をやらなくなった。
いろいろ事情があるのだろうが、一番大きな理由は、高層マンションやアパートが急に増えたため、この地域を故郷にしている人の割合が極端に少なくなったということだ。
つまり、お盆になると、この地域に住む人の多くは故郷に帰るということである。
これでは盆踊りも出来ない。

地域の連帯感がなくなったこともある。
以前は町内を細かく区切っていたため、町内会長がいろいろ世話を焼いてくれていたが、区画整理をしてからこちらは、より町内が広域になったせいもあり、手が回らなくなった。
何せ、ぼくの住む1丁目だけでも、5千人以上の人が住んでいるのだから。
その中には外国人もいる。
習慣や宗教の違う人たちに、「盆踊り大会に参加してください」と言っても、所詮無理な話だろう。

また、高層の団地がたくさん建ったために、公園の数が減ってしまった。
以前は各町内に一つの割合で公園があったのだが、今は広いだけがとりえの、とってつけたような公園が一つあるだけである。

とはいえ、町内会としては、何かやらないと示しがつかないので、最近は8月の頭にその公園を利用して、カラオケ大会なんかをやっている。
しかし、その頃は北九州最大の祭とかぶるため、すこぶる人の集まりは悪い。

ぼくが小学生の頃は、盆踊り大会も賑やかだった。
町内のあちらこちらから、盆踊りの歌が流れていた。
踊りに参加すると、アイスクリームをもらえるという特典もあった。
また、盆踊りのある8月13日から15日の3日間だけは、駄菓子屋も夜の9時までは店を開けていた。
いわば、子供たちが公然と夜遊びのできる3日間だったわけだ。
盆踊り大会で一番よかったのは、夜も友だちと遊べることだった。
夜に友だちと会うというのは、昼間会う時とはまた違った感じがしたものだ。

幸いぼくは盆踊りという習慣を通して、日本の伝統や文化を体験して生きてこれたのだが、今この地域に住む子供たちは、それも知らないまま大人になっていくのだろう。
それを考えると、ちょっとかわいそうな気がする。
でも、まあいいか。
彼らのことだから、盆踊り大会があったとしても、相変わらず家にこもってゲームをやっているのだろうから。



2002年08月10日(土) 偽者

今日、家に帰ってから、テレビをつけてボーっとしていた時の話である。
午後9時頃だったか、突然「ヴィレッジシンガーズ、亜麻色の髪の乙女」と言うのが聞こえた。
懐かしいサウンドが始まった。
何が起こったんだろうと、テレビを見てみると、そこには現在のヴィレッジシンガーズがいた。
懐かしい顔ぶれがそこにあった。
多少人生に疲れたような顔をしていたが、歌っていたのは紛れもない本物の清水道夫であった。

あの事件から約1週間経つが、大きな花束をもらい、調子に乗って「亜麻色の〜」と歌っていた犯人の顔が、いまだに脳裏に焼きついている。
清水さんは少し関根勤に似た顔をしている。
それなのに、どうして主催者や町の人は、銀蠅顔の男に騙されたのだろうか。
これは主催者や町の人が、清水道夫を知らなかったと言うしかない。
もし、今日の放送が1週間早くあったら、あの事件はなかったに違いない。
それ以前に、「亜麻色の髪の乙女」がリバイバルしなかったら、今回の事件も起きなかったかもしれない。

この事件を知った時、ぼくは、タイトルは忘れたが、かつて渥美清が主演していた、あるテレビドラマを思い出した。
有名な作詞家と偽って、郡上八幡に住み着いた男(渥美)の物語だった。
素性を偽りながらも、その男はいろいろな事件を解決したり、郡上八幡音頭を作詞したりと、けっこう活躍していた。
最後はとんずらして終わったのだが、何かほのぼのするドラマだったのを覚えている。
もしかしたら、犯人はこのドラマを知っていて、それをヒントにしたのかもしれない。

あの町の人は、人を疑うことを知らない善良な人たちが多いのだろう。
仮にぼくが、「昔オックスにいた、赤松愛です」と言っても信じるかもしれない。
「オックスの赤松愛? ああ、いたなあ。あの失神の人でしょ」
「途中で脱退したみたいだけど、あれから苦労しなさったんだねえ。そんなに頭が真っ白になってるなんて、思ってもみなかった」
ぼくが調子に乗って『スワンの涙』や『ダンシング・セブンティーン』を歌っても、「愛さんは脱退してからいろいろあったんだねえ。昔はあんなに声は太くなかったのに」と言われ、疑う人はいないのかもしれない。

高校の頃の話。
修学旅行から帰ってきて最初の音楽の授業の時だった。
友人のオナカ君が授業をサボり、代わりにCという男がオナカ君になりすまして授業を受けていた。
授業の前にはいつも点呼があった。
「オナカ」
「はい」
すると先生が、「お前はオナカか?」と聞いた。
Cは「はい、そうです」と言った。
先生は、無表情に「オナカは顔が変わったねえ。修学旅行行って顔が変わったねえ」と言った。
教室内は爆笑の渦になった。
しかし先生は、相変わらず無表情だった。
そして「そうか、まあいい」と言って授業を始めた。
こういうふうに最初にチクリとやられ、後は知らん顔されるのは辛いものがある。
これに懲りたのか、Cはその後二度とオナカ君の代わりにはならなかった。

話は元に戻るが、今日の清水さんは笑顔がなく、何か憮然としていたように見えた。
その番組は生放送と言っていたので、当然あの事件の後である。
案外、「おれが本物の清水道夫だ。よく覚えとけ!」と思っていたのかもしれない。



2002年08月09日(金) 髪細り

先週の金曜日に床屋に行ったのだが、帰り際に床屋の姉ちゃんから、ちょっと気になることを言われた。
「髪が柔らかくなったねえ」
『それは髪が薄くなったということか』と聞こうと思ったのだが、小心者のぼくは、もしそうだったら困るので、何も聞かずに帰った。
家に帰ってからもそのことが気になっていたのだが、「白毛族はハゲない」という信念を貫こうと思い、そのことを極力考えないようにしていた。

ところが今日、風呂から上がって鏡を見ると、そこには、かつて見たことがない哀れな自分の姿が映っていた。
洗った髪の隙間から、地肌全体が透けて見えるのだ。
もちろん白髪なのだから、今までもある程度は透けて見えたのだが、今日みたいに頭全体に広がって見えたことはなかった。
『もしかして、これを髪細りと言うのか・・・』
これから起こるはずの楽しい人生が、ぼくの中で音を立てて崩れていく。
将来同窓会などで、かつて好きだった人と再会した時の、情けない自分の姿を想像すると、かなり辛いものがある。
その時に起こるかもしれない、甘いロマンスを期待していたぼくは馬鹿だった。
おそらく彼女には、年相応のただのおっさんにしか映らないだろう。
「このハゲのおっさんは誰だったか?」と思われるのも辛い。

しかしねぇ、今更育毛なんかやって行く気もせんのですよ。
すべて流れに任せる主義だから、細くなりゆく自分の髪を眺めては、ため息をついていくことにしますわい。

ぼくは20代の頃から、サラリーマンを辞めて、自由業に就きたいと思ってきた。。
理由は、髪を伸ばしたいからだ。
ロン毛と言われるほどには伸ばしたくないが、せめて高校時代くらい、そう耳が隠れるくらいは伸ばしたい。
まあ、髪が伸ばせるのなら、サラリーマンだってかまわないのだが、堅気の職場ではそういうことは許されないだろう。

これまで、サラリーマンを辞めるべく、いろいろな自由業を模索してきた。
ミュージシャンもそのひとつである。
40代になるまでは、レコード会社にデモテープを送ったり、スナックで歌ったり、といったことをしていた。
また、物書きになるべく、ワープロを買い込んで、必死に勉強した時期もある。
こういう努力も、すべては髪を伸ばすためである。
しかし、ミュージシャンや物書きには、いまだなれないでいる。
当然髪は伸ばせない。
もう40代も半ばである。
そろそろめどをつけないと、時間をかけて自由業に就いても、伸ばす髪がなくなっていたではシャレにならない。

さて、そろそろ髪が乾いてきた。
乾いてくると、髪細りはさほど目立たない。
かえって髪が多くなったような気がする。
さっきと今と、どちらが本当なんだろう。
もしかしたら、これも何かに化かされているせいなのかもしれない。
そういえば、現在夜中の2時なのだが、外はやけに明るい。



2002年08月08日(木) 暑い!

  『影枕』

 何をしても情けない日々と うだる夏の暑さで
 狂ったような体が 汗をしぼり出す。
 昼寝をするにしても 涼む所はなく
 たまに吹き来る風に任せて 寝息も荒く

  加減のきかぬ影枕
  あっちに行ったり
  こっちに来たり
  ふう、まだ始まったばかり

 毎日毎日体温にも似た 温度計(はかり)を見ては
 芋の子洗いの海もいや 登るに疲れる山もいや
 せめては風呂へと思っても つかるだけではやり切れぬ
 暑い暑い いや 面倒だ面倒だ 

  加減のきかぬ影枕
  あっちに行ったり
  こっちに来たり
  ふう、まだ始まったばかり 始まったばかり


19歳の頃に書いた詩である。
まだエアコンが一般的ではなかった時代の、ぼくの夏の一コマである。
あの頃は、とにかく寝ることで暑さを忘れるようにしていた。
とは言え、ぼくはそう夏が嫌いではないほうなので、この時とばかり日光浴をしていたこともある。
とにかく、夏は黒く焼かないと何か損をしたような気がしていたからだ。

さて、話を現在に戻すが、とにかく暑い!
どうにかしてくれ、といった暑さである。
生まれてこの方、こんなに暑かったことがあっただろうか。
とにかく陽に当たると痛い。
サウナよりも暑い。
沖縄でもこんな経験はなかった。
幸いにも、ぼくは店の中で仕事をしているので、普段はあまり暑さとは縁がない。
しかし、倉庫に商品を取りに行ったり、タバコを吸いに行ったりした時に、この暑さを嫌と言うほど体験させられる。
いつも涼しい場所にいるので、突然暑い場所に行くと、体が対応しきれないのだろう。
生まれてこの方最高の暑さと思うのは、いかに今年はエアコンに依存しているのかというのがよくわかる。
実際、車のエアコンは最低の温度に設定しているし、家でも食事の時だけはエアコンを入れるようになった。
この辺も昨年とは大きな違いがある。
まあ、せめての救いは、寝る時にエアコンを入れてないことくらいだ。
これで、エアコンを入れて寝ていたとしたら、この夏いつか倒れてしまうだろう。
いつもエアコンの中で暮らしている人間が熱中症で倒れたとしたら、世間の物笑いになるのは必至である。

「心頭滅却すれば、火もまた涼し」という言葉があるが、あの言葉は嘘である。
なぜなら、心頭を滅却すれば、涼しいという気持ちも起きないはずだからである。
あの言葉を真に受けて、「涼しい」という気持ちを探したことがあるが、結局その「涼しさ」を探しているうちに暑くなってしまった。
まあ、夏は暑いものと割り切ってしまえば、気は楽なのだろうけど、この暑さじゃねえ。
とにかく、この史上最高の暑さは、まだまだ続くだろう。



2002年08月07日(水) 広告塔とホーロー看板

最近見なくなったものの一つに、田んぼの中の広告塔(正しくは何と言うのか知らない)がある。
今でこそJR鹿児島線の折尾・博多間は住宅街の中を走っているが、つい20数年前までは、その住宅街となっている所は一面田んぼであった。
汽車に乗って博多に遊びに行く時、列車の窓から見える各場面に必ず一つは広告塔があった。
ぼくが覚えているのは、「おたふくわた」「カクイわた」「小野田セメント」「ナショナルテレビ」「日立テレビ」などである。
その中でも特に印象に残っているのは、「日立テレビ」である。
「日立のテレビ」と書かれた文字の上で、なんとテレビが笑っているのだ。
ほのぼのとした田園風景の中、あれほどマッチした広告塔はなかった。
先ほども言ったとおり、今は住宅街になっているので、もしそういう広告塔が残っていたとしても、電車の中からは見ることが出来ない。

10年ほど前に新幹線で東京に行った時、岐阜の長良川辺りで、「727」と書かれた看板を見つけた。
その看板は延々と続いている。
「あれは何を意味しているのか」と同行した友人が必死に考えていた。
「こんなところで、飛行機の宣伝はせんやろうし・・・」
と言いながら、ぼくも気になっていた。
後でわかったが、それは化粧品の広告看板だったようだ。
しかし、ただ「727」だけでは何のことかわからない。
先の日立のテレビのように、その周りの風景に溶け込んでいるわけでもないし、これではある種牧歌的な旅情というものも薄れてしまう。

田舎に行くと、よく大村昆の「オロナミンC」や水原宏の「キンチョール」、由美かおるの「アース」などの看板をかけた家を見かけたものだった。
ぼくは知らなかったが、この看板のことを「ホーロー看板」というらしい。
マニアの間ではかなりの高値で売買されているようだ。
昔は小学校の通学路にも、この手の看板があった。
しかし、こういう看板がかかっているのは、決まって土壁で、今にも潰れそうな家が多かった。
実際その家に、人が住んでいるのかどうかも怪しかった。

最近家の近くでは、こういう看板も見かけなくなった。
しかし、遠方にドライブをした時などは、時々見かけることがある。
以前、熊本の黒川温泉に行った時、ある薬屋さんの中で、このホーロー看板を見つけた。
おそらく、そこの店主はマニアなのだろう。
かなり古いものもあったようだ。
島根県の津和野に行くと、「一等丸」と書かれた看板を見かけた。
一等丸とは腹痛の薬で、この地域では有名らしい。
というので、ぼくも一袋買った覚えがあるが、それを飲んだことがないので、効き目のほうはわからない。
また、山口県の萩には「ちょんまげビール」という看板がしつこくかかっている。
もちろん地ビールで、ぼくは一度飲んで見たいと思っているのだが、これも飲んだことはない。
他にも、鹿児島に行った時に、「ぼんたん飴」や「兵六餅」という看板を見たことがある。
ホーロー看板、いまだ健在ということだろうか。

しかし、寂しく思うのは、これらの看板は、地元の特産物や土産品でしか使われてないということだ。
例えば、「トヨタの車」とか「ソニーのVAIO」などと書かれた、ホーロー看板や田んぼの広告塔を見てみたいものである。



2002年08月06日(火) 化かされた話

よく狸や狐に化かされた話を聞く。
以前ここでも、そういう話を書いたことがある。
ある女性が山に行った時に女の子と出会い、その女の子と2時間ほど遊んでから山を降りてみると、大騒ぎになっていた。
その女性は2時間と思っていたが、実際は2日ほど経っていたのだ。
そのため、地域の人が大捜索を繰り広げていたらしい。
当の本人は藪などで引っかいた傷はあったものの、いたって元気だったということだ。

いつもと同じ道を歩いているのに、全然知らない場所に出た、とか、いくら歩いても、同じ場所に出る、とかいう話はよく聞く話である。
ちびまる子にもそういう話が載っていた。

こういう話は、田舎での話だと思われるだろうが、そうではない。
実際、繁華街でも起きているのだ。
かく言うぼくが、その体験をした。

何度もここで書いているので、ご存知の方も多いと思うが、ぼくの住んでいる地域の中心は黒崎というところである。
JR黒崎駅の乗降客は、博多、小倉に次いで多い。
JR福北ゆたか線の一方の基点で、私鉄や路線バスの基点でもある。
そごうや長崎屋の倒産などがあって、昔ほどの活気はないが、今でも多くの人が集まる場所に変わりはない。
そういう場所で起こった話。

ぼくの家は、その黒崎からバスで10分もかからない場所にある。
帰りは「小島方面」と書かれたバスに乗るのだが、黒崎からは同じ「小」のつく「小嶺」行きというバスがある。
「小島」は黒崎を挟んで北側、「小嶺」は南側に位置している。
高校の頃だったが、一度この「小島」と「小嶺」を間違えたことがある。
これは単なるぼくの勘違いだった。
それからは、バスに関してはわりと用心深くなり、ちゃんと路線番号と行き先を確認して乗るようになった。

その後、20歳の頃のことである。
いつものように、路線番号と行き先を確認してからバスに乗りこんだ。
しかし、なんとなくおかしい。
普段は3号線に出てから右車線を走るはずなのに、そのバスは左車線を走っている。
「右に入りそこなったんだろう」と軽い気持ちで考えていると、筒井という交差点で左に曲がってしまった。
ぼくの家に帰るには、その交差点から右に入らなければならないのだ。
「乗り違えたかのう」と思いながらも、すぐに降りるのは恥ずかしいから、2つ先のバス停で降りた。

さて、その数日後のことである。
友人と黒崎で会った帰りの話。
その友人もバスに乗って帰るのだが、ぼくの乗るバス停のある車線と逆の車線にバス停があった。
ぼくは時間を待たなければならなかったので、しばらく友人に付き合うことにした。
しかし、友人の待っているバスはいつまで経っても来ない。
ぼくの乗るバスのほうが先に来てしまった。
バスには、はっきり「小島方面」と書いてある。
それを確認して、ぼくは走ってバス停に向かった。
寸前のところで間に合った。
ところが、そのバスも数日前と同じようなルートを通っている。
「あちゃー」と思って、行き先をよく見ると、「小嶺」と書いている。
その日も恥ずかしいので、2つ先のバス停で降りた。
そのバス停から黒崎まで歩いて戻っていると、一台のバスがぼくの横を通り過ぎて行った。
そのバスには友人が乗っていた。
彼はこちらを見ていた。
家に帰ってから彼に電話すると、彼は「どうして小嶺行きに乗ったんね」と言った。
「おかしいっちゃねぇ。ちゃんと小島行きと書いとったのに」
「いや、小嶺行きやったよ。どうしてしんたが走ってバスに向かったのか、不思議に思ったんやけど」
だいたいつい数日前に同じ間違いを犯したのだから、こちらもかなり注意深くなっている。
慌てたとはいえ、ちゃんとぼくは「小島方面」と書いているのを確認したのだ。
普通ぼくは、この手の話は笑い話にするのだが、この話だけはミステリーにしてしまう。
なぜなら、ぼくは自分の目を信じているからだ。

そういえば、その日は満月だった。
いやに月が明るかったのを覚えている。



2002年08月05日(月) 宮崎S旅館2

風呂から上がった後、食事をした。
大広間という名の、10畳ほどの部屋に通された。
汚いテ-ブルの上に、刺身を中心とした料理が用意されていた。
しかし照明の加減か、色が今ひとつさえず、新鮮味に欠けた。
中でもメインのかつおのたたきは、実際の色も悪く最低だった。

ところで、この部屋には大きな蚊がいて、色の悪い照明器具に集まっていた。
通常の倍の大きさがある。
ぼくが、ちょうどかつおを食べようとした時だった。
蚊取り線香をつけているものだから、その蚊がかつおの上に落ちてきたのだ。
運転で疲れ、風呂に騙され、古びた刺身を食べさせられ、挙句の果てに蚊による被害である。
いよいよぼくも切れそうになった。

その後部屋に戻り、友人と「この旅館、最悪やのう」などとこぼしていると、水の流れるような音が、廊下のほうから聞こえてきた。
「何だろう」と思い調べてみると、トイレから聞こえてくるのがわかった。
この旅館は2階建てで、ぼくたちは2階部屋に泊まっていた。
その2階の廊下の角にトイレがあった。
昔ながらのポットントイレで、タンクは1階にある。
そのため便をすると、便は一階まで落ちていく。
お尻を離れてからタンクに到達するまでに、ちょっとした時間差があった。
それはそれで面白かったのだが、こういうトイレは臭いが外に漏れるので困る。
廊下に出ただけでもその臭いがしていた。

さて、その音だが、結局トイレから発しているのはわかったのだが、原因はわからなかった。
トイレを覗いても、水が出ている様子でもない。
もしぼくに疲れと怒りがなかったら、これを怪奇現象として捉えていただろうが、その時は「ホント、つまらん旅館やのう」で終わらせた。

翌朝早々、ぼくたちはこの旅館を出た。
前日来た道を戻って行った。
昼ごろ宮崎市内に出たのだが、どうも心残りがある。
それは、ろくな風呂に入れなかったということだ。
そこにいたメンバーもみな同じ気持ちだった。
「それでは」ということで、帰りは高速を通らず、10号線を北上し、延岡から高千穂を通って、熊本の黒川温泉に行くことにした。
もちろん家に帰り着いたのは、夜中だった。

今その旅行の写真を見ながら書いている。
その中に一枚だけ、実に味わいのある写真がある。
それはS旅館に着く直前に偶然撮ったものだ。
都井岬は、野生の馬がいることで有名である。
そこの道路は車よりも馬が優先で、ぼくたちも何度か足止めを食らった。
停車している時のこと。
そこから100メートルほど離れた位置に、馬の群れがいた。
その時ぼくに、ある種の勘が働いた。
カメラを持っている人に、「あの辺を撮ってみて」と言った。
そして何枚かその人が撮っていると、ぼくの期待した場面が訪れた。
ある牡馬が雌馬にちょっかいをかけだした。
その度に後ろ足で蹴上げられた。
しかし、牡馬は諦めなかった。
何度か試みた後で、ようやくその「画」を作り上げた。
「撮れ!」
一瞬だった。
実に野性的である。



2002年08月04日(日) 宮崎S旅館1

昨日は宮崎のことを書こうと思っていたのだが、パイナップルのほうに話がずれてしまった。
日記も、あれを書こう、これを書こうとすると変になってしまうものである。

さて、宮崎の話である。
ぼくの住んでいるところから宮崎までは、高速道路を使っても4,5時間は優にかかる。
熊本までは楽に行けるのだが、そこを越え人吉に近づくと、道は一車線になる。
そこから、九州道最大の難所と言われるトンネル地獄が始まる。
連続した二十数個のトンネルをくぐらなければならないのだ。
トンネル内は対面通行で、対向車線とはパイロンで仕切っているだけである。
そのトンネルの長さだが、2キロ3キロはざらで、中には5,6キロのところも何ヶ所かある。
暗いトンネル、しかも道は狭く、遠くを見ると道はさらに狭まっているように見える。
こういう状態が延々と続くのだから、地獄と言わずなんと言おうか。

さてトンネル地獄を抜け、しばらく行くと「えびの」に出る。
そこから宮崎道の始まりである。
人吉付近と違い、道は二車線となり、視界は開けている。
南国の旅はそこから始まる。
宮崎道が終わると、そこからフェニックスの木が延々と続く。
同じ九州でも、北九州とは気候が大いに違っている。
気温はともかく、一番大きな違いは紫外線の量である。
宮崎は沖縄ほどではないが、北九州と比べるとはるかに多く感じる。
まさに南国宮崎の面目躍如である。

何年か前に、こういう道のりで宮崎の都井岬まで足を伸ばしたことがある。
その前にも何度か車で宮崎を訪れたことがあるのだが、青島どまりだったため、すべて日帰りだった。
しかし、その時は宮崎最南端に行くというので、一泊することにした。
仲間と綿密に計画を立ててのドライブだった。
ほぼ計画通りにことは運んだ。
が、肝心なところで手痛いミスを犯してしまった。
それは旅館である。
近くにグランドホテルがあったのだが、低料金でしかも露天風呂もあるということを本で読み、あえてそちらの旅館を選んだ。
旅館に着いて、まず拍子抜けした。
本で見た館内の画と、かなりかけ離れた風景がそこにはあった。
雑然と置かれた調度品の数々。
「掃除をしているのか?」という状況だった。
しばらくすると旅館の人が出てきた。
ウエイトレス風の制服を着ている女性だった。
しかしこれも予定外で、どう見てもその女性は60歳を超えている。
彼女は部屋に案内された時、露天風呂の事を聞いてみた。
なんと「今はやっていません」とのことだった。
「でも、館内にお風呂がありますので、そちらを利用して下さい」
食事の前にお風呂に行ったのだが、そのお風呂を見て仰天してしまった。
とにかく狭い。
しかも、肝心の風呂は、一般家庭でよく見かける空色のポリ製なのだ。
湯船も狭かった。
一人しか入ることが出来ないので、しかたなくぼくたちは二人一組で風呂に入ることにした。



2002年08月03日(土) パイン

  「南の旅」

 見下ろせば はるかな海が見える
 南の国に ぼくはやってきた
 風に乗って 降りてみようか
 もっと空を 飛んでいようか

  この街は パイナップル通り
  見れば街は 人だかり
  うん、一つ買ってみようかな
  だけどそれほど お金もないしね

 汗が流れて ひと泳ぎ
 やけどの海で こうら干し

  次から次へと 続く波に
  人、人、人が 乗ってくる
  初めて見下ろす 南の国が
  ぼくにはとても 懐かしくて

 息をつく暇もなく 飛び回ったよ
 旅の終わりには 汽車に乗ってね


以前この日記に、友人たちと宮崎に旅行に行ったことを書いたが、20歳の頃に、その時のことを思い出して書いた詩である。
この旅行で特に印象深かったのは、この詩にあるように、パイナップルだった。
それまでパイナップルは、パイ缶でしか食べたことがなかった。
生で食べたのは、おそらくこれが最初だろう。
そのパイナップルだが、輪切りにはしてなかった。
芯を抜いたものをたて切りにして、割り箸に刺して売っていた。
価格は100円くらいだったと思う。
味のほうはシロップにつけているわけでもなかったので、それほど甘くは感じなかった。
すっぱいというのが第一印象だった。
さらにえぐい。
これを食べて、パイ缶というのは砂糖菓子だと初めて気づいたのだ。
しかし、このすっぱさとえぐさで、充分にのどの渇きが癒えたのを覚えている。

小学生の頃の話だが、駄菓子屋に「パインアイス」というパイナップルを輪切りにした形の氷菓子が売っていた。
価格は5円で、お粗末なビニール袋に入っていた。
けっこう人気商品だったので、みんなが一度は手にとっているらしく、ビニール袋はいつも手垢で真っ黒だった。
ぼくはこれが好きで、夏になると毎日食べていた。
しかし、6年生の頃、人工甘味料問題が沸騰し、「パインアイス」は駄菓子屋から消えていった。
それから30年近く「パインアイス」にお目にかかってなかったのだが、ある日セブンイレブンで売っているのを見つけた。
懐かしさのあまり、思わずこれを手に取り、さっそく購入した。
しかし、食べてみてがっかりした。
ぼくが小学生の頃食べていたものに比べると、甘さが違う。
それが入っていた袋を確かめてみると、そこには「砂糖」と書いてあった。
ぼくが覚えている甘さというのは、問題になった人工甘味料「チクロ」の甘さである。
上品な砂糖の甘さではない。
何か寂しい思いがした。
当然その後は、「パインアイス」を一切口にしていない。



2002年08月02日(金) 夏の風物詩 その2

こうやってゴキブリ恐怖症は克服できたのだが、家の中にゴキブリがいるのはあまり気持ちいいものではない。
昨日も日記を書いている時に、ぼくの足元をササーッと通り過ぎて行った。
「この部屋には食べ物もないのにどうして?」と思ったが、パソコンの中にでも住み着かれたらことなので、パソコン周りにゴキブリホイホイを仕掛けた。
今朝見てみると、かかっていた。
体長5センチほどの立派な体格をしている。
ゴソゴソとうるさいので、ふたを開け、日にさらしておいた。
5分ほどで絶命したようだ。

ゴキブリを殺す方法もいろいろある。
とにかく叩くと汚いので、よりきれいな殺し方を試してみた。
東京にいる頃によくやったのが、中性洗剤で殺す方法。
空気が汚れる殺虫剤よりずっときれいだ。
やり方は、中性洗剤をゴキブリにサッとふりかけるだけである。
ゴキブリは何歩か歩いた後、痙攣を起こしてそのまま動かなくなる。
ゴキブリを捨て、後は床を拭き上げれば終わりである。
洗剤なので床もきれいになる。
もうひとつの方法は、熱湯をかけること。
一度飛び跳ねて絶命する。
熱湯だから、当然消毒されるわけだ。
これも、後で濡れたところを拭いておけばいい。
しかし、これらの方法には欠点がある。
中性洗剤が常に手元にある。
熱湯がいつも準備できている。
こういう条件を満たさない限り、これらの方法は取れない。
しかたなく、いつものように新聞紙やスリッパを利用してしまう。

最近テレビでその存在を知り、物は試しにというノリで買った殺虫剤がある。
「泡でちっ息、固めてポイ!」というキャッチコピーの、『瞬間ゴキパオ』(白元)である。
わざわざ「ゴキブリが大キライな人用」というサブタイトルがついている。
「はたして『ゴキブリが大スキナ人』はいるのだろうか?」という素朴な疑問を投げかけたくなるサブタイトルである。
「みんな買え!」という意味だとは思うが。
この殺虫剤については、買ったばかりということもあり、まだ一度も使用したことがない。
タイミングの問題があるから、そう何度も使えるものではないと思う。
この夏、一度は使ってみたいと思っているのだが。

最近見かけなくなったもののひとつに、蠅とり紙というものがある。
よく魚屋とかに天井から吊るしてある、両面がベタベタしたガムテープのようなものである。
ぼくの家は、高校の頃までポットントイレだったため、よくトイレからくそ蝿が飛んできた。
トイレの中に蛆殺しなどを散布して、元から絶とうとしたのだが、なかなか追いつかない。
しかたなくこの蝿とり紙を仕掛けていた。
しかし、食卓の上で揺れている蝿とり紙ほど、汚く感じたものはない。
頭の上を、蠅の着いた蠅とり紙が行ったり来たりしているのだ。
もし、食事中に蠅とり紙が落ちてきたとしたら・・・。
考えただけでも、恐ろしいことである。
それにしても、よくあの状態で食事が出来たものだ。
それだけ時代や人間が、野性的だったとも言える。

今仮にあの頃の夏の生活を強いられるとなると、ちょっと考えものである。
異臭とメタンガスの発生源、ポットントイレ。
食卓の上には、見るからに汚い蠅とり紙。
ひっきりなしに攻めてくる蚊の群れ。
空中をしつこく飛び回る、大型のくそ蠅。
照明器具めがけて飛ぶゴキブリ。
・・・
あな恐ろしや。



2002年08月01日(木) 夏の風物詩 その1

今年は蚊が少ない。
家でも、会社でも、あまり刺された覚えがない。
平年なら、汗ばんだ体に蚊が何匹もまとわりつくのがうっとうしいのだが、今年はそれがない。
7月の頭に何度か刺されたが、それを最後に今年は刺されていない。
毎年この時期になると、蚊取り線香のにおいを嗅ぐのを楽しみにしているのだが、どうやら今年はこの季節の風物詩を味わうことが出来そうにない。

さて、その蚊に刺された時だが、以前はよくムヒやウナコーワといった類の塗り薬を塗っていた。
こういうのを塗ると、一時的にはスッとして痒みが治まるのだが、ある時間がたつと、また痒くなってくる。
もう一度ムヒ等を塗るのだが、今度はあまり効き目がない。
効き目がないとなると、変にこの痒みに執着してしまうことになる。
刺された場所によっては、あまりの痒さにのた打ち回ることもある。
ある時、忍者関係の本を読んでいると、「鼻の脂が炎症に効く」と書いてあった。
半信半疑でこれを試してみたのだが、痒みがスッと引いてしまった。
その後痒みがぶり返すことはなかった。
ほどなく腫れのほうも引いてしまった。
それ以来、ぼくは蚊に刺されると、この「鼻の脂の術」を使うことにしている。
しかし、今年は蚊が少ないから、この術も使わなくてすみそうだ。

少なくなった蚊とは対照的に、ゴキブリの数が増えている。
ここ数日、少なくとも5匹は見ている。
もちろん成虫である。
突然「ムッ」とした表情で彼らは現れ、こちらが叩く道具を探しているうちにさっさと逃げてしまう。
どうしてこうタイミングが悪いんだと、いつも悔しい思いをしている。

ゴキブリに関しては、小さい頃に親から「触ったら病気になる」などと吹き込まれたため、後々までゴキブリに凄い恐怖心を抱いていた。
ゴキブリを見ると、「死ぬんじゃないか」とまで思いつめていた時期もあった。

それを克服したのは、小学校高学年になってからだった。
当時ぼくは、ひよこを一羽飼っていた。
飼い始めた当初は鳥の餌を与えていたのだが、そのうち勝手に虫などを捕まえて食べるようになった。
ある日ゴキブリを見つけた。
たまたま手元に蠅たたきがあったので、ぼくは恐る恐るゴキブリを叩いた。
見事命中のはずが、かすっただけに終わった。
しかし、ゴキブリはこの一撃でかなり弱っている。
その時ぼくの後ろにいたひよこが、そのゴキブリめがけて突進してきた。
そして嬉しそうに、そのゴキブリをムシャムシャと食べだした。
「おい、死ぬぞ」と言ったが、お構いなしだった。
その後、ひよこに変わったところはなかった。
ますます元気になっているように思えた。
その日からひよこは、ぼくが蠅たたきを持つと、喜んで着いてくるようになった。
蠅や便所蜂など、ぼくが蠅たたきで叩いたものはすべて食べる。
その中でも、一番の好物はゴキブリのようだった。
ゴキブリを一匹たいらげると、ぼくの顔を覗き込み、「もっとくれ」というような顔をする。
こうなると、ぼくもゴキブリが怖いなどと言っておれなくなった。
家のゴキブリは絶滅したんじゃないか、と思えるくらい叩きまくった。
そのうちゴキブリに対する恐怖心は消えていった。
その後、ひよこはすくすくと成長した。
団地で飼うことは不可能なので、親戚が引き取っていった。
最後は立派な鶏肉になったということだ。
ぼくに「今日鶏鍋するけ、食べに来い」と言ってきたが、さすがにぼくは遠慮した。
そこには情もあったが、何よりもそのひよこの嗜好を知っていたからだ。


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