思考過多の記録
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2016年03月29日(火) |
ブログなどに答えはない |
個人ブログというのは、基本的にその人の日常やら、思っていることやらを書き、その人を知っている人が主に読むものであろう。Google検索のキーワードで飛んできた人がたまにいるかも知れない。いずれにしても、ブログの主と関係ない人にとっては、昼ご飯に何を食べようが、何の映画を見ようが、子供が何歳になろうが関係ない。有り体に言えば、読む価値がないのである。
それで、アクセス数を上げようとするからか、何だか最近は、「こうすれば簡単にお金が稼げる」とか、「こうすれば仕事が上手くいく」「こんな生き方をすれば幸福になる」みたいなタイトルの文章が増えた気がする。つまりはハウツーである。ビジネス書や人生の指南本の売り上げは、純文学よりもずっと多い。それと同じことである。 限られた時間で何かを読もうとすれば、どうしても自分にとって有用な知識を得たいと思うのは人情である。夏目漱石の「こころ」の先生は何故自殺したのかを追究しても、収入が増えるわけではない。
しかし、そんなに簡単に答えは見つかるものだろうか。 これをやれば金が稼げる。確かにそうかも知れない。でも、もしそれが100%確実なものなら、みんながやって、みんなが稼げている筈だ。こうすれば仕事が上手くいく。それは、書いたあなたにとっての話ではないのか。こんな生き方をすれば幸福になる。それはあなただからではないのか。 人間、性別も年齢も置かれた環境も性格も異なる。ある人にとっての「正解」は、別の人にとってはとんでもない「誤答」になり得る。全ての人に当てはまる最適解など存在しない。 つまり、答えは簡単に転がっていない。ましてやそれがネット上で簡単に見つかると思っているのはおめでたい。ちょこちょこっと検索して、お金を稼いで幸せな人生を送ろうなどというのは虫が良すぎる。
各種のセミナーなどを主催する人は、恰も目先を変えるだけで簡単に答えが見つかるかのような言辞を弄する。それで迷える子羊を呼び寄せ、ついでにお金を吸い上げる。身過ぎ世過ぎのためである。 できるだけ早く、手間暇かけずに方法を手に入れたい。そんな願いにつけ込むのである。その人はそれで成功したかも知れないが、それを絶対的に正しい方法だといえる根拠は何処にあるのだろうか。 居酒屋で酒を飲みながら、人生や仕事について語るおじさんを鬱陶しく思うことはないだろうか。それと同じことである。
ブログのタイトルが、そこを読めば何か答えが書かれているかのようになっていたら、眉につばをつけて読んだ方がいい。それを鵜呑みにして、その通りにやって取り返しのつかないことになってしまったとしても、ブログの主は責任をとってはくれない。 繰り返すが、そんなに簡単に望む答えは転がっていないのである。 世の中は、そして人生は複雑すぎて、不確定要素に満ちている。海図も羅針盤もない航海と同じだと思っておいた方がいい。簡単な解決策などどこにもないのである。 参考にするのはいい。しかし、踊らされないことだ。 正解探しの安直な態度を捨てたところから、あなたの本当の人生が始まる。
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