Wiiという答え。 - 2007年01月02日(火) この日記も元旦に書いてます。 日記に書いたように、夢にまで見たので片付ける気になりました。年が明けたら気持ちも新たになったか!(やっと) その一環として、メモ用紙作りをしていました。メモ魔なもので、ちょうど良い大きさのメモする紙があるとうれしい。そんなわけでためておいた、いらない紙をちょきちょき。 その裏側をちょっと見たら、昔のメモが書いてあったりする。印刷文章のところに線を引いて、「わたしはこう思う」ということが赤字で書いてある。 それは以前、ゲームについて考えていた頃のメモでした。 映像ばかりが綺麗だと批難されるゲームについて擁護する文に対して、当時のわたしは「同じように綺麗といっても、人間の作るものと自然のつくるものとでは、人が受ける情報は異なる」「本物と全く同じに表現できるようになんてなるわけがない」と赤字で書いている。 あんまり今のわたしと考えが変わっていないなあと思った。 えーと、天然石とかを好きになってから思うようになったのだけど、天然石のパワーって色や模様から受けるものもあると思っていて、例えば同じピンクの石だとしても本に書いてあるようなパワーの意味合いはそれぞれ違うし、見ている側が何の知識がなくて見ても、やっぱり違う感覚をそれぞれで受けるのです。 その細かな違い、ひとつの石であっても質感や色がその場所によって細かく違うし、そういう微細なものを受け取るアンテナが人間にあると思うのですね。一般的には意識に上らない部分で。 さらにメモによると、「1人でTVの前でゲームをしている、というのと、1人でTVの前でDVDを見ている、というのとではなぜ客観的に見たときに、それぞれでイメージが違うんだろうか」とか思ってたみたい。 今は少しわかる。多分、大勢の(多様な)他者と繋がりやすいツールかそうでないかってことだと思う。 2001年に自分が書いたゲームのコラムを読み返してみた。 基本的にはこちらも今と考え方が変わらない。言葉が足りないなーと思うけど、今の文もちゃんと自分の思いが全て表せて書けているとはいえないので、しょうがない。少しずつがんばってます(苦笑) それでおもしろいな、って思った文章がいくつかあった。 「自分の欲しがる感情を例えるならば、幼い頃に仲が良かった友だちに久々に会ったような、うれしさを求めていることに似ている」 「一生懸命“遊ぼう”という気持ち。(中略)今のわたしが薄くなってきている、でも自分がかつて持っていた強い感情、それが思い出されてうれしい」 (どちらもファミコン(ハード)についてのコラムより) 「作られていくものに、ピッタリくっついてきてしまった、新しいものを吸収したい欲求から、くっついてきてしまった。そして時々、ゲームってこういうものだっけ?と、ふと思う」 「頭を使うゲームはたくさんあるけれど、イメージさせる(したくなる)ゲームはそんなに多くない気がする」 2001年にこんなぶつくさと考えていた思いが、2007年現在Wiiで全部解消されているなあと思って、なんだか笑ってしまいました。 友だちと繋がる喜び。 遊びたい!という感情。 わたしにとってゲームってこういうものだった、という確認。 あんなこけしを自分や友だち、家族とイメージさせる素晴らしさ。(Miiで配役できるRPGとか出てきたらやるなあ) 答えを出せるというのはすごいことです。ぼんやりと思っていたものへの答えだったから、わたしはとてもうれしいのです。 本当に1月2日に書く追記。 Wiiゼルダは、ミニゲームばかりやっているとわたしの場合は飽きてしまう(下手だから…)ということで、ストーリーを進めています。ミニゲーム、そろそろ攻略サイトさん見てもいいでしょうか。ストーリーがひとくぎりしたころに考えよう。。。 リンクさんは何というかアグレッシブで。敵さんの使っていたものまでもらって使いこなしちゃうのねーって感じです。どうぞ腰痛めないようにしてください。 夫婦愛ですね〜。だんなさんのセリフが素敵でした!かっこいいぞ! (体力的には必要もないのに、全てのハートをもらおうとするわたし。あやかっとけあやかっとけ。) だんなさんは原因はわかってたのかなあとか、おくさんの病状を知ってたのかなあとか、いろんなケースを想像してそれまた楽しむのでありました。 わたしの中で、リンクは「だんなさーん!来てくださーい!大変ですー!早くー!」と大声でわめいたイベントでした。 えーと、今はカタツムリを捕まえたところで、ちょっと自分が外に出たくなったのでゲームをストップ。 カタツムリのオスを見つけた後、探しているのにメスが見つからなくて。 その後!え!まさか!と思ったところで見つけた時には! もう〜、ちょっとー、ロマンを感じましたよー。しゅてきだわ〜♪(笑) ...
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