思考過多の記録
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2015年03月01日(日) 何かを発表するということ

 先月終わった芝居に関して様々なご意見をいただいている。嬉しいお言葉も多く頂戴したが、同時に耳の痛いご意見もいろいろといただいた。見解や感覚の相違によるものもあるが、真摯に受け止めて次に生かしていかなければならないものも多々ある。
 こうして人前に作品を晒した以上、何らかの批判があるのは避けられない。実際、アンケートでも否定的なご意見のものは割とある。しかし、今回のアンケートの中に、これまでのものとは明らかに異質な「批判」を書いたものが1つあった。



 それは、初日の夜のアンケートだった。用紙いっぱいに大きな文字で書かれていたそれは、僕のことを名指しで批判していた。単に芝居がつまらなかったというレベルではない。僕に対して、芝居を作ることも、物語を作ることもやめろ、と強い言葉で命令していた。自分がどれだけ稚拙な表現をしているのか、自分に才能がないことも分からないのか。それを見ないままでやっていてもこの先に光は見えない、とその文章は続いていた。
 僕は驚いた。これまでこの種の批判をアンケートでされたことはなかった。芝居自体が面白くなかったとか、脚本や演出にセンスがない、好みではないという類のアンケートはこれまでも散見されていたが、これほどストレートな言葉で個人攻撃をしてくる文章を書く人間に、僕は行き当たったことはない。僕にとって芝居は人生そのものであり、舞台での表現こそが僕のアイデンティティの重要な部分を占めている。それに対しての攻撃は、僕の人格そのものを否定する行為に等しい。
 打ち上げの席で、このアンケートは役者に回し読みされたが、その時点では
「面白い奴がいるな」
ということで終わっていた。


 しかし、この話はこれでは終わらなかった。
 公演終了から1週間以上が経ったある日、僕のブログにコメントがついた。内容からして、おそらくあのアンケートを書いたのと同一人物であると思われる。そこでもこの人物は、自分に才能がないことに目を瞑るのはよせ、と言っていた。そして、そのあまい根性をたたき直すために、福祉の仕事でもして血反吐を吐け、とも。その種の罵詈雑言が書き連ねられていたのだ。そして、そのコメントは、翌日以降も続いた。内容は毎回ほぼ同じだった。煎じ詰めれば、僕が才能がないことを自覚せず、センスのない芝居を狭い空間で長時間にわたって見せ、あまつさえお金まで取ったことその人は不愉快に思っているようだった。それを僕の「罪」だとさえ書いていた。そのことを、僕個人の問題に絡めて攻撃していたのだ。
 文面から、どうやらそれは、ここでも紹介した当パンの「ごあいさつ」の文章に端を発しているらしいことが分かった。その人物は、そこに書かれていたことに激烈に反応しているようだった。僕が、自分に力がない、この年齢になっても思ったようなレベルのものが作れない、評価されない、そういうことへの悔しさをありのままに書いたことが、この人物はかなり気に入らなかったようなのである。
 何回目かのコメントには、「あなたを粉々にして差し上げます」という一文があった。
 結局、この人物からの罵詈雑言のコメントは、その後4日間にわたって続いた。この間、僕はそのコメントを1回も公開していない。



 しかし、終演から1週間も経ってから、これだけ執拗に僕個人を攻撃する文章を書き続けたということは、その人物の中のどこかに、僕の言葉が何らかの形で引っかかったということの裏返しであるともとれる。人間、図星を突かれると怒るものだが、もしかするとこの人物は、自分が押し殺そうとしているものを僕が文章にしたことが許せなかったのかも知れない。つまり、自分の中の見たくないものを見せられてしまった、という感覚である。
 僕を攻撃している体だが、実は彼自身の中の何かを守るために、僕の言葉を攻撃する必要があったというのが、僕の推測である。もしそこで僕が反応したら、彼はさらに攻撃をエスカレートさせただろう。また、もし僕がブログを閉鎖したとしたら、彼は自分が勝ったと思うだろう。どちらであっても、彼は自分の何かを守るために戦い、その何かを危うくするものを押さえ込めたことに高揚するだけである。
 要するに、この人物は僕を挑発しながら、彼自身の中で呼び覚まされてしまった何かと戦おうとしていたのである。おそらくそういうことだと僕には思える。



 また、彼は僕のブログを見つけただけではなく、僕のTwitterのアカウントもフォローしているようなのだ。僕のこの件に関してのツイートに対して怒っている文章があった。そこまでして僕を追いかけるのは、僕に対して、負の感情ではあっても、無視できないと思われるものを感じていることの表れだとも思える。それだけのインパクトがある何かを、僕は提示したのかも知れない。この人物にとって、僕達の舞台はまったく好ましいものではなく、その時間は「拷問」であったとまで書いているが、それとても、単に不快だったではおさまらない何かを残したということの証左であるとも考えられる。
 実際、僕の当パンの「ごあいさつ」に関しては、複数の人から反響があった。僕の偽らざる気持ちを吐露したものだったが、それが心に響いた人がいたようである。この人物には、逆の意味で響いたのかも知れない。僕が自分に歯ぎしりする様を「そう言いながらも自分が可愛いと思っている。そんなあまいところが許せない」と攻撃する彼こそが、きっと同じ問題を抱えている、または抱えていたに違いないのである。



 この人物からの攻撃的なコメントは、6日目を最後に途絶えている。しかし、彼がまだ僕に対しての嫌悪感や憎悪を抱き続けている可能性はある。僕が新しい記事をアップすれば、そこに僕を誹謗するコメントをつけるかも知れない。また、次の公演は6月だが、それを見に来る可能性もある。これだけ僕を名指しで攻撃しながら、自分は一貫して匿名の陰に隠れているような人物に、本番を妨害する勇気と行動力はないと思われるが、念のため用心しておくにこしたことはない。
 もっとも、本番まであと3ヶ月以上ある。そこまでこの気持ちを持続するのはなかなか困難であろう。もしこの人物がずっと僕に対する思いを同じ強さで持ったまま6月までいくとすれば、僕が与えたインパクトは相当のものであったということになる。それだけ、この前の舞台にはエネルギーがあったということにもなるだろう。
 もし彼がきちんと話ができるような人物であったなら、面と向かっていろいろと存念を聞いてみたいところではある。



 ともあれ、何かを発表するとはこういうことなのだと改めて実感されられた出来事だった。所謂著名人・有名人は、こうしたことは日常茶飯事ではないかと想像される。僕もそんな人達の仲間入りをしたかのような錯覚を抱いてしまうほどだった。これからもこういうことは起きるかも知れないが、それを恐れずに、多くのお客様の心の中に波紋を投げかけるような表現を目指していきたいと思う。


hajime |MAILHomePage

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