頑張る40代!plus

2002年06月30日(日) 旧暦5月20日(雨)

「頑張るイタチ君!」
あ、そうそう。
この間のイタチ君の件だけど、罠にはかからなかったけど、別に仕掛けていた毒団子を食べたらしい。
そのせいか最近は発報しないとのこと。
しかし、彼は、店のどこかにある小さな穴から侵入していたらしいから、また新手がやってくるかもしれない。
ある人の話によれば、その穴を見つけて、そこに杉の枝を置いていたらイタチ君も入ることができない、ということだ。
しかし、その穴を見つけることが至難の業である。
それをやるためには、壁際にある倉庫を壊してからじゃないとできないだろう。
ということは、非破壊検査を頼むしか手がないのか。
でも、あれはけっこう費用がかかるらしいからなあ。
おそらく会社は、イタチごときに金は出さないだろう。
また「いたちごっこ」を繰り返すしかないんだろうか。

「隠れ1位」
この間「しろげしんたが選ぶ、決定日本のベスト20」というのをやったが、『君が代』を1位にするのに、ある種の躊躇があった。
別に政治がらみ云々ではないのだが、そこまでポップスや歌謡曲できていたので、「突然『君が代』ではねえ」という思いがあった。
しかし、『曼珠沙華』を2位に持ってきた以上、1位を『君が代』にしなければ、あの企画も成り立たなくなる。
さて、じゃあ仮に『君が代』を1位に持ってこないとしたら、何を1位にしようか。
それこそのた打ち回った。
選んだ歌はすべてで尽くしている。
この上何を持ってきたらいいんだろう。
いろいろ考えたあげく、あるひとつの歌が心に浮かんだ。
『♪おれはこの世で一番、無責任と言われた男・・・』(無責任一代男)
「これにしようか。これならオチがつく」と思ったものだった。
しかし、「あそこまで引っ張ったから、こういうオチじゃ納得せんだろう」と思い、結局『君が代』に落ち着いたのだった。
まあ、こういう企画物にはいろいろ裏がある、というお話でした。

「旧暦」
最近、『Eメール暦全書』というメールマガジンをとっている。
翌日の暦を教えてくれるメルマガで、毎日お昼ごろ届く。
なぜそのメルマガをとっているかというと、二十四節気と旧暦を知りたかったからである。
だいたい、日本の季節というのは二十四節気通りに動いている。
体験的に1年を通して、一番寒いと感じるのは1月20日前後である。
そう、ちょうどその頃が「大寒」である。
そのことを知ってから、ぼくは二十四節気に興味を持つようになった。
二十四節気を知ってから、ぼくは本当の意味での季節がわかるようになった。

旧暦に興味を持ったのは他でもない。
月の満ち欠けを知りたかったからである。
40歳を越えた頃から、ぼくは星を見るのが好きになった。
その星の鑑賞を邪魔するのが月である。
星がきれいに見えるのは、月が出てないときである。
そのためにぼくは月齢付きのG-SHOCKを買ったのだが、時計をしているとかぶれてしまうので時計を腕にするのをやめてしまった。
だいたい、月の満ち欠けというのは新聞を見ればわかることなのだが、毎日それを見るのも面倒だ。
そこで思いついたのが旧暦だった。
旧暦だと1日が新月、3日が三日月、15日が満月になる。
こんな便利な暦を、どうして使わなくなったのだろう。
これだと、山で遭難しても、海で漂流しても、だいたいの日付がわかるじゃないか。

日本の文化というのは、いまだに旧暦が根強く残っている。
芭蕉に『五月雨を 集めて早し 最上川』という句があるが、これを現在の太陽暦に当てはめると、『集めて早し』が全然生きてこない。
梅雨時期(今の6〜7月にかけて)の雨だから生きる句である。
七夕もそうである。
生まれてこの方、7月7日に晴れていたという記憶がない。
太陽暦の7月7日は、日本では梅雨の真っ盛りである。
「織姫と彦星は今年も会えなかった」と、小学生の頃いつも思っていたものだった。
しかし、これも旧暦なら合点がいく。
太陽暦だと、七夕は8月の中旬にあたる。
歳時記でいえば、「夜の秋」というのが妥当な時分か。
月は半月、台風さえ来なければ、星の見ごろである。
旧暦に戻そうという声が、最近あちらこちらで聞かれはじめている、と何かの本で読んだことがある。
ぼくもそうなればいいと思う一人である。



2002年06月29日(土) 店長からの電話

さっそく洋楽ベスト20といきたいが、続けてやると面白くないので、今日はやめることにします。
というより、心の準備ができてないので。

さて、朝のことである。
開店前に、突然ぼくの携帯電話が鳴った。
『誰だろう?』と画面を見てみると、店長からだった。
『今日、店長休みやったかなあ?』と思いながら電話を取った。
「しんちゃ〜ん、愛してる」と言う。
いきなりの愛の告白である。
50代半ばの男から愛の告白を受けても、全然嬉しくない。
しかも、ハゲである。

「はい何でしょうか?」
「そっけないねえ」
「忙しいのに、つまらんこと言うけですよ」
「いいやないね。うだうだ・・・」
「で、ご用件は?」
何でも、今日は店周りの草刈をするので、開店準備をするように、店長代理に伝えてくれということだった。
店長代理に用があるのなら、わざわざぼくの携帯に電話することないだろう。
こっちだって忙しいのだ。
本人に直接電話しろ。

そういえば、前にもこんなことがあった。
その日休みの店長から、ぼくの携帯に電話が入った。
「もしもし、何かあった?」
「え?」
「電話が入っとった」
「おれ、してないですよ」
「いや、事務所からやけど」
それなら事務所に電話すればいいじゃないか。
ぼくはめったに事務所に行くことがないので、そこであったことなど知るはずがない。

店長はぼくの携帯によく電話をかけてくる。
「しんちゃ〜ん、うちの嫁さんがいじめる〜」
「今から飲みにおいで〜」
「今日はうちの草刈したよ〜」
ぼくにとっては、どうでもいいことである。
こういう電話の時の店長は、たいがい酔っている。
おそらく『ゆでだこ』みたいに顔を真っ赤にして、電話をしているのだろう。

自分の携帯を替えた時にはすぐに電話してくる。
「携帯替えたよ〜」
「そうですか」
「今度からこの番号に電話してね」
「わかりました」
「ところで、これどうやって使うんかねえ」
「知らん!」
ぼくはドコモ、店長はauである。
操作方法が違うので、ぼくが知るわけがない。
「auの人に聞いたらいいやないですか」
「冷たいねえ。教えてくれたっていいやん」
「だから、知らんっちゃ。取説よく読んだらわかるでしょ?」
「じゃあ、あんた読んで勉強しとって」
「・・・」

突然メールを始めると言い出して、メールアドレスを考えてくれ、と言われたこともある。
その時は、事務所の女の子が考えた「R2323」というアカウントにした。
「R」は店長のニックネームの頭文字で、「2323」はフサフサである。
凄い皮肉だったが、本人は「お、いいねえ」といたく気に入っていた。
幸せな人である。

話は元に戻る。
店長代理にそのことを伝えた。
「草刈しよるけ、開店準備ができんち言うんやろ。さっき聞いたよ」
「えっ! 今電話があったんやけど」
「何考えとるんかねえ、あのおっさん」
「何も考えてないでしょう」



2002年06月28日(金) ある新聞記事より

“「雨の日のVIP」
雨がシトシトと降る夜は、戸畑署員の不安の日だ。60歳くらいの男性が決まってやって来て、当直員を困らせるからだ。
署員によると男性は日雇い労働者らしい。
だが、最近は仕事がなく戸畑の街を自転車に乗り夜の寝床を探しているという。戸畑署に現れると酔っ払った上に死んだふりをして居座る。そして保護室で朝を迎える。彼にとっては警察署が格好のホテルとなる。
実は、男性は根気が必要な山芋掘りの名人。金が尽きると山で長さ1メートルはある自生の山芋を掘り、料亭と1本1万円で取引する。
「どこか彼の働く場所はないのかな。山芋を掘る根気で頑張ってくれれば」と、署の幹部は雨雲を恨めしそうに見上げている。”
 (6月26日付毎日新聞朝刊より)

この記事を読んで、ぼくは「ふざけるな!」と思った。
この『60歳くらいの男性』とは、ぼくがこの日記で再三紹介している、酔っ払いのおいちゃんのことである。

ぼくが何に対して「ふざけるな!」と思ったか?
別に、こののんきな記事に対してではない。
それは警察の態度に対してだ。
何が、雨の降る夜が不安、だ!
そちらは雨の日だけじゃないか。
こちらは、一時期、毎日のようにこのおいちゃんに泣かされたんだぞ。
このおいちゃんから、怒鳴られたり、凄まれたり、叩かれたりしたお客さんのことを考えて言っているのか!?
売り場に来ては、クダをまき、タバコの吸殻を捨て、痰を吐き、どれだけ迷惑したと思っているんだ。
困ってあんたたちを呼べば、厄介そうな顔をするし。
こちらのほうが数倍恨めしい気持ちになるわい。

こんな警察の情けなさを見せつけられると、「おいちゃん、もっとやってやれ」という気持ちになる。
しかし、「死んだふり」をするとは笑わしてくれる。
おいちゃんはタヌキか? はたまたマル虫か?
そういう時、警察はどう対処しているんだろうか。
以前、店の前で倒れたように眠っていた時は、ぼくは蹴りを入れてやったのだが、まさか警察はそこまでしないだろう。
おそらく、「もしもし、どうされましたか?」などと言っているのだろう。
そんな甘っちょろいことで、このおいちゃんを退散させられるわけがない。
時には怒鳴って追い出すくらいのことをしないと、このおいちゃんは付け上がるばかりだ。

それにしても、あのおいちゃんが「山芋掘りの名人」だとは。
確かにそうかも知らないけど、後がいかん。
ビニール袋にその日の収穫を入れて売り歩いているのだが、売り方がひどい。
まるで押し売りである。
しつこく相手に絡み付いて、無理やり売りつけているのだ。
断られると、因縁をつけている。
あげくのはてには、そのビニールの中に痰を吐いている。
そして、またそれを別の人に売りつけている。
その料亭も、無理やり売りつけられた口だろう。

まあ、毎日新聞の記者(杉)さんも、暇だからこんなこと記事を書いたのだろうが、その背景まで調べてほしかった。
調べていくうちに、その60代男性のことを書いたサイトがある、ということまでわかったかもしれない。
そうすれば、『頑張る40代!』の宣伝にもなっただろうに。
残念!



2002年06月27日(木) しろげしんたが選ぶ、決定日本の歌ベスト20 後編

さて、今日はいよいよ第1位の発表である。
実は、この企画はかなり前から考えていた。
その時から、1位はどう考えても『曼珠沙華』だった。
ところが、ごく最近、その考えが変わった。
この『曼珠沙華』よりも存在感のある歌を、ぼくは知ってしまったのだ。
20位から2位までを見て、「なんだ。えらそうに言ってるくせには、しろげしんたもたいした選曲をしないんだな」と思った人もいるかもしれない。
しかし、今日のこの1位は誰もが納得してくれると自負している。

実を言うと、ぼくはこの歌を入れるべきかどうか、かなり迷った。
入れるとしたら当然1位なのだが、そうすれば、「不謹慎だ」とか「ふざけるな!」という声が聴こえてきそうな気がしてならない。
しかし、1位は1位なんだ。
これ以外に1位はありえない。
そう自分に言い聞かせて、あえて1位にこの歌を持ってきた。

この歌は日本人なら誰でも知っている、と思う。
SMAPの中居くんも、サッカーの三都主も、ちゃんと歌えるのだ。
いつの世も、この歌は第1位である。
では、そろそろ発表しましょう。

第1位
『君が代』日本国国歌
W杯の時、会場全体で歌う『君が代』は、実にすごいものがあった。
旋律にこの国の伝統を見、歌詞に歴史を見た。
これほど、素直な歌をぼくは知らない。
回りくどい言葉はすべて取り除かれている。
だから誤解も生まれる。
その歌詞の解釈もいろいろある。
そのために社会問題にまで発展した。
この歌に、イデオロギーという色を塗りたがる人たちがいる。
勝手に理屈をこねて、「天皇崇拝」だの「軍国主義」だの「憲法違反」だの「血なまぐさい」だの、彼らは言いたいことを言っている。
彼らとてサッカーの試合は見ただろう。
その時、彼らはこの歌を聴いてどう思ったのだろうか?
この歌に誇りを持てなかっただろうか?
この歌よりも、他国国歌の、行進曲のような歌のほうがよく感じたのだろうか?
彼らは、その旋律に癒されないのだろうか?
どうも、曲がった心根の人の考えることはよくわからん。

そういう解釈がまかり通るのなら、こちらも理屈をこねさせてもらいましょう。
ぼくに言わせれば、『君が代』は愛の歌、つまり恋歌である。
「素敵なあなた、いつまでも、いつまでも輝いていてほしい」
まるでユーミンの『卒業写真』を彷彿とさせるではないか。
また、この歌は人生応援歌という一面も持っている。
「あなたのの輝ける人生が、いつまでも続きますように」
「ボケずに長生きしてくれよ」
まさにこれは、ボブ・ディランの『Forever Young』ではないか。
そういう意味でも、この歌は完成されている。

こういう結果になりました。
長々とお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
これからもこういう企画をしていこうと思っています。
次回は、「しろげしんたが選ぶ、洋楽ベスト20」にしようと思っています。
さて、どの歌が1位になるか、お楽しみに。

最後に、今回の企画で懲りた人に念のために言っておきます。
洋楽1位は『星条旗よ永遠に』 じゃないよ。



2002年06月26日(水) しろげしんたが選ぶ、決定日本の歌ベスト20 後編 じゃないよ

第5位
『君を乗せて』沢田研二
ジュリーのソロでのデビューの曲である。
ぼくはタイガース時代を含めたジュリーの歌の中で、この歌が一番好きだ。
ほかの歌と比べると、単調な歌なのだが、これが実に歌いにくい。
サビの部分の「ああーああ〜♪」にこの歌の良さが凝縮されている。
ここを間違えると、この歌は死んでしまう。
ぼくのカラオケの定番でもある。
以前、友人の結婚式で、この歌をギターを持って弾き語りをしたことがある。
ただ、ギター一本だと、間奏の部分でどうしても白けてしまう。
そこで、間奏にハーモニカを入れたのだが、これが誤算であった。
ぶっつけ本番のアドリブでやったのだが、何か「メリーさんの羊」みたいになってしまった。
弾き語りというのは、本当に難しいものである。

同5位
『雨の中の二人』橋幸夫
雨の情景をここまで歌い上げた歌を、ぼくは知らない。
歌を聴くだけで、雨の日の情景が思い浮かぶ。
それに、橋さんの低く間延びした声が実にいい。
雨の日に甲高い声は似合わないものである。
ところで、この歌の出だしは、「雨が小粒の真珠なら 恋はピンクのバラの花〜♪」である。
これをどう解釈したらいいのだろう?
性格が曲がっているぼくは、すぐに変なふうに思ってしまう。
しかし、歌詞がこれほど意味深なら、ぼくじゃなくても第5位に入れるはずである。

第4位
『時代』中島みゆき
浪人時代に、ラジオから流れてきたこの歌に、深い感銘を受けた。
おそらくギターを弾いて作った曲だろうが、普通ギターで曲を作ると、変にコード進行どおりの歌が出来上がるものである。
そんな歌は、一番を聴いただけで「ありがとうございました。もういいです」となる。
しかし、この歌は聴かせるものがある。
歌い手の力量というものだろう。
後にこの歌を薬師丸ひろ子が歌っていたが、それこそ一番を聴いただけで、「ありがとうございました。もういいです」となった。
世に歌姫という言葉があるが、この人こそ歌姫であろう。

同4位
中島みゆきの「ファイト」という声が、実に弱々しいのが気にかかる歌である。
この歌に後の『空と君のあいだ』にある迫力は見出せない。
しかし、この弱々しい「ファイト」というリフレインに、中島みゆきの凄さを感じる。
こういう語り口調の歌も、最近は聴けなくなった。

第3位
『悲しくてやりきれない』フォーク・クルセダーズ
予備校に通っていた頃、休み時間になると、ぼくは友人とこの歌をハモっていた。
そのハモリが気に入っていたから歌っていたのか、その時代の境遇をはかなんで歌っていたのかは、はっきりしない。
ただ気がついたら、いつもこの歌を口ずさんでいたのだ。
小学生の頃に聴いたっきりだったのだが、なぜか心に残っていた。
この歌は、あの『イムジン河』の代わりに出された歌だというが、もし仮にあの時『イムジン河』が予定通り出されていたとしたら、この名曲は日の目を見たのだろうか?
また、そうだったとしたら、『イムジン河』はぼくの心に残っていただろうか。
当時ぼくは、この『イムジン河』をフォークルが歌っていたのをテレビで見たことがある。
しかし、小学5年生には難しすぎた。

第2位
『曼珠沙華』山口百恵
この歌に漂う不思議さはいったい何だろう?
山口百恵には、ほかにいい歌がたくさんある。
しかし、ぼくがあえてこの歌を選んだ理由が、この「不思議さ」である。
その不思議さの根源が、歌い手にあるのか、歌詞にあるのか、曲にあるのか、それとも三位一体のなせる業なのか、ぼくには今もってわからない。
静から動へ、動から静へ、こういう展開の歌というのは、どこにでも転がっている。
しかし、これほど自然にそれをやっている歌を、ぼくは知らない。
そういう展開をとりながらも、この歌には、静の中の動、動の中の静、という一面も持ち合わせている。
これぞ、まさに日本文化だ、と唸らせる名曲である。
この歌こそが事実上、ぼくの中の「ベスト1」である。
が、上には上がある。
この歌をしのぐ歌をぼくは見つけ出した。

さて、また時間がなくなってきた。
何度も何度も、お付き合いさせてすみません。
明日こそ、本当の「後編」にしますので、もう一日お付き合い下さいませ。



2002年06月25日(火) しろげしんたが選ぶ、決定日本の歌ベスト20 後編 じゃなく中編

第10位
『星の砂』小柳ルミ子
別に小柳ルミ子のファンではないのだが、この歌は出色である。
作詞:関口宏・作曲:出門ヒデというのが、当時ちょっと意外な感じがしたものだった。
しょっぱなからサビを持ってくる歌というのは、最近ではあまり聞かれなくなった。
この歌に特に思い出などはないのだが、素直に名曲ということで10位にランクした。

第9位
『都万の秋』吉田拓郎
数ある拓郎の歌でも、この歌が一番情緒があっていい。
この歌は「Live’73」というアルバムに入っているが、このアルバムにはあの『落陽』が収録されている。
その当時から『落陽』を気に入っている人は多くいたが、この『都万の秋』は見向きもされなかった。
ぼくは逆に『都万の秋』のほうに耳が行って、『落陽』の存在などはどうでもよかった。
みんながどうして「落陽、落陽」と大騒ぎするのか、不思議でならなかったものである。
ぼくはあるライブハウスでこの歌を歌ったことがあるのだが、演奏者に問題があったのか、全然受けなかった。

同9位
『静』吉田拓郎
この歌と『都万の秋』は優劣がつけがたかったので、同率9位ということにした。
この歌は、ブレイク以前に録音された、拓郎の幻のライブ盤に収録されている。
一般的には『花酔曲』として知られている歌だが、ぼくとしては『花酔曲』の流すような歌い方より、『静』の力の入った歌い方のほうが好きである。
あの拓郎が「歌詞を見なくても歌える」と言ったほど、覚えやすい歌詞で、かつ歌いやすい。
ぼくは千葉の市川で、この歌を200人ほどの前で歌ったことがある。
この時は受けた。
それに気をよくして、その後人の結婚式などで歌うようになった。
ほかの曲に押されて、あまり目立たない小曲ではあるが、その後の拓郎の活躍を予感させる名曲である。

第8位
『青春の影』チューリップ
これぞ青春の一曲である。
高校の頃、昼休みによく校内放送でこの歌が流れていた。
確かに『サボテンの花』もいい歌なのだが、ぼくはこの『青春の影』での財津さんの歌いっぷりを気に入っている。
このスタイルは、後に出した『夕陽を追いかけて』引き継がれている。
余談だが、当時ぼくたちがチューリップのメンバーの名前を言うときには、決まって「さん」付けていたものである。
別に「財津」とか「姫野」でいいような気もするが、そこは地元出身のミュージシャン、何か身近なものを感じていたのだろう。
しかし、武田鉄矢を「武田さん」「鉄矢さん」とか、井上陽水を「井上さん」「陽水さん」とかは言ってなかったなあ。

第7位
『酒と泪と男と女』河島英五
ぼくが飲み屋通いデビューの頃に流行っていた歌である。
当時の飲み仲間と、スナックで延々この歌を歌っていたものである。
今でもカラオケに行くと、たまに歌っているが、やはりこの歌は弾き語りでやるのが最高に気持ちいい。
もし、今駅前でストリートライブをやれと言われたら、斉藤哲夫の『されど私の人生』とこの歌は確実にやるだろう。
あ、そういえば『されど私の人生』は、このベスト20には入ってなかった。
残念ながら、この歌は21位だったのだ。

第6位
『能古島の片想い』井上陽水
ぼくは「陽水の歌の中で何が一番好きか?」と聞かれたら、躊躇なくこの『能古島の片想い』をあげるだろう。
高校の頃、学校の裏にある皿倉山で、よくキャンプをしていたのだが、その時にこの歌を歌っていたものである。
この歌を初めて聴いた時、ぼくは片想いをしていた。
そのせいか、かなり来るものがあったのを覚えている。
今でもこの歌を聴くと、当時を思い出す。

おっと、6位までしか書いてないのに、かなり長くなってしまった。
このまま1位まで書くとなると、夜が明けてしまう。
ということで、予定を変更して、明日までこの企画を延長することにします。
明日はいよいよベスト5。
意外な展開になるかも知れません。



2002年06月24日(月) しろげしんたが選ぶ、決定日本の歌ベスト20 前編

昨日のテレビ朝日の番組で、『決定日本のベスト100』という番組をやっていたが、何を基準に選んだのだろう?
時代を問わない内容だったのに、最近のヒット曲のオンパレードだった。
ちなみに、1位がサザンオールスターズ(TSUNAMI)で、2位が浜崎あゆみの歌だった。
同じサザンの歌でも、『いとしのエリー』はずっと下位にいたのだ。
これはおかしい。
こんなことがまかり通るなら、ぼくが選んだベストだってまかり通るはずだ。
ということで、今日と明日は、「しろげしんたが選ぶ、決定日本の歌ベスト20」をお送りします。


第20位
『星屑の町』三橋美智也
何年か前に、胃薬のCMで加川良がカバーして歌っていた。
しかし、三橋美智也のほうが味があっていい。
たしか、昭和36年に発表された歌だと思うが、この曲を聴くと、何となくその時代を感じる。
郷愁の昭和30年代の名曲である。

第19位
『終着駅』奥村チヨ
この歌が流行ったのは、ぼくが中学2年(昭和46年)の時だった。
初めて坊主頭にした頃に流行っていたので、思い出も深い。
同時期にヒットした歌に、朱理エイコの『北国行き』があったが、ぼくはどちらかというと、『終着駅』のほうがメロディ的に好きである。

第18位
『蘇州夜曲』李香蘭
言わずと知れた、服部良一さんの名曲である。
ぼくはこの歌を、子守唄代わりに聴いて育った。
後にASKAがいやらしく歌っているが、李香蘭の素朴な歌声にはかなわない。

第17位
『星の流れに』菊池 章子
最近亡くなった、菊池 章子さんの歌った名曲である。
スナックに8トラックのカラオケが置かれていた頃、メニューにあったのは、ムード歌謡と演歌ばかりだった。
そういう時代にぼくに歌える歌といえば限りがあった。
この歌もその数少ない歌の一つである。
ぼくはこの歌を聴くと、どぎつい化粧と真っ赤なワンピースのイメージを思い浮かべるのだが、それはなぜだろうか。
これも前世の思い出かなあ。

第16位
『砂に消えた涙』弘田三枝子
これを日本の歌にするかどうか、大いに悩んだ。
元歌はミーナというイタリア人が歌っているのだから、立派な洋楽である。
しかし、それを言ったらきりがない。
ちょっとこの歌について調べていたら、弘田三枝子バージョンは1964年に出ている。
ぼくが小学1年の時である。
その年、『東京五輪音頭』の他にどんな歌が流行っていたのか、ぼくの中では不明だったのだが、そうか、『砂に消えた涙』が流行っていたのか。
ぼくの時代の空白は、こうやって埋められていく。

第15位
『生きがい』由紀さおり
この歌が出る前に、由紀さおりには『手紙』という大ヒット曲があった。
しかし、ぼくはあえてこの歌を推す。
歌詞にはかなり悲しい、というより狂ったものがあるが、曲調はぼくの好きなものである。
この歌は、ぼくが小学6年の頃に流行ったとばかり思っていたが、調べてみると、中学1年の時に流行っている。
これも記憶の曖昧さがなせる業なのだろう。
ぼくはこの歌をカラオケで歌ってみたいと思っているのだが、セリフがあるからいつも躊躇してしまう。

第14位
『亜麻色の髪の乙女』ヴィレッジ・シンガーズ
この歌の話は一度したことがある。
最近、島谷ひとみがプロモーションビデオでこの歌を歌っているのを見たが、この歌は威張って歌う歌ではない。
それに、フリをつけて歌う歌ではない。
淡々と歌えばいいのに。
ちょっとイメージが狂った。

第13位
『寒い国から来た手紙』泉谷しげる
ここでようやく青春時代の歌が入った。
ぼくはこの歌を、リアルタイムに好きになったのではない。
友だちがカラオケで歌っていたのを聴いて、初めて好きになった歌である。
最近こんな曲はないなあ。

第12位
『春よ、来い』松任谷由実
ユーミンは、このほかにも好きな歌が何曲かあるが、この曲はまさに時代を超えた名曲だろう。
この歌が、橋田壽賀子を主人公にしたドラマのテーマ曲だったというのが、今でも悔しい。

第11位
『なごり雪』イルカ
これも名曲である。
この歌を聴くと、東京生活の最終章を思い出す。
ぼくがこちらに帰ってくる前の日だった。
その日一番仲のよかった友だちと新宿でパチンコをした。
その後駅で別れたのだが、その別れの間際に、彼が「しんたさん、本当に長い間お世話になりました」と普段とまったく違う口調で言った。
これを聞いて、ぼくは「ああ、東京が終わった」と思ったものだった。
この曲を聴くと、今でも彼のその言葉がよみがえる。
名曲というのは、いつも聴く人に思い出を与えるものである。



2002年06月23日(日) 夜の訪問者

ぼくの働く職場は、つくづく面白いところだと思う。
またまた事件が発生したのだ。
今朝出勤すると、店長代理がぼくを見つけて、「しんた君、大変なことになっとるよ」と言う。
「何かあったんですか?」
「いやね、昨日の夜、店のセンサーが反応して、発報したらしいんよ」
「ああ、またですか。それで警備会社が来たんですか?」
「うん。調べてみたら、センサーが反応したのは、しんた君の売場やったんよ」
「いつもうちですねえ」
「うん。でも、今日はちょっと状況が違うんよねえ」
「え?」
「臭いっちゃ」
「は?!・・・やったんですか?」
「うん、清掃の人が、ブーブー言いながら掃除しよったよ」

ここ何週間か、ほとんど毎日、夜になるとセンサーが反応しているらしい。
警備会社が駆けつけてみると、誰もいない。
人が入った気配もない。
おかしいと思い調べてみると、異様な臭いがするのに気がついた。
臭いの根源を訪ねてみると、そこには何か液体のようなものがあったという。

ぼくは慌てて売場へと急いだ。
店長代理が、「ね、臭うやろ?」と聞いた。
しかし、ぼくにはいつもの臭いとしか感じられない。
「うーん、よくわかりませんねえ」
「ここまで来てん。わっ、臭うやん」
そう言われると、そういう気もする。
すると、今まで麻痺していた嗅覚がだんだん効きだした。
かなりの臭いである。
「そういえば・・・」
「そうやろ。ここ一面にあったらしいけ」
そこにあったものは、先に言った液体のようなものだったという。
その正体は排出物、つまり『うんこ・しっこ』の類である。
臭いからすれば、これは『しっこ』ではない。
『うんこ』である。

いったい、何がこの排出物をばら撒いたのだろうか?
こういう液体系の『うんこ』は、猫や犬のものではないらしい。
もっと小さな動物だという。
ということは、ネズミかイタチの類だろう。
おそらく臭いの強さからいって、イタチのものだと思われる。
店長代理は、「今日、罠を仕掛けて帰るけ」と言った。

しかし、仮に罠にはまったとする。
その小動物がイタチだった場合、誰が処理をするのだろうか。
罠ごと外に運び出すのはたやすい。
しかし、その罠を誰が運ぶのかが問題になってくる。
下手すれば、一発かまされるのである。
その際、その人は息を止めて外まで持って行かなければならない。

手袋か何かをしてないと、手に臭いが付いてしまう。
かなり強い臭いなので、手に付いてしまうと、一度や二度手を洗ったくらいでは臭いは落ちないだろう。
食事の時、箸を口元に持ってくるたびにイタチの臭いがすれば、何を食べているのかわからなくなるだろう。

それだけでは万全ではない。
イタチ持ち運び用の服を着ていないと、いったん衣服に臭いが付いてしまえば、その人はその日から『イタチ』とか『スカンク』とかいうあだ名が付いてしまうだろう。
まったくもって世話の焼ける訪問者である。

さて、もうイタチ君は罠にはまっただろうか。
ネズミ捕りを大きくしたような、籠状の罠である。
もし捕まっているとすれば、朝ぼくと対面することになる。
ぼくは今、イタチ君を見たいような、見たくないような、複雑な気持ちでいる。
小動物は目がかわいいから、あの目を見るだけでも、けっこう癒し効果がある。
しかし、一発やられるのも嫌である。

そういえば、今日の彼へのおもてなしは、鳥のから揚げだった。
贅沢とも思われるが、イタチ君はから揚げが好物らしい。
少しばかり贅沢でも、早く退去してもらうにこしたことはない。
『野生のにおいのする店』といえば聞こえがいいが、つまり臭い店である。
「あの店臭いよ」という評判が立てば、お客さんは敬遠して近寄らなくなるだろう。
まあ、から揚げでも何でも差し上げますから、早めに捕まって下さいませ。



2002年06月22日(土) 有名人の話

以前働いていた会社には、よく芸能人が来ていた。
昭和56年の創業当初には、石川秀美・沖田浩之といった当時のアイドル。(たしかデビューしたての小泉今日子もきたと思う)
その後は水前寺清子や日野美加といった演歌系の人たち。
また、地元のお笑い界から、ばってん荒川や福岡吉本の面々。(知らんだろうなあ)
こういう人たちと、ぼくは別に言葉を交わしたわけではない。
ただ店に来てミニコンサートをやっていただけである。
物々しい警備に守られて、彼らはやって来た。
そして帰っていった。
その担当以外は、いつ来たのかも知らないのである。

ぼくが言葉を交わした人といえば、「秋冬」がヒットした頃の元高速エスパー三ツ木清隆、自衛隊出身の異色の演歌歌手東千春、アイドルの姫乃樹リカくらいである。
まあ、こういう人に会っても交わす言葉といえば、「頑張って下さい」くらいのものだ。
こちらは別に好きでもなんでもないのだから、普通の兄ちゃんや姉ちゃんと何ら変わりはない。

キャンペーンやイベントでもないのに来る人もいた。
俳優の高城丈二や歌手の清水健太郎である。
高城は小倉に女がいたとか。
また清水はただ単に出身地が小倉、という理由からである。
二人とも買い物に来ていたのだ。
特に清水は、「値引きしろ」の一点張りだったという。

これは店に来たとかいう話ではないのだが・・
かつて田中久美というアイドルがいた。
彼女は引退してから、しばらく小倉の百貨店「井筒屋」で働いていた。
もちろんアイドル音痴であるぼくは、田中久美のことなど全然知らなかった。
当時、井筒屋に友人が働いていたのだが、その人が教えてくれたのだ。
仕事中のぼくに電話をかけてきて、「しんたさん、今、田中久美おるよ。おいで」と言うのだ。
ぼくとしては、別にどうでもいいことなのだが、彼があまりにしつこく「来てくれ」というものだから、ちょっと仕事を抜け出して井筒屋に行ってみた。
わざわざぼくを、彼女が所属している売場まで連れて行き、「ほら、いるでしょう」と言う。
しかし、ぼくは田中久美という人がどんな顔をしているのかまったく知らない。
どうでもいいことなので、ぼくは「ああ」と生返事をしておいた。
結局、どれが田中久美なのかわからないまま、ぼくは職場に戻った。

以前「あの人は今」的な番組で見たのだが、元アイドルの藤井一子は今北九州に住んでいるらしい。
元々こちら出身なので、別にここに住んでいてもおかしくはないが。
その番組を見た時、彼女がデビューした時、同じ町内の人が「今度デビューしたんよね。せめてレコードだけでも」と言って、彼女のレコードを買っていたのを思い出した。
彼女は、ぼくが今勤めている店によく買い物に来ているという。
先日も取引先の人が、「さっき藤井一子が来てましたね」と言っていた。
しかし、地元出身であろうがどうであろうが、ぼくはアイドルなんて全然興味がない。
そういういきさつがあるので、藤井一子という名前は知っているのだが、顔を知らない。
だから、たとえぼくが藤井一子を接客したとしても、まったくわからないだろう。

これは芸能人ではないのだが、何年か前に小倉駅で、あの戸塚ヨットスクールの校長の戸塚宏を見かけたことがある。
あの顔は特徴があるので、有名人音痴のぼくも一見してすぐにわかった。
その時は「何でこんな所に?」と思ったが、あとで人から「戸塚宏は北九州出身」というのを聞き、「ああ、それで・・」ということになった。
ぼくが以前通っていたスナックのママさんは、戸塚さんとよく一緒に飲んでいたという。
戸塚さんの話が出ると、決まって「世間はいろいろ言うけど、あの人はね、立派な教育者なんよ」と言っていた。
先日懲役6年の刑が確定した時に、彼はインタビューを受けていたが、毅然とした態度で「この国に住んでいる以上、(刑を)受けざるを得ないでしょう」と淡々と語っていた。
そういえばぼくの周りには、戸塚さんの悪口を言う人はあまりいない。
古き良き教師像を、彼に見ているのかもしれない。



2002年06月21日(金) パソコンの調子が悪い

今6月22日午前1時ちょうどです。
実は、昼間からパソコンの調子が悪く、いまだに回復してない状態です。
そういうわけで、今日の日記の更新は非常に難しい状況にあります。

このまま日記を書いてもいいのだけど、あいにく明日は早出ときている。
よりによってこんな日に、ほんと世話の焼けるパソコンである。
これがほかの電化製品なら叩いて言うことを聞かすのであるが、何せ精密機械、それをやると二度と言うことを聞いてくれなくなるだろう。
というより、死ぬか。
パソコンを叩くというのは、携帯電話が繋がらないからといって、電話を地面に叩きつけるのと同じことである。
いまどきそんな馬鹿をやる人間はいないだろう。

それにしても、どうしてこんなにパソコンに気を使わなければならないのだろう?
ぼくは自分のパソコンに、「頑張るコンピュータ」という名前をつけている。
ところが、こいつは気まぐれで、全然頑張ってくれない。
逆に、ぼくが眠られなくなるのを楽しんでいる節がある。
案外、「しんたの管理」というソフトを勝手にインストールして、ぼくを操っているのではないだろうか。
そんなこと、断固許さん!
しかし、先ほども言ったように、叩くわけもいかない。
かと言って、ウィルスかましたら、結局ぼくに跳ね返ってくる。
一体どうしたらいいんだろう。

パソコンを始めて、もうすぐ3年になる。
もしかしたら、こいつは反抗期なのかもしれない。
じゃあ、時間が解決してくれるのか?
そうではないだろう。
こいつは生まれた時からオールマイティである。
全能の神に近いものがある。
あ、もしかしたら、反抗期なのはぼくのほうなのかもしれない。
ということは、ぼくは、お釈迦様の手の中でもてあそばれている孫悟空と同じじゃないか。
やはりこのパソコンは、何かの意思を持っているのだろう。

そういえば、昨日コンビニで稲川淳二の「怖い話」という本を買った。
人形に取り憑く霊のことがいくつか書いてあったが、もしかしたらパソコンにも霊が取り憑くのかもしれない。
ぼくの部屋にはいくつかの霊がいる。
その中のひとつが、パソコンに取り憑いていてもおかしくはない。
そういえば、時々ハードディスクから泣くような声が漏れている。
あれはもしかして霊?
じゃあ、除霊をしなければならん。
しかし、陰陽師を呼べば金がかかる。
霊はぼくが金がないのを知っているから、それを見越してパソコンに取り憑いたのだろう。
しかたない。
今度暇を見つけて神社仏閣に行ってみることにしよう。
そこでお札を買ってくるのだ。
そして、本体、キーボード、モニターにベタベタ貼ってやる。
一番効くのは電源スイッチ部分だろう。
よし、これで追い出してやる。
ザマ−ミロ、これで霊とはおさらばだ。
・・・ん?

しかし、まあ何とか言いながらも、ここまで書いてこれた。
うん、立派な日記になっているじゃないか。
もしかしたら、これもパソコンに操られてのことなのか。
空恐ろしいやつである。



2002年06月20日(木) お茶の効用

本当にお茶は体にいいようだ。
ここ2年ほど、毎日お茶を1リットル以上飲んでいる。
そのおかげで、胃腸の調子も以前よりははるかに良くなった。
その上、寝込むほどの風邪も引いてない。
お茶でうがいをするといい、とも言う。
お茶ダイエットというのもある。
さくらももこのエッセイには、水虫に効いたと書いていた。
また、この間テレビで見たのだが、お茶は、しみやそばかすにも効くらしい。
緑茶と小麦粉を混ぜたものを水を入れて練り、それを顔に塗ると、わずか1週間でしみが消えたという報告をやっていた。
そんな面倒なことをしないでも、お茶を顔に塗るだけでいいという報告もあった。

実は、ぼくもしみに悩む一人である。
ぼくの祖父はかなりしみの多い人だった。
「ああはなりたくない」という気持ちから、昔からしみを目の敵にしていた。
ところが、40歳を過ぎた頃から、徐々にしみが顔に現れるようになってきた。
「こりゃいかん。じじいだ!」と思ったぼくは、いろいろな本を読み研究したが、しみに関しては「予防はできるが、出来たものは治らない」、というようなことが書いてあった。
これは死活問題である。
このまま手をこまねいて、じじいの道をまっしぐら、というのは嫌だ。
しかし、手の施しようがない。
まさか男のぼくが、あのドモホルンリンクルでマッサージするわけもいかない。
思い余って、しみの部分をむしったこともあった。
その部分は一時的には良くなるが、時間が経てば、また元通り。
気がつけば、しみはさらに増えている。

あまり気にしないようにしようと思い、そのことを忘れていた時期もある。
しかし、最近また気になるようになっていた。
その矢先の、テレビ番組だった。
その番組を見た途端、ぼくはもう治った気になっていた。
「お茶」と言われると、ぼくはすぐに信じるのである。
そしてすぐに実行した。
まあ、小麦粉を練るのは面倒だから、濃いお茶を顔に塗るようにした。
するとすぐに反応があった。
顔中が痒くなったのである。
それを我慢していると、今度は顔が温かくなってきた。
たぶん血行が良くなってきたのだろう。
心なしか、顔がすべすべしてきたような気さえする。
こうなると、「さすがお茶だ」と思わざるを得なくなる。

まだやり始めて3日しか経ってないが、しみ撃退の報告ができるまで頑張るつもりである。
これがうまくいったら、今度は髪の毛に挑戦しようと思っている。
塗っただけで血行がよくなるのである。
頭に付け、さらにマッサージを加えれば、もしかしたら、白髪に改善が見られるかもしれない。
まあ、ぼくは白髪を治すつもりはないが、白髪に悩む後輩たちのために、この実験をやってみようと思う。
ぼくぐらい真っ白な頭になればファッションとして通用するかもしれないが、白髪が増え始めた人を見ると、そこに苦労を見てしまい、何か切ない気持ちになってくる。
ちなみにぼくの頭は、同い年の中谷防衛庁長官よりも、白い!



2002年06月19日(水) ビールの話

小さい頃から、ぼくはキリンビールを飲みつけている。
1歳の時から飲んでいるから、もう43年の付き合いになる。
その頃のビールといえば、キリン、サッポロ、アサヒぐらいしかなかった。
もちろん国内で買える外国のビールも多数あっただろうし、沖縄に行けばオリオンビールもあっただろう。
しかし、子供であったぼくたちが、親のお使いで行く近所の酒屋には、この3大メーカーのものしか置いてなかった。
サントリー純生が出たのは、小学校の時だったろうか。
とにかく、その頃はキリン以外、口が受け付けなかったので、純生を最初に飲んだ時は、「はい、わかりました。こういう味なのですね」で、その後は一切口にしなかった。
中学・高校と、ぼくのそばにはいつもキリンビールがあった。

他のブランドのビールを飲むようになったのは、初めて焼き鳥屋に行った時だった。
どのメーカーのものかは忘れたが、キリンでないのは確かだ。
とにかく、その店にはそのビールしか置いてないのだから、そのビールを飲まざるを得ない。
ちょっと違和感を覚えながらも、そのビールを飲んだものだった。

その後、飲み歩くようになってからは、どんなビールでも口にした。
しかし、家で飲むビールはいつもキリンだった。
別にキリンにこだわっていたわけではない。
ただ、うちに出入りしている酒屋が、いつもキリンビールを置いていくのだ。
そうなると、自然にキリンを飲んでしまうことになる。
それがおいしいかどうかはもわからない。
小さい頃から飲みつけているから、「ビールはこの味」と勝手に思い込んでいるだけのことだ。

それから数年後、ぼくは初めて「おいしい!」と思えるビールに出会った。
キリンの“一番搾り”である。
まあ、何というか、懐かしい味がしたわけですな。
それから数年、ぼくはこの“一番搾り”のとりこになった。
飲み屋に行っても、「ビールは何にしましょうか?」と聞かれた時には、「あるなら“一番搾り”」と注文をつけるようになった。

しかし、それも短い期間だった。
ひょんなことから飲んだビールをえらく気に入ってしまった。
それが“アサヒスーパードライ”である。
実にあっさりしていた。
のどが渇いた時には、このビールが一番いい。
そう思ったぼくは、以来このビールを愛飲することになる。
もちろん今も、焼酎を飲まない時は、このビールを飲んでいる。

何年か前に、親戚筋の法事があったのだが、その後の宴会中にこのビールの銘柄でもめたことがある。
宴会は料亭でやったのだが、その料亭の扱っているビールは、“キリンラガー”と“一番搾り”と“スーパードライ”の三種類だった。
店の人が「ビールは何にいたしましょうか」と聞いてきた。
こういう時は、それぞれ好きなビールを言えばいいのだ。
ところが、この宴会の中にイニシアチブを取りたがる男がいた。
その男は、急に声を張り上げ「昔からビールはキリンに決まっとる!」と言って、周囲を睨んだ。
店の人は、その男を幹事と思ったのか、「はい、わかりました。じゃあ、キリンをお持ちします」と言って、ラガーばかり持ってきた。
ビールが来てから、さらに調子に乗ったこの男は、「男はキリン飲まなのう。スーパードライなんか、ビールを知らん奴が飲むんたい!」などと言って悦に入っている。
「男はキリン」などと誰が決めたんだろうか。
ちょっとカチンときたぼくは、大声で「すいません。こっちにドライを持ってきて下さい」と言った。
すると、他の人も堰を切ったように、「こちらにもドライを持ってきて」と言い出した。
結局、ほとんどがドライで、キリンラガーを飲んでいるのは、その男の周りの2,3人だけだった。
「キリンもいいけど、やっぱりドライやね」の声が飛び交う。
その男は、最後まで機嫌の悪そうな顔をしていた。
実に男らしくない奴だった。

さて、いよいよビールのおいしい季節になったが、やはりビールはのどを思いっきり渇かせて飲むのが一番おいしい。
しかし、ぼくは今、一番おいしくない飲み方をしている。
ビールを飲む前にアイスクリームを食べているのだ。
早くこの習慣をやめなければならない。



2002年06月18日(火) おかげさまで

さすがに午後3時以降は、客足が少なかった。
店のテレビはすべてサッカーにしていたが、お客が少ないせいか、見ている人も少なかった。
ずっと見ている人が4,5人程度、あとは入れ替わり立ち代りだった。
そのずっと見ている人の中に、本社の人間がいた。
こいつ、見ている人の誰よりも、行儀が悪い。
ずっと商品の上に頬杖をついて見ている。
この男を見て、ぼくは今日のサッカーの試合は見るまいと思った。
結果だけでけっこう。
ぼくは日本は応援していたけど、元々サッカーのことは詳しくない。
中田だ、稲本だ、と言っても、まったくピンとこない。
だから応援するといっても、オリンピックの日本選手を応援するノリである。
おまけに、試合を見てハラハラ・ドキドキだと精神衛生上にもよくない。
そのことはホークスの応援で充分に経験している。
ぼくが体調を崩すのは、決まってホークスの負けが込んでいる時である。

実際。今日は仕事が忙しくて、サッカーどころではなかった。
2週間ほど前から手がけている仕事があるのだが、その完成を見ないまま今に至っている。
今日もその仕事の続きである。
ああじゃない、こうじゃない、と一人頭を悩ませながらやっていた。
ぼくが仕事をやっている位置からは、かすかにテレビの声が聴こえる。
時折「ウォー」という歓声が聴こえるが、一度画面を見てしまうとそれに没頭してしまい、逆に仕事に集中できなくなる性質なので、なるべく気にしないようにしていた。

前半20分が経ち、30分が経っても、本社の怠け者はいる。
相変わらず、行儀が悪い。
ぼくが接客のためにその男のそばに行っても、頬杖ポーズで観戦している。
ふとその男の胸に目をやると、何とこの男はネームプレートもしてない。
普段、店の人間がネームプレートをしてないと、鬼の首を取ったように意見してくる本社の人間がこれでいいのか。

そのうち前半が終わったようで、その男は去っていった。
ぼくはそれから昼食をとったので、その男が後半戦まで見ていったのかどうかは知らない。
しかし、他の社員もその男の悪口を言っていたから、かなり長い時間見ていたのだろう。

ぼくは、前半「0−1」で負けていたのを知っていたが、後半は昼食をとってから昼寝をしていた。
売場に戻ると、もう試合は終わったようで、他のチャンネルになっていた。
そのため、ぼくが試合の結果を知ったのは、試合が終わってからかなり後である。
そうか、負けたのか。
もし試合を見ていたら、悔しくて、また体調を崩していただろう。
ああ、見なくてよかったわい。
本社の怠け者のおかげである。



2002年06月17日(月) 富士山 その4

食事を終え、女子を駅に送って行ったあとに、ぼくたち男性陣は中央高速道に乗った。
もう、午後10時を過ぎていた。
夜の中央高速道は、昼間とは一転して、神秘的な風景をかもし出していた。
車はほとんど通ってない。
昼間美しく輝いていた相模湖は、今にも幽霊が出てきそうな不気味な雰囲気が漂っていた。

運転したのは昼間免停を受けたテツローだった。
昼間運転したアラカワは疲れていた。
キタミは免許証のことで頭が一杯のようだ。
ぼくだけが元気だった。
「一日に二回も富士山に行くのは、おそらくおれたちぐらいやろね」
こんな軽口を叩きながら、この珍道中を楽しんでいた。

中央高速道を降り、再びスバルラインに入った。
さすがに自家用車は走ってない。
しかし、渋滞していた。
気がつくと、ぼくたちの車は、自衛隊のトラックの列の中にいた。
夜間演習でもあるんだろうか、そのトラックの荷台には、たくさんの自衛隊員が乗っていた。
彼らは、こちらをじっと見ている。
「何か不気味だなあ」
おそらく、彼らもぼくたちのことを不気味に思ったに違いない。

五合目に着いたのは、もう午前1時近かった。
しかし、まだ売店はやっている。
「すいません。先ほど電話したものですけど」
「はいはい、ちゃんとありますよ。危うく捨てるところでしたよ」
中を確認すると、確かにキタミのものだった。
そこで謝礼を言い、ぼくたちは下山した。

その日はテツローの家に泊まることになった。
ぼくは、この時初めてテツローの家に泊まった。
余談だが、ぼくはその後、この家に幾度となくお世話になることになる。
そこには、ぼくとテツローが同い年というのもあったが、何よりも大きかったのは、テツローの親が、ぼくと同じ福岡県の出ということだった。
ぼくの九州弁を、テツローの両親は懐かしがってくれた。
ぼくとしても、言葉が通じるので居心地が良かった

4人が起きたのは、翌朝、いやもう午後2時を過ぎていた。
ぼくらは昼食をすまし、そこでテツローと別れた。
町田から小田急線に乗り込み、新宿に向かった。
新宿で他の二人と別れた後、ぼくは一人紀伊国屋書店へと向かった。
ところが、悪いことに、途中から雨が降り出した。
前日が晴れていたため、ぼくは傘を用意していなかった。
あまり傘をささないぼくだが、その時はTシャツに海パンという薄着である。
びしょ濡れになると、肌が透けて見えるのだ。
こうなると、赤恥ものである。
それにかなり肌寒くなっていた。
帰りの電車に乗った頃には、ぼくは鳥肌が立っていた。
しかも、周囲の目は、時宜に合わない格好をしているぼくに降り注がれている。
「寒い」「恥ずかしい」、という気持ちが交互にやってくる。
「早く駅についてくれ」と願ったものだった。
ぼくが当時住んでいたのは、高田馬場であった。
新宿から山手線で二駅、時間にして5分足らず。
この5分足らずの時間が、こんなに長く感じたことはなかった。
「昨日泳ぎもできんかったし、こんな格好するじゃなかった」
今更のように、海パンで出かけたことを悔やんだ。

下宿に帰って早々、ぼくは銭湯に行った。
体を充分に温めた、が相変わらず傘をささないぼくの習性が災いした。
翌日、しっかり風邪を引いていた。



2002年06月16日(日) 富士山 その3

免停決定で意気消沈したテツローに代わって、アラカワという男が運転することになった。
河口湖ICで高速を降り、そこから富士山五合目に向かった。
天気は良く、気温は上昇、車内は和気あいあい、こんなムードでたどり着いた富士五合目は、寒かった。
みやげ物を買い、記念撮影をし、早々に立ち去った。
ちなみに、ぼくはその時に買った木の根で作ったパイプを、いまだに愛用している。

さて、ぼくは車の中で、「今日は泳げんとか?」と、一人騒いでいた。
ここで泳げなかったら、せっかく海パンを履いてきた意味がない。
しかし、誰も「泳ごう」などというものはいない。
しかたないので、次に行った白糸の滝で、ぼくは滝壺の途中まで行って、一人で水と戯れていた。
その時写した写真があった。
オレンジのTシャツと、真っ赤なトランクス(海パン)で腕組みしている写真である。
ぼくが今まで撮った写真の中で、一番気に入っているものだ。
後日その写真の入ったバッグを、新宿歌舞伎町のパチンコ屋で置き引きにあってしまった。
ということで、その写真は手元にはない。
誰かがネガを持っているはずだが、誰がその写真を撮ったのかも忘れてしまっている。

その後、御殿場から東名高速に乗り、テツローの家がある相模原に向かった。
相模原の駅前にある写真屋にフィルムを預け、現像待ちのため、ぼくたちはテツローの家に行った。
テツローの家で、ワイワイやっていると、例の千葉の友人キタミが、「ないよ」と言って騒ぎ出した。
「何がないんか?」
「免許証がないんだよ」
「持ってきてないんやないか?」
「いや、朝は確かに持っていた」
「じゃあ、どこかに置き忘れたんか?」
「そうみたい」

それから、どこで置き忘れたのかを、みんなで推理した。
「中央高速のパーキングは?」
「その時は車の中にあった」
「河口湖は?」
「その時は持ってた」
「じゃあ、富士山五合目か?」
「うーん、そこからの記憶がない」
「なら、地元の交番に届けがあるかもしれん」
いつしか、富士山五合目に置き忘れた、ということになってしまった。
「じゃあ、さっそく交番に電話してみよう」ということになった。
が、富士山五合目が静岡県か山梨県かで、みんなは悩んでしまった。

「富士山というくらいだから富士市だろう」
ということで、ぼくが代表して富士市の警察署に電話すると、その近くの交番を教えてくれ、「そこで聞いてみてくれ」ということだった。
教えられた交番に電話をし、事情を話して聞いてみた。
「いや、うちには届けはないけど」
「そうですか・・・」
「どこで忘れたのかね」
このおまわりさんは人の話を聞いてない。
再度「富士の五合目です」と言うと、
「ああ、富士五合目ね。それなら、管轄は山梨県だ。富士吉田の警察に電話して聞いてみて」

ぼくはさっそく富士吉田の警察署に電話をかけ、五合目を管轄している交番はどこかと尋ねた。
「○○という交番です。電話番号は・・・」
教えられたとおりに電話をしてみた。
また一から事情を話し、そういう届けはなかったかと聞いた。
「いや、来てないですなあ」
「そうですか・・・」
「どこに置き忘れたか覚えてないの?」
「はい、それがわかったら、苦労しませんけど・・・」
「じゃあ、そこに売店があるから、そこに聞いてみたらどう?」
「電話番号がわかりません」
「ちょっと待ってよ。・・・、電話番号は・・・」

売店に電話してみると、「ああ、お土産の入った袋の忘れ物がありましたよ」ということだった。
「すいません。中身を確認して欲しいのですが・・」
「あ、免許証が入ってるよ」
「それです。それです」
「送りましょうか」
「いや、今から取りに行きます!」



2002年06月15日(土) 富士山 その2

ぼくは、過去五度富士に行ったことがある。
そのうち四度は、富士山五合目まで車で行った。
しかし残念ながら、山頂までは行ったことはない。

一度目は、高校1年の夏休みだった。
横須賀の叔父の所に遊びに行ったのだが、その時叔父の会社の社員旅行に参加させてもらった。
行った場所が富士だった。
白糸の滝、富士五湖、五合目に行った。

二度目は、高校2年の修学旅行の時。
富士急ハイランドに泊まり、前後の日に富士の各地を回った。
その時も、五合目に行った。

三度目は、昨日書いた内容である。
河口湖と山中湖に行ったが、五合目には行かなかった。

さて、四度目と五度目だが、三度目に行った2週間後に行った。
そう、同じ日に二度行ったのである。
どちらも五合目に行った。

この日は、仲間7,8人(男子のメンバーは覚えているんだけど、女子のほうがどうも思い出せないでいる)でワゴン車を借りて行った。
朝、新宿駅西口の地下で待ち合わせ、そこからワゴン車に乗った。
前日、同行メンバーにぼくは、「富士は泳げるんか?」などと、間抜けなことを聞いていた。
「泳げないこともないけど・・・」という言葉に、「じゃあ、泳ぐ準備して行く」と言って、当日はTシャツと海パン(トランクスタイプ)といういでたちで行った。
日差しが強く、かなり暑かったので、「正解やった」と一人喜んでいた。

さてルートだが、行きは中央、帰りは東名を通ることにした。
さすがに、前回の初心者友人と違い、その日の運転手「テツロー」は慣れている。
さらに、相模原の人間だったので、地理にも詳しい。
ぼくたちは安心して、彼に運転を任せていた。

中央高速に入ってしばらくしてからのこと、ぼくたちの走っていた車線が工事のために塞がれていた。
しかたなく、左車線に入ろうとした。
左車線の少し前にはトラックがいた。
「どうせなら、あのトラックを抜かしてから入ろう」
ということになり、テツローはスピードを上げた。
ぼくたちは、「行け、行け〜!」とテツローをあおった。
テツローがトラックを抜いた時には、もう工事現場の手前まで来ていた。
テツローはそのスピードを保ったまま、矢印に沿って左車線に入った。

左車線に入ると、真っ先に目に飛び込んできたものがあった。
赤い棒だった。
赤い棒は、ゆっくりとこちらを手招きしている。
「ありゃー」
テツローが叫んだ。
その人は警察だった。
取締りをやっていたのだ。
30キロオーバーだった。
テツローは、「あ〜あ、免停だ」とショックを受けていた。
新宿を出発してから、まだ1時間も経っていなかった。
それは、その日起こる波乱の幕開けでもあった。

「波乱の幕開け」とはいっても、そう大した出来事があったのではなかった。
ただ、間抜けなやつが笑えるような騒動を起こしたというに過ぎない。
このドライブ自体は、総体的に見ると楽しいものだった。
最終的に一番悲劇だったのは、このぼくだったのかもしれない。
そのことは、明日話すことにする。



2002年06月14日(金) 富士山 その1

  富士の遊覧船

 雨の振る日に 船に乗って
 いつまでも 水面をながめる
 船の描く 輪の中に
 想い出ひとつの 雨がたまる

 思い出ひとつの 雨がたまれば
 船は 心をもったごとくに
 しずくにふたつみっつ 沈んでいく

  富士の遊覧船は
 何度も何度も回りながら
 思いでひとつに沈んでいく

 悲しみの時 影を落としたぼくは
 そんな 船の中から
 溺れぬようにと 祈りながら
 そんなゲームを 楽しんでいるのですよ


この詩を書いたのは、23年前のちょうど今頃だった。
千葉に住んでいた友人と、富士山に遊びに行った時のものだ。
その前日、ぼくは千葉の友人宅に泊まった。
酒でも飲みながら夜を過ごそうと思っていたのだが、翌朝10時に代々木で他の友人2人を拾うことになっている。
ということは千葉を朝7時頃に出ないと間に合わない。
深酒でもして寝坊したら大変だということで、その日は飲むことはせず、早目に就寝した。
翌朝、予定通り7時に友人宅を出て、津田沼にレンタカーを借りに行った。

8時にレンタカーを借り、津田沼を出発した。
当初は京葉道路を使うつもりだったが、下の道で行っても2時間あれば充分間に合うだろう、ということで下の道を行った。
それが甘かった。
東京に入るまで約1時間かかり、東京に入ると何度も渋滞にあってしまった。
結局、代々木に着いたのは午後1時を過ぎていた。

待ち合わせ場所に行くと・・・。
もちろん誰もいない。
どんなお人よしでも3時間も待つ馬鹿はいない。
その時は、代々木の喫茶店で待ち合わせていたのだが、店の人に「10時頃、こういう人は来てなかったですか?」と聞いてみると、「ああ、来てましたよ」という。
友人と顔を見合わせ、「困ったのう。どうしようか」と言った。
しかし、せっかくレンタカーを借りてきたのである。
ここで引き返すのもバカらしい。
ということで、ぼくたちは富士に向けて出発した。

とはいえ、ぼくは福岡の出身、友人は福島の出身である。
富士に行く道を知らない。
「まあ、西に向かって行きよったら、何とかなるやろう」ということで、とにかく出発した。
友人が「たしか、八王子から高速に乗るらしい」と言うので、「じゃあ八王子に行けばいい、ということやん。何とかなるやろう」とぼくたちは甲州街道に向かった。
甲州街道に出てから、迷うことなく、中央高速の入口に着いた。

さて、高速に乗ってしばらくすると小雨が降り出した。
朝方から曇っていたのだが、途中晴れ間も出たりして、持ち直すかと思われたが、ここに来てついに降り出した。
雨が降ると困ることがあった。
それは、その当時ぼくはまだ運転免許を持ってなかったので、その友人が一人で運転していたのだ。
しかも、友人は免許を取って初めて遠出をする、と言うことだった。
「今まで、運転して雨に降られたことがないんだよな。できたら雨の日には運転したくない」と常々言っていた。
無常にもその雨が降り出したのだ。
これには困った。
仕方がないので、最寄のパーキング入り、食事をしながら雨が止むのを待つことにした。

しかし、雨はいつまでたっても止まなかった。
しかたなく、出発することにした。
ところが、幸いなことに、高速道路はさっきよりもすいていた。
というより、走っている車は、ぼくたちの車しかなかったのだ。
これに勇気付けられた友人は、そのまま河口湖畔まで突っ走って行った。

その日は河口湖と山中湖を回った。
河口湖に着いたのはもう4時を過ぎていたので、当初予定していた富士山や白糸の滝には行けなかったのだ。
しかし、野郎二人の河口湖や山中湖はいただけない。
結局することもないので、山中湖畔に停めてあった外車の前でポーズを作り、お互いの写真を写しただけに過ぎなかった。

帰りは中央高速を降りてから、首都高、京葉道路を使って、津田沼まで戻った。
さすがに高速を使うと早いものである。
途中首都高が渋滞していたものの、時間にして1時間ほどで津田沼に着いた。
「最初から高速使ってればよかったね」
「明日は、あいつらから文句言われるやろうのう」

翌日、案の定代々木で待ち合わせた二人の友だちから、散々文句を言われた。
文句を言う気持ちもわかる。
一人は横浜、もう一人は埼玉から、わざわざ代々木まで来ていたからである。
じゃあ、今度埋め合わせをする、ということで納得してもらった。
再び富士山に向かったのは、その2週間後であった。



2002年06月13日(木) 目視しろ!

サイトにいろんな小細工をしていたら、もう午前2時を過ぎてるじゃないか。
「サイトに小細工」
何をやっていたかって?
それは言えません。
まあ、ぼくが楽しむためのものでございます。

さて、何を書こうか?
ああ、そういえば月曜日(10日)、会社から帰る途中のこと。
片道2車線の道の左車線をぼくは走っていた。
緩やかなカーブを曲がった途端、右車線にいた車が急に車線変更の合図を出した。
その時、若干その車の方が前にいたが、ぼくの車とはほぼ並行に走っていたのだ。
相手の車は、徐々にぼくの車に近づいてきた。
「ビーーーーーーーーーー」
ぼくはクラクションを鳴らした。
しかし、全然反応がない。
どうやら、こちらのことに気づいてないようだ。
そこでぼくはスピードを緩めながら、もう一度クラクションを鳴らした。
「ビーーーーーーーーーーーーーーー、ビ、ビ、ビーーーーーーーーーーーーーーー」
相手はようやくこちらの音に反応した。
スピードを緩め、ハンドルを切って元の位置に戻ったのだ。
ぼくはスピードを上げ、その車を追い越した。
その車には若葉マークが貼られていた。
運転席を見ると、乗っているのは若い女性だったが、手を口に当て恐怖におびえている様子だった。
その気持ちもよくわかる。
しかし、よく考えてみると、恐怖におびえるのはこちらの方である。
当てられそうになったのだから。
右に寄り過ぎて、危うく沿道の樹木にぶつかるところだった。

さて、その後その車は、またもクラクションを鳴らされていた。
今度は後続の車からである。
恐怖のあまり、車をそのまま停めてしまったのだ。
車線変更の合図を出したままになっていた。

初心者というのは、運転を教わって間もない人たちだ。
ということは、まだ基本に忠実でなければおかしい。
車線変更に一番大切なことは、「目視」である。
ぼくは教習所で、このことを半ば強制的に叩き込まれた。
だから、今でも忠実に「目視」をやっている。
いったいどこの教習所で習ったんだろう。
その教習所は「サイドミラーだと、ごく近くは死角になって見えないから、必ず自分の目で確認するように」と教えなかったのだろうか?
教習所の教官は、若い女性に甘いからなあ。
案外、卒業検定の時も、助手席からアドバイスをしていたのではないだろうか。
「若い女性+優しい教官=甘い検定」、これは事故の一方程式である。
余計ながらぼくは、この女性の将来を案じてしまう。

そういえば、交通安全週間の時、福岡交通安全協会は必ずラジオでそのお知らせをやっている。
その時、BGMで流れている歌、あれはいったい何なのだろう?
「手を振って、手を振って、道路の右側歩こうよ。あせらずに、あせらずに、1、2、3、4、ゴーゴーゴー。右ってどっち、右ってどっち・・・♪」
これは、歩行者に呼びかける歌じゃないか。
ドライバーがこれを聴いてどうするんだろうか?
「ちッ、あの歩行者、道路の右を歩いてないやんか」
などと思って、イライラが募り、かえって運転に悪影響を及ぼすだろう。
もう少し考えた選曲をやってもらいたいものである。



2002年06月12日(水) 床屋に行った翌日は

昨日床屋に行ったことを書いたが、今日会社に行くと、さっそく「あ、しんちゃん、髪切ったんやね」と何人かのパートさんから声をかけられた。
中には「あ、髪切ってる。かわいい〜」などという人もいた。
いったいぼくを何歳と思っているんだろうか?

ここ最近、勝手に店内改装をやっているため、ハードな仕事が続いている。
そのため、いつも髪が乱れる。
今日、トイレに行ったついでに、その「かわいい〜」と言われる頭を見てみた。
な、何と『坊ちゃん刈り』になっているではないか。
これでは「かわいい〜」と言われるはずである。
これはいかん、と思い、ぼくはすぐに高校時代から続けている髪型に戻した。
白髪の『坊ちゃん刈り』ほど、さまにならないものはない。
見ようによっては、「間抜け」である。

さて、『オハツ』という儀式がある。
小さい頃から、何発もやられたものである。
さすがに今日はなかったが、つい最近もやられたことがある。
小さい頃から、この『オハツ』をやられるたびに、疑問に思っていたことがある。
「いったい誰がはじめたのだろうか?」
「あれには何か意味があるのだろうか?」
「やたらめったら人の頭を叩いて、何が面白いのだろうか?」
「叩かれると、何かいいことでもあるんだろうか?」
などという疑問が、いまだに解決されないままでいる。
普通の状態なら我慢もできるが、頭痛の時などはムカつくものである。
しかも、中年への『オハツ』は、クモ膜下を呼びかねない。
こんな意味のない儀式は、もうやめにしてもらいたいものだ。

ところで、『オハツ』にも地域性があるのだろうか。
こちらでは、平手で軽く頭を叩くのだが、もしかしたら、地域によってはグーで殴ったり、ひどいところではヘッドロックやアイアンクローをかけるところもあるかもしれない。
そういえば、小林まことのマンガ『柔道部物語』では、頭をイスで殴っていた。
ただでさえ『オハツ』で叩かれるのが嫌なのに、イスでなんか絶対嫌である。
とにかく、こんな儀式は止めるにこしたことはない。

そういえば、この間お客さんが、うちにの部門で扱っているバリカンを持ってきて、「ちょっとバリカンのことで聞きたいことがあるのですが」と言ってきた。
ぼくが「何でしょうか?」と聞くと、お客さんは「二枚は何ミリですか?」と言った。
つまり、坊主の「二枚刈り」が何ミリか、と言うのだ。
最近床屋では、「○枚」という呼び方をしないらしい。
お客から「すいません。坊主にしてください」と言われると、床屋は「何ミリに刈りますか?」と聞くらしい。
そんなこと、床屋でもないのに知るはずがない。
それにぼくの通った中学や高校は調髪自由(クラブも野球部以外は自由)だったために、「○枚」と言われても、ぼくにはピンとこないのだ。
こんなこと、辞典や辞書を引いても書いてないだろう。
結局ぼくは、お客さんに「今度、床屋に行った時に聞いておきます」と答えておいた。
しかし、昨日は居眠りしていたので、聞くどころではなかった。
ま、居眠りしなくても、このことはこれを書くまで忘れていたから、結局は聞かなかっただろう。



2002年06月11日(火) 居眠り

昨日は、けっこう遅くまで起きていた。
夜中に「ピョロロロ〜、ピョロロロ〜」という、幽霊が出てくるような音がどこからともなく聞こえてくるのだ。
おそらく台風4号の影響で、何かが鳴っていたとは思うのだが、気味が悪くて寝付かれなかった。
しかたなく、ネットで本の注文などをしていたのだが、それでも4時には布団に入った。
相変わらず、音は鳴り続けていた。
眠ったのは5時頃だっただろうか。
空はすでに白み始めていた。
結局音の出どこはわからないままである。

起きたのは、習慣どおり8時だった。
3時間しか寝てないが、今日は9時から床屋に行くつもりでいたので、そのまま起きていた。
しかし、ちょっと目を閉じれば、うつらうつらやっている。
気がつけば、もう9時を過ぎていた。
さて出かけようか、と思っても、体がいうことをきかない。
というより、気力がわかない。
しかし、前回10時過ぎに床屋に行った時、2時間待たされたのを思い出し、「この時間に行かんと、一日が台無しになる」と思い、フラフラしながらも床屋に行った。

床屋でも状況は変わらない。
店には何人かのお客がいた。
「また今日も遅くなりそうだ」と思い、しかたなくそこにあった少年マガジンを読んでいた。
すると、突然「どうぞ」と呼ばれた。
おお、今日は早い。
しかし、何か変だ。
お客もいつの間にか減っている。
席に着くと、床屋の人が「よく眠ってましたね」と言った。
「えっ!?」と思い時計を見ると、もう11時を過ぎている。
マガジンを読みながら、そのまま眠っていたのだった。

髪を刈っている間も、居眠りは続く。
何度か頭を起こされた。
目が覚めていたのは、頭を洗っている時だった。
「終わりました」、と言われた時には、10分で終わったような気がしたが、時計を見ると12時を過ぎていた。
床屋には3時間いた。
が、感覚的には一瞬だった。

家に帰ってからも、似たような状況が続いた。
本を読んでは、居眠り。
パソコンの前に座っては、居眠り。
飯を食いながら、居眠り。
そんなに眠いのなら、横になって寝たらいいのに、と思われるだろうが、今日は九州電力や宅急便や畳屋が来るため、起きていなければならなかった。
その後も、ダイエー戦をラジオで聴きながら、居眠り。
今日はいったい何時間起きていたのだろうか、と思うほど、居眠りが続いた。
しかし、中途半端に寝る、というのは寝たうちに入らない。
睡眠不足が助長されているように感じられるものである。
さらに、ラジオを聴きながらの居眠りは、精神衛生上よくないことだと思う。
今日のようなイライラする試合を聴かされては、なおさらである。

日記を書いている時に、ついにピークがきた。
日記を書いていると、
「。、イxswr45vgyTwr4ウ0r4ツDwe:pw423412wg 2393r59frdfdg/えrg90wzxchr:tひぇjx」
などと、ところどころにわけのわからない文字が入っている。
もはや限界である。
ということで、日記は翌朝書くことにした。
現在、翌朝の8時21分である。



2002年06月10日(月) 雨の降る夜は

  「雨の降る夜は」(MIDI)

 雨の降る夜は たった一人で
 蚊取り線香の光を見つめて
 蛙といっしょに 歌をうたうと
 見知らぬ人が 傘をさして通り過ぎる
  街は濡れ 人は濡れ
  辺りは変わり 色も濃く
 遠くの船の 音に魅かれて
 異国の町に 立っているような


いよいよ梅雨に入った。
昼間、サラッと雨が降った。
これが始まりの合図だった。
今日から約1ヶ月、嫌な季節とのお付き合いである。
この時期一番困るのが、傘である。
ぼくは昔から傘をさすのが下手だったので、いつも濡れてばかりいた。
高校の頃には、傘をさすのが面倒になり、大雨の時以外はささなくなった。
さらに予備校時代は、毎日意地になって自転車で通っていたので、大雨や台風の日でも傘をささなかった。
その後、社会に出てからは、アーケードを通り抜けて会社に行っていたので、傘をさして歩いたという記憶がない。
ここ10年は車で通勤しているので、傘をさす機会がない。
長い年月こういう状況が続いているので、ただでさえ下手な傘のさし方は、さらにひどくなっているだろう。

傘のさし方に上手いも下手もあるものか、と思う人もいるかもしれないが、実際あるのだ。
傘のさし方の上手い人は、どういうわけか濡れ方が少ない。
達人ともなると、まったく濡れてないのだ。
ところが、下手な人は、頭や顔さえ濡れなければいいと思っているので、どうしてもさし方が雑になる。
そのために、肩が濡れていたり、下半身がびっしょりだったりするのだ。

状況にあわせて傘をさす、というのは、人に習ってできるものではない。
やはりそこには、野性的な勘が必要になるのだろう。
野性的な勘、いわば才能である。
その才能がない人は、悲しいかな、雨に濡れる人生を送らなければならない。
かく言うぼくも、その一人である。

昔読んだ『葉隠』という本の中に、「大雨の戒め」という教えがあった。
大概の人は大雨になると、慌ててしまい、平常心をなくす。
しかし武士たる者、こういう心構えではいかん、というのだ。
あらかじめ大雨に打たれる心の準備さえしておけば、「すわ大雨」といった時も慌てないで平常心を保てる、そういう人こそ立派な武士である、という趣旨だった。
ぼくが予備校時代、意地になって毎日自転車で通っていたのも、この教えの影響である。
しかし、中途半端な読み方をしていたために、行為だけの実践で、精神的には何ひとつ得るものがなかった。
つまり、立派な武士にはなれなかった、ということである。

冒頭の詩は、その予備校時代に作ったものだ。
大雨の中、必死に自転車をこいで帰ってきた。
一風呂浴びて、ほっと一息ついていた時に考えた。
「『大雨の戒め』もいいけど、もっと他に心の遊ばせかたがあるんじゃないか」
そう思った時に、どこからともなく蛙の声が聞こえてきた。
その状況を、詩風にまとめたものである。

そういえば、最近は蛙の声も聞こえなくなった。
以前は、家の前の川に平行して、水路が作られていた。
そこにたくさんの蛙が住み着いていたのだが、そこを埋め立てて道路にしたために、蛙が絶滅してしまった。
おそらく、今ならこんな詩は書けないだろう。



2002年06月09日(日) クモ膜下ノイローゼ

夜中、前頭葉に痛みが走り、目が覚めてしまった。
ここ数日、この状況が続いているので、「もしや?」と、一応思った。
どうも、伊藤さんの死以来、軽いクモ膜下ノイローゼになっているようだ。しかし、原因は単純なものだった。
ここ数日暑い夜が続いているので、パンツ一枚で横になっている。
もちろん、夏布団である。
そのせいで、体が冷え切ってしまい、軽い風邪を引いてしまったのだ。
こういう時は、体を温めればすぐに治る。
案の定、厚手の布団に替え、Tシャツを着て寝ると、朝には頭痛は治っていた。

クモ膜下ノイローゼはいつまで続くんだろう。
頭に何か違和感があると、すぐに疑ってしまう。
そうは言いながらも、病院に行く気などさらさらない。
もし本当にクモ膜下だったとしても、病院には断固行かない。
しかし、癌と違い、こればかりは自然治癒力も無効だろう。
病院に行かないから、そのまま治らずに野垂れ死ぬのは必至である。
しかし、もしそうなったら、病院の臭いを嗅がなくてすむだけ幸せと思うことにしよう。

昔、癌ノイローゼに陥ったことがある。
中学1年の時だったか。
『サインはV』でジュン・サンダースが肩の骨肉腫で死んだのを見た後のことである。
肩に痛みがある時、「骨肉腫じゃないだろうか」と思うようになった。
その頃は今と比べるとかなり神経過敏だったから、それはもうのた打ち回るほどの苦しみだった。
その後も、胃に痛みがある時は「胃癌じゃないか」とか、胸が痛い時は「肺癌じゃないか」と思っていた。
ようやく、その「癌ノイローゼ」から解放されたのは、高校1年の時だった。
その頃は柔道やギターなど、打ち込めるものがあった。
人間、無為に時を過ごしていると、変な妄想に悩まされるものである。
逆に、前を向いて何かに打ち込んでいると、そういう妄想から逃れられる。
ということをその時初めて知った。
また、癌ノイローゼから逃れられたのは、遠藤周作のおかげもあった。
彼のエッセイに、その「癌ノイローゼ」のことが書いてあった。
自分だけが「癌になっているんじゃないか」と悩んでいると思っていたのだが、「狐狸庵先生も悩んでいるのだ」と思ったとたん、気が軽くなった。
そのエッセイを読んでいくうちに、だんだん悩むのがバカらしくなったのを覚えている。

その後、癌に対しては自分なりの認識を持つに至り、「癌になっても必ず治る」という信念を持っている。
しかし、新たな敵「クモ膜下」に対しては何ら知識も持たない。
予防は出来るらしいが、それが本当の予防になるのか、ということすらわからない。
とにかく、頭に関しては戦々恐々とした状況である。

意味もなく頭が痛くなる時などは、実に憂うつである。
頭痛の原因探しをしなければならない。
原因さえつかめれば、頭痛恐るにいたらずである。
しかし、今日のように原因がすぐにわかるといいのだが、わからないことのほうが多い。
そういう理由から心を痛めるのである。
そんなことを悩む暇があったら、さっさと病院に行って治せばいいと思われるかもしれない。
しかし、それはできない。
『親知らず』に対して失礼だからである。
大きな穴が開き、神経が出て、毎日出血しているにも関わらず、治療もせず放っているのだ。
たかが頭痛ごときで、病院なんかに行けるわけないじゃないか。
まあ、飽きるまで、頭痛の原因探しでもやっていきますわい。



2002年06月08日(土)

午後8時ごろだったか、まだ薄っすらと明るさの残る夕闇の中に、金星が輝いてい た。
ぼくは、小学校の時から理科が不得意だったせいで、星や星座の名前を満足に答 えることが出来ない。
ということなので、この金星は、もしかしたら火星なのかもしれない。

星と言えば、昔と今とで大きく違っていることがある。
それは、昔に比べると、北九州で見る星が、きれいになったということだ。
昔は星など見えないに等しかった。
なんとなく霞んだ空の向こうに、ぼーっといくつかの星明りが見える程度だった。
ところが最近は、公害防止のための規制に加え、工場が次々と閉鎖した関係で、よ く星が見えるようになった。
もしぼくが子供の頃にこういう環境が整っていたら、もっと星に対して関心を寄せてい たのかもしれない。
そうであれば、もっと理科の点数はよかったに違いない。
つくづく残念である。

10年前に書いた詩に「星」というのがある。
「最近は星がよく見える。
生まれた時から
あまり星を見たことがなかったのだが、
最近は本当に星がよく見える。
空がきれいになったのも確かだが、
どうやら
星を気にする歳になったらしい。
本当に星がよく見える。」
確かに星を気にする歳になったのかもしれない。
夜、車を降り、駐車場から家に向かう時、晴れた日には必ずと言ってほど、空を見上 げている。
そこに何を求めているのかはわからないが、『郷愁』という言葉がそこにあるのは間 違いないだろう。

小学校低学年の時、7月7日になると、いつも星の観測をさせられた。
「織姫と彦星」を探せと言うのだ。
先生から「だいたいこのへんに出るよ」と教えられたが、あいにくこの時期は梅雨の 真っ盛りである。
もし晴れたとしても、それは霞んだ空の向こうにしか見えない。
結局、いつも星の観測は断念した。
ここでも、「もし」という言葉を使うとしたら、もしその時「織姫と彦星」にぼくが会えて いたら、もう少し理科の点はよかった、と言うだろう。
申し訳ないが、こればっかりである。
ぼくは今でも星を見ると、昔の理科コンプレックスを思い出してしまう。
そういう理由で、素直に星を見ることが出来ないのだ。

小学校高学年の頃、「巨人の星」が流行った。
ぼくたちは、そのストリーの行方や、内容の馬鹿らしさを追っていた。
その後遺症なのか、オーロラ3人娘の「アイラビュ、アイラビュ、ホレバモー/愛しす ぎたから恐い/別れが恐い・・・」という、どうでもいい歌を今でも覚えている。
後は大リーグボールのチェックぐらいか。
まあ、一般的な小学生はそういうふうに「巨人の星」を見ていたのではないだろう か。
しかし、ぼくたちとはちょっと違う見方をしている人間もいた。
そいつは、「『巨人の星』はどの星か」というのを探していたのだ。
『巨人の星』とは、エンディングの時、星一徹が指差している星である。
星の辞典まで持ち出して調べるのだ。
そして、「巨人の星とは、○○座の中にある、○等星の○という星のことだ」と言って いた。
さらにこの男は、「おれの巨人の星は、××座の中にある、×等星の×という星だ」 とえらそうに言い出したのだ。
きっと彼は、みんなから「すげー」と言ってもらいたかったのだろう。
しかし、『巨人の星』は学問や理屈ではない。
みんな、そういう彼を見てあざけ笑っていたものだ。

かの諸葛孔明は、星を見てその人を判断していたという。
彼は自分の寿命すら星にゆだねた。
満天の星の中には、必ず自分の星があるという。
その星を見つけてみたい気もする。
今その星は、いったいどんな輝き方をしているのだろうか?
ぼくの体型よろしく、変な形をしているのかもしれない。
横から見ると「D」の形をしていたりして。



2002年06月07日(金) ソノちゃんシリーズ最終話

なんか、『ソノちゃんシリーズ』になった感がある。
が、今日もソノちゃんで攻めます。

ソノちゃんは蛙みたいな顔をしていた。
それで付いたあだ名が『ビキタン』だった。

この人が、朝礼をする時、いつも「んだ、朝礼を始めます」というふうに、「んだ」とよく言っていた。
この「んだ」は「それでは」ということである。
ぼくたちは、いつもソノちゃんが何回「んだ」と言うか数えていた。

ぼくたちが、「ソノちゃんは変だ」と思うようになった出来事がある。
昼食中に、ぼくたちはある人の噂話をしていた。
「・・、で、それが原因で別れたらしいよ」
「ふーん、そういうことやったんね」
その時、その前のテーブルにソノちゃんが座っていた。
その人の噂話も終わり、話題はテレビドラマのことに移っていった。
「金妻面白いね」
「あれやろ。毎週見よるっちゃ」
その話題で盛り上がっている時、突然ソノちゃんが振り向いた。
「誰が?」
と言った。
一同「は?」
ぼくたちが呆気にとられていると、ソノちゃんはまた、「誰がね?」と言った。
「何のことですか?」
「ん?その別れた人のことたい」
その話が終わってから、もう2分ほど過ぎていた。

その会社は、毎日の売り上げに対して、かなり厳しい会社だった。
予算がいかない場合、最低でも前年金額はいっておかないと、日報提出時にかなり詰められ、帰りも遅くなる。
それが嫌だったので、ぼくたちは一生懸命接客をし、売り上げを上げるように努めた。
そういう中に、一人だけのほほんと一日を過ごしている人がいた。
ソノちゃんである。
当時ソノちゃんは、ぼくの担当していた楽器部門の隣にあった健康器具を担当をしていたのだが、いつもアンマイスに座って居眠りをしていた。
ところが、ソノちゃんは閉店間際になると動きが活発になった。
不思議と売上伝票を持って、レジの周りをウロウロしだすのだ。
日報には、その日の売り上げと、仕入れや返品の金額を書き込まなければならなかった。
ぼくたちが日報の作成をしていると、ソノちゃんの甲高い声が聞こえた。
「予算は10万、前年は9万、売り上げは11万、仕入れはジョロ、返品もジョロ。こんなもんたいのう」(ソノちゃんは「0」のことを「ジョロ」と言っていた)
しかし、お客の来ない売場で、どうして11万円も上がるのかわからなかった。
会議では、「ソノさんのところだけやなあ、毎日売り上げがいいのは」といつも褒められていた。
ソノちゃんは赤い顔をして照れていた。
しかし、売り上げというのは必ず波があるものである。
売り上げが毎日いいこと自体おかしかった。
とうとうメスが入ってしまった。
ソノちゃんが休みの日に、課長が健康売場の机の中をあら探しをした。
すると、架空の売上伝票が束になって出てきた。
その後、ソノちゃんは閑職に回されてしまった。

ソノちゃんは、よく奥さんや子供の自慢話をしていた。
ぼくたちが、「ソノさん、どうやって今の奥さんと知り合ったんですか?」と聞くと、ソノちゃんはよくぞ聞いてくれたとばかりに口を開いた。
「おれがあまりに結婚せんもんやけ、見かねた親父が、腰弁当下げて、『ほいほい』言うて自転車こいで、嫁を探しに行ったのう」
そう言って、身振り手振りで説明する姿がおかしかった。

社員は必ず、事務所を通って帰らなければならなかった。
その会社の社員通用門は事務所の横にあった。
別に事務所を通らなくても、倉庫を抜けて出入りが出来たのだが、事務所はガラス張りになっていたため、誰が出入りしたのかすぐに確認できた。
さて、帰る時にいつも店長たちに事務所で捕まる人がいた。
ソノちゃんである。
ソノちゃんはみんなが残業している時にも、抜け駆けして帰ることが多かった。
店長たちもそれを知っていたので、いつもソノちゃんが帰るのを見つけては、引き止めていたのである。
「ソノさん、昼間言うとった仕事は終わりましたか?」
「う、うん。終わった、終わった」
「じゃあ、いっしょに確認しに行きましょうか」
と売場に連れて行かれた。
もちろん、仕事は全然やっていない。
「何も出来てないじゃないですか。今日は我々は遅くなりますから、ゆっくりやって下さい」
ソノちゃんは、ブツブツ言いながら仕事をやっていた。

ある日のこと、ぼくが倉庫に行くと、そこにソノちゃんがいた。
かばんを持っていたので、「帰るのかな」と思って見ていると、急にかばんで顔を隠し、中腰になり、事務所のガラスの下の腰板のところに身を隠しながら、這うようにして外に出て行った。
その頃ソノちゃんはもう50歳近かった。
「いい歳してよくやるのう」と感心したものである。

ソノちゃんは、当時若い人ばかりいた職場の中では、異色の存在だった。
しかし、その生命力たるや、凄いものがあった。
転んでもただ起きない、という気迫に満ち溢れていた。
が、少し間抜けであった。



2002年06月06日(木) ソノちゃん二連発

ソノちゃんが冷蔵庫を売った時の話。
お客さん「この黒い冷蔵庫下さい」
ソノちゃん「はい、黒い冷蔵庫ですね」
お客「いつ持って来てくれるかね」
ソノ「ご都合のいい時でいいですよ」
お客「じゃあ、明日持ってきてもらおうか」

翌日
係「ソノさん、昨日買ったお客さんから電話ですよ」
ソノ「もしもーし、お電話替わりましたが」
お客「あ、ソノさんですか。昨日の冷蔵庫を届けてもらったんだけど、白い冷蔵庫が来とるよ」
ソノ「お客さんは白と言わんかったですかねえ」
お客「黒と言ったでしょうが」
ソノ「あ、そうやったですねえ。配達が間違えたかのう。すぐに交換に伺います」
お客「今日はもう都合が悪いから、明日持ってきて」
ソノ「はい、わかりました」
お客「黒ですからね。今度は間違えんで下さいよ」
ソノ「わかりました」

その翌日
係「ソノさーん、あのお客さんから電話」
ソノ「今度は何かのう」
係「さあ?」
ソノ「あ、もしもーし」
お客「ソノさんかね」
ソノ「はい。どうしました?」
お客「昨日あれだけ言ったでしょうが」
ソノ「は?」
お客「今日も白い冷蔵庫じゃないですか」
ソノ「おかしいのう。それはすいません。すぐに取替えに行きます」
お客「お願いしますよ。今度は間違えんでね」
ソノ「今度は自分が行くけ、間違えませんよ」
お客「お願いします」

お客宅
ソノ「こんにちはー」
お客「今度は間違えんで持って来たでしょうね」
ソノ「今度は大丈夫です」
ソノちゃんが冷蔵庫を箱から出すと、そこにはまた白い冷蔵庫があった。
ソノ「おかしいのう」
お客「また白じゃないですか」
ソノ「会社に帰って、取り替えてきます」
お客「もういいです。ソノさん、あんたには負けました」


以前勤めていた会社では、毎月特定の商品の販売キャンペーンをやっていた。
週に一度、決行日というのがあった。
リーダーが全員の前に出て、「申告しまーす。しろげ隊は本日、テレビを100万円売ることを誓います。○○年○月○日、しろげ隊リーダー、しろげしんた!!」というふうに申告する。

昭和61年のことだった。
たしかテレビか何かのキャンペーンの時だったと思うが、ぼくたちのリーダーがソノさんだったことがある。
朝、いつものように申告式があった。
次々と申告を終えて、ソノさんの番になった。
「申告しまーす」と甲高い声が響いた。
「ソノ隊は本日、テレビを○○万円売ることを誓います」
ここまではつまずかずにいった。
「昭和47年○月○日」
全員がざわめいた。
「ソノさん、違う。昭和61年やろ」
「あ、そうやったかのう」
店長が、「ソノ君、やり直しなさい」と言った。
再び、ソノさんの申告が始まった。
「申告しまーす。・・・を誓います。昭和47年・・・」
まただ。
場内は爆笑になった。
店長が「ソノ君、今年は昭和何年かね」と聞くと、ソノさんは「昭和61年です」と答えた。
「ちゃんとわかってるじゃないか。もう一度やり直し!」
またソノさんの申告が始まった。
「申告しまーす。・・・を誓います。昭和47年・・・」
店長は呆れ果てて、「ソノ君、君は昭和47年に何かあったのかね」と聞いた。
ソノさんは、「いや、何もないですけど」と言った。
店長「何もないなら、3度も間違えるわけがないだろ。さあ、みんなの前で何があったか発表しなさい」
ソノ「いやー、本当に何もありません」
店長「本当に何もないんだね」
ソノ「はい」
店長「じゃあ、もう一度」
ソノ「申告しまーす。・・・を誓います。昭和四十、あっ、61年・・・」
店長「やっぱり何かあるんだね。後で事務所に来て、昭和47年に何があったかをぼくに教えなさい」
ソノ「はあ・・・」

ソノさんはぼくの顔を見て、「しんた君、おれはどうして『昭和47年』と言うたかのう」と、顔を真っ赤にして言った。
「知るか!」



2002年06月05日(水) 風邪でも引いたかなあ

風邪でも引いたのか、頭が痛い。
昨日、パンツ一枚だけで過ごしたせいかもしれない。
朝方はのどが痛かったし、とにかく気分が冴えんです。

そういえば瞼もだるい。
前頭葉の痛みが、瞼に伝わっているのだろうか。
最近はパソコンのやりすぎで視力が落ちる一方だし、おまけに今日は瞼のだるさまで加わって、車の運転もヒヤヒヤものだった。
もしこれで事故でも起こせば、本当に目も当てられない。

ところで今、視力はどのくらいあるんだろうか。
今年は免許の更新だから、少しは回復させておかなければならない。
「眼鏡等」などと条件をつけられるのも嫌だ。
なるべく睡眠をとるようにして、遠くを見る習慣をつけるようにしよう。
その上で『3D』などで訓練していこう。

その視力測定だが、どうして検査表は「C」を使うんだろうか。
ひらがなやカタカナではいけないんだろうか。
どう考えても、標識や案内板を確認するためには、「C」よりも、ひらがなやカタカナのほうが大切だと思うのだが。

そういえば、前にいた会社の健康診断の時に、「C」ではなく「E」の検査表を使ったことがある。
係の人が、「E」だと『読み』で言ってしまう恐れがあるので、「『イー』とか『やま』とか『よ』などと読まずに、開いているほうを言って下さい」と念を押していた。
しかし、最初の人はよく聞いてなかったのか、「イーです」と答えた。
ぼくたち後ろに並んでいた者が、「違う、開いているほうを言えばいいんよ」と教えてやった。
係の人は、「いいですか、開いているほうを言ってくださーい」と再び念を押した。
「では、次の方。開いてるほうを言って下さいね」
「はい」
「これは?」
「よ」
「は?」
「よ!」
「・・・」
「『よ』やのう。のう、しんた君」
甲高い声で彼は、その後ろに並んでいたぼくに言った。
『おれに振るな』、と思いながら、「そうやないでしょう。『開いてるほうを言え』と係の人が何度も言うたでしょうが」と言った。
「そうやったかのう」
ぼくは、もう何も言わなかった。
係の人は憮然とした顔をして、「開いてる方を言って下さい!」と言って、検査を再開した。

その人の名前は、『ソノちゃん』という。
以前、ミエコの説明をした時に、「どこに出しても恥ずかしくない変人」と書いたが、その中の一人である。
ぼくより10歳ほど年上の男性で、その頃すでに40代だった。
佐賀県出身の人で、福岡市から通ってきていた。
時々通勤電車でいっしょになったが、甲高い声でしゃべりかけてきて迷惑したものだった。

いつだったか、帰りの電車を待っている時、ホームで「いっち、に、いっち、に」と甲高い声を出して、体操している人がいた。
よく見るとソノちゃんだった。
ぼくは慌てて、その場を離れた。

またある時、行きの電車の中で、変な歌声が聞こえてきた。
「何を歌っているんだろう」と、耳を澄まして聞いてみると、その歌は『銀座の恋の物語』だった。
それにしても下手だ。
音程をかなり外している。
誰が歌っているんだろう、と声のする方向を見てみると、そこにはソノちゃんがいた。
おそらくカラオケの練習でもしていたのだろう。
ウォークマンを聞きながらの熱唱であった。
周りの人は、みな笑っていた。
ぼくは、目を合わさないようにして、慌てて他の車両に移った。

店にお客がいないと、店が広かったため「しんた君、店にだーれもおらんのう。キャッチボールの練習が出来るのう」などと、わけのわからないことを言い出す。
その時ぼくはシラーっとしていた。
それが受けなかったと思ったのか、次の機会にソノちゃんは「しんた君、今日もだーれもおらんのう。バトンタッチの練習が出来るのう」、と言葉を替えてきた。
ぼくはいちおう笑って見せたが、もう勘弁してほしかった。

ソノちゃんは、ぼくが会社を辞める2年前に会社を辞めた。
病気が理由だった。
彼は、勝手に自分を糖尿病にしてしまった。
仕事に来たくなかったので、「目がシバシバするばい。糖尿の前触れやのう。これは『休め』ということかのう。しんた君」
「知らんよ。勝手に入院でも何でもして休めばいいやん」
「そうか、入院という手があったのう」
ということで、それから1週間後、ソノちゃんは入院してしまった。
そこは、誰でも入院させることで有名な病院だった。
ある日、ソノちゃんの売場の人が、ソノちゃんに用があって病院に電話したことがある。
病院の代表電話にかけたのだが、出たのは「もしもーし」という聞き慣れた甲高い声であった。
ソノちゃんである。
「あんた、そんな所で何しよるんね」
「いやー、暇やけ電話番しよるったい」
売場の人はあきれていた。
病院の人に聞くと、「電話には出ないで下さいと、言ってあるんですけど」と言っていたらしい。
実に迷惑なオヤジである。
辞めたのは、それからしばらくしてだった。

ああ、いらんことを思い出したわい。
それにしても、頭が痛い!瞼もだるい!



2002年06月04日(火) 三年寝太郎

体中が痛い。
一昨日、昨日と、ちょっと働きすぎたようだ。
実は、何ヶ月か前から、店のリニュアルの話が出ている。
他の売場は、ほぼレイアウトの図面も完成しているらしい。
しかし、ぼくのところには何も言ってこなかった。
気がつくと、ぼくのいる売場をどうするか、ということが話題になっているのだ。
ああじゃない、こうじゃない、と他人に自分の縄張りをいじられるのは、あまりいい気分はしない。
「しんた君、レイアウト引いとって」と言われても、人から言われてするような仕事はしたくない。
ぼくとしてはあまり乗り気な話ではないので、「はいはい」と生返事をしておいた。
しかし、よそがやるのにここだけはやらない、というのも面白くない。

ということで、一念発起しましたね。
一昨日、6月2日の午後5時、休憩をしていたぼくは思うところあって、誰にも告げずに突然リニュアルを始めてしまった。
レイアウトは、頭の中にしっかり描かれていた。
あまり目立たない場所にあるので、外から見たら何をやっているのかわからなかっただろう。
しかし、中は大変な状況だった。
何せ、男一人の売場である。
力仕事は、当然ぼくがやる。
平均して30kg以上ある商品を次から次へと動かしていった。
動かした後の汚れたところを、女子従業員が掃除していく。
そして午後8時、閉店の時間には、ほぼリニュアルの半分を終わらせた。

翌日、つまり昨日、残りの半分を終わらせた。
前日と比べると時間があるので、昼ごろには終わるだろうと読んでいたが、結局終わったのは前日と同じ午後8時だった。
什器をばらすのに、けっこう手間取ってしまったのだ。
古い什器なので、長年の重みに耐えかねて変形してしまっている。
しかし、運のいいことに、ちょうどその作業をやっているところに、取引先の人がやってきた。
彼は仕事でいろいろな店を回っているから、こういう什器をばらすのは慣れている。
当然ここは手伝ってもらった。
しかし、男二人でやっても、なかなか什器は言うことを聞いてくれない。
錆は入っているし、連結部分のかみ合わせもかなり悪くなっている。
最初はかみ合わせ通りにやっていたのだが、最後は「とにかくばらしてしまえ!」と、かなり無理をした。
おかげで、その什器は二度と使えないものになってしまった。
結局、この作業で2時間を要した。
残りは、ぼくが一番苦手としている後片付けだ。
そこまでの手際よさが一変して、ダラダラとした作業になってしまった。
しかし、計画を立ててやるよりは、早くリニュアルは完了した。

ぼくは、何事も計画を立て、順序良く仕事をするのが嫌いである。
三年寝太郎と同じで、機が熟した時に突然仕事を始めるのが好きである。
信長の桶狭間の戦いを思い出して、実に痛快な気分になるのだ。
周りの人は迷惑だろうが、これがぼくのやり方だからね。

また嫌われるなあ・・・。



2002年06月03日(月) レイジー・ボーンズ

最近、CMで『リンゴの木の下で』という歌がかかっている。
声からして、歌っているのはおそらく吉田日出子だと思う。
とすれば、『上海バンスキング』時の録音だろうか?
ちょっと懐かしかったので、積み重なったCDの中から『上海バンスキング』を探してきて、ちょっと聴いてみた。
やはり吉田日出子は歌に味がある。
後に松坂慶子主演で映画化され、同じ歌を歌っていたのだが、話にならなかった。

さて、このアルバムの中でぼくが最も好きな歌は、『レイジー・ボーンズ』である。
解説を見ると1933年の作品だと書いてある。
今から約70年も前の歌だ。
あの名曲『スターダスト』を作ったホーギー・カーマイケルの作曲になっている。
道理で心に染みるはずである。
ところで、ぼくはこの歌の曲もさることながら、歌詞を大いに気に入っている。
タイトルどおり、怠け者の歌である。
訳詞は堀内敬三さんになっている。
「朝は 遅くまで/ゆっくり 彼は寝ます/仕事は 憂うつ/寝床が天国・・・いつも月給の 稼ぎもないくせに/泰然自若 ホントーに/わしゃ 負けたです」
この歌を初めて聴いたのは、前の会社で午後11時,12時まで仕事をしていた時期だった。
この歌を聴いて、羨ましく思ったものである。
それと同時に思い出していたことがある。
それは、ぼくが『レイジー・ボーンズ』だった時のことである。
このアルバムは、発売されてすぐに買ったから、1983年ということになる。

ぼくが『レイジー・ボーンズ』だった時代は、その年をさかのぼること6年、1977年のことだった。
5月末から7月末までの、約2ヶ月間、そうちょうど今時期である。
詳しくは、エッセイ『長い浪人時代(孤独と焦燥)』を読んでもらったらわかると思うが、朝はだいたい9時に起きていたと思う。
それから、ギターを弾いて遊び、昼寝する。
夕方起き出して、テレビの再放送を見る。
2ヶ月間これの繰り返しだった。
もちろん母親からは小言を言われていた。
「大の男が、いい歳して仕事もせんでから」
「だって、仕事がないもん」
「仕事はいくらでもあるやろ。あんたがやる気がないだけやないね」
「やる気はある」
「本当にやる気があるなら、頭下げて『仕事させて下さい』と言うて回るはずやろ。あんた見よったら、『あそこが駄目やったけ、ここも駄目やろう』と勝手に思い込んで、逃げとるだけやないね。こっちもね、ただで飯を食わせよるわけじゃないんやけね。明日仕事を探しきらんかったら、もう出て行き!」
最後は、いつも強い口調で言われていた。
「わかった。明日探しに行く」とその場を逃れるが、翌日はまた『レイジー・ボーンズ』の生活に戻る。

実際はこんな生活を繰り返すぼくも辛かったのだ。
出来ることなら、真面目に人並みに働きたいと思っていた。
しかし、「何とかしなければ」とは思うのだが、どうも行動を起こせないでいる。
それは、26回も面接に落ちたという恐怖心から来ていたのだ。
そういう経験があるから、初めて面接に受かった時の喜びは大きかった。
そういう経験を、またしたくなかったから、嫌な仕事でも何とか続けてこれた。
ま、そういうふうに考えれば、そういう経験も無駄ではなかった、ということになるだろう。

ちなみに、「泰然自若」という言葉は、『レイジー・ボーンズ』を聴いた時からぼくの座右の銘になっている。
どんな時でも、「泰然自若」であろうと努める自分がいる。



2002年06月02日(日) おあいこ

うちの店のワークステーションは、富士通のパソコンを使用している。
そのせいか、マウスパッドにはタッチおじさんの絵が描かれている。
うちの店長は、そのタッチおじさんによく似ている。
そう、タッチおじさんに似ているということは、めがねをかけたハゲ、ということである。

ところで、ぼくのいる売場は、店の入り口の近くに位置している。
ぼくがよく行っている事務所や倉庫やトイレは、一番奥の売場のさらに奥に位置している。
そこにたどり着くためには、いくつかの売場通り抜けなければならない。
その途中、お客さんから「あれはどこにあるんですか?」とか「この商品の在庫はありますか」とか、中には「この商品を説明して下さい」といった質問をよく受ける。
自分で答えられる範囲であれば応対するのだが、わからないことであれば下手に知ったかぶりなどをせず、すぐに店内放送で係の人を呼ぶことにしている。
一人終わったら、また他のお客さんに声をかけられることもしばしばで、結局トイレにたどり着くまでに20分を要した経験もある。

さて、今日の話である。
夕方トイレに行きたくなって、いつものようにいくつかの売場を抜けていった。
珍しく、誰にも声をかけられずに最後の売場に来た。
しかし、そこでつかまった。
「すいません。○○という商品はどこにありますか?」
幸い、その商品のある場所をぼくは知っていたので、お客さんをそこまで案内しようとした。
「こちらです」と、その商品の置いてあるところに目をやると、運良くそこに店長が立っていた。
ぼくはラッキーと思いながら、「あっ、あそこに店ちょ・・」と言って詰まった。
そうである。
このお客さんに、「店長」などと言ってもわからないだろう。
そこで、何と言ったらわかってもらえるだろうか、と考えを巡らせた。
「ネクタイをしている人」と言っても、そのへんにネクタイをしている人は何人かいる。
「めがねをかけている人」も同様である。
どう言おうかと迷っている時、口が勝手に動き出した。
「あそこに『ハゲのおっさん』が立っとるでしょう。そこにありますよ。わからんかったら、あの『ハゲのおっさん』に聞いて下さい」
お客さんは急に笑い出した。
「ああ、あの『ハゲのおっさん』の立っている所にあるんですね」
「そうです。あの『ハゲのおっさん』が立っている所です」
「ありがとうございました。よくわかりました」と、お客さんは笑いながら、『ハゲのおっさん』の立っている所に向かって行った。
やはり、何か特徴を持っている人は得である。
いざと言う時に役に立つ。

店長は、お客さんにぼくの部門のことを聞かれた時、「あそこに『白髪のおっさん』がいますから、彼に聞いて下さい」といっているのだから、おあいこである。



2002年06月01日(土) 固まった

昨日は、ほとほとまいった。
母の用事で午後から外出していたのだが、帰ってきたのは午後10時を過ぎていた。
「日記を書くのが遅くなったわい」と、ぼくはパソコンの電源を入れた。
起動画面が開き、いつものようにメールの受信が始まった。
受信終了後、メールをチェックしていると、その中に話題のブラウザ『opera』から、お知らせメールが届いていた。
「『opera』の最新バージョンをリリースしました」、とのこと。
さっそくぼくは、これをダウンロードすることにした。
ダウンロードのページを開き、ボタンをクリックした。
「ん?」
ダウンローダーが出てこない。
もう一度押した。
しかし、いつまでたっても、ダウンローダーは出てこない。
おかしいなと思い、他のアプリケーションを開いてみた。
開かない。
完全に固まっている。
どこをどう操作しても、まったく反応しなくなった。
しばらく待ってみたがが、10分以上たっても動くことはない。
しかたなく強制終了させた。

再起動してみると、いつものようにディスクスキャンが始まった。
しかし、これも途中からまったく動かなくなった。
またもや強制終了。
ぼくは何度かこの作業を繰り返してみた。
しかし何度やってみても同じだった。
「困った。またリカバリか」
しかし悩んでもしかたない。
これをやらないと日記が書けないのだ。
ちなみに、日記は携帯電話からも書き込めるが、文字数が制限される。
さらに悪いことに、携帯で遊びすぎたせいで腱鞘炎気味になっている。
ぼくが日記を書き込むためには、パソコンを使うしかないのだ。

CD−ROMを入れ、リカバリをスタートさせた。
その間、ぼくは風呂に入り、日記の下書きをしていた。
1時間後、風呂から上がってみると、リカバリは終盤にさしかかっていた。
それから30分後、ようやく終わった、と思いきや、「エラーになりました。最初からやり直してください」との表示。
目の前が真っ暗になった。
時間は12時半を過ぎている。
しかし、やらないと日記が書けない。
再び、リカバリを開始した。
午前2時、またもや最後の最後になってエラー表示が出た。

もはやタイムリミットだ。
この作業を繰り返しても埒が明かない。
そう悟ったぼくは、3日前に取り外した古いハードディスクを再び使うことにした。
パソコンをばらし、眠たい目をこすりながら、ハードディスクを交換した。
午前2時半になった。
やっと動いた。
エディタを開き、居眠りをしながら日記を書き込んだ。
書き終えたのは、4時前だった。

とりあえず、それから寝ても、8時に起きれば仕事には間に合うから、4時間は寝れる。
しかし、習慣とは恐ろしいもので、いつものように6時半に目が覚めてしまった。
そこからは目が冴えてしまって、なかなか眠れない。
横になってはいたものの、「ハードディスクをどうしようか」などと考えている。
そうこうしているうちに8時になってしまった。
目覚まし代わりに使っている携帯電話から、『傷だらけの天使』のテーマが鳴り出した。

ということで、地獄のような一日が始まった。
ハードディスク、どうしよう・・・。


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