ACIM自習 - 2017年11月05日(日) 今週のACIM課題は、 「その人は愛の表現をしているのか、それとも愛を求めている呼びかけをしているのか、それがわかるように聖霊に教えてもらう。聖霊に聞く。」 でした。 課題を受け取ってそれを始める前は、わたしは自分の周りにいる方々や日常ですれちがったり、そういった自分の目に入ってくる関わった方々を見る、それを聖霊に問いながら行う、そういうことをするのだと思ってました。 ところがいざ実際始まってみると、ひたすら「自分自身を見る」そういう感じになりました。 「わたしのそれは愛の表現なの?」 「それとも愛を求めてるもの?」 ひたすらそう聞かれる感じ。 そもそも自分が「愛」の基準がわからないと他者が見られないじゃないの、とも感じました。 また、人と会って物事が起きているリアルタイムの時にはなかなか聖霊に問いかけることはできませんでした。物事が起こってそれが終わってから、あ、聞いてなかった、と気づく感じ。 「自分だけで決めようとする」「耳を傾けない」ということが自分にとってどれだけ習慣になっているかを知らされた感じがあります。 そんな感じだったので、朝起きて自分に言い聞かせるということは毎日行いました。 「その人が愛の表現をしているのか、愛を求めている呼びかけをしているのか、聖霊にそれがわかるように助けてもらうぞ。聖霊に聞くぞ。」 宣言する感じ。(忘れ続けましたけどね!) そうして人と会う前に問いかけておくと、リアルタイムでは「聖霊に聞く」ということを忘れていても、例えば「嫌だな」という感情や感覚が自分の体に出てきたときに、それを含めて観察がしやすかったなあと振り返ります。 あ、わたし今嫌だと感じてるね、とそれを単に認める感覚。「嫌だ」に没頭しない感じ。 物事が終わってからそれについて問いかけると、聖霊ではなくわたしのエゴのジャッジの声だなって感じられたこともありました。 「それは愛だね」「それは求める声」と聞こえるのだけど、その後に「ほんと?」「それ、ほんと?」ってもう一度精査しなさいって尋ねられる感じ。 それなので、ほんと?と思いながら終わる感じでした(笑) 今週起こったことは、どれも結局愛の表現だったのか、愛を求めている呼びかけをしてるものだったのか、どちらかわかりません。 ひとつだけかな、これは愛の表現だって間違いない感覚で感じられたのは。 判断はわたしの役割ではないんだなと、そういったことからなるほど納得ができました。 この一週間のうちに他者の差別の言葉を聞いたことがありました。 それを聞いて「わあ、すごい差別の言葉だ」と思ったのだけど、そこに心地よくなってる自分の部分も同時に見つけました。 わたしはそういったことを自分では言いたくないけれど、ある部分でその差別的な発言をした人と同じジャッジをわたし自身持ってるんだなと気づきました。 んー、というか、ある部分では間違ってる感じはないのだけど、「そうでなければ愛されない」という信念も一緒にあるのだな、ということに気付いたという感じか。 それから今朝おもしろかったのは、何の脈絡もなく、 「あ!愛は時間が関係してないんだ!」 と起床したこと。 「愛って、いつかなくなる感情、時間が経つと失う、そういうふうに時間が関係してないのか」 「時間が関係するものも、愛って思ってたりするのか」 そういう発見の感覚で起きました。 そういったことを考えていたわけでもなく、そういった夢で見たわけでもなく、朝一でそう思った、その脈絡のなさが気に入っています。 ...
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