体の感覚を、感覚してみる - 2017年12月01日(金) この一週間は、体の感覚に意識を向けています。 仕事中やTVに夢中になったりしてると意識がそれて、ずっとそれを続けるというのは難しいですが、意識が離れてると気づいたら戻るということを繰り返しながらやっています。 どういう風にやっているかというと、例えば歩くとき。 歩くだけだけど、それで体のどこかを緊張させている感覚はあるかしら?と体をスキャンするように意識してみます。 そして、右の足の甲がなんか力入ってる感じがするなーとか、寒さが首から入らないように肩を上げて歩いているなーとか気づいてみます。 そういったことをしばらくやっていて、あるとき「感覚に名前を付けないでやってみようかな」と思いました。 例えば「肩こり」とか名前を付けない。 「気持ち悪い」とか名前を付けない。 なるべくその感覚の質を表現するような言葉以外は使わない。 というのは、体の不快感に気づいたとき、とっさに名前を付ける自分に気づいてたりしたからです。 名前を付ける前に、名前を付けないままに、その感覚を感覚することができるかなーというようなお試しです。 それってなんのために? なんのためって感じじゃないかもです。 ただ、何の気なしに名前をつけないままで感覚してみたら、なんだかそうしてみた感覚自体にいい感じがしました。「このほうがいいな」っていうか。 その「いい感じ」がお目当てになってる感じですかね。 とはいえ、真っ先に名前が出てくることもあります。 例えば感覚が強いものだったり、嫌だなあと思う感覚だったり、自分によく馴染みのある感覚だったりすると。 最近のわたしにとってそれは「気持ち悪い」でした。 気持ち悪いのはお腹で、胃の辺りが、痛いわけではないのだけど良い状態とは言えないなというような感じでした。 ちなみにここで「気持ち悪い」とわたしが認識していたのは、体の感覚のことでした。感情とかではなく。 (と思っていました) その気持ち悪い感じを、お腹で感覚してみました。 例えば形とか、大きさとか、どのくらいかなーとか。 その「気持ち悪さ」って胃だけにあるのかなー、それとももっと他のほうまでその感覚は続いてたりする?とか、自分に問いかけていきました。 そうして胃を感じていたら、ぽん!と出てきたもの。 「言葉にして言わなきゃわかってくれない!」 という怒りが思考に出てきました。 そういう怒りにつながりそうな記憶が出てきました。 そのままお腹を感覚し続けて、そしてその思考を一緒に眺めました。例えれば少し離れた場所で怒ってる誰かを見てる、そんな感覚で。 その怒りにつながりそうな記憶自体には、わたしは何も特別な思いがありませんでした。自覚がないだけかもしれませんけど、出てきた怒りとそれに関連しそうな記憶が自分から出てきたものの、「これってこじつけじゃないかな・・・」みたいな感じがありました。 実際に関連しているというよりは、「そういう怒りをしたいから、その出来事をそういう風に見ることに使った」、そういう感じ。 その出来事自体にわたしは実際怒りを感じたかというと・・・ええ?そうかなあ・・・みたいな感じしかなかったのですよ。ただ、「こじつけ」はできる状況。 そんなわけですごく他人事みたいに、でも自分の記憶と体感を使いながら見ていることをしていたら、自分の中に見えてきたものがありました。 わたしのその怒りの裏には、 「言わなくてもわかってくれる」 「言わなくてもわかってくれるって、それだけわたしを気にかけてくれてるってこと」 という論理(期待)があるなあと思いました。 それっていらないなーと思いました。 というか、「気持ち悪い」と思いました(笑) あ、期待すること自体が気持ち悪いという意味ではありません。 何に気持ち悪いと思ったかというと、他者がそういう期待からの言動をする姿をわたしに見せてくれた時に、わたしは自身のそういう部分には気づかないままに「そうして期待してるより提案したりお願いしてみたりしたほうがいいよね」なんておめおめと言ってしまうような、そのありさまが見えてしまって気持ち悪かったのでした。 ないわー。それはないわー。 自分のそういう部分を認識していないままに、他者に完全に他人事で話している自分というのはなかなかの気持ち悪さですね。格別でした。 「気持ち悪い」って体の症状もあるけど、本当に「気持ち悪」かったのってこれじゃね?と思った次第です。 自分の気づいてもいなかった部分だから、体が表現してくれなかったら意識しなかったな、という。 「言わなくてもわかってくれる」という価値観について話を戻してみると。 実際、相手に伝えてわかってくれるということの中に優しさは普通にありますよね。 それに、「わかる」「わからない」じゃなく、やりとりを交わすこと自体に価値ってあるよなあって最近のわたしはそう思うようになってきていたりもします。 わたしには、言う言わないに変なこだわりがあったのかもしれないですねー。 そのまま続けてお腹を感覚していたら、わたしがこういう内面の探求みたいなことをし始めたそもそものきっかけ、疑問の答えもこれだ、と思いました。 わたしは自分自身がよくわかりませんでした。今もわかりませんけど、その頃のわたしは今よりもずっとずっとわからなくなっていました。 その頃のわたしは、「理論的に行くならこうしたほうがいいということはわかっているけどそうしない自分」というものをよく見ていました。 自分がどうしてそうするのかわからない、と思っていました。 今だと、いろいろ間違ってたなーとすごくわかります。 「理論的に行くならこうしたほうがいいということがわかっているけど」。 この言い分にニヤニヤしてしまいます。 その頃のわたしが望んだものは、 「わたしは、わたしのことを知りたい」 でした。 「理論的に行くならこうしたほうがいいということはわかっているけど」、「言わなくてもわかってくれる」「それだけ気にかけてもらえてる」ってわたしは思いたかったから、「そうしない自分」をよく見ていたのだなあ、と思います。 その頃のわたしに言う答えとしたらこれですかね。 でも、もう一言伝えるのだったら、 「理論的に行くならこうしたほうがいいということがわかっている」という言葉の中の、「こうしたほうがいい」というものとか、「わかっている」というものに対して、今のわたしは「それって本当だと思う?」と聞きたくなるかもしれません。 それから、答えって返ってくるものだなあって信頼にもなりました。 自分が望んだことすら忘れるくらいの長い時間が経ってるんですよ。 わたしが忘れても、長い時間が経ったとしても、ちゃんと答えを渡してもらえるんだなって、そういう信頼を得ることができました。 わたし、結構気が長いと自覚しました。 それに、早く答えがもらえることよりも「長い時間が経っても関係がない」という信頼のほうがズシンとくる感じがある。 そういうことを知ることができました。 おさらいです。 えー。 わたしがやったことは、体の感覚を感覚してみただけです。しかも不調を感じていた場所で。 このおもしろさはもっと知られてほしいものです。 ...
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