やがて楽しき

日々つれづれ、ときどきSMAP。


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やがて楽しき
2003年02月26日(水) 銀色の雪が降る。


ゆうべは僕の生きる道・第8話を見終わったら26時だったので、そのまま眠ってしまいました。
なんだか、ちょっと非現実的な気分のままで。

ふだんは監督さんの違いなんて分かりもしないままドラマを見ている私でさえも、
星さんの演出だけはハッキリ分かりますね。
一つには、クサナギツヨシという存在をどう写したいのか、という明確な意思を感じるということ。
もう一つには…と考えてみたものの、なかなか自分自身に対して上手く説明できなかったのですが。
うむ、回りくどーく表現するとしたら、こんな感じ?

このドラマ、どの回にも共通しているのは、虚構でありながらも確固たる世界が存在しているということだと思うのです。
ただ (1・2話はちょっと別として)、秀雄先生が前向きに生き始めた3話以降を考えた時、
3・4・6・7話の場合は、私と同じ目の高さ、同じ体温を感じる世界なんですよね。
たとえば、私の隣の部屋や、風邪をひいて出掛けていった病院の隣の診察室に存在していてもおかしくないような世界。
それに対して5話や昨日の8話の場合は、
たとえば、キラキラと銀色の雪が舞うスノードームの中で、外側からの何人にも侵されることなく息づいている、
そんな世界のような気がするのです。言いかえれば、非常に寓話的。

だから、前者の世界に生きる彼らの苦悩や喜びはダイレクトに私に届いて、
私は彼らと同時に悲しみ、喜び、涙を流すのですが、
後者の場合は、丸い球体の中で彼らが哀しくも美しい一日を終えて眠りについたのを見届けてから、
ほっと息をつき、そして初めてポロリと泣ける、そんな感触なのです。

正直に言えば、個人的には前者の方が好きです。
単純な私にしてみれば、自分自身の気持ちがとても分かりやすいってのもあるんですが。
後者の場合、私は彼らの世界が壊れないように、ただ見守ることしかできないような気がしてしまうし、
それに、スノードームの硝子にちょっとヒビが入ったら、
とたんに陳腐なお伽話になってしまいそうでコワイっていうのもあるのです。
実際のところ、いつもは秀雄先生=クサナギさんであることを半分忘れているというのに、
微妙なリズム感と微妙な表情を浮かべた指揮者姿を見た途端、
やややっ、クサナギさんてば、こんなところで何やってんのっ?と赤面してしまったりして、
それは何度そのシーンが繰り返されても、ついぞ慣れることはなかったのでありますよ (ごめんね、オヤビン)。

でも、その危さをギリギリのところで踏みとどまらせているのは、
「悲劇的な状況に酔っているだけだ」 と彼女の父親に言わせるシナリオであり、
シンとした秀雄先生とみどり先生の表情を引き出して、美しい光とともに画面に残す監督やスタッフの力であり、
つまりは、このドラマにかかわっている人々の、作品に対する誠実な想いなのでしょう。
願わくば、このまま踏みとどまってほしい。
秀雄先生が苦しむのはつらいけれど、だからって彼を聖人君子にはしないでほしい。

と、前置きが長くなりましたが (前置きだったんだね、オヤビン)、今回は麗子先生の泣き顔が一番ジンときました。
嬉しいけど、哀しい。素敵だけど、哀しい。美しいけど、哀しい。でも、その逆もまた、本当のこと。
教会での静かな結婚式はそれこそお伽話のようだったけれど、
「死が二人を別つまで」という言葉が深く響いて、美しいけれど哀しく、哀しいけれど美しいシーンでした。

だから、誓いのキスがフェイクじゃなくて、ほんっっっとに良かったですわー。
この期に及んでジタバタされたんじゃ、温厚なおねぇさんも卓袱台ひっくり返すとこでしたよ(笑)。





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