作文研修 |
朝から社員研修として1時間程度「作文講座」というのをやっていた。 社員は基本全員参加で、アルバイトは希望者のみ上司の許可を、という感じで。 参加したいなぁと思っていたけど、逆に「是非参加してくれ」と上司から言われたのでスキップしながら会場へ。
いやー、実に耳の痛いお話で。 いわゆる「作文」ってのは、今よりも中学生くらいの頃の方が非常に上手かったもんな、私。 今は感情ばかりが先走るようになってしもて、相手に伝えたいと思う気持ちばかり空回りして意味不明な文章になってしもとる。 手で文章を書く、という作業をしなくなったからだろうな。 パソコンのメモ帳なんてのは、適当に勢いでバーっと書いて、あとから付け足したり削ったりするのが簡単に出来てしまうから、書くときに「考える」という作業をしなくなってしまったのだろう。 頭に浮かんだ文章や単語をそのまま頭の中で推敲せずに吐き出し、吐き出した後で考える。 相手に伝えるまでにワンクッションある手段(メールや日記等)の場合は、まだ推敲の段階を入れる事が可能だからマシにしても、チャットやメッセに慣れてしまうと、逆に何も考えずに勢いだけで書いてしまうクセがつく。
本来、文章というのは、今日の講座でもあったように、論理的かつ簡潔に言いたい事を相手に伝える手段であるはずだ。 ITの発展によって、言葉のコミュニケーションと文字のコミュニケーションの境目が曖昧になり、「井戸端会議」と「議論」の区別もつかなくなってしまう人がこれからもどんどん増えていくのだろうと思う。 私自身、真面目に文章を考えて対等に議論をしているつもりでも、相手にとっては「何この感情的で推敲の一つもされていない文章は」と取られてしまう事が多々ある。 決して文章が下手だという事だけではなく、さらに「コミュニケーション能力」という部分に問題を抱えている事も確かではある。 しかし、コミュニケーション能力不足は、作文の上手さでかなりカバーできると思う。
ぶっちゃけてしまえば、説得力のある文章というのは、その内容の意味するところが真であろうと偽であろうと、相手を納得させられるだけの力を十分備えていると思うのだ。 あえて悪い言葉を使わせてもらうと、「洗脳」という事でもある。 何か一つ強い信念を持って、その信念の元に人を集め、何かを成し遂げていくという、いわゆる「人の上に立つ存在」の人間というのは、どれだけ他人を「洗脳」できるかどうか、という事にかかっているんだろうなと思う。
だって、たかが1人の人間の持つ信念と同じものを持った人間がそうそういるとは思えないもの。 だから、1人の人間の下に集まる集団というのは、よく言えば「感化された」、悪く言えば「洗脳された」という人たちだと思ってる。 そして、他人を洗脳するのに重要なスキルというのが、「論理的な作文・会話能力」だと思う。
あ、ちなみに、「洗脳」ってのは別に悪い事だとは思ってないです。 あえてマイナスイメージのある言葉を使ってるってだけです。 むしろ、それが出来る人を心から「すげぇ」と思いますし。
ちなみに、感情的な文章というは、個人的にはとても好きだ。 たとえそれが弱音であろうと、罵詈雑言をならべたてた汚い愚痴であろうと、そこに私はその「人」を感じる事が出来る気がするから。 綺麗な言葉を並べ立てて、自分を飾り立てるためだけに言葉や文字を使う人の文章というのは、読んでいても、まるで温かさを感じない。 たとえ、顔文字を多用していたとしても、そこから読み取れるのは冷たいデジタルの温度だけ。
だから、知的で論理的な文章しか書かないような人が、たまに感情的な文章を書いているのを見ると、つい安心してしまう。 「ああ、この人にもちゃんと感情があるんだ」と。
「作文能力」というのはあるにこしたことはない。 なければそれだけ、損をしてしまう。 言いたい事や考えている事がどんなにすばらしい事だったとしても、それが相手に伝わらなければ全く意味がないから。
私は、文章を上手く書けるようになりたい。 けれど、そこには、必ず私の感情をこめたい。 論理的かつ簡潔に、そして私の「思い」と「体温」を伝える事の出来る文章をかける様になるよう、頑張ろうと思いました。
・・・って、この文章自体、既に破綻している気がします。 まだまだ先は長いね。
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2005年01月05日(水)
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