奈落

▼この日記には愚痴が含まれています。▼


















































人間、誰しも底なしの暗黒部分というものを心の中に持っているものです。
それを自覚しているか否かに関わらず。

生きている限り、誰も傷つけないようにするなんてのは不可能なことです。
たとえそれが、蚊に刺されたような傷であろうと、バールのようなもので殴ったような傷であろうと、傷には変わりない。

否、生きていようが死んでいようが、「その人が存在していた」という事実があれば、少なからず誰かが必ず傷ついている。

もちろん、与えるのは傷だけではない。
喜びも幸せも与えることが出来る。

悲しいかな、人間というのは幸福よりも不幸の方が心に強く残る傾向が強い。
だから、心の病気というものが存在してしまうわけで。

いちばん簡単な例をあげると、
一度でも信用をなくしてしまうと、その何十倍もの努力をしなければ信頼や信用というものは回復させる事が出来ない。
むしろ、回復できればいい方、くらいのもんだと思ってる。

それが、過失か故意かにかかわらず、だ。



自分の中の「傷」の基準が低ければ低いほど、傷つきやすい。
でも、その分、些細な事にも気をつけることが出来るという長所もある。

自分の中の「傷」の基準が高ければ高いほど、傷つきにくい。
でも、その分、どうすれば他人が傷つくかを推し量ることが困難になる。

それぞれは、自我や価値観を形成するに至る環境に左右されるものなので、
前者は後者を責めることは出来ないし、もちろん逆も然りだと思う。


結局他人を推し量るための基準となるものは、今まで自分が経験してきた実例でしかない。
そういう意味では、「一般的」とか「普通」ってのは、突き詰めていくと存在しないのかもね。




上手くいっていると思っていた関係が、実は自分の知らないところで既に破綻していた、という事実を突きつけられた時ほど辛い事は無い。

結局、自分は勝手に踊っていただけなのだ、と。



信頼とか信用ってのは、結局自己満足でしかないと思ってる。
こっちが信用してるんだから、そっちも信用してね、なんて到底言えるはずも無い。

信用や信頼ってのは、他人に強要するものでもないし、ギブアンドテイクするものでもない。

私は、むしろ信用や信頼という言葉は、他人に向けて使う言葉ではなく、自分に向けて使うものだと思っている。

信用する、ではなく、信用してもらえるように自分が振舞う。
信頼する、ではなく、信頼に値するように自分が努める。


なので、相手が自分を裏切る、つまり、「相手が私に信用させようとしなかった」場合、その相手のスタンスを自分が見抜けていなかっただけだ、と解釈するようにしてる。

自分が勝手に信じていただけだ、とね。


そういう状況になったとき、出てくるのは相手に対する罵声でも憎悪でもなく、
自分に対する嘲笑と自己嫌悪。


裏切ったなんて微塵も思っていない場合だってある。
自分にとっては腹に指されたナイフをグリグリされるくらい痛くても、
相手にとってはふざけてデコピンしたくらいにしか思ってない事だってある。

相手を責めれば傷が癒えるというものでもない。
自分が受けた傷は、自分で治すしかない。

その傷を人にひけらかして同情を誘うことで傷を癒す人間もいるし、
その傷にまつわる話に脚色を加えて武勇伝とし、賞賛を得て癒す人間もいる。
じっと耐えてひたすら時間が解決してくれるのを待つ人間もいれば、
痛みに耐えられず命を絶つ人間もいる。

中には、自分で傷を抉る事で快感を覚えてしまう人もいるかもしれない。


結局は、生きている限りは人を傷つけたり、人に傷つけられたりする事は絶対に避けられない。
生まれてきたからには、どんなに頑張っても避けられない事。


自分が傷つきたくない、かといって死にたくないと思うのなら、一切他人と関わらない人生を送ればいい。
もしくは他人を一切信用しようとしなければいい。

人を傷つけたくない場合も同様に、自分を無駄に信用させようとしない事だ。


それが可能であるならば。




奇麗事を並べたり、いかにも自分がこの世で一番傷ついているような語り口調でものを言う人間を見ると反吐が出る。
そういう人間に限って、沢山の人の沢山の傷の上に成り立った道をズカズカと歩いている。

奇麗事や罵声をまくしたてるヒマがあれば、その煩い口で自分の指でもしゃぶって塞いでやがれ。



#無自覚よりなにより開き直りが一番タチ悪ぃ
2004年08月12日(木)

ありのままに、赤裸々に。なんつって。 / おかぷぅ