日記×エッセイ...みち

 

 

ACIM勉強会に参加しました。 - 2018年02月11日(日)

前回の宿題は、ワークブックのレッスン361でした。

「聖霊に聖なる瞬間を捧げる。聖霊に主導してもらう。聖霊の指示は私に平安をもたらすと確信しつつ、私は聖霊の後についていく。必要な言葉や考え、静けさ、開かれたマインド、それらはすべて聖霊から受け取れる。聖霊が導くのは私がそれを要請したから。」

というものですね。

これを意識して一週間を過ごしました。
今回は特になにがあったということもなく、本当に穏やかに過ごしました。
わたしが今週の宿題をして気づいたのは、自分が結構「聖霊に主導してもらう」ということに慣れてきてるということでした。
以前だったら、困った!!ピンチ!というときにだけ、「聖霊さん!!」って助けを求めたり、あるいは助けを求めることすら思いつかなくていろいろが済んだ後に「あ、聞こうとするの忘れた」と思ったりという感じが多かったのですが(聞こうとはしているのにも関わらず)、先週はなんか目に見えたものや起こったことを隣にいるからずっとしゃべりあってるような、そんな感じでいつもいられました。

以前わたしは「その人のために」とか「自分の望むようにいくために」とかを、こうしようかああしようかと自分のマインドでぐるぐると考えるということをよくしていたのですけど、なんか他者がそういうことをしていることに気付けるようになりましたかね。少しだけ。というか、自分がぐるぐる考えてどうにかしようとしてると他者が同じようにやっていても全然気づかないものだなあと思ったり。
それからわたしのことを思って考えてくれているのだろうけどコントロールしようとしてるよなあ、そして本人はその自覚ないよなあ、わたしもそうだったもんなあ、みたいに、見せてもらえることで「理解」ができています。考えてるときは気づかなくても、相手の反応から「ああ、なにかを計算していたんだな」ってわかったり。
それで相手のことを嫌いになるとかはないんですけど、そういうことを含めて「わたしはその人にどういうことを信頼をするか」に影響してるっぽいなあと自分の感覚を確認して思いました。



勉強会のメンバーのお一人が体調不良でお休みしました。その方が体調を崩すことは珍しいことのようでした。それで他のメンバーのわたしたちで瞑想をしました。宿題だったレッスン361のように、体調を崩され欠席したメンバーと共に「聖なる瞬間を過ごす」ということをしました。聖なる瞬間を実践するとは、他の人と自分がひとつになるということを意味するそうですけど、それを意識しながら時間を過ごしました。

その方の人生の主導権はその人自身にあって、わたしたちはその後についていく。
その方の選択はわたしたちに平安をもたらすと確信しつつ。

次回はお顔を拝見できるとよいです。


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