Simple Faith


2005年01月04日(火) 「明け渡す」ということ

今日はドリスの家に行きました。

ドリスはスモーカーです。
バプテスマを受けてしばらくはタバコをやめていたのですが、禁断症状などがひどく、また吸い出してしまったのだそうです。

本人もやめたいと思っているのですが、なかなかやめることができません。私たちがドリスの家を訪れる時も、玄関から入った途端タバコの煙が黙々と襲ってきます。

しばらく前に、教会でドリスが私のところに来て「神さまに明け渡すってどういう意味か教えて欲しい」と言いました。

ドリスは、親から否定されて育ってきたのだそうです。そのため、いつの頃からか、自分を抑えてこんでしまう習慣がつき、そのためか「明け渡す」ということが、どういうことなのかどうしてもわからない、でも、これがタバコをやめられないことに関係してるように思うと言うのです。

その時、私はまさに「明け渡すこと」について書いてある本を読んでいました。とてもわかりやすく、いい本なので「それなら、この本を一緒に読もう」ということになりました。

それ以来、ほぼ毎週、ドリスの家に通っています。この本を読みながら、聖書を開き、二人で話し合います。毎週ひとつの聖句を選んで暗唱します。

いつからか気づいたのですが、この本が私たちの罪深い部分を指摘する度に、ドリスは「ああ、そういう人いるの知ってる!」と言うのです。あまり何度も言うので、思い切って「他の人じゃなくて、自分に当てはめないとこの本を読むことも役に立たないよ」と言ってしまいました。その時は、「わかってるよ」と言うのですが、また同じようなことを言っています。

他にも「私の問題は恐れなのよ。でも、怒りに比べると人に迷惑をかけたりしないからましよね」と言ったりと、自分の問題から目をそらしているような発言をします。

これは彼女自身が言っているように、恐れからくるのかなあと思いました。私は神さまではないので、彼女の心の内側を知ることはできません。でも、彼女は嫌なことを嫌と言えず、親の機嫌を伺いながら、いつも「良い子」でいなければ虐待されていたので、感情を表に出すのがとても難しい、と話してくれました。

自分の罪を認めるということはとても辛いことです。「私は罪深い」と、口では簡単に言うことができます。でも、心の中では「自分はそこまで悪くない」と思いたがっていて、実際そう思ってしまっていることが私も多々あります。

本当に自分の罪深さを認めるというのは、自分自身がガラガラと崩れてしまうような経験です。でもそれを経験したときに初めて私は、罪に死んだ私に代わって、イエスさまが私の心のうちに生きてくださるという経験をすることができました。

私たちが読んでいる本には、「明け渡すとは、神への完全な信頼を意味する」と書かれています。自分の罪を真に認め、それを神さまにさらけ出すということは、神さまを真に信頼していなければとても難しいことだと思います。ドリスがいい子でなければ親に虐待されると恐れていたように、神さまに自分をさらけ出すのが恐ろしくてたまらないと思うのです。

でも反対に、神様を真に信頼するとき、私たちは自分の罪を真に認め、心から告白し、神さまにさらけ出し、おゆだねする勇気が与えられるのだと思うのです。そう理解すると、聖書に「神の慈愛があなたがたを悔い改めに導く」と書かれていることの意味がよくわかります。

ドリスが、信仰をもってこの一歩を踏み出してくれたら、と祈ってやみません。そして、恐れを神さまの助けによって乗り越えたときに心に広がる平安を、ドリスが経験することができますように、と祈ってやみません。

聖霊の神さまがドリスの心に働いてくださいますように。



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