暑いわぁ〜!!あのですね・・・・夏が暑いのは当たり前なんだけど、毎年「どうしてこの言葉は流行語大賞にノミネートすらされないんだろう??」と不思議に思うくらいに、誰しも口をついて漏らしてしまう、この言葉・・・・そして、この暑さ。一体、何を以って「平年並み」「平年より3℃暑い」などと、毎年夏の気象予報士はのたまっちゃったりするんですかね?岐阜県は、半端なく暑いですよ。地味で、どこにあるかも全国民に知られていないような県ですけど暑さだけは、埼玉の熊谷と、タメをはれます(爆)。奇妙なお国自慢はこれくらいにして・・・・・( ̄∇ ̄;)格闘技バカのぷよ2と話をしていて思い出したことがある。高校時代の応援団のことである。あたくしは、3年間在籍していまして、今でも校歌が流れれば振りが見事に再現されるくらいに気合いの入った擦り込みを、ここでも為されていたりも(笑)。校歌は勿論、団の第1応援歌(あたくしらの時代でも、もう風前の灯で、存続するのが可能か否かというところまできていたが、翌年敢え無く消滅していた)、第2応援歌(早稲田のをパクった)も、言われればすっと振りが出てくるほどに、擦り込まれていた(笑)。第1応援歌なんか、消滅してしまったにも拘わらず、早稲田のをパクった方をずっと「第2」「第2」と呼んでいたので、多分、後年の子たちは、「第2はあるのにどうして第1はないんだろう??」と、不思議がっていたことだろう(爆)。今日は、この抹消されてしまった可哀想な応援歌・・・・「第1応援歌」の知られざる秘密について語ろうかと・・・・え?? どうでもいい??・・・・暑いんだから、文句言わないで(-_-メ)元歌は、軍歌「若鷲の歌」である。若き血潮の予科練の七つ釦は桜に碇これが、我が団では若き血潮の黄団の五つ釦はおもだかみなみというふうにアレンジされていた。元々、学ランというのは軍服から派生していて、現代では五つ釦が主流だけれど、昔は七つ釦が当たり前だった。桜に碇・・・・というのは多分空軍か海軍の予科練の制服の釦に刻まれていた記章で、そこが「おもだかみなみ」に換えられているのは、うちの校章が「おもだか」という植物の葉を図案化していたのと、高校が「南高校」だったからである。<当たり前すぎるわ(苦笑)高校生当時は「若鷲の歌」などという軍歌の存在など勿論知らなかったわけだけど、新宿のスナックでバイトをしていると、好き嫌いに拘わらず、色々なジャンルのカラオケを耳にする。・・・・ある日、年配のお客さんがこの曲を歌っていて、自分が声を嗄らして唄い込んだ・・・・というか叫びこんだ曲が初めて軍歌だったというのを知ったのである。オマケに、うまいこと原曲の歌詞をアレンジしているのにも気づいた。っていうか、「勝て勝て」を連呼する応援団には、軍歌は調理しやすい素材なのかもしれない。原曲の歌詞を聞き、そのほとんどが原曲のまんまだったことに気づいた時には、背筋が凍る感じがしたけど(苦笑)、納得もした(爆)。さて。この曲には振りもきちんとついている。この応援歌が抹消されてしまった原因の1つに、この振りがあんまりにもあんまりだというのがあった(爆笑)。今でこそ、よくよく考えてみると、あの振りは空手の型からきているんだな・・・・とすぐにわかるんだけど、それを格好よく再現し続ける人材不足が続いたのか、うちらの代には何だかわけのわからない「踊り」になっていた。それを女子団員は毛嫌いして、「第1応援歌はなるべくやりたくない」などと言い出すものだから、当時のあたくしもさすがにそれはまずいと思い、必死に頭の中に振りを叩き込んで、いつ第1応援歌が復活しても大丈夫なように準備だけはしておいた。・・・・先輩たち、怖いから。彼女たちが「やりたくない」と言えばそれに逆らえないし(超・硬派縦社会構造)。それに、あたくしらがここに入った頃は、更に物凄い男尊女卑構造で、休憩時間のお茶を出す順番というのもきちんと決められていた。いくら常識がないといえども、普通は先輩を立てるのが当たり前だから、3年から出していけばいいのだな・・・・と考えていたのだが、それが甘かったのである。3年の男子の先輩にお茶を出し終わったあと、副団長の3年女子の先輩にお茶のコップを差し出そうとしたら「違う!! 次は2年男子!!」と、怒声が飛ぶのである。怖い、怖い・・・・(苦笑)。詰まるところ、お茶は1年女子(2名しかいない)が準備するもの。お茶を出す順番は�|陳后Ρ�援団長(3年)��副団長・応援副団長(3年男子)��その他3年男子�ぃ嫁�男子�ィ映�男子�ι�団長・応援副団長(3年女子)�Г修梁升廓�女子�┌嫁�女子という序列の元に出さねばならないのである。ビックリなのは、女の副団長よりも、1年男子の方に優先権があるということだった。怒声を飛ばしたのはその応援副団長なんだけど、1年の基本的教育係も兼ねている。同じ応援団でも、他の団はもっと和気藹々としていて、和やかな雰囲気だというのに、うちの団だけは何でか硬派を通したがって、えらいピリピリしていた。あたくしらが3年になる頃には、このやり方に立腹していたもう1人の女子団員だった子が団長に立候補し、この社会構造を簡単に潰してしまった。お茶は別に飲みたいやつが作ればいいし、男子にやらせてもいいんじゃん?みたいなことを、枷がなくなった途端に言い出しやがったのである(笑)。それでも、良識的な1年生が入ってきてくれた御陰で、先輩を立てるというのだけは通してくれたみたいで、お茶作りは1年の女の子が率先してやってくれていたみたいだけど、お茶を出す順番までは、さすがのあたくしも口を出すことが出来ず、きっちり3年男子の後に出されたものに黙って口をつけていた。怒声を飛ばすなんてパワーの要ることなんか、稽古以外に使いたくなかったし(爆)。でも何となく、こういうちょっと変わった社会構造も面白いな・・・・と心のどこかで思っていたので、あの制度も続けてみればよかったかなと、後々から考え直したりもしたのである( ̄∇ ̄;) 男を立てる・・・・なんて、今じゃどこに行っても教えてくれることじゃないから(爆爆)。津田塾大くらいじゃん??(爆)そういう「礼儀作法」(まがい)の他にも色々と教え込まれた。やっぱり、応援団の振りをやるにはそれなりの筋肉というか、あれは半分スポーツで、きちんとした姿勢、きちんとした型を習得しないと、カッコ悪い。教える方も教えられる方も、格闘技からは縁遠いので、なかなか上手くはいかない。たまに武道をきちんとたしなんだルーキーがいたりして、その時は助かったりしたものだ。実は、うちの団の大団旗は、それを掲げるのに10メートル程の竿を必要とする超デカイ代物で、旗持は団に属さない体格のいい男子に頼んだりしていた。ずっと伊吹颪が吹いている状態なので、旗はひらめき見映えはするが、旗持の傍に更に2〜3人の男子をつけておかないと、旗ごと旗持が吹っ飛ばされる危険性も孕んでいるのである。そんな旗持を団から出すと人手が足りなくなってしまうのだ。女子団員はあたくしらが2年の時まで個人技を禁じられていた上、大団旗掲揚には力も体重もなさすぎる。女子団員の役割は型をキッチリ演じることだった。それでも団長以外に立てる口上は団員がやらなければならない。しかも3年男子。女子がやってもいいだろうにと誰もが思いつつも、ここはやっぱり男子がやってこそだと、女子であるあたくしは3年になって副団長に昇格しても、口上にだけは絶対に手出し・口出しをしないようにした。ルーキーがいると本当に次の年が楽しみになるのである。口上の述べ方にも特徴があって、これをきちんと先輩から習っておかないと、次に繋がらない。特に男子団員は毎年毎年コロコロと入れ代わっていたので、ルーキーの存在は正に絶大だった。そんな大型ルーキーこそ3年連続在籍、いずれは団長・・・・なんていうふうに上の者は考えてしまうのだけれど、上記のような時代錯誤なやり方が彼らの性根に合わないのか、大体3年連続在籍・次期団長なんていうふうにはいかず、次の年には引退してしまうのが関の山であった( ̄∇ ̄;)うむ・・・・出来るだけ厳しくしないように、気は使っていたのだがな(気の弱い先輩だな(笑))。加えて、普段の練習以外にも恐ろしいことがまだまだ潜んでいるのがうちの団の特徴でもある。長き伝統ある応援がきちんとなされているかどうか、何かある毎にOBが目を光らせに来ることもあるのである。当たり前なんだけど、団長よりもOBの権限というか存在は絶対で、OBがやってきた日というのは、お茶を出す順番もかなりごちゃごちゃになる。男子OBが単身で檄を飛ばしに来てくれるのは、まだまだ全然安心圏内なんだけど、卒業して物腰も幾分柔らかになった女子OBが来ると、お茶を出す順番で1年女子は頭を痛める。3年副団長の先輩からは「何してるの!? 先輩が先でしょ!?」と言われ、そう言われる傍から、その先輩に教育を施したOB(女)は「男子に全部出してからでいいから。」と、譲らない。とりあえず、同じ枠内でこれからも活動をしていく先輩の方を立てて(怖いから)、何とかOBの先輩の方にお茶を受け取って頂き、場を鎮める(笑)。OBにはこの日だけのことなので、これで納得してもらった方がありがたいのだ(爆)。こんな時代錯誤な現場はなかなかお目にかかれない。大学の応援団くらいを訪ねると、団長、副団長、旗持、2年、1年の序列がハッキリしているところも残っているかもしれないけれど、高校にはもうそんなところなどないかもしれない。ましてや女子団員のいるところで、こういう序列がしっかりしているところは多分ないだろう。応援団とチアリーディング部が別れて存在しているところの方が多いから、奇妙な序列に関してはあたくしらが最後の経験者かもしれない。とある日。母校のHPを覗くと、1999年度の体育祭の画像があったのでそれを見ていた。情けないことに、応援団は女子生徒が占領していたりする団もあったり、先輩らが残してくれた大団旗も登場していなくて(あれを持てる生徒が多分いないんだろう)ガッカリした。もう、今の子たちに、昔の硬派な応援団の気質というのは合わないんだろう。せめて4団のうち、うちの団くらいは、大団旗と法被に晒を受け継いで頂きたかったのだが、本当に残念だった。後から同じ高校に通っていた従妹(6つ下)に聞いたところ、応援団は希望者総入団で、男女比も関係なくなっていて、女子ばかりのチアガールまがいの団もあれば、たった5人程しかいない少人数な団もあったらしい。これでは規律も伝統もあったものではなかろう。あたくしらの頃はどの団も男女比はキッチリ揃っていて、なり手がなくて揉める団もあれば、希望者殺到で揉める団もあった。うちの団の女子部は後者で、男子部は前者だった(爆)。あの硬派な感じが、乙女心の憧憬感をギュッと掴んだのかもしれない。1999年度の情けない有様を見てガッカリしていたところ。2000年度の体育祭の我が団。捨てられたと思っていた、あの正装法被が復活していた。色も褪せてどうしようもないあの法被が見事に復活を遂げていた。着ていたのは全員が男子。他の団は、女子ばかりがポンポンを持ったりして前線を仕切っている様子だったが、うちの団は見事に硬派・・・・・。涙が出てきた。まだ大事に、あの団別衣装ケースの中の物を取って置いてくれたんだ。嬉しくなった。でもね、あなたたち。違うのよ。その法被を着る時は、男とはいえきちんと前を閉じねばならぬのよ。学校周囲に農家があるでしょ? そこに頭を下げにいって、都合のいい縄を譲っていただくのも、また伝統だったの。地域との交流。頭をさげるということの大切さと、物を大事にするという心意気。これが本当の伝統だったの。あたくしらはちゃんとした形で、翌年にはもう、法被の着方や振りなど、確かな物を残してあげられなくなってしまったのだけど、7年連続の「1位」を守り通したあたくしらから言わせて頂けば、翌年にコケた時点で、OBとしてかけるべき言葉を間違えてしまったのかもしれない。「よく頑張った。」などと、気休めを言うべきではなかったのかもしれない。あたくしの前で、「団長専用の鉢巻に自分の名前が書けなくなってしまった」と、涙した当時の団長にももっと厳しくあたるべきだったのかもしれない。うちの伝統はまだまだある。優勝した年の団長は団長専用鉢巻に名前を刻むことができる。あたくしらが団に入った頃、そこにはもう4年連続の優勝経験を持つ鉢巻が君臨していて、それからまた3年間、連続して名前は増えていった。年号も昭和から平成になっていった。それが途切れるということの大きな意味を、もっとちゃんと教えてあげるべきだったのかもしれない。あたくしが入学する少し前に、1度途切れたことがあったらしいが、過去10年間の記録を見せてもらって、驚いた。その1度しか優勝を逃がしていなかったのだ。あまりにも徹底した作法の擦り込みは、この記録があるゆえだったのだ。軍隊のような作法。軍隊のような訓練。軍隊のような強さ。日本は戦争をしない国。軍隊のない国。だけどあたくしらの先輩は、何かを誇りにしたくて、あんな伝統が出来あがったのだ。強者であるための誇りと伝統。「第1応援歌」や「矢車草子」「撃滅」「撃砕」の振り(型)を考えた人は、きっと「強さ」を全面に押し出したくて、あんな振り(型)にしたのだ。この振り(型)は今はもう残っていないかもしれない。誇りや伝統は別な形となって、脈々と繋がれているのかもしれない。今となってはいい思い出だけど、当時はかなり辛かった。特に1年次。在籍中にも新しくなっていく自分の団は、だんだん居心地のいい場所になっていったけれど、そればかりを追求せず、7年連続の優勝以外に、何か「カタチ」を残せばよかったな・・・・と、今になって後悔している。あ・・・・。この日には『いるかパンツ』ははけませんでした。何故なら、朝一斉、昼一斉、団別の3回の応援の際、2回の一斉応援は衣装は学校側から決められていたのだけど、決死の団別応援時、我が団の衣装は上着は晒(無論ノーブラ)に法被、そして下は白パンだったのね。で、開始の合図と共に頭の上からバケツで水を被るのというのも、わけのわからない我が団の「伝統」の1つで、白パンの下にはちゃんと白いパンツをはいておかないと、確実に透けるので、鮮やかなブルーだった『いるかパンツ』は不適格だったのです(笑)。1年次は、水を被った上に法被まで脱がなければなりませんでした。<振り(型)の延長で。ギッチリ巻かれた晒までも透けんばかりの勢いでした。そう・・・・今思い出しました。1年次の団別応援の時はただでさえとんでもない勢いの夕立に見舞われ、水浸しになったのは何もうちの団だけじゃなかったのでしたわ┐( ̄∇ ̄)┌オホホ1年の時は先輩も怖いし、何が何やらわからないので「水を被れ」という命令には絶対服従していたのだけど、後から聞いたら、先輩たち(特に女子)は、上手いこと自分の背後に水を逃がしていたことが判明し、翌年からそれを実行すればいいんだとそこで悟りました(笑)。2年次、3年次はピーカンのいい天気で、こんな日は水を被りたいものだなと思うくらいだったので、またもやバカ正直に水を被りました。両年とも法被は脱がずにすみましたが、折りからの伊吹颪に曝されて、ガタガタ震えんばかりに寒かったことを覚えています。9月初旬で、水を被る瞬間前までは汗だくだったというのに( ̄∇ ̄;)・・・・っていうか、3年になったらそろそろ学習しろよなって感じですけど。もう誰も怖い人なんかいないんだから(爆)。それにしても、よく『いるかパンツ』なしで、七冠を達成できたもんだなと、今になってそんな奇跡にちょっと驚いてもいます。いや、あれは奇跡じゃなく・・・・紛れもない「努力」の結晶だったのだ。